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俺の部屋は南向きなので昼間は暖かいです。この冬は暖冬でとてもありがたいです。雪国にお住まいの方は、安全に気をつけて雪かき頑張ってください。それでは、良いお年をお迎えください。
2006.12.31
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おはようございます。今日は午前7時に目が覚めて朝食をとりました。いつもは、7時5分前にパソコンが起動するんですが、最近は体調の良くない日が続き、すぐに電源を落としてまた眠っていました。今日は「目覚ましテレビ」を見て、それからネットをしています。少し疲れてきたのでまた寝ます。(^^;)
2006.12.29
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我が家の正月は家族みんなが集まって、うちで作ったおせちを食べます。埼玉に住んでいる長男の兄。結婚している長女の姉。東京に住んでいる姉と末っ子の弟。この姉が築地で色々材料を買ってきてくれます。うちは10人家族なんです。長女の子供たちが来るととてもにぎやかです。今年もにぎやかになりそうです。作るのはめんどう、でもおせちは食べたいという方は ↓ をどうぞ。
2006.12.28
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前にも書きましたが妹は弟の紹介で俺も入った新興宗教で、職員をしていました。それがある日病気になって、職員も新興宗教もやめることになりました。妹の病気は統合失調症です。最近は穏やかになっていましたが、今日また症状が出ました。大声を出して、「ごめんなさい!料理がうまく作れなくてごめんなさい!」と、叫ぶように言うのです。妹は、決して料理が下手なわけではありません。心が我慢出来なくて、叫んでしまったのです。新興宗教ではかなり大きな声を出してお祈りをします。また、チャクラ覚醒の為に特殊な呼吸法をします。チャクラ覚醒の呼吸法は危険が伴い、精神に異常をきたすこともあると聞いています。妹もその1例なのでしょう。もちろん、彼らは自分達の呼吸法は安全だと言っています。妹を誘った弟と俺にも責任があります。兄弟がことごとく病気になっているというのに、未だに新興宗教をやめない弟の気持ちが分かりません。
2006.12.28
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いわずと知れたAKIRAの原作版です。俺は全巻持っていたのですが、弟に古本屋に売られてしまいました。映画版とはストーリーが若干違います。映画で感動した人もまだ見てない人にもおすすめです。
2006.12.27
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今日は風が強いですが暖かいですね。でもこうも風が強いと家にいるしかありません。以前、ジャパンネット銀行の口座を作ったのですが、その時の維持費は105円でした。ところが、この間から維持費が189円に。Magic Garden のショッピング会員になるために口座を作ったのですが、まだ一度も使っていません。解約した方がいいですかね。キャッシングカードはブラックリストに載っていて作れないし。でも、Magic Gardenのプレゼントには2回も当選してしまいました。Magic Gardenはまだ始まったばかりのショッピングモールで、商店数、商品数ともに少ないです。入会時に500円券をもらったのですが、利用条件が4,000円以上の買い物に限られているんです。今後のMagic Gardenの発展次第ですね。ちなみにMagic Gardenのアドレスは http://magicgarden.jp/ です。
2006.12.27
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俺は文章を書く時は、いつも、喫茶店でノートにボールペンで書いてます。とりとめもなくその日思ったことを書くこともあれば、浮かんだアイディアを羅列することもあり、また落書きをするノートも別に持っています。これらがたまってくると膨大な数になり、どこに何が書いてあるか探すのに大変です。そこでタブレットPCがあればいいなぁ。と、思っています。今めぼしいのは、lenovoのThinkPad X60 Tabletです。拡張ドックをつなげば、今使っているMacともデータのやり取りが出来るし。富士通などからも出ているみたいですけど、ThinkPadが前から使ってみたいと思ってたんですよね。12月下旬に発売だから、来年あたり欲しいです。夢ですけどね。
2006.12.26
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tenki.jp で見たらほとんどのところが雨みたいですね。俺の地域では明日も午前中は雨みたいです。今日は家で「脳の右側で描け」を読んで絵の勉強をするつもりです。
2006.12.26
