あしなみ揃えて! ~日蓮大聖人様に寄り添いながら~

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第二回夏期講習会  「妙」


   「妙」
     夏期講習会第一期(平成八年六月二日)
                     於 総本山広布坊

 (四)妙とは
 蘇生の義
  「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり(乃至)爾前の経々にて仏種いりて死せる二乗・闡提・女人等、妙の一字を持ちぬれば、いれる仏種も還りて生ずるが如し。天台云はく「闡提は心有り猶作仏上すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華能く治す、復称して妙と為す』云云」(法華題目抄・新編三六○)(テキスト)
 これは、死人が蘇るという意味であります。中でも蘇生が一番難しいとされるのが、二乗であると言われております。 闡提というのは、悪人のことでありまして、因果の道理を信じない者であります。ですから、これは他人に隠れて何回でも悪事を行うのであります。現在、世間においても人に隠れて一生懸命に悪事を働き、ずいぶん貯め込んだところでそれが発覚し、どんどん警察に捕まって全部吐き出しておるような姿もあります。本人にしてみれば、一生懸命にやって、それが最後にすべて水の泡と化してしまうという、誠に可哀想なことではありますが、これが因果の道理を知らないということであります。さらに、自己の欲のために強盗、殺人等のあらゆる犯罪を犯して愧じない者もあります。しかし、このような闡提(悪人)でありましても、まだ成仏は適うのであります。
 ところが、小乗の教えにおける成仏できない衆生が二乗であります。この二乗は、空の境界に入って智を滅してしまう、つまり色心の一つ、所謂、体とともに心まで滅してしまうのであります。舎利弗や目連は、小乗仏教を修行して一切の見惑、思惑を断尽し、そして阿羅漢になったのであります。見惑、思惑のうち、特に思惑を完全に断尽しますと、小乗の世界観、国土観から言えば、死んだ後は再びこの国にも地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道の中にも生まれてくることはありません。では、どこへ行くのかと言いますと、これは無くなって「空無」になるのであります。ですから、成仏はできないということであります。
 ところが、大乗の教えから申しますと、この見惑、思惑を断尽した阿羅漢は、死んだ後に無くなることはないと説かれております。すなわち、生まれ変わる場所として凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土・常寂光土という四土の内の方便有余土へ行くことが示されております。
 まず凡聖同居土とは、六道の凡夫と三乗の聖者がともに住む国土を言い、方便有余土とは、見惑、思惑を断尽したが、塵沙惑、無明惑を未だ断尽していない声聞・縁覚・菩薩が住む国土を言い、そして、実報無障礙土とは、別教の位において初地以上、円教の初住以上の菩薩が住む国土を言い、最後の常寂光土とは、法身・般若・解脱の三徳を具えた仏の住む国土を言います。
 この二乗は、「空」の悟りをめざして修行するのですが、結局死んだ後は大乗から見ますと、我々の住んでいる凡聖同居土の次にあります方便有余土に生まれ変わることになっております。
 大聖人様の御書中に、「分段の生死」と「変易の生死」ということが示されておりますが、この「分段の生死」というのは、六道輪廻する凡身の寿命形態に分々段々のけじめがあるということです。つまり、我々のような六道の生死であり、死んだ後、業によっ中有に存する場合もあれば、業の深い人は途端に地獄へ行ってしまう場合もあります。中有ということは、閻魔王がこの者を何処へ行かせるか考えておる時間であり、一時的に存する場所であります。そこから、畜生へ行ったり、人間にもう一度生まれてきたり、それぞれの所へ生まれるのであります。そして、人間に生まれてくる時は、母親のお腹の中に入り、十ヵ月たってまた生まれてくるのでありまして、これが分段の生ということであります。そして、死ぬ時が分段の死であります。このように分々段々になって生死がはっきりしているということであります。
 「変易の生死」というのは、心が次から次へと移り変わっていくことであり、変易は「移り変わる」という意味であります。この「変易の生死」は、我々人間のように、心の変化に伴ってしょっちゅう変化するというものではなく、一種の聖者においてのことでありますから、ある心に住していれば、その境界に留まりますが、しかし、この境界からもう一つ上の境界に至るという、移り変わっていくという意味の生死であります。これは、我々六道の凡夫の目には見えないのであります。
 これらは「二乗は智を滅す」ということから申しましたが、要するに小乗の教えでは、最後は心と智を滅するのであるということであります。
 しかし、『法華経』においては一切が「妙」の法であることから、全体の法界観の上から生死の全体を顕しますので、「変易の生死」や「分段の生死」でも、それから四土の何れであったとしても妙法によって成仏するという意味が存するのであります。ですから、在世の阿羅漢等も成仏の記別という形で『法華経』によって成仏したことが述べられております。
(大白法平成8年7月16日号)


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