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素敵な作品です!これはティッシュケースとポーチとフェルト玉ですが、販売はポーチとフェルト玉の二つになります。作品説明:フェルト玉に毛糸、麻布、麻糸で無造作にロックステッチという手法を施し 革紐で吊るしてとっても可愛いフェルト玉で直径4.5cmですお値段:¥3.300でございます。ポーチについて作品説明:布の上に好きな模様にカッテングした布を重ねてその上に綿チュールを乗せて ミシンでステッチをして革でポケットを付け、円形にカットした革や ビーズで飾りつけました。大切な物を入れてみてはいかがでしょうか?大きさ:20cm×10cmですお値段:¥4.500でございます。気に入ってくださったはコメント下されば幸いです。
2011年05月13日
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平成19年10月18日この日やっと退院の日を無事に迎えました。あいかわらず次から次へと同じ様な病気の人々が入院してこられ中での退院はとても複雑な気持ちでした。私も後日術後の細胞検査で今後の治療が決まるのですが、既に抗がん剤治療が決められてる方も何人もいらっしゃいました。家に帰宅して子供たちに逢える事や愛犬に逢える事は楽しみでしたが、家族にこれからも沢山の迷惑をかける事、特にお父さんに久しぶりに我が家に帰ってきて皆の顔を見て寝る時は涙がこぼれてきて暫く眠れませんでした。
2011年05月12日
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平成19年10月17日術後13日目の出来事はまず職場の店長さんが見舞いとお給料を持ってきて下さって。退院して大丈夫になったら職場に復帰して欲しいと言って下さいました。とても感謝の気持ちで一杯でしたが、復帰できるだろうか?と心配ではありました。そして同室の方へあす退院するので私が趣味とリハビリの為に作っていた折が紙のくす玉を「綺麗だね!」と言ってくださったのでお互いの闘病を乗り切る事を願ってプレゼントする為に祈りを込めておりました。一人の方は26歳新婚さんですが子宮筋腫の手術をされていて、もう一人の方は49歳で始めて入院された来た時は風邪?それとも喘息?と思うほど酷く苦しそうに咳をされていました。でも御自分からあけっらかんとして大腸癌の手術を三回経て現在は骨と肺に転移し肺の方は手術が出来ない場所にできているそうで余命は一年を宣告されていると言われていました。でもその方はとても明るく前向きに頑張っていらっしゃいました。私はその日は一日一日を少しでも長く生きてください!と言う気持ちで一杯で涙が溢れて眠れませんでした。
2011年05月11日
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色々とアドバイスなどを受けながら、やっと義姉の大切な一点物の 作品の金額が決まりました! 安いのか高いのかは人それぞれの価値観で違うと思いますので、 本当に気に入ってくださって欲しい!と思ってくださる方の 日々の愛用の一品にしていただければ幸いです。 とても可愛く出来ていて私も欲しいぐらいです 作品説明:麻布にカットした模様の布を縫いつけミシンスッテチをし、 その上にグレーのテープ(無造作に穴が開いているお洒落なテープ) を縫い付けています。 円形の模様は本革と布を組み合わせ、ひもの先も革で包み持ち手も 本革です バックの大きさ 26cm×38cm 取っ手の長さ 全長27cm高さにすると11cm程です お値段: 5000円になります。 尚お買い上げの方が決まりましたらお知らせします。 気に入ってくださった方は一度コメント下さるとお返事します。 どうぞ宜しくお願いします。
2011年05月11日
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先日とは形の違うチャームです!スペードの形に思いつきで自由にデザインして作られたそうです。
2011年05月10日
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平成19年10月16日術後12日目この日はずっと同室の方々が、「リハビリの建物の屋上は綺麗だよ!」って言われていたのでずっと気になっていたのですが、たまたまリハビリの時間がずれ込んで「屋上にでも行ってみてください」と言われ上がってみました。すると一面に人工芝を敷き詰めてあり菜園を2箇所してあり、ベンチがあり、花壇には咲きかけのコスモスがあって久しぶりに外の空気を思いっきり吸い込んで、これから自分がどうなっていくか分からないけれど、とにかく綺麗な青空を見ていたら頑張ろう!と思いながら涙がこぼれて来ました。
2011年05月09日
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平成19年10月15日術後11日目この日は朝一番で主人の両親が私の顔を見に来てくれました。理容店を営んでいる父達は、月曜日が休みなのですが連休にしてくれて2日間我が家に居てくれると言ってくれているけれど、婆ちゃんの方はかなり精神的にも気づかれしているようでした。そんな爺ちゃんと婆ちゃんの気持ちもとても有難くて感謝の気持ちで一杯ですが、申し訳ない気持ちで一杯でした。
2011年05月08日
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色々とありまして中々書く事が出来なくてこの度また続きを書いて行きながら私の義姉の自慢の作品を掲載させていただこうかと思っています。ハンドメイド雑貨が好きな方に、大切に使ってくださる方のもとへ届ける事が出来れば幸いです。いずれは沢山の方に知って頂き、手元費渡り愛用して下さると幸いです。同じものは作らないので一点ものです!和風、洋風、アクセサリー、バッグ、飾りなど等「これつくれるかも?」と思うとそれを自分のアイデアで形にしていくので出来てみないと本人も分からないから作る楽しみがあるそうです。私自身は裁縫は苦手で、義姉はパソコンが苦手・・・だけどずっと義姉の作品を見続けてきた私は、絶対好きな方に買って貰える!と思っています。写真では伝えるのが難しいかも知れないのですが、姉の作る作品を見てくれた方々が声をそろえて「作って売って欲しい!」と言われてきました。だから自分のブログに載せて本当に好きな方に、気に入ってくれた方に届ける事ができれば私の励みにもなりますし、義姉もとても喜んでくれると思いますもっと伝えたい事があるのですが、私の続きと一緒に義姉の作品を載せて行きたいと思っていますので、興味のある方はコメント下されば幸いです。自分のお気に入りのバックなどにつけてもらっても可愛いです!花の所は手のひらぐらの大きさです。この作品非買品です。販売品も少しずつ掲載しますので、宜しくお願いします。
2011年05月08日
