全1067件 (1067件中 1-50件目)
名声というゴールを目指して、成功を追いかけ続けるのも、覚醒というエサをゴールにして、ジーバンムクタを目指してサダナをし続けるのも、もとのもとより、安住の中である。お金であれ、名声であれ、快楽あふれる生活であれ覚醒であれ癒しであれ許しであれ外にゴールを求めるのは、自慰をし続ける哀れなサルそのものであると同時に、その中にすでに光は満ちみちているから。何をなすべきかは、外になく、内から内発的に、湧き出て導かれるものである。
2013.03.20
純粋意識とは、エゴがない状態ではなく、エゴと呼ばれているものさえ、愛している状態エゴと呼ばれているものにさえ、そのまんま居場所を与えている状態エゴと呼ばれているものが、エゴではなかったんだ、と知っている状態
2013.03.02
遅ればせながら、Amazonでマリアンの『魂のヒアリング力』を60でゲット。 ↓感動したとこ。 ミラクルワーカーは、 人間の心の闇も、 世界の闇も 否定したりはしません。 そして、闇を否定しないと同時に、 闇の奥に輝いている、光の存在を確信しています。 25P ああ悲しいのね。さあこの薬を飲んで、乗り越えるのよ。 でも、ぐずぐずしてる暇はないわ。さっさと退治してしまいましょう。 … 抑圧された悲しみは、いずれ力ずくでも、そのはけ口を見つけ出します。 211P (ミラクルワーカーの役割とは) 暗闇をしっかり見据えつつ、 暗闇を光に変容させることです。 115P 『なんとかしなくちゃ、何か行動をおこさなきゃ!』 エゴが私たちを、こうせき立てるときは、 魂は私たちに大切なことを想い起こさせてくれます。 『わたしたちにできるベストなことは、ただじっと座って静かに神の平和を求めるだけ。』 82P
2013.02.27
ただ観察だけが在ります。『観察者』もいません『観察する主体』もありません『真我』は、どこにもいません『大いなる意識』も、どこにもありません『創造主』も『グル』も『教祖』もいませんただ、ただ、『観察』だけが、満ち充ちて、在ります。
2012.12.27
エゴというのは、 ここにも愛が隠れていますよ、との旗印にすぎない。 何度、エゴを見ても、それはもっともっと、受け取るべき贈り物があるという証。 『パラダイス』181ページ 愛の大海 悦びだけが満つる今ここ 手放すべきエゴ、マインドがあると見えるなら…、 それこそが曇ったメガネ…。 それさえ、愛からの呼びかけ それさえ、奇跡からのお誘い メリークリスマス
2012.12.27
ねるも仏 おきるも仏 さめるも仏 さめてうやまう なむあみだぶつ むねに六字のこゑがする おやのよびごえ 慈悲のさいそく なむあみだぶつ 目にみえぬ慈悲が 言葉にあらわれて 南無阿弥陀仏と 声でしられる 死ぬるは浮世のきまりなり 死なぬは浄土のきまりなり これが楽しみ 南無阿弥陀仏 世界をおがむ 南無阿弥陀仏 世界がほとけ 南無阿弥陀仏 聞いた聞いた いいこと聞いた 凡夫が仏になること聞いた 聞いても聞いても何ともない 何ともないのが目当てと聞いた ほとけから ほとけをもろうて なむあみだぶつ なむあみだぶつが わしのほとけよ こんなさいちわ かくことわやめりゃゑゑだ いいや こがなたのしみわありません やめらりゃしません ほ(法)をたのしむかくもんであります まことにゆかいなたのしみであります 明ご(名号)のなせることのたのしみ なもあみだぶつてあります 道理理屈を聞くじゃない 味にとられて味を聞くことなむあみだぶつ あさましと知られた心 仏の心よ 凡夫わからにゃ邪慳なり 凡夫わかれば慚愧なり なむあみだぶつ おなじ迷い迷いと言いましても 迷いが迷いに居るのと 法が迷いに居るのとは違いがしてをります 自力他力はここでわかります 他力には自力も他力もありわせん 一面他力なむあみだぶつ 煩悩も具足 お慈悲も具足 具足づくめのなむあみだぶつ 如来さんはどこにをる 如来さんはここにをる 才市が心に満ち満ちて なむあみだぶつを申しているよ 名号は不思議な慈悲で 合点がいらぬ 合点いらぬがなむあみだぶつ 念仏は仏の念仏 仏が申す念仏 ただの念仏 わたしゃ用なし ごをんうれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつに抱き取られ 取られて申すなむあみだぶつ 称えても 称えても また称えても 弥陀の呼び声なむあみだぶつ 名号はわしが称えるじゃない わしにひびいてなむあみだぶつ 才市や何処におる 浄土貰うて娑婆におる これがよろこび なむあみだぶつ わたしゃ浄土を先に見て 娑婆で申すなむあみだぶつ 才市や臨終すんで 葬式すんで なむあみだぶつとこの世にはをる云々 影を見よ 光明の光のおかげで 影がみえるぞ 浄土の影がこれでわかるぞ ごをんうれしやなむあみだぶつ なむあみだぶつ 才市や何がおもしろい 迷いの浮き世がおもしろい 法をよろこぶ種となる なむあみだぶつの花ざかり 昔はありがたいこと たよりに思い なんともないこと ちからをおとし いまは あろうがあるまいが ごをんうれしやなむあみだぶつ ありがたいの ありがたいの ありがたいのがあなたの慈悲で うれしうないのがわたしの心 うれしかろうがかるまいが 機法一体なむあみだぶつ これが知れたらありがたい わたしゃあさまし 親のごをんがよろこばれん よろこばれんならほうっておけよ 凡夫がよろこぶ法ではないよ ごをんうれしやなむあみだぶつ 才市はなむあみだぶつをどう心得てをるか へ はなむあみだぶつに貰われましたよ 御報謝をどう心得てをるか へ 御報謝は思い出したり忘れたり あさましいものであります。 才市よい うれしいか ありがたいか ありがたいときや ありがたい なつともないときや なつともない 才市 なつともないときや どぎあすりや(どうするか) どがあもしよをがないよ なむあみだぶと どんぐりへんぐりしているよ 今日も来る日も やーい やーい ありがたいな 娑婆ですることが 家行を営みすることが 浄土の荘厳に これがかわるぞよ ふしぎだ なんとふしぎでありますな なむあみだぶは どうゆう ゑーくすりであろうかいな あなたわたしを どうしてすくう わたしゃひとつも 合点がいらぬ 合点いらずば その機のっまよ ごおんうれしやなもあみだぶつ 海と潮は はなれはすまい 海と潮は ひとつのものよ わしとおやさま ひとつのものよ 機法一体 なもあみだぶつ 愚痴も佛になるそうな 共につろうて念仏申す ええな せかいこくうがみなほとけ わしもその中 なむあみだぶつ 胸にさかせた信の花 弥陀にとられて今ははや 信心らしいものはさらになし 自力というても苦にゃならぬ、他力というても わかりゃせぬ、親が知っていれば楽なものよ。 これ阿弥陀、助けたいなら、助けさしょう。 罪はよう渡さん。罪は喜びのたね。
