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イーストウッドのダーティー・ハリー、3、4の3作品を再見する。人物をどの位置からとらえるか。現れ去る車、やって来て止まる車をどうとらえるか。意識的なスタイルがある。美しい青、闇、そして空中撮影。
2012.05.03
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車には死の匂いがする。ゴダールの映画で感じたことだ。ゴダールは「映画とは現在進行形の死をとらえること」と言っていたか。冷たいであろう雨がパラパラと降り、時折霧が視界をわるくする峠を走りながら思い出す。「乱暴と待機」を観た。音楽の力が強い。映画も面白かった。4つのキャラクター。そのうち2つは閉じられている。他の二つは特異であり、独特の遠近法と執着を示すが、自由を感じる。劇場では4人の「だれに、どの辺に共感するか」という「恋愛度調査」なるアンケート用紙が配られ、思い切り違和感があった。共感するならば、作品にであって、作品から切り離された人物ではない。「恋愛観」であれ「恋愛感覚」であれ、他人と比較するようなものではない。ある人物は複数の非連続的な線からなり、その線は人物であれ物であれ、別の何かとつながること、組み合うことによって線として成立している。スパイダーマンのように英雄的な線を伸ばす者もいれば、蜘蛛女につかまる者もいるだろう。いずれにせよ、そこには二者、というか二つのモノの差異があり、そこから始まる。山根抜きに奈々瀬はいないが、奈々瀬抜きにあずさもいないのである。奈々瀬に共感することは、山根やあずさ、番上を肯定することでもある。伊藤計劃の「虐殺器官」に続いて「メタルギア ソリッド ガンズ オブ ザ パトリオット」、村上龍の「歌うクジラ」、石井恭二の「正法眼蔵の世界」を読んでいる。SF的なものについて、考えることを強いられる。例えば、陰謀について。陰謀1:バブル経済加速度的に上昇させ、一気に、そしてまた長期的に下降させる。陰謀2:ゲーム創造的な力の低下。陰謀3:携帯電話生産的な力の低下。表現の貧困化。陰謀4:ゆとり教育、週休二日制労働の価値の低下。陰謀5:ウォークマン音楽を想起する力の低下。沈黙や静寂の奪取。陰謀6:ある種の食品添加物身体の力の低下。陰謀7:教育費の増大超少子化。陰謀8:AV、●の氾濫愛と●●において自由を創造する力の低下。しかし、大きな陰謀が存在するとして、人がその影響を全く受けないのは難しい。抵抗の点を見つけ、線を延ばす以外にできることはない。再び、反復について。要するに、物語は反復である。ある組み合わせが繰り返し登場するから、物語となる。どんなに錯乱した登場人物であれ、繰り返し登場し、繰り返し錯乱するのだ。私が指摘したいのは、単に、生は創造であり、組み合わせの反復により進むということだ。ある点がある点とどう結ばれるのか、ある線がある線とどうつながるのかは、あらかじめ決まっていはしない。その立場からは、世の中に誤った決定論的言説が多すぎると思う。
2010.11.01
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ふとしたきっかけからtwitterする。と言っても、携帯電話で見ているわけではない。パソコンで。限定された時間で。10人程フォローしているが、それなりにおもしろい。特に誰に聞いてほしいと言うわけでもないが(それはブログも同じか)「つぶやく」という行為、つぶやきの語り口自体は、少しおもしろい。例えば今朝と、少し前のtwitterである。雨だ 夜のいつからか 夜中のいつからか 朝のいつからか 雨だ 静かに降ったり やや激しく降ったり どこに潜みながらなのか虫の鳴き声は絶えない 隣の家の屋根から雨が落ちるところに空き缶があって大きな音を立て自らを楽器と主張しているみたい 鳥の鳴き声はなくとも容赦なく鳥よけの爆音強い雨は朝のうちにあっけなく止み 青空が広がった 昼間は建物の中でよくわからなかったのだが 夏の最後の青だったのだろうか 夕方ぐっと気温が下がり 終わったのだと思う 秋だと感じる どうして突然に感じるのか どうしてつい先ほどまでの暑さが やたら遠いことのように思うのか 不思議だ
2010.09.07
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最近聴いている音楽を順番に1 東京事変「スポーツ」 このため、遡って色々聴いている2 くるり「NIKKI」 「東京」が入っているデビューアルバムを聴きたい3 GOULDのBACH 不動4 坂本龍一 不動5 相対性理論6 COLD PLAY VIVA LA VIDA OR DEATH AND ALL FRIENDS7 高木正勝暑いからか、椎名林檎のパンチがいい。しばらく聴かなくてもよいぐらい、この夏は音楽を聴いた
2010.09.06
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夢を見たここ数日続く不眠症でも昼間に支障をきたす程でもないから いいか浅い眠りにも不思議な趣きがある十数年前に別れた彼女の夢 優しくかわいい彼女の夢を 十数年の長い時間の流れを無視して 勝手に夢見る 勝手に幸せを祈る昭和新山は今はそれ程赤くない肌色だ 緑がまだ混じっている
2010.09.05
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数年あるいは十数年なかったことだが、夜中に目が覚める。あるいはうつらうつらとする。眠っているのか、目が覚めているのかはっきりしない、あわい状態がいくらかある。暑さのせいだろうか。開けっ放しで寝ている窓から虫の声が大音量で入ってくるからだろうか。いきなり降る雨の音のせいだろうか。一二度起きたことが「クセ」になっているのだろうか。日中の頭か身体か、エネルギーの使い方が不十分なのだろうか。悩んでいるわけではないが気がかりなことがあるからだろうか。運動不足だろうか。ヨガ不足だろうか。しかし、目が覚めることが苦痛ではないし、日中やや眠くなることがあるが、嫌なわけでもない。夢を見た。驚く程厚化粧の女。素顔の女。同一人物かはよくわからず。その女はフジ子ヘミングだと思ったが、似てはいなかった。彼女は緊張してさえないパフォーマンスを終える。聴衆は軽く無視する。特に失望もせず。