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今日はいつになく穏やかな日ですね。教会ではイエス キリストの生誕を祝い、様々な催し物が行われているんだろうなぁ俺は鬱病で人の多く集まるところが苦手なんです。教会へ入ったことはないけど、これでもキリスト教徒です。(^^)今日はFEBCでクリスマス礼拝をネットで聴こうと思います。キリスト教の人も、そうでない人も、今日をお祝いする人に幸福が訪れます様に。主イエス キリストの御名を通してお祈りします。それでは(^^)ノIndigoWaveサイトhttp://www.k4.dion.ne.jp/~indigo_w/
2006.12.25
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我が家はとくにクリスマスには何もしません。これは、俺が生まれた時からずっとです。でも、俺はキリスト教徒になったので、ここ何年かは毎年、イブにはコンビニでローストチキンを買って食べています。だけど、今年はお金を全部貯金してしまったので1月まではお金がありません。食料はあるので、ご心配なく。本来クリスマスは、神様が、イエス キリストとして人間に生まれてきたことをお祝いする記念なので、食べるものはどうでもいいのです。イエス キリストはいつも一緒にいてくださる。それを信じて。Merry Christmas ! (^^)ノIndigoWaveサイトhttp://www.k4.dion.ne.jp/~indigo_w/
2006.12.24
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俺は新興宗教での修行で忍耐強さを得ました。それは恐怖心によるものでした。霊障・悪因縁・世紀末の危機など、様々なことを言われました。しかし、その結果、仕事で過酷な残業に耐え、稼いだお金は新興宗教へと流れていきました。そして俺は鬱病になったのでした。新興宗教ではチャクラ覚醒の修行というものもあり、俺は体も変わってしまいました。父の宗教で助けてもらったことがありましたが俺の体はもとへは戻りませんでした。俺は今でも時々、眉間がうずいたり、背中を中心に熱くなったりします。俺と弟で誘った妹も会員になり、やがて職員になりました。しかし妹は病気になり会員をやめる事になりました。今は病院で統合失調症の治療を受けています。俺が辞め、妹が辞め、残った弟は、末の弟を誘おうとしました。しかし、ある日、末の弟も統合失調症になってしまいました。この新興宗教は会員勧誘のために数十人で祈ったりします。だから霊的に刺激を受けるのだと思います。俺がこの新興宗教に入る前にひどい頭痛におそわれたのも、弟が祈願を頼んでいたからだと思っています。妹が入院しても新興宗教からは何もありませんでした。「入るのも自由、出るのも自由。」と言っていますが、「金の切れ目は縁の切れ目。」ということなのでしょう。弟はまだ会員です。俺が世間知らずでなければ、身内である弟の行動に警戒心を持っていれば、すべては防げたことかもしれません。俺はこの新興宗教で400万円程、使いました。でもどうしようもありません。裁判を起こしても向こうには優秀な弁護士がついていて勝ち目はありません。もう忘れることにしています。恨むこともありません。俺は鬱病が治ると信じ祈っています。
2006.12.23
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スーパーの純粋を入れに行ってきました。ペットボトル代470円であとは無料で水を入れられます。純水と言っても、H2O そのものではなくて、特別な方法で濾過した水だそうです。味はおいしくありません。ミネラルなどは入っていませんので。コーヒー、紅茶などにして飲めば美味しく飲めます。水道代が節約出来るかというと、そうでもないです。最近、弟が特別なうがいを始めたので水道代は減るどころかちょっと高くなっています。歩いて片道10分、帰りは3.8リットルの水を持っていますので、ちょっとした運動になります。徒歩の運動は病院の先生にも進められていますので、これからも続けたいと思います。
2006.12.23
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昨晩は少し疲れたから早めに寝ますって言って10時半には寝たのに、起きたのは午前11時でした。おかげでたまったメールを整理するはめに。(;_;)疲れる前に休むことが必要だったかもしれません。鬱病の鉄則は無理せず自分のペースを守るということを再確認しました。
2006.12.23
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今日は朝は雨で憂鬱でした。午後になって雨はやみ、体調も回復しましたが、今日は寒かったですね。ブログをかけもちで書いて少し疲れました。今日はそろそろ寝ようと思います。それでは、おやすみなさい。
2006.12.22