2012.10.14
Free Hugs for Korea-Japan Peace (日本人が韓国でフリーハグをしてみた)http://www.youtube.com/watch?v=kXqWJNOAX8M&feature=player_embedded
2012.08.23
絶望こそが希望である。 ジョアンナ・メーシー ただひとり、サイの角の如く歩め スッタニパータ あす世界が滅びるとも、今日わたしは林檎の木を植える。 マルティン・ルター たとえ今晩、地球が滅びようが、 世界中の人間から拒絶されようが、 それでも愛し、創造しつづけるだけ。 いつまでも、いつまでも
2012.07.17
思考なきところ、問題なく、主体なく、ただ平和な行動だけが、湧き出づる。
2012.07.14
本日のお客さんから、10年以上前にしたという、臨死体験の話を聴きました。病院から退院して、日常生活にもどると、会社内の地位、お金、財産、親類とのゴタゴタ事などへの執着が、まったく無くなったそうです。反面、むしろ一つ一つの存在への愛しさ、関心が増すという体験をしてきたそうです。モノに対して執着が無くなったのに、むしろ、一つ一つのモノが大切に、大切に見えて、迫ってくるようだったそうです。ローン支払い中のマイホームが有ることが感謝で、夜、布団の中で、涙が出てきたそうです。しかし、執着はなく、ローンの事は気にならなくなり、家を失う心配も一切しなくなったと言うのです。父親の遺産の事で、親類縁者との間のもめ事も、みずから相続を放棄したそうです。家族で外食に行っても、テーブルに並べられたスプーンや箸を見て、感激して泣き出してしまったこともあるそうです。執着がなくなるというのは、関心・興味が薄れるどころか、その対象が、愛しくて、愛しくて、一体化さえしている状態なのですね。(そして、つかんでいない。)ある日、道路脇で、車にひかれたネコの死骸を、無意識のうちに、抱き上げてしまい、気がついたら、通行人にジロジロ見られていた、ということもあったそうです。死への恐怖・執着は無くなるけれど、むしろ、一つ一つの命への限りない慈しみに満たされている、そんな状態なのでしょう…貴重な話が聴けて、ステキな1日でした。この2~3日のバガバンのメッセージが似たようなメッセージだったので、シンクロナイズにも、ビックリ。解脱するとは、肉をもったまま、神であることを知ることだ。この世を楽しみきったら、この世が幻だとわかる。まだ楽しみきっていないなら、分からないのだから、分からないことを楽しめばいいのだ。ガユーナ・セアロ無関心と無執着は、ちがいます。理解しないで、体験しなさい。カルキ・バガバン
2012.07.14
座る瞑想をすることによって、もしおまえさんの心が静まり、サマディに入れるのであれば、それはおまえさんにとって有用な道具となるじゃろう。しかし、おまえさんは同時に、サマタにとらわれないようにしなければならん。もし、おまえさんがただサマディを得るために座る瞑想をしているなら、確かに喜(ピーティ)や楽(スカ)といったものを得ることはできるじゃろが、そんなものは単に時間を無駄にしているのと同じじゃ。(アーチャン・チャー)
2012.07.12
いったん、ゼロ、に戻ると、 宇宙的視点にもたてる、 人間的視点にもたてるね。 そして、どんな視点も、また、ゼロに消えゆく。だから、もう、宇宙的視点のみに囚われ、人間的視点を無視したり、劣ったものと見なすことは止めました。すばらしきかな、人間
2012.07.11
ほんとうに、スッキリと、何のひっかかりもなく、 ・ニュートラル、 ・ただ在る、 ・すべてパーフェクト ・すべてが愛、 ・何があろうと『これでいいのだ~』 ・ピュア~、で、ゼロ の状態のときは、 上空から見下ろしている感覚でもないし、 とおくから無関心、無責任、無干渉、無感覚に、傍観している、 ゴールにどしっと座ってる という感覚でもないなァ~。 (2005、インドでの体験は↑こんな感じだったかもしれない。 今は、↓) ・すべてに関心がアリアリと開いていて ・やって来ることを歓迎していて、(しっかりサヨナラできる、) ・一体感(慈しみ)が満ちていて、 ・畏敬の念すら溢れて それでいて、 パーフェクト ゼロ、ただ在る ニュートラル そこから自動的に表現、言葉、行動に変換されて湧いてくる。 観察する意識であると同時に、ぴったり創造する意識。 ゴールとスタートがいつも同時に在る。 軽やか~。 今日、妻と見た映画『ソウルサーファー』から。 近づきすぎると、物事が見えなくなることもあるのよ。 でも、(近づきすぎて)同情することを恥じないで。 そこから新しい視点が生まれるのだから。 The End is the just beginning. いつだって終わりは、ただの始まりなのよ。 http://pia-es.jp/title/mdetail?no=157860&uid=NULLGWDOCOMO(全体に公開)
2012.07.03