2010.09.04
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daniel bernard roumain を知る。haiti系のartist、violinistである。坂本龍一とのthe need to beを聴く。美しい力強さだ。美しい生の力だ。魂と身体の襞に入り込み、エネルギーを送る音楽だ。しばらくぶりの日記記入だが、前と同じやり方ではphotoをアップできず、断念する。iTunesで全曲プレビューを楽しむ。断片の楽しみ。様々な音楽を聴き始めた頃のラジオ体験にやや似ている。くり返される言表。言表行為。くり返されるからといって、何度も熟考された結果とは限らない。あらゆる角度から考えられたことを証すものでもない。決まり文句、思考停止、紋切り型。雨上がりの朝。雨を落とした雲が消え失せた後の青空。数多くの小鳥が好きずきに鳴き、道路の端あるいは亀裂から雑草が背を伸ばして行く。一週間前に刈った草の枯れ後から、無数の新しい雑草が生長している。雑草にはかなわない。朝とともに腹式呼吸をする。世界の中での単体ではあり得ず、複合体、組織しかなく、それこそが世界であるならば、考え方や行動の仕方は自ずから変わってくる。夢の中の性的欲望。といっても、それは多数多様、可変的、可塑的である。DJ Spookyのalbumの全曲プレビュー。彼は何ものなのだ。伊藤計劃の「虐殺器官」を読む。ひとつのフレーズ、ひとつの息、ひとつの風、ひとつの音、ひとつの接触、ひとつの表情、ひとつの声、ひとつの考え。「ひとつの」が濃厚で強度な時空をつくることがある。
2010.06.25
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いつもよりもゆったりとしていて、TVのニュースを見た。事実の伝達というよりは、単純な意見、単純な解釈がただ流れているように思えた。単純な。つまり批判性がなく。ニーチェが「事実などない。ただ解釈があるだけだ」と言った。ゴダールが「正しい映像などない。ただ一つの或る映像があるだけだ」と言った。それらは絶対的な哲学ではないかもしれないが、しかし、ある行為(ニュースを流す)はある哲学を有する以上、自分の哲学と異なる哲学を意識したり、比較したり、その問いかけに答えたりするのが、人生の誠実さというものではないだろうか。単純な意見、単純な解釈。それは批判に見えた。だれの批判なのか。そのだれとは、どんなだれなのか。だれかに向けた批判のようだが、そのだれでいいのか。だれ。そこに選択がある。その選別を批判しなくてよいのか。そして、批判だとして、どんな批判なのか。否定に過ぎない批判なのか。だとすれば、それは容易い。批判は創造であり、否定は肯定するべき何かのための破壊ではないのか。反動や否定ばかり増殖しても、いかがなものか。しかし無論、私のブログのこれらのことばも、だれに向けてかわからないものである。単に日記に書きいかなる他者にも見せないことと、こうして不特定の、予想のつかないだれかに向けてことばを綴ることとのちょっとした差を楽しんではいるのだが、時々。
2010.05.08
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遠くの山々はまだ真っ白に見える。冬の時をたたえている。ハクセキレイたちが飛び立つ。春の時が流れる。同じ女の夢を見て、己にあきれる。バッハのあとに、相対性理論を聴く。許されない快楽に身を委ねているように感じる。ドビュッシーのあとに、青春時代の歌を聴く。センチメンタルな感情をもてあそび、苦笑い。日々の生の充実を笑い、ますますなくなっていく金に頭を痛める。毎朝の川上弘美にじんときて、川上未映子のエクリチュールの快感を楽しむ。どんなに変わっても村上龍は趣味だが、村上春樹は代わり映えがなく読む気にならない。これらの文の前後を入れ替えることに何の問題もない。今日は4月20日。
2010.04.20
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音の分子たちが好き勝手に騒いでいる。ピアノ曲の分子たちも静かに鳴っているが、アップテンポの曲、歌える曲の分子たちが騒ぎを止めない。サビをくり返す。ことばの分子たち、感情や欲望の分子たち、知覚の分子たちも然り。生活の規則性を打ち破り、私は落ち着かない。いくら話しても、ことばは満足しない。むしろ、放たれたことばが自己触発し、さらに増殖する。感情やら欲望やらもこみ上げて来て、私は駆り立てられている。喜怒哀楽が競り合う。外に出れば、春の青さが私を包み、小鳥の鳴き声や湖面のきらめく光がアクセントをつける知覚の時空がめくるめき、溺れてしまう。絵を見れば落ち着くかと思うと、クレーの線と色彩がいつまでも踊り続ける。ああ、多幸症的な四月よ。何のせいかは知らないが、仕方ない。過剰な分子たちとともに、幸福を享受するか。
2010.04.04
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温泉に入る。何日か続けて入る。若い時に三宅島で4、5日続けて入ったことがあった。それは人生で初めての体験だった。三宅島旅行は笑う程ハードで、肉体の酷使と精神の躍動を楽しんだ。温泉は、自転車による島一周、登山による疲れを癒してくれた。再生してくれた。温泉の効果というものを初めて知った。それは例外的な体験であり、若い時は、癒しとか、温泉、グルメ、お洒落、釣り、ペット、式典などを軽蔑していた。今思うと様々なものを一緒くたにして馬鹿にし、近寄らなかった。それはほぼ徹底していた。今は温泉を楽しんでいる。しかし続けて入るとやや飽きる。飽きるがそれもまた楽しめる。修行のようにも思えるが、と言っても過酷なものではない。一年程前は、温泉に入ると、硬さがとれ、凝りがほぐれ、こだわりがなくなって終わりだった。イライラやカリカリの対象がどうでもよいことになった。今は、温泉に入ると、ある種の瞑想状態になる。ランニングでの瞑想、ヨガでの瞑想、トイレでの瞑想、音楽を聴きながらの瞑想、珈琲を飲んでの瞑想、時と場所を選ばず訪れる瞑想などとはまた違う。まあ、瞑想ということばは大げさかもしれないが、ある種の精神の集中、身体の落ち着きがあり、ことばの運動がある。ことばは現れたり消えたりし、それは「有」と「無」の二元論に収まらず、様々な状態になる。生成変化し、より潜勢的になったり、より現勢的になったりする。無限とは言わないが、方向は定め難い。以前は温泉ではむしろ言葉は消え失せたのだが、今は、言葉の運動が刺激的で「覚えておいて温泉から出たらメモしよう」ということも結構ある。しかし、まるで夢のあとのように思い出せない言葉、考えも多い。まあ、こんなものかもしれない。季節はよく言われるように、冬と春の間を行きつ戻りつしている。小鳥たちが少しずつ戻って来ている。それはうれしいことだ。
