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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ19〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。男に永久性の愛を求めない態度に出ると完全な妻になれない。左馬頭の話の嫉妬深い女も、思い出としてはよいが、今暮らす妻なら堪らなく、嫌になってしまう。琴の上手な才女というのも浮気の罪がある。私の女も本心の見せられない点に欠陥がある。どれがいちばん良いとも言えない事は、人生そのものです。何人かの女から良いところを取り、悪いところは省いたような、そんな女はどこにもいない。鬼子母神の娘で、毘沙門天の妻吉祥天女を恋人にしようと思うと、仏法臭く困ると中将が言ったので皆笑った。式部の所にはおもしろい話があるだろう、少しずつでも聞きたいものだと中将が言い出す。私どもは下の下の階級で、面白い事はないと式部丞は話を断っていたが、頭中将が本気になり、早くと話を責め立てるので、どんな話をしたら良いか考えたが、まだ文章生時代のことで、私はある賢女の良人になり、左馬頭の話のように、役所の仕事の相談相手にもなり、私の処世の方法なんかについても役だつ事を教えてくれた。学問は博士は恥ずかしいほどで学問の事では、前で口が利けなかった。ある博士の家へ弟子になり通っていた時に、娘が多くいる事を聞いていたので、機会をとらえて接近してしまった。親の博士が二人の関係を知るとすぐに杯を持ち出し、白楽天の結婚の詩を歌ってくれたが、実は私は気が進まなかった。 ただ博士への遠慮でその関係はつながっていた。先方では私を気に入り、よく世話をして、夜分寝ている時にも、学問のつくような話をしたり、官吏としての心得方を言ってくれた。手紙は皆きれいな漢文で、仮名なんか一字も混じってない。良い文章を送ってくるので別れ難く、今でも師匠の恩をその女に感じるが、そんな細君を持つのは、学の浅い人間や、間違いだらけの生活をしている者には堪らない事だとその当時思っていた。また二人のような優れた貴公子方には必要はないだろう。
2024.06.19
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「平安時代の随筆 紫式部日記18」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「平安時代の随筆 紫式部日記」の研鑽を公開してます。紫式部と清少納言は性格が真逆なことでも知られているが、紫式部の性格を、要約すると人付き合いが苦手や目立ちたくない消極的な性格。これに対して清少納言の性格は、明るく社交的で目立ちたがり屋だった。また二人の性格の違いには父親の教育方針の違いにも影響していたと考えられる。紫式部の父はかなりの堅物で女性らしく振舞うことを重視した厳格な教育方針をしていたようで紫式部の控えめな性格に大きな影響を与えたと言われている。一方 清少納言の父は一流歌人で三枚目の一面を持った人物だったようで、枕草子から伝わってくる清少納言の性格は父親譲りな面があると考えらる。紫式部と清少納言の性格は、人によって好みが分かれる部分でもある。紫式部と清少納言の結婚生活は 紫式部の夫は藤原宣孝で 清少納言の夫は橘則光(たちばなののりみつ)という人物で、紫式部は女の子を授かり、清少納言は男の子を授かっている。また、清少納言は約10年の結婚生活の後に性格の不一致を理由に離婚、紫式部は約2年の結婚生活で夫に先立たれてしまう。
2023.12.06
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「南京旅情82」 「中国写真ライフ」では、江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。1985年8月15日にオープンした記念館の名前は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」でトウ小平視察の下同年2月に着工し8月開館した。1985年当時中国では記念館を建てる金銭的な余裕がなく当時旧社会党書記長だった田邊誠議員が3000万の資金を供給し日本人の設計の下で建設された。だが、建設には日本の企業は参加してなく3000万のうち900万の費用で建設を終え余った資金は共産党関係者で山分けされた。社会党が大虐殺記念館建設を提案しなければ日中関係がこれほどまでには悪化しなかった。