PR
Free Space
Freepage List
Calendar
Keyword Search
「死」さえもレスポンス...
こんな言葉が頭の中を時々横切る。
私達の抱く恐れというのは、突き詰めれば、全て「死」につながっていると思う。だから、「死」について知ることは、意味のあることだろう。恐れというのは、厄介なもので、なかなか普段の生活では意識しない部分であるが、この恐れに基づいて行動している部分がどれほど多いか...
「こうなった時のために」という最悪の前提条件のもとに貯金したり、保険に入ったりすることもそうだし、仕事がなかったり、また豊かでないということにおいても、それに伴う憂鬱感の裏側には「死」の恐怖が根強くある。恋愛がうまくいかない、社会的に認められた立場にないなどということにしても、これはその人間の存在価値の問題が関わっていて、その存在価値が失われてしまうと生きる気力を失うことを私達は深層意識で知っている。だから、憂鬱になるし、不安になるのだ。
もちろん、不安をもとに行動するのが悪いということではないけれど、同じ行動を起こすにも、恐れに基づいて行動するのとそうでないのとでは、違う状況がやってくる。「死」が最大の恐怖ではないことを認識することは、私達を恐れという呪縛から自由にしてくれる。
自分の中にある恐れについて、深く探ってみるのはとても意味がある。
私の場合、「海」と「幽霊」はとても怖いものだった。
「海」については、恐らくどこかの生で海で死んだことがあるのだろう、何だかのみ込まれそうな得体の知れない恐れがあった。これは、私のコントロールが効かない、私の意志とは別の大きなものに殺されてしまうというような感覚を伴っていた。
「幽霊」については、幼い頃から想像していたのは、恐ろしい顔をして突然わけもなく現れ、私を困らすというもの。やはり自分の力ではどうにもならない得体の知れないものという感覚を自分の中に確認した。
「海」にしても「幽霊」にしても、これは私自身である。つまり、私自身を恐れていることがわかった。この「私自身」という言葉をどうとらえるかは人それぞれだが、私の場合は宇宙そのものととらえている。(もちろんこの宇宙は私内側にもある)つまり、私は私自身を得体の知れない恐ろしいもの、コントロールが効かない、意志に反して私を恐怖に陥れるものであると思っていた部分がある。
そして、実際そのような状況を創りあげてきたのだった。
何かに運命にいたずらされているように感じていたが、それを創っていたのは自分自身だった。
二元性の観点から考えれば、生があるから死が存在できることになるが、そこから離れてそもそも死も生も表裏一体の同一のものであると考えると、死は単なる私たちのレスポンスに過ぎないのかもしれない。中庸に生きる 2016.06.05
罪悪感 2016.06.04
手にしているものに気付く 2007.09.27