あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

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 四恩抄(1)


     四恩抄(1)
                                  平成七年二月五日
                                  宮崎布教区御親教の砌(前)

 次に「先生の悪業の習気失せずして、やゝもすれば十悪・五逆を作り、賢聖をのり、父母に孝せず、沙門をも敬はず候なり」と、今度は仏教の人生観の上からお示しであります。つまりこれは、人間は死んだらどうなるかといえば、今の世の中には、死んだら一切合切なくなってしまってなんにもないのだという考え方と、もう一つは、死んだあとは霊魂として存在するという考え方の両方があります。しかし、両方とも間違いなのであって、
  「如是因。如是縁。如是果。如是報」(新編法華経九〇p)
とありますが、この因縁果報は業を作っていくのですから、人間は死んだあともその業によって必ず色心の二法が存続していく意味があるのです。これは霊魂ではないのです。因はその人の主体的な業であり、縁とは外からのあらゆるものによって影響を受けるもので、この因と縁が次に必ず結果と報いを生じていきます。
 例えば、テレビで落語家がおもしろいことを言っていると、皆さん方は笑うでしょう。それは落語家の縁によってあなた方の心のなかから笑いが出てきたわけですが、そういうように因と縁によって自分の状態がしょっちゅう変わっていくのであって、それが無限の形において業として存続していく意味があるのです。その意味で、ここに「先生の悪業の習気失せずして」とおっしゃっておるのであります。
 また、「習気」というのは習い気でありまして、前に行ったくせがずっと残るということであります。そういうことの上から、十方の浄土と異なり、ここに娑婆世界の特質として悪業の衆生がいるということを説かれております。
(大日蓮平成13年4月号)

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