そんな大虐殺記念館の中で警備員と衝突をしたが5日後北京から急遽記念館まで謝罪に向かった。記念館の主任に私が再度訪問した理由を聞き気を取り直した警備員と握手を交わした。色々と語り合う中、南京大虐殺記念館では中国人も記念館内で頻繁に携帯電話を使用しているようだった。元々大虐殺記念館が日本の資金提供とデザインで造られたという事を多くの中国人は知らない。また日本から観光で来ている日本人の多くは携帯電話を持ってなく、日本語で大きな声で記念館で話したのは警備員も2年間の勤務中で私が初めてとの事。また、虐殺された写真パネルの前で日本の「はい!」を大きな声で連発していたのでカッとしてしまったとの事。2人は打ち解け私に心を開いて色々と話してくれたように感じたが私の思い上がりだったのかも知れない。友人の中国人達が1時間ほどで出て来たので帰る事にした。私と口論になった警備員が「兄から貰った携帯の番号を教えますから、何かあったら連絡して下さい」と電話番号と名前を書いたメモを手渡してくれた。5日前口論となり南京空港で待つ間も気が重かったが思い切って大虐殺記念館を訪れ心が軽くなった。この虐殺については、中国の学者の中でも色々と意見が分かれており資料もまちまちである。ある中国人は「調べられない数も入れたら40万人を超える」と私に言うが、調べられない数をどうやれば数字として数が上がってくるのかと思った。しかし、虐殺は事実かも知れないとは思うがその数は10分の1ほどでしかないと思う。(写真は現在の記念館内で館内撮影厳禁)
2011.05.08
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ15〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。暗い炉を壁のほうに向げて据え、暖かそうな柔らかい綿が沢山入った着物を、乾かす竹のかごに掛けて、寝室へ入る時に上げる几帳の布も上げて、こんな夜にはきっと来るだろうと待っていた様子が見え、そう思っていたのだと私は得意になったが、妻自身はいない。何人かの女房だけが留守をしていて、父親の家へちょうどこの晩移って行ったという。艶な歌も詠んでおらず、気のきいた言葉も残さずに、じみにすっと行ったので、つまらない気がして、やかましく嫉妬をしたのも私にきらわれるためだったと、むしゃくしゃするので、とんでもないことまで忖度した。しかし考えてみると用意してあった着物なども普通よりよくできてるし、その点では実にありがたい。別れた後のことまで考えて話した。彼女は別れるものか慢心を抱き、それからは手紙で交際を姶めたが、私の元へ戻る気がうかがえるし、全く知れない所に隠れる素振りもないし、反抗的な態度を取ろうともせず、前のような態度では我慢ができない、すっかり生活の態度を変えて、一夫一婦の道を取ろうと言っている。暫らく懲らしめてやる気で、一婦主義になるとも言わず、話を長引かせていたら、精神的に苦しんで死んでしまったので、責められて当然である。家の妻というものは、あれほどの者でなければならないと今でもその女が思い出される。風流ごとにも、まじめな間題に話し相手にすることができた。また家庭の仕事はどんなことにも通じており、染め物の立田姫(日本の秋の女神)にもなれたし、七夕の織姫にもなれたと語った左馬頭は、いかにも亡き妻が恋しそうであった。技術上の織姫でなく、永久の夫婦の道を行っている七夕姫だったらよかった。立田姫もわれわれには必要な神様で、男に良くない服装をさせておく細君はだめで、そんな人が早く死ぬんだから、いよいよ良妻は得がたいということになる。
2024.06.15
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ17〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。菊を折って、琴の音も菊もえならぬ宿ながらつれなき人を引きやとめけると言って、よい聞き手が来られた時にもっと弾いて聞かせて上げなさいと、嫌味なことを言うと、女は、木枯らしに吹きあはすめる笛の音を引きとどむべき言の葉ぞなきと言ってふざけ合っている。私がのぞいているのも知らないで、今度は十三絃を派手に弾き出した。才女でないがキザな気がした。遊び半分の恋愛をしてい る時は、宮中の女房たちと交際していたが、時々、愛人として通って行く女ではおもしろくないと思い、その晩のことを口実にして別れた。二人の女を比べると、若い時でもあとの上品な女は信頼が出来ないと感じた。私は年配になっており、今後はまた今まで以上に実質がともわずうわべばかりは嫌になる。