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FEBCとの出会いの前に、なぜ俺が新興宗教をやめることが出来たかを書きたいと思います。新興宗教での活動中に俺は、一冊の本に巡り会います。「クリシュナムルティの瞑想録」という本です。クリシュナムルティはある宗教団体の代表になるはずの人でした。しかし、かれはその宗教団体の設立日に団体を解散すると宣言してしまいます。「組織にいてはけっして<真理>にはたどり着けない」というのが理由でした。彼の目的はすべての人を自由にすることでした。その後彼は様々なところへ行き、自由・瞑想について対話を続けました。俺は感銘を受け新興宗教へは行かなくなりました。正式にやめたのはそれからしばらく立ってからでしたが。さて、FEBCについて話しましょう。印刷会社をやめた俺は、様々な会社を転々としました。千葉県富津市にある工場で働いていた頃、俺は4畳半の部屋に一人で住んでいました。ある日、ラジオのチューニングをずらして、番組を探していたら賛美歌が聴こえてきました。そして、お便りのコーナーが始まってパーソナリティーの人が紹介し始めました。俺は聴き入ってしまいました。「なんて丁寧で思いやりの感じる放送なんだろう。」と感じました。そのあとには聖書の解説コーナーなどがありました。俺はそれから時々、その番組を聴く様になりました。それでも俺は仕事にはなじめず、仕事を辞めてしまいました。今いる家に帰って来て、仕事はしなくなりました。自分のパソコンでアプリケーションを作って売ろうとしました。ホームページで紹介して有名なサイトで紹介されてある程度反響がありました。しかしひとつも売れないうちに2ちゃんねるでひどいシェアウェアとして、紹介されて、俺はこの仕事もあきらめました。この頃もFEBCの放送は聴いていて、聖書の無料通信講座を受ける様になりました。この講座プリント3枚のテキストが来て、感想を送ると手書きの返事が来るというものでした。この頃から、テレビで鬱病についてのCMや相談番組が放送される様になり、俺は自分が鬱病なのだと分かりました。しかし、しばらくは病院には行けませんでした。一緒に住んでいる弟はまだ、新興宗教に入っていて、一人で病院へ行く勇気がありませんでした。しかし、病状は悪くなる一方なので、電話帳で病院を探し、精神科の病院に行きました。しかし、色々聞かれたあげく「うちの病院で何をして欲しいですか。」と、聞かれて俺は「元の自分に戻して欲しいんです。」と言いました。印刷会社での激務や新興宗教での活動のつらさも話しましたが、どうやら俺にはこの病院は合わないようでした。それからというもの俺は家に引きこもりがちになりました。実家が近いので風呂と食事はそちらで済ませていましたが。時々、FEBCの放送を聴き、聖書の無料通信講座は半年に1度出す程度でした。そんな生活をしているのも嫌になり、また違う病院に行きました。今度の病院は先生が話を良く聞いてくれて、俺には合っていました。ようやく鬱病の治療が始まりました。これが2年以上前のことです。先生の助言は適切で「晴れた日は10分程度歩いて運動するといいでしょう。」や「夜は早めに寝て朝は早く起きる様にしましょう。」「嫌な夢を見たときは話をまとめてここで話すといいでしょう」など、薬もその時の体調に適切に出してくれます。もっとも、精神科の病院としては当たり前のことかもしれません。しかし俺はこの2年ちょっとでかなり楽になりました。晴れた日には大きな池のある公園まで自転車で行って歩いています。この公園には冬になると多くの渡り鳥達が来てそれを楽しみながら。FEBCの通信講座もペースが上がって2ヶ月に1度くらいになっています。我が家でキリスト教徒になったのは俺一人ですが、俺はFEBCでのキリスト教信仰に救われています。
2006.12.22
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印刷会社の交代制勤務にもなれてきた頃のある日、俺は自分の部屋にいて、弟2人が隣の部屋にいたときです。突然、俺の頭が割れる様に痛くなり、目の前が真っ白になって、俺は押し入れの布団に顔を付けて、叫んだことがありました。弟達は何事かと、俺の部屋に来ました。しばらくしてさっきのことが嘘のことの様に元に戻りました。その日からしばらくして休みの日に、上の弟が「行かせたいところがある。」と、私を連れ出しました。ついたところはある新興宗教の施設でした。俺はこの宗教のことは以前から主催者の著書を読んで知っていました。しかし、どこか腑に落ちないところがあって行くことはありませんでした。施設に入って私は違和感を感じました。本に書いてあるイメージと全く違ったからです。また、何も言わずに弟が入会していたことにも驚きました。我が家は父と母がある宗教で知り合って出来た家庭だったので、良く家の宗教の講習会に家族で行っていたからでした。俺はその日(その日にかぎらず仕事で疲れていました。)、疲れていたこともあり、二つ返事で入会金を払って入会してしまいました。なんで良く聞きもせずに入会してしまったのか今も分かりません。これは父と母の信仰を裏切ることになるのですから。俺は仕事が忙しく、休みの日は寝ていることが多かったので、弟はしきりに新興宗教の道場へ誘い、連れて行きました。その宗教は水子の霊や先祖の霊などの存在を信じており、成仏させないと幸せになれないという教えでした。俺は弟が勧めるがままに水子供養や先祖供養を申し込みました。一体の霊を成仏させてもらうには10万円必要でした。その他に月の会費やサプリメント類を勧められてかなりな資金が宗教に流れていきました。1999年7月が近づくにつれて主催者の著書も便乗して恐怖をあおる様になりました。この宗教は京都に本部があり、瞑想・密教の修行などで京都に行きました。