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ご無沙汰していました。ここで私の事は置いてて少し愛犬の話をさせて下さい・・・三年前に私が病気になるのと同時に愛犬のラブラドールブラックのハナとクリームでハナの子供のミクとミニチュアダックスのくうが我が家に居るのですが、そのうちの我が家に初めてやってきたハナがフィラリアにかかりました。分かった時には、もう既に心臓の血管にも幼虫が居ました。突然血を吐くことから始まりました。一度だけ病院へ連れて行き既に手遅れで、心臓の血管を広げてあげる薬をやることぐらいしかしてあげれませんでした。私達家族はここでもう死ぬんじゃないかと覚悟をしていたのですが、その薬が効いてくれたのかは定かではないのですが、苦しがるのがなくなり、食事もちゃんとしてくれるように回復して少しずつ元気になってくれました。其れから3年近く毎年夏になるとやはり苦しそうにはしていましたが、自分の知っている人がくると、心配かけないようにとしているかのように元気な姿を見せて安心させてくれいました。でも確実にご飯は食べるのですが骨と皮の状態で激やせしてしまい、次第に一生懸命私達のところに来ようとするのですが、足もヨタヨタになり目も見えずらくなって、人間でいうならば痴呆症みたいになって昼間は庭で自由にさせていたのですが、苦しいのに動き回りよろよろしながらあちこちに頭や身体をぶつけながら、それでも頑張っていました。主人が見るに見かねて何度か病院に安楽死をお願いしようかと思って又踏みとどまりの繰り返しで、見ていることしか出来ない自分達の悔しさの葛藤でした。でも自分達が飼うと決めたいじょう最後までしっかり見てあげるのが飼い主の役目でもあり家族の一員なんだからと私はずっと言ってきました。本当に可哀想でした。死ぬ3日前ぐらいから食事ができなくなり、自分で立てなくなり、水も飲めなくなり、瞳孔が開いて排泄も出来なくなりました。暑さはとても厳しく仕事には行かないといけないので気になりながらも、家に居る時はずっと主人と交代で綺麗に冷たいタオルでずっと話しかけながら拭いてあげていました。すると精一杯前足で自分の顔を撫でて嬉しそうにハナが涙をずっと流していました。死んだ日は主人が先に帰ってきて又綺麗に拭いてくれてて、私が帰ってきて必死で見ていて苦しんでもがいていたんだと思いますが、床ずれみたいになり、毛は抜け落ちて涼しい場所に移動させても私達の声がするほうにと移動しようとして、食事の用意をしていて、それぞれの愛犬たちにご飯を上げようと思い見に行ったら息をひきとっていました。主人は「頑張ったなぁ、苦しかったなぁ」とタオルを顔に巻いてあげていました。それから万が一の時は庭に埋めようと決めていたので、主人が穴を掘ってくれて最後のお別れをしました。ハナは本当に一生懸命生きてくれたと思います。今では最後まで看取ってあげたのが良かったのか、安楽死をさせてあげた方が良かったのかは分かりませんが、私達に家族に沢山の思い出としっかり最期まで頑張ってくれた姿をみせてくれました。今簡単に飼えなくなった直ぐ捨てるとか、殺すとかしている人たちも居ますが、どうか飼うと決めたいじょうは責任持って育てて欲しいと願うばかりです。
2010年08月04日
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平成19年10月13日、この日も私のために沢山の人たちがお見舞いに来てくれました。高校の時の友人達、義姉夫婦、母と妹と姪っ子、そして職場の店長、皆本当に有難うございましたと感謝の気持ちで一杯でした。残念ながらお父さんは今日は急遽会社の方のお母様が亡くなられたとかで壱岐の方へと出かけていったので来れなかった。明日も又友達が来てくれると行ってくれました。色んな人から私は何で何時も明るく居られるのかが不思議だとか関心するとか等など言われるのですが、本当はとても怖いのが正直な気持ちですが、皆が着てくれたり私のために何か少しでもしてあげようと頑張ってくれているのに自分がめそめそしてたら皆も悲しませるのでそれだけはしたくないから、皆の前で笑っていられることが皆から元気を沢山貰っている事への感謝の気持ちだと伝えています。こんなにきれいごと?と思う方も沢山いるかも知れません、私も自分をいつも前へ前へと必死で振るい立たせています。私よりも壮絶に苦しんでいる方も沢山いると思うのですが、わずかな可能性でも諦めないで自分の為にそして自分を心配してくれている人たちの為に強くなって欲しいと思います。そうは言っても私も直ぐ泣いちゃうことも沢山ありますけど・・・
2010年07月07日
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初めに何時もこのブログを見て下さっている方へ何時も沢山の方に見てもらって感謝しています。暫く書き込みが出来なくてすいませんでした。前回の仕事を辞めなければいけなくなってはや2ヶ月ずっと探していまして、ようやく決まり、暫く時間が取れませんでした。できるだけこれからも書いて行きたいと思っていますので、改めて読んで下さると幸いです。平成19年10月12日、この日からリハビリ専門の医師のもと本格的なリハビリと言っても殆どマッサージに近いのですが、経験した同室の方によるととても優しくマサッージしてくれるのが気持ちが良いと言われていたのですが、私はじんわり触られるのが苦手でとても気持ちが良いと思うことは出来ませんでした。でもして貰った後は確かにとても腕を動かすことが少しずつですが楽になっていきました。
2010年07月05日
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平成19年10月11日 この日はまず昼頃に高校の時の仲良しグループのメンバーが数人来てくれた。皆私の様子を見るまではどういう顔をしてくれば言いか悩んでいたそうです。確かにそうですよね。私でも病気で療養中の方の見舞いに行くとするならば、きっと色んな事を考えながら行くと思います。それも知り合いとかではない友達だから、元気な姿を一杯知っているから、信じられない!と言う気持ちが大きかったそうです。きてくれたことがとても嬉しかったし、皆にも絶対自分の体のことも考えて何事にも早期発見!を常に心がけてね!とお願いしました。私は誰が来てもいつもどんなに痛くてもきつくても笑っていることを心がけてきていたので、友達は自分だったそんなことできないと思うといってましたが、私は確かに考え方は人それぞれですが、私の場合は子共は大きくなっていましたが、生意気だけど私が10ヶ月大切にお腹の中で育ててきて、今までも何時も真剣に子供達と向き合って馬鹿を言いながら、必ずどんな時も笑っていました。だからそんな私のかけがえの無い子供達が将来お嫁さんになり、お嫁さんを貰い、各家庭を築いて幸せになってくれるまでは、病気になんか負けていられない!と言う気持ちが一番に湧いてきました。だから大切な人、守らなければならない人がいるならば、何らかの形で、人は今までに無いくらいの力をはっきするんだと私は思っています。でも本当は皆に逆に支えられっぱなしで情けないですけど・・・
2010年06月25日