掃除のさい、偶然に発見。クリシュナムルティの初期の本。(講演録) 1982年発行、なんと、アマゾンで、24800円~9万円の高値がついている 意識、観察、瞑想よりも、行動に関する発言(記述)が新鮮。 あなたが、はっきり見るならば、その瞬間に、その澄み切った状態から、あなたは行動しているのです。 本当に気づくなら、あなたの行動は、完全に変化するのです。14ページ 健全な精神をもったひとの人生は、神聖でよろこびに溢れ、思い通りのことがやれるのです。62ページ 観察者と、観察されるものに分裂されることによって失ったエネルギーが、そのとき溢れでてくるのです。204ページ あなたは、行動するだけなのです。206ページ being と doing が分裂してるなんて、誰がいった? まったくの迷信だ。 being と doing は、分かちがたく、はじめっから1つ 。 頭の中でねつ造した道徳やら正義・愛・覚醒、それらから解放されて、beingに戻るなら、 ハートからdoingしている自分に気づかざるをえないのだ。 河で溺れる子どもを微笑みながら『全ては愛のリーラ。何も起きていません、愛だけです。』と、流されていく子供にダンスして見せるような愚かなことは無くなるのだ。 全ては愛です、なんて言う前に、助けの手を差し伸べるなり、通報するなり、体が動いているのだ。 (何をしたかに価値があるわけではない。が、自然に動いているだけのこと。) 悲惨なニュースをテレビで見ながら、『気の毒ね~、かわいそうね~、でも全ては愛なのよ。愛のドラマを観賞してればいいの。』 とニコニコしながら、コタツでピザーラのピザを食べてワインを飲むことを『観察』、と呼ぶ瞑想指導者も多い。 クリシュナムルティの言う観察は、明らかにこれとは正反対だ。 (部外者ではない観察、観るものと観られるものの分裂ない観察、一緒の観察、本の中では様々に表現されている。) 巻き込まれない、だからといって、部外者・他人事の観察になってしまわない。 クリシュナムルティは決して行動しなさいとか、行動すべきだなどとは言っていない。ただ真の観察・気づきには、自ずと行動が1つになっていると言っているだけだ。 すべてのすべてが、ピュアで、パーフェクト それを体験して、そこにかじりついてしまうか? 表現されるままに、表現してゆくか。? かじりつくこと(執着)なく、瞬間、瞬間、死んで、 瞬間、瞬間、生まれて、 瞬間、瞬間、表現して。 瞬間、瞬間、手離して。 doingの伴わないbeingなどない。 いや、beingもdoingも無い。 同じものなんだから。 『生命とは、存在とは、同時に不断の行動である。』
2012.06.28
共感する 理解する 寄り添う 共にいる 話を聴きつづける つきはなす 見守る 別れる 自立する 旅立つ さわやかにノー!と言う あたたかくノー!と言う 断固ノー!と言う 手を差し伸べる 笑う 泣く 怒る 悲しむ 歌う、踊る、 表現する、創る 祈る 沈黙する 存在 守る それから、それから、 … 喰う 寝る 忘れる それから… …… 笑顔をみせる 感謝する、 ありがとうって言う それから 太陽、水、大地、空気 … それから … (形を一切否定し、ベーダンタ世界に行くか、形ある世界に舞い戻り、サーンキヤ的世界を開花させるか。)
2012.06.27
よく、カルト宗教から脱会、解放された人間が、また別のカルト宗教に入信し、こんどこそ救われました、などと言うのを繰り返したりする。わたしたち、すべての人間が、そんなことしてるんじゃないか。ある物語・信仰・神話から解放された瞬間、また新しい、心地よい、物語・信仰・神話を作り、安住しようとする。覚醒・悟り・ただある・いまここ・無条件の愛・無制限の気づき・原初の平和、……、みんな物語・信仰・神話。イエスキリストも、ブッダも、クリシュナムルティも、ガンガジも、トーレも、ムージも、みんなみんな、ただの物語・信仰・神話。ただ、彼らは、自分たちが、また新しい物語・信仰・神話を創造していることに、気づきながら語っている。そして、自分たちは、とうとう至高のゴールを手にした、と陶酔し、新しい物語・信仰・神話にしがみついている、ほとんどの平凡な人間くさい人間たち。覚醒・悟り・ただある・いまここ・愛・永遠の天国、……そんなゴールなんか、ありゃしない。ただ、ただ、瞬間、瞬間、気づき、離していくだけ。永遠に。
2012.06.22
天つ日の恵み積みおく無尽蔵鍬で掘り出せ、鎌で刈り取れ(二宮尊徳・道歌)(天地の恵みはすでに無尽蔵であるが、人間がそれを掘り出してはじめて享受できる。)尊徳は、倹約・勤労をすすめたことで有名ですが、それは、自力で勝ち取る、奪い取ることを意味していないようです。すでに、天地自然の恩徳は限りなく、すでに、人々の恩徳も限りなく、すでに、無限の恩徳に囲まれています。これら無限の恩徳に報いていくことを、報徳と言っています。『天地人、三才の徳に報いる』悟りの山を降りる『仏教が悟りを尊ぶのは、まだ迷界から抜け出ていないものだ。すでに悟ってしまえば、何もそれを尊ぶに足らない。これを高い山に登るに例えれば、その高さを仰ぐうちは、まだ絶頂に達していないのだ。どうようにその悟りを尊ぶうちは、まだ極致に達していないのだ。すでに絶頂に達したならば、四方を眺めてから下山するように、すでに悟りの極致に達したならば、ふたたび迷界に入って、済度につとめる他ない。もしも、もっぱら悟りを尊ぶだけで済度につとめないならば、迷っているものと同じである。たとい、数万巻の経典を読んでも、衆生済度の功がないなら、ちょうどへちまのつるばかり延びて実が結ばないのと同じようなものだ。』 (語録)天道の中に人道を立てる『何かの目的のため、何かを期待して、何かを行うにあらず。すでに無尽蔵に在る恩徳への、無心の報徳、それ自体が目的なのである。』以上『報徳に生きた人、二宮尊徳』ABC出版
2012.06.18
マインドから距離をおき眺めていられるようになると楽チン楽チン(away)さらに、ハートがマインドを使いこなせると楽しか楽しかね(on)~ WEEK 90: June 3-June 9, The Awakened One makes use of his mind.The unawakened one is made use of by his mind. 傍観者の至福から~創造者の至福へノーと言える私自身に、イエス花丸ノー と言えるよろこびに、イエス花丸 内的には、オールイエスだかんね~
2012.06.17
観察しなきゃ、 手放さなきゃ、 サレンダーしなきゃ、 瞑想しなきゃ そんなことしなきゃ (笑)はじめっから、 スッポンポン な~んも無いところに 観察(観照)も、 瞑想も、 おてあげサレンダーも、 放下も、 受容も、 みーんな、あるでよ~ まるだし、まるだし、 か~ぜに、ゆられて~、 ブ~ラ、ブラ
2012.06.14
本当のわたし、はどこにも無い 偽物のわたし、もどこにも無い 本当の目覚め、なんてどこにも無い 偽物の目覚め、なんてどこにも無い これが、本当の、目覚め。それはエゴです。 ま、それも楽しいやね~ 本質?真実?真我? 本当の生き方? 偽りの生き方? 天国もなきゃ、地獄もない。 まるだし、まるだし ぴかぴかの、ま~るだし。 ま・る・は・だ・か あははのは~。 ご自由に~ はい、、エゴまるだし、 エゴ全開、エゴゴリゴリでいきまっせ~ 祭だ祭だ な~んも無きゃあよ~、 な~んでも、まるまる丸ごと在るでよ~~~
2012.06.14
愛(慈悲)は、軽い~限りなく深いかもしれないが、重くはない…軽やか~どの道も、どの方法も、どの選択も、すばらしくて、輝いているその上で、私は、私の道を行きます。(世界の肯定、個の讚美・開花)
2012.06.10
開催日時: 2012/05/27 開催場所: 神奈川県 詳細: 2012年、5月、27日、(日) 午後1時~5時くらい 参加費、1000円 内容 * ほめ日記のつけ方 * フィーリングトレーニング(リラクゼーションのような形で命の声に耳を傾けて行きます。) * ラブライフトレーニング(家族や友人などのほめ方) 自己尊重協会(セパ)の、『命の声を聴く』カリキュラムに沿った進行です。 自己尊重協会(セパ)認定中級インストラクター 野村雅弘 いっしょに光の箱のフタを開いてゆきましょう 場所・地図 は ↓ http://orikomix.com/m/shop/top.php?id=1071&PHPSESSID=s723nhrsk3ocnhkkmkf4ng6k55 神奈川県小田原市 ひかり治療室 ビジネスライクな心理セミナーでなく、お茶を飲みながら、ゆるゆると、流れにおまかせで行いたいと思っておりますが、 3月、4月と、前日になって複数の方のキャンセルがでて、少し困りましたので、前日・当日キャンセルは出来る限り無きようお願いいたします。 個我(エゴ)そのものが悪いわけでなく、歪んで成長すれば好ましくないものとなるし、適切に活かす方向で成長すれば、最高の宝物となるのです。自分の個我を受容していくことは、他者の個我を受容していくことであり、ワンネスの実現です。
2012.05.25
人間は、神から、分離してしまった存在なのではありません。人間は、神自身が、進化しつづけている存在です。人間は、神(愛)へと還る旅をしているのではありません。神(愛)が、神(愛)自身を、進化・深化させていく旅をしているのです。野に咲く、様々に異なる花々をごらんなさい。彼らは、神から分離してしまったバラバラで孤独な、卑しい姿ではありません。神の豊かさを色とりどりに体現した、神の発展開花した姿ではありませんか。彼らは、個である己自身を抹消否定し、全に帰還したいと嘆いたりはしません。彼らはそれぞれ、彼らの個を咲き誇ります。ただ在る愛のエネルギーは、閉じこもろうとはしません。ただ在るエネルギーは、開いて表現しようとしています。『ただ在る』は、還るべきゴールというよりは、すでに在る源であり、スタートなのです。Aさんのセッションから。
2012.05.25
現象は、プラスも、マイナスも、つぎつぎ消えていくだけ。実在に在って(還り)、実在の光を放ちつづけるだけ。
2012.05.22
『ただ在るのみ』ゆえに、 世界の傍観者で終わるも、 『ただ在るのみ』ゆえに、 世界に飛び込む、自由に動き回るも、 ひとりひとり満足いく道を。 最後は1つ。 『ただ在る』のだから。
2012.05.21
笑うと健康になるからわらいましょう、ネガティブを改善して、ポジティブになりましょう、それも、よくわかりますよ。オーケーでも、それじゃあ、救われない人々、そう告げられて、ますます傷つく人々もいるんだなあ…。よ~く、よ~く、鎮まって、そのまんま、あるがまんまの自分を観てみれば、ネガティブなまんま、そのまんまで、存在は祝福してるんだね存在は笑ってるんだね存在そのものが展開して、笑いも、成長も、豊かさも、存在から現れてくるんだね。無理に笑っているなら、そのことに気づけると、いいね気づきから、ホーリーラフター存在の笑い、神聖な笑いが、溢れてくるよ。
2012.05.17
「自分は、限りなく、 自分以外の要素から構成されています。 幸せは、限りなく、 幸せ以外の要素から出来ています。 苦しみのなかにそれを乗り越える聖なる道があります。」 ティク・ナット・ハン これは、同時に、 知的思索ではなく、 チャルン・サティ(ヴィパサナ瞑想の一種) の体験そのものでもあり、 ほめ日記が進むと開かれてくる世界を語っているように、私は実感しています。 (補追) 私たち自身が痛みを抱えて、慈悲を実践するということは、自虐的に自分を痛めつけることをするわけではありません。 他者の苦しみを抱えるのは自分を痛めつけるためではありません。 心から純粋に痛みから解放されることを思いやる・祈るということです。 ~Dr.バリーのシンポジウム講演より
2012.05.12