瞑想や修行を受けるのにもお金が必要で一回5万円程度かかりました。また、冬には大きな祭りがありテレビでも放送しています。ここでいったん仕事の話に戻しましょう。交代制勤務が始まって1年半程して新入社員が何人か入ってきました。その中に俺が気になる女の子が1人いました。高校時代の憧れの子はもうあきらめていたので、チャンスでした。何ヶ月かたって映画に誘いました。答えはOKでした。しかし、夜勤明けの日に電話がかかってきて断られました。少しへこみましたが仕方がないと思い直しました。ここから俺の愚かな行いが始まりました。宗教の方の祈願で彼女との縁結びを祈る様になったのです。俺の前の宗教ではその様なことはしません。神様の用意してくれる様になる。という教えでした。一方、新興宗教では祈願をしてもらうのにもお金がかかります。しかも俺の場合、全く効きませんでした。そもそも祈ってもらって恋愛が始まっても幸せなのでしょうか?彼女の方にも俺に気があるのは気付いていましたが、俺が新興宗教に入っていたことがネックになっていたんです。彼女が入社してから5年程してからでしょうか、彼女は結婚退職して行きました。俺は次第に仕事と宗教活動に集中して行きました。しかし、彼女が去って行ったという現実が心から離れませんでした。次第に俺は抜け殻の様になって行きました。身もやせ細り、意欲を失っていきました。そしてある日、仕事をしてもやり方が分からなくなってしまい、上司に相談しましたが仕事の手順を教えてくれるだけで、俺は途方に暮れてしまいました。今思うとあれが俺のうつ病の発症だったのだと分かります。職場にも新興宗教にも俺が心の病になったことに気付くものはいませんでした。俺自身にも自分が病気になったとは分かりませんでした。会社には「違う仕事がしたいのでやめさせてもらいます。」といって退社の意志を表しました。しかし休養をとる様に言われ、たまっていた有給をすべて使って10日程休みました。結局、俺は退社しました。7年間働いて退職金は9万円でした。あとである人に聞いたら、「それはだまされたんだよ。」と言われました。その後、俺は工場を転々とし、新興宗教にも行かなくなりました。新興宗教を正式に退会し、どんな仕事も続けられなくなった時、俺は一人の時に自分の部屋で声を出して大泣きしました。「自分の人生は終わってしまった。」と思ったのでした。
2006.12.21
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俺は大塚にある情報処理会社に就職しました。プログラマー希望だったのですが、メカトロニクス科出身ということで、カードリーダー機器部門に配属されました。仕事はカードリーダーのメンテナンスで延々とカードを通す単調なものでした。また、課長が外出していると先輩たちは室内でキャッチボールをしたり、同僚は上司達がいないとパソコンでゲームを始めたりと退屈な会社生活でした。バブル全盛期でみんなのんきなものでした。入社して半年ぐらい立った頃でしょうか。新人研修として千葉の方へ派遣されました。仕事は契約会社のワープロ・プリンタの修理でした。先輩が1人ついて色々教えてくれました。そんな研修も終わりの頃、母がうちにお金がないと、俺に愚痴をこぼす様になりました。家にお金は入れていたのにおかしいな、と思いつつも、俺は転職を考える様になりました。手取りで15万はもらっていましたが、もっと給料の良い仕事を探しました。そして、大手印刷会社の交代制勤務を選んだのでした。求人欄には「写真修正の仕事」とあり、絵を描くことに近いから、とも思いました。交代制勤務はきつく、しかし給料は22万程度だったと思います。昼2日働いて夜昼2日働いて2日休みというシフトでした。先輩達は夜勤になると他のグループの人達の悪口を言い合い、俺はそれが嫌でした。
2006.12.21
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専門学校は蒲田にある日本工学院専門学校に行きました。2年制の工業部のメカトロニクス科を専攻しました。授業は厳しく、テストが何度もあり、その度に猛勉強しました。母に勧められてビル掃除のアルバイトをしました。毎日学校が終わってから6時から8時半まで大変でした。日曜日は違う職場でワックスがけのアルバイトもしていました。給料の中から毎月1万円を家に入れていました。若かったから出来たんだと思います。実はこの頃も高校時代に片思いをしていた彼女が忘れられず、ある日、ラブレターを出しました。しかし返事は来ず・・・専門学校時代はとても頑張った2年間でした。幸いなことに数人の友人も出来、昼休みにはゲームセンターへ行ったりもしていました。
2006.12.21
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3年生の担任は男性の英語の先生でした。副担任は確か女性の古文の先生でしたが、あまり印象に残っていません。担任の先生は若くはありませんでしたが優しい先生でした。3年にもなると進路のことを考える時期が来ました。進路指導の先生は自分のやりたい道に進むべきだと言ってくれました。俺は絵の道へ進みたかったのですが、母の反対のこともあり、工業系の大学を受験することにしました。さすがに独習というわけにはいかず、夏休みは塾に通いました。秋には文化祭がありました。うちのクラスではお化け屋敷をやることになり、数学のある先生に「高校生がお化け屋敷なんて・・・。」と何度も嫌みを言われました。そのせいかどうか分かりませんが、ある男子が文化祭の準備を手伝わず帰ってしまっていました。しかし他の生徒はやる気満々で、先生も段ボールを集めに車で手伝ってくれました。俺はお化けの音響を作りました。アルバイトで買ったキーボードシンセを使って結構苦労しました。ところがその音響テープを学校に持っていったら誰かに盗まれてしまいました。何が良かったのか未だに不明です。俺は再度、音を作り直して無事解決しました。お化け屋敷は結構盛況で文化祭も無事に終わったのでした。さて、文化祭も終わり、あとは受験を残すのみとなりました。受験勉強は学校の勉強と違ってとても難しく、ついに大学には受かりませんでした。そして、進路指導の先生に相談して、工業系の専門学校へ行くことになりました。成績は良かったので内心だけで通れました。俺にとって高校時代が最も思い出深く友人たちにも恵まれ、よい青春時代だったと言えます。本当に良かったです。
2006.12.21
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2年の担任の先生は物理の先生でした。副担任には国語の先生がなりました。どちらの先生も若い先生で親しみがわいていました。俺はというと、相変わらず、学校が終わるとゲームセンターに行っていました。既に家での習字と絵の習い事はやめていました。習字は2段までいきました。そんな俺ですがこの頃から勉強に目覚め、成績が上がってゆくことに喜びを感じる様になりました。定期テストの結果が学年で6位にまでなりました。この頃の学校生活が一番良いものでした。学年の終わりにクラスの数人と担任の先生とで箱根に1日旅行に行きました。この頃も片思いですが好きな女の子がいました。その子も一緒に行きました。旅行の途中普段は話さないK君が将来のことで話をしてきました。俺はまだはっきり決まっていないと言うと、K君は自分のやりたいことをした方が良いよ。と、言ってくれました。俺は本当は絵を描く仕事につきたいと思っていましたが、心の奥底にしまい込んでいたのでした。
2006.12.21
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高校は江戸川沿いにある自然豊かなところでした。先生は若い方が多く、話しやすかったです。1年の時の先生は国語の先生でユーモアはあるんですが、いまひとつ受けが悪かったです。部活には入りませんでした。母に絵を描く仕事につくことを賛成してもらっていたら、美術部に入っていたでしょう。クラブ活動はコンピュータクラブに入りました。当時使っていたのは今は懐かしいNECのPC9801でした。プログラミングを最初に学ぶ時に作る、時計やカレンダーなどを教わりました。俺は学校が終わると相変わらず友達とゲームセンターに行っていました。高校でも良い友達が出来ました。年末には郵便局でアルバイトをしていました。お金は家に一部を入れ残りでポケットコンピューターを買いました。ポケットコンピューターでプログラミングの勉強をしてゲームを幾つも作りました。
2006.12.20
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3年の時の先生は女の先生で、とても穏やかな人でした。国語の先生でとても分かりやすく教えていただいて、俺の国語の成績も上がり、授業も楽しくなりました。進学も考えるようになり、勉強も頑張り始めました。クラブ活動も楽しくなりました。顧問は担任の先生で模型クラブ。つまりプラモデルを作るクラブです。俺は戦車や戦闘用ジープを作っていました。文化祭ではその戦闘用ジープを出したんですが、文化祭が終わって取りに行ったらありませんでした。誰か欲しくなって持って行ったのでしょう。惜しい気がしましたが、今は欲しくなる程良い出来だったんだと思うようにしています。高校受験は塾へは行かず、自分で勉強しました。私立2校、公立1校を受けましたが、私立1校と公立1校が受かり公立高校へ行くことになりました。この頃両親に将来何をしたいのかを聞かれ、俺は「何か絵を描く仕事がしたい。」と、答えたところ、母親に猛反対されました。おそらく父の書画の仕事が安定するまでにとても苦労したのではないでしょうか。俺はどうして良いか分からず、高校進学を待つことになったのでした。
2006.12.20
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中学2年の時も1年の時と同じ美術の先生だった。成績が落ちるとげんこつで殴る少し恐い先生だったけれども、美術の評価はちゃんとしてくれた。抽象画を描いた時は廊下に貼ってもらえました。また、尾長鶏をモチーフにした俺としては傑作のペン入れは、美術室の見本として置いてもらえました。片思いでしたが好きな女の子が出来たのもこの頃だったと思います。休みの日にはまだゲームセンターに言っていました。この頃からいろんな種類のゲームが出てきました。
2006.12.20
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中学は家から15分の公立校へ行きました。中学は純粋に厳しかったです。しかし、当時非行に走る生徒がいて先生方も大変だった様です。特に不良グループにはPTAの息子がいて、先生も手出しが出来なかった様です。俺は小学校からの友達とは別の何人かの友達が出来ました。部活が卓球部だったので部活での友達も出来ました。しかし、顧問の先生が全く来ず、卓球は上達しませんでした。1年の時の先生は美術の先生で学校は荒れていてもユーモアのある先生でした。放課後には美術室で何か工作をしているかと思えば、板で出来た手のグーの形をした生徒の頭をたたくものでした。何種類も作り、1トンパンチ、10トンパンチ、など笑いのある叱り方をしていました。実は不良グループはとても手のつけられる相手ではなかったのが現実でした。真面目に向き合ってはいられませんでした。この頃ゲームセンターが出始め、小学生時代の友達と良く行きました。俺はゲームはかけ事じゃないから悪くはないと思っていましたが、学校に知れたら大変だったかも知れません。学校でのおかしなストレスを発散していたのです。俺は小学校からの影響を引きずっていて先生には不信を抱いていました。でも不良グループは軽蔑していました。不良にならなかったのは友達のおかげだと思っています。
2006.12.20
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6年の担任はあの4年の時の恐い体育の先生でした。みんな恐がっていました。5年の時にあったいじめ事件を根に持っていたらしく、授業は厳しくはあれ決して向上心を持たせてくれるものではありませんでした。そして俺にとっての事件が起きた年でもありました。ある日仲良し3人組でペットショップに行くことになりました。そしてペットショップに行くバスで先生とはち合わせたのでした。先生に何をしに行くか聞かれ、俺達はそれぞれ答えました。次の日、先生は俺を立たせ「昨日、亀○君が亀を買いに行きました。」と言ってみんなを笑わせました。俺はひどく悲しくなり、また悔しくもなりました。動物を可愛がって何が悪い、笑い者にしなくてもいいじゃないか。と、心に思ったのでした。そして先生はみんなに「お小遣いをもらい過ぎだ。1ヶ月いくらもらっているか教えなさい。」と言ってクラスのみんなから聞き出して、多くもらっている人は少なくするように親に言うように言ったのでした。数日間、俺は落ち込み、ついに緑亀を洗濯機から出てくる洗剤の混じった水に浸して殺してしまったのです。みんなの小遣いが減ったのも自分のせいだ、と自分をせめました。それでも2人の友達は仲良くしてくれていました。先生はそれが気に入らないらしく、なにかにつけ俺達を「幼稚園グループ!」と呼んで侮辱しました。これも俺のせいだったのです。俺は発育が遅く背がとても低かったのです。でもそれは仕方がないことだと思っていました。ある日先生はまたもや俺に屈辱的なことをしました。授業内容が早く終わったので先生は「あとは自由に好きなことをしていいですよ。」と言いました。素直で鈍感だった俺はいつもの落書き帳を出して好きな絵を書いていました。終業のベルと同時に先生は周りを見渡し、俺ともう一人の男の子を教壇の上に立たせ、両手で両耳をつかんで上に持ち上げました。俺は叫びました。「先生、やめて!」俺は未来まで嫌な記憶が残ってしまうのを察していたのです。またみんなの笑い者にされました。誰も「やめてあげて。」と言わなかったのが悲しかったです。みんな先生を恐れていました。卒業文集の先生を描いた絵にもそれが表れています。先生は鬼の姿で棍棒を持っています。最後にみんなでとった写真には無表情な俺が写っています。
2006.12.20
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このときの先生はやっと女の先生でした。優しい先生でした。しかし、この先生は1学期が終わる前に結婚してやめてしまいました。このことが生徒全員にとっての一大事となるきっかけでした。代わりの先生が中々来ず、自習の日々が続きました。一部の生徒たちが自習をさぼり、遊びだしました。この時先生さえいれば、次ぎにくる一大事はなかったのです。遊びだす生徒が増え、一人の女の子をいじめだしました。いじめはエスカレートし、ほとんどの生徒がその子を殴ったり蹴ったりしていました。俺はもう一人の男の子と遊んで見て見ぬ振りをしていました。廊下には見張り役がいて見回りの先生が来たら何もなかった様にみんな席に着きました。そういった日が3,4日続いていじめは先生たちに見つかったのでした。このことは学校中の問題になったのでしょう。しかし、俺たちは確か感想文を書かされてそれ以上の罰は受けなかったと思います。担任の教師がいなかったことは学校側の責任だったからでしょう。新しい女の先生が来たのは2学期が始まってからでした。それから5年生が終わるまでみんなはまじめに勉強しました。林間学校もあったのですがあまり記憶にありません。確か硫黄谷のあるところだったと思います。残念な1年間でした。しかし、俺の図画・工作の成績は1年を通して5段階評価で4でした。絵を描くことが好きだったのには変わりありませんでした。
2006.12.20
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このときの先生も男性の体育教師でさらに恐い先生でした。体育だけでなく他の授業でも成績重視でまじめに勉強しました。せざるをえませんでした。昼休みは全員外に出て先生と遊びました。が、遊びも真剣勝負で、運動神経の鈍い俺は楽しくなかったのを記憶しています。教室で絵を描いていた方がどれだけ楽しかったか。成績表にはこう書いてあります。「何かをやる時に少し活気がたりません。グループの中にいるとほとんど目立たないのです。もっと元気を出しましょう。何か運動をしたらどうですか。」3学期のときの通知表です。俺は2学期、3学期と図画・工作の成績は5段階で4でした。なんでそこをほめてくれなかったのか、納得がいきませんでした。特に上の兄弟たちは成績が良かったので比較されていたのかもしれません。3学期ではかきぞめで金賞を取っていました。勉強は嫌でしたが二人の友達はいつも仲良くしてくれていました。学校が終わると、習字と絵の教室がない日は、いつも一緒に元気に走り回っていました。公園や神社、広場で基地を作ったり、懐かしい思い出です。
2006.12.20
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こう寒いとつい、ものぐさになりがちな俺です。昼食は自分で作っているとこの前、書きましたが、今日の昼食はどんぶりに卵と納豆を入れてかき混ぜ、それに塩鮭をのせたシンプルなものになってしまいました。(^^;)皆さんはちゃんと栄養を付けて健康にお過ごしください。
2006.12.20
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ボディーテックのシャツ、その上に長袖シャツ、その上にボディーテックのフリースを着て、行ってきました本八幡の銀行まで。途中マツキヨによって自転車のテールランプの電池が切れかかっているのを思い出し、210円のボタン電池を312ポイント貯まったカードで買いました。しかし、レジのおねえさんが「300円なのでおつりがなくなりますが良いですか?」俺は : 融通のきかないシステムだなぁ。と思いながらも「はい。」と言ってしまった。300円で210円の買い物、・・・90円の損!100円のジュースでも買っておけば良かった。105円で1ポイント、312ポイント貯めるのにいくら使ったことか。まぁ良い。これからはマツキヨにこだわらず安いとこで買おっと。でもマツキヨ安いんですよねぇ。それから銀行へ行ってジャパンネット銀行の維持費を預けました。2ヶ月分預けるつもりだったけれど余分な小銭を全部いれたら3ヶ月分になりました。それから帰途についたんですが、ボディーテック効果も空しく、寒かったんで書店によりました。MacPeopleをぱらぱらめくり、暖まったところで家に帰りました。
2006.12.19
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栃木の田舎からみかんが段ボール1箱届いた。今さっき初めて食べてみた。大きさは小ぶりでちょっとすっぱめ。これでこの冬のビタミンCはばっちり。でも、うちは家族が多いからすぐなくなっちゃうかも。
2006.12.19
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今日は寒いですね。おまけに曇っているし。今日は午後からジャパンネット銀行の維持費を入金するためだけに、本八幡まで出かけます。自転車で片道20分、寒いだろうなぁ。皆さんは風邪などひきませんよう、お気をつけ下さいね。
2006.12.19
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3年の先生は男の先生、しかも体育の先生でした。俺は体育が苦手だったので、そこはかとなく嫌な予感がしていました。しかし、これといったトラブルもなく、日々は進んでいきました。そして仲良しの友達も出来、3人はいつも一緒に遊んでいました。そして、夏がやってきました。プールの授業です。初めてプールに入った俺は体をがたがた震わせていました。「最初にプールに10秒、顔を付けて。」と先生は言いました。おれは2,3秒しか顔を付けられず、何度もやってもだめでした。先生は大笑いしてみんなも笑い出しました。俺の目からはプールの水に混じって涙が出ていたのは言うまでもありません。でも良いことだってもちろんありました。お絵描き大会です。俺は銀行の建物を画用紙いっぱいに描き、とても満足な絵が描けました。賞にはならなかったみたいですが、廊下に貼られました。俺は本当に絵を描くのが好きで、昼休みは落書き帳にいろんな絵を描いていました。みんなは外でサッカーをしていましたが気にはなりませんでした。それほど絵を描くのが好きだったのです。
2006.12.18
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父が書画をしていたので俺が生まれた時には、既に書道と絵の教室を開いていました。俺は小学校へ上がる頃から習わされていました。どちらも嫌いではなく、特に絵を描くのが好きでした。教室は絵が月曜日、書道が水木、とあとの日は遊んでいたので、調度良かったんだと思います。
2006.12.18
