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泣くということ「もし泣けたらどんなに楽かと思います」といただいたお手紙に書かれてありました。「泣くことは逃げることだと思う」高校生の男の子が言いました。「教師は子供に対して弱みをみせてはいけないのではないか?泣くということで子供たちを不安にさせたり、泣けばすむという気持ちをゆるすことにつながるのではないか、どんなにつらくても大人は泣いてはいけないのだと思う」ホームページを読まれた方が、メールを下さいました。講演会で涙を流しながら「僕は泣くことなんてこれまで一度もなかったのです。男が泣くなんて恥ずかしいことですが・・」って年輩の男の方がおっしゃいました。 私は「泣いたって大丈夫なのに、」「泣くことってきっと大事なこと」っていつも思うのです。いろいろなときにそう思います。 世の中にあることのひとつだって無駄なことはないはずと思うのです。人間の身体だって同じはず。きっと人間の涙だって何か大切な役割があるはずだと思うのです。 中学2年のときに交通事故にあって、片足を切断された女の子が学校に入ってきました。ゆうきちゃんという名前の女の子でした。 ゆうきちゃんはほとんど笑うということをしませんでした。周りにいるものが話しかけても、そっけなかったり、険しい答えしか帰ってはきませんでした。 教員がゆうきちゃんの授業に出て、職員室に帰ってきたときも「私、あの子苦手やわ。何言っても受け付けてくれんし、しゃべってもくれんから」「いくら交通事故にあったことが悲しくても、あんなわがまま許されるわけないわ」「つっぱってて、どうあつかったらいいかわからない、扱いづらい子やわ」という感想が多かったように思います。 こんなこともありました。「確かにあなたは足がなくなって、つらいだろうけど、みんなに可哀想って思ってほしいと思ったら大間違いよ」と教員をしている同僚が、堪忍袋の緒がきれたからとそんなふうに言ってしまったときのことです。ゆうきちゃんは、その言葉を聞いたとたん「誰が可愛そうって思ってほしいっていった?」「おまえなんか出て行け」と同僚の服をひっぱってはさみで切ってしまったというのです。 ゆうきちゃんと初めてお話をしたときのことは私もよく覚えています。教室に入っていくとゆうきちゃんは、背筋をまっすぐにして、クラスに置いてある、たったひとつの学生机に座って、まるで、すべての人とこれから闘うつもりだとでもいうように、口をきっと結んで前をにらんでいました。「今日の給食のメニュー何かなあ、ゆうきちゃんは何が好き?」ゆうきちゃんはこちらをちらっと見て、「関係ないでしょ」「どうしてそんなこと答えんといかんの?」と投げつけるように言いました。私が黙って、次になんと言ったらいいかわからずにいると、ゆうきちゃんは「それともあんた私に答えなさいって命令するの?」と言いました。 ゆうきちゃんの答えに私はとても驚きました。「命令だなんてとんでもない、これは雑談だし、そうじゃないとしてもゆうきちゃんにいつだってどんな命令だって私はしないのよ。」 ゆうきちゃんは驚いたほうに私のほうを見ました。ゆうきちゃんは自分の周りに固いつめたい殻を作っているようでした。それでなければ、心という羽を傷つけて震えている飛べない小鳥のようでもありました。「私がゆうきちゃんとすごせるのは国語の時間だけだけど、その時間はゆうきちゃんの好きなことをしようよ」「できることはどんなことでも大丈夫」 ゆうきちゃんは私の顔をじっとみつめていて、どう考えたらいいのか警戒しているようでした。「お料理でもいいし、音楽でもいいし、どこかへ散歩に行ってもいい・・」そういいかけたときにゆうきちゃんは突然「嫌、散歩は嫌よ」と険しい顔で言いました。「嫌なことはしなくていいの。私、無理をしないのが好き。ゆっくりするのが好き」私はできるだけゆっくりしたお話の仕方で答えました。 ゆうきちゃんの顔がだんだん柔らかくなっていくのが私にも分かりました。そして、うつむきながら言いました。「がんばらなくてもいいの?」 私はゆうきちゃんの「がんばらなくてもいいの?」という言葉が、足を片方失ってからこれまでのゆうきちゃんの苦しみの大きさを教えてくれている気がしました。 足を失ったことを誰からも「可哀想」なんて言われたくないという思いから、つらくても痛くてもがんばって義足で歩く練習を毎日してきたゆうきちゃんが、その苦しみを自分で守ろうとして、心の壁を作っているのだと思いました。 「したいことをする時間にしたいな。ゆうきちゃんと私の楽しい時間にしたい」私の言葉を聞いたとたん、どうしたことでしょう。ゆうきちゃんの目が見る見る涙でいっぱいになったのです。今まで、叱られても、つらい訓練があっても、一度も泣かなかったゆうきちゃんなのに・・ ゆうきちゃんの涙から3秒もたたないうちに私だって泣きたくなってしまいました。私は泣き虫だから、えーんえーーんとすぐに声をあげて泣いてしまいます。私の声を聞いたゆうきちゃんは、私よりももっと大きな声をあげて、私と抱き合うようにして泣き出しました。「泣いてもいいの?」「泣いてもいいの?」「つらいときは泣いたほうがいいよ、悲しいときも泣けばいいし、泣きたくなったら泣いていいんだよね」ふたりとも泣きながらも話をしました。 うんと泣いた後、ゆうきちゃんはにっこり笑ってくれました。やさしい、うれしい笑顔でした。 ゆうきちゃんはそれから、私とだけでなく、少しずつ、友達とも仲良しになっていきました。涙には、自分というものを守るために作ったはずではあるけれどそれでもそれを持つことで苦しくてたまらない心の壁を溶かすエネルギーがあるのだと思います。そんなに肩に力を入れなくてもいいんだ、片意地はらなくても大丈夫なんだ、バリケードなんていらないんだということを心に教えてくれるすごい力が涙にはあるのだと思います。 ゆうきちゃんとはそれからいろいろな話をしました。一緒にセーターを作ったりもしました。それから、ゆうきちゃんはエッセイも書きました。ゆうきちゃんのやわらかな気持ちがあふれているエッセイでした。お母さんが「昔のゆうきに戻ってくれた」と喜んで下さいました。国語の教科書はすすまなかったけれど、それでもちろんよかったのだと私は思いました。 泣きたかったら泣けばいい。苦しいことは軽くなるし、悲しいこともかるくなる。もし誰かを少し恨んでいるようなことがあったとしても、その気持ちを薄く軽く、涙はしてくれると思います。だからね、泣いても大丈夫。きっと涙は私たちの味方だと思います。
2006/05/31
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浩介くんの家 浩介くんは地域の学校へ通っています。障害を持っていても地域の中で生きていって欲しいというのがおうちの方の強い希望だったのです。 「このごろ浩介くん、教室からすぐ出て行くんで困ってるんだ。去年なんてわりといてくれたんだけどね。みんなで『だめー』って言うとはじめは帰ってくるんだけど、もうがまんできなくなって最後には、誰がとめても手を振りきって飛び出して行くんだよ」と担任の先生から電話をいただきました。 きっと浩介くんが勉強したいと思っていることと、学級でみんなが学んでいることとの間に違いがあって、浩介君はみんなと一緒にいたいけど、長い時間は嫌だな、って思ってるのかもしれないなあと思いました。でも、浩介君が教室から外へ出ることは先生は少し困るのだとおっしゃいました。浩介君が好きな理科の道具が割れるということや着たまま寒い中プールへ入ってしまうことはやはり困るので、(ああ、出ていったなあ)じゃあすまないからだそうです。飛び出していくといつも追いかけて、クラスの子供たちをそのままにしてしまうこともたびたびだということでした。 これまでも浩介君はいつも立ち止まることがほとんどないくらい教室の中であちこちへ動いていたので、おうちではお母さんはご飯の用意もむつかしいのではないかなあと思ったことがありました。でもそうではありませんでした。お母さんともお友達なのですけど、前に浩介君のおうちへ遊びに行ったとき、浩介君はおもちゃが入ってる段ボールの箱や、机や家具をあつめて空間をつくり、帰るとそこへ自分から入って、穏やかな顔で、そこにいました。その空間が大好きみたいで、たまに出てくるけれど、ご飯を食べたりトイレに行った後また自分からそこへ入っていくのだとお母さんが教えて下さいました。私はそんな浩介君を見たとき、小さいときに、学校の中に置いてあった大きな太鼓の台の下にもぐっているのが好きだったことを思い出しました。太鼓の下の囲いの中からみた学校はとてもやさしくて、自分から少し遠いところのようでした。私はその囲いに何か悲しいことがあると入っていたかったのです。 それで私ちょっと思いました。浩介君が自分の力で、いたくないときに出ていけたり、いたいときにいられるということはとても大事なことだとは思うけど、もしそれがかなわないなら教室に浩介君が安心していられる空間があったらいいのじゃないかなあと思ったのです。 その次の日先生から電話をいただきました。先生は「工作はにがてなんだけど」と言いながら、大きな段ボールでおうちを作られたのだそうです。「浩介がさ、僕の作った段ボールの家をみつけて自分から入ってきてさ、それから一日中そこにいてくれたんだ。教室の勉強の様子なんか、聞いたり感じたりしてくれてると思うんだ。」と嬉しそうな声でした。しばらくたって「浩介がちょっと薄汚れた毛布を自分で家からもってきて、それを浩介の家(段ボールのおうちをクラスのみんなはそう呼んでいるようです)にもって入ったの。あれ、家で大事にしている毛布のひとつなんだってさ。浩介が学校で使おうと思って、毛布を持ってこようとしたなんてすごい驚きで、僕とてもうれしかったんだ。あいかわらずそこにいて、うれしそうなんだ。クラスの子が入ってもひとりずつだと入れてくれてね、友達だと思ってるんだなってうれしかったよ」とその日も先生はとてもとてもうれしそうなのです。 でもある日、ちょっと怒っているような悲しんでいるような、沈んだ声で電話があったのです。「浩介の家、取り壊すことになったんだ。今日、視察があってね、浩介の家を見た偉いさんがさ、『こんな犬小屋に子供を入れてけしからん。人権無視だ』なんて言うんだ。校長もさ、すぐにどかせって言うしさ。わかっちゃねえよな。クラスの子供たちにどう言ったらいいんだ。僕の作った段ボールの箱の家じゃ、きれいじゃないっていってさ。みんなで学校に残って色を塗ってくれて、浩介君教室にいてくれてうれしいねなんてみんな喜んでくれてたのにさ。校長だって、あの偉いさんだって、浩介が教室から出たときにつきあってくれるわけじゃないのにさ、本当にわかっちゃないよな」私もね、「本当にわかっちゃいないよね」って思いました。クラスの子供たちの思い、先生の一所懸命な思い、浩介君が今教室が大好きになれかけているということ・・教室は、学校は楽しいところじゃないといけないのに、ちっともわかっちゃいないわって思いました。そのあとお母さんから電話がありました。お母さんもとても悲しそうでした。「浩介が好きなところにいて、浩介がおちつく姿を見て、それを<犬小屋に入れられている>と言った人を私は許せなかったから、私はその人に電話をしました。その人は『お子さんは小学校には向いてないように思いますね。手足が不自由なお子さんは、まだ普通小学校で学びやすいんですよ。勝手にあちこち行かない分、先生にも他も子供たちにも迷惑がかからないですしね。おこさんにとっても、他のクラスの友達にとってもお子さんが養護学校へいかれることは望ましいんじゃないんですか?それにしてもあの先生にもびっくりしましたね。お子さんはあんなところに入れられてしまって気の毒しました。教師は子供を大切にするというのが当たり前のことだのにわかってない若い先生が多くて困ります』って言うのです。どう思われますか?校長先生にあの家は大事なのだと話したら、あの段ボールは見栄えが悪いので、掲示板とか移動黒板で囲ったらどうでしょう?なんて言うのですよ。でもクラスの友達や先生はきっと分かってくれると思うので、あの浩介の家はそのままにしておいてもらおうと思います」お母さんのお電話を聞いて、やっぱり、校長先生と視察にこられたお二人の言われたことはわかっちゃいないみたいと思いました。浩介君は掲示板とか移動黒板で囲ったところはきっと好きじゃないと思います。浩介君はみんなと離れていたいのじゃないのです。心が落ち着く浩介君の家にいながら、みんなと一緒の空間にいたいのだと思います。だからもし浩介君の家と、掲示板や黒板で囲まれた空間があったら、浩介君はみんなの作った段ボールの家を選ぶと思います。それから私、手足が不自由なお子さんならいいっておっしゃったことも違うって思いました。行きたいところへいけず、いたくない場所にいなくてはならない、それを強制させられることこそ人権侵害だと私は思います。手足が不自由なお子さんがもし教室にいたとしても、そういう思いがあったとしたら、それはもうそのお子さんにとって、とてもつらいことだと思うのです。毎日通う学校はつらいところではなくて楽しいところであってほしいです。そして親御さんや子供たちがもし地域の学校で学びたい、学ばせたいと思われたら、地域の学校で子供たちが楽しく通えるようになってたらいいなあと思います。もし浩介君のところにもう一人先生がいてくださったら、浩介君の先生は、浩介君とゆっくりいれたり、またクラスの子供たちとも気にせずすごせると思うのです。それから浩介君がおちついた環境で教室にいられるみんなで作った浩介君の家は、みんなの気持ちがたくさん集まったものなのです。だからね、犬小屋にもし見えたとしても、大事な大事な浩介君の家で、それを黒板なんかでおきかえるのは、私それこそ、子供たちのことちっとも大事にしてないって思います。
2006/05/29
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かおりちゃん なかなか目があわないけれど、いつも何気なくしていてくれるけど、いつもじっとこちらを見ている、わたしの心を知ろうとしてくれている・・・かおりちゃんの最初の印象でした。 肢体不自由の養護学校とよばれている学校から、精神薄弱の養護学校とよばれている学校(どの名前もいつも首をかたげてしまう呼び名です。)に移ってきたばかりの私には、口の機能のためじゃなくてお話を言葉でしないということはどういうことなのかわからずにいました。(前の養護学校ではいつも口の機能などが十分でなくても、どうにかして気持ちを表現することを探そうと、タイプや文字盤、サインなどでいっしょにお話をすることにいつも一生懸命でした。)じっとかおりちゃんのそばにいると、かおりちゃんのたくさんの気持ちがあふれてきて、どうしてその言葉を口にだして言わないのだろう。口に出して言わないとどうしても細かなところまで伝わりにくいし、やっぱり言葉でお話してほしいなぁと今から思えば本当に私ってなんにもわかってないなぁと言う感じなのですが、そんなことを思っていました。(私はその時たぶん、前の養護学校にいたとき、不自由な口で、自分の気持ちを精一杯お話をしている子供たちといっしょにいたので、口が不自由でもないのになんてもったいないことって思っていたのだと思います。 それで「ねぇ、あーっていって。」「いーっていって。」とかおりちゃんにたのむと、かおりちゃんは今までそんなことはさんざんしてきたよという風に困った顔をしながら、口を開けてくれていました。言葉を使ってお話をしないということと、心の中の気持ちを思う時に、言葉を使っていないということはまったく別のことなのに、私はつい、歌の時間など、繰り返し歌をうたうことはかおりちゃんにとって、本当に楽しいことなのかしら?などと思ったり、国語の時間に物の名前のカードをとる練習ばかりしていたりと本当に今から思えばかおりちゃんに申し訳ないことばかりでした。 かおりちゃんといっしょに毎日をすごしているうちに、私はもうかおりちゃんが好きで好きでしかたがなくなりました。お互いに言葉はなくても、いっしょにいると長い楽しいいおしゃべりをしたなぁと感じられるようになってきました。2年目ころからかおりちゃんはいつもいつもいい笑顔で私を見てくれるようになりました。いつもいつも、私の目をみつめ、私が自分の髪を触る仕草や、笑う仕草、パンを食べる仕草を同じようにかおりちゃんもするようになりました。かおりちゃんが物を手にとる仕草、顔をみつめる仕草をいつのまにか私もするようになりました。私が二階にいても、かおりちゃんは運動場からでも私を見付け、私が手を振ると、体育の時間なのに職員室までかけてきてくれたことがありました。どんなにたくさんの人の中でもかおりちゃんは私の声を聞き分けて、遠くからでも必ず返事をしてくれました。かおりちゃんと私はお互いに、とても必要な存在でした。私がかおりちゃんを好きで好きでたまらなかったと同じだけきっとかおりちゃんも私のことを好いてくれていたと思います。そのうちかおりちゃんは私の口元や、そして声までもまねをするようになってきました。私が失敗してなにかを下に落とした時、私が「ああーぁ」と言ったのをまねしてくれたのが最初でした。そしてそのことを私がとても喜んで「すごいすごい・・」と笑ったのがかおりちゃんにとってもとてもうれしいことだったのだと思います。それは自分で私の真似をして声を出せたという喜びではなくて、私がそのことをものすごくよろこんだということに対する喜びだったのだと思います。 それからかおりちゃんは「あ」も「い」も「う」もそして「まま」も「ほん」も言うようになりました。たくさんの言葉を使うようになりました。 かおりちゃんのお母さんもまた私は大好きです。かおりちゃんのお母さんはとても素晴らしい方で、毎日の連絡帳で私にたくさんの事を教えてくれました。いつも勇気と元気をくださいました。二年間の連絡帳は、十冊を簡単にこえました。ある日の連絡帳・・・・「この日をどんなに待ったことでしょう。かおりからままとよんでもらえる日がくるなんて・・・かおりが小さいときからずっとこの日を待ち望んできました。ままと一言呼んでさえもらえたら・・・と。かおりは小さいとき私のことを本当に必要としているのだろうかといつも思っていました。まいごになっても泣くでもなく、私の姿をさがすでもなく・・・ひとりで立っていたかおり。かおりも中学生になり、いつのころからか私は、ままと呼んでもらうということはもうすっかり諦めていました。先生、私は今日{好き}ということが、こんなにも大切だということを知りました。小学校の時の担任の先生にもかおりがしゃべったのだと電話してよろこんでもらいました。・・・・・」 あぁ、そうなんだ。一番大切なのは好きという気持ちだったのだということを私はかおりちゃんのお母さんの連絡帳を読んであらためてそう思いました。私はかおりちゃん以前はお話できなかったのに、どうして今お話できるようになったのだろうということが少しもわからずにいるままだったのです。人が気持ちを伝えるということは本当になんてむずかしいことなのでしょうか。言葉というものは相手を好きと思って、自分の気持ちを受けとめてもらえるということがわかって、そしてお互いが平等で、いっしょにいることがうれしいと思って初めて、出てくるものなのに、私は最初にそんな関係が少しもないのに、無理に「あーって言って」「いーって言って。」と頼んだのでした。自分はなんて勝手だったのだろうとお母さんの優しい言葉のなかで恥じ入る思いでした。 かおりちゃんが言葉を使うようになって、私は自分のしてきたことが、なんてかおりちゃんの気持ちを考えてなかったのだろうともっともっと知ることとなりました。例えばかおりちゃんは習った歌は殆ど覚えて知っていたということがわかりました。かおりちゃんがカラオケ大会ではじめて「さいた さいた」を歌った時の感激とそれからその時、言葉はなくても歌うということ以外で合唱に参加して合唱を楽しんでいる子供たちがたくさんいて、そしてその参加の仕方はそれでいいのだということに気付かずにいた自分を思いました。絵を描くとき、かおりちゃんはペンにしたいとか、絵の具で描きたいとかそういう思いは当然あって、なにかの方法でそれを表現していたのに、こちらで勝手に選んで渡していた自分を思いました。 かおりちゃんとかおりちゃんのお母さんと私と、今でも、本当に時々しか会えないけれど、ずっと仲良しです。今でもかおりちゃんに会いに行くと、かおりちゃんは遠くで私をみつけて、作業中、作業はやめないけれど私を見つめて微笑んでくれます。「私は作業中だから今すぐとんでいけないけど、ほらここだよ。」と言ってくれているのだと、思います。
2006/05/28
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かおるちゃん 「人を愛するのってせつないね」とかおるちゃんが言いました。 卒業生のかおるちゃんは、学校の隣に併設されている養護施設にずっと入所していたので、時折、学校の休み時間にあわせて、散歩がてら遊びにきてくれました。絵が好きで、卒業前、養護学校にいた日本画の先生に習って描いたその前の年の絵が、アマチュア美術展に入賞したくらいにたいした腕前なのでした。たいした腕前なのは、絵を描くことだけではありませんでした。かおるちゃんは自然の美しさに気がつく天才かもしれません。何でもない雑草と思っていた草花がかおるちゃんの手によって摘まれると、そして、コップにさされると、その花が(ああなんて素敵な草花なんだろう。どんなにいい絵になるだろう)というような草花に変わりました。「可愛い。描きたいなってそう思っただけ」とかおるちゃんはそういうけれど、大きく咲いている山ユリや、きんぽうげにばかり目を奪われてしまう私には、いったいそんなに清楚で美しい小さな花がどこに咲いていたのだろうと思い出すことすらできず、自然が大好きで、いつも風や空気や木や花を身近に感じていたかおるちゃんだからこそとなんだかうらやましい気持ちにもなるのでした。 私はかおるちゃんと話をするのが好きでした。ゆっくり考えながら話すいろいろなかおるちゃんの言葉は、私にたくさんのことを考えさせてくれました。かおるちゃんは、筋ジストロフィという病気を持っていました。発病してから少しずつ手足の力が弱くなってきていて、その頃は歩行器を使って歩いていました。 「あまり動かないと病気が進むようだし、かといって無理をして動くともっといけないようだし……」「今日はなんだか右手が動きにくいんだよね」かおるちゃんはゆっくりと歩行器を押しながら、さりげなくそう言いました。自分の体の話をする時はいつもさりげなかった。けれどかおるちゃんはいつも、いつか動けなくなる日がきて、それからそう遠くない日に自分の命の灯も消えてしまうのだということを考えているようでした。 ある日「ねえどうして神様は私のこと、『あの子は二十年ちょっとくらい生きたらそれで十分』って思ったんだろうね」と言いました。かおるちゃんは私の返事を待っているようでもあったし、待っていないようでもありました。困ってうつむいてしまった私に、「ごめん、ごめん。困らせるつもりじゃなかったんだけど」そう言って、かおるちゃんはまた話出しました。 「この世に生まれたからには、神様は私を必要だと思ったんだよね。だったら、人よりずっと早めに必要でなくなるのかなあ。それとも短い時間で、大切な役目をはたせたということかなあ。あんまり何にもしてないけどね。それとも、病気を持って、早く亡くなるということが、大切な役目をはたすことになるのかなあ」 かおるちゃんは自分の命の意味を、自分の生きている意味を知りたいと言いました。 そんな時、私はきまって黙ってしまうのでした。けれどかおるちゃんは私にどんな答えを求めていたのかしらと、とても気になって、ある日「さっきの話だけど、人の命の長さの……」と切り出したことがありました。かおるちゃんは笑って「なあんだ、まだ気にしていたの。あのね、人の命の長さなんて、他の人と比較してもなんにもならないよね。私はどれだけ一所懸命生きたか。どれだけ、命に対して誠実であったかということだと思うよ」と言いました。かおるちゃんは、時には迷いながら、時には疑いながらも、命に対しての答えを持っていてそれを自分に言聞かせているんだと思いました。 かおるちゃんは、病気を持っているから、体が動きにくいからって言い訳するのは嫌いなんだとも言っていました。だから、絵を描くことも人と関わることもとても積極的でした。 そんなかおるちゃんがある日、「ねえ、人を愛するってせつないね」と言いました。中庭に一人いたかおるちゃんを見つけて、かおるちゃんのそばに言った時、その声があんまり静かだったのと、その言葉がとても唐突だったので、私は聞き違いだったかなと思ったくらいでした。枯葉が風で私のあとをついてくるように舞っていました。私はその時の情景を今でも時々夢にみます。 その何ヵ月か後、かおるちゃんは筋ジストロフィの患者さんがたくさんおいでる病院に転院しました。そして、その後、かおるちゃんに会うことができないまま、かおるちゃんが亡くなったという報せをもらいました。「人を愛するってせつないね」私は今でもふとこの言葉をつぶやいてしまうのです。
2006/05/26
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フランス料理やさん錦城養護学校にいたときのお話です。 作業で作った製品の売り上げの一部で一年に一度、打ち上げ会をします。今年はボーリングの後、片山津のラウィーブというフランス料理やさんへ出かけました。一年の作業の売り上げと言っても、それほど多い額ではありません。まして、その一部となると本当にわずかな額ですが、それでも、その額でなんとか子どもたちにコースのお料理を用意していただけないかというあつかましいお願いを、前もっておそるおそるしてあったのです。店長さんはすぐに、「いいですよ。お待ちしています」とお返事をしてくださいました。私たちはそれから、「もう一週間でフランス料理だね」「いよいよあと三日だね」とそれはそれは今日の日が来るのを心待ちにしていました。 お店の前には、とてもおしゃれな雪だるまが私たちを出迎えてくれました。目はワインのコルクの栓でできていました。頭には、エーゲ海のお日さまを思わせるような(フランスはエーゲ海に近いのかどうか、地理が驚異的ににがてな私にはわかりませんが)大きなメダルのようなものが取り付けてありました。もうそれだけで、まりちゃんや私はうれしくてなりません。ドアには、「ランチタイムは貸切になっています」という札がかけられてありました。 どきどきしてドアをあけるとそこには、とてもやさしそうな男の方が二人と、女の方が一人、私たちを待っていて下さいました。「貸切にしましたので、遠慮なさらずにごゆっくりどうぞ」という声に、十五人という大人数で押し掛けて申し訳ないような、それでいて、こんなふうに私たちがゆっくりできるようにと考えてくださったことがとてもうれしかったです。 テーブルはもうすてきなセッティングがされていました。そして、驚いたことに一人ひとりのところに、お店の方からのとてもおしゃれなお手紙がおかれてあったのです。 「錦城養護学校のみなさん。今日は来てくださってありがとうございます。私たちはこの日がくるのを楽しみにまだかまだかと待っていました。一所懸命用意をして待っていました。フランス料理といっても、かたくるしくしないで、楽しく食べてください。みんなで楽しく食べるととてもおいしいですものね。楽しく食べてくれると、おにいさんもおねえさんもとてもうれしいです。みんなもいつか働いてお金がもらえるようになったら、おお友達や家族の方をつれて来てください。それまで、私たちはがんばってもっとおいしいお料理を作れるように勉強します」それから、今日のメニューが英語で書かれてあって、その次に、それらひとつひとつが絵で描かれてありました。コースのお料理は私たちが考えていた額ではとうてい食べられそうにないような気がして、金額を伝え間違えていたんだったらどうしようと心配になるくらいのものでした。 横の席にいたみきちゃんやまりちゃんに「私、お手紙読むね」と言いながらそのお手紙を読みだしたのですが、途中で胸がつまって困りました。電話で予約させていただいた私たちのために、こんなに丁寧で、心のこもったお手紙を一人ひとりの席に用意してくださったこと、おそらくはドアの前の雪だるまもそのひとつだったのだとわかりました。お手紙の中の「まだかまだかと待っていました」ということは、手紙だけでなくて、本当にそうなのだわと思いました。 それから、私たちがフランス料理だからとかたくなって楽しく食べられないといけないと配慮してくださったこともうれしかったです。だってもし、(「あつ、あんな食べ方してる」って思われたらどうしよう)って考えたら、緊張して本当においしく楽しく食べられないものね。 それから、前に電話で店長さんに、「働いて給料をもらうということの意味を知りたいということもあって、毎年、楽しい会を持っているのです」とお話したことも大事に思ってくださったのだと思います。それで「お金をもらえるようになったら……」ということを書いてくださったのかもしれないなあと思うのです。子どもたちは私たちが「働くということはね」なんて話すより、ずっと自然にそのことを感じとったようでした。松崎くんは「これはお母さんが好きそうだし、これはお父さんがうまいって言うだろうな。いつか、二人をつれてきてあげよう」と言っていました。こんなうれしいことばを松崎くんが言ってくれたのも、お店の方が、私たちはいつも押しつけて話してしまうけれどそうではなく、やさしく教えてくださったおかげだなあと感じました。それから、私たち(子どもたち)は普段よく「がんばってね」って言っていただくのですけど、いつもがんばっている子どもたちにはそのことばが少し「重いな」って感じられることがあるのです。今日のようにお店の方が「私たち、もっとがんばって勉強します」と言っていただいたことは初めてのことでした。がんばってねという言葉はおそらくたいていの時、自分より、目下の人に(つらいこともあるだろうけど)がんばってねと言うことが多いのじゃないかなって思うのです。でも、きっとお店の方々が私たちを自分と同じ場所いると考えてくださったから言ってくださったんだ、だからこんなに温かく感じられるんだと思いました。 そのことはお料理が出していただいたあともずっと感じたことでした。お料理の説明をして下さる時にも、「これは、さけというお魚をすりつぶして、生クリームを加え、ムース状にしたものです」「パンはバターだけでなく、お料理のソースをつけて召し上がっていただいてもいいですよ」というふうに、私たちだけではなく、子どもたちに対しても(子どもだからとか、養護学校の子だからなんて少しも思わずに)一人の人間として、大人に対する時と同じように大切に誠実に向き合って言ってくださってることをしみじみと感じたのです。それはきっと今日だけではなく、いつもそういう姿勢でいらっしゃるのだなあと思いました。 先日、他の所へ校外学習へ出かけたときのことでした。とても親切な方でしたが、子どもたちと私たちが話をしているのを聞かれて、「養護学校の子か、見ただけやったら、なあーーんわからん。どこがおかしいのか、わからんわ。そこの男の子なんか、りっぱやがいね。普通に見えるわ。ね、僕?」と私たちに話かけてくださったたのです。私たちはそんな時、とっさにどう返事をしていいのかわからなくなります。子どもたちは黙って下をむいたり、逃げるようにして、他の部屋に行こうとしているのがわかりました。(僕たちは普通じゃないのか。養護学校に行く子はおかしい子なのか)と自分たちが分けられた言い方をされたのを感じたのでしょう。悲しい顔をしていました。短い関わりの時間にどれほどのことを言ったらいいのか、まして、子どもたちが聞いている中、どう話したらよいのかわからず、やっとのことで、「みんな明るくて元気な子たちです。いつもいろいろなことを一所懸命勉強しています」とそんな返事でいいのか悪いのか、答えました。でも、子どもたちは私の答えを聞いてほっとした顔をしてくれました。 ラウィーブの方は子どもたちに積極的に質問したり話かけることはなさらなかったけど、今日はそのことがまた、私たちを大切に考えてくださっているように感じられたのでした。 帰りにはきれいに包装したチューリップの花を一輪ずつ下さって、「またお越しください」とドアの外まで送ってくださいました。子どもたちが地域で生きていくときに、今日のような温かい関係が子どもたちをどんなに温かくほっとした気持ちにさせてくれるかということを、きっとお店に方のご好意で、オードブルから、スープ、お魚のお料理、お肉のお料理、サラダ、お口直しのデザード、手作りのケーキ、コーヒまで、経費いじょうのお料理をいただきながらしみじみと思いました。
2006/05/25
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みっちゃんの話みっちゃんからの年賀状が今年も届きました。みっちゃんのことを思い出すだけで、わたしの心の中はいつも温かくなります。みっちゃんが私の心の中のどこかにいつも住んでいるというだけで、私は心に宝物を持っているという気持ちになります。みっちゃんには素敵な力があると思います。魔法の力かもしれない。みっちゃんを思い出すたびに、いったい何度明るい、そしてやさしい気持ちになれたことでしょう。悲しいことがあったとき、つらいことがあったとき、こっそりみっちゃんの口癖を口にするだけで、わたしの心がもしどんなに暗くて重い暗闇の中にあったとしても、小さな温かいあかりが灯るのがわかりました。 みっちゃんは地域の小学校から中学一年生のときに転校してきました。とても手が器用で、編み物や縫い物をさっと覚えてしまい、浴衣を塗ったり、毛糸で編み込み模様のみごとなカーディガンやセーターをたくさん編んでくれました。 みっちゃんは最初に会ったときから、とてもおしゃべりの楽しい女の子でした。「先生美容院どこで髪切った?」そのときみっちゃんは美容院にすごく興味があったのだと思います。わたしたちの誰かが、ちょっと前髪を切りそろえただけで、他の誰も気がつかないくらいであったとしても、みっちゃんは朝玄関で待っている私たちのことをさっと見て、すぐそのことに気がつくのです。そして一度美容院の名前を言ったら、絶対に忘れないでいてくれて、今度紙を切ったときには「モアB2か?」(私が行っていた美容院の名前)って聞くのです。「今日は違うの」というと「金沢か?」ってもうとても興味津々なのです。でも「みっちゃんはどこで髪を切るの?」「どんな髪型が好き?」なんてこちらから質問すると、みっちゃんはふーーと離れていってしまいます。みっちゃんは聞きたいことはたくさんあるんだけど、質問されるのはあんまり好きではないのかもしれません。でもみっちゃんにとって大切な質問のときは様子が違います。みっちゃんはたいていお母さんに髪を切ってもらっていたのですが、すっかりそのことを忘れていました。私が美容院に行った次の日、みっちゃんが「みっちゃんの髪長いか?」と私に聞くので、「みっちゃんもとこやさんに行きたいの?」と尋ねると、みっちゃんは私の顔のすぐ前まで近づいてきて、「違う、び、よ、う、い、ん」とゆっくりひとつひとつ区切ってさとすようにお話してくれました。床屋さんじゃなくて美容院へ行きたいというのは女の子らしくてすごく可愛いです。みっちゃんが美容院のことをものすごく気にするのは、お母さんはすごく髪を切るのが上手なんですけど、みっちゃんはたまには美容院に行きたかったのかもしれません。私も小さい頃、りかちゃん人形の洋服をいつもいつも母が作ってくれていたのが、今はこんなにうれしいのに、そのときは寂しくて、たまにはお店で買ったりかちゃんの服がいいなあ、とか、私とりかちゃん人形の洋服がおそろいなんてつまらないって思っていたことがありましたもの。 みっちゃんはとても知りたいという気持ちが強いので、たくさん質問してときに叱られてしまうことがありました。 みっちゃんは自転車が大好きです。でもぴゅーっと遠くまで出かけてしまって、なかなか帰ってこないことがあるので、お母さんもお父さんもそのことをとても心配しておられました。車がたくさんたくさん通る道でも、みっちゃんは平気で通っていってしまうし、夜遅くても帰らないこともあるので、お家の方の心配は本当に大きかったのです。 ある日、自転車がパンクしたのです。お家の方はこれを機会に、みっちゃんの自転車のりを少しお休みさせたいなと思われました。それで「みっちゃんが太ってる間は、自転車にのれないよ。自転車が可哀想。なおってもまたパンクしちゃうからね。やせたらね」ってお話されたのでした。それからはみっちゃんは自転車のことがとても知りたくなりました。「何キロ(グラム)になったらみっちゃん自転車乗れる?」「太っとると、自転車だめなんか?」「先生のおうちの自転車何色や?」「先生のおうちの自転車、ナショナルか?」・・私が自転車に乗れないのを知ると「先生、やせとるのに、自転車だめなんか?」って何度も尋ねてくれました。 ある日、学校に視察に来られた男の人はでっぷりとした体格の方でした。みっちゃんはすぐにその方のところへ飛んでいって、「おうちに自転車あるか?」と聞いていました。「ある」というお返事をもらうとみっちゃんはすかさず「おっちゃん、デブじゃないか?」と聞きました。その方は急に自分のことを「デブじゃないか」と聞かれて、そして現実に太っておられたので、どうしていいかわからなかったと思います。みっちゃんは担任の先生に「みちよぉー」って大きな声で叱られていました。私はみっちゃんの自転車にたいする思いを知っていたので、そんなときもみっちゃんがすごくいとおしいです。きっと担任の先生も本当は同じ気持ちだと思います。 みっちゃんの同級生のみかちゃんが学校に来ていたのに、そのひの夜に急に亡くなりました。みっちゃんは、人の死というものや、お葬式やお墓のことで知りたいことがいっぱいできたようでした。「先生どこのお墓はいるんや?」「お葬式の写真、みっちゃんいいの撮る(前に飾る写真)」・・・そんなふうにたくさんの質問をしていました。みかちゃんのお母さんが、お葬式のあと、初めて学校に挨拶に来られたとき、みっちゃんはみかちゃんのおかあさんに「みかちゃんのお墓、星山石材か?」と聞いていました。そのときもみっちゃんは担任の先生にあわてて「みちよぉー」と叱られていたようでした。私も、すごく興味があるもののときはなんでも聞きたくて聞きたくてしかたがなくなります。この間も、私の家に住んでいる人の調査に来られたおまわりさんの腰にさげたピストルがすごく気になって、帰り際「あの、おまわりさん、そのピストル本物ですか?」って聞いて、すごくお巡りさんに笑われたところです。だからおんなじですよね。 こんなこともありました。みっちゃんは食べるのが大好きです。お菓子が大好きで、たくさんあるときはびっくりするほどのスピードで食べることができるのですけど、給食などで決まった量しかないときの好きなものは、とても大事だから超ゆっくりスピードでそれを食べるのです。ケーキが出たとき、なめるくらいゆっくり食べていたら、あまりの遅さに、担任の先生に「みちよ、そんなにゆっくり食べていたら、口の中でうんこになるぞ」って言われてしまったのです。みっちゃんのうしろっかわで給食を食べていた私の方を振り返って、みっちゃんはべーと下を出して「うんこになったか?」って心配そうに聞きました。私は、そんなふうにみっちゃんのそばにいるのが本当にうれしかったです。 みっちゃんはそんなふうにして時々叱られていました。でも、何について叱られているのかわからなくなることがありました。みっちゃんはなんだっていつも一所懸命です。謝るときだって一所懸命あやまります。「もうしません」「ごめんなさい」「もうしたらだめなんやって」「もうだめだからしません」とずうっと何度も謝ります。叱られたとき、みっちゃんはそのことをたぶん悪いって思わないことも多いから(だってみっちゃんにとってすごく知りたいこととかしたいことっていうだけのことだったりもするのですもの)何について叱られてるんだっけて思うのだと思うのです。そのまま「ごめんなさい」で終わったらいいんだろうけど、だけどいったい何について謝ってるのかみっちゃんも心配になるのでしょう。「もうしません」「もうしたらだめなんやって」のすぐあとに「なんや?」って言ってしまうのです。「もうしません」「なんや」って言われると、叱ってる先生も拍子抜けしてしまって、でも先生はわかってほしいと思われるから、またもう一回すごく叱られてしまうのです。わたしはそんなみっちゃんが大好きでした。家へ帰ってからも、みっちゃんの口癖の「もうしません」「もう悪いことしません」「なんや」っていうのを一人でつぶやいて、みっちゃん大好きって言葉を抱きしめたりします。 みっちゃんのことが大好きなのは、私一人ではありません。みっちゃんのふっくらした腕や、みっちゃんの物言いが可愛くて、つい他の先生もからかってしまうのです。「みっちゃんの手、ちょっと噛んでいい?」みっちゃんはもちろんすぐに走って逃げて行きます。みっちゃんは熱いの大嫌いだから、火のそばもきらいです。痛いの大嫌いだから、歯医者さんはいきません。恐いの大嫌いだから、犬のそばにもいきません。一度ベルトのバシンという音を聞いてからは、ベルトをしてるだけで、みっちゃんに嫌われてしまうくらいなのです。「痛いの嫌なんやって」「痛いの恐いからだめなんやって」って言いながら、すぐにいなくなってしまいます。 みかちゃんが亡くなったとき、私は自分で悲しい気持ちをどうしたらいいのかわからなくなりました。子供たちの前なのに、立っていられないくらい悲しくて、その悲しみをなかなか受け止めることができずにいました。そんなとき、私のそばにずっと立っていて気がつくとどこへもいかずにいてくれたみっちゃんは私にそっと言いました。「山元先生、みっちゃんの手、ちょっと噛むか?」みっちゃんはもしかしたら噛まれて恐くなったとしても、痛くなったとしても、私を元気にしてあげたいと思ってくれたのだと思います。私は今度はみっちゃんのやさしさに胸がいっぱいになって、みっちゃんを抱きしめました。それから痛くないほどみっちゃんの手をちょっとだけ噛みました。そしたら、悲しい気持ちがなおっていったようでした。
2006/05/24
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いじめられていたよ 安井くんが、ある日、「僕、ずっといじめられていたよ」と私に言いました。「どうして安井くんはいじめられなくてはならなかったの?」と、私達はもう、なんでも話し合えるようになっていたので、尋ねました。 安井くんは「僕、勉強できなかったからね」と言いました。安井くんは、ひらかなのちいさい《っ》の字の使い方や、《を》の字がにがてだったり、計算がにがてだったりということはあります。でもこんなに作業も上手だし、なによりとてもやさしいし、とても頼りになるなあと助けられてばかりの私はそう思います。「だのに、いったいどうして?」と、もう一度たずねると、安井くんは「テストの点がよくないといじめられるんだよ」と言いました。 どうして、そんなことでいじめられちゃうんだろうと、私はその日ずっと考えていました。 そして、自分が小学校の教員をしていた時のことを思い出しました。私はたくさん日記を書いてきてくれるということが、うれしかったのです。ドリルをいっぱいしてきてくれる子をすごいなあと思っていたのです。だから、そんな時はみんなの前で、「がんばったねぇ」とうーんと誉めたような気がします。でもそれって、もしかしたら間違ってたかもしれないなって思います。 字を書くのがにがてで、どうしても日記が進まない子はどんな思いでいたでしょうか。どうしても問題を解くのがにがてで、一枚ドリルをするのにとても時間がかかって、それでも一所懸命にドリルをしてきた子はどんな気持ちでいたでしょう。 日記やドリルをたくさん書いた子だけを取り上げることで、日記をたくさん書く子がいい子、ドリルをたくさんできる子はすごい子、反対にドリルや日記があまり書けない子は駄目な子、という意識をいつのまにか子供たちに植えつけることにはならなかったでしょうか。 そしてそういうことが続けば、それが子供たちのいじめにつながらないとだれが言えるでしょう。それなのに私はその時に特別のご褒美シールまであげてしまっていたのです。 誉めることが駄目なことだとは決して思いません。日記やドリルをたくさんしてきた子には「頑張ったね」と私のうれしい気持ちを告げればよかったのです。でも、私は、どうして笑顔のとても素敵な子、元気に遊べる子、釣りのうまい子、虫の名前をたくさん知っている子、足の小指の形がすてきな子を、テストでいい点をとれた子と同じように「すてきなことだよ」と、みんなの前で認めることをしなかったのでしょうか。 みんな、いろいろすてきなところがあって、いろんな所で同じように「素敵だよ」と言ってもらえたら、きっと子供たちは(勉強できる子がいい子、できない子が駄目な子)という思いを持たずにすんだと思うのです。クラスの一人一人が、お互いにすごいなと、認めあうことができたと思うのです。 学校は、勉強だけでなくて思いやりのある豊かな心を育てるところであるべきなのに、実は私たちこそが、子供たちにわける心や偏見を植えつけてしまっているのではないでしょうか。 いじめをした子に「どうしていじめたの」と責めてばかりいる私たち。でも本当に間違っていたのは、子供たち一人ひとりの存在を認めず、大事にしてこなかった自分たちなのじゃないかな、と思います。
2006/05/23
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僕「植物人間」と言われていた以前、お名前は忘れてしまったのですが、医王養護学校の重心に勤務しておられた先生のお話で、病院におられる「植物人間」と思われているお子さんに医療機器をつけて、病院内をストレッチャーで散歩したり、外を散歩していると、あきらかに子供さんの心拍数や呼吸の様子が違うことがわかるということがありました。それでその先生はどんなに障害が重くても、外の風や外の雰囲気は子供さんに影響を与えていると思うと言っておられました。私もきっとそうに違いないと思うのです。「息をしているだけ」などと言われている方だってみんあ同じように気持ちをもっておられて、ただそれを伝える方法がご本人や、周りの人にみつけられないだけなのではないだろうかと思うのです。昔知り合った友達がこんなふうに教えてくれました。「僕は暴走族やってて、バイクでけがをして、下半身不随になってしまったのだけど、事故の後、長い間、植物人間やったんや。でも本当は植物人間じゃなくて、栄養も鼻からいれとったけど、いろいろわかっとったんや。あれが食べたいとかも思ったし、寝ているときも多かったけど、目をつぶっていてもおきていることも多かった。『何もわからんようになってしもうて』とか言われて、中には高校の教師でお見舞いにきて『こんな体になってしまって、分からんことが幸せかもしれん』て言うたやつがおって、本当に傷ついた。前の暴走族のときの仲間が来て『俺なあ、族をやめるわ。妹さんや母さんや、父さんが事故のことでこんなに悲しんで泣いとるのを見たら、俺もいつ事故るかわからんし、親孝行はできんけど、悲しませんようにならできると思ったんや。おまえのおかげでそう思えたんや。もう無茶やっとられんしな』って僕の枕元でしみじみ言うてくれたとき、僕が聞いてるってわかって話してくれてるんや、そうや、やめたほうがいいと本当にうれしかった。僕の親友はこいつやと思ったよ。な、先生。寝てるだけど言われている人もみんないろんなこと考えているんやわ。先生、絶対にそのことを忘れんといてな」そして「暴走族って呼ばれている連中もいいやつばっかりなんやから、高校の先生にもしなることがあったら、そのことも忘れたらいかんよ」と言いました。それからこんなこともありました。病院の付属の学校にいたとき、肺炎でかつぎこまれた小さな女の子が意識不明になり、それを乗り越えたとき、「眠ったまま息をしているだけ」の状態になり、個室からようやく大部屋へうつってこられたときも、そばについておられたお母さんは毎日ただ泣いてばかりでした。学校へ通っている子供たちと同じ病室だったので、しょっちゅうその部屋に出入りしていた私は、何も言ってあげられず、つらい気持ちでしたが、毎日いると女の子の様子で気がついたことがあったのです。女の子の目はいつも遠いところを見ているようでしたが、それでもお母さんがそばについておられる時と、そこからお母さんが離れていこうとされるときの女の子の目の様子が、どうお話ししたらいいのかわからないのだけど、違うように思えたのです。お母さんにお話するとそんなはずはないとおっしゃいましたが、毎日のことでしたので、それは間違いのないことのように思われました。食事はチューブで鼻から入れていたのですが、看護婦さんにお願いして、口にちょっと味見だけと言って、コンソメのスープを入れると、女の子の目はあきらかにうれしそうでした。お母さんはとてもよろこばれたし、女の子もきっととても嬉しかったと思います。お母さんは私に、「泣いてばかりいて、この子に話しかけることを、この子を見つめることを忘れていました。この子が死んでしまったほうが幸せだったのかも・・・などと、この子のこと、そしてある日は、自分の将来のことを考えて、そう思ってしまっていました、でも、もう泣くのは少しだけにします」とおっしゃいました。女の子は3ヶ月くらいでどんどん表情が出てくるようになりました。もしお母さんが「女の子に話しかけるのを忘れてたけど、今日からは一緒に気持ちをお互い伝え合っていきます」と決心なさらなかったら、今の女の子の状態はなかっただろうなと、本当に素晴らしいお母さんの力を思いました。私たちはすぐに目に見えるだけで判断してしまったり、思いこんでしまったりするけれど、その多くはまちがいだと気がつきます。目に見えないところに、心の言葉があり、それを伝えたいという気持ちと、それを聞き取りたいという気持ちが重なって、お互いが大好きどうしになれた時にこそ、心の言葉は伝えられるのだと思います。
2006/05/22
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剛くんのこと剛くんと一緒にいて、自分の中でどう考えたらいいのだろうかと思うことがひとつありました。それは、車椅子のブレーキのことです。車椅子は坂道などでころげていかないように、どれにもブレーキがついています。そのブレーキもさまざまな作りになっているのですが、剛くんのブレーキは剛くん自身はブレーキをかけたりはずしたりすることができないタイプものでした。このタイプは介護者が後ろからペダルを上げ下げすることのみで操作するようになっています。この車椅子は、乗っている人の気持ちで、ブレーキをかけたりはずしたりということができにくいので、実際に、動きたいという気持ちがあっても、またそこにはいたくないんだという強い気持ちがあったとしても、自分ではどうにもならない状態で、その場所に拘束されてしまうということがあると思います。剛くんはとても元気です。それから少々無鉄砲な面もあります。それゆえに今まで何度も大きな怪我をしてきました。たとえば十分に手が足りない状況では、剛くんの安全を守るために、後ろブレーキをかけておくということはとても大切なことでもあるのだと思います。それでも私はこの後ろブレーキをすんなりと心に受け止めることができませんでした。なにかものを考えるとき、どうしても自分に置き換えてしか物事を考えられないのですが、私が、どこかへ行きたくても行けない状況、そこにいたくなくてもいさせられる状況というのは、私にとってそれはひもでほどけないようにしばられていたり、鍵を外からかけられていたり、もっといえば足に足かせをかけられている状況とほとんど変わらないのではないかという迷いが私の中にはあったからです。もうひとつの思いは、この後ろブレーキは本当に安全のためだけかということでした。剛くんは動くのが大好きです。けれど、この授業のときは、どうしても教室にいてほしいとか、集会はもし嫌だとしても参加してほしいというときに、私はこの後ろブレーキを何も考えずに使っていました。そこにいて欲しいなら、まず「この時間はそこにいてね」と頼むべきなのに、それもせずに、まるで、車椅子を止めたらまずブレーキをかけておくのが規則なのだとでもいうように、この後ろブレーキをかけてしまっていたのです。そこには剛くんと気持ちを通わせたいという思いがあるといいながら片方では、こんなふうにこちらの気持ちをきちんと伝えることすらせずに後ろブレーキをかけてしまっているとても勝手な自分がありました。学校では教員と生徒はほとんど一対一の関係でいることができます。後ろブレーキは、剛くんの命を守るために、とても必要なものだとしても、学校ではそばにいる自分が十分に気をつけていられたら、ブレーキはそれほど必要ではないかもしれないのです。学校では自分でかけはずしのできる前ブレーキの車椅子に乗り換えるということは実際的でないので、できるだけ後ろブレーキは使わないでいてみようと考えました。後ろブレーキをやめた最初の日、「剛くん、今日はブレーキはかけないけれど、できたら集会にはいてほしいの」そう言ってからそばにいてとても驚くことがありました。剛くんは集会の間、何度か、車椅子を動かそうと手を車椅子のガイドのところへもっていくのですが、自分からすぐにやめてまたひざの上に手をもどすのです。それは集会の時はここにいるんだ、みんなといるし、集会にも出るんだという剛くん自身の気持ちのように私には感じられました。集会のときに、今月の月予定を貼る仕事をしてから席にもどるときのことでした。「剛くん、そのまま後ろ向きに下がってね」と手で合図をしたとき、(剛くんは難聴でほとんど聞こえていないと言われていますが、実際はそうじゃないように思います。)剛くんはガイドをもって、車椅子をゆっくりさげて、もとの場所で、ぴったりと止まったのです。私はそれをみて、自分をとても恥ずかしく思いました。剛くんのことを何も知らず、剛くんはいろいろなことがむつかしいんだと勝手に決めつけていたのだということがわかったからです。剛くんは、自分の気持ちで、ここにいて、私の気持ちをくんで、後ろに下がって、自分のもといたところで止まっているのです。今こんなに驚いているのは私が剛くんにはできないだろうと思いながら頼んだのだからなのだと思いました。きっと剛くんにとってはうんと前から持っていた力で、当たり前のことなのでしょう。それなのに、いつも車椅子を押して、決められたところで、止め、後ろブレーキをかけて動かないようにしている私に何も文句も言わないで剛くんは私といてくれるのだなあと思いました。剛くんは本当はこんなに大きな力を持っているのです。何度、剛くんの大きな力を知っていっても、私は繰り返し間違いばかりしてしまいます。学習発表会で、剛くんはチビぎつねの役ををしていました。お母さんぎつねの私はいつも剛くんと一緒に出ていたのですが、私はそのとき、剛くんはストーリーを理解することはむずかしいから、今できることを観客の方々に見ていただければいいと思っていました。それで、それまでよく練習をしていた、洋服を着ること、ボール(雪玉)をなげること、お金をおにいちゃんぎつねに手渡すこと、おにいちゃんを見送るときに手をふることを見ていただこうと思っていたのです。そしてその動作は、ストーリーを追っておこなわれるのではなく、その場面場面で、雪玉やセーターやお金を渡すことが合図になっておこなわれればいいと思っていました。そして手をふるときも私の手を振るのよという合図でおこなわれればいいと思っていたのです。剛くんはステージの上でも後ろブレーキをかけないでも、動いてねと行ったところだけ動いて、あとは待っていてくれました。後ろブレーキをかけておかないとステージから落ちてしまうのじゃないかという心配はぜんぜんいりませんでした。けれど、剛くんがストーリーを追ったり、劇中の人物になって演じるということは考えもしていなかったのです。でも剛くんは本当は、いつも劇中の人物の心になって、劇を演じていたのでした。本番になって、お金を渡した後、剛くんが手を振るシーンです。振り返って剛くんに手を振るんだよとつげようとしたときに、そこにはおにいちゃんぎつねに向かって一所懸命手を振る剛くんの姿があったのです。私は剛くんがストーリーを追うことなんてできっこないと思いこんでいたので、とても驚きました。その後、お兄ちゃんぎつねが無事に戻ってきた感動的な場面で、不安げな役を演じている私をやさしくなぜてくれている剛くんがまた涙を流していたのです。総練習の時にも同じ場面で剛くんは泣いていました。私はステージの上が暑かったのかしらと考えていたのです。練習の時にも一度同じ場面で泣いていました。私はそのときも、練習が嫌なのかしらと考えていたのです。でも本番の涙を見たときに、剛くんはチビぎつねの気持ちになって泣いているんだとはっきりと分かった気がしました。それからも剛くんはたくさんの力を私にみせてくれました。学習発表会のパイプいすを運ぶという仕事が高等部にはありました。私は今まで剛くんは重いものはぽんと車椅子から放りなげてしまうと思いこんでいたのです。けれど、これをこうやってもって運んでねと剛くんにたのむと何度もうれしそうに運んでくれました。ここでも自分の気持ちをきちんと伝えることをせずに、剛くんはできないんだと決めつけている自分を見ることになりました。今、剛くんと私はとても楽しくてうれしい関係にあるなと感じています。それは後ろブレーキをかけないで剛くんといようとしている私の気持ちをくもうとしている剛くんの大きなやさしさの力なのだと思います。毎日の生活で、私が、本当のことを見ずに、決めつけて、押しつけてしまっていることのなんと多いことでしょう。剛くんと私の関係において、後ろブレーキのことを考えることがとても大きなことだったのだと思うのです。
2006/05/21
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みかちゃんの話みかちゃんが亡くなりました。亡くなったその日も、みかちゃんは変わらず登校していたので、知らせを受けても、すぐには、亡くなったという事実をうけとめることができませんでした。思えば、愛をいつもいっぱいいっぱい感じていたいという思いであふれていて、それから心の中が、何かの原因で、(もしかしたら、原因さえもみかちゃん自身はっきりしないのかもしれませんが・・)不安になり、自分の頬を何度も繰り返し強く殴ったり、大きな机をひっくりかえしたり、時にはそばにいる人の髪を引っ張ってしまってでも、どうにかしてその不安から抜け出ようと、いつも戦っていたみかちゃんでした。みかちゃんのその行動は、自分の不安を打ち消すためのみかちゃんの持つ大きな力であると共に不安との戦いだったと思います。そして又、それは、私達まわりにいるものに対しての「助けて」という叫びだったようにも私は思えるのです。みかちゃんの行動はどうしても、誤解を生みやすかったと思います。「もっともっと愛して、私を不安から救い出して。」という気持ちから起こる行動なのに、私達は、すぐに《どうしたら、みかちゃんの不安を打ち消すことができるか。》ということを考えずに、《どうしたら、みかちゃんは髪を引っ張らなくなるだろう。机をひっくりかえさなくなるだろう。》と考えてしまうのです。それで、「みかちゃん、だめでしょ。」ときつく言ったり、時には、髪を引っ張られないようにと、みかちゃんから逃げてしまったりということになってしまったのではないかと思います。いつも愛をいっぱい感じていたい、みかちゃんにとって、それはどんなにつらいことだったでしょうか。かえって不安を大きくしていたに違いありません。みかちゃんが、あんなに一生懸命生きて、戦って、助けを求めていたのに・・みかちゃんは昨年の冬、体調が長い間すぐれませんでした。高い熱が続き、みかちゃんの心の不安がとても大きくなっていました。みかちゃんは不安をなんとかしたくて、顔をたたくので、顔が紫色に腫れ、皮膚がやぶれて、大きな血の固まりで顔半分がおおわれました。目もふさがりそうに腫れていました。このままでは失明してしまうのではないかと思ったくらいでした。直接みかちゃんを担当していなかった私は、みかちゃんが大好きだったからなおさらみかちゃんのつらそうな様子に出会うと涙が出てしまって、同僚から、「そんなに泣いてしまうのなら、そばに行かないほうがいいよ。」と言われてしまうほどでした。高い熱があまり続いたので、みかちゃんはお母さんの付き添いで病院に入院しました。みかちゃんの不安との戦いがあまりに大きかったので、入院した部屋は、外から鍵がかけられ、窓もとても小さい部屋でした。トイレも中にあって、一日中その部屋から出ることができない状態でした。入院と聞いてお見舞いに出かけ、職員の方に鍵を開けていただいて、中に入ると、又すぐに外から鍵がかけられました。テレビも何もないその中で、お母さんは、髪をタオルでしっかりとおおい、みかちゃんをおふとんの中でしっかりと抱き締めておいでたのです。お母さんは「こんな姿でごめんなさい。みかが髪をひっぱりたがるので・・」とおっしゃいました。私は、みかちゃんが私たちに求めていたのはこういうことだったのだと思いました。みかちゃんを叱るのではなく、みかちゃんから逃げるのでもなく、みかちゃんとしっかり向き合い、髪にタオルをまいて、みかちゃんをしっかりと抱き締めて「大丈夫だから、お母さんがそばにいるからね。」ときっとお母さんは言い続けておいでたのだと思います。私はお母さんがしておいでることに感動しました。そして(私にお母さんのようなことができるだろうか。)と考えていました。閉じられた中でテレビもない空間で、時間がこんなにもゆっくりすぎる空間で、朝を迎え、夜を迎え、また朝を迎え・・お母さんはもう十日もこうしておいでたのです。でもお母さんはおっしゃいました。「いつも淋しい思いをさせているけれど、病院に入っている間は、みかのことだけを考えて、相手ができるし、こんなにたくさん抱き締めてもやれるから、何も大変なことはないですよ。これは神様が私に与えて下さった時間だと思います。」そして、お母さんはみかちゃんのつらい思いを考えては涙されておいでました。私はみかちゃんのお母さんは、みかちゃんの体を抱き締めながら、本当はみかちゃんの心をしっかりと抱き締めておいでたのだと思いました。お通夜の席で、「いつもいつも心にかけて下さって、みかを可愛がってくださってありがとうございました。」とみかちゃんのお母さんはおっしゃいました。私は、悔やまれて悔やまれてなりません。みかちゃんは、あんなに手をのばして、私を呼んでくれたのに、私はみかちゃんの苦しみを知りながら、何も、何もできませんでした。みかちゃんは高校二年生で亡くなるというあまりに短い一生だったけれど、みかちゃんの教えてくれたことは何て大きかったのだろうと思います。人間のもつ力はなんと素晴らしいのでしょう。自分の心の不安をなんとか自分でたてなおそうとするのです。そして、それをまわりにいる人たちが理解してさえいれば、きっといつかその不安に打ち勝ってたちあがることができるのです。みかちゃんは、そんな時、天使を思わせるような可愛い優しい顔で、にっこり笑ってくれました。人間と人間は、お母さんがなさったように、きちんと向き合って、そして、お互いを大事に思いながら、誠実な気持ちでお互いがいるべきなのです。なんだか変なことを言うようですが、もし、もし、受け持ちの子供が明日、亡くなってしまうことがあっても、自分はいつもできるかぎりその子供と誠実に向き合っていたと思えるようにしたいと強く思いました。みかちゃんのお父さん、お母さんは、みかちゃんの手足がだんだん紫色になって、お医者さまがもう心臓マッサージをしても無駄だからとおっしゃっても、「生きて、生きて」とマッサージを続けられたそうです。どんなにみかちゃんを可愛く大事に思っておいでたかということを、いまさらながらに感じました。緑のきれいな、みかちゃんの亡くなった五月を、これからむかえる度に、私はかならずみかちゃんのことを思うに違いないと思います。「スキスキして・・」「大事、大事して・・・」というみかちゃんの言葉の大切さを忘れないと思います。
2006/05/19
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あっちゃんの話 入学式の日、教室へ入っていくと、あっちゃんがいました。「僕が今日から、この養護学校の中学部一学年に入学したものです。以後、よろしくお願いします。」という、あっちゃんの丁寧な挨拶に、思わず、「わたしの方こそ、よろしくお願いいたします。」とこちらも丁寧な挨拶を返しました。でもね、私たち、いつも、そんなに紳士、淑女みたいな丁寧な関係だったかというと、時には、そうではありませんでした。 あっちゃんは、いつも身体全体で、いろんな事を感じていました。それは、あっちゃんのとても素敵な力です。、しかし、またそれが、あっちゃんの住む社会や、生活を狭くもしていました。そして、私たちはいつもそのことで、よく言えば気持ちの伝え合いを、悪く言えば、対決をしていまっていたのです。あっちゃんは、たとえば、今、耳にしている音は、全て心にも入ってくるようでした。私は、あっちゃんと違っていっつもぼぉっとしているので、友達と話しているときは、その時、そばでチクタクいっている時計の音も、隣の部屋の声も、みんな全然心には届かずに、友達の声だけを耳にしているように思うのに、あっちゃんは、そうではないようでした。遠くを走る電車の音も、飛行機の音も、遠いところで泣いている、赤ちゃんの泣き声も、水道の音も、私の話し声も、みんなみんな、選ばれずに入ってくるみたいなのです。たから、あっちゃんは、集会が嫌いでした。映画館が嫌いでした。旅行が嫌いでした。 あっちゃんは、今、皮膚に触っているものは、全ていつも感じているようでした。椅子に座っているお尻の感じ、長袖の袖口や、学生服の詰め襟、衿についたタグ、・・いつも感じているようでした。だから、あっちゃんは、袖を折り曲げて着るのを嫌だと言いました。Tシャツのタグはみんな引きちぎってしまいました。 あっちゃんは、味覚においても同じでした。今、味のするものは全て心に届いているようでした。あっちゃんは、自分の舌の味がするから、それを消したいと言って水をしょっちゅう飲みました。水の他は、少しの味の違いを感じて、明治のコーヒー牛乳だけしか最初は飲んでいませんでした。食べるものも、カルビーのポテトチップスだけでした。お母さんが作ってくださるお弁当も、給食もみんな、「不確実な味がする。」と言って食べようとはしませんでした。あっちゃんは、今、目に入っている音がみんな心に届いているようでした。そして、記憶においても、もしかしたら、同じようなことがあるのかもしれません。あっちゃんは、散歩に出掛けて見た一瞬のバスの時刻表を、思い出しながら、正確に書くことができました。新しい部屋の天井に穴がたくさん並んでいる素材が使われていると、その穴がいくつあったかをあとで数えることができました。本当に、あっちゃんの才能は素敵なのです。でも、一度にそんなにたくさんの刺激が入ってくることは、あっちゃんにとって、苦しいことだったんじゃないかとよく思いました。だから、あっちゃんは、決まったものを食べたかったし、決まった道を通りたかったし、そして、静かな場所にいたかったのだと思います。あっちゃんのそんな苦しみがだんだんわかってきていたのに、でも私は、あっちゃんにもっとたくさんのものを食べて欲しかったし、集会でも一緒にいたかった・・映画もいっしょに見たかった、修学旅行も行きたかった・・。 そのことは私の本当に自分勝手な思いで、あっちゃんの苦しみを思うと、そんな勝手なことを思っていいのかどうなのか、わからないのに、私はあっちゃんとしょっちゅう対決をしました。「ねぇ、今日の飲み物は明治のコーヒー牛乳でもいいから、ポテトチップスはカルビーでなくコイケヤにしてくれないかしら。」そんな風な気持ちのぶつけ合いをたくさんしました。私の武器は“こちょこちょ地獄”です。「5・4・3・2・1・0・こちょこちょ」と言葉では、「ねえ一緒に集会でようよ。でないとこちょこちょ地獄しようっと。」と優しいけれど、「いくよ。」というまでされるこちょこちょは拷問のひとつかもしれません。こちょこちょはたたいたりするんじゃないから・・とか、自分から「する。」って言ってからしてくれるんだから、ひきずって無理にさせるより、ずっといい・・とか、お互いに折り合えるように譲り合っているのだから(私は本当は、コーヒー牛乳だってモリナガも飲んで欲しいけど、今回はあきらめる。)と私なりに、自分の正当をなんとか心の中で思いたくて、いろいろ考えていましたが、あんなに嫌がったあっちゃんに本当にしてよかったのかどうかは今でもわかりません。 あっちゃんは、なかなか、こちょこちょ地獄で「まいった」とは言ってくれませんでした。顔を真っ赤にして怒ったり、泣いたりして「嫌だーー。」と言い続けました。そして私の髪をひっぱってたくさん抜いてしまったり、手をブルンブルン振り回したりして、自分の気持ちを伝えていました。私は絶対にたたいたり、怒ったりしないのに、いつまでもあきらめが悪いのです。「どうしてもしてほしいの」と譲れないのです。どんなときでも優しいのはあっちゃんの方でした。そんなに嫌がっていたのに、その内、突然、真っ赤な顔から、すうっと白い顔にもどって平然と「では、そろそろ集会室に行くとしましょうか。」と言いだしてくれるのはあっちゃんでした。そして、その後は、にこにこしながら、私と仲良しになって、腕なんか組みながら、歩いて行って、耳を押さえながらも、ずっと集会室にいるのでした。一度、集会室に行った後は、私といるときは、すんなり集会室に入っていってくれるようになりました。(でもね、不思議なのですけど違う人とだったら、また、怒って顔を赤くするのです。)きっとね、あっちゃんは、私との話し合いがついたと思ってくれていたのかもしれません。だってあっちゃんも私も、一生懸命気持ちを伝え合ったんだもの。 そんな対決を繰り返していくうちに、あっちゃんは、いろいろなものを食べてくれるようになりました。それから、映画も行ってくれるようになりました。あっちゃんはきっとお互いの気持ちを測りあいながら、僕の気持ちもきいてね、あなたの気持ちも聞くからねと考えてくれていったのだと思います。そんな繰り返しが何度もあったことが、私たちにとっては今考えるととても大切だったと思います。そしてそのことがあっちゃん自身の大きな苦しみがあるのにもかかわらず、私のわがままをすべて大きくつつんで、気持ちの伝え合いをしてれたあっちゃんの力なんだと思います。 私が転勤になって他の学校に変わってから、私たちは、県内の養護学校の合同の体育大会で、出会いました。体育館の玄関で、あっちゃんは、顔を真っ赤にさせて、担任の先生に、「僕は出ないことにしています。」と泣きながら怒っていました。私が「あっちゃん。」と小さな声でつぶやいたのがあっちゃんの耳に届きました。そしたらね、あっちゃんは、白い顔になって「山元先生が来てしまったからにはしょうがありませんね。」と言って体育館に入っていったのです。担任の先生が「どんな魔法を使ったのですか。」と言われたけど、私はきっとあっちゃんが今でも、私とかわした約束だから(言葉では約束なんてしていないけど)守らなくっちゃ・・と思ってくれたんだなとうれしくてそして涙が出そうになりました。あっちゃんはよく「なんてわがままで自分勝手なやつだろう」と思われてしまいがちです。でも違うと思います。あっちゃんはあいかわらず聞こえてくるたくさんの音や、刺激にとてもつらくなりまがら、いつも精一杯自分を守ろうとしているのです。そして時には自分の気持ちをコントロールしながら、その日、私にしてくれたように、昔の約束を忘れずに、誠実で、やさしく、相手の気持ちをきちんと思ってくれる人なのです。このことをみんなにお話したいなあと思いました。 それからね、あっちゃんはあっちゃんだから、あっちゃんがたとえば自閉症かそうでないかということはたいして大事なことではないと思うんですけど、「自閉症とは」なんていう本に、「自閉症の子はコマーシャルを好む、耳を押さえることがある、パニックをおこす・・」という風によく書かれているけれど、その本のそこの部分だけを読んで、それが全てのように思い込んでいたとしたら、耳をおさえることも、コマーシャルを好むことも否定的な行動にとして、とらえてしまったり、自閉症だから、耳を押さえるんだなと思ってしまって、それで終わってしまうのではないかしらと思います。もし、一生懸命気持ちを伝えている行動をパニックをおこしたという言葉で片付けていたら、その行動を無視したり、その行動を叱ったりして、気持ちの伝え合いはできないんじゃないかと、あっちゃんに教えてもらって、そう思いました。だって、誰だって、どんなことだって、行動には必ず理由があるのですよね。
2006/05/18
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みつるさんのタイプアート「子供たちの作品展を、私達の住む町でも開きたいのです」とお父さん、お母さんがたが運動をして下さって、実現することが多くなってきました。先週は、小学校の学区の文化祭の一区画で、地域の子供たちと並んで、私達の学校の子供たちの作品展をしていただきました。私は、その作品展を見て、昔のことを思い出しました。短い間に、時代が変わってきているんだとそう思いました。私が教員になる数年前、養護学校が義務制になりました。それまで、学校へ通いたくても通えず、就学猶予になっていた子供たちが学校へ通うようになりました。けれど、地域の学校への受け入れは難しく、子供たちは、遠くの養護学校へ、親元を離れて生活しながら通わなければならないことが多くなりました。みつるさんも長い就学猶予の後、義務制で、福井県から、石川県へ来ていました。その時、高校2年生でしたが、就学猶予が長かったので、年令は私より上でした。みつるさんとは、タイプの時間で一緒でした。タイプについても、何も知らない私は、みつるさんにひとつひとつ教えてもらって、授業をすすめている状態でした。みつるさんがその時に取り組んでいたのは、タイプアートでした。タイプアートとは、和文タイプを打つことで絵を描くもので、繰り返し打ったところは濃い影になり、一度だけ打ったところは光があったったようになります。それはちょうど、細かいクロスステッチ刺繍で描かれた絵のように美しいものでした。みつるさんは「僕は首がまだ座っていないので ……」とよく言いました。生まれるときに仮死で生まれたみつるさんは、首に力を入れることが難しく、いつもお辞儀をしているようにも見えました。手足に麻痺があり、車椅子に乗っていました。みつるさんがタイプを打つことは、優しいことではありませんでした。首がなかなかあがらないので、絵を見ながら打つことができません。えいっと力を入れて、頭をあげた瞬間に絵をさっと見るのです。手の麻痺によって、思ったところへ指を持っていくのも、たいへんな努力が必要でした。そして、タイプアートは失敗が許されないのです。一度間違えて修正液で消すと、絵が汚れますし、修正するために紙を巻き上げてまた下ろすと、場所がずれてしまうのです。だから、とても神経を使います。みつるさんのタイプ打ちは、手が好き勝手に動いてしまうのを、自分の力でどうにか押さえようとしながらタイプを打つので、とても疲れるのだと思います。「少し、休んだらいいのに」とすすめても、みつるさんは汗をかきながら、仕事を続けました。そしてできあがったタイプアートはとても細かく、美しく、私はいつもその作品を、まるで自分が描いたかのように、誇らしく(私はそばにいて、練習していただけなのに)周りの人に「見て、見て」と自慢して歩くのでした。みつるさんは、恥ずかしそうに、でもうれしそうにそんな私を見ていました。ある日、雑誌の中で、タイプアートコンテストの文字をみつけた私は、大急ぎで居室へ行って、「ねえ、これに応募しよう」とみつるさんに言いました。最初は消極的だったみつるさんでしたが、応募の広告に載せられたタイプアートに自分の作品が決して見劣りしないのを知って、「みんなに見てもらうんだから、新しいのを打とうと思う」と言いました。コンクールの締切まで、一ヵ月しかなかったので、みつるさんは、学校から毎日、和文タイプの機械をひざにのせて持ち帰りました。いつもは、遠慮深くて、人になかなかものを頼まないみつるさんが「タイプをひざにのせてほしい」「タイプをおろしてほしい」と介護人さんや、教員にたのんでいるのを見て、私は(みつるさんも、きっと自分の作品をたくさんの人にみてもらいたいんだ)と思いました。もう締切も間近になり、タイプアートはできあがりました。みつるさんは、「自信あるよ」と嬉しそうでした。参観日があって、お父さんとお母さんがいらっしゃってたので、たくさんのタイプアートの作品をお見せしました。数々の作品の中でも、今仕上げたのはとてもいいできだとお父さんがおっしゃたので、「これは、コンテストに出すんです」とお話しました。ところが、私のその言葉を聞いて、お父さんとお母さんは、表情を固くされました。そして、「先生、わしたちは、この子をさらしものにしたくないんです。本当に申し訳ないのだけど、コンクールには出品しないように願います。」と言われました。どうして、コンクールに出すことが《さらしもの》になるのかしら、あんなにみつるさんは一所懸命だったのに、と思わず涙がこぼれ、お父さんやお母さんのお顔をみることができず「ごめんなさい」とその場を逃げるように部屋からでてしまいました。その後、泣いてしまったことを謝らなくてはとみつるさんの居室に出掛けると、もうお父さんとお母さんは帰られたあとでした。みつるさんは「おやじが、『すまんかった、むすめさんに悪いことした、でもわかってほしいと伝えてくれと言ってたよ』」と言いました。(あんなに一所懸命打った、タイプアートを簡単にあきらめてしまうの?)そう思っていた私にみつるさんは、「僕は、おやじを悲しませたくないんだ。だから、あきらめるよ」とそう言って静かに話しだしました。「信じられないかもしれんけど、車椅子なんて、ここにくるまで、ほとんど乗ったことがなかったんだ。いつも畳の上で、ごろごろしとった。外にはほとんど出んかった。僕はかなり大きくなるまで、自分が他の人と違うということに、はっきりとは気がつかなかった。何かしてほしいことがあれば、おふくろに言えば、ちゃんと用が足りた。何も困らなかった。外には出られないものだと思ってた。四つ離れた弟が小学校へあがるときだった。弟が小学校へ楽しそうに通うから「とうちゃん、俺も学校へ行く」と俺はとうちゃんに言ったんだ。いつものように、おふくろがなんとかしてくれると思っていた。そしたらそれまで人前で泣いたことのないおやじが「かわいそうに、あわれやな。お前がまともやったらな」とそう言ったんだ。俺は、「かわいそう」で、「あわれ」で「まともではない」んかとその時、思った。それから、おやじは時々、俺の前で酒を飲みながら泣くようになった。「お前が心配で死んでも死にきれん」といつも言っていた。おやじは昔気質な男だから、「かわいそう」とか「気の毒」と他の人に言われるのが嫌だったんだと思う。だから、僕を外に出そうとしなかったんだと思う。珍しく縁側の外の垣根で、たくさんの子供の声がしたから、僕は、畳の上をころがって縁側の方へ出ていった。垣根からたくさんの子供がこっちをのぞいて、ひそひそ話をしていたんだ。僕も子供が珍しく、じっと垣根を見ていた。おふくろがそれに気がついて、とんできて「なんしとるんや」と大声を出した。子供たちは「ひゃー」と言って、みんな逃げていってしまった。その子供たちは弟の学校の同級生だったことが、後でわかったんだ。弟は、家に泣きながら帰ってきて言った。「兄ちゃん嫌いや。兄ちゃんなんかおらんかったらよかったわ」その途端おふくろが、弟の尻を何度も打った。「兄ちゃんが悪いんやない。兄ちゃんが哀れなことになったんは、お母ちゃんの業のせいや」とおふくろはそう言ってやっぱり大声で泣いとった。俺だけ何でこんな体に生まれたんやろう、だあれも悪くないのにとずっと考えていた。ここに来たことで、親元を離れたのはいいことか悪いことかまだわからない。でも、おやじやおふくろの心は少し軽くなったと思う。俺には仲間がいると思った。俺は、もうおやじやおふくろを悲しませたくない。おやじやおふくろや弟は、俺のことでずっと悲しんできたんだ。先生、泣くな。あんなによろこんでくれて俺はそれで、もういいよ。ごめんな」みつるさんのタイプアートは、学校の中に飾られました。名前もつけずに額に入れて、飾られました。みつるさんとお父さんとお母さんと弟さんが、これまで感じてこられた痛みを思うと私は胸が張り裂けそうでした。こんなことは間違っている。なぜ、その人が存在することを、隠さなければいけないのだ。その人の生きざまを、なぜ否定しなければならないのだ。お家の人が間違っているというより、そういう生き方をせざるを得ないようにしている社会が間違っているのだと、私はくやしくてくやしくてなりませんでした。みつるさんは「しょうがないんだよ」と言いました。私も何もできなかった。そして、そのことはみつるさんだけでは、ありませんでした。作品を外で飾る時は、イニシャルが使われました。テレビの映像には、顔が移らないようにと後ろ姿ばかり取られました。新聞の写真でも同じでした。少し前だけど、そういう時代だったのです。みんなの作品を胸をはって見てもらえる日がいつかくるだろうか。そんな思いを抱いた最初でした。今新聞には、毎日のように、人が共に生きる共生についての記事がのっています。テレビでも、ドラマや、ドキュメンタリーで、共に生きるということについて触れられた番組が多くなってきました。そして、私達の学校のお家の方が、熱心にいろんな所で作品展を開こうとしてくださっています。時々、今一緒にいる子供さんが外で、「あの子は何にもわからんのやから」と言われた話を耳にすることがあります。そんな時とても心が痛むけど、少しの間にこんなに変わってきたのだもの。一人の力は小さいけれど、何もしなければ何も変わらないんじゃないかしら。お父さんお母さんがたが、子供たちのためにしていらっしゃることが、いつかまた、時代を変える大きな力になるに違いないと思います。
2006/05/17
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ウンチ記念日ホームページを見て下さった方からメールをいただいたのを見て、私とゆーちゃんにとってとても大切だったウンチ記念日のことを思いだしました。ゆーちゃんとは3年間一緒にいることができました。そのころゆーちゃんは壁にウンチを塗ることや、髪の毛にウンチをつけるのが気にいっていたようでした。ウンチは汚くて臭いという思いからどうしても抜け出せずにいる私は、いったいどうしてゆーちゃんがこんなことを好きなのかなあと不思議でした。だからゆーちゃんの気持ちがどうしてもわかりたかったです。ゆーちゃんが好きなのはウンチをつかんだ感じなのかしら、それともウンチのにおいなのかしら?もし感じなら、粘土で代わりができないのかしら?ゆーちゃんはマジックも好きでいつも匂いをかいで鼻の頭にマジックをつけてしまうくらいだから、ウンチと違うにおいで代わりにはならないのかしら?私はきっとゆーちゃんの気持ちをすこしも考えていずに、ただウンチは汚くて臭いもの・・・という自分の気持ちだけをそのときに押しつけていたのだと思います。でも一緒にいてウンチのことやおしっこのことを感じられるのはうれしいことですよね。あーーこのごろウンチ出ていないけどどうしたのかなあとか、おしっこの匂いがちがうみたいけど体調子が悪いのかなあとか、なお、ゆーちゃんのことが気になって、お尻をのぞいてしまうなんて失礼かもしれないのだけど、のぞいて「あ、もうウンチそこまで来てる」ってウサギのウンチみたいなころころウンチをそっと手でマッサージしてほじくってみたり、すごく大きなウンチが出てきたら、なんて大きくてりっぱなんだろうって、自分一人で見てるのはもったいなくなって、同僚を大声で呼んで「ねえ、すごくりっぱなウンチが出たのよ。すごーいでしょう?」なんて誇らしげに言ったりして、気がついたらゆーちゃんのことが好きで好きでいられなくなっている自分に気がつくことができるのはウンチやおしっこのおかげだったのかもしれません。あるとき、ゆーちゃんがウンチを出せない日が続きました。ウンチがおなかにたまってどんどんおなかがふくれていきました。ゆーちゃんはウンチをしたくてたまらないみたいなのです。でも一度ウンチをしたときにお尻が痛くなって、それがゆーちゃんの心の中にとても恐いものとして残ってしまったのだと思うのです。それでゆーちゃんはウンチができなくなってしまったみたいでした。朝、施設で下剤の処置をしていただいていても、ゆーちゃんはウンチをすることができませんでした。したくなっているのを怖いという気持ちが無理に押さえてるのです。ずっと声をあげてかなしそうに泣いていました。もう叫び声に近いような声で泣いていました。すわっていることもできずにごろごろ床の上で動いて、なんとかウンチをせずにしようとしているようでした。大丈夫よ、恐くないのよとそばにいて、おなかをさすったり、頭をなぜたりしてもゆーちゃんは苦しむばかりでした。もう体をさわられることすら痛みにつながるようなのでした。ゆーちゃんの苦しむ姿を見ていて、私はゆーちゃんがウンチを今しないでいる理由が、ウンチをしたときの痛みだけではない気がしていました。いつもそばにいる私の「ウンチは汚くて臭いもの」だという思いがゆーちゃんに知らず知らずに伝わってしまって、ゆーちゃんがウンチをすると私が悲しむんじゃないかと思ったからではないかと思いました。ゆーちゃんを苦しめているのは私自身なのだと感じました。ゆーちゃんも不安でたまらないのでしょう。なんとか苦しみからのがれたくて自分の顔を左手でうちつけていました。左のほおは紫色にはれてしまって、目がみえなくなってしまうのじゃないかと思うほどでした。そしてそのゆーちゃんの苦しみは3日も続いたのです。もう学校中の壁にウンチを塗ってもいいから、どんなにウンチをさわっていてもいいから「どうかお願いだからウンチさん出てください」といったい何度願ったことでしょうか?少しでも気を抜いてしまうとウンチが出てしまうとゆーちゃんは思ったのでしょうか?夜もねむることができずにいるゆーちゃんのそばにいることが自分でもつらくてつらくてしょうがなくて、ただゆーちゃんをだきしめていた4日目に、おーーという不安げなそして悲しい叫びとともにウンチは出てくれました。まるで爆発のように吹き出すたくさんのウンチをこんなにいとおしくうれしく思ったのは初めてでした。ウンチはお部屋いっぱいに流れ出すのではないかと思うくらいいつまでもいつまでも流れていました。いつも出ることが当たり前のように思っていたウンチ。汚い、臭いと思っていたウンチは、本当はこんなにありがたく、うれしいものだったのですね。ウンチをしたあと疲れ切って、でもとても優しい安心した笑顔で、私の腕の中で眠っているゆーちゃんを見ていて、私は自分の中でウンチへの思いがすこしづつかわってきているように思いました。ウンチはやっぱり臭いけど、洗えばとれる、出てくれることがすごくうれしいのだと思えるようになったのです。けれど、こんなふうに言えるのは、学校にゆーちゃんとふたりでいつでも入れるシャワーと湯船があるからだと思います。そしてゆーちゃんと二人ゆっくりとすごすことをゆるしてくれる同僚や子供たちの温かい気持ちとゆとりがあったうえでのことだと思います。もしたくさんの子供たちと自分が同時に向かい合わなければならない状態であったなら、おふろなんかにのんきに入っているゆとりなどなかったならそんなことは思いもよらないことだったかもしれません。ゆーちゃんがウンチを壁にぬったり、髪につけたりする理由は今もわからないままですが、私はそのウンチのことがあっていらい、ウンチを塗ることも髪につけることも、ゆーちゃんが生きるという上でとても意味のあることなのだと思うようになりました。自分を確かめるためであったり、気持ちをおちつけるためであったり、自分を確かめるためであったり、きっととても大切なことなのだと思いました。けっして自分の気持ちだけでこれはいけないことだと決めつけることはやめようと思ったのでした。
2006/05/15
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みんな気持ちを持っている自分の気持ちを「ビビビビー」とか「ブブブブー」というような言葉で伝えている中学生の男の子がいました。ご両親にお伺いすると生まれてから一度も話し言葉を使ったことはないということでした。私たちはその男の子がたくさんの気持ちを持っているということを頭でわかってはいながら、けれどたくさんのことがむつかしいのではないだろうかと思いこんでいたのです。それはたとえば勉強に取り組むときでも、トランポリンで揺れたり跳んだりするのがうれしそうだとか、犬が嫌いなようだとかいうように、彼が好きとか嫌いとかだけで、物事を判断していました。彼はサラダが嫌いで、特にトマトはけっして口にしようとはしませんでした。その日はおそらく担任の先生が彼に少しがんばってもらってトマトを一口でも食べて欲しいと思っていたのだと思います。私は少し離れたところで、クラスの子供たちと食事をとっていました。彼と先生とのトマトを食べることでの奮闘というか、格闘というか、そういう時間が15分くらい続いた頃だったでしょうか。びっくりすることがおきたのです。ご両親も私たちも一度だって聞いたことのなかった話し言葉で彼は吐き出すようにはっきりと言ったのです。「嫌いっていうとるやろう。さっきからトマトが嫌って言うとるのがわからんのか」その瞬間食堂はシーンと静まり返りました。誰もが今聞いた声のことが信じられなかったのだと思います。でも言ったのは確かに彼でした。何十人もいた教員や子供たちが確かに彼の心からしぼりだすような声を聞いたのです。ご両親はその場におられなかったので、「信じられません」と繰り返すばかりだったそうです。それから私たちは何度も「なぜ、彼は今まで一度も話し言葉を使わなかったのに、その時使ったのだろう」と話し合いました。でも誰もどうしてかということはわかりませんでした。ただはっきりとしているのは、彼はいつでもたくさんの思いを持ち、それを伝えたかったに違いないのに、それができずにつらい思いをしてきたのに違いないということでした。そして、私たちはこれまでこれほどの彼の思いを少しもわかろうとしてこなかったということでした。彼はそのあとも話し言葉は使ってはいません。もしかしたら、彼は彼の心の中の思いを、どうして口から出したらいいのか方法をみつけられずにいるのかもしれません。けれど確かなことは彼は好きとか嫌いとかではなくて、「トマトをさっきからずっと嫌いだと言い続けてるのに、どうして解ってくれないのか」というふうにあふれるような気持ちを持っていることは確かなのです。私たちはいつも思いこみでこの人はこんな人だと決めてしまうと思います。でも本当のことはけっして目に見えないのだと思うのです。そのことをけっして忘れてはならないと思います。それなのに大ちゃんと私、少しも分かり合えずにいたときにも、私はまた同じように間違いを繰り返していました。大ちゃんが今こんなに沢山の素晴らしい思いを伝えてくれているのに、私は大ちゃんがいろんなことを考えるのはむつかしくて「できない」のじゃないかと思いこんでいたのです。自分の思いこみを押しつけて、小さな子が使う絵本や一年生の教科書ばかりを使ったり、それどころか、大ちゃんが自分で選ぶべきだった、自分できめるべきだったたくさんのことを勝手に選んで押しつけてばかりいたのです。私はいったいどれだけ大ちゃんをつらい気持ちにさせていたのだろうと思うと、今も悲しくてたまらなくなるくらいです。でもこのときだけではないのです。私はいつもいつも間違いをおこしてきたのです。ずっと前、まだワープロやパソコンがこれほど広く使われなかった頃、一緒にお勉強した強君にこの間会いました。強君がそのときに渡してくれた日記を見て、私は胸がどきどきして、涙がとまらなくなりました。強君は今も当時も首に力を入れることがむつかしくて頭を持ち上げられず、いつもうつむいて車椅子に乗っていました。私たちは強君が話している言葉を聞き取ることはむつかしく、ただ強君がクビを縦に振るか横に振るかで気持ちの伝え合いをしていたのです。わたしには忘れられないできごとがあります。「強はいつも顔をあげんのやから、映画なんか見に行っても一緒やろう。顔ををあげんのやったらつれていかんぞ」男の先生はからかい半分、冗談半分で、それから頭ををなんとかあげて欲しいという思いもあったのかもしれません。そんなふうに言いました。強君はそれを聞いて涙を流しながら、頭を必死に持ち上げていました。周りの先生がそれを見て笑っていました。私はそのときに何も言うことができませんでした。なぜ何も言わなかったのだろうと強君の涙を何度も思い出しながら悔やんでいました。何も言えなかった私は、その男の先生と同じで、強君の深い思いを少しもわからずにいたからだと思います。もしかしたら私は強君の涙を見るまで、強君がどれほど悔しい思いをしているかということに気がつかず、(強君もみんなと一緒にお出かけしたいのかな。バスに乗るのがうれしいのかな)というように軽く考えていただけなのかもしれません。強君は最近使うようになったワープロでルパン三世のことを書いていました。「ルパン三世の映画を今日テレビで見た。山田さんの声がルパンのイメージにぴったりだ。僕は映画が好きで好きでたまらない。ルパンと、加山雄三さんの映画が好きだ。山田さんがなくなってしまって、本当にがっかりした。ルパンの声ややっぱり山田さん以外考えられない」車椅子に乗っていることや、施設にいることで映画を見にいくことがとてもむつかしい強君はあのとき、あんなふうに言われてどんなつらい思いをしただろうかと思います。そして私は強君のワープロの文章を見るまで、強君がこんなに映画が好きだということも、それから文章に書かれているようなこんなに深い思いを持っているということにも少しも気がつかずにいたのです。それは大好きな子供たちを自分とは違うとでもいうように分けて考えていたからではないかと恐いのです。当たり前のことなのに、私はすぐに忘れます。子供たちはいつもたくさんの気持ちを持っていてそれを伝えようとしているのです。それは大ちゃんだけではないことを今度こそしっかりと心に刻み込みたいと思います。
2006/05/14
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みんな気持ちを持っている自分の気持ちを「ビビビビー」とか「ブブブブー」というような言葉で伝えている中学生の男の子がいました。ご両親にお伺いすると生まれてから一度も話し言葉を使ったことはないということでした。私たちはその男の子がたくさんの気持ちを持っているということを頭でわかってはいながら、けれどたくさんのことがむつかしいのではないだろうかと思いこんでいたのです。それはたとえば勉強に取り組むときでも、トランポリンで揺れたり跳んだりするのがうれしそうだとか、犬が嫌いなようだとかいうように、彼が好きとか嫌いとかだけで、物事を判断していました。彼はサラダが嫌いで、特にトマトはけっして口にしようとはしませんでした。その日はおそらく担任の先生が彼に少しがんばってもらってトマトを一口でも食べて欲しいと思っていたのだと思います。私は少し離れたところで、クラスの子供たちと食事をとっていました。彼と先生とのトマトを食べることでの奮闘というか、格闘というか、そういう時間が15分くらい続いた頃だったでしょうか。びっくりすることがおきたのです。ご両親も私たちも一度だって聞いたことのなかった話し言葉で彼は吐き出すようにはっきりと言ったのです。「嫌いっていうとるやろう。さっきからトマトが嫌って言うとるのがわからんのか」その瞬間食堂はシーンと静まり返りました。誰もが今聞いた声のことが信じられなかったのだと思います。でも言ったのは確かに彼でした。何十人もいた教員や子供たちが確かに彼の心からしぼりだすような声を聞いたのです。ご両親はその場におられなかったので、「信じられません」と繰り返すばかりだったそうです。それから私たちは何度も「なぜ、彼は今まで一度も話し言葉を使わなかったのに、その時使ったのだろう」と話し合いました。でも誰もどうしてかということはわかりませんでした。ただはっきりとしているのは、彼はいつでもたくさんの思いを持ち、それを伝えたかったに違いないのに、それができずにつらい思いをしてきたのに違いないということでした。そして、私たちはこれまでこれほどの彼の思いを少しもわかろうとしてこなかったということでした。彼はそのあとも話し言葉は使ってはいません。もしかしたら、彼は彼の心の中の思いを、どうして口から出したらいいのか方法をみつけられずにいるのかもしれません。けれど確かなことは彼は好きとか嫌いとかではなくて、「トマトをさっきからずっと嫌いだと言い続けてるのに、どうして解ってくれないのか」というふうにあふれるような気持ちを持っていることは確かなのです。私たちはいつも思いこみでこの人はこんな人だと決めてしまうと思います。でも本当のことはけっして目に見えないのだと思うのです。そのことをけっして忘れてはならないと思います。それなのに大ちゃんと私、少しも分かり合えずにいたときにも、私はまた同じように間違いを繰り返していました。大ちゃんが今こんなに沢山の素晴らしい思いを伝えてくれているのに、私は大ちゃんがいろんなことを考えるのはむつかしくて「できない」のじゃないかと思いこんでいたのです。自分の思いこみを押しつけて、小さな子が使う絵本や一年生の教科書ばかりを使ったり、それどころか、大ちゃんが自分で選ぶべきだった、自分できめるべきだったたくさんのことを勝手に選んで押しつけてばかりいたのです。私はいったいどれだけ大ちゃんをつらい気持ちにさせていたのだろうと思うと、今も悲しくてたまらなくなるくらいです。でもこのときだけではないのです。私はいつもいつも間違いをおこしてきたのです。ずっと前、まだワープロやパソコンがこれほど広く使われなかった頃、一緒にお勉強した強君にこの間会いました。強君がそのときに渡してくれた日記を見て、私は胸がどきどきして、涙がとまらなくなりました。強君は今も当時も首に力を入れることがむつかしくて頭を持ち上げられず、いつもうつむいて車椅子に乗っていました。私たちは強君が話している言葉を聞き取ることはむつかしく、ただ強君がクビを縦に振るか横に振るかで気持ちの伝え合いをしていたのです。わたしには忘れられないできごとがあります。「強はいつも顔をあげんのやから、映画なんか見に行っても一緒やろう。顔ををあげんのやったらつれていかんぞ」男の先生はからかい半分、冗談半分で、それから頭ををなんとかあげて欲しいという思いもあったのかもしれません。そんなふうに言いました。強君はそれを聞いて涙を流しながら、頭を必死に持ち上げていました。周りの先生がそれを見て笑っていました。私はそのときに何も言うことができませんでした。なぜ何も言わなかったのだろうと強君の涙を何度も思い出しながら悔やんでいました。何も言えなかった私は、その男の先生と同じで、強君の深い思いを少しもわからずにいたからだと思います。もしかしたら私は強君の涙を見るまで、強君がどれほど悔しい思いをしているかということに気がつかず、(強君もみんなと一緒にお出かけしたいのかな。バスに乗るのがうれしいのかな)というように軽く考えていただけなのかもしれません。強君は最近使うようになったワープロでルパン三世のことを書いていました。「ルパン三世の映画を今日テレビで見た。山田さんの声がルパンのイメージにぴったりだ。僕は映画が好きで好きでたまらない。ルパンと、加山雄三さんの映画が好きだ。山田さんがなくなってしまって、本当にがっかりした。ルパンの声ややっぱり山田さん以外考えられない」車椅子に乗っていることや、施設にいることで映画を見にいくことがとてもむつかしい強君はあのとき、あんなふうに言われてどんなつらい思いをしただろうかと思います。そして私は強君のワープロの文章を見るまで、強君がこんなに映画が好きだということも、それから文章に書かれているようなこんなに深い思いを持っているということにも少しも気がつかずにいたのです。それは大好きな子供たちを自分とは違うとでもいうように分けて考えていたからではないかと恐いのです。当たり前のことなのに、私はすぐに忘れます。子供たちはいつもたくさんの気持ちを持っていてそれを伝えようとしているのです。それは大ちゃんだけではないことを今度こそしっかりと心に刻み込みたいと思います。
2006/05/14
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いい人世の中にいい人ってどうしてこんなにたくさんいるんだろうってしみじみ思った日のことを書きます。 その日は京都のお寺にお勤めの方のグループに呼んでいただいていました。2時間くらいお話させていただいたのですが、私の下手なお話をみなさん本当に一所懸命聞いて下さって、私は自分の心が講演会の会場のお部屋いっぱいに広がっているようでとてもうれしかったのです。 お話が終わった後、聞いて下さった方とのお食事会の後、その日の会のお世話をしてくださった方が駅まで送ってくださいました。駅の前までで「もう大丈夫です」と言う私に、その方は「駅までおくるだけでは、違う列車に乗って、とんでもないところへ行くということもあり得るから、電車にちゃんと乗るまで見届けますよ」とホームまでついてきて下さいました。私はとんでもないくらいおっちょこちょいなので、そんなときにまで迷惑をかけてしまうのでした。 ホームにたって列車を待っている間に、その方は急にまじめな顔をして「実は・・」とお話を始められました。 「僕は本当は坊主にはなりたくなかったんですよ。親父が坊主ということだけで、小さい頃から自分の人生が決められてしまうということがどうにも嫌でした。それなのに、高校も大学も自分の気持ちとは反対に、坊主になるために敷かれた路線通りのところに入学しなければならなかったのです。大学を卒業して6年になりますが、そういう心で今、坊主の仕事をしていても、いつもいつも自分に嘘をついているような気持ちから抜けだすことができないんですよ。偉そうに人前で講話なんかをして、自分はなんなんだと思うと、もう坊主仲間全部が嫌でたまらなくなる」私はその方のお話を聞いて、あ、私だってそうだと思いました。「私だって、私みたいなものが、みなさんの前でお話をしてる。今日だって私のお話で2時間も聞いて下さって、それもあんなに熱心に聞いて下さってそれでよかったのでしょうか」あわてて私が言うと、その方は「違うんですよ。山元さんは違う。立っている位置が違う。僕らは高いところにたって話をする。だから説教って言うでしょう」と言われました。そしてとうとうその方は泣き出されてしまったのです。私はふたりでホームでたっていて、その方が突然涙をいっぱいいっぱい流されて話を続けられたので、どうしたらいいのかわからなくなりました。(子供たちが教えてくれたことはすごく素敵でも、私みたいなもののお話をみなさんあんなに一所懸命聞いてくださったんだ。でも私、全然、そんなことしていいのかなんて考えていなかった。位置のお話をしてくださったけど、私はどんなふうなのかしら)と気がついたら、私もすごく悲しくなりました。そしてその方はとてもいい人だから、ずっとこんなに真剣に悩んで、今も涙をこんなに流してるんだって思いました。それからあんな下手なお話を一所懸命聞いてくださったたくさんの方もみなさんなんていい人なのかしらと思って、ホームでふたりでわんわん泣いてしまっていたのでした。そのとき、発車のベルがなりました。あわてて電車に乗って、ずっとその方が手を振ってくださるので、私も座ってからも泣きながらずっと振っていたのです。完全に駅から離れて、はっと気がつくと、通路をはさんだ向こう側の人もその後ろの人も私のことを見ておられるのに気がつきました。もしかしたら、私たち、何かすごく悲劇的な別れを今したみたいに思われてしまったのかなってそのとき初めて思ったのです。ずっとずっと仲良しの友達とか、兄弟とか、恋人とかの別れのシーンみたいだったんじゃないかなって・・・・私たち5時間くらい前に初めてあったばかりで、そんなふうな別れではなくて・・・・なんてそこで説明できるわけでもないので、なんだかばつが悪かったのでした。お寺のお坊さんもホームで今の私と同じかなと心配になったけど、電車が出てしまったら、そこにはもうその光景を見ていた人はあんまりいないから大丈夫かなと思いました。ぼんやりそんなことを考えていたら、アイスクリームや駅弁やコーヒーを売っておられる人が通っていかれて、隣の座席の人が何か買われたようでした。そして本当にびっくりしたことに、隣のその方が「あの、アイスクリームとサンドイッチでも、食べて元気を出して」って私に言われて、さっき買われたアイスクリームとサンドイッチを私の方へ差し出されたのです。(ああ、やっぱりさっきの光景が、大好きで大好きでたまらない人ともう一生会えなくなるときのように見えたんだ)って思いました。ぜんぜんそうじゃないのに、いただいてしまったらまるでその方をだましているみたいって思ったのに、言えなくて「でもいただいていいのでしょうか?」とやっと言いました。そしたらその方が「ちょっと買いすぎちゃったから」って言われたのです。そんなはずがないと思いました。今すぐ食べるようなアイスクリームとサンドイッチを二つずつ買って、すぐ下さったのに買いすぎたはずがない、きっと隣で泣いてる人をなんとかなぐさめたいってそう思って買って下さったのに違いないのです。もしかしたら、それほどその方はアイスクリームやサンドイッチを欲しいと思っておられなかったかもしれないのに、本当にみんなみんななんて優しくて、いい人ばかりなんだろうって思ったら、もうすっかり引っ込んでいた涙がまた出てきそうになりました。でもね、ここで泣いたら、そんなに悲しい別れってまた思われちゃうとがまんしたのでした。 その方は福井の方で、大学のお休みで帰省するのだと教えて下さいました。そして降り際に「悲しいことはあるだろうけど、本当に元気を出してがんばって下さいよ」って言われて、私は素直に「ありがとうございます」って言えました。(あれは悲しい別れってわけじゃなかったけど、どちらかというと素敵な出会いだったのだけど、でも言ってくださったように、私、元気で、これからもがんばろう。いい人いっぱいの素敵なこの世の中で私は元気でがんばって生きていくのだ)って思えたからなのです。 それで、みーーんなにありがとうって思っています。
2006/05/13
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敏君の話敏君と出会ったのは敏くんが小学校4年生のころでした。敏くんは、いつも大きな目でまっすぐに私の顔を見て、お話をしてくれる男の子でした。ある日のことでした。敏くんのその日の言葉を私は今でもはっきりと覚えています。その日、敏くんはいつもほどの元気はないように見えました。何かいいたげで、でも「ん?」と何かいいたいことがあるのかなと首を傾げて敏くんを見つめても最初敏くんはなにも言いませんでした。けれど、そのうちになにげないように敏くんは話し出しました。「表の通りにさ、目玉が三つある人があるいていたらいいのにね」それからこんなふうにもいいました。「おなかに顔がある人がさ、手が十本生えている子供の手をひいてあるいていたらいいのにね。ぼくそんなことしょちゅう考えるよ」「えーーどうして敏くんそんなこと考えるの?」敏くんはいつになくうつむいて、なかなか答えようとはしませんでした。そして決心をしたように、唇をかみしめて「だってさー。だってさー」口ごもって、それから少しいいにくそうに言いました。「僕のこと一本足の傘次郎って友達が言ったんだ。僕すごくくやしかったよ。だけど友達のことを怒ってないよ。友達が悪いんじゃないんだ」私は胸がつまりそうになりました。敏くんの片足の膝から下は、小さいときの事故で失われていました。おうちの方も敏くん自身もそのことについて、足がほかの人とたとえ違っていても、できるかぎりのことはするんだと言っていたのです。こんなにがんばりやの敏くんに対して、友達はなんてひどいことを言うのでしょう。それなのに、敏くんは友達が悪いんじゃないと言うのです。怒ってないって言うのです。いったい誰が悪いというのでしょう。小さい子のたわいのないけんかなのかもしれないけれど、それでも人を傷つけるそんな言葉は使ってほしくないと思いました。敏くんはいつもとても明るくて、今までもいろいろなお話を私にしてくれていたのですが、足のことでこんなふうなことを言ったことはその日が初めてでした。お友達もたくさんいて、週に一回の病院通いと当時私がつとめていた学級へもたくさんの友達と一緒によく顔を出してくれていたのです。だからどうして敏くんのお友達が敏くんのことを「一本足の傘次郎」なんていわなければならなかったのか、とても不思議に思いました。そして敏くんは今、いったいどんな思いで、目玉が三つある人が歩いていたらいいっていったのかということがよくわかりませんでした。だけどね、敏くんはこんなふうに考えていたのです。「だってさ、目玉が3つの人とか、頭が二つの人とか手が10本の人とか、いろんな人がたくさんふつうに歩いていたら、僕が片足でもじろじろ僕のこと見る人なんかいなくなると思うんだ。誰も僕のこと特別扱いしなくなると思う」最後には泣き声になってしまった敏くんをただ抱きしめて、私も一緒に泣いていました。敏くんはいつもとっても明るいけれど、「やあ、山元ー」ってお部屋に飛び込んできてくれるけど、こんなに小さな胸をいつも痛めていたんだなあ、でもそんな様子を少しも見せないでいて、私も少しもそのことを知らないでいたのです。少しずつ敏くんは、その日にあったことを話してくれました。父さんは片足だからってできないって思っちゃだめだって言うの。僕もそう思うよ。僕は片方の足が短いけれど、杖があればなんだってできる。山元も知ってるよね。鉄棒なんかは大得意なんだ。昨日の鉄棒で僕逆上がりすごく上手にできたんだよ。そしたら先生が「みんな敏を見てみろ」って言ったの。「おまえたち足が片方しかない敏がこんなにがんばってるのに、だらだらとして、逆上がりできなくて恥ずかしくないのか」それから僕の友達にむかって「おまえはマラソン大会でも敏に負けていたじゃないか。どう思うんだ」って言ったんだ。僕ね。すごく嫌だったよ。友達のこともすごく気にかかったの。友達は先生にそんなこと言われて、顔を真っ赤にしてうつむいてた。僕が鉄棒できたこと、僕がマラソン大会で走れたことは、片足が短いこととは別だよ。鉄棒得意だし、杖は足のかわりをしてくれるから、そんなに早くはないけど、長く走っても平気なのに、先生はどうしてあんなことを言うんだろう。僕、ぜんぜんうれしくないのに、すごく嫌なのに。先生はいつも言うんだ。敏は足が悪いのにがんばってるって・・・そのたびにいやあな気持ちで体がいっぱいになるんだ。そのたびに僕、友達が離れて行く気がするんだ。帰り道、いつも一緒に帰るのに、友達が僕をおいて先に帰っていったから、追いかけて「一緒に帰ろう」って言ったら、友達が僕のこと「一本足の傘次郎」って言って走って行ったの。ね、山元。僕片足が短いのは本当だから友達が僕の足のこと片足短いねって言っても平気だけど、でも今日はすごく悲しかったの。友達は先生に足が片方短いやつより駄目だって言われたことになるのかなあ。だから怒ったんだよ。それで、僕も本当は片足が短いから駄目なんだって言われたような気持ちがしたの。もっといろんな人がいっぱいいたら、僕のこと誰も特別だと思わないと思ったんだ。山元、父さんがいつも言うんだ。「足が片方短いから敏は優しい気持ちをもらったんだって。片足が短いことをいいことだと思え」って。それから病院で訓練の先生と会えるし、山元にも会えるし他の人より得もいっぱいしてるって言うんだ」まだ4年生の子供がこんなふうに 涙ぐみながらも話せることにとても驚きました。たった4年生の敏くんのが・・という私の思いはもうそれだけで、子供たちにたいしてとても思い上がったものなんだと思います。でもこんなに小さい敏くんがどうしてこんなに大切なことを自分のものにしているのだろうと私は思わずにはいられませんでした。そしてそれは敏くんの強い気持ちの表れのように思いました。敏くんやお父さんが言われたように、片足が短いという現実が敏くんをとても思いやりのある、考えぶかくそして、明るい少年にしてくれたということがあるのでしょうか。しばらくして、私は、敏くんは僕の足が片方短くなかったらよかったとは言ってないのだと気がつきました。片足が短いのが僕で、そのことは別に悪いことじゃない。だけどどうして、みんなと少し違うだけでじろじろみられたり、特別扱いされるんだ。それは間違っているよときっと敏くんは言いたかったのかもしれません。敏くんの担任の先生の姿は私の姿だと気がつきました。先生がなんとか敏くんを励ましたくて、クラスのみんなを励ましたくて、使われた言葉がその両方を深く傷つけてしまうということに気がつかなかれなかったように、私も敏くんの本当の思いを知らずに、ただ友達の言葉だけを憎んでしまったなあと思うのです。敏くんの前で、私は本当になにも考えていなし、気がついていないんだということがとてもショックでした。大人たちはいつもまるで自分が子供たちを教えるものだ、指導するものだ、導くものだなんていばってそっくりかえってて、なんにも大事なことに気がついてないのです。こんなに柔らかい子供たちのそばにいて、そんなことでいいはずないのにです。それでも私は明日もあさっても子供たちのそばにいるんだ。いったいそんなこと許されることなのでしょうか?しばらくなにも手がつかないくらい、それはわたしにとってとても大きなことでした。敏くんは今大学生です。夏休みになったよとたずねてきてくれたのです。敏くんは大学で人権について勉強をしているんだそうです。敏くんはすごくたくましくちょっとSMAP の香取慎吾くんに似ているすてきな青年になっていました。あいかわらず私の顔をまっすぐに見て、「山元、社会には本当にすごくたくさんの差別があるんだよ。なぜこんなことで差別になるんだろうって思うようなことばかりでさ、大学の先生は、人間は生きている限り、人を分けたがるものなんだ。人間の宿命みたいなものだけど、でもだからまかり通るというものじゃなく、いけないことだ、間違ったことだと気がついていけるのが人間だっていうんだよね。ね、山元。差別ってなくなっていくと思う?」うーーんどうだろうと首を傾げた私に敏くんは「捨てたもんじゃないんだよ」と言いました。「中学校の公民の教科書みたことある?あれの一番最初に人権のことが出てるんだけど、そこにね、わざと人を傷つけたり、差別をすることはもちろん許されることではない。でも我々は知らない間に多くの差別をしている。たとえば駅の階段をのぼりおりしていて不便を感じない。けれど車椅子に乗った人はとても不便だ。だけどそのことに気がつかない。気がつかないということはそれだけでもう差別で、ゆるされることではないということを我々はしらなければならないってね書いてあるんだよ。公民の教科書の一等最初にね、書いてあるんだよ。それみつけたときうれしかったなあ。家庭教師のアルバイトしてて、みつけたんだけどね」敏くんはすごくうれしそうでした。
2006/05/12
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きいちゃんは私が教員になったばかりのときに出会いました。きいちゃんは教室の中でいつもさびしそうでした。たいていのとき、うつむいてひとりぼっちですわっていました。 だから、ある日、きいちゃんが職員室の私のところへ「せんせいーー」って大きな声でとびこんできてくれたときは本当にびっくりしたのです。こんなにうれしそうなきいちゃんを私ははじめてみたのです。「どうしたの?」そうたずねると、きいちゃんは「おねえさんが結婚するの。私、結婚式に出るのよ」ってにこにこしながら教えてくれました。ああ、よかったって私もすごくうれしかったのです。 それなのに、それから一週間くらいたったころ、教室で机に顔を押しつけるようにして、ひとりで泣いているきいちゃんをみつけたました。 涙でぬれた顔をあげてきいちゃんが言いました。「おかあさんがわたしに、結婚式に出ないでほしいって言ったの。おかあさんは私のことが恥ずかしいのよ。おねえさんのことばかり考えているのよ。私なんてうまなければよかったのに」きいちゃんはやっとのことでそういうと、またはげしく泣いていたのです。 でも、きいちゃんのおかあさんはいつもいつもきいちゃんのことばかり考えているような人でした。 きいちゃんは小さいときに高い熱が出て、それがもとで手や足が思うように動かなくなって車椅子にのっています。そして訓練を受けるためにおうちを遠く離れて、この学校へきていたのでした。 お母さんは面会日のたびに、きいちゃんに会うために、まだ暗いうちに家を出て、電車やバスをいくつものりついで4時間もかけて、きいちゃんに会いにこられていたのです。毎日のお仕事がどんなに大変でも、きいちゃんに会いに来られるのを一度もお休みしたことはないくらいでした。そしてね、私にも、きいちゃんの喜ぶことはなんでもしたいのだと話しておられたのです。 だからおかあさんはけっしてきいちゃんが言うように、おねえさんのことばかり考えていたわけではないと思うのです。ただ、もしかしたら、結婚式にきいちゃんが出ることで、おねえさんが肩身の狭い思いをするのではないか、あるいは、きいちゃん自身がつらい思いをするのじゃないかとお母さんが心配されたからではないかと私は思いました。 きいちゃんはとても悲しそうだったけれど、「うまなければよかったのに・・」ときいちゃんに言われたおかあさんもどんなに悲しい思いをしておられるだろうと私は心配でした。 けれど、きいちゃんの悲しい気持ちにもおかあさんの悲しい気持ちにも、私はなにをすることもできませんでした。ただ、きいちゃんに「おねえさんに結婚のお祝いのプレゼントをつくろうよ」と言いました。 石川県の金沢の山の方に和紙をつくっている二俣というところがあります。そこで、布を染める方法をならってきました。さらしという真っ白な布を買ってきて、きいちゃんといっしょにそれを夕日の色に染めました。 そしてその布で、ゆかたをぬってプレゼントすることにしたのです。 でも、本当を言うと、私はきいちゃんにゆかたをぬうことはとてもむずかしいことだろうと思っていたのです。きいちゃんは、手や足が思ったところへなかなかもっていけないので、ごはんを食べたり、字を書いたりするときも誰か他の人といっしょにすることが多かったのです。ミシンもあるし、いっしょに針をもってぬってもいいのだからと私は考えていました。 でも、きいちゃんは「ぜったいにひとりでぬう」と言いはりました。まちがって指を針でさして、練習用の布が血で真っ赤になっても、「おねえちゃんの結婚のプレゼントなのだもの」ってひとりでぬうことをやめようとはしませんでした。 私、びっくりしたのだけど、きいちゃんは縫うのがどんどん、どんどんじょうずになっていきました。 学校の休み時間も、学園へ帰ってからもきいちゃんはずっとゆかたをぬっていました。体をこわしてしまうのではないかと思うくらい一所懸命、きいちゃんはゆかたをぬい続けました。 そしてとうとう結婚式の10日前にゆかたはできあがったのです。 宅急便でおねえさんのところへゆかたを送ってから二日ほどたっていたころだったと思います。きいちゃんのおねえさんから私のところに電話がかかってきたのです。 おどろいたことに、きいちゃんのおねえさんは、きいちゃんだけではなくて私にまで結婚式に出てほしいと言うのです。けれどきいちゃんのおかあさんの気持ちを考えると、どうしたらいいのかわかりませんでした。 おかあさんに電話をしたら、お母さんは「あのこの姉が、どうしてもそうしたいと言うのです。出てあげてください」と言って下さったので結婚式に出ることにしました。 結婚式のおねえさんはとてもきれいでした。そして幸せそうでした。それを見て、とてもうれしかったけれど、でも気になることがありました。 結婚式に出ておられた人たちがきいちゃんをじろじろ見ていたり、なにかひそひそ話しているのです。きいちゃんはすっかり元気をなくしてしまい、おいしそうな御馳走も食べたくないと言いました。(きいちゃんはどう思っているかしら、やっぱり出ないほうがよかったのではないかしら)とそんなことをちょうど考えていたときでした。 お色直しをして扉から出てきたおねえさんは、きいちゃんが縫ったあの浴衣をきていたのです。 浴衣はおねえさんにとてもよく似合っていました。きいちゃんも私もうれしくて、おねえさんばかりをみつめていました。 おねえさんはお相手の方とマイクの前にたたれて、私たちを前に呼んでくださいました。そしてこんなふうに話し出されました。「みなさんこのゆかたを見てください。このゆかたは私の妹がぬってくれたのです。妹は小さいときに高い熱が出て、手足が不自由になりました。そのために家から離れて生活しなくてはなりませんでした。家で父や母とくらしている私のことを恨んでいるのではないかと思ったこともありました。それなのに、こんなりっぱなゆかたをぬってくれたのです。高校生でゆかたをぬうことのできるひとがどれだけいるでしょうか?妹は私のほこりです」 そのとき、式場のどこからともなく拍手が起こり、式場中が、大きな拍手でいっぱいになりました。そのときのはずかしそうだけれど、誇らしげでうれしそうなきいちゃんの顔を私はいまもはっきりと覚えています。 私はそのとき、とても感激しました。おねえさんはなんてすばらしい人なのでしょう。そして、おねえさんの気持ちを動かした、きいちゃんのがんばりはなんて素敵なのでしょう。 きいちゃんはきいちゃんとして生まれて、きいちゃんとして生きてきました。そしてこれからもきいちゃんとして生きていくのです。もし、名前を隠したり、かくれたりして生きていったら、それからのきいちゃんの生活はどんなにさびしいものになったでしょうか? お母さんは、結婚式のあと、私にありがとうと言ってくださいました。でも私はなんにもしていませんと言うと、お母さんは、「あの子が、お母さん、生んでくれてありがとう。私幸せです」と話してくれたと泣きながらおっしゃいました。お母さんは、きいちゃんが、障害を持ったときから、きいちゃんの障害は自分のせいだと思ってずっとご自分を責め続けてこられたのだそうです。もし、もう一時間でも早く大きな病院に連れて行っていたら、あの子に障害が残ることはなかったのじゃないか、あの子の障害は自分のせいだと思ってずっと自分を責めていたと話しておられました。 きいちゃんは結婚式の後、とても明るい女の子になりました。これが本当のきいちゃんの姿だったのだろうと思います。あの後、きいちゃんは、和裁を習いたいといいました。そしてそれを一生のお仕事に選んだのです。
2006/05/11
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吉川くんの話 私が教師になりたての4月のことでした。 加賀の中央公園へ遠足に行ったときのことです。車椅子にのっている吉川君と一緒にいると、やはり遠足に来ていた小学校一年生くらいの男の子が「お兄ちゃん、足とか手、どうしたんや。なんで歩けんの?」と吉川君に聞いたのです。男の子は自分の気持ちを素直に表しただけだし、吉川君も自分が小さいときに高い熱が出て、その後あるけなくなったのだと、やはりその熱のために、まわりにくい口でお話しようとしていたとき、その男の子の先生でしょうか、そばにきて、「どこ行っとったんや。養護学校の子のそばに寄ったらいかんって言ったでしょう」と言いました。そしてもう一度その男の子は、今度はその女の先生に、「どうしてあのお兄ちゃんの足、あんなふうになったの?」ってたずねたところ、その先生は「あんたも人を蹴ったり、悪いことしたら、あんなになるんやよ」って言ったのです。 わたしはくやしくて腹が立ってしょうがありませんでした。がまんできずにその先生を追いかけようとしたら、吉川君は「いいよ、僕は人をけることのできる足も持っとらんし、なれとるし大丈夫だから、泣かなくていいよ」と静かに言ったのです。 私は吉川君のことばを聞いてひざががくがくして立っていられないような気がしました。吉川君や、学校の子供たちはいったい何度こんなくやしい思いをしてきたのでしょうか。あんなに小さな男に、信頼されている先生があんなに間違ったことを言ってもいいのでしょうか。でもこのときの先生がけっして特別な人ではないということがわかってきました。考えたら私だって同じでした。大人はわりと簡単に、「こんなもんわからんかったらあの養護学校いかんならんよ」とか「ごはんを粗末にしたら目がつぶれるよ」とか「なにされるかわからんから養護学校の子に近づかんようにしまっし」なんていいます。 この言葉は間違っているし、人を傷つけることばなのにどうして使う人がいるのでしょうか。私はこう思います。きっとこんなふうに言ってしまった人は悪い人でも特別な人でもなんでもなく、ただ、小さいときに障害のある人と出会う機会にめぐまれずに、障害を持った人も持たない人も同じように一所懸命生きているということに気がつけなかったからじゃないかと思うのです。だから私はできるだけ小さくて心のやわらかなときに、社会には男の人がいて、女の人がいて、髪の長い人や短い人、肌の色の違う人、違う言葉を話す人、障害のある人、ない人、いろいろな人がいて、みんな同じように苦しんだり、悲しんだり、よろこんだりしながらお互い様で生きているということを知ってほしいと思います。 社会の中には、障害をもった人たちにたいして、「うつるんじゃないか」と考えて接したり、お金がなくなったら「盗ったんじゃないか」などと考える人も大勢います。「障害を持った人をみかけて何かできないかと思うけれど、どうしたらいいかわからない」という話もよく聞きます。でも構える必要なんて全然ないんですよね。車が雪にはまって動けなくなっていたら、みんな手を貸してくれるでしょう?お財布を落としたのを見ていたら「落ちましたよ」って教えてくれるでしょう?足が思うようにうごかなくて買い物をしていて高いところにある品物がとれない人がいたら「取りましょうか?」「なにかお手伝いしましょうか?」って聞いたらいいんですよね。同じですよね。みんないろいろな人がいてあたりまえ、いろいろな個性の人が助け合ってお互い様で生きているということを私一番言いたかったのです。
2006/05/11
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