日米友好クラブ JAFC コトブキのブログ

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旅 その1 函館から狭山



=== 1990年2月~5月 ===

大学2年の後期の授業やレポート、テストは2月中旬には終えることができた。
2年生が必要な単位はほぼ取得できた。
ほとんどが合格ギリギリではあったが・・・。


<まずは資金をためるために・・>
F社という人材派遣会社の新聞広告を見て狭山の工場で働くことにした。
お菓子を作る大手の会社、L社の工場。
『プロ野球の球団も持っている』といえばピンと来るだろう。

当時、いや現在もある自動車会社のライン工場などは
肉体的にキツイと聞いていた。
できれば働きながらトライアスロンのトレーニングもしたかったので、
夜勤の少ないところで、且つ、ほどほどの給料をもらえるところを選んだ。

自給は1100円。午前8時から17時まで、昼休憩1時間で8時間労働。
何も言わなければ自動的に午後8時まで3時間の残業が「できる」。
この3時間は基本の自給1100円に25%がプラスされる。

まずは6月開催の済州島のトライアスロンのために必要な分を稼ぐ。
自転車は15万円。
ウェットスーツが4万円。
参加費用は旅費も含めて大体25万円くらい。
3月初めから働いて2ヵ月半で60万は貯められると判断した。
(ここは予定通り、資金は貯められた)


<函館を発つ>
1990年2月末、函館空港より出発。

初めての飛行機。
同乗したのは地元の女性。
私よりひとつ年下の19歳とのこと。
羽田空港では現地の派遣会社のスタッフが迎えに来てくれていた。
岩手から来たという3人と一緒に狭山市内の旅館で一泊した。

翌朝、早速L社の工場の工員の宿舎へ。
3階建てで200人以上はいるだろうか。
奥行きのある縦長の部屋は、布団を4枚敷けばいっぱいになる
10畳ちょっとの4人部屋。
当然風呂・トイレ共同。
洗濯機も数台あった。
まぁキレイな施設だった。

「半生キャンディ」という、
今で言うソフトキャンディを作るラインに入った。
ラインの作業ということで退屈なものかと思っていたが、
いろいろ起こるもので、それなりに毎日変化があった。


<半年”だけ”働く人々>
ここで働き始めて、「初めて」の事だらけだった。
特に驚いたのが『半年だけ我慢して働く』人々である。


彼らの考えはこうだ。

 6ヶ月働けば、3ヶ月間失業保険がもらえる。 

彼らは『3ヶ月の失業保険』を得るために働いていた。
言い換えれば、『3ヶ月働かないために6ヶ月働く』のである。
彼らは当時の私にとって理解の範囲を超えていた。
今なら、保険制度も変わり、このような働き方(あるいは休み方)は
難しくなっているだろう。

社会に出て15年余りたち、このような人は少数ではないことを知った。
彼らは今、どんな生活をしているのだろう。

そんな人々と5月の連休明けまで働いた。
5月中旬からは八王子で大学生だった兄の部屋に居候し、
トライアスロンのトレーニング三昧の日々を送った。

~旅 その2 狭山・川越 へ続きます~

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