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今日はいい天気ですね。俺の部屋は南向きなので暖かです。でもさっき、実家に昼食を作りにいったときは、北風が寒かったです。実家に行くには橋を渡るんですが、川にカモが4羽いて泳いでいました。俺は毎日、昼食は実家で作って自分の部屋で食べています。なんでこんな時間にブログを書いていられるかは、追々書いてゆくことになると思います。
2006.12.18
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2年生の先生も女の先生で、この先生はちょっと変わったところがありました。プリントを配りながら、「プリントでのどを切って死んだ人がいるそうですね。恐いですね~。」とか、「チョコレートに針が入っていて、食べて死んだ人がいるそうですね。恐いですね~。」など、俺は、恐いのは先生のその話なんですけど~。と、心に思いました。(^^;)また、ある時、授業中に、「伝言ゲームをします、1番前の人は見に来てください。」と言われ、背が小さかった俺は1番前の席だったので見に行来ました。そうしたら、なんとその字が汚いこと。家が書画教室だった俺には汚い字は読めませんでした。「もういちど~、見に来ても良いですよ~。」と言われても読めないものは読めません。結局、2番目の席の子が見に行くことに。俺は勝敗のことなどそっちのけで机に顔をうずめてうなだれていたのでした。まぁ、2年目も何となく過ごしてすぐに終わったのでした。
2006.12.18
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1年のときの先生は女の先生でした。俺は集中力がなく、やりたくないことでは仕事が遅くなるので、先生に注意をされ、親にも言われました。でも一年生のときは終始のんびり過ごしていたような気がします。
2006.12.18
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それまで毎日、遊びほうけていたので小学校へ行くのは少し寂しい気がしました。
2006.12.18
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幼稚園の頃からひとつ上の姉に神社に連れて行ってもらい、紙芝居を見ました。紙芝居の内容がどんなものであったか、思い出せませんが、色々なお菓子があったのを憶えています。「飴ぬき」といって薄い板状の飴に文字が掘ってあって、その文字を残すと水飴がもらえました。また、「カラテ」という飴ぬきの飴ではないものもあって、こちらは指や手を使って割っていく少し難しいものでした。神社にはブランコなどの遊戯道具もあり、夕方まで楽しく遊んだのを憶えています。
2006.12.17
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俺は保育園には行かず幼稚園に1年だけ行きました。幼稚園ではもの静かで友達はいませんでした。でも女の子2人がいつもかまってくれていました。ままごとのつもりだったんでしょう。ある日の昼休み、外で遊んでいると、他の組の男の子が突然走ってきて、俺の髪の毛を思いっきり引っ張りました。俺は大泣きして先生を呼びました。面識もない子だったので原因も分からず、先生も困り果てていました。その後、何度か同じことがありました。けんかも出来ず弱い俺でした。それからはぱったりとその子はこなくなり、平和な昼休みが帰って来ました。俺はジャングルジムで遊ぶのが好きでした。1年も早く過ぎていき、遠足の時季がやってきました。遠足は上野動物園でした。俺はその日体調が悪く、遠足には行けませんでした。1年間の幼稚園生活でしたが、これといってメリハリのないものになってしまいました。
2006.12.17
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幼少時代は家の前の空き地(あの頃はまだ空き地が沢山あったなぁ)で、鬼ごっこや缶蹴りなどをして遊んでいました。幼少時代は体が小さかったのでリーダーの子(確か女の子)が、「おまめねっ。」て、ハンディを付けてくれていました。俺はまだ幼く良く泣く子供でした。
2006.12.17
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今朝は7時に起きました。俺のところは農家の人が大家さんなんですが、朝起きるのが早いですね。俺が朝食を食べているときは、もう世間話に花を咲かせていました。夜寝るのも早いんですけどね。夜9時半には寝ています。(^^;)
2006.12.17
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俺は6人兄弟姉妹の2男としてめでたく世に出たのでした。下に妹が1人、弟が2人。我が家は父、母、8人兄弟姉妹の10人大家族です。
2006.12.16
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ブログ自体は初めてではないんですけど、(2つ目)あっちとは使い分けて、思い出や日々感じたことを書こうと思います。よろしくお願いします。
2006.12.16
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