今日、新婚の営業さんに、同室の人たちが 「結婚は忍耐です。しっかり離婚しないようにがんばって」 「私も我慢しているし、○○さんも我慢してるよね」 こんなふうな会話が飛び交いました。 いつもなら平気なのに凹みそう。 忍耐が足りなくてごめんなさい。 離婚したことを後ろめたく思ったことはないけれど こんな言い方をされるといじけちゃいそう。 確かに私は、忍耐が足りなくて、離婚したのかもしれない・・・ それは、そうかもしれない。 忍耐が足りなくて、ごめんなさい。 でもね、でも・・・ いじいじ・・・ ほら、こういう時こそ、ほめ日記! この間、習ったことを復習してみようと。 まずは、とにかくほめる。 そして、ほめる時は、言い切る。 後は、なんだったけ(笑) 今は、それしか思い出せないから、それだけでいいことにしよう。 ごめんなさい、光さん、記憶力なくて(汗) それじゃ、早速、やってみましょう! その時点では、忍耐が足りなかったかもしれないけれど ずっと一人でがんばってきて、よくやった。 誰からも援助を受けずに、子育てしてきたなんて、なかなかできないことだ。 子供たちと明るく楽しい家庭をもてたなんて、素晴しい。 子供たちを無事、進学させることができて、立派だ。 あ~、段々、気分がよくなってきた~(^^) あっ、でもこの自画自賛、もし読んだ人が不愉快になったらごめんなさい。 でも私の中にあった、いじいじちゃんは、すっきりしました やっぱりほめ日記、すごい♪ 普段、この程度のことを言われたくらいじゃ、私は、凹みません。 なのに、今日、凹むのは、私の心のフレームが弱くなっているから。 凹む理由は、外には、ないんですよね。 その言葉に反応する自分が、問題を作り上げている。 それは、自分に対する自尊意識が弱くなっているから。 このほめ日記は、自分の心の基礎体力をアップさせてくれます。 だから、ほめたことによって、自信過剰になったりはしないのです。 私は、ほめながら そうは言っても、いろいろな人の助けが合って今日まで来たのだと 子供たちも元気でよくやってくれたし、 職場も協力してくれたし みんな良くやってくれたよね~ と、感謝の気持ちが溢れてきました。 こんなふうに、自己尊重ワークを開いてくれた光さんのおかげで 凹まずにすんでよかったなあとか・・・ いろいろな感謝が浮かんできて、とっても幸せになりました。 自分をほめることによって、自分に関わる多くの人、ものに対する感謝が 湧いてくるのですね。 ほめ日記&自己尊重ワークを通して、 問題は、自分の外にあるのではなく、内側にある 自分を尊重するということは、自分に関わるすべての存在を尊重すること ということを知りました。 これから実践していく上で、いろいろ気付きがあるかもしれません。 そしたら、その度に、こんなふうに、ご報告させていただこうと思います。 どんな事柄からでも、人は学ぼうと思えば学べる賢い生き物なのですね。 だから、なにか???と思ったら、逆に、学びのチャンスなのかも。 今回のちょっとした嫌な気持ちは、こんなに沢山の気付きを与えてくれました。 だから逆にそんなことを言ってくれた人たちに「ありがとう」ですね(笑) (TKさん。女性)
2012.05.07
トークセン・セラピスト養成講座・説明会に参加してきました。 以前より、マッサージを習いたいと思っていました。 自分のためというより、身の回りの体の痛みに苦しんでいる人の 痛みを和らげてあげたいというのが動機です。 でも私自身、マッサージ、指圧、鍼灸などの施術を一度も受けたことがなく 何がどうなのか、全然、見当もつきません。 以前、アロマテラピーを習ったことがあるのですが それは、私の身の回りの人には受け入れられませんでした。 香りの癒しを感じるためには、それを感じる能力が必要なようでした。 私は、もう少し直接的な方法でアプローチできないか考えました。 それで思いついたのがマッサージでした。 光さんのところでは、タイ北部に伝わるトークセンという木槌(のようなもの)を 使ったセラピーの講習の説明をお聞きしました。 最初はDVDでセラピーの模様、本場タイでの模様などを見せていただき、 次にトークセンを実際に体験させていただきました。 軽くリズムカルな木槌の刺激の後に、ツボにあたる部分に強めの刺激。 木槌を打つことによる刺激というより、その振動で癒されるという感じでした。 その後、光さんが手によるマッサージを考えていた私のために、 レイキというものを説明、体験させていただきました。 それは、もう、とても素晴らしい体験で、一言で表すことができません。 ただ今ここに わたしとあなたの区別がなく すべてがひとつで でもわたしがきちんとその中にいて 薄紫の光を宿していました セントジャーメイン そんなことが頭をよぎりました。 セントジャーメイン 以前、見たことがあるオーラソーマのボトルの名前です。 そんなことを思い出して、オーラソーマのことをよく知るマイミクさんに なぜそんなことを思い出したのか、聞いてみたい、なんてことを考え漂っていました。 光を宿したその薄紫の光の中で ただ幸せの中、漂っていました。 とても幸せでした。 光さんが名を呼び、話しかけてくれていましたが、 私は、「けい」であり「けい」を含む大きな誰かであり、 自分のことのような、ないような不思議な感覚で耳を傾けていました。 意識だけの存在になってしまった私は、体を持っていませんでした。 意識だけの世界は、とても軽やかでスピーディでした。 そこが私の居場所で、今、この世にはレッスンのために留学している、そんな感じでした。 いつかまたここに帰ることができる、 だからこの「地球学校のレッスン」を頑張ろう、そんなふうに思いました。 光さんの誘導で、段々と薄い膜で自分が包まれていきました。 その膜は、段々と層を成し、そのうち私の体になっていきました。 私は、手で体をそっと撫でてみました。 ああ、体がある。 私は、この体を使って「地球学校」でレッスンを受けているのだと思いました。 体を感じた私は、こんなふうに思いました。 「手」があるのは、握手するため 「体」がるのは、抱き合うため。 これからは、たくさん、握手しよう、ハグしよう。 もともといっしょだったことを思い出すために もともとひとつだったのを思い出すために。 私は、人生の目的を達成するために生きていると思ってきました。 でも人生の目的は、生まれ、死ぬまでのその旅路でどれだけ多くの経験をして そこからどれだけのことを学ぶか、ということなのではないかと思うようになりました。 そういう視点に経てば、どんな失敗も、どんな苦しみも、経験と言うなの宝物を得た、 そう思えるのではないかと思います。 私は、この旅路を、ひとつの世界から旅立ち、「地球学校」で学び、またひとつの世界に 帰る旅、のように感じています。 そして 今 一緒にここで気づきを分かち合ってるみなさんも 一緒の旅人。 出会えてよかった出会えて嬉しい 今までも、今も、これからもずっと一緒なんだ、そんなふうに思えて、涙が溢れてきました。 今日は、どうもよくありません。 なんだかまとまりのない文章ばかりで・・・ ごめんなさい。 光さん、ステキな説明会、ありがとうございました。 これからどうするか、心が落ち着くのを待って、決めたいと思います。 どうもありがとうございました