男に裏切られた女のわびしさや、落ちそうな笹の上の霰のような艶やかな恋人がいいように思うでしょうが、私の年齢まで、あと七年もすれば分かりますよ、私があえて言うと、風流好みな多情な女には気をおつけなさい。三角関係を発見した時に良人の嫉妬で問題を起こしたりする。左馬頭は二人の貴公子に忠言を呈した。中将はうなずき、少しほほえんだ源氏も左馬頭の言葉に真理がありそうだと思う。あるいは二つともばかばかしい話であると笑っていたのかもしれない。私もばか者の話を一つしようと中将は前置きをして語り出した。私がひそかに情人にした女は、見捨てずに置かれる程度のもので、長い関係になろうとも思わぬ人だったが、馴れていくとよい所が見つかり心惹かれていった。たまにしか行かないけど、女も私を信頼するようになった。愛しておれば恨めしさの起こるこちらの態度だがと、気のとがめることがあっても、その女は何も言わないでいる。久しく間を置いて逢っても始終来る人といるようにするので、気の毒で、私も将来のことでいろんな約束をした。父親もない人だったから、私だけに頼らなければと思っている様子が何かの場合に見えて可憐な女だった。
2024.06.17
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「〔22〕九月二十一日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。この大式部のおもとは陸奥の守(みちのくにのかみ)の妻で、このお邸の宣旨女房である。大輔(たいふ)の命婦は、唐衣には趣向も凝らさないで、裳を白銀の泥で、とても鮮やかに大海の波の模様を摺り出しているのは、際立ってはいないが、感じがよい。弁の内侍(ないし)が、裳に銀泥の洲浜の模様を摺り、そこに鶴を立てている趣向は珍しい。裳の刺繍も、松の枝で鶴の千年の齢と競わせている趣向には、才気が感じられる。少将のおもとの裳が、これらの人たちに見劣りする銀箔なのを、女房たちは秘かにつつき合って笑う。少将のおもとという人は、信濃の守(かみ)藤原佐光(ふじわらのすけみつ)の姉妹で、この土御門邸の古参の女房である。その夜の中宮さまの御前の様子が、誰かに見せたいほどなので、宿直の僧が伺候している屏風を押し開けて、「この世では、こんな素晴らしいことは、またとごらんになれないでしょう」 と言いましたら、僧は、「ああ、もったいない、ああ、もったいない」 と本尊様をそっちのけにして、手を摺り合わせて喜んだ。
2024.01.08
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源氏物語〔1帖桐壺26〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語1帖桐壺の研鑽」を公開してます。左大臣は何人かの妻妾から生まれた子供を何人も持っていた。内親王腹のは今蔵人少将であって母宮との間には蔵人の少将の位にとても若く見目よい方がいて年少の美しい貴公子であるのを左右大臣の仲はよくないが、その蔵人少将をよその者に見ていることができず、大事にしている四女の婿にした。これも左大臣が源氏の君を大切がるのに劣らず右大臣から大事な婿君として、かしずかれていたのはよい一対のうるわしいことであった。源氏の君は帝が傍を離しにくくしているので、ゆっくりと妻の家に行っていることもできなかった。源氏の心には藤壼の宮の美が最上のものに思われてあのような人を自分も妻にし たい、宮のような女性はもう一人とないであろう、左大臣の令嬢は大事にされて育った美しい貴族の娘とだけはうなずかれるがと、こんなふうに思われて単純な少年の心には藤壼の宮のことばかりが恋しくて苦しいほどであった。元服後の源氏はもう藤壼の御殿の御簾の中へは入れていただけなかった。琴や笛の音の中にその方がお弾きになる物の声を求めるとか、今はもう物越しにより聞かれないほのかなお声を聞くとかが、せめてもの慰めになって宮中の宿直ばかりが好きだった。五、六日御所にいて、二、三日大臣家へ行くなど絶え絶えの通い方を、まだ 少年期であるからと見て大臣はとがめようとも思わず、相も変わらず婿君のかしずき騒ぎをしていた。
2024.05.30