2010.03.23
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一方で、残さぬために打つ。残さぬために発する。とどまらないために。沈殿、沈潜しないために。くぐりぬけるために。先に進むために。とらわれないために。新しくなるために。忘れるために。解き放つために。意識から追いやるために。無意識的な力を取り戻すために。一方で、あるいはほとんど全てにおいて。他方、拾い上げ、つなけ、確かめるために。忘れないように。ニーチェ、ベルクソン、ドゥルーズ、D&G、スピノザ、道元。蓮實重彦。プルースト、ランボー、ヘンリー・ミラー。井上陽水、かぐや姫、チューリップ、オフコース。RCサクセション。ビートルズ、ジョン。グールド。佐野元春。坂本龍一。ゴダール、トリュフォー、イーストウッド、松田優作、ヴィクトル・エリセ、レオ・カラックス、ジム・ジャームッシュ。U2。谷川俊太郎。ブラック、マチス、ピカソ、セザンヌ、モネ。デルピエロ、中田、メッシ。
2010.03.04
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恋と愛とは異なる。恋、人を好きになるとは何か。熱っぽくなる。喉が渇く。近づきたいが近づけない。近づけないが近づきたい。会いたい。毎日でも、一日に何度でも会いたい。存在の重心が腹からずっと上の方へ上がってくる。聴く音楽の全てがラブソングになる。見る景色の全てが、バラ色、ピンク色、クリーム色、明るく温かい色に染まっている。その人が元気でいてほしい、楽しんでほしい、幸せであってほしいと願う。微笑めば、私のために微笑んでいると思う。ロラン・バルトが「恋する身体」について、何を言っていたか、「バルトによるバルト」を読みたくなる。
2010.01.25
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数ヶ月振りにヨガ教室へ行く。ヨガ。一人で部屋で行うことと、だれかと一緒に別な場所で行うことは決定的に異なる。流れる音楽は、ヨガに最高に合ったものに感じる。漂う香りは、ヨガに最高に合ったものに感じる。新しいもの、日常にないものが、自分に合ったものになる。先生の声、一緒に行う人たちとの組み合わせは最高のものである。最初は緊張する。視線は戸惑い、呼吸はリズミカルではなく、あちこちに力が入っている。意識が身体の動きをじゃまする。しかし、屍のポーズにより、ゼロ地点に落ち着くみたいだ。死ぬのだ。死ぬ。習慣が死ぬ。意識が死ぬ。雑念が死んでいく。屍になる。何も出来ないが、何かを始める潜在性を有する身体になる。一つの肉体になる。あるいは、力そのものになる。あるいは、気の流れそのものになる。あるいは、呼吸そのものになる。力の配分しかない。差異を孕んだ一つの肉の塊でしかない。魚になり、鋤になり、雑多なもの、混濁したもの、毒が液体となって流れていく。水にとけ込んで、水に押し流されて、流れていくよ。純粋になるが、多様である。シンプルであるが、豊かである。ヨガ前後で、世界は違っている。スピノザ=D・Gは正しい。「人は己の身体が何をなしうるか、知らない」高木正勝のeatingとsoratoを繰り返し聴く。you tubeで映像を見る。これまで知らなかったことが不思議である。この美しさは何なのだろう。坂本、alva noto、fenneszに加わったのである。
2010.01.22
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夕方、走る。いつものコースを走る。昭和新山と有珠山に背を向けて走る。沈み行く太陽に背を向けて走る。背中で昭和新山、有珠山、太陽の存在を感じる。どこに巣があり、どうやって寒さをしのいでいるのか、何羽かの小鳥の鳴き声を近くで、また遠くで聞く。風の音もある。雪道を踏む音に混じる。太陽の沈み行く西の方、正確な方角はわからないが、その方は黄色、オレンジ、金色と呼ぶしかない色合いだ。その反対側の東の方は、ピンク、赤紫と呼ぶことになる。どちらも刻々と色合いや色の広がりを変えて行く。寄る辺のなさ、頼りのなさ、儚さを感じなくもない。弱々しい印象である。しかし、それはそれで趣きがある。こうして、寒い外に自分の存在をさらすのは好きだ。写真に撮る訳でもなく、録音する訳でもなく、ただただ光や音の趣きを味わう。パソコンだとか、CDだとか、テレビとかいったものの貧しさを思う。もちろん、貧しいからダメだというのではない。貧しさゆえの工夫、現実を捨象したもの、狭い条件ゆえに見えてくるものもある。MacBookも安CDラジオも愛している。しかし、自分の身体全体をさらして何かを受け止めることの素晴らしさにはどこかでかなわないのではないだろうか。映画館と比べた時のDVD鑑賞、コンサートに比べた部屋での音楽鑑賞、美術館に比べた画集。もちろん、後者には後者の楽しみ、喜びがあるのだが。中3の時、生徒会室で聴いた彼女の歌声に、ぼくの心、存在全体が爆発、噴火、燃焼してしまいそうだった。20歳の時の、名曲喫茶で聴いたグールドのゴルトベルク変奏曲。フィルムコンサートで聴いた/観たグールドのパルティータ第二番。25歳のヨーロッパ旅行の時の、ブリュッセルのどこかの広場で聴いたsound of silence。オルセーで観たニジンスキーの踊り。ポンピドゥーのブラック。28歳の旅行の時のジャコメッティ展。そう言いながら、iTunesで高木正勝、healing dolphinを購入。バッハ、ドビュッシー、坂本を交互に聴いている。ランニングとヨガを復活させ、肩こりはほぼとれた。やはりマッサージを受けるよりもよい。
2010.01.17
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優しさとは何か。他者の欲望を優先するのは優しさか。では、私は優しくはない。他者の欲望を優先することを欲望するとしても、それが優しさとは思えない。強く言わないのは優しさ故でない、ということは十分あり得る。自分のものではない非がある時、強く言えない。自分の非がある時も強く言えない。それは優しさではない。非を認め、それを正すことができるなら、強く言いたくない。しかしだ、もし私が自分がかわいくて強く言わないならば、それは間違っている。弱い故の優しさはいらない。共にいたいという愛組み込み、組み合いたいという愛何か新しいもの、何かより大きなもの、何か楽しいものを共につくりたいという欲望のみそれを妨げるものを激しく憎み、強く怒り、破壊したいのだ2009年11月11日の昭和新山。
2009.12.08
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土日もしっかりと仕事をしたのは久しぶりだ。しかし、家に帰れば自由に時間が使えるからよい。堤幸彦の「自虐日記」と黒沢清の「DOOR?」を観た。どちらも面白かった。堤監督のは、まあよくできている。中谷美紀もよい。「カオス」も「ゼロの焦点」もよい。黒沢清はこわい。笑えるがこわい。こわいが笑える。ドラッカーの組織マネジメント論には共感する。坂本龍一の「音楽図鑑」を購入。二十数年振りに聴く。「羽の林で」が好きだ。坂本龍一セレクトのグールド・バッハを購入。ほとんど聴いてこなかったピアノ協奏曲が素晴らしい。こうした聴き方も楽しい。ドゥルーズ=ガタリの交差的評伝を読み続ける。訳にはやや違和感があるが、内容的にはおもしろい。川上未映子の「世界クッキー」を読了。この人の文章にはまっている。小説ももう一度読もうかな。欧州サッカーを観れないが、you tubeのニュースで観る。ユーヴェがインテルに勝ったのはうれしい。土曜にカレーを作る習慣ができつつある。イタリアンカボチャであるバターナッツの甘さとカレーの辛さが合っている。
2009.12.06
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借りている部屋は寒い。安いが寒い。築10年は新しい。見た目はよい。安いから贅沢は言えないのだろう。だが寒い。数年前に調べたらしい。断熱材がきちんと入っていなくて欠陥住宅との診断。どうにもならない。3LDKに独りで住んでいる。居間にストーブがあり、戸は締めているが寒い。12月1日で寒い。ストーブを微少から少に変えても、室温が15℃を超えない。上も下も重ね着をし、寒くなったら身体を動かして乗り切ろうとしているが、限界があるかも。しかし、この状況を楽しんでいる面もある。当たり前に暖かい、当たり前に快適、当たり前に便利、これにすっかり慣れてしまっていたが、その慣れはどこかで人をやわにしているかと思うと、楽しめる。横浜の学生時代、朝起きて吐く息は白かったじゃないか。焼酎に目覚め、今日も宮崎の焼酎。一杯で気持ちよく酔い、音楽と本を楽しむ。文章を打ち、軽い仕事をする。楽しい。今日は他人の事務仕事のまずさに不満を持っていた。事務仕事を侮るなよ。やるなら気持ちを込めろよ。その気持ちを味わい楽しもうよ。それと案を立てろ。「皆さんの意見を聞いて決めます」が民主的な装いの裏の責任逃れでしかないこともあり、それは時間を無駄にする。立てろ、主張せよ。
2009.12.01
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嘆かない。舌打ちをしない。振り向かない。留まらない。期待しない。失望しない。同じものを反復しない。同じことの悪循環にはまらない。できないことにこだわらない。ネガティヴな感情を振り払うためのアクション。行動あるのみ。動かなくても行動。世界は自分を中心には回らない。世界はシナリオ通りにはならない。努力が報われるとは限らない。自然とわかってくれることもなければ、努力してもわかってくれるとは限らない。過去は変えられない。全てを管理できない。論理以外のファクターが必ず入ってくる。幸運ばかりではない。幸福ばかりではない。楽に生きられる訳ではない。常に快適ではない。私とだれかはイコールではない。私は常に私とイコールではない。逃げたくても逃げられない状況、深い、深い絶望。それを経験すればこう考えざるを得なくなる。まあ、他人が同じようにするとは限らないが、考えを語ってみるしかない。できることをやり、走って、走って、できるだけ愛に生きたいのだから。嘆き悲しむのではなく、愛だけに生きたいのだから。4月から、かつてないほど多くの音楽を、独りで聴いた。今、静寂が訪れている。微かに、でも確かに鳴り響く音楽。静かなる反響のなかに、私はいる。4月から、私の眼を満たした多くの光。travellerとして、visitorとして、私は歩いて行く。
2009.11.30
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振り返る。11月は7日の出張、土曜の行事2つ。10月は10日の出張、土曜の行事2つ。落ち着いてはいたが落ち着かないスケジュールだった。楽しいことも収穫も多々あったが、家にゆっくりいたことがなく、少し家でゆっくりしたかった。この土日は自由に時間管理できた。だからと言って自由かどうかは別問題だが。3時間ずつ職場へ行ったが、大した仕事量ではない。であるが、まだ片付かない。片付くことが究極目的ではないが、片付かないと攻めて行けないという面もある。と言っても、相変わらず攻めの姿勢ではある。それは隠していない。がまんしてもいない。調整も交渉も譲歩もするが、攻めてはいる。そのことに対する満足はある。昨日は掃除した。掃除は気持ちよい。ガス台の汚れもとった。たまっていた洗濯もした。すっきりする。考えれば大した時間を使う訳ではないのだが、大きな仕事をした満足感がある。大した時間さえなかったのだろう。土日と二日続けてランニングした。特に今日は初冬の空の青の独特さや落ちてくる太陽の金色の光を味わった。あれだけいた雀たちやセキレイはどこへ行ったのだろう。今はカラスばかりだ。