2012.05.07
先月の被災地での、ほめ日記ワーク後に、 『ぜひ、もっともっとほめ日記を広めたい』と強く真剣に衝動を感じたのですが、 先の日曜日の、ほめ日記ワークも、本当に、静かな感動、静かな至福状態に満たされ、 一晩開けても、何と語ればよいのかわかりません。 ひとつだけ、(技術的なことを)メモしておくと、 意識下に隠しているネガ(トラウマ、カルマ、ヴァサナ・サンスカーラ)を見つめていく瞑想やセラピーも、 肯定的な言葉を積み重ねていくほめ日記も、 方向は真逆に見えるけれど、まったくぴたり1つなのだということ。 (…昨日の参加者さまのお言葉をお借りするなら… ほめ日記は、安全策で基礎体力をつけるために、まず肯定的な言葉を積み重ねていく。 すると自然に、避けていたこと、逃げていたことまで向かい合えるようになる、ということなのです。) 何らかのセラピーや瞑想で、トラウマやブロックが消えていけば、自然に命から成長発展への欲求?衝動?チャンター?が湧き上がってくるし。 ビパサナ瞑想、ディクシャ、リスニングなどとも、ぴたり1つで、 むしろ、ビパサナ瞑想や、ディクシャ、禅、などで、行き詰まっているかたがいたら、真剣に勧めたいと思っています。 実際、昨日の最後の方は、まったく自然に、勝手に、瞑想的な状態に誘われ、 自己尊重ワークだか?ビパサナ瞑想だか?リスニングだか?壁がまったく消え去ったような状態でした… (ちなみに、その時間、インドでは、ディクシャが行われており、私もそのことは意識の片隅にあったので、ディクシャの恩寵もあったのかもしれません) そして、自動的に、意図もしていないところに、 あれよ、あれよ、という感じで、 メッタ・スッタ(慈しみの瞑想)が、口をついて溢れてきました。 私自身も、復習参加、一生徒のつもりで臨んだのですが、参加者の方から、 たくさんの気付き、学び、力を頂きました。感謝感激です。 5月は27日に行いますので、よろしければ、ご参加をお待ちしております。
2012.04.25
あさっての集まりのために、『ほめ日記・自分新発見』を再読していたら、生まれてきた時は、誰でも自分が大好き。相手を許そうとするときも、まず自分自身を許すことから。ほめ日記は、複眼で見る練習とあった。特に、『複眼』は、本の一番最初にでかでかとあるのに、見落としていた。当事者的視点も、傍観者的視点にも縛られず、いろんな角度からの視点も自由自在に無限に拡がる視点のことだろう。お気楽チャンネルでいうところの、『視点がない空間』、と同じだろう。クリシュナムルティの言う、『観察者のいない観察』にも、きわめて近い。良い意味での『お手上げ』状態とも近い。また、『たかが物語、されど、かけがえない物語。』プラユキさん『悟った人間は死を恐れない、しかし、家族が死んで悲しまない人間は残酷だ。』スマナサーラ長老などと同じようなことと私は捉えている。ひろびろとした澄み切った空間、土台が在って、その中に自由自在に感情が現れているのを許している感覚…ほめ日記は、単純にして、本当に、奥が深い~ほめ日記でいう『光のハコ』も、もちろん、真我、大我、プレゼンス、ハイヤーセルフ、などと同じようなエネルギーのことです。以前の日記に記した通り、手塚先生は、そう発言していますが、スピ的な方向に流れるのを避けて、あくまで日常生活レベルでの普及を願っているのですね
2012.04.21
わたしが、 『それ』に気づく、 『それ』を発見する、 『それ』を見つけ出す、 んじゃなくて~ 『それ』に、 見つかっちゃった 見つけ出してもらったあ 『それ』の方から、やってきたあ いや~ん \(^o^)/ みたいな感じ 探すのを止めたとき、それは姿を表す。
2012.04.19
この世界に絶望し、 家族や友人、 宗教家、牧師、僧侶、グル、教師、 人間に絶望し、 自分自身にも絶望したら 自由になった。 解放された。 慈しみを知った。 創造の力を発見した。 創造そのものだった。 『絶望こそが、希望である。』 ジョアンナ・メーシー
2012.04.15
お手上げになったら、声なき慈愛の抱擁があります。あたたかい沈黙があります。マインドを包んでいます。マインドを憎んでいません。マインドを排除していません。マインドを迎え入れています。マインドが幻想であると知っています。それだけが輝いています。
2012.04.11
お気楽ちゃんねる [ツイート]16:32 思考を主人にするのではなく、思考を友人にするってことですね。へえなるほどね~ きみはそう思うのかい・・そんな感じで、思考ら離れて、うまく付き合うことができれば、思考の支配から解放され、とても便利な道具になります。 思考に実体はありません。132p が、思考さんは、私たちに知恵まで授けにわざわざやってきてくれるのですよ。136p 思考もまたよきものです。彼もまた生命の一部なのです。186p (カンポン・トーンブンヌム) マインドは友達。 マインドが苦しみの根源だからといって、マインドは悪者ではありません。 マインドと友達になることです。 (シュリ・アンマバガバン、『こころの扉を開く旅』から) そうですね つい、『本当の私』が 『偽の私・肉体の私・思考・感情・幻影』を、 他人事のように観る、 なんてことをしてしまいがち。 でも、思考さんは、主人でもないと同時に、 知らんぷりの他人事でもありません。 これだと、クリシュナムルティの言う分裂そのものですし、 仮の平安はあるのですが、やがて、アチコチぶつかりだして、分裂の苦しみに襲われます。 