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ16〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。近衛の中将は指をかんだ女をほめちぎった。その時分にまたもう一人の情人があり、身分もそれは少しよいし、才女らしく歌を詠んだり、達者に手紙を書いたり、音楽のほうも相当なものだったようで、感じの悪い容貌でもなかったので、やきもち焼きの方を世話女房にしておき、そこへおりおり通って行ったころにはおもしろい相手だった。あの女が亡くなったあとでは、今さら惜しんでも死んだものは仕方がなく、度々もう一人の女の所へ行くようになり、風流女を主張している点が気に入らなく、一生の妻にしてもよいという気は無くなった。(昨日朝は慌ただしくロウソクを家に忘れてしまった)あまり通わなくなったころに、また他の恋愛の相手ができたようで、十一月ごろのよい月の晩に、御所から帰ろうとすると、ある殿上役人が来て私の車へいっしょに乗り、その晩は父の大納言の家へ行って泊まろうと思っていた。途中でその人が、今夜私を待っている女があり、そこへ寄ってやらないでは気が済まないと言う。女の家は道筋にあり、壊れた土塀から池が見え、庭に月の光りが射しているのを見ると、私も寄ってもいいという気になり、その男の降りた所で私も降りた。だが、その男が入るのは私の行こうとしている家だった。初めから今日の約束があったのだろう。男は夢中で門から近い廊の室の縁側に腰を掛けて、気どったふうに月を見上げている。それは実際白菊が紫をぼかした庭へ、風で紅葉がたくさん降っているから、身にしむように思うのも無理はない。男は懐中から笛を出して吹きながら合い間に、飛鳥井に宿りはすべし蔭もよしと歌うと、中では和琴をきれいに弾いて合わせる。律の調子は女の柔らかに弾くのが御簾の中から聞こえ、華やかな気がして、明るい月夜に合っている。男はおもしろがり、琴を弾いている前へ行き、紅葉の積もり方を見るとだれもおいでになった様子はなく、あなたの恋人は中々冷淡なようと皮肉なことを言っていた。
2024.06.16
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ18〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。久しく訪ねて行かなかった時分に、ひどい事を私の妻の家の方へ出入りする女の知人を介して言わせた。私はあとで聞いた事だが、そんなかわいそうな事があったとも知らず、心の中では忘れないでいながら手紙も書かず、長く行きもしないでいると、女はずいぶん心細がり、私との間に小さな子供もあり、煩悶した結果、撫子の花を使いに持たせたところ、中将は涙ぐんでいた。どんな手紙を書いたのかと源氏が聞いたところ、なに、平凡なものですよ。山がつの垣は荒るともをりをりに哀れはかけよ撫子の露と送った。私はそれで行く気になり行って見た。穏やかなものなんですが、少し物思いにふける顔をして、秋の荒れた庭をながめながら、虫の声と同じような力のない様子で見ているのは、小説のようで、咲きまじる花は何れとわかねどもなほ常夏にしくものぞなきと、子供の事は言わずに、母親の機嫌を取った。打ち払ふ袖も露けき常夏に嵐吹き添ふ秋も来にけりと、こんな歌をはかなそうに言って、正面から私を恨む素振りもない。うっかり涙を零しても恥ずかしそうに誤魔化してしまう。恨めしい理由をみずから追究して考えていくことが苦痛らしく、私は安心して帰って来てしまい、 またしばらく途絶えているうちに消えたようにいなくなってしまった。まだ生きていれば相当、苦労をしているだろう。私も愛していたから、私をしっかり離さずにつかんでいてくれたなら、そうしたみじめな目に逢いはしなかった。長く途絶えて行く事もせず、妻の一人として待遇のしようもあった。撫子の花と母親の言った子もかわいい子なので、何とか捜し出したいと思っていたが、今だに手がかりがない。素知らぬ顔をして、心で恨めしく思っていた事も気付かず、私は愛していたが一種の片思いと言える。もう今は忘れかけているが、あちらではまだ忘れられずに、今でも時々は辛い悲しい思いをしているのだろう。
2024.06.18