家で風呂に入るようになった。熱めに作っておけば、すぐ寒くなる浴室・浴槽も使える。もっとも、気合いを入れてシャワーで済ますこともある。今日は久しぶりに洞爺湖温泉へ行った。雑誌HOを使えば、無料で5カ所入れる。なんてお得なんだろう。車で湖畔に出たのは4時近かった。穏やかで、柔らかい金色の光があった。谷川俊太郎の詩、川上未映子のエッセー、D=G(ドゥルーズ・ガタリ)の「交差的評伝」、ドラッカーの読書を楽しんでいる。昨日は井上雄彦の「リアル」9巻も読んだ。いつも感動する。矢沢永吉の「Are you happy?」も読んだ。歌が聴きたくなる。「成り上がり」は何度も読んだ。堤幸彦の「恋愛寫眞」を観た。美しい写真がいくつもあった。若者の恋愛が懐かしかった。内容のせいか、写真の特質なのか、感傷的になった。二十年以上も前のいくつかの写真を思い出した。宝物。離れていたときも、毎日のように会っていたときも、写真は大切なものだった。写真によって変わらないものを求め、変わらないものを確かめていたのか。変わらないものの多数多様性を愛撫していたのか。もう捨ててしまったあれらの写真。広末涼子は素晴らしい。というか好きだ。「ゼロの焦点」も観た。映画としてもまずまずだった。中谷、木村、広末の3人の女性がよかった。焼酎に突如目覚めた。先日勧められて飲んだ「あおかげ」「あかかげ」「明るい農村」にまいった。家では飲まない私が、焼酎を買い、先週はほぼ毎日飲んだ。おいしい。you tubeで昨日、山本達彦や初期のチューリップの曲を聴き、歌った。いい歌だ。再び、10月の写真を見る。今朝は日曜美術館でセベスチャン・サルガドの写真を観た。本物の写真だ。本物の人間、本物の自然が映っていた。
2009.11.29
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サイズを変えて反復する。圧倒する美。混乱、混沌。記憶喪失、意識錯乱。引き裂かれ、同一性を破壊し、酔い痴れる。
2009.11.13
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三枚一組で。今日思い出した曲は「羽の林で」。
2009.11.12
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セザンヌを探し求めて。
2009.11.11
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林の中で
2009.11.10
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過ぎて行く時間を惜しんでいる場合でもない。秋の感傷に浸っている暇もない。しかし、10月24日の映像を見る。人の住まぬ場所、人のいない場所。日々の暮らしの中で、区分けされていく空間。同一化されていく諸々。それを揺さぶるために。
2009.11.09
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秋の季節が急いで過ぎていく。10月24日の映像の中におぼれる。山々は、木々は、日ごとに変化している。つくられた道の歩みを想う。今日は夕闇の中、走った。りんごの爽やかな香りが漂っていた。
2009.11.08
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初雪が降り、有珠山も雪化粧だ。アエラ表紙の広末涼子が美しい。ジョン・カサヴェテスのグロリアを見た。吹き替えでも、ズタズタでも、テレビでも、それでもいいものはいい。スティーヴ・ライヒ、パット・メセニー、坂本で過ごす休日。10月24日の写真を見る。
2009.11.03
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土曜の朝。夜の雨の跡がある。秋の早朝の陽光が眩しい。たまった何かを吐き出すようにして走る。何かを振り切るようにして走る。bowieのmodern loveを叫びながら走る。変化の欲望に取り憑かれて走る。時間をかき回したくて走る。回転の速度を上げたくて走る。刻々と光が変わるのがわかる。全ての瞬間は一度きりで、そして永遠だとわかる。今ここにないものとつながりたくて走る。何もかもさらけ出したくて走る。刻々と木々の葉は色を変えるのだ。壮瞥の滝、水の流れにたどりつく。人知れず、町の中心の静寂に住む小鳥と合図を交わす。滝の流れの精気を吸い込む。マネジメントできない自然があり、私がいる。
2009.10.25
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9月の朝の空。私は何を想っていたのだろうか。時の過ぎ行くのは速い。いつものことだが。今はもう10月の半ば。作物は刈り取られ、雨は冷たく、肌寒い風が吹く。虫の声はか細くなり、鳥たちもより遠いところで鳴いている。
2009.10.13
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ある感情から離れていきたい。あるイメージから離れていきたい。ある観念から離れていきたい。離れるために線を引く。ただそれだけ。でも必要。書こうとすると、遠く過ぎ去っていることが多い。すでに遅れてしまっていることが多い。だが、書くことによって、時間の直線性を撹乱することができる。それでよい。くだらない出張やくだらない仕事。だが、くだらないものをそうでなくすることは私に与えられた一つの仕事かもしれない。喜怒哀楽。「哀」は私には無縁だと思っていたが、そうでもなかった。時間的な距離や空間的な距離は、何か別なことを考えさせる。それによって救われることも少なくない。ヨガによる身体と魂の探求は新たな発見の喜びに満ちている。メールの整理やネットサーフィンで貴重な時間をつぶしてることも少なくない。安売りに群がる人の顔を美しいと思うことは決してない。なぜだろう。よく働き、よく運動していても、夢ばかりで浅い睡眠のこともある。読み書きすることばには引用が多い。起源ではなくすでに反復かもしれないが、とにかくあるものの引用なのだ。知らずに引用することもあるが、どこからの引用なのか、ある程度明確にする必要がある。