1

八 東京英語学校(二六頁) 明治7年3月東京外国語学校英語科の試験を受けて合格し、最下級なる英語学下等六級の丁組に編入された。学校は神田一ツ橋に在って、現在の学士会館前に当り、元の商科大学敷地内に位置していた。この外国語学校の英語学の部門はその年の一二月に分離して東京英語学校となり。旧校舎の筋向いの榊原邸に移った。その敷地は開成学校(後の東京大学)の敷地の隣接地である。東京英語学校は明治一〇年に廃せられ、大学予備門に変った。英語学校の教育方針は全部英語のいわゆる正則主義で、教師は英米人が主となり、下級には邦人が加わり、最下級は邦人のみで担当した。英語学校の学級は一級から六級にわかれ、一級から三級までは一組、四級は甲乙の二組、五級は甲乙丙の三組、六級は甲乙丙丁の四組から成っていた。最下級六級の丁組を振り出しに、各級担任教員監督指導のもとに、毎月もしくは二、三か月ごとに小試験が行われ、その成績の優良なものは抜擢進級させる制度であった。私は入学当時は、六級の丁組にいたが、同年五月には級のもの四、五名と共に丙組に進級、六月には乙組に、九月には甲組に、同月重ねて五級の丙組に、一一月には五級の乙組に、翌八年の三月には五級の甲組に、七月には四級の乙組に、一〇月には四級の甲組に、更に翌九年の三月には三級に、九月には二級に、一〇年の三月には一級に進んだ。このようにほとんど試験のたびごとに進級を続けた。入学当時、同校に在学していた札幌に関係のある士、または知名の士を、明治七年三月発行の「東京外国語学校官員並生徒一覧」により、その若干を採録してみよう。下等一級―伊藤鏗太郎(札幌農学校第二期生)、柳壮蔵(北大医学部柳教授の厳父)、真崎健 吉(北大医学部真崎教授の厳父)下等二級―橋口文蔵(札幌農学校長をした人)、飯島魁、下等三級―中島信之(札幌農学校第一期生)、藤田四郎(藤田九三郎氏の弟、元農商務次官)、加藤高明、下等四級―末松謙澄、野村龍太郎(工学博士)、内村鑑三、下等五級甲組―土方寧、下等六級甲組―田中館愛橘、下等六級乙組―石川千代松、下等六級丙組―広井勇(札幌農学校第二期生)、下等六級丁組―宮部金吾(札幌農学校第二期生)この頃を考えると、教育の制度がちょうど一つの大きな過渡時代にあったように思う。生徒は多く東京で正則教授をしていた神田の共立学校からか、横浜の高嶋学校から入って来た。一級全科目を通じ一外人が算術、読み方、綴り方、地理、歴史等皆英語の教科書を使用してこれを担当していたが、明治九年頃には漢学が課程の中に加わった。また翻訳の組も出来た。私がやったのは、MurryのPhysical Geographyで、二月位で卒業と認められた。この組の受持は教諭下条幸次郎氏であった。教師についての思い出は散漫になっているが、その二、三を記してみよう。六級の頃にポート(POAT)がいた。彼は歯医者志望の英人で、米国遊学の途中日本に立ち寄っていたものである。私の前歯二本が虫歯になっているのを見て、直してやるから来るようにと誘われたまま、彼を訪問した所、前歯の穴にゴムを埋めてくれた。一通りの治療器具が揃っていて、それが美しく清潔に見えた。五級の甲組にいた時はマッカーサー(MACARTHUR)という酒飲みの英人がいた。商人あがりらしく、数学も加減乗徐くらいしか判らなかった。彼は生徒をよくかわいがり、しばしば生徒に遊びに来ないかと誘いかけた。私は級友と共にそこに算術を教わりに行き、分数のことを聞いたら、「分数?そんなことは判らないさ」と平然と答えた。四級の甲組に進んだ時にはマイヤー(MEYER)というフランス人の太った教師がおり、彼は私の試験点等評に“A good hard working boy”「宮部君は頗る出精なり」との評を与えてくれた。四級を終った時、彼を中心として撮った記念写真が今私の手許に残っている。その中には穂積八束(後年法学博士、東大教授)、近藤仙太郎(後年工学博士)、松田武一郎(後年工学博士)、伊藤悌蔵(後年控訴院判事)、市嶋謙吉(後年早稲田大学教授)、梅岩誠太郎(後年早稲田大学予科教授)、高木甚平、横井左久、内藤信一郎、鶴見次昌、曾我鼎三郎、山田義容に諸氏がいる。三級の時の教師のフェントン(FENTON)はイギリス人で昆虫学者だった。私が札幌に来た翌年石川千代松君を助手として札幌に蝶類の採集にやって来たことがある。二級の時の教師レーシー(LECEY)はアメリカ人である。彼は金星が太陽の前を通過した時の観測班に加わって来たまま、居残って教師となったので、数学が得意であり、また音楽にも趣味を持っていた。彼は私の点等標に“A model pupil, would make a fine teacher of Arithmetic”なる評をくれた。一級の教師はスコット(Scott)という米国の教育家で、英作文を教えることが非常に巧みであった。この組に入ってから英作文の上達は飛躍的であったと思われ、それが非常に後年のためになった。スコットは後ハワイの中学校長になっていた。一級の時の同級生中には後年有名になった人も少なくなかった。その中でも抜群なのは穂積八束君や酒井佐保君であろう。穂積君は級中での秀才で、特に同君の英作文は卓越したものであった。同級生の奇才として根岸錬次郎君がいる。同君は長岡藩士であり、河井継之助や森源三氏の一族であって非常な論客であった。ある時スコット教師はアメリカ人は一般に発音(pronunciation)が良くないがケンタッキー人は正しい。自分はケンタッキー州の産であると言うや否や、根岸君は直ちに“Yes, your pronunciation is very clear” と大音で誉めたので、スコット教師は赤面し、級友一同どっと爆笑した。同君は永らく日本郵船会社のロンドン支店長をしていた。戦前ロンドンを非常に親しみ「おらが村」と呼んでいた。この英語学校時代は母の膝下で全く勉学に専念した。学校は一時の油断も許さぬ進級試験制度であったので、夜はうす暗いランプの下で一一時過ぎまで勉強し、時には深更に及んだ。このために視力を弱めた。勉学に急がしかったから交友も少なく、多くは御徒町方面から通う連中と往復を共にした位のものであるが、一級上の高田早苗君とは家の近かったため特に親交があり、同君とは竹馬の交を深くし、時には上野の山を散歩し、球投げに仲間の四人高田早苗、梅若誠太郎、伊藤悌蔵の三君と私で撮影した記念写真が残っている。高田君は当時御徒町三丁目にあった母堂の令弟にあたる富田冬三氏の家に身を寄せていた。富田氏は後年農商務省の商工局長まで勤めた人で、旧幕時代から幕命を帯びて洋行をし、また維新になってからも二、三度西洋へ赴き、岩倉大使の欧米巡遊に際しては随伴したという経歴があって時勢に通じていた。いつも高田君に向かって、「何でもこれからは英語を学び、まず世界の大勢に通じなくてはならぬ」と教えていた。高田君と共に富田氏方に世話になっていた梅若誠太郎君は私と同級であった関係から親しく交わった。同君はのち文学士となり、宮城県書記官を勤め更に早稲田大学予科の教授となられた。なお球投げの仲間の一人伊藤悌蔵君は、私と同級で学校の往復によく一緒になった。同君は法学部を卒業され後大審院の判事になった。
2016年08月27日
閲覧総数 245
2

渡辺和子さんの「忘れかけていた大切なこと:ほほえみ一つで人生は変わる」という本にこんな話が載っている。曹洞宗の尼僧、青山俊董が書いた「禅のまなざし」という本の中に、「だいじょうぶの小石」というお話があります。仕事がら病院に出入りを許されている一人の方が、掌に入るくらいの小さな小石をもっていて、これから手術を受けようとしている人に、その小石を握らせてあげるのだそうです。その小石には、平仮名で「だいじょうぶ」と書いてあるので、それを握らせてもらった人は、「大丈夫なんですね。手術はうまくいくのですね、ありがとう」と喜びます。すると、その方は、「あなたが思っている通りになる大丈夫ではなくて、どちらに転んでも大丈夫、そういう大丈夫の小石なんですよ」とおっしゃるのだ、というお話なのです。この話を読んで、私のこれまでの考えは足りなかったと思いました。これまでは「手術のためにお祈りしてください」と頼まれると「はい、わかりました。きっとお治りになりますよ。大丈夫ですよ」、そういう気持ちで「大丈夫」を使っていたことが多かったと思うのです。祈れば神が私の願い通りにしてくださる、病気を治してくださる、夫の怪我を治してくださる、子供の暴力を止めてくださる、というのではなく、どっちに転んでも大丈夫、神は悪いようにはなさらないという信頼、腹のすわった心がまえ、そういうものをもって祈ることが大切なのだと気づいたのです。「祈りは神を変えません。祈りは私を変えます」。私たちが祈ると神はきいてくださる。まるで私たちの意のままになる神のように想い勝ちですが、私がどう願おうと、神はご自分の御心をお行いになるのです。私は「欲しいもの」を願うけれど神は「要るもの」を下さるのです。私は26年前、うつ病になりました。50歳で脂が乗っている時、仕事が面白くて仕方がない、その時に欲しくも無い病気をいただきました。その時、一人のカトリックのお医者さまが、「シスター、運命は冷たいけれど、摂理はあたたかいですよ」と慰めてくださったのです。その当時は、その言葉の意味がわかりませんでした。治りたい!治りたい!とだけ想い、神をうらみ、愚痴を並べ、そして暗い顔をしておりました。私が唯一微笑むことの出来なかった時期です。その後、運命と摂理の違い、それがようやく少しずつわかってきました。この世の中に起こることをしようがないこと、降って湧いたような天災、人災つまり、運命として受け取るのではなく、同じ受け取るなら、摂理として神のはからいとして受け取る。だから「大丈夫だ」ということなのです。私の欲しかったことはその時には実現しないかもしれない、。でもいつか神の時間に実現されるのだということ、そう信じて生きることが、すべてを摂理として受けとめるということです。(略)神の摂理として病気をいただいたということ、その時はとても辛かったけれども、いまとなっては、あの時あの病気をしてよかったと思います。病気をしたおかげで人に対して優しくなりました。それまで人に対してきびしくて、あの人はだらしがない、なぜもうちょっと頑張らないんだ、などと思っていたのが、それを思わないで済むようになりました。自分の弱さを知ったからです。私が変わるために、神が摂理として病気をくださったのだと思います。そして、そう思うことが出来るようになったことをありがたいと思います。(略)皆さんも、「だいじょうぶの小石」をしっかり握りしめて生きることが出来る方たちであって欲しいと思います。時たまポロッと落としてしまってもかまいません。どこに置いたかわからなくなって探し回ってもかまいません。でもいつかその「だいじょうぶの小石」をもう一度見つけてください。
2018年06月20日
閲覧総数 465
3