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「〔25〕七日の御産養(うぶやしない)―九月十六日」「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。小大輔(こたいふ 中宮の女房 素性未詳)、源式部(げんしきぶ 中宮の女房 加賀守源重文の娘)、宮木(みやぎ)の侍従(中宮の女房 素性未詳)、五節(ごせち)の弁(中宮の女房 中納言平の惟仲の養女)、右近(中宮の女房 素性未詳)、小兵衛(こひょうえ 中宮の女房 左京大夫源明理の娘)、小衛門(こえもん 中宮の女房 素性未詳)、馬(中宮の女房)、やすらい(中宮の童女 素性未詳)、伊勢人(やすらいの注記の混入か)など。端近くに座っていたのを、左の宰相の中将(源経房 道長の妻明子と兄弟)と殿のご子息の中将の君(教通 十三歳)が誘い出されて、右の宰相中将兼隆(かねたか)に棹をささせて、舟にお乗せになる。一部の女房たちは船に乗らないでそっとぬけて残ったが、やはりうらやましいのだろうか、池のほうに目をやっていた。真っ白な白砂の庭に、月の光が照り返し、その月光に映えて女房たちの白装束の姿や顔つきも、風情がある。北の陣に牛車がたくさん停めてあるというのは、内裏の女房が来たからだ。藤三位(左大臣師輔の娘繁子)をはじめとして、侍従の命婦(素性未詳)、藤(とう)少将の命婦(藤原能子)、馬の命婦(『枕草子』の「猫の乳母」と同一人だろうか)、左近の命婦(素性未詳)、筑前の命婦(後に彰子に従い出家した)、少輔の命婦(素性未詳)、近江の命婦(素性未詳)などであると聞いた。
2024.01.11
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源氏物語〔2帖帚木 ははきぎ14〕「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語2帖帚木の研鑽」を公開してます。将来まで夫婦でありたいなら、少々辛いことがあっても耐え忍んで、気にかけないようにして、嫉妬の少ない女になったら、私はまたどんなにあなたを愛するかしれない、人並みに出世してひとかどの官吏になる時分には立派な私の正夫人でありうるわけだと利己的な主張をした。女は少し笑いながら、そのうち出世もできるだろうと待ち遠しいことであっても、私は苦痛とも思わなかった。あなたの多情さを辛抱して、良人になるのを待つことは堪えられないことだと思った。別れる時になり色々な事を言い憤慨させ、女も自制が出来ない程、私の手を引き寄せて一本の指に噛みつき 、私は痛みに耐えられず、痛い痛いと声をあげた。こんな傷もつけられては私は杜会へ出られない。侮辱された子役人は人並みに上がってゆくことはできない。私は坊主にでもなることにするだろうと脅して、指を痛そうに曲げて、いよいよ別れだと言い家を出た。「手を折りて相見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし」言いぶんはないと言うと、さすがに泣き出し、「うき節を心一つに数へきてこや君が手を別るべきをり」反抗的に言ったりもした。本心では我々の関係が解消されるものでないことをよく承知しながら、幾日も手紙一つやらずに私は勝手な生活をしていた。賀茂神社・石清水八幡宮の臨時の祭りに行う舞楽を、楽所で予行練習するが、霙が降る夜で、皆が退散する時に、自分の帰って行く家庭というものを考えるとその女の所よりないと思いなおす。御所の宿直室で寝るのも惨めだし、また恋を風流遊戯にしている局の女房を訪ねて行くことも寒いことだろうと思わ れ、様子も見がてらに雪の中を、少しきまりが悪いが、こんな晩に行ってやる志で女の恨みは消えてしまうと思いながら、入って行く。
2024.06.14
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〔100〕戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く「Dog photography and Essay」では、「愛犬もも」と「源氏物語の紫式部日記」の研鑽を公開してます。双調の調子で、「安名尊(あなとうと)(催馬楽)」、次に「席田(むしろだ)(催馬楽)」「此殿(催馬楽)」などを謡う。楽曲は、鳥の曲の破と急を演奏する。戸外の地下の座でも調子の笛などを吹く。歌に拍子を打ち間違えて、とがめられたりする。つぎに伊勢の海(催馬楽)を謡う。右大臣は、和琴が実に見事だなどと、聞きながらお褒めになる。戯れておられたようだが、そのあげくにひどい失態をなさった気の毒さは、見ていたわたしたちも体がひやりとしたほどだった。殿からの帝への献上物は、横笛の「歯二(はふたつ)」で、箱に納めて差し上げられたと拝見した。右大臣藤原顕光が酔って御膳の鶴の飾り物を取ろうとして折敷をこわしてしまったことをさす。笛は道長が、去る十一日に花山院御匣殿(みくしげどの)から賜った名笛である。紫式部日記(完)源氏物語1話桐壺の研鑽に入ったが時間が掛かる。
2024.05.01
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