オリジナルという錯覚、あるいは「常識」という錯覚に陥ることが少なくないからだ。引用だとわかっているならば、なおのこと、それを明らかにするべきだ。知的誠実の問題である。人は全てのテーマについてコメントできる訳ではない。全ての人と話せる訳ではない。神は細部に宿ると言う。愛は細部に宿ると言う。その時、その「部」は、全体の部分ではなく、一つの特異な断片、全体化しない断片、純粋な断片である。そこに、年齢や一般的な名称、社会的な肩書きはない。最近聴いていた音楽。1位 坂本龍一 2位 fennesz 3位 忌野清志郎 4位 pat metheny 5位 bonnie pink最近読んでいた本。1位 ドラッカー 2位 谷川俊太郎 3位 糸井重里旅先では、したいことはただちにするべきだ。明日などあてにできない。楽しみを先送りなどできない。旅先では。美しい写真は、そのうち飽きるものだろうか。美しい絵は、何十年見ても飽きないが。それともその写真の美しさが本物ではないということか。美しさに本物と偽物があるのか。佐野元春にsomedayという曲がある。「信じる心 いつまでも」がサビのフレーズだ。信じるとは、希望を持つということか。信じるとは、肯定し、強度を増すことか。信じるとは、共に生きることか。信じるためには、歌うしかないし、歩くしかないし、書くしかないし、話すしかない。生きるしかない。口ずさむ曲。元春なら「情けない週末」と「ハートビート」が最も多いだろう。「アンジェリーナ」も。RCなら「スローバラード」と「多摩蘭坂」か。なぜか、山本龍彦の「太陽がいっぱい」も多い。
2009.10.12
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夜を見て朝を見る終わりと始まりが飽きることなくくり返される夜に終わり始まるもの朝に終わり始まるもの太陽から月へと私は流れる朝の露で草は白く光り朝靄は山の谷間で休む君を忘れている数え切れない星たちを数えられない闇が包み隠すものを風はほのめかす時が高速で過ぎ去る
2009.09.02
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一つの風でぼくはもう遠くにいる一つの音でぼくはもう遠くにいる一つの光でぼくはもう遠くにいる生まれ変わり なくなり いまここにある忘却と想起が乱舞している迷うことなく時の歌を奏でる小鳥たち探しながら見つけている探しながら歌っている探しながら聴いている子どものように放たれて秋の虫のように草陰に隠れぼくはひとつかみの時を愛するのみそれでもぼくは立っているのだそれでもぼくは笑っているのだそれでもぼくは走っているのだ止まるのが嫌いだから生きるのを愛するから
2009.09.01
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一つとして同じ時はなく、一つの時はとらえがたく多様で過ぎ行く。多数の時の間に無数の線が引かれ、その速度は均一ではない。時は過ぎるし、時は落ちる。時は降りるし、時は失せる。時は現れ、時は消える。時とともに呼吸し、時とともにダンスする。時に身体と心を寄り添わせ、生の豊かさに酔う。つなぐ。バラバラなものをつなぐ。バラバラになってしまったものをつなぐ。一体とはならない。違うままだ。soloであるが、共に奏でる。それぞれのリズムを刻みながら、一つの呼吸を生きる。私の中にもつなぐ多くのものがあり、私には多くのつなぐ外がある。所有はしない。固定はできない。ただ何度もつなぐだけ。何度も鳥や虫の声に耳を澄ますように。つなぐ時、それは近くにある。近くにあると、遠さを感じる。慎ましい近さであり、親しい遠さである。
2009.08.30
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日が長く、午後の6時を過ぎても、太陽はまだ小山の上にある。鳥たちはいつ鳴くのをやめるのだろうか。いつ眠りにつくのだろうか。人よりも鳥の数の方が多く、世界が人間のものとは思えない。鳥たちの飛ぶ線は、言うまでもなく直線的ではない。速度も変化させる。直線でないものは、自由である。整数で表される規則性のないものは、自由である。走れば、水田に映る空も走る。落ちていく陽の光も走り、慎ましく光る雲も走る。大気は静まり、一日の疲れを自ら癒し、自ら回復を図り、明日に備え始めているようだ。清いものも汚れたものも、自然にあるものも人が作り出したものも、全てが割合もわからずに混じり合っている。確かに、走り続けることだけが希望である。歩き続けることだけが希望である。歌い続け、動き続けることだけが希望である。希望が存在しないのは、とてもつらいことである。だから希望を存在させるように、動く。あるいは、独楽が回り続けるように。
2009.06.21
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「ドッペルゲンガー」を観た。恐るべし黒沢清。分身と一つになる時、名状しがたい欲望が、抑え難い暴力が、世界を引きずり回す。
2009.06.15
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二週間ほど走り、走る身体に少しずつなってきた。走る感覚、走りのリズムが蘇って来た。少しずつではあるが、大きな変化でもあり、身体の偉大さに感謝する。昭和新山に背を向けて走り出し、折り返して、昭和新山を目当てに走る。気がつけば、上部を支えるのは濃い緑だ。濃い緑の台形状の山から、赤茶けた岩の固まりが突き出している。山の意志を感じる。くすんではいるが、血のような何かが流れていることを示す色だ。友であると同時に、非人間的な屹立である。距離を示すとともに、共存を拒みはしない。植物が茂っている。麦であれ、雑草であれ。まだ小さいが稲も日ごとに伸びている。ガードレールから車道に大きくはみ出した雑草。背丈よりも高い雑草。生えて育ち、いつか枯れるだけではあるが、自らの生命を全うし、生のサイクルを誇らしく繰り返す雑草。雑草も好きだ。走る。腹で走るのだ。背骨で走るのだ。身体の奥の筋肉で走るのだ。
2009.06.14
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鴻上尚史の「僕たちの好きだった革命」を観た。だて歴史の杜カルチャーセンターにて。札幌より格安料金、なんと3,000円。演劇は何年振りか。このような演劇は10年振りか。期待以上だった。楽しみにしてはいたが、軽いノリだった。実際に観て、実に楽しかった。役者がよかった。舞台転換がおもしろかった。舞台の人の動きと映像、音の組み合わせがおもしろかった。音楽もよかった。GAKUのラップも、中村雅俊の「私たちの望むものは」もよかった。片瀬那奈がきれいだった。本当に楽しかった。余韻に浸っていて、それはまだまだ続きそうだ。身体も心も熱くなっている。また観たい。鴻上尚史だからおもしろいのかわからないが、また観たい。生って、いい。ライブって、いい。生身の人間って、おもしろい。坂本龍一のコンサート、イーストウッドのグラン・トリノ、川上弘美の「夜の公園」、バルサの優勝、そして今日の演劇。人生、楽しい。
2009.06.11
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朝は鳥たちが狂い鳴く昼はハルゼミが狂い鳴く夜はカエルが狂い鳴く狂気は自然の豊かさ過剰は自然の豊かさ人はどうか昭和新山にあたる朝の陽光の変化を楽しみある日の洞爺湖の静かな水面を思いながら、走る
2009.06.10
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目を開くならば、ちゃんと何かが見えるだろう。耳を開くならば、ちゃんと何かが聞こえるだろう。直線から外れ、等質の時間から起き上がるならば、ちゃんと考えることができる。行き来する時は、三階滝に必ず立ち寄る。とても強い「気」を感じる。車を降りた時から、違う次元に入る。肌がざわざわし、細胞がたちまち活性化する。神としての自然を感じる。甘い甘い水を飲む。どんなご馳走よりも、うまい。温泉に入る。身体や心のこわばりが、消えていく。身体も心も溶ける。閾値を超えると、ある点を超えると、色々なことがどうでもよくなる。放棄するとか無視するとかいうことではなく、新たに関われるようになるということ。解決するのではなく、解き放つことができるようになる。そもそも解決など一時的なものでしかない、解くことや放つこと、折り畳むことや繰り広げることしかできない。それをどうやるか、でしかない。私は固体なのだろうか。固体として、世界にどうぶつかるか。固体である喜びと、固体である困難がある。私は液体なのだろうか。液体として、世界へどう流れるのか。液体である楽しみと、液体である困難がある。私は気体なのだろうか。気体として、世界とどうあるのか。気体である幸せと、気体である困難がある。
2009.06.07
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札幌では、時々、夜のランナーを見かけた。9時や10時、12時にもランナーはいて、「どうして夜走れるのか」「どんな一日を送っているのか」と不思議に思っていた。昨夜、走った。夜走ったのはいつ以来か、思い出せない。寝不足が続いたのに、不思議なことだ。仕事から帰り、すぐに食事の準備に取りかかってもよかったのに、不思議だ。今すぐ走りたい、という欲求を抑えることができなかった。朝走りたいのだが、なかなか走れなかった。5時には起きるが、出勤するまでのおよそ2時間は、心や身体を整える時間、その日一日に向うエネルギーを確かめる時間、考えや感情を整理し、リズムを作り出す時間で、二ヶ月間、1、2回しか走れなかった。昨日は突然だった。夜の中、カエルの大合唱が鳴り響く中へと飛び出した。人一人、車一台通らない農道を走る。ぽつぽつと灯る光をあてにして走る。何匹いるのか全く見当もつかないカエルの鳴き声に、時々農業用水の流れる音が混じる。夜走ったことと、先週の有珠山の写真と関係づけることができないが。藤本健二の『核と女を愛した将軍様』を読む。坂本龍一のsweet revengeを朝聴く。システムエラーで写真を読み込めなくなったので、やめる。
2009.06.05
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時は矢。書く時には過ぎ去っている。現在進行形で考えるが、現在進行形で書くことはない。川上弘美の「夜の公園」「センセイと鞄」、山田ズーニーの「大人の小論文教室」、井上雄彦「バガボンド30」を読んだ。谷川俊太郎の詩集と「質問箱」、忌野清志郎の「瀕死の双六問屋」、ガスケの「セザンヌ」を読んでいる。セザンヌ。坂本龍一、U2、boston、brian eno、mozart、そしてRCサクセションを聴いている。桜の季節は終わりつつある。緑が氾濫している。緑の無限のヴァリエーション。一つひとつに名前を与えたい。一つひとつの名を呼びたい。車で走りながら、緑の混沌に飛び込んでいく。混沌をことばの流れでかき混ぜる。緑になる。帰宅し、エンジンを止め、車のドアを開けると、鳥の鳴き声が待っていた。今もそうだ。人間の音楽か、鳥の音楽か。常に選択がある。
2009.06.01
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三階滝。自然の気、自然のエネルギーに満ちた場所。とても強いエネルギーに圧倒される。水を飲む。こんなにおいしい水を飲んだことがあっただろうか、というぐらい。身体全体に強いエネルギーが入る。全ての細胞が驚くほど、おいしい。
2009.05.19
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10-0でなければならないこともある。8-2でよいこともある。そうかと思うと、3-7でよいこともある。いや、0-10でもよいことがあるかもしれない。だからといって、何―何になっているかを考えないのは絶対にだめだと思う。6-4なのか、2-8なのかを見極める力、評価する力が大切である。風の音だ風が木々を揺らし風が家々を揺らし水の音だ水が生き物を濡らし水が岩土を濡らし何もかもが光に射抜かれ何もかもが静かなる歌を遊ぶ気と気が交わり液と液が交わり物体と物体が交わる色と色が交わり音と音が交わり物体と物体が交わる解体に次ぐ解体誕生に次ぐ誕生動きそのもの沈黙に次ぐ沈黙音楽に次ぐ音楽動きそのもの愛ということばが今使えないともにいるかいないか、ただそれだけ