私のインド帰国後の実体験でもあります。 たしかに、プログラム、運命を、無干渉・冷静に観る、というのは、平安な気持ちをもたらしますが、それを続けると日常では、どんどん離人症状が出てきたり、自分は無干渉に観るということを続けても、相手が強引な言動で関わってくる場合、もちろん自分の反応などもオーバーラップして観ていくのですが、追い付かなくなります。(ミャンマーの僧院や、ヒマラヤ山中で、俗を捨てて、出家修行に没頭するなら、それで良いでしょうが。)『友人』という感覚と、 先の日記に書いた 『当事者と観察者という区分け・分離なく、まったく一体』、というのも、このことです 当事者として抱きしめながらも、観照がある その感じ。 マインドそのものは、幻影だし、 マインドが作り出す物語も幻影。 だけど『たかが物語(ドラマ・幻影)』だけでなく、 『かけがえのない物語』でもあるのですね (もちろん『かけがえない物語』であり、でもやっぱり『物語』) interーbeing oneness (このことも、私の体験であって、他の方に当てはまるかどうかは、わかりませんし、真実でないかもしれません。 ただ私は救われたというだけのことでしかありません。 ドンピシャの言葉に遭遇すると、スッキリするものです) 冷たく、切り離した、観察、(すなわち、観察者が、当事者を、観る)そこで苦しみを感じている方には、当事者であり観察者であり、人が居なくて観照だけが在る、そういう瞑想をおすすめします。(それも、ハプニングではありますが。)
2012.04.10
『観照』だけが、起こっていて、 『観照者』など、どこにも存在していません。 『観照』だけが、起こっていて、 『観照する』、という意図・努力・目的は何処にも存在しません。 『観照する』、ということも不可能です。 ただ『観照』だけが、ただ起こっています。 「私が、何かに(対象に)、気づく」 というのは、錯覚です。 『ただ在る』が、『ただ在る』に気づいているだけ。 その無限に拡がり行く気づきの中に、 わたし・あなた、が現れては消えてゆくだけ。 『私が、観ています。』は、ウソ(不誠実)です。私、が有るときは、観ていません。 夜に『なり』ました。 私が、夜に『した』のではありません ただ見ているだけです。 『見ようとする』ことは不可能です。 『観照』だけが在り、 『観照する』ことは在りません。 お手上げの時 完全に1つの時 『私という名の摩擦』が無い時 ただ観照が起きています
2012.04.07
チャルンサティ瞑想は、ぐるぐる思考の悪循環から、『今ここ』に立ち返ること(脱フュージョン)によって、自分自身の元々のフレッシュさ、慈しみ、力を取り戻す営みです。 ・「私が気づく」、という状態から更に、「気づきの中に私が現れている」という体験ができるかもしれません。 ・日常の活動を自由自在にしながら、平和・安らぎ・愛・気づき・沈黙の中に包まれているという体験もできるかもしれません。 4月 8日 (日曜) 午後1時~5時 くらい。 小田原市・ひかり治療室 ¥二千円 内容、 楽しくフリートーク。 悩みごとでも、未来のことでも、テーマを決めて、 ・リスニングタイム ↓ ・チャルンサティ瞑想 ↓ ・リスニングタイム ↓ ・チャルンサティ瞑想 ワイワイガヤガヤトーク (イージーアップで締め♪) リスニングは、いわゆる傾聴をベースに、小玉康子先生(PCP)によって工夫された、アハ体験に導きやすい工夫を採用しております。 チャルンサティ瞑想も、 マヒドン大学方式に、 アナパーナサティ チャルンサティ ウォーキングメディテーション を、参加者自身が自由自在に組み合わせる、気楽な瞑想です。 (飽きてきたら、チャルンサティに変えたり、座るのが痛くなったら歩行に変えたり自由にして良い。) 急な告知で、恐縮いたしますが、参加申込みは、メッセージからどうぞ。 参考・チャルンサティ瞑想 http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=hOcIhTOJQjo タイでは医師・看護師・患者さん向けにホリスティクヘルスの一方法としても実践されています。私自身も仏教色・宗教色を抜いて行いますので、ご安心を。 参考・傾聴と瞑想 http://m.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&client=mv-google&v=_8P-UiSFK0Y 上はあくまで参考で、 実際には、楽しく自由自在におしゃべりして、日常生活の問題も整理・解決できるような集まりです。
2012.04.02
2012年、4月、22日、(日) 午後1時~5時くらい 参加費、1000円 内容 * ほめ日記のつけ方 * フィーリングトレーニング(リラクゼーションのような形で命の声に耳を傾けて行きます。) * ラブライフトレーニング(家族や友人などのほめ方) 自己尊重協会(セパ)のカリキュラムに沿った進行です。 自己尊重協会(セパ)認定中級インストラクター 野村雅弘 いっしょに光の箱のフタを開いてゆきましょう
2012.04.02
聖と俗の差が落ちて、なお聖にとどまる、これ善し。この聖、俗を忌み嫌わず、避けず。聖と俗の差が落ちて、なお俗にとどまる、これ善し。この俗、聖を求めず、憧れず。聖、俗、自由自在。
2012.04.01
もうすぐ、はーるですね~ 重いコート脱いで~、 出掛けませんか~ 放下を忘れて、 気づきを忘れて 観察を忘れて 傍観者を忘れて 降参したら~、春がくる~ あったか~い、観照のはる~ 観照から解放された、観照~ 今ここも、気づきも、 逃げていかないから 『私』が、気づく、んじゃないからね 今ここの中で、気づきの中で私も貴方も、すべてが現れているのだから
2012.03.31
『自分の視点』を通せば反発くらう 『相手の視点』に努めても息詰まる 『傍観者の視点』も頭では解るけど、事実不可能。 …さてさて…ウ~ン… お手上げ… どうしようもね~ あり観照、観照、観照 観照出現 あらら~、 四方八方、まるまる、ゆったりと、うまく運んだよ~ やっぱり、わたしの場合は、 観察できないなあ~ 瞑想できないなあ~ 正直、正直、正直に 認めるだけしかできないなあ~ \(^o^)/ 観照が勝手に起こるなあ 瞑想が勝手に起こるなあ あはは~
2012.03.30
『今ここ』にいよういようとしなくたっても、はじめっから『今ここに』いるんだものね~しかも『今ここ』から出られない何にも無く、何でも在る『今ここ』
2012.03.29
最初の月、彼(弟子)は次のように書きました。 『私は意識の拡大を感じ、宇宙との一体感を感じます。』 師は投げ捨てました。 次の月、 『あらゆるものの中に、聖なるものがあることを、ついに発見しました。』 師は失望しました。 三ヶ月目、熱狂的に 『一なるものと、多様性の神秘が顕現しています。』 師は、首を振って、また投げ捨てました。 次の月、 『誰も生まれず、誰も生きておらず、それゆえ誰も死なない。』 師は、完全に失望したと言わんばかりに、両手を挙げました。 手紙が来なくなり、丸一年、 弟子から手紙があり、 『誰がかまうもんか?』 師の顔面に、満足の様子が広がりました。 (要約あり、詳細は本書で確認してください。) このパートのみで、パーフェクト ラメッシなんて、かまうもんか 自分自身なんて、かまうもんか 至福なんて、かまうもんか 澄みわたる、それ
2012.03.28
真我を忘れたっていい、 自我に没頭したっていい、 いつも、 いつも、 光が在る 聖を選ぼうが、 俗を選ぼうが、 光を失う心配一切なし 覚醒か?(悟りか?)、迷いか?(無明か?)という夢から醒めよもがこうが、 戦おうが、 光から出ることはできない。 光から、はみ出る心配は、ありえない。 安心から外れる注意など、 したくてもしようがない 聖書的記述をすれば、 神を無視し放蕩息子になって、家出をしようが、 神の愛から、逃れることはできない。 生まれるも死ぬも神の愛の中 (もちろん、視点を変えて言うなら、 そもそも死ぬことはないし、 まったき受容者であるとき、 自ずと、天性の創造者である。 ハプニング )
2012.03.28
迷い、というゲーム 覚醒、というゲーム そして、 ゲームをするもよし ゲームをやめるもよし その姿、水の如し。 一でさえ観念である。 セイラー・ボブ・アダムソン 純粋意識は、有限と無限の差を知らない全と個の差を知らない闇と光の差を知らない迷いと覚醒を知らない満ち充ちて、在り
2012.03.27
何かをしたら、真我・静寂から、はみ出ることなどあり得ない何かをしなかったから、真我・静寂から、はみ出ることなどあり得ないどっぷり、静寂、安心の中逃れることはできない。心配無用、注意無用
2012.03.27
映画を、フィクション・作り物だ、マーヤ・幻想だ、と言って、白けていたら、もったいない。(笑)(もちろん、そうするのも、ありだけど。)(笑)映画の中に、飛び込んで、登場人物といっしょに、泣いたり、笑ったりしよう。しかし、興奮して、前の席の人の頭を叩いたり、スクリーンにペットボトルを投げつけたりしてはいけません!(笑)(笑)(笑)なんせ、映画なんですから!作品なんですからね!((笑))(もちろん、インドのように、興奮して踊り出したり、観客同士で、血を流すまで殴りあったりするのも、ありだけどね。)(笑)(笑)(笑)フィクション・マーヤ、という中心点あるまま、フィクション・マーヤを楽しむのは、いかが?
2012.03.26
盤珪さ~ん 迷い悟りはもと無いものじゃ、 親も教えぬ習いもの 仏道修行をつとめし後は、 何も変わりは得ぬものぞ 奇妙不思議は一つも無いぞ、 知らにゃ世界が皆不思議 悟ろ悟ろとこの頃せねば、 朝の寝ざめも気が軽い 我と浄土をたづねて見たら、 けつく仏に嫌われた \(^o^)/ どこにも無き、 自我(エゴ)、迷いを、 どう止めようというのか? どこにも無き、幽霊から、 どう脱しようというのか? (笑) それも、ステキな選択 どこにも無き、覚醒へ、 どうたどり着こうというのか? どこにも無き、ゴールへ、 どうたどり着こうというのか? ゴール、覚醒、真実、 どこにある?
2012.03.26
看板は、針灸マッサージ治療室ですが、 ・タイマッサージ ・トークセン ・ルーシーダットン教室 のメニューもあります。 特に、トークセンは、肩凝り・腰痛はもちろん、手根管症候群・脊柱狭窄症・斜角筋症候群などにも、著効を示しています。 日本タイマッサージ協会のトークセントレーナーとして、トークセンのセラピスト養成も行っています。 この協会は、どちらかというと、解剖・病理・構造などを、しっかり習得することが特徴的でしょうか。 また、ヴィパサナの中でも特に、チャルンサティを用いた、ルーシーダットン講座も開いております。 ひかり針灸マッサージルーム 12年目!です。 http://www.orikomix.com/m/shop/top.php?id=1071&PHPSESSID=s723nhrsk3ocnhkkmkf4ng6k55(ケータイ用) よろしくお願いいたします。
2012.03.24
外側には、誰もいない。 外側には、一切、力がない。 イエス・キリストと、ブッダを比べる必要はない(笑) どちらが本物か?なんて熟考する必要はない、 もちろん、してもいい。 ガンガジと、トーレを比べる必要はない(笑)、 もちろん、してもいい(笑) 自分と、ラマナ・マハルシを比べる必要はないし、 目指す必要は、まったくない(笑) もちろん、してもいい(笑) パラレル・ワールド そして、誰もいない 外側には、誰もいない 外側には、何の力もない (非公開)何もする必要はない、 とわかったら、 何でもできる 何でもあ・そ・べ・る 03月10日 世界は幻想であると知るがゆえに、 (世界から目を背けることなく)、 世界に飛び込む! (もちろん、飛び込まなくてもいい。) そして、その結果も、悦びである。
2012.03.24
全1067件 (1067件中 1-50件目)