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いつも国道21号を通って大垣の方へ行くと『御首神社』という案内板を見かけるんですけど、見るたびに気になっていたので6月の24日に行ってみました。御首神社・・・、名前からして何となく怖い感じがします。怖いと思いつつ、つい気になってしまう・・・。でも行ってみると、ちょっと怖いイメージとは全く違って、綺麗で立派な神社でした。 ご創建の由来を読むと・・・今から約千年前平将門公は、時の朝廷の政策に憤りを覚え承平天慶の乱を起こしました。しかし藤原秀郷・平貞盛等に鎮められ、平将門公は捕えられ首を討たれてしまいます。その首は京都に送られてさらし首となったのですが、故郷恋しさのあまり獄門を抜け出し関東へ戻ろうと飛び立ちます。この異変を知った美濃の国南宮大社では、平将門公の首が関東に戻ることによって再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく平将門公の首を射落とします。この首が落ちた荒尾の地に平将門公を神として崇め祀ることによって再びその首が、関東に戻らぬようその怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたと言われています。何とこの神社の主祭神は平将門公の御神霊でした。将門公の首が落ちた場所は色々な説があるようですが、まさか大垣にもあるとはビックリです。ちなみに、将門公の首を落とすため隼人神の射た神矢が飛んでいった道筋を矢の通った道であるとして、現在の大垣市矢道町があるそうです。 この神社は、首から上の病気平癒に御利益がある他、学業成就・合格祈願などにも御利益があるそうです。確かに学業の願い事を書いた絵馬がたくさん下げられてました。
2011年07月18日
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そして岩村城の本丸へ。いまはお城はなく、城跡のみとなっています。1570年遠山影任が城主の時、武田信玄によって攻められるも、織田信長の援護もあり守り抜くことが出来ました。その後1571年景任が病死した後、織田信長は5男で当時6歳の御坊丸を遠山氏の養子とました。景任夫人は信長の叔母にあたる人(おつやの方)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るいました。1572年の10月、武田信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、その時に秋山信友に岩村城の攻略を命じたました。岩村城はこの際も容易に落ち無かったのですが、秋山信友はひそかに夫人を説得し妻に迎えるという条件を出し、夫人も到底最後まで城を守ることが出来ないと考え条件をのみ、岩村城を開城することにしました。しかしこのことは信長の怒りをかってしまいます。1575年 長篠の戦いの後、武田勢が弱体化すると信長は岩村城奪還を行い、長男信忠を総大将に攻城戦を行います。5ヶ月にわたる戦闘の後岩村城はついに陥落します。開城の際、助命が約束されていたのですが織田方はこれを翻し、信友夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑されてしまいました。というのが女城主の物語です。ちなみにその7年後に織田信長は本能寺で殺されました。岩村城の見どころの一つ、『六段壁』だと思うたぶん・・・。他の方が撮影されてる写真を見ると、もっと絶好の撮影ポイントがあったようですが、何も考えずに適当に撮ってたのでちょっと後悔。また行く機会があったらちゃんと撮りたいです。
2011年07月10日
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7月に入り8日に東海地方は梅雨明けしたのですが、日記は梅雨入り前の6月の4日のこと。岐阜県の恵那市にある『岩村城』へ行ってみました。岩村城は恵那市の南部の山上にあった天然の地形を利用した要害堅固な山城で、本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置していたので、日本三大山城の一つに数えられています。別名は『霧ケ城』女城主の物語があるのも有名です。まず岩村城へ行く前に、ちょうどお昼だったので腹ごしらえ。鳥の霜降りを頂きました。あっさりしててすごくおいしかった・・・。さて岩村城へ到着。りっぱな石垣がある脇の細い道を登って行きます。坂はちょっぴり急ですね。 少し歩くと本丸と表門の案内の看板が出てきます。 本丸に入る前にある埋門(うずみ門)イメージ図が描かれていますが今は石垣を残すのみとなっています。 石垣の中に一階部分は埋まり、門の上にそれに跨って長い多門があって、監視と防備役目を果たし、敵が攻めて来たときは土や石で門を埋めてしまうこともできるので、ほかの門に比べて埋門は堅固だったそうです。埋門の石垣は 野面積み、打込ハギ、切込ハギの三種を一度に見ることが出来るそうですが、情けないことに私にはよく解らない・・・
2011年07月10日
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