2009.05.16
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さよならさよならしたさよならしたかったさよならしたかっただけではないけれどさよならしたからさよならさよならはさよならでそれいじょうのものはないさよならときえたさよならとわすれたさよならがくりかえされてもさよならはさよなら天の気が変わる人の気も変わる太陽が照るのだ風が冷たいのだ雲は流れ鳥が鳴く空の青さを見た流れの速さを見た時間があった天の気も変わる人の気も変わる季節がめぐり場所は移ろうことばになるものもならないものも沈黙もざわめきも変わるものは変わるにぎやかな緑を吸い込み花の赤いつぼみを抱きしめる仕事のほとんどは整理である。分類である。順位をつけることである。交通整理。全体を見ないと整理できないが、枝葉も見ていないと、見当違いの樹に寄りかかっていることもある。思考の力は、整理や編集、組み合わせに費やされるのだが、全体を構成する部分、切り離された純粋なパーツのことを考えないとつまらぬ全体しかできないこともある。
2009.05.15
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町にJRの駅はないが、隣接する市の駅まで、車で15分である。ここは農村、「田舎」であるが、車で15分走れば、生活に必要なものはそろう。何の不自由もない。15年振りに自然に囲まれている。常に山とともにあり、見えずとも洞爺湖の存在を感じる。川が流れ、常に鳥の歌声が聞こえる。鳥の名前、木の名前を覚えたいという欲求はなかなか満たされない。電話とネットがつながるのに時間がかかったし、3月末の話との食い違いがあり、ややもめた。仕事は平日は12~13時間労働である。土日の余裕ができた。GWは、社会人になってから初めて経験した。ひと月半の間で、暖かくなり、雪が消えて行き、緑が広がり、桜が咲き、散った。昭和新山と有珠山は、見て飽きることはない。6,000円のCDラジオを購入し、坂本とRCを順番に聴いている。
2009.05.14
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昭和新山や有珠山。立ち上る煙。地球は生きている。変化。3月までとは違う。3月までからの距離。3月までの人々との距離。3月までの生活との距離。3月までの記憶との距離。3月までの趣味との距離。3月までの自分との距離。距離ができ、関係が変化する。新たなものに囲まれ、新たな人になり、諸々の関係が変化した。独りの時間が長くなった。
2009.05.13
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新生活。単身ライフ。人や様々なモノとの距離の変化。感覚、欲望、行動の変化。私はここにいる。
2009.05.12
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いわゆるヴァーチャルな空間に、自分のことばなり、写真を走らせてみたかった。それは実験でもあり、ある必要に迫られるかのようにしたことでもあった。だれが目にするのか、ほぼわからない空間。自分のために、打つ。それは、メモ帳や日記帳に書くのとは違っていた。職場や飲み屋、家庭で話すのとは違っていた。その状況に変化が起きてきたのだと思う。とりあえずわかっていることは、四月からここにいないということ。しばらく欧州サッカーを観ることもないだろう。音楽や書物への購買意欲が突如なくなり、今はまず整理することを考えている。スリムになること。身軽になること。捨ててみる。置き去りにする。全く新しい環境の中で、また始めてみる。いくつかの困難は認識しているが、困難があるからわるいのではない。困難にうまく対応できるかどうか。したたかにやれるかどうか。問題はそこにある。ネット環境は必要なので、またこうしてことばを放つことは可能だが、そうするかどうかはわからない。JRの駅のないところへと、15年振りに赴く。
2009.02.05
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ジュリアン・シュナーベルの「ルー・リード ベルリン」を観た。クールで渋い、ルー。欲望と背徳の物語。キャロラインとジム。人物を造形する力。アルコール、ドラッグ、セックス、暴力...苦悩、虚無、絶望の物語が、ロックンロールの力と組み合わさり、世界を揺さぶる。空間にひびを入れ、歪め、方向を狂わせる。ステージの装置とエマニュエル・セニエの映像が、ルーの音楽をさらに強度で多様なものとする。ルーはロックンロールの詩人だ。破綻した人生の物語の流れと、ルーの音楽。音楽とことばの多様な関係。合わさり、離れる。つながり、引き裂く。時に美しく、時に暴力的。熱く、冷めている。絶望的だが、光もある。
2009.01.06
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glenn gould a journey to the polar north / ryuici sakamoto selections昨日amazonから届く。大晦日、元旦と、これで決まり。2枚組2,835は安い。お得である。バッハは入れないというユニークな方針。録音年順。私の好きなベートーヴェンの第30番から始まり、二十年振りのシューマンのピアノ四重奏曲を経て、締めはマルチェルロのバッハ編曲。盛りだくさんである。ウェーベルン、バード、スクリャービン、グリーグ、シベリウス、ヒンデミットといった、私があまり聴いてこなかった曲も聴ける。昨日までドゥルーズやスピノザを読んでいたが、2008年の最後の夜は、マティスとモランディを眺めていた。マティス。奇妙な人やモノ。塗り直し。線。配列も奇妙。ピカソやブラックであれば、ある方針に沿って絵は完成されている。が、マティスは絵の完成に関心がないみたいだ。複数のアイディアを何も恐れず一枚の絵につぎ込む。異なるモノが組み合っている。過剰だ。真の過激がここにある。不調和の調和。あるいは調和と不調和を超えた調和。
2009.01.01
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