新渡戸稲造の手紙(以下大意)より明治11年7月12日に学期末試験が行われた。新渡戸はその成績を詳しく養父に報告した。7月12日、大試験あり。生徒の席順は次のとおり。1、内村鑑三 2、高木玉太郎 3,宮部金吾 4,太田稲造 5、足立元太郎 6,藤田九三郎 7,岩崎行親 8,佐久間信恭 9,南鷹太郎 10、毛受福太郎7月3日、西洋大学校風俗に従いエキッスヘベシャウンと申して、一年期二年期三年期というように年一度ずつ互いに役員等を祝うことがあり、すなわち当校の3年期はこの日にてこの日生徒中より最上の作文(ただしこの作文は6週間ばかり前より教師中にて選ぶ)を6つ取り、すなわちその文を作りし人に暗じさせ、もってこの日の演説となすなり。ゆえに選ばれし者の名誉なり。演説者は次のとおり これは校長ならびに教師生徒に向かいその日を祝するもので、演説のほか教師より最上の弁者を選ぶなり。祝弁 佐藤昌介 農業及び農学の開発 邦語にて 佐藤昌介、学問は宗教の碑 西洋語にて 大島正健自立論 渡瀬寅二郎、西洋有名なる人の弁ぜられし文を暗ず 内田瀞(初年生徒)魯国悪む可からず 邦語にて 内村鑑三、農業の農家の品行上に於ける勢力 西洋語にて 太田稲造、名は利に優さる 岩崎行親、内田と同様 伊藤鑑太郎右の演説済みて開拓大書記官校長調所広夫君演説あり。これより優生に賞を賜う。(2年生徒)農学一等 佐藤昌介 二等 荒川重秀、画学一等 小野兼基、田内捨六 二等 荒川重秀皇学一等 小野兼基 二等 荒川重秀。数学一等 黒岩四方之進 二等 荒川重秀化学一等 佐藤昌介 二等 大島正健(初年生徒)農学一等 内村鑑三 二等 宮部金吾、画学一等 足立元太郎 二等 南鷹太郎皇学一等 岩崎行親 二等 永井於兎彦、数学一等 内村鑑三 二等 宮部金吾化学一等 高木玉太郎 二等 毛受福二郎、英学一等 太田稲造 二等 内村鑑三一等賞金 七円 二等賞金 三円五拾銭3月15日付養父宛の書簡では禁酒の誓約を守る守らない者で対立が生じたことが報告されている。2月21日付け御状を昨夕拝見、皆々様いよいよご安泰の由、大慶。次に私ごと寝食変わりなく、日々勉励ある間はばかりながらご休神くだされたく願いあげます。○試験昇級の義につき慢心妬心等は専ら小人の悪弊にして人心の自ら向きやすきものなれば、私事昼夜神に祈るに漫、妬、奢、悪心等の奴隷たらざるを欲す.○佐藤〔昌介〕君よりよろしくご伝言これあり。○ご承知のとおり我ら生徒教師と盟約し、禁酒会を立てしに先日学友9人(佐藤勇、伊藤英、伊藤鑑、岩崎、永井、諏訪、鶴崎、南、町村)己私に克かれ爛酔〔泥酔〕の好き者と相成る。故に禁酒を主張するの徒、自然に交際を強うするの利で私事当時友する者は内村、宮部、佐久間、高木、藤田、足立、広井の七名なり。右の八名毎土曜日夜五銭づつ出し、あわせ菓子を食い雑談し、毎日曜ごとに再び集まりて聖書を読み、願いを天に述べ行状並びに宗教を題としますます善道を進むるを習慣と仕る。○先連合衆国大統領レンコルン〔リンカーン〕の伝を読案するに、身体劣弱なる者は大功を成就せざるを発見し勉めて運動散歩し一昨々日札幌岳(学校より1里半、高さ200丈)へ内村、宮部、広井、藤田と共に昇り大いに当時は健康なり。 <クラーク精神(Clarkii Spirit)>9 なぜ、第3期生に「信ずる者」は出なかったのか?札幌農学校を巡り、いくつか謎がある。その一つは第1、2期生と第3、4期生との関係である。明治11年(1878)9月新学期が始まり第3期が入学した。東京大学予備門から10名、札幌農学校予備科から4名、その他各地の英語学校から4名の18名である。これにより官費生50名に達し、翌年12年は生徒の新規募集は行われず、第4期生は翌々年度の明治13年の入学となる。2期生入学の際は、キリスト教に入信するよう第1期生が「新入生を襲撃し回心させよう」と『2年生の突進』(Sophomoric rushes)が試みられた。ところが第3、4期生にそうした勧誘は一切行われていない。「新入生を加えた寄宿舎の雰囲気は異様であった。新入生と上級生との接触は何一つ伝えられていない」「第3期生の中からは第1期生、第2期生の信仰的グループと共に歩む者は現われなかった。『イエスを信ずる者の契約』は、第2期が第1期生に続いて署名した後は、一人の署名者もな」かった(「内村鑑三伝米国留学まで」鈴木俊郎著p152)。クラークあて佐藤第4信(1878年2月14日)では、第1期生3人の「契約」からの離脱の記事があり、また「『信ずる者』の一人は・・・誓約を破り、酒を飲んだのです。・・・この一件の後、キリスト教に対する迫害が始まりました」「人々が私たちはクリスチャンであると気づくことこそ役人たちの特に恐れている点で、キリスト教は政府の法令によって禁じられ、それに従うべきであるから、私たちの感情はできるだけ隠すように」と学校当局から言われたとある。また、新渡戸稲造の養父宛手紙(3月15日)では、1、2年生9人が禁酒を破り分離した事を伝える。「北大百年史史料篇」(百年史)p331の「農学校のキリスト教信仰新聞掲載に付問合」(明11・1・22)に、東京書記官から札幌書記官あて「農学校の記事を掲載してよいか、知合の新聞社社員から内々に問合せがあった。記事は虚説でそんなことはないと回答したが、万一別紙に掲載のように官立の学校において公然生徒へ教授するようなことがあっては、国体にも関係し、以ての外なので、しかと注意しそのような事のないよう取り締られたい」とある。〔別紙〕には、「校中にキリスト教が大流行し生徒はおおむねこの宗教に帰依する。なぜなら外国人教師はキリスト教の無二の信者だからである。記者が信徒の不信者を勧誘する者の言葉を聞くに、『キリスト教は最高の教えで信ずるべきだ。かつ教師は信者だから我々が洗礼を受けたときいて喜ぶだろう。すると試験の時、学力が不足しても決して落第の憂いがない』と。またある日、私がキリスト教会で聴聞し聖書の講義を聞くと終りに生徒が残らず祈祷した。その祈りに『日本国睦仁親王を始め高貴の人々にも全てイエスの教えを知らしめ、日本国民に及ぼさんことを。願わくは速やかに我が日本国にその道を広めたまえアーメン』と。農学校の生徒は親王と天皇陛下との区別も知らないのか。彼らは官費の「スチューデント」であり、クールボーイではないと信ずる。なぜこのような奇々怪々の説をなすのか。敢えてこれを諸先生へ質す。」農学校の状況は中央でも波紋を呼び、宮部あて「洗礼を受けたら、試験で手心を加えるとは本当か、けしからん」と東京英語学校時代の友人から手紙が来ている。また、「百年史」p343に、「生徒間の宗旨問題に関する葛藤に付き申入」(明11・1・21)があり、「信不信徒の間不親、校内に於て罵詈止まず」、本日より双方を取り調べ、「本校の廃置にかかわらず至当の所分」をとると調所校長からホイラー教頭へ申入れた文書が残っている。校内での禁酒をめぐる信者・不信者間の罵合りいや新聞記事がきっかけで、校内でのキリスト教儀礼や強制的勧誘が禁じられたのであろう。第3期生は入校前にキリスト教に改宗しない旨を誓い合ったという。「契約」に残った第1、2期生は、あたかもローマ帝国の迫害に耐えた初期キリスト信者のように深い信仰を育て互いの結束は強くなっていった。
2012年12月12日
閲覧総数 461
4

何事も有り難いにて世に住めば 向かう物事みな有り難いなり(黒住宗忠) 黒住宗忠(安永九年ー嘉永三年)は、日本の宗派神道のさきがけとなった黒住教を樹立した。 神職の家に生まれた黒住宗忠は、幼い時から孝行の心が厚かった。19歳のとき、「心は神である」という一句を室町時代の吉田兼倶の『神道大意』の中に見つけて、それ以来「生きながら神になる」という念願を持った。 ところが宗忠が33歳になった時、両親が流行病のために引き続いて亡くなってしまった。悲歎に暮れた宗忠は遂に肺結核にかかり、瀕死の状態に陥った。 覚悟を決めて死を待つ宗忠がふと気付いたのは、自分は父母の死を悲しむあまり陰気になったために大病になったのだから、心さえ陽気になれば一転して病気は治るはずだということであった。 こうして、天恩の有り難さに心を向けると、不思議なことにいつの間にか病は軽くなった。 冬至の日に、入浴後に太陽を拝みたいと言い出したので、妻は衰弱していた宗忠の身体を気づかって反対したが、彼は神職としての正装をして日の出を待った。やがて東の空に姿を現わした太陽に対し、宗忠はかしわ手を打って一心不乱に拝んでいると、太陽の陽気が身体全体に透徹して全身が太陽のコロナのような霊気に包まれた。そして、宗忠は万物の根源である天照太神と同魂同体になったと直感した。 これを「天命直授」と呼ぶ。 この時に「天地生々の霊機(活きもの)」を自得した宗忠は、人間は元来永遠に「生き通し」であり、生死から自由な存在であることを自覚した。彼はまた「有り難い」という感情を重視した。「道は満ちるということです。天照大御神の御分身が満ちて欠けないように過ごしなさい。人は陽気がゆるむと陰気が強くなります。陰気が勝つときは穢れです。穢れは気が枯れるということで太陽の気を枯らすということです。そこから種々いろいろなことが起こるのです。 何事も有り難い有り難いと日を送られたならば、全てのことが残らず有り難くなる。もとより有り難いばかりの御身の上ですから、少しもご油断ございませんように。『何事も有り難いにて世に住めば、向かう物事みな有り難いなり』。善悪共に有り難いと思えば時々事々に有り難くなります。・・・みな形の上では難が有るのが形の本来の姿です。しかし我々の修行は難を難とも思わないのが修行ですから、苦になることは有りません。苦にならぬ時はあとは楽しみばかりです。その心は道そのものですから、道に心が安住している時には大安楽です。言うまでもなく、心次第で楽しみは思いのままとなります。」「どれほど道を守られても、心が陰気になれば、成功する事はできがたく、なにとぞ春の気になってお勤め下さい。」 これは7日間に両親を相次いで失って、悲嘆のあまり肺結核にかかって命が失われようとしたとき、黒住宗忠が豁然大悟してすべてが有り難く感ぜられて、明るい心になった結果、当時死にいたる病であった肺結核も、太陽の前の霜のごとく消滅した体験を人に教えられた書簡のうちの一節である。黒住宗忠は肺結核を自ら治した当座は人から気が違ったかと思われるほど、間断なく笑ったそうである。 ☆五日市剛さんはイスラエルのおばあさんから「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を教わった。「ありがとう」「感謝します」を常に口にするようにしなさい。「汚い言葉を言わないように、絶対に人の悪口を言っちゃダメ!」と。この「ありがとう」と繰り返し言いなさいといったのは黒住宗忠公が最初ではないだろうか。ある老婆が畳表を打って生計をたてていた。老婆:私は家業を怠らず、はげみたいと思いますが、年のせいか疲れがひどく肩こりのために、思うように働けません。どうか肩こりせぬように、おかげをいただきとうございます」黒住宗忠:それはあなたが仕事をするから疲れるのだ。老婆:しかし、仕事をせねば、生活にさしつかえます。黒住宗忠:いや、そうではない。何事も神様のおかげでなくては、一つの仕事もできないはず。自分の力で仕事をしていると思うから、やきもきして気骨がおれるのだ。少し織るのも神様のおかげだ、ああ有り難いと思い、二寸織れたら有り難いと言うようにしたら、肩もこらず気安く仕事もはかどる。老婆は宗忠公の教えに大いに感じいって、教えられたように働いたところ肩こりもしなくなくなり、心も楽しく、朝夕ただ「有りがたい、有りがたい」と口癖のように言ってるうちに生計も豊かになって身も健やかに、90余歳の天寿をまっとうしたとのことである。また、ある門人が「心の底から有り難いという心がどうも起こらないのですが・・・」と相談すると、宗忠は、こう教えた。「たとえまねでも口先でもいいから、まず朝、目がさめると第一に『有り難い』と言いなさい。それからお日様を拝んで『有り難い』と礼拝し、見るもの聞くもの何につけても『有り難い有り難い有り難い』と言っていると、自然とお心が『有難く』なります。」
2006年10月04日
閲覧総数 699
5

町村金弥君 君も苦学生の一人で、官費制度のある学校を求めて、まず工部大学予科に入学しておったところ、たまたま開拓使の札幌農学校官費生募集を聞き、しかも無試験で入学を許可されることを知り、直に応募されたのである。君は真面目なそして沈着な青年であって、つとに修養に努められていた。入舎後間もなく、我々の組織していた立行社へ加入された。君の最も力を入れておった学科は畜産学と簿記であった。卒業の時の第一希望は畜産学であったので、直に真駒内牧場の係を命ぜられ、遂に本道における畜産界の大成功者の一人として知られるに至った。君はまた理財にたけていて、我々の級友中第一番の資産者となって、東京で楽隠居の生活を送った。明治14年7月9日に卒業したが、同月27日に開拓使より御用係その他の辞令を受け取るまで、一同寄宿舎に在って待命していた。ところが、森校長より町村君と私とが呼び出され、茨戸の発寒川沿岸の土地を学校の用地にしたいからその踏査をしてくるようにと命ぜられ、7月25日に出発、茨戸で舟を雇い、発寒川を遡り、沿岸の土地をつぶさに調査し、見取図を添え復命した。その結果この地所は一時学校の所有に帰した。君に関して一つの逸話がある。それは何の罪にもならない話であるから、ここに記録に止めて置くことにする。それは演説法 Declamation の時、君の番で講壇に立って演説を始めたところ、ズボンの前のボタンがすっかり外れていて、何かが見えたので、級友の一同が笑いこけた時、一人が立って自分の前へ手をやり注意をしたため、漸くわかり真赤になり、後ろを向いて前を整えてまず無事に演説を終ったが、その後また君の番が来て講壇に立つこととなった。その時の演題はブルータスの大演説であった。この前の時の失敗に懲りたためか"Romans"と言いながら、右の手で前をさわって見、"Countryman"と言って左の手でまた前を探って見、and lovers! と言ってまた右の手で前をさわって見た。その手の調子がすこぶるrhythmic であったため、一同もまた笑い出したところ、君はまた出ていたのではないかと思い違いをして、そっと覗いたから、大変、級中哄笑、暫時は止まらなかった。
2013年01月18日
閲覧総数 73
6