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平成19年10月10日この日は胸に入れている乳房再建の為のエキパンダーに生理食塩水の2回目の注入でした。初回は術中なので分からないのですが、痛がる人も居ると聞いてはいたのですが程なく終了で大丈夫だった。それから黙々とパズルをしていたら、もう出来てしまった。そして本日よりシャワーの許可が出たのですが、術後初めてまともに自分の身体を鏡で見るので、そこで特に全摘の人はショックを受けてしまう人も居ると言われてましたが、それに関してはある程度の覚悟があったせいか「こんな風になってしまったんだ」と言う感じぐらいでした。それよりも脇のリンパかくせいもしている場合はどうしても神経を扱うので、感じることが鈍くなっているから、始めはぬるめのお湯をかけるようにと言われてたのでそっとかけてみると本当にほとんど感じることが出来ませんでした。私にとってはそちらの方がどちかと言うとショックでもあり本当にこの鈍さは一生付き合わなければいけないのかと思うと、本当にもとのように自分が動けるのかと心配になりました。
2010年06月23日
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平成19年10月9日、術後5日目昨晩もあまり眠れず、今朝4時半から目がさめた。やっとお父さんと息子が持ってきてくれていたパズルを作成することにしました。看護師さんたちにもリハビリになるからと言われました。これが完成したら今度は持ってきている折り紙で、くす玉を作ることでリハビリしようと思っている。そして夜は我が家の向かえのママともにどうしても娘の事で連絡を取らなくてはいけなくなって、あまり伝えたくなかったのですが、私の病気の事を話して今入院中だと伝えたらとても驚いていました。又こうやって心配かける人が増えました。
2010年06月16日
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平成19年10月8日、この日も朝起きた時も痛かったけれど、自分でずっと腕のマッサージをしていると、少しずつよくなってきて朝食後担当の医師が来て、何よりも痛かった胸から通してある管を「順調だから今日とろうね」と言ってくれました。始めは回診まできっと取るときも痛いんだろうな?と思いながら少し緊張してたのですが、実際に取ってもらうとあっという間に終わりました。消毒とエラスコットと言う包帯を巻きなおしてもらう時は少し強めにされるのでいたかったけれど、思いのほか順調で早く取ってもらった方だと言われました。気持ちの持ちようだとは思いますが朝まで痛くてその管をされているところが痛くて排出物が流れれて溜まるようになっている袋が重くて邪魔で動きずらかったので、とても楽に動けるようになりました。そして下半身だけの入浴を許可してくれました。
2010年06月16日
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平成19年10月7日、手術して3日が経ちました。大分痛みは治まってきましたが、夜中に強烈に痛くなって初めて痛み止めの点滴をしてもらうとらくになって、何日かぶりに寝ることが出来ました。なんにしてもいったいこの痛みは何日続くんだろう?と少し不安になりました。
2010年06月14日
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平成19年10月6日 とにかく痛い!ただそれだけの一日だった。起き上がるのも寝転がるのも、手術中腕を何時間も上に上げられたままの状態だったらしく、全身がこわってしまっていて、どうにも動かせない状態でひたすらボーっとして座っていました。昼過ぎにお父さんが来てくれて私の事を誰の身内以外誰にも言ってなかったお父さんだったけれど、どうしてもたまらなくなったらしく、一人の親友に打ち明けたそうで、その奥さんである人が私にとっても一番のママともで何でも相談したり話したりする中なんですが、心配かけたくなかったので、とにかく伝えることは控えていたのですが、話が伝わり、すぐに見舞いに来てくれました。久しぶりにあったのもあり沢山色んな事を話して、私の為に泣いてくれていました。何で直ぐに言ってくれなかったのかとも言われました。又ひとり悲しい思いをさせてしまいました。でも感謝しています。本当に直ぐに駆けつけてきてくれて有難う!おかげで少し痛みも気持ちも和らぎました。
2010年06月13日
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平成19年10月5日、夜中2時から目が覚めてとにかく一睡も出来なかった。めまいと吐き気に襲われて、どうしようもなかった。元の部屋へ戻ったけれど食欲が全然無くて食べれなかった。夕方お父さんが子供達をつれてきてくれて、息子を見てホッとしました。でも皆が帰るときお父さんの前では又泣いてしまった。ごめんなさい・・・
2010年06月09日
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平成19年10月4日とうとう泣いても笑ってもこの日が来ました。息子はもう直ぐ試験を控えているのもあるのですが、私とお互いに自分のことを頑張ると約束したので、学校は休まずに行きました。娘は休んできてくれて、お父さん、娘、爺ちゃん、婆ちゃん、母、妹、姪っ子、弟夫婦、義姉と皆に見守られながら、手術室へ入りました。皆の前では精一杯笑って手を振りながら手術室へ入ったのですが、手術室の看護師さんに麻酔が効くまで声をかけてくれてたのですが、子供達の事を聞かれたら思わず涙が溢れてきて、時期に直ぐ麻酔がかかり、手術終了して医師が切除下私の乳房を皆に見せて特に女性の方はいつ自分がなるか分からないから、触ってください!これが現実です!と言われたそうです。お父さんはまさかそのまま持ってこられると思っていなくて、さすがに触れなかったそうです。娘も怖がり、母はショックで半分腰が抜けたようになってしまっていたそうですが、後の女性陣はしっかり触って確認してくれたそうです。そして・・・娘の泣き声で目が覚めました。痛いより何より辛かった、泣いている娘にだけは私のこんな姿を見せたくなかった・・・皆一通り顔を見に来てくれて、最後にお父さんが来てくれた。本当にごめんなさい!子供達の事お願いしますと伝えるのが精一杯でした。
2010年06月08日
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平成19年10月3日入院2日目特別何もなかったけれど私が喘息の持病があることから麻酔の時呼吸の為と言われて、肺活量を強くする練習をさせられました。母と妹と姪っ子が昼過ぎに来てくれて、帰りの別れ際にたまらなくなったのでしょうね、私をいきなり抱きしめながら「十分今でも頑張ってると思うけれど明日の手術も頑張らなよ!」と涙ぐみながら励ましてくれた。本当に心配なんだよね・・・それだけでも本当に親泣かせな娘でごめんなさいと言う思いで一杯でした。
2010年06月08日
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平成19年10月2日入院の日朝起きて来ると婆ちゃんも起きていた。「しっかり入院中子供達の事をお願いします」と言うとまた婆ちゃんを泣かせてしまった。私も子供達の顔を見ると泣きそうになったけれど精一杯我慢した。お父さんと子供達の部屋にそれぞれ帰ってきて読んでくれるように手紙を置いてきた。娘も頑張って!と言ってくれました。息子は「ほかの事は頑張らんでもいいけど、手術だけは無理してでも頑張って欲しい!」と言ってくれました。お父さんに送ってもらう道中涙が止まらなくなりました。
2010年06月08日
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平成19年10月1日この日は娘の15回目の誕生日でもあり、私達の結婚記念日でもありました。本当はこの日の入院を指定されていたのですが、どうしても娘の誕生日でだけは祝ってあげたくて、医師にお願いして一日伸ばしてもらった。去年は娘にとって本当に辛い出来ことから立ち直る段階の出来事だったので、楽しんだ誕生日ではなかったのですが、今年は一生懸命明日私が入院することもあったのでしょうが、ずっと楽しそうに笑っていてくれて、爺ちゃんたちも来ていたので皆にケーキを自分で切ってわけてくれました。私はそんな娘の様子を見れたことがとても嬉しかった。あいかわらず結婚記念日の方は無かったのですが、娘がこの日に生まれてくれたことが何よりの贈り物だと思っています。皆の笑っている笑顔が暫く見れないと思うとさびしくなったけれど、「お母さんは頑張るから!と言い、皆も協力し合って頑張ってよ!」と言うと婆ちゃんは泣いていましたが、子共達は「うん!頑張ってよ!」と言ってくれました。絶対家族のためそして自分の為に頑張る!と心に誓いました。でも寝る時は考えると寂しくなってお父さんの横では泣いてしまいました。泣いてばっかりでゴメンネお父さん!と言う気持ちで一杯でした。
2010年06月08日
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平成19年9月30日この日私が入院する前に出来るだけお父さんと子供が困らないように、どうにか直ぐ出来るような食材を買いに出かけた。それからまた家の事が気になりせっせと片付けていたのですが、お父さんから「帰ってこんみたいな感じに思ってくるけんせんでよか!」と言われてしまったのである程度してやめました。でも我が家はガスでご飯を炊いているので、その炊き方一つ知らないお父さんだったので、ノートに一から分かりやすいように書き示した。掃除の方はどちらかと言うと私より日頃から隅々が気になる人なので、大丈夫だろうと思いあえて言わなかった。後は何が何処にしまってあるか分かりやすいように整理してそれもノートに書いて皆に見せて説明をしました。
2010年06月08日
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平成19年9月29日、この日から仕事に行かず、家の色々な整理をしながら入院の準備を少しずついて行った。ふと生命保険の証書を良く読むと、乳房再建の手術でもあ新たに保険が適用されると書いてあったので、お父さんは始めは「他に転移してなかっただけでも良いと思っとうし胸を戻したとかはお前の欲やろう!」と言っていた。でも本当はずっと気にしてくれてたみたいで、思い切って、この保険を紹介してくれた友達に問い合わせて聞いてみてくれて、私に「今度病院へ行ったら医師に頼んで来い!」と言ってくれました。ずっと迷っていた私でしたがこれで乳癌手術と同時進行で再建もお願いする決意が一つ出来ました。それから事故以来ずっと電車等で学校へ行ったり移動していた息子でしたが、お父さんも大変だろうと言う事で、今度は自分で買うという条件で息子にバイクを買う事を再び許してくれて、購入しにいった。息子に今一度くれぐれも事故には気をつけるように、決意新たにさせました。でも喜んでくれていたから、入院する前に息子のこともしてあげれたので良かったです
2010年06月08日
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平成19年9月28日、昨日よりは大分元気になれました。でも手術を受けるまでに医師に乳房再建について返事をしないといけないと思うと気持ちが沈んでいく・・・お父さんはどう思っているんだろう?
2010年06月07日
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平成19年9月27日、先日は結果を家族に伝えるので精一杯だったので、この日は爺ちゃんたち、義姉、そして実家の母にそれぞれ連絡をして結果を説明して入院日を伝えました。女性陣はやはり全摘という言葉にショックを隠せないようでした。私自身が元気が無かったのでどう話して良いか分からなかったのかも知れません。そして母へ・・・とにかく黙って私の結果説明を聞いていました。最後まで終わると「あんたが元気ださな皆が悲しむよ!お母さんより先に死ぬことだけは許さんけんね!それが親にとって一番親不孝よ!」と言いながら私が癌だったと告白してから初めて母が泣いていました。「命」があるそれだけでいいじゃないかと・・・きっとそれが私に親として言える精一杯の言葉だったと思います。それでなくても妹に先に逝かれて娘を一人亡くしているそれなのに又娘が!と本当はいてもたってもいられない私も子を持つ親なので、痛いほど母親の気持ちが分かりました。
2010年06月05日
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平成19年9月26日、この日先ず私が一つ越えなければいけない試練の日でした。「癌です!」と言われて今まで沢山の検査をしました。精神的にも肉体的にもまだこれからなんですが疲れました。相変わらず長い間待たされて、やっと順番が来ました。そして結果は・・・他の場所には転移は見つからなかったそうです。この言葉には安心しましたが、まだ年齢が若い方だと言う事と、心配な部分は無い方が良いからと医師は一生懸命説明をされ全て摘出を下された私の診断でした。そして乳房再建の話、今後の可能性の治療など暫く現実が受け止めきれず又医師の前で泣いてしまいましが、落ち着くのをじっと待って下さいました。帰って皆に報告しないといけないのにさすがに明るく言えませんでした。皆ごめんなさい・・・そして子供達にも全てをきちんと説明しました。娘は黙って聞いていましたが、私にかける言葉が見つからなかったんだと思います。息子は「胸は全部なくなると思いよったけれど、それよりも他の場所にもあったらお母さんがどうなるか心配で、そっちの方が早く聞きたかった。」と言ってくれました。この言葉に私はやっと少し自分を取り戻すことが出来ました。息子の言うとおりだと、本当に他に転移がないだけでも良かったと・・・又子供に教えられました。本当に子供ながら沢山の事を考えてくれているんだとあらためて思いました。本当に有難う!そして入院日が10月2日になりました。
2010年06月04日
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平成19年9月24日、あと2日で結果が出る・・・ずっとしこりがあるところだけ取り除けば大丈夫だと信じたいと思うばかりの一日でした。平成19年9月25日、いよいよ明日と思うと本当に気持ちが落ち着かず眠れなかった。娘の事もあれから進展がなくて時々聞いてみるけれど聞いて欲しくないと言う幹事でした。凄く不安でたまらない・・・思えば思うほど、涙が次から次へとこぼれてきます。「誰か助けて!誰かやっぱり違いました!」と言って欲しいよ・・・
2010年06月04日
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平成19年9月23日この日はやはり娘の事が気になってだんだんと気持ちが落ち着けなくなってきて、集中力が無く相変わらず忘れることが多くなって、お父さんに呆れられるという繰り返しでした。全ての検査が終わって2日、結果が分かるのが3日後そんなに長くないけど、とても長い間待たされているような心境でした。
2010年06月03日
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平成19年9月22日この日は数日前から何だか娘の様子がおかしかったので、又友達仲間で何かあったのかと思い尋ねてみたのですが大丈夫だと娘は言うのですが、やはりおかしい・・・きっと何かが又あったんだと思いました。今度こそ又娘を苦しめてり悲しませたりしたら私はもう二度とその子達を許す事は出来ないと思いました。でもひょっとすると私の事が原因かもしれないとも思いました。
2010年06月02日
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平成19年9月21日、この日やっと乳癌を宣告されて短いようで長い長い検査をやっと終えることが出来ました。ずっと一人で色んな事を考えながら受けてきて、帰り道ホッとしたのと同時に結果の事を考えると恐怖感が押し寄せてきて涙がこぼれてきて仕方ありませんでした。
2010年06月01日
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平成19年9月20日のこの日は先日の検査で相当疲れたのかとてもきつい一日でした。精神的と言うのもあるのでしょうが、頑張っていた自分にちょっと耐えれなくなっていました。疲れていたのですが、一人で家にいても色々考えてしまうのでやはり出かけました。あと一日で入院手術前の検査が終了します。あともうひといきと自分を振るい立たせる私でした。
2010年05月31日
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平成19年9月19日この日は5回目の病院行きでした。前回内科の先生に処方してもらった薬のおかげで、あれから不思議なほど一度も喘息の発作が出なくて、無事にMRI,CT,骨シンチと言う検査を行うことが出来ました。今日も心配してくれている母の付き添いを断りやはり一人で行きました。看護師さんに「逢うたびに明るく前向きになって、私達も元気を貰える!」と言ってくださいました。とても今の私にとって嬉しい言葉でした。本来なら私が元気を貰いたいはずなんだけど、こんな風に言って下さり、本当に色んな人たちが同じ様に前向きに頑張ってくれるようになるともっと素敵な事なんだけどと思いながらも長い長い時間を何時ものように待たされました。今度で最後の検査です。これで私の手術内容が確定します。
2010年05月27日
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平成19年9月18日この日は私と同じ職場に勤めていたママ友が看護師に復帰していたので、どこか良い病院を知らないかと聞くと今私が行っている病院を紹介してくれたのが彼女でした。まさか本当に私が乳癌だったなんて!とかなりショックを受けていたけれど、私が前向きに沢山色んなこと考えて今は大丈夫だと伝えると、「どうして明るく元気でいられるの?」と大きな瞳に涙を一杯浮かべながら行ってくれたので、「皆が治ると信じてくれているのに、自分が一番信じないといけないしね、でも旦那さんに話す時は泣いてしまうこともあるよ」と伝えました。又一つ私の有難うが増えた一日でした。
2010年05月27日
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平成19年9月17日、前の日に子供達に告白したものの私の胸中はとても複雑でした。娘は体育祭の代休で休みだったので彼と逢う事で気が紛れているようでしたが、息子はとても複雑な表情をしていたので、一番信頼できる先生は誰かと尋ねると一年の時の担任の先生だというので息子が出かけてから学校へ連絡をして、事情を説明して息子のことをしっかりたのみました。私が辛い分は構わないのですがやはり子供達の悲しげな姿を見ると可哀想でなりませんでした。「二人ともお母さんのことは病院の先生に任せるしかないから、おかあさんは大丈夫だから、二人は自分の事をしっかり頑張って欲しい」と伝えました。
2010年05月27日
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平成19年9月16日のこの日は娘の中学の最後の体育祭の日でした。去年娘が苦しんで来た事を思い出すと辛くなったけれど、いつもは私がビデオ担当で、カメラマンは爺ちゃんの担当でした。でも今年はどうしても直接見たくて、お父さんに撮ってくれるように頼んで、ずっと見ることが出来た。前日に練習で足を怪我してしまって痛そうでしたが、一生懸命頑張っていてムカデ競争では娘のチームがアンカーの娘達の大健闘で優勝をできた時の喜びの声が私達の所まで大分離れていたのですが、しっかり聞こえましたて本当に私も、皆も嬉しかった。そしてその夜私達夫婦が悩みつずけて来た子供達への告白・・・二人とも思いっきり泣いていた。娘はやはり自分が悪いんだと攻めながら泣きました。婆ちゃんも、爺ちゃんも泣いていた。この日ばかりはお父さんも娘に話すのを一番ためらっていたので本当に泣いていました。皆本当ごめんなさい・・・これからどうなるか分からないけれど入院するまでにまだ沢山検査をしないといけないくてその最終結果でどんな手術になるかがわかるからと、子供達に説明しました。
2010年05月22日
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平成19年9月14日のこの日は私自身の生まれた日で39回目の誕生日でした。まさか自分がこんなに早く、こんな大変な病気になるなんて本当に思わなかったし、思えなかった。だけどこれが現実・・・きちんと受け入れないといけないと心が苦しい!自分がいる・・・誕生日とか言う気分でもなかったけれど、皆もわすれていた。平成19年9月15日のこの日は明日とうとう娘の中学最後の体育祭だった。台風の影響で不安定な天候でもあり、次第に子供達にも話さないといけないと思うと神経的に胃腸がとても痛くなった。これも一つずつ乗り越えないといけない私の試練なんだと何度も自分に言い聞かせました。
2010年05月22日
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平成19年9月13日のこの日母から聞いて直ぐに弟のお嫁さんからメールが届きました。看護師の資格を持っているので病気のことには詳しくとても心配してくれて、私の所へ今すぐにでも行ってあげたい!そして「大丈夫!」っと抱きしめてあげたい!と言ってくれました。その気持ちだけで有難かったです。こんなふうに皆に少しずつ伝わって、心配させてしまう人が増えていってしまう・・・本当に皆に感謝です。
2010年05月22日
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平成19年9月12日のこの日は4回目の来院の日でMIRの検査を受けないといけない日でしたが、この時期はどうしても喘息がでるので、大丈夫だろうか?と思いながら行きました。母が心配して付いてくるといってくれましたが、それは有難かったけれど断りました。何時も病院で待っているととても沢山の患者さんが次から次に来られます。私と同じ様に一人で来られる方、夫婦で来られるかた、告知されて泣きじゃくる人待たされてばかりが我慢できずに何度も文句言う人、本当に人それぞれですが、そんな中でもとても元気に何時も頑張っている人もいました。私は告知を受けて本当に沢山の事を考えました。「死」を心の底から意識を初めてしました。「死」とひとことで言うとこうなりますが、どんなにいつも健康な人でも、いつ突然の事で命を落とすかもしれない、してはいけないけれど、してほしくないけれど未だに自らの命を絶つ人もいる、そして私の様に病気で死を迎える人がいます。つまり人は生まれたからには絶対にその人々にとって意味があること、そしていつかは死を誰もが迎えること。当たり前の事ですが、本当にこんなことは真剣に「死」と言う事を感じることが出来ないと思わないことだと思います。だから私も実際どうなるか分からない!挫ける事も沢山あると思いますが、出来るだけまだやらなければならない事が沢山あるんだから、頑張ろうと思っています。そんなこんなで病院に行くことに関しては自分の事なのでしっかり一つ一つこなしていかないといけないし、誰かに傍にいて貰うとどうしても甘えが出てしまう自分も分かっていたので、皆が心配してくれているのは十分に分かりすぎるぐらい分かっているから・・・本当にごめんなさい・・・と言う気持ちでした。結局はやはりこの日の検査は発作が出てるから出来ないといわれ内科の先生を紹介してもらってその先生の診察を受けました。その先生も女性の先生で綺麗な先生なんですがとてもはっきりと物を言われる方で私にとっては良い先生に又巡り合えました。
2010年05月20日
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平成19年9月11日 この日は昨晩娘の様子がおかしかったので少し注意するつもりでどうしたのかと?尋ねたのですがそのときは何も言ってくれまんでした。それから暫くすると、私達が中々娘に真実を言えないでいることに不安を感じたのか、「もしお母さんが悪い病気だったら、ずっと心配ばかりかけてきた私のせやん!」と言ったかと思うとせきを切ったように、自分を責め続けてひたすらわんわん泣かれました。このとき娘は中学最後の体育祭の練習で毎日遅くまであっていたので、頑張っていたからお父さんと、ショックで出来なくなったいけないから、せめて体育祭が終わってから子供達には話そうと決めていたのでそこでも言えず私も泣きたかったのですが、子供の前では出来るだけ泣かないと決めていたので慰めるのに必死でした。一言だけ「まだ検査を全部してみないと分からないけど、誰もせいでもないしお母さんはたとえなんて言われ様が頑張るから」と、だから娘にも頑張って!と言いました。そしてまず主人の両親へ話しました。やはりショックだったようでしたが、何も言わずに私の話を聞いてくれました。そして暫く連絡をしなくなった私を心配してきっと何かあると思っていたようで、何度も電話やメールをくれていたけれど返事が出来なかったのですが、やっと母へ告白する決心をして電話をして全て話しました。母も静かに聞いてくれてました。とりあえずそれを伝えるのに私のほうが精一杯でその日はすぐ電話を切ったのですが、あとで妹に聞くとずっと泣いていたそうです。本当になんて親不孝な娘なんだろうととても辛い一日でした。
2010年05月19日
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平成19年9月10日のこの日は朝から気分が優れず、お父さんと子供達をそれぞれ送り出した後横になっていた。しばらくしてやはり一人になりたくなくて出かけた。明後日にはMIRという検査を受けないといけないんでけど、喘息などの人には造影剤があまりよくないと聞かされているせいかよけいに気になって精神的に発作が出て苦しい・・・
2010年05月19日
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最後にもう一人伝えられないのは私の母にでした。私は長女で生まれ、下に3歳下の妹と5歳下の妹と、8歳下の弟の4人姉妹でした。私の3歳下の妹は生まれたときから小児麻痺で両親には医師から「子の子は長くて7歳ぐらいまでしか生きれないだろうと」と宣告されていたそうです。親戚などからは妹を私もまだ小さくて手がかかるから、施設に預けた方が良いと言われていたそうですが、自分で産んだ子供なんだからと必死で育てていたそうです。そうこうしているうちに又妹と、弟が生まれて5年の月日が流れとうとうどうしようも無くて泣く泣く施設に預ける決心をしたそうです。それでも母は毎日時間のある限り妹の所へ行っては介護を献身的にしていたのを幼い私でしたが覚えています。それか一年後の年末に多分もう予断は出来ないだろうということで、外泊をさせて家に妹を連れて帰ってきました。その数日後に妹は眠るように静かに父と母の胸の中で息を引き取りました、そんな母に周りの人たちは妹が「親孝行をしてくれたんよ!」と泣きながら母を慰めてくれてたのを覚えています。それからの母は暫くおかしかったのですが、残された私達のために頑張って明るく亡くなった妹の為にも精一杯生きようと思ったそうです。それからの母は本当にいつ見ても疲れていても私達の前では常に笑っていてくれました。そんな中今度は5歳下の妹が腎臓病になり5年間入院生活を余儀なくされました。それでも母毎日病院へ行き帰って来ては店をしていたので店の準備に追われと何時も大変そうでした。まだ幼かった8歳下の弟の面倒はほとんど私が見ていました。それから数年後に夫婦のことは分かりませんが、両親は離婚していまい、このとき私は高2で妹は12歳、弟は10歳と言う年で皆母へついていきました。それからの母も昼夜働きながらそれでも何時も笑顔で時間があれば弟がまだ小さかったのもあり近くの学校へ行き沢山遊んでくれていました。そんな苦労の耐えない母をずっと見てきた私だったから私も母を見習ってどんなことがあっても明るく生きていかなければと思って今まで生きてきました。それなのに今度は私が癌になるなんて!いったい母にどんな風に伝えればいいのか?それでなくても一人かけがえのない子供を失っているのにと思うと中々伝えることができなかったのです。
2010年05月18日
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次にどうしても伝えれなったのは娘でした。息子も勿論でしたが、この年は私が39歳、主人は41歳、息子16歳、娘14歳でした。この年の一年前に娘は仲良し7人グループのお友達から夏休み直前をきっかけに一人だけいじめにあうようになりました。娘はとても明るい性格で、学校も、先生も友達も皆大好きで、帰って来ては楽しそうに私達家族に笑いながら、その日の出来事を話してくれていつも笑っていました。それが夏休みに入る頃に友達からの一本の電話があり急に狂ったように泣き出しました。主人は始めは子供のケンカはほっとけ!と言ってましたが、理由は分かりませんでしたが、ひたすら自分が悪いと攻め続けめったに泣かない子がとにかくそれ以来食べる事も大好きなのに食べなくてずっと泣いていました。さすがに主人もおかしいと思ったようですが、娘に学校に相談するかと尋ねると、嫌だと言うし主人も学校に言っても何も変わらんやろう?といい暫く様子を伺うことにしました。次の日から娘の闘いが始まりました。大丈夫かと聞くと学校は行くと言うので私達も休んでいいよと言う言葉は簡単に言えたと思いますが、あえて後ろ髪引かれる思いで送り出しました。それでもどうしても辛くなったら、帰って来いと主人が言ったのですが、娘は皆からどんなに無視されようが、頑張って行っていました。でも確実にもともと太ってはいなかったのですが、食事をまともにしてくれないのでどんどん痩せていき、ちょうどこのころテレビでもいじめで自殺をする子が多く、そんなニュースをじっと娘が見るようになり私はこの子も死を考えているだと感じました。いじめは誤解から始まったようですが、娘が友達にどんなに説明しても違う子から聞いたことだけを信じて聞いてくれず、私達はそんな友達は本当の友達じゃないから他に友達を作ったら?と何度も言ったのですが、私の町は小、中学校とも1校ずつしかなく幼稚園からの仲良しだったので、中々それも出来なかった様でした。夏休みも頑張っていっていたのですが、とうとう耐えれなくなったようで、朝から泣き出したので、先生に頼んでお母さんと一緒にその子達に話す時間を貰おう!と娘を説得して学校へ行き話す場を設けて貰いました。このとき、夏休みだったので部活の顧問の先生に他には誰にも言わないでくれと頼んだのでした。其れから子供達になんで本人じゃなくて他の子の言うことだけを信じるのか、このまま誤解のままずっとそうやっていじめていくのか、私が幼い頃同じ様にいじめにあった経験と別の子が自殺をしてしまったこと、娘も死にたいと思っていること、もしそうなった場合ずっと皆の心からそれはけして消えることが無いことを話して問いかけました。私も皆小さい頃から知っていて、子供達も私を慕ってくれていたので一生懸命話すと分かってはくれたようですが、暫くはぎこちない日々でした。それでも娘は頑張って一日も休まず遅刻せずに学校へ行きました。それから少しずつ戻りかけて、2学期が始まって今度は担任の先生から、「お前はいじめられよったらしいな」とみんなの前で言われたのです。やっと立ち直りかけて来た娘を今度は先生が又つき落としたのです。それ以来私達家族は学校と先生を信じることはなくなりました。それから一ヵ月後に本当に別にいじめられていた同級生が自殺をしてしまいました。この時も学校側は他にいじめは無いのかと?と保護者に言われていたのですが、ないと言い切ったので娘や他にもいじめにあってきた子たちがとても可哀想でなりませんでした。そこの自殺以来娘はやはり自分も死を考えていたようで自分がこうなっていたかもと、思うと怖くて毎晩震えて暫く眠れない状態が続きました。そんな娘を私達もサポートしながら娘自信が本当に自分の心と葛藤しながら少しずつ立ち直っていきました。そんな苦しい経験から立ち直ったばかりの娘だったから伝えられなかったのです。とくに主人がずっとためらっていました。
2010年05月17日
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ここで暫く何故私が身内でありながら主人以外に中々伝えられなかったかをそれぞれ綴っていきます。まるで自分でも結婚して現状に至るまでドラマのような試練を沢山経験してきました。まず一人目は主人の父についてですが、今から18年前主人の両親と同居をしていたのですが、娘が生まれて二ヵ月後に義父は夫婦で理髪店を営んでいるのですが、具合が悪くなっても中々病院に行きたがらない義父だったのですが、さすがに風邪を拗らせたようで何故か妙に腰の周りが痛く、お腹の調子が悪いと言い初めて自分から病院へ行くと言いとりあえず近くの病院へ行き、大腸の検査をするようにと言われ検査の結果、直ぐに自宅に電話があり義母が呼び出されて、大腸癌の疑いが濃厚だからと別の病院へ行くように言われました。義母は泣き崩れてどう義父に説明したら言いか分からないとパニックになって主人がとりあえず、頑固な義父を説得して別の病院で詳しい検査をした結果直ぐに入院手術となりました。義父には潰瘍の手術と言うことにしての始まりでしたが、術後病理検査の結果で末期だと言われ、血液にも転移が見られるので、極めていい上体とは言えないといわれました。生まれたばかりの私の娘は2ヶ月、息子は1歳9ヶ月で、とても孫思いの爺ちゃんだったので、暫くして医師に「あなたは癌でした」と告知された時は「自分はしまえた」と思って布団にもぐりこんで涙したそうですが、孫の成長がずっと見たいという執念から術後まもないのに病院の移動は全て階段での登り下りをして、食事も病院の以外食べずに前向きにしかっり頑張っていました。このときは爺ちゃんは末期だとは知りませんでしたが、自分の病気を克服するのに退院してからも凄い勢いでの頑張りようで目を見張る思いでした。週に一度私も一緒に綺麗な場所を探してそこのよもぎを摘んできて、それを擂り潰してこしてミキサーに林檎と蜂蜜などと一緒にかけて、2年間程飲み続けました。食事も野菜は茹でて、とにかく消化に良い様に工夫して共に頑張ってきました。そのかいあってか、医師にも驚かれたほどの回復で見事に癌を克服して今では人一倍食べるし、運動もするし、お酒も適度に飲むし、孫も19歳と17歳になっているのですが自分の店が休みで用事が無い限り孫の顔を見に我が家へやってくることが生きがいの御爺ちゃんです。そんな義父で私の事も自分の娘の様に可愛がってくれているので同じ「癌」と言う病気になったことが伝えれなかったのです。
2010年05月13日
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平成19年9月9日この日は何となく優れない一日でした。頭では理解しているつもりでもどうしても身体のほうがついていけない事にしっかりしないといけないと思えば思う程心が苦しくて痛い!涙が流れる心が強くなりたい!
2010年05月12日
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平成19年9月8日この日はずっと病院から貰った「乳癌とインフォームド・コンセプト」、「適切な治療を受けるために」の冊子を読みました。難しい言葉の意味は分からなかったけれど、少しずつ気持ちが変わっていきました。勿論不安もあるし、怖いけど皆に打ち明けなければならない時に特に子供に泣いてしまうかもしれないけれど、出来るだけ全てにおいて順調で最小限の手術で良い様に祈っていこうと思った。そして皆で「良かったね」と言える手術成功を祈りたい。
2010年05月11日
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平成19年9月7日のこの日はお父さんと沢山の話を久しぶりにした。今まで沢山の試練を結婚して乗り越えてきた。義父の大腸癌との闘病生活、娘のいじめとの闘い、息子のバイク事故、そして又新たに私の癌宣告・・・本当にどうしてこんなにも立続けに辛いこと大変な事ばかり起きるのか!とその度に気がおかしくなりそうな時もありました。きっとお父さんも参っているよね・・・主人はもともと亭主関白な人なので私が今まで具合が悪いことがあっても自分の健康管理がなってないからだと、逆に言われていたほどでした。なので今回の私の事でもあまり考えてないのか?と思い入院している間家の事を出来るだろうかと心配でした。でも主人なりに言葉は足らない人ですが、人一倍みんなの事を一番に考えてくれる事はわかっていたので、主人に「爺さんの時もそうやったけど、治ると信じていたから涙はほとんど出なかった、だからお前も絶対大丈夫と思っているから」といってくれました。その言葉は何よりも心強かったし、私も信じたい!これ以上悪い所は無い様にと、手術すれば爺ちゃんの時と同じ様に治ると信じるしかないから・・・でも気持ちのやり場がなくてお父さんにしがみついてこの日が一番泣きました。「大丈夫!」と言ってくれている。自分でも分かってる・・・自分自身がしっかり闘わないといけないって・・・爺ちゃんだって末期と言われながらも色々皆で頑張り本人が一番頑張って見事に癌を克服して乗り越えてきたんだから、私にも出来ると・・・
2010年05月10日
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平成19年9月6日のこの日は朝お父さんから「仕事だいじょうぶか?」と心配して聞かれたけれど、一人になると泣いてばかりいそうなので出かけた。精神的にも身体もきつかったけれど、とにかく夜が怖くて一人になるのが本当にいやだった。
2010年05月10日
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平成19年9月5日、この日は三回目の来院でした。この日を迎える事でとにかく色々な事を沢山考えました。もしもの時まず頭にあるのはお金のことだった・・・自分の身体のことよりも、もし手術となるとお金がかかってしまう!と・・・あまり考えずすぎて身体のあちこちが痛くなり、お腹はいつも下してばかり頭も痛くなり、何より背中が数日前から痛くて眠れず又不安になり、何となく食欲もなく、夕食はちゃんと食べないと言われるから食べたけど又直ぐに下してしまう。集中力が無くてお父さんにも怒られてばかりだった。そうして聞きにきた結果でした。細胞診と言う検査の結果は問題なかったのですが、やはりマンモトームの結果は悪性だという診断が下されました。病名「浸潤性乳管ガン」これが私に下された紛れもない真実の診断でした。もしかして?と言う思いはあったけれど、聞いた瞬間はパニックになり医師の前で泣いてしまった。そして又40分の家までの道のりを必死で帰ってまずお父さんに告げてひたすら泣いた。だけど現実が受け入れられずただボーッとしていた。皆にどう話せばいいか考えると又泣いた。辛い・・・怖い・・・始めは子供の顔を見ると又泣いてしまうと思ってた、でも以外にも頑張って普通に?出来たと思う。子供達に結果がどうだったかと聞かれたけれど、まだ検査を受けないといけないと伝えるだけが精一杯でした。
2010年05月09日
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平成19年8月21日この日は2回目の来院でした。 何度も説明を読んでは不安になり、神経的だと思うけれど、何度もトイレに いっては下してばかりいた。 お父さん(主人)も承諾の印を中々サインしてくれなかったりと色んなことに やきもきしながらこの日を迎えた。 しかも爺ちゃん(義父)達も我が家に来ていたし、お父さんの誕生日でもあったから 全てが複雑な心境の中の検査だった。 同じ様に生検と言われた人がこの日は私を含め8人が受けに来ていた。 そのうちの一人の方と話すことが出来たのですが、この方も私と同じ様に自分で しこりがあることに気づいて来られていました。 徐々に順番が回ってきて私は6番目と言われていたのですが、二箇所違うこと しないといけないと言われてよけいに気になりだしました。 痛そうに出で来る人、そうでもない人、じゃあ私は?と思いながら順番が回ってきた。 始めに細い針の方の「細胞診」と言う検査で、これはチクッとしただけだった。 次にマンモトーム! まず麻酔をされたけれど、刺すのは痛くなかったけれど組織を採られる度に全身に響いて 痛みを感じた。 何より止血の為に暫く押さえられている時間が何より一番痛く、うめき声が 出そうなぐらいで、エアコンが効いているのに全身汗だくになってしまった。 圧迫帯をされたため、背中が変な姿勢になるしまともに腕が動かせず、必死に40分の 道のりを運転して帰りました。 そしてお父さんの誕生日も何とか乗り切りました。 爺ちゃんも私を見てかなり変だと思ったようでしたが、お父さんにも「普通にしとけ!」 とか言われたけれど、痛くてそれどころじゃなかった。
2010年05月08日
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