二宮翁夜話残篇 【46】翁曰く、学者皆大学の三綱領(かうりやう)と云ふといへども、至善に止るの至善とは如何なるや、明かならず。予はひそかに其(そ)の実(じつ)は二綱領(かうりやう)なるべしと愚考せり。如何(いかに)にとなれば明徳を明かにするは道徳の至極(しごく)なり、民を新(あらた)にするは、国家経綸の至極(しごく)なり。其の上に至善に止るといへども明々徳と新民との外に至善とさす物はあるまじと思へばなり。よって三綱領(かうりやう)と云ふといへども其(そ)の実(じつ)二綱領(かうりやう)と心得て可なり。 【46】尊徳先生はおっしゃった。「学者は皆大学の三綱領というけれども、至善に止まるの至善とはどのようなものか明らかではない。私はひそかにその実は二綱領であろうと愚考している。なぜかといえば明徳を明らかにするは道徳の究極である。民を新(あら)たにするのは、国家を経営する究極である。その上に『至善に止まる』というけれども、『明徳を明らかにする』と『民を新たにする』とのほかに至善となすというものはないと思うからである。だから三綱領といっても実際には二綱領と心得てよい。」北海道立図書館からメールが届いていた。鈴木藤三郎の最後の事業である釧路に建てた鈴木水産工場の資料についてレファレンス、照会をしていたのである。「鈴木藤三郎氏顕彰第3集」は、北海道立図書館、釧路図書館にも贈呈し、釧路市図書館では地域に関する書籍として蔵書としていただいている。有難いことである。釧路に住む知人にお願いして、同じく釧路市立図書館に蔵書されている写真集に掲載されている鈴木水産工場の写真をコピーしてもらい、森の元気屋さんにも送ったところである。 その過程で、釧路市史にも、鈴木水産工場に関するなんらかの記述があるのではないか。そうであれば、現在GAIAにアップ中の「補注鈴木藤三郎伝」の注として掲載できるのではないかと思ったのだ。<以下メール抜粋>2011年5月17日付けメールで照会があった件について、下記のとおり回答します。この回答に関してのお問い合わせは、本メールの返信でお願いします。なお、新たな質問については、当館ホームページの申込みフォームから新規にお申し込みください。【質問事項】鈴木藤三郎が明治44年に北海道釧路港入舟町に建てた鈴木水産工場について調べています。釧路市史その他の地元資料でその記述のある資料がありますでしょうか。また、あればそのコピーを送っていただくことはできますでしょうか。【回答事項】資料1『殖民公報第』第69号p.62~65に工場の装置構造・従事者数・給与等が掲載されています。資料2『新釧路市史』p.249~250に概略と工場全景の写真が掲載されています。(『釧路水産史』にも掲載がありましたが、『新釧路市史』の抜刷でした。)資料3『発明報国先駆者の一生』p.355~356には、工場での父藤三郎の記憶が綴られています。以上3点の複写物をお送りいたしますが、よろしいでしょうか。【回答資料】 1 殖民公報 第9巻 第六十三号~第六十九号(明治四十四年十一月~大正元年十一月) / / 北海道出版企画センター / 1987 /Z/SH/9/1100934163 2 新釧路市史 第2巻 産業経済編 / / 釧路市 / 1973 /212.6/KU/2/1101770129 3 発明報国先駆者の一生 /鈴木/五郎著 / 平凡社 / 1940 /289/454/477/1103748446以上、回答します。(2011.05.19)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━北海道立図書館 北方資料部収集保存課 K<以上メール引用終わり>発明報国先駆者の一生 /鈴木/五郎著 の内容は承知しており、1 と 2 の資料について 複写と送付を依頼した。内容を見なければなんともいえないが、『殖民公報第第69号』には、工場の装置構造・従事者数・給与等新たな史料的価値のあるものがあるようで期待できそうである。そうであれば嬉しいな。くぎに手のひら押しつけ...漂流6時間「生きだのがよかったか」配信元:産経2011/05/20 01:08 【東日本大震災】 津波にさらわれた2階、自らが流されないように男性は屋根のくぎに手のひらを打ち付けた。東日本大震災の大津波で、多くの住宅が波にのまれた仙台市宮城野区。男性は凍える濁流を6時間、約1キロにわたり漂流し、助かった。「生きだのが本当によかったか、わがんねえ」。すべてを流された男性は先祖の位牌(いはい)を捜している。 渡辺勝敏さん(67)は地震発生時、友人と車で宮城県多賀城市内を走っていた。大きな揺れに自宅の家族を心配し、迎えに。途中で近所の人の車で避難する家族とすれ違ったが、気づかなかった。 自宅に着くと、「バリバリバリーッとものすごい音」がした。2階に上がって、窓からながめると、真っ黒い津波が来ていた。「2階なのに、見上げるくらいの波よ。ドーッと当だって、すごい勢いで天井から10センチぐらいまで水が上がってきた。そこから顔を出して息をしてた。上まで水が来る、と思ったから、2階のサッシを足で蹴って壊したら、波がそっちさ流れて20センチくらいの隙間になった」 自宅は住宅街から離れた場所で、周囲に家がなかったため津波が直撃。勢いで渡辺さんがいる2階だけが波に流された。 「住宅街にいたら、ほかの家にぶつかって、生きられながったと思う。『俺、死ぬんだ』って思ったら、不思議と怖くはながったね。こんな波に持ってがれてたまっか、って思って、無性に悔しがったね」 流された2階で水に漬かりながら壁づたいに外へ出た。つかまる場所を探して、屋根の方を見ると、くぎが1本、柱のようなところから出ている。右手で屋根を抱えるようにして、左の手のひらを押しつけるようにしてくぎに刺し、抜けないようにした。 「そのまま手を下に曲げてさ、手にくぎがひっかかるようによ。つかまるところがないのだもの。流されると思ったからねえ。異常な精神状態だったんだねえ。そのまま6時間ぐらいか、大体1キロぐらいは流されでいったように思う」 凍るような水の中、必死に屋根にしがみついた。 「人が流れでくの助けられながった。何人も、何人も、波から顔出して、『助けでー、助けでー』って言いながら(波に)運ばれでった。俺は手をくぎに刺してだし、右手もつかまってだがら、どうしようもながった。あの人たちはみんな、だめだったろうね」 雪が降ってきた。凍えるような寒さの中、徐々に意識を失っていった。その後、自衛隊に救助され、気づいたときには病院にいた。手の傷も癒え、すべてが流された今、せめてもの思いで、先祖の位牌を捜し求めている。 「生きられでよかったね、なんて言われるけんとも、そうなのかもしんねえけんとも…わがんねえよ、今になってみっと。もう今は何にもないのだもの。先祖の位牌すらねえ。悔しいね。このことは、まるで夢物語よ」(渡辺陽子) 2011年5月19日 12:32 (ギズモード・ジャパン)米GIZMODOで話題。信念を貫き村民の命を救った村長。自分の信念を曲げずに、住人の命を救った村長が米GIZMODOで取り上げられています。岩手県普代村、三陸海岸沿いにあるあるにも関わらず、3月11日の津波で家が流されるなどの被害を受けることのなかった村です。実際、村は濡れてすらいません。その理由は、大きな水門です。以前は村長の酔狂で作られたくらいに考えられていましたが、現在では村を守ったものとして感謝されています。村長は幼いころに津波の被害を身を以て経験しており、どうしてもと言い張って作ったものです。高さ15.5mの水門は、建設に12年、かかった費用は35億6000万円です。漁師が多いこの村では、仕事には大きなダメージがあった人も多かったのですが、とりあえず家が無事だという幸せを噛み締めているそうです。1970年代、この水門の建設は税金の無駄遣いだと批判されました。しかし実際3月11日の大津波はこの水門でないと耐えることができませんでした。行方不明死者合わせて2万5千人の被害がでた大災害で、この村では死者が1人しかでていません。この水門を作ったのは、和村幸得さんです。戦後から1987年まで、10期に渡って村長を務めています。普代村は東京から510km程北にあり、漁師が沢山住んでいます。白い砂の小さな砂浜があり夏には旅行客が訪れます。このように海と共存している村ですが、和村村長は海が見せる冷たい面を決して忘れませんでした。1933年と1896年にも、大地震によって引き起こされた津波が三陸海岸を襲っています。普代村はその2回の大津波で439人の死者、数百の流された家という被害を被っています。和村村長は幼い頃に1933年の津波を体験しており、自身が書いた回想録「貧乏との戦い四十年」では「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしている所を見た時にはなんと申し上げてよいか、言葉も出なかった」と書いています。彼はもう2度とこんなことを起こさないと誓ったそうです。1967年、市は15.5mの防潮堤を村と港の間に作ることに決めました。しかし和村村長はそれだけでは満足せず、普代川に水門を作ることも主張しました。高さも防潮堤と同じ15.5mです。議会は初め、これを拒否したそうです。メンバーの1人は「水門を作るというアイディアには賛成だけれど、そこまで高くする必要があるのか」と疑問を呈したそうですが、和村村長は「2度あることは3度あってはいかん」と主張し、建設にこぎつけたそうです。これだけの大きさが必要なのかという懸念や、土地収用の問題など様々な問題をかかえながらも、1972年に建設は始まりました。現村長の深渡宏氏はこのプロジェクトに携わっていましたが、彼ですら疑問を持っていたそうです。これほど大きなものが必要なのかと。全幅205mのコンクリートの構造体は1984年に完成しました。3月11日、津波は入り江の砂浜をめちゃくちゃにし、木をなぎ倒しました。しかし、防潮堤のこちら側である村は無事でした。普代小学校は海岸から数分の所にありますが、地震の前となんら変わってないようにみえます。村民の命を守った水門という災害対策は細長い谷という普代の地形に合致していました。他の場所でも導入すれば上手くいくといったものではありません。普代村の主な被害は港です。漁船や漁のための設備が被害を受けており、被害額は38億円です。それから地震の後に船の様子を見に行った村民が1人行方不明となっています。和村村長は、水門が完成した3年後に村長を退き、1997年に亡くなっています。享年88でした。今回の津波以降、住人達は彼のお墓のお墓参りをしているそうです。彼が村長を辞める時に残した言葉は、「村民のためと確信をもって始めた仕事は反対があっても説得をしてやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産です」と語ったそうです。村長の置き土産がずんと心に響きますね。[AP and 岩手日報 and SeattlePI via @Hirokotabuchi]Kat Hannaford (原文/mio)
2011年05月20日
閲覧総数 176
7

二宮翁夜話巻の5【30】翁曰く、世人皆、聖人は無欲と思へども然らず、其の実は大欲にして、其の大は正大なり、賢人之に次ぎ、君子之に次ぐ、凡夫の如きは、小欲の尤も小なる物なり、夫れ学問は此の小欲を正大に導くの術を云ふ、大欲とは何ぞ、万民の衣食住を充足せしめ、人身(じんしん)に大福を集めん事を欲するなり、其の方、国を開き物を開き、国家を経綸(けいりん)し、衆庶(しゆうしよ)を済救(さいきう)するにあり、故に聖人の道を推し窮むる時は、国家を経綸(けいりん)して、社会の幸福を増進するにあり、大学中庸等に其の意明かに見ゆ、其の欲する処豈(あに)に正大ならずや、能くおもふべし。【30】尊徳先生はおっしゃった。世の人は皆、聖人は無欲と思っているがそうではない。実際は大欲であって、その大は正大である。賢人がこれに次ぎ、君子は賢人に次ぐ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものである。学問というものは、この小欲を正大に導く方法をいうのだ。大欲とは何か。万民の衣・食・住を充足させ、人身に大福を集める事を欲するのである。その方法は、国を開いて物を開き、国家を経営し、人民を救い助けることにある。だから聖人の道を推し窮める時は、国家を経営して、社会の幸福を増進するのにあるのだ。大学・中庸等にその意味が明かに見えている。その欲するところがどうして正大でなくてよかろうか。よくよく思うがよい。☆真言宗の住職の方とお話したとき、「これは『運命を変える言葉』(致知出版社)という五日市剛さんと今野華都子さんの対談集ですが、よろしかったら差し上げます。今野華都子さんはエステで世界一になった方で、『致知』という雑誌で『社員のすべてを引き受け、人生の苦楽をともにする』という対談が載っているんですよ。それがあまりにも評判がよかったものですから、その対談をもとに単行本にしたものなのです。人に貸していたのが今日戻ってきたのです。先日ご本を頂いたので、差し上げます。」「それはありがとう。家に帰ったら読みましょう。」「今野さんがサロンを経営するのは、『今野華都子が裕福になるためのサロンではない。世の中のどこかで生きていくはずの彼女たち(ご縁があって雇うこととなった職員)の能力を開発して世の中に還元し、喜んでいただけるステージをつくる』その目的のためであるとおっしゃっているんですよ。その最初の志を忘れないために今でも洗濯機を持たず、サロンが終わった深夜手洗いしながら自分に問われている。二宮尊徳先生の言葉に『世の人は皆、聖人は大欲であって、その大は正大である。大欲とは何か。万民の衣・食・住を充足させ、人身に大福を集める事を欲するのである。』とおっしゃっているんです。」「理趣経にも『大欲は清浄なるを得』という言葉があるんですよ。」「菩薩の四弘誓願の第一の願い『衆生無辺誓願度』がありますが、大欲とは一切の衆生を救おうという菩提心なのかもしれませんね。」
2006年12月19日
閲覧総数 34
8

英ロンドン警視庁の初代庁舎が豪華ホテルに変身、1泊194万円2015年08月03日【8月3日 Relaxnews】背筋も凍る犯罪事件の物語にわくわくする人にぴったりのホテルが、英ロンドン(London)に新登場する。ただし、お金持ちでないと宿泊するのは難しそうだ。 5000万ポンド(約97億円)をかけて改修され、7階建ての超豪華5つ星ホテルに生まれ変わろうとしているのは、ロンドン警視庁の初代本部庁舎「グレート・スコットランド・ヤード(Great Scotland Yard)」。19世紀後半に有名な「切り裂きジャック(Jack the Ripper)」殺人事件の捜査本部が置かれたことで知られ、英推理作家アーサー・コナン・ドイル(Arthur Conan Doyle)の小説「シャーロック・ホームズ(Sherlock Holmes)」シリーズにも登場する歴史的な建物だ。 ホテルは2017年初頭にオープン予定で、1泊の宿泊料金はなんと1万ポンド(約194万円)。 開発業者によれば、エドワード朝様式の赤レンガの壁と石造りの正面デザインは改修後のホテルにも引き継がれ、グレート・スコットランド・ヤードという名前も残す。内装は「現代的でスタイリッシュ」なものになるという。(c)Relaxnews/AFPBB News12月19日の袋井市浅羽北講演会では、鈴木藤三郎のいたロンドンはちょうどシャーロック・ホームズの活躍した時代であると説明した。もっとも時間が限られている中で、説明は大幅にカットしたが、聴衆からフーム、なるほどという感嘆がもれ、関心をひいたようであった。9月17日の日記、28ページになりますが、「不可思議千万」の事件が起こっています。藤三郎は正金銀行から手形で5ポンド手形18枚を受け取って、胴巻きに入れていたのですが、うち9枚45ポンドがなくなっていたのです。すぐに正金銀行に行って支配人に事情を話し、翌日イングランド銀行で支払停止の手続きをすることを打ちあわせ、夜にはハムステッド警察分署にも届け出ます。翌日イングランド銀行に行くのですが、すでに6枚30ポンドが支払われていたというのです。探偵ダブリュー・ブラオン氏に調査を依頼しますが、その後どうなったか、日記には記載されていません。事の真相が気になる奇怪な事件ですね。実に当時のロンドンは世界の中心都市であるとともに犯罪都市でもあり、コナン・ドイル描く探偵シャーロック・ホームズが活躍した時代だったのです。鈴木藤三郎がロンドンにいた一八九六年から九七年にかけて、日記とロンドンの地図を照らし合わせてみると何か親しい感じがしてきます。当時のロンドンはちょうどシャーロック・ホームズの活躍したロンドンと重なるのです。ある意味、シャーロック・ホームズの主人公は、ロンドンの街、そうして大英帝国そのものなのです。藤三郎が最初リヴァプールから汽車に乗ってロンドンに着いたのは、一八九六年九月四日です。ユーストン駅は一八三七年にロンドンで最初の鉄道の終着駅でした。一八八一年にホームズとワトソンは出会い、ベイカー街で共同生活を始めますが、『緋色の研究』の「ローリストン・ガーデン事件」では、このユーストン駅が登場します。藤三郎は一八九六年九月六日の日曜日にハイドバーク公園を散歩しています。『シャーロック・ホームズの思い出』の「黄色い顔」には「早春のある日のこと、ホームズは珍しくくつろいで、私〔ワトソン〕と一緒にハイド・パークに出かけた。公園ではニレの木に緑の若芽がふきはじめ、ねばねばした槍の穂先のようなクルミの新芽も五つの葉を開きはじめていた」と描いていて、藤三郎の見たであろうハイドバーク公園をしのぶことができます。「赤毛連盟」(『思い出』)では、ワトソンはケンジントンの家に住んでいて「九時十五分私は家を出て、ハイドパークをぬけ、オックスフォード街を通り、ベイカー街へと出た」とあります。映画やドラマで見るホームズのロンドンはよく濃霧におおわれています。「ブルース=パーティントン設計書」の冒頭では「一八九五年(これは藤三郎がロンドンに着く一年前ですが)十一月の第三週、ロンドンは濃い黄色の霧にとざされていた。月曜日から木曜日にかけては、ベーカー街の私たちの家の窓から、向う側の家々の姿がぼんやりとでも見えたかを、私はうたがう」とあります。藤三郎は一八九七年一月二日の日記に「この日の濃霧はこれまでないくらいひどい。実に終日、すぐ先が分からない。そのため市内の鉄道の衝突、馬車の転覆など数ヶ所で起こり、人々の怪我もだいぶあった」と記しています。藤三郎が、ロンドン滞在中に、ホームズやワトソン君と、ロンドンの街中や公園で出くわしていたかもと想像を巡らすのも楽しいものです。
2015年12月25日
閲覧総数 196
9

昨日、森の元気屋さんから 郵便 が届いた。封筒をひらくと、なかに 広報もりまち平成25年8月号の一部コピーが入っていた。「遠州の小京都」 森町の賦が詠まれたのは、大正12年7月3日 裏付け資料が次々発見されました と表題にある。「森町の賦」は、志賀重●(しげたか)が、森町を「遠州の小京都」と讃えた七言絶句である。 森町之賦 峯巒三繞接平蕪 一帯夾河分巷衢 隔水絃歌声断続 依稀風物小京都 記事の冒頭に 現代語訳 がふされている。 三方を山に囲まれ南部一帯に平野が広がっていて、帯のように太田川が流れ、左右ににぎやかな町並みがある 三味線や太鼓のお囃子(はやし)、にぎやかな唄(うた)が川の流れを隔てて絶え間なく聞こえてくる その様はどこにでもある風情ではないまさに遠州の小京都である 志賀は地理学者であり、名著「日本風景論」を書いて、一世を風靡した。 この賦には、地理学者としての視点があるように思う。 京都など都を造営する場合、中国伝来の思想、四神相応の地を選んで築いた。 四神とは玄武、青龍、朱雀、白虎である。それぞれ北東南西を守る。 玄武は山、青龍は川、朱雀は沼または海、白虎は大きな通りを意味する。 玄武 (北) 白虎 青龍 (西) (東) 朱雀 (南) また、玄武は黒・冬、青龍は青・春、朱雀は赤・夏、白虎は白・秋にあたる。 玄武岩が黒いのも、青春の言葉も、朱雀門が南にあるのも、白秋と号したのも この四神に由来する。 森町もまた北を庵山があり、京都の鎮護の山と寺、比叡山が守護するようで、 東に鴨川のように、太田川が流れ、南に海があり、左右に町並みが通る という四神相応の地にあり、あわせて祇園祭りなど思わせるような にぎやかなお囃子などが聞こえてくるさまを 志賀は詠んだのであろう。 もう一つ面白いのは、志賀は札幌農学校の第三期生で、入学前に札幌農学校がキリスト教にかぶれていると聞いて、決して洗脳されまいと入学前に結託を結んだ首領株であったのである。 しかも志賀は、内村ら二期生の卒業時に、内村鑑三の声涙しぼる演説に涙し、 敵ながらあっぱれ とその演説を讃える日記を記した。 現在では当時を知る貴重な資料となっている。 志賀もある意味、札幌農学校精神(ボーイズ・ビー・アンビシャス)に発奮して内村とは別の意味で 独立日本を築く上で貢献した一人であろう。その発刊した雑誌に「日本人」がある。
2013年08月25日
閲覧総数 204
10

*鈴木藤三郎が今市の報徳二宮神社に報徳全書を奉納した時の願文報徳社徒(ほうとくしゃと)不肖藤三郎(ふしょうとうさぶろう)誠恐誠惶(せいきょうせいこう)謹(つつしん)デ二宮尊徳(にのみやそんとく)先生(せんせい)ノ神霊(しんれい)ニ白(もう)ス恭(うやうやし)ク惟(おもんみ)レバ先生畢生唱道(せんせいひっせいしょうどう)シ給(たま)ヘル報徳(ほうとく)ノ教義(きょうぎ)は洋(よう)ノ東西(とうざい)ヲ論(ろん)ゼズ宗教(しゅうきょう)ノ如何(いかん)ヲ問(と)ハズ古往今来幾千万歳(ここんこんらいいくせんまんさい)ヲ経(ふ)ルモ凡(およ)ソ世界(せかい)ニ生存(せいぞん)スル人類(じんるい)ニ於(おい)テ貴賎(きせん)貧富(ひんぷ)男女(だんじょ)老幼(ろうよう)ノ別(べつ)ナク允(まこと)ニ克(よ)ク遵守(じゅんしゅ)セザル可(べ)カラザル要道(ようどう)ニシテ若(も)シ之(こ)レ無(な)クバ人道(じんどう)廃頽(はいたい)シテ民衆(みんしゅう)安息(あんそく)スルコト能(あた)ハザルナリ 先生(せんせい)ノ世(よ)ニ在(いま)スヤ憂国(ゆうこく)ノ至誠外(しせいそと)ニ溢(あふ)レ熱血(ねっけつ)ノ注(そそ)グトコロ感奮興起(かんぷんこうき)セザル者(もの)ナク済世恤民(さいせいじゅつみん)ノ良法諸州(りょうほうしょしゅう)ニ亙(わた)ツテ其効実(そのこうじつ)ニ(に)顕著(けんちょ)ナリ
2022年08月03日
閲覧総数 259
11

渋野日向子、全英スタッフに取った行動を海外称賛「愛嬌と敬意。ヒナコは皆の模範」2022.08.06渋野日向子がスタッフに取った行動とは 米女子ゴルフの海外メジャー今季最終戦・AIG全英女子オープンが5日、英北部ガレーンのミュアフィールド(6680ヤード、パー71)で第2日が行われた。単独首位で出た2019年女王の渋野日向子(サントリー)は1バーディー、3ボギーの73で回り、通算4アンダーの7位に後退。大会公式は「みんなの模範」と渋野がスタッフに頭を下げる動画を公開すると、海外ファンから「一流の振る舞い」と話題を集めている。渋野がペコペコと頭を下げていた。第2日のコースで取った行動。青のキャップに白いシャツを着たボランティアと思われるスタッフ2人と対面した。「昨日の65おめでとう」「今日も頑張ってね」と笑顔で話しかけられ、握手を交わした渋野。「Thank you」と返し、ティーグラウンドへ向かった。 動画を公開した大会公式インスタグラムは、文面に「愛嬌と敬意。ヒナコ・シブノはみんなにとっての模範」と記して投稿。海外ファンから「純粋な上品さだ」「このツアーでは一流の振る舞いが多いね」と称賛の声が上がった。 首位のチョン・インジ(韓国)に4打差。12人が出場した日本勢の最上位には、山下美夢有(加賀電子)も3打差5位につけている。巻き返しが必要な渋野は、日本時間6日午後11時5分に第3日をスタートする。
2022年08月06日
閲覧総数 5179
12

平成27年4月9日現在「二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原編(少年、青年編)」 (2015年2月発行)全35図書館国立国会図書館都道府県立図書館 2図書館山形県立図書館 鹿児島県立図書館市区町村立図書館 31図書館恵庭市立図書館 帯広市立図書館 京極町立図書館 別海町立図書館 美幌町立図書館 佐呂間町立図書館 比布町立図書館 様似町立図書館八戸市立図書館 五戸町立図書館 金ヶ崎町立図書館 大槌町立図書館潟上市立図書館 湯沢市立図書館 鹿角市立図書館 加美町立図書館 鹿沼市立図書館相模原市立図書館 秦野市立図書館 二宮町立図書館浜松市立図書館 磐田市立図書館新発田市立図書館 燕市立図書館南丹市立図書館いの町立図書館人吉市立図書館西都市立図書館 小林市立図書館 町立高鍋図書館日置市立図書館大学図書館 1図書館駒澤大学第一刷りは、絶版で在庫がなく寄贈できない、近いうちに2刷りを出そうと考えている。「二宮金次郎の対話と手紙 第一小田原編(少年、青年編)」 プロローグ二〇一四年十月二十七日編者は〇〇アカデミアを訪れた。〇〇所長に「ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集」を差し上げるためである。所長には本会の活動を応援していただいている。以前から「二宮尊徳についてわかりやすい本があればいいね」と言われていた。「いま、『二宮金次郎対話編』を作っているところです。これは『報徳記』などから対話部分を抜き出し、対話という枠組みで二宮尊徳の考えを読者(聞き手)に理解してもらおうという試みです。『報徳記』は、対話が随所に使われています。金次郎対話編を、今度の講演会でわかりやすく演出してみるつもりです。もう一つ考えているのは、二宮金次郎の代表的な手紙を年代ごとに「順序正しく並べて」金次郎自身に語らせようという試みです。二宮尊徳は日光で亡くなるとき門弟に「我が日記を見よ、手紙を見よ」と遺言しました。当時の手紙は候文で、現代人には読めない、読めても理解が難しい、その時々の状況がわからなければ、真意をくみとりがたい。現代語訳の金次郎の手紙を、解説を添えて紹介し、金次郎の手紙を現代の私たちに向けた、生のメッセージと受け止め紹介する構想です。 十二月六日、袋井市浅羽北公民館で、袋井市の〇〇さん(金次郎の母)、森町の〇〇(少年金次郎)と本会の○○(僧、殿様、岸右衛門)、編者(成人金次郎)の四名で対話編を演じ、また講話した。講演会の終了後、女性の方から「講演、わかりやすかったです」と、声をかけていただいたのが、嬉しかった。当日「手紙編」は略したが、本書に「手紙編」と、新たに『幻の講話』を作成し収録した。 二宮尊徳の考えが、世に広まることを願う。
2015年04月09日
閲覧総数 52
13

朝早く公園裏の山道を散策した。今日は朝から曇り空だ。先週、田舎に帰っていたので2週間ぶりだ。こうして自然の中を歩くと、感性をリセットするようだ。自然は四季それぞれに違った顔を見せてくれ、その時でなければ見れない花などを見つけるのが楽しい。階段の登り口のボケの花。 これは、まむし草の実であろうか? 先日、星野富弘花の詩画展に「まむし草」と「まむし草の実」が展示されていた。 まむし草ひとたたきで折れてしまうかよわい茎だから神さまは そこに毒蛇の 模様をえがき花を かまくびに 似せて折りに来る者の手より護っているやがて秋には見かけの悪いこの草も真紅の実を結ぶだろうすべて神さまのなさること私もこの身をよろこんでいようそして真紅の実にはこんな詩が添えられていた まむし草の実ただ ひとつのために生き ただひとつのために枯れてゆく 草よ そんなふうに生きてるおまえは 誰も 傷つけなかったふふ、絵葉書を買ってきた甲斐があるというものだ、こうして詩を紹介できる。おや、こんな花が咲いていた。 蘭の一種だろうかほおづきも網がはっきりしてきて、もう中の赤い実も大地にこぼれ落ちて、命をつなぐのであろうか。 谷戸を望む丸太のベンチに座り、父母の健康と元気を念じる。山道を降りて池の端に行くと、池の面がなんと油みたいに覆われている。「誰かバイクを池の中に放り投げたようで・・・」と知らないおじさんが話しかけてきた。「いつもいた鴨は大丈夫でしょうか?」「小鴨は向こうにいるようだよ」ほんとだ、元気よく白い尻毛を上にして池に潜って朝食中であった。おじさんはよく来られるらしい中年のおばさまにひとしきり心無い仕業を嘆いている。人の道は教えによらなければ保ちがたい池におそらくは人のバイクを投げ込む人の心根の情けなさを思う
2006年10月14日
閲覧総数 9
14

静岡の友人Hに頼んで「明治時代の氷砂糖製造法-発明家 鈴木藤三郎の業績-」 のコピーを送っていただいた。日光講演会のときには、54年前に森町報徳社が作成した「発明王鈴木藤三郎の報徳」のシナリオを送ってもらい、原本をコピーしたもの日光講演会で配付した。いつも気持ちよく協力してくれる友人に感謝する。 森町での講演会においては、日光の講演会のように事前に小冊子を印刷するだけの時間的余裕がない。 それでもせっかくの機会なので、何か新しい、まだ埋もれたままの資料を提示したいと思い、森の元気屋さんが発掘した「予が発明上苦心の経験 鈴木藤三郎」や「砂糖の話 台湾製糖株式会社 昭和13年5月調査係編」などを紹介するべく準備している。この「明治時代の氷砂糖製造法-発明家 鈴木藤三郎の業績-」もその一つである。これは1983年静岡の工業高校の先生がまとめられたものの抜粋である。ちょうど今から30年前である。その時代にも鈴木藤三郎の業績を調べて発表されたということを知ってもらえるだけでも意味のあることかもしれない。 明治時代の氷砂糖製造法-発明家 鈴木藤三郎の業績- M(1983徳島科学史雑誌2 静岡県立静岡城北高等学校) 1.序 鈴木藤三郎(安政2年~大正2年、1855~1913)(以下藤三郎)は我が国近代製糖業の基礎を築いた人物である。遠江国(とうとうみのくに)の駄菓子屋の主人だった藤三郎は6年余の歳月をかけて純白の氷砂糖製造技術を開発し(明治16年、1883)、これを企業化するかたわら砂糖そのものにも関心を持ち、精製糖及び製糖技術の研究・開発に取り組んだ。その努力は明治28年の日本精製糖株式会社、明治33年の台湾製糖株式会社創立というかたちで実を結んだ。明治以来、いくつかの民営、官営の精製糖工場が開設されたが、技術上の不備や資金難のためにいずれも大成しなかった。しかし、海外や藤三郎自身の手になる優秀な技術・設備と堅固な経営基盤をもったこれらの会社は順調にその業績を伸展させ、以後我が国の糖業を近代工業として成長させる牽引車の役割を果した。 「実業家・鈴木藤三郎」は発明家としての面を併せもっていた。彼は糖業の他に製塩、醤油醸造、水産加工などを手がけているが、工場に設置された設備の多くは自身の発明によるものであった。彼が得た特許は明治31年~大正2年の16年間に159件の多くを数えるが、一貫して彼の主たる関心は蒸発、乾燥に関する設備の開発・改良にあった。彼が初めて手がけた氷砂糖製造技術の開発が溶液からの水分蒸発技術の開発であったことをことを考えれば、後の発明の多くはその延長線上にあったといえよう。さらにいえば、藤三郎の砂糖業界入りの端緒となり、彼の実業活動の出発点となった氷砂糖製造技術開発は、我が国の製糖業界においても重要な意義をもつものであった。 藤三郎が氷砂糖の工業的製法の確立者であることは広く知られているが、その技術的側面及びその後の発明に及ぼした影響は明らかにされていない。本稿では藤三郎が開発した明治期の氷砂糖製造法及びその基本技術を応用してほぼ同時期に考案されたいくつかの装置も併せて紹介することによって、上述の点を明らかにし、今までほとんど顧みられなかった「発明家・鈴木藤三郎」の一面を紹介する。 2.藤三郎の略歴 藤三郎の略歴 藤三郎の生涯は三男鈴木五郎氏の手になる伝記により詳細に知ることができる。ここでは『鈴木藤三郎-日本近代産業の先駆-』(東洋経済新報社刊)の年譜によって彼の略歴を記す。安政2年 11月18日 古着商太田文四郎の末子(二男二女)として生まれる。同6年 菓子商鈴木伊三郎の養嗣子となる。明治10年 氷砂糖の製法研究を始める。同16年 氷砂糖の製法を発見する。 17年 福川泉吾の協力を得て森町明治町に氷砂糖製造工場を新設する。 22年 東京へ工場を移転。鈴木製糖所と名づける。 28年 日本精製糖株式会社(資本金30万円)を創立する。 33年 台湾製糖株式会社(資本金100万円)を創立する。 37年 醤油促成醸造法の研究を開始する。 38年 福島県石城郡小名浜町に鈴木製塩所を設立し製塩法の研究を始める。 40年 日本醤油醸造株式会社(資本金1,000万円)を創立する。 42年 日本醤油醸造株式会社がサッカリン使用で問題を起こした責を負って辞職し、その整理のため全財産を提供する。 43年 日本醤油醸造株式会社を解散する。大正2年 9月4日 胃がんのため逝去、享年58歳。 藤三郎の生涯は大きく3つの時期に分けることができる。菓子屋を営みながら氷砂糖製造の研究に取り組み、成功するや直ちに森町に工場を建てて大量生産と販売を始めた時期まで、(~明治20年)東京に工場を移転し、氷砂糖の製造販売のかたわら、精製糖、製糖技術の開発にも成功し、次々と事業を拡大していった時期、(明治21年~同36年)上述の2つの精製糖会社の創立はこの時期である。また、明治36年、37年にわたって静岡県選出の衆議院議員を務めた。明治37年以降製塩、醤油醸造にも進出したが、醤油醸造会社は経営面、技術面の失敗により3年余で余儀なく解散に至った。これによって藤三郎がこうむった経済的損失及び社会的信用の失墜は甚大であり、ここまで順調に発展してきた彼の実業活動は挫折した。その後北海道に水産加工工場を設立し、ある程度の成果を収めることはできたが、彼の健康状態はすでに彼のもくろんだ水産会社創立を許さない程悪化していた。醤油醸造会社解散以来、彼の晩年は不遇であった。(明治37~大正2年)
2013年03月18日
閲覧総数 80
15

《クラーク精神》&札幌農学校の三人組と広井勇 2刷後書き(第一集二刷りにあたって)に「第一集二刷を刊行するにあたって『廣井勇君之小伝』について全文を収録した」とあり長大 281||N76 1593299北教大 281/Ni 011275961聖隷ク大 2891./BO/1 30221123東農大生 学情セ 747570沖国大 281/B-62/1 007178816九大理系 伊都中央 281/N 76 032112016606891高大 60250852鹿県短 281/N 76 50030728東洋大 377.3:N76 0111663423昭女大 図 021606206近大 中図 09215399拓大 281||1||3026-2 00798494岩大 281:N76:2016 0012798476北大北図書館 378.52/BOY 0280990993武庫女 図 281.04||BO||1 21313633九大 281/N 76 010112016515041西南院 図 281||42 1007686601法大 市図 281||262||1-2 21011000189840南山大名 図 281/337 1187851オバマ氏演説:宗教哲学からどう読むか?「死者の声」を代弁してはならない 南山大学佐藤啓介准教授(1)―オバマ大統領のスピーチを聞いていて、歴史的な演説として感動すると同時に、なにかもやもやした感情が残りました。カトリックの南山大学で宗教哲学の研究者として「死者の記憶」という概念に注目して論考を重ねてこられた佐藤先生は、それをどう聞いたのか伺えたらと思います。率直に、どうお聞きになりましたか。国際政治上の配慮をしている部分も、もちろん評価すべきだと思うのですが、私自身が宗教哲学研究者としてむしろ大事だと思ったのは、「できる限り死んだ人一人一人をきちんと取り上げ、見よう」。ただたくさんの人が死んだのではなく“死者を集合化しない”という意思を感じたことです。そして「死んだ人に呼ばれてきたのです」と語り始めた。それがとても大事だと思いました。「なぜ私たちはここ、広島を訪れるのか。私たちはそう遠くない過去に解き放たれた恐ろしい力に思いをはせるために訪れるのです。10万人を超す日本人の男女そして子どもたち、何千人もの朝鮮人、十数人の米国人捕虜を含む死者を悼むために訪れるのです。彼らの魂が私たちに語り掛けます。私たちに内省し、私たちが何者なのか、これからどのような存在になり得るのかをよく考えるように求めているのです」「彼らの魂が私たちに語り掛けます(Their souls speak to us.)」と語っていますね。そしてその魂(soul)を、男性、女性、子ども、と語ることで「死の個別性」をできる限り見つめ、大事にしている姿勢を評価したいと思いました。「数年の間で6千万人もの人たちが亡くなりました。男性、女性、子ども、私たちと何ら変わりのない人たちが、撃たれ、殴られ、連行させられ、爆撃され、投獄され、飢えやガス室で死んだのです」「私たちは、声なき叫びに耳を傾けます。私たちは、あの恐ろしい戦争で、それ以前に起きた戦争で、それ以後に起きた戦争で殺された全ての罪なき人々を思い起こします。単なる言葉だけでは、こうした苦しみに声を与えることはできません」「いつか、証言するヒバクシャ(被爆者)の声が聴けなくなる日が来るでしょう」「なぜなら、彼は、彼らの喪失は自分たちの喪失と等しいと信じていたからです」「71年前、同じ大切な時間がここにあったということを知ることができるのです。亡くなった人たちは、私たちと変わらないのです」
2017年02月24日
閲覧総数 65
16

Q いつ、誰から、どのようにして伝えられたのですか。A 札幌農学校の門をくぐった時からです。札幌農学校の新入の第二期生の一行(内村もその中の一人でした)は、1877年(明治10年)8月27日に北海道開拓使御用船玄武丸で品川沖を出帆し、函館を経て9月3日の朝、小樽に上陸し、それから一同馬を連ねて札幌へ向かい、その日の夕刻、農学校に着きました。すでに灯(ひ)ともし頃でした。しかし誰ひとり、出迎える者はいませんでした。意外の感に打たれた新入生らは、ただ校舎の一角の窓から、アカアカと灯が洩れているのに注意をひかれました。これは前教頭クラークの感化によってクリスチャンとなり、その前日の9月2日に洗礼を受けたばかりの上級生(第一期生)らが復習講堂内の一室に集って祈祷会を聞いて、「新入生たちにキリスト教を伝えて彼らを悉く信者たらしめたまえ」と熱心に祈っていたのです。内村らは、知らぬ間に、その火の中へ飛び込んでしまったのです。もちろん彼らは、その瞬間まで、第一期生らの焔に包まれていることなどは、露ほども知っていなかったのです。もし知っていたら、入学などしなかった者も多かったでしょう。 「宮部金吾」P35-36札幌へ 明治10年8月27日、品川より開拓使の御用船玄武丸にて出帆した。玄武丸は644トンの蒸気船で、今日でこそ、小さな船なれ、当時としては鄙には稀な豪華船であった。もっともこの豪華船は非常に動揺しやすく、一名ゴロタ丸の別名を有していたほどである。中央部甲板の下にホールがあり、このホールは食堂兼談話室であった。ホールを中心にして一等室があり、各室とも定員2名、二等は舷側にあって定員4名、ベッドは上下に位置していた。三等室は船首にあって、荷物が輻輳すると積荷はその室にまで溢れて来た。私たちの乗船した時は、幸いに船客が極めて少なく、一行は一等室もしくは二等室をあてがわれた。途中大分荒れて一行にも船酔いを催すもの多く、町村金弥君はその時の船酔いの旗頭であった。8月30日函館に入港、9月2日まで停泊した。9月3日早朝つつがなく小樽に入港、海路は極めて平穏であった。直ちに下船、入船川のほとりの海に面した宿で朝飯をしたためる。当時、手宮はまだ漁村で、入船町のあたりが港の中心であった。食後、馬20頭、鈴の音をひびかせて、いよいよ一同札幌に向かう。国道は海浜に沿い、銭函までは漁村が散点していた。ただ張碓に近い神威古潭(カムイコタン)だけは、まだ道路が未完成で、高い断崖下に岩礫がるいるいしていた。好天に恵まれ、海も静かであったが故、波浪の洗礼もうけないで馬上無事通過。これから道は海にわかれ、鬱蒼たる森林を縫って軽川から琴似(ことに)に向かった。この間、所々に農家が散在していた。一行は遂に渡嶋通り、すなわち南一条から北二条西二丁目の薄暮の寄宿舎に着いた。布団もない荷物を両側に付けた駄鞍にのって来たので、尻は勿論、始めて乗った馬とて体の節々も痛く、気鋭の若者も一同大いに疲労した。玄関はひっそりとして一人の出迎えてくれる上級生もなく、全然空屋のような静けさであった。ただ遠くの室で、何か集会があるらしく、歌の声などが聞こえてきた。後でわかったことであるが、その時、上級生一同は復習室に集まって、ちょうど祈祷会を開いたところであったのだ。まず食事をとり、風呂に入る。2人ずつ既に割り当ててあり、各室のドアーの側に名札が掛っていた。実に偶然といえば偶然、私と内村君は同室になっていたのだ。ほの暗いランプの下で、虫の音を聞くともなく聞いていると、遥けくも来た旅愁を身にひしひしと感じた。当時寄宿舎の規定で、各学年ごとに室をかえ、また同時にコンビネーションもかえることができるようになっていたが、私共両人は室は変っても離れることなく、4年間一緒にいて、最も平和な楽しい生活を共にすることができた。○私たちは札幌に着いた翌日、新入生一同この開拓使本庁に挨拶に行った。その日は快晴で、塔の上からの展望は素晴らしかった。西方の峯々あたりには黒々とトドマツが茂り、山腹から渓にかけて濶葉樹の緑で埋っており、また他の方面一帯も原始林で覆われていた。東なる豊平川方面と屯田の方こそ少しく開いていたが、ほとんど奥深い森林の世界で、原生林の幽玄さはひしひしと身にせまった。内村鑑三 「〔内村君は〕明治十年に我々と同級〔宮部は3月に一級に進んだ。なお、東京英語学校は4月「東京大学予備門」と改称されている〕になった」(「宮部金吾」)「札幌に到りてよりは人生の快楽は一層の趣味を加へ、春夏秋冬に個々特別の娯楽ありて在学四年間は夢幻の裡うちに過ぎたりき、北地の冬の長さは友情の温かさを以て償はれ、夏の短かさは天然物の成長の速かさを以て贖つぐなはる、銭函海岸の介かい拾ひ、小樽手宮の古物発掘、高島海底の魚介の観察、(略)室に帰れば机上博物学書の堆を為すあり、(略)余は余の一生中曾(かつ)て此自由の空気を呼吸せし事あるを感謝す」(「上州の夏」『東京独立雑誌』40号、1899年8月15日) 「How I become a Christian」に「イエスを信ずる者の契約」に内村鑑三ら二期生が署名し、キリスト教になった経緯について記されている。(一部抜粋) 「1877年9月9日 朝、佐久間信恭、宮部金吾とともに散歩した。夜、2年生(the Sophomores)のキリスト教の祈りを聴いた。『キリスト祈祷("Christ-prayer,")』、奇異な言い方(a peculiar expression)である、これは。私はその中に一種軽蔑の口調(a sort of scorn)を認める。(Sept. 12月1日 『キリスト教』の門(the"Jesus Religion.")に入った。あるいはむしろ入ることを強制された。すなわち『イエスを信ずる者』の契約に署名することを強制された。」 「余は如何にして基督教徒となりしか」(How I became a Christian)私は当時新しい官立のカレッジの新入生だった。そこではニュー・イングランドのキリスト教徒の科学者の努力によって、上級生のクラス全員(当時全校で2つのクラスしかなかった)は既にキリスト教徒に回心していた。『赤ちゃん新入生』に対する2年生の威丈高な態度は世界中同じである。そして宗教的情熱と伝道の精神が加わったとき、彼らが不憫な新入生に与えた印象は容易に想像される。彼らは新入生を襲撃し回心させようと試みた。しかし新入生の中に一人、『2年生の突進』、この場合は懇望ではなく宗教的突進に抵抗するだけでなく、彼らを古い信仰に再び回心させようとさえ考えていたものがいた。しかし、ああ!私の周りの勇者は落ちて敵に降伏されていった。私は『異教徒』、とても憎むべき偶像崇拝者、救い難い木や石の崇拝者として残された。私はそのころ追いつめられた苦しい状況と孤独とをよく覚えている。・・・・・・カレッジの世論は私が反対するにはあまりに強かった。それに対抗することは私の力に及ばなかった。彼らは次に掲げる契約(the covenant)に署名するよう私に強いた。どこか極端な禁酒論者が手に負えない酔っ払いを説得して禁酒誓約に署名させるやり方だった。私はついに屈して署名した。私はしばしば自省した、このような強制に屈しないで踏み止まるべきではなかったのかと。私は当時僅か16歳の少年に過ぎなかった。そして私に「入れ」と強制した少年たちはみな私よりはるかに大きかった。このようにして、ごらんのように、私のキリスト教への第一歩は強制されたものであった、私の意志に反して、また私は告白しなければならないがいくらか私の良心にも反して。私が署名した契約を次のようなものだった。下段に署名するS.A.カレッジ(札幌農学校)の生徒は、キリストを彼の命令にしたがって告白することと、十字架上の彼の死に我々の罪のためにあがないを為したもうかの救い主に我々の愛と感謝とを示さんがために真の忠誠をもってすべてのキリスト信徒の義務を果すこととを願いつつ、そして彼の栄光の増進と彼が代って死にたもうた人々の救いとのために彼の御国を人々の間に前進せしめんことを熱心に望みつつ、彼の忠実な弟子となることと彼の教えの文字と精神とに厳密に一致して生きることとを。この時よりのち、神に対しまた相互に対して、厳粛に契約する。そして適当なる機会のある場合には我々は試験、洗礼、入会のためにいずれかの福音主義教会に出頭することを約する。我々は信ずる、聖書は言葉をもってせる神より人への唯一の直接の啓示、光栄ある未来の生命への唯一の完全無謬な指導者であることを。我々は信ずる、我々の憐み深い父、我々の公正にして至上なる支配者にいましたまい、そして我々の最後の審判者にいましたもうべき、ひとりの永遠の神を。我々は信ずる、すべて心から悔いそして神の子を信ずる信仰によっておのが罪の赦しを得る者は、この生涯を通じて聖霊によって恵みゆたかに導かれ、そして天の父の注意深い摂理に護られ、かくしてついには贖われた聖なる者の享受するもの追及するものにあずかる備えをなさしめられるべきことを。しかし福音の招きを受けることを拒むすべての者はおのが罪の中に滅び、主の御前から永久に退けられなければならないことを。以下の誡めは、我々は我々の地上の生涯のあらゆる転変を通じてこれを記憶しこれに服従することを約する。 汝、心を尽くし精神を尽くし力を尽くし思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし。またおのれのごとく汝の隣人を愛すべし。汝、いかなる被造者または被造物のいかなる彫像またはいかなる肖像をも拝すべからず。汝、主なるなんじの神の御名をみだりに用うべからず。安息日を覚えてこれを聖(きよ)く守り、すべて不必要の労働を避け、これをできるかぎり聖書の研究となんじ自身及び他人の聖なる生活への準備のために献(ささ)ぐべし。汝、汝の両親と支配者に服従し、これを敬うべし。汝、殺人、姦婬あるいは他の不潔、窃盗、あるいは欺瞞を犯すべからず。汝、汝の隣人に何の悪をも為すべからず。断えず祈れ。相互の援助と奨励のため我々はここに『イエスを信ずる者』の名のもとに一団体を構成する。そして我々は聖書あるいは他の宗教的書籍文書の閲読のため、会談のため、祈祷会のため、我々が共にする間、毎週一回以上集会に出席することを固く約する。そして我々は衷心より願う、聖霊の我々の心における明白なる臨在が我々の愛を活気づけ、我々の信仰を強め、我々を真理の救いの知識に導きいたらんことを。 S(札幌)にて 1877年3月5日。全文は英語で前述したアメリカ人クリスチャン科学者〔クラーク〕によって作成された、彼自身がニュー・イングランドのカレッジのうち最も福音的なカレッジの一つ〔Amherst College〕の卒業生であり、かつてはその教授だった。彼自身の署名に、彼の14人の生徒の署名が続いていた。そして私の級友はその数を30以上に膨張させていた。私〔内村鑑三〕の名前は最後か一つ二つかにあったように思う。 ☆内村は「余は如何にして基督教徒になりしか」で、第一期生から入信を強制されたからと記しているが、おそらくは事情は異なる。この本は人に読まれることをことを前提としていた。入信の本当の原因は、4年間同室の友であった宮部信吾に入信を勧められ、宮部が自分のために熱心に祈ってくれる真摯な姿に感動したからである。いわば内村は友情に殉じて入信したのであるが、それはきっかけでむしろキリスト教の日本化、欧米のキリスト教からの独立を一生の事業としていく。
2013年01月21日
閲覧総数 92
17

斬鉄剣は小樽にあった!? 隕石から作られた「流星刀」初公開 榎本武揚ゆかりのお宝6/23(火) 北海道開拓に貢献した榎本武揚が隕石から作らせた刀剣「流星刀」が6月21日、小樽市の龍宮神社で初めて一般公開された。新型コロナウイルス禍で今年は例大祭のみこし渡御や露店は取りやめた一方、武揚ゆかりのお宝の御利益にあずかってもらおうと企画。大勢の参拝客が疫病退散を願った。龍宮神社は1876年(明治9年)に創建。富山県で見つかった隕石「白萩隕鉄」を武揚が買い取り、刀工に頼んで1898年(明治31年)に制作した5本のうちの1本。刃渡り約19センチの短刀で、2017年に武揚のひ孫の榎本隆充さんが、武揚ゆかりの同神社に奉納した。 北海道浜中町出身の漫画家モンキー・パンチさんの原作「ルパン三世」に登場するキャラクター、石川五ェ門が持つ刀「斬鉄剣」は隕石から作られているとの設定のため、ルパン三世ファンの間で公開前からSNSなどで情報が拡散。公開当日には小樽市内外から多くの人が詰め掛け、長い行列ができた。見学者は神秘的な雰囲気漂う刀剣を興味深く眺めていた。
2020年06月24日
閲覧総数 215
18

「鎌倉殿」三浦義澄「一緒に逝こう!」天寿目前で悪友時政とモメる「道連れw」退場惜しむ声8/2(火) NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は7月31日に第29回「ままならぬ玉」が放送され、ドラマ初回から登場していた有力御家人の三浦義澄が退場した。体調がすぐれず床に伏し、息子義村の言葉にも「死んだ後のことは、正直どうでもいいや…」と静かに息を引き取ろうとしていたが、若い頃からの悪友で命運を共にしてきた北条時政が駆けつけてきて「次郎!死ぬんじゃねえぞ!」と呼びかけると、義澄は突然ガバッと起き上がって時政に「待っておったぞ。一緒に逝こう!」「一緒に逝こう!」とすがりついた。 ジイ2人のもみ合いがはじまり、時政が「ばか言え!」と叫んで突き放すと、そのまま床にバタン!とぶつかって事切れた。 御家人たちが権力を争って裏切ったり、命を奪い合う中で、対照的なまさかの臨終場面にネット上では「悪友を道連れにしようとする義澄」「時政のトドメw」「泣く準備してたんだけど!?」「つらい。しかし笑った」「すごいものを見せられてしまって後の話が入ってこん」「まさかの『一緒に行こう死』」「言われたらヤダなぁw」「一緒に行こうはあかんw」「畳の上で友人に見送られて退場とは。幸せな最期なんでしょうね」と話題に。 「ずっと一緒にいたからねぇ」「三浦のじいさんと時政ぱっぱの友情、最期まで良かったなあ」「時政の信頼できる人がまた一人いなくなってしまったよ…」「この関係最高だったな」と退場を惜しむ投稿が相次いだ。 三浦館の騒動とは対照的に、源頼朝(大泉洋)に流人時代から仕えた安達盛長(野添義弘)は館の縁側で、陽光を浴びながら静かに眠りについた。💛歴史に「もし」はないが、三浦義澄が北条時政を道ずれにして逝っていたら、歴史は変わっていたであろう。 おそらくは二代将軍はそのままいすわり、壮絶な御家人同士の争いのまま鎌倉幕府はついえ、京都に権力が移譲していたかも。それくらい時宗とりくの暗躍による二代将軍の失墜、暗殺、有力御家人の実力排除が続いていく。・樹木希林「お父さん(内田裕也)を残していったら大変よ!」「イギリスの占い師には、『死ぬときは(内田も)一緒に連れて行くから大丈夫』と言われた」・あるとき、一人娘の也哉子さんがタロット占いをしてもらったら、占い師から「大丈夫ですよ。お父さんはお母さんが死ぬときに首根っこを掴まえて一緒に連れて行きますから」といわれたらしく、希林さんは占いを信じる人ではないけど、ホッとしたんだとか。そして、その話を裕也さんにしたら「頼むからおまえ1人で逝ってくれ」とため息をついたそうです。結局、希林さんが亡くなって半年後に裕也さんも後を追うように逝きました。
2022年08月02日
閲覧総数 271
19

下田市立図書館1 ボーイズ・ビー・アンビシャス 2 ボーイズ・ビー・アンビシャス 第5集平成27年7月3日現在ボーイズ・ビー・アンビシャス第5集 :内村鑑三 神と共なる闘い(2014年)全252図書館 国立国会図書館 1図書館 都道府県立図書館 32図書館 北海道 青森県 岩手県 秋田県 宮城県 山形県 福島県 栃木県立足利 群馬県 埼玉県 東京都 千葉県 神奈川県 長野県 新潟県 富山県 福井県 石川県 愛知県 岐阜県 三重県 京都府 兵庫県 和歌山県 広島県 徳島県 福岡県 長崎県 佐賀県 熊本県 鹿児島県 市区町村立図書館 161図書館札幌市 小樽市 岩見沢市 網走市 富良野市 江別市 帯広市 釧路市 砂川市 北斗市 苫小牧市 北見市 北広島市 恵庭市 函館市 根室市 雫石町 大槌町 小清水町 京極町 佐呂間町 比布町 新冠町 音更町 栗山町 厚岸町 別海町 湧別町 様似町 美幌町 浦幌町 八雲町 五戸町 八戸市 十和田市 遠野市 一関市 二戸市 花巻市 釜石市 鹿角市 大船渡市 雫石町 金ケ崎 会津若松市 相馬市 いわき市 郡山市 新地町 南会津町 喜多方市 本宮市 三春町 大槌町 加美町 山形市 日光市 真岡市 鹿沼市 那須烏山市 筑西市 ひたちなか市 常総市 八千代町 高崎市 館林市 高崎市 安中市 藤岡市 渋川市 さいたま市 所沢市 鎌ヶ谷市 流山市 足立区 相模原市 秦野市 小田原市 藤沢市 茅ヶ崎市 大和市 厚木市 伊勢原市 二宮町 長岡市 静岡市 浜松市 袋井市 掛川市 御殿場市 湖西市 磐田市 菊川市 下田市 森町 新発田市 燕市立分水 三条市 大野市 安城市 岡崎市 豊田市 新城市 富山市 黒部市 滑川市 金沢市 加賀市 かほく市 羽咋市 大野市 小浜市 鯖江市 南丹市 京丹後市 大阪市 堺市 和歌山市 姫路市 三田市 赤穂市 西脇市 広島市 尾道市 松江市 萩市立 岩国市 長門市 防府市 今治市 西条市 西予市 善通寺市 丸亀市 観音寺市 いの町 宿毛市 四万十市 南国市 土佐市 三好市 大牟田市 長崎市 佐賀市 神埼市 多久市 小城市 佐伯市 臼杵市 上天草市 玉名市 人吉市 宮崎市 都城市 日南市 えびの市 小林市 指宿市 日置市 姶良市 薩摩川内市 大崎町 石垣市大学図書館 58 東京大学 京都大学 北海道大学 東北大学 九州大学 弘前大学 岩手大学 福島大学 宇都宮大学 新潟大学 福井大学 金沢大学 徳山大学 兵庫大学 高知大学 長崎大学 大分大学 鹿児島大学 早稲田大学 國學院大學 東洋大学 法政大学 関西国際大学 拓殖大学 拓殖大学茗荷 立命館大学 玉川大学 駒沢大学 獨協大学 青山学院大学 同志社大学 高崎経済大学 北海道教育大学 宮城教育大学 京都教育大学 大阪教育大学 敬和学園大学 国際基督教大学 東京農業大学オホーツク校 水産大学校 酪農学園大学 小樽商科大学 鹿児島純心女子大学 鹿児島純心女子短期大学 鹿児島短期大学 同志社女子大学 日本女子大学 聖隷クリストファー大学 鳥取県立短期大学 金沢学院大学 立命館大学 首都大学東京 武庫川女子大学 桐蔭横浜大学図書館 関東学院大学京都工芸繊維大学 沖縄国際大学 静岡産業大学 北星学園大学
2015年07月03日
閲覧総数 18
20

探しものをしていたら、去年の夏、「報徳記を読む会」で開催した「小田原見学会」のおり、報徳記念館でいただいた「報徳訓」の資料が出て来た。裏面をみると、佐々井典比古先生の『かな 報徳訓』が載っていた。佐々井先生は、今年の3月21日に亡くなられた。報徳博物館で開催された勉強会のおり、何回か温和なお顔をお見かけしたことがあったが、親しく口を利くことはなかった。佐々井信太郎先生・典比古先生父子の報徳に残した偉大な業績を思うと感無量である。 報徳訓父母の根元は天地の令命にあり身体の根元は父母の生育にあり子孫の相続は夫婦の丹精にあり父母の富貴は祖先の勤功にあり吾身の富貴は父母の積善にあり子孫の富貴は自己の勤労にあり身命の長養は衣食住の三つにあり衣食住の三つは田畑山林にあり田畑山林は人民の勤耕にあり今年の衣食は昨年の産業にあり来年の衣食は今年の艱難にあり年年歳歳報徳を忘るべからず 『かな 報徳訓』 佐々井典比古1 てんちの いのちで いきている せんぞの いのちで いきている おやの いのちで いきている しそんに いのちを つたえよう いのちを しっかり つたえよう2 ぶんかの めぐみで くらしてる せんぞの めぐみで くらしてる おやの めぐみで くらしてる しそんに めぐみを つたえよう めぐみを しっかり つたえよう3 ごはんの おかげで いきている きものの おかげで いきている すまいの おかげで いきている はたけの おかげで いきている やまの おかげで いきている うみの おかげで いきている こうばの おかげで いきている みせの おかげで いきている みんなの おかげで いきている もちば もちばで つたえよう もちばで しっかり つたえよう4 きのうの ごはんで きょういきて きょうの つとめは あすのため きょねんの みのりで ことしいき ことしの みのりは らいねんへ いつでも どこでも おんがえし いつでも しっかり とくいかし
2009年09月04日
閲覧総数 58
21

母に優しいのは欧州、NGO調査 日本、米国に次ぎ31位 【ロンドン共同】国際的な非政府組織(NGO)セーブ・ザ・チルドレンは7日、世界の176カ国について「お母さんに優しい国」をランク付けした報告書を発表した。トップはフィンランド。日本は米国に次ぐ31位で、昨年より順位を一つ下げた。 調査は今年が14回目。5歳未満の子どもの死亡率や、公教育の在籍年数、女性議員の割合など五つの指標を比べた。2位はスウェーデン、3位はノルウェーで、欧州各国とオーストラリアが上位10カ国を占めた。 日本は、子どもの死亡率の低さや教育年数では上位につけたが、女性議員の比率が北欧の約4割に対し約1割にとどまり、全体のランクに響いた。2013/05/07 18:42 【共同通信】
2013年05月07日
閲覧総数 13
22

二宮先生語録巻の3【189】孔子曰く。これを罔(なみし)て生けるや、幸いに免ると。<子曰く、人の生くるや直なり。之を罔(な)みして生くるや幸いにして免るるなり。(雍也第六)>これを稗草に譬う。耘る者、務めてこれを去る。然れども稲に似るを以て、免れて実る有り。穫る者必ずこれを去る。また免れて苞に入る。舂(つ)者これを篩(ふる)い去る。また免れて飯と為り口に入るも、またこれを吐く。これ幸いにして数々免るといえども、終に免るを得ざるなり。悪人の悪を為すも、また然り。天を欺き、法を犯し、刑を逃れ、幸いにして免る者、必ず子孫無きなり。 孔子が言われた。「人の生くるや直なり。之を罔(な)みして生くるや幸いにして免るるなり(人が生きていくには、正直でなければならない。正直でなくて生きていられるのは、たまたま運がよかっただけである)」と。これを水田に生えるヒエ草にたとえよう。草をかる者は必ずこれを見つけると取り去る。しかし稲に似ているために免れて実るものがある。収穫する者は必ずこれを去る。また免れて俵に入る。米をついて精白する者はこれをフルイで取り去る。また免れて飯となって口に入っても、食べた者は吐いて捨てる。これが幸いに免れても、終に免れることができないということだ。悪人が悪を行うのもこれと同じだ。天を欺いて、法を犯し、刑を免れて、幸いにして免れた者は、必ず子孫が無いものである。
2008年04月18日
閲覧総数 107
23

そこで、彼は網を引き裂き、この人々を外へ出した。それから彼は言った、私についておいでなさい。もう一度あなたの道に出発させてあげますから。 So he rent the net, and let the men out Then said he to them, "Follow me, that I may set you in your way again."
2013年05月07日
閲覧総数 10
24

藤曲といえば二宮尊徳の藤曲仕法は有名で、模範とされたという。二宮尊徳全集 第19巻 仕法 小田原領6 解題 にはこうある。 富士東麓諸村の仕法は、数十個村にわたるものであるが、約70ヶ村中、天保凶饉後の救護仕法を受けなかったものはほとんどなかった。諸村中、報徳心の湧発によって、仕法を懇願した十数ヶ村には、その情勢に従って負債償還仕法より、進んで永安仕法を行ったものがあって、これらは既に当時他の範例となり、また後鑑となったものである。藤曲村の仕法、御殿場の仕法、竈新田の仕法等は甚だ有名なものであったのみならず、藤曲村の仕法は当時にあっても、後世においても著名な範例とせられ、竈新田には、現に知足財団として将来に永遠の仕法たる使命を発揮しつつある根基を作ったものである。 藤曲の仕法はいちはやく仕法開始を懇願し、熱誠に教旨を遵奉し実践したために、その仕法書は甚だ入念に認められた。・・・ 仕法書中の教化形式を表明した最も著しいものは「日掛縄索(ひがけなわない)帳」と「難村取直相続手段帳」とである。・・・藤曲の仕法書は、ほとんど仕法書の経典として、報徳の社徒の崇敬して止まざるところである。特に中庸の、天命の章を提げ来たって、これを日常生活に対照し、結局は 智者は奪ひ、富者は驕り、貧者は羨む、この煩悩を去らずんば、村柄立直り不申という千古の金言をもって、天道にのみ支配される禽獣虫魚の生活より、富者必貧の輪廻を脱却せんと努めたのである。藤曲村では名主平四郎が率先はしたが、68軒の百姓が余りに甲乙なく一致の精進を行った。 藤曲浅間神社には、二宮金次郎追悼碑がある。円の石に「誠明院功誉報徳中正居士」という法名が刻んである。円の脇には「二宮金治郎」と書いてある。本名は金治郎で小田原藩の役人が金次郎と書いたので、金次郎で通したという説をよく聞くが、二宮康裕氏の「二宮金次郎の人生と思想」には「金次郎、金治郎、金二郎、金次良、金治良」の5種類を使用しており、真偽は確認できにくいとされ、「金次郎」を採用されている。その理由として1 「金次郎」が圧倒的に多い。(金次郎が記した書簡3618通(全集所収)のうち、金次郎と署名のあるのが3277通と90%、金治郎は230通で6%)また、公私別なく「金次郎」が多い。2 金治郎は嘉永年間の決められた月に集中。金次郎はまんべんなく記されている。3 一族宛の書簡もほとんど「金次郎」とある。4 金次郎の建立した両親の墓石には「金次郎」とある。 今回の見学会の参考にさせてもらった報徳博物館の発行した「友の会だより73」の第17回友の会見学ツアー 御厨地地方の報徳群像の跡を訪ねる にはこう説明がある。「天保8年、尊徳は名主鈴木平四郎家を拠点として、お手元金の配分や救援米代金の貸付けを行いました。又、同家は村民が尊徳の教えを受ける集会所にもなりました。 平四郎以下村民は恩恵に感謝し、総出で縄綯いや山稼ぎなどに励み、集めた金を報徳金として差し出しました。 尊徳の没した翌安政4年10月、平四郎等村民は慶林寺境内に墓碑を建立。上部の円の中に「誠明院功誉報徳中正居士」と刻してあります。大正10年に八幡神社境内に移され、昭和10年に現在地に移されました。 その八幡様の前を流れる「藤曲用水」は、慶林寺の耕雲和尚が托鉢をして自力で300間(540メートル)のトンネルを穿(うが)ってほったもので、後に尊徳の指導で改修されたという説があります。 Sさんがその慶林寺の跡地を案内してくれる。網目の鋼板の下をゴウゴウと水が流れている。「天保7年に耕雲和尚が、自分も何か人のためになることをやろうと思い立って、あの山をうがって水を引くことを考えて10年かかってズイ道を引いたそうです。」「天保七年というと天保の大飢饉の年ですね」県道のバイパスがこの慶林寺の跡地を通ることになり、観音堂を移築したとかでバイパスの下のトンネルをくぐってお参りした。案内板にはこうある。「天保7年より弘化3年(1846年)耕雲和尚10年の歳月をかけ、大久保より藤曲にトンネルを掘り、藤曲用水路を貫通させ藤曲20町歩の水田が恩恵を受ける」
2009年02月15日
閲覧総数 427
25

それでは二宮金次郎の対話と手紙について話を始めます。二宮金次郎の生涯は大きく三つに分けられます。第一期は、小田原時代です。二宮金次郎は小田原の栢山(かやま)という所で、父利右衛門と母よしの長男として生まれます。幼くして父母に先立たれ、苦労して一家を復興し、その実績をかわれ、小田原藩の家老服部家の家政建直しに力を発揮します。第二期は、桜町時代です。小田原藩主大久保忠真は明君で、民間から金次郎の能力を見出し、小田原藩の分家で栃木に領地があった宇津家の領地桜町三村の復興を依頼します。金次郎は一家を廃し万家を興すと決断し、妻子を連れ桜町陣屋に赴任します。苦労の末、復興させます。その評判を聞いて近隣に領地を持つ幕臣や藩が復興を続々と依頼します。 第三期は、幕臣時代です。復興請負人ともいうべき金次郎の優れた能力、特に土木技術者としての技能を見込まれ、幕臣として登用されます。当初栃木・茨城の幕府直轄領の農村復興に従事しますが、最後は徳川家康が眠る聖地、日光神領の復興を依頼され、亡くなるまで農村の復興事業に尽力する一生でした。 今回の二宮金次郎対話編の演出は、小田原時代の少年期から青年期にかけてが中心です。 金次郎は五歳の時、酒匂川が氾濫して農地が荒れ、父は過労で十二歳のとき寝たきりになり、十四歳の時亡くなります。母も十六歳の時大病をわずらい亡くなります。子どもたち三人は親類のもとで成長し、金次郎は父祖伝来の家を復興したいと懸命に働き、また、時間を惜しんで勉学に励みます。それがたきぎを背負って本を読む金次郎像です。『報徳記』には「薪を採る往復にも『大学』の書を懐にして途中歩みながらこれを誦し少しも怠らず」とありますから、本を読みながら歩いていたのではありません。朗々と唱えながら歩いていたのです。しかし金次郎像は勤労と勉学を一つの造形としてまとめたもので、日本人の心象風景に深く刻まれ、日本人の二宮金次郎像のシンボルとなっています。
2014年12月19日
閲覧総数 31
26

編集者後書(第四集刊行にあたって)「報徳記を読む」第一集は二〇一四年三月に発行しました。読書会を○○と立ち上げ、富田高慶の『報徳記』輪読を始めたのは二〇〇八年六月です。○○、○○は立上からのメンバーで、後に○○が参加しました。会では『報徳要典』の総ルビ原文と現代語訳を参加者全員で交互に輪読し、参考資料で理解を深めました。『報徳記』八巻を全十五回にわたって読了し、二〇〇九年八月「今市見学会」を実施しました。今市一円会の○○、○○両氏の案内で、報徳二宮神社の宝物館二階収蔵の「報徳全書」二五〇〇冊に出会いました。静岡県森町出身の鈴木藤三郎が一人で費用を負担し寄贈したというのです。後にその「願文」を読み感動しました。 その後、森町の○○と知り合い、鈴木藤三郎について研究し、○○と三人で台湾に渡り、台湾製糖社員だった故利純英の案内で、藤三郎が台湾製糖株式会社初代社長だった頃の遺跡を視察しました。利純英の協力で台湾高雄で本会初の刊行物となる「日本製糖業の父 鈴木藤三郎」を発行したのが二〇一〇年十月です。その後、鈴木藤三郎氏顕彰シリーズ、ボーイズ・ビー・アンビシャスシリーズ、「報徳記を読む」シリーズを刊行し、全国の大学・公共図書館に寄贈しました。現在、百の大学図書館、三百の県立市立図書館の蔵書となっています。 実に読書会を立ち上げてから八年の歳月を経て、ここに『報徳記を読む第四集』を世に送り出し、『報徳記』全ルビ・現代語訳を全国の公共図書館で「いつでも、どこでも、誰でも」読めるようにするいう本会のビジョンを達成することができました。 第四集には、『報徳記』巻の六~八を収めました。下館藩仕法、相馬藩仕法、幕府領の一村仕法、日光仕法にあたります。著者富田高慶が金次郎の門弟となった以降に当り、リアルタイムで高慶が見聞し、記録したもので、信頼するにあたる史料でもあると考えます。富田は相馬藩復興を念願し、入門したもので、相馬仕法にあたっての草野・池田両家老の至誠が強調されています。相馬仕法は普遍的な仕法マニュアルとして作成した「日光仕法雛形」を適用したもので、最晩年の日光仕法とともに成功し、模範となる報徳仕法となりました。 鈴木藤三郎は「願文」で報徳の教えは人類普遍の教義であり「人類必至の要道たる報徳教義の広く天下に普及し真正なる文明の実を見るを得んことを」と祈願しました。本集の副題はそれに由来します。本会もそれを念じて刊行するものです。
2016年05月29日
閲覧総数 42
27

沖縄の台湾移民テーマにした映画「海の彼方」 監督・出演者インタビュー2016/08/03(台北 6日 中央社)八重山諸島・石垣島に移り住んだ台湾移民の家族の物語を通じ、過去の日台の歴史を描き出したドキュメンタリー映画「海の彼方」(海的彼端)。同作を手掛けたのは、日本への留学経験を持ち、現在は沖縄を拠点とする若手の台湾人監督、黄インイク(黄胤毓)監督。今作が初の長編ドキュメンタリーとなる。同作は7月上旬、「第18回台北映画祭」(台北電影節)で世界プレミア上映された。記者は映画祭に合わせて訪台した黄監督と出演者の一人で日本でミュージシャンとして活躍する玉木慎吾さんに作品の背景、撮影秘話などについて話を聞いた。 作品の中心となるのは、日本統治時代に石垣島に移り住んだ夫に嫁ぎ、戦後の1940年代後半に台湾から同地にやって来た玉木玉代さんとその子孫たち。88歳になった玉代さんの台湾への里帰りの旅と家族の人生を通じ、複雑な東アジアの歴史を辿っていく。同作は八重山の台湾移民をテーマにしたドキュメンタリー三部作企画「狂山之海」の第1弾でもある。 「狂山之海」は2015年ベルリン国際映画祭主催の若手製作者向けプログラム「ベルリナーレ・タレンツ」のドキュメンタリー企画部門に選出。スイス・ニヨン国際ドキュメンタリー映画祭のピッチングセッションでは大賞を受賞するなど、国際的にも注目されている。 ◇隠された歴史 台湾移民は日本統治時代、農地開拓を目的に沖縄へ渡ったが、戦時中に台湾に強制送還される。戦争が終わると政治的問題により彼らの居場所は失われ、再び沖縄へ。移民らはそれから1972年の沖縄返還後に日本国籍を取得するまで、台湾に戻ることも出来ず、無国籍者として生き続けた。 八重山の台湾移民は「台湾の人も、日本の人も知らない隠された歴史」だと語る黄監督。監督自身、以前は大学の授業で少し聞いたことがあるだけで、具体的なイメージは無かった。だが、大学在学時に台湾在住のタイ人労働者をテーマにした作品(「五谷王北街から台北へ」)を製作するなど、かねてから民族や移民に関心を持っており、日本への大学院留学を機に、台湾移民が住む八重山に行ってみたいと思っていたという。 今作を製作する重要なきっかけになったのは、八重山で生活する台湾人の歴史を記録した書籍「八重山の台湾人」(松田良孝著、2012年に台湾でも翻訳出版)。同書を読んだ黄監督は、それが深いテーマだと感じ、2013年の中頃、実際に現地に足を運んでみることに。1年近くに及んだフィールドワークで話を聞いた人数は150人以上に上る。そして2014年の後半に作品を考案。調査から完成までには約3年を費やした。 ◇「家族」の視点から 「私は堅い歴史ドキュメンタリーは撮りたくないので、各世代の人もいて、里帰りの旅もあって、という一つの大家族の家族史を通してその後ろの八重山の台湾人の歴史を語れるようにとの大きな野心を持ち、1本目(海の彼方)は製作しました」(黄) 黄監督は「家族視点の作品」にこだわりを示す。同作では玉代さんの孫の慎吾さんがナレーションを担当しているほか、玉代さんの息子で慎吾さんの父である茂治さんが撮影したホームビデオの映像も使われている。 「この作品は歴史の資料もあって、無いものはアニメーションや油絵を使ったりするんですが、もっと親密な視点を入れたかった。『家族視点の作品にしたい』。それは私の最初からの野心でした。通常は歴史を語る時、冷たい。有名人がナレーションを語るとか、全然関係無い人が話すとか。そういう系ではない作品が撮りたかった」(黄) 「玉木一家に会った時、大きな感動を覚えました。おばあさんと息子、娘達の雰囲気が良くて、映画に撮りたいと思って。家族っぽい作品にするということで、慎吾さんにナレーションをお願いし、孫の視点から話してもらうことにしました。でも、まだ足りない。歴史を語るには歴史資料が必要。それは確保するけれど、それでも何か足りない。ようやく足りるようになったのは、茂治さんのホームビデオ。数カ月の撮影の末にようやく信頼を得て、茂治さんから使用許可がもらえて。それがこの作品において私の野心を満たす大きな鍵になったと思います」(黄) ◇玉木家との出会い 「家族を選ぶ上で大事だったのは、一つの家族でいろいろなことを語れるということ」(黄) 総勢100人近い玉木家。移民一家としては最大で、孫やひ孫など大勢が一緒に暮らしている上、皆が集まる「アップル青果」という場所があったというのが、玉木家を選ぶポイントになった。また、玉代さんには7人の子供がおり、それぞれが様々な経験を持つ。さらに、3世にはミュージシャンとして活躍する慎吾さんがいたことも決め手になった。だが、一家の撮影は決してスムーズだったわけではないという。 黄監督が玉木家で最初に会ったのは玉代さん。第一印象は「怖かった」と苦笑する。 「おばあちゃんは警戒心が強い。『撮影したい、インタビューしたい』って言われたら『いい、いい』と断るタイプ」(慎) 「わたしは一生懸命台湾語を話したのですが、『このおばあさん、インタビューしにくい、ハードルが高い』と思って。最初、台湾系移民の人が集まる雑貨屋で玉代さんと会ったのですが、他の人は親しみやすかったけれど、玉木のおばあさんは難しいと思いました。そのあとも玉木家には自然と行っていないんですよ」(黄) そんな状況の中、一家と黄監督を結び付けたのは、玉代さんの息子の茂治さん。華僑会の中心的存在の茂治さんと交流を深めるうちに、玉代さんの米寿の誕生会に招かれ、それをきっかけに玉代さんとの距離も近づいた。そして次第に撮影をしてもいい雰囲気になっていったという。 慎吾さん1999年石垣のロックバンド「B-SHOP」のベースとしてデビュー、2008年からヘビーメタルバンド「セックスマシンガンズ」(SEX MACHINEGUNS)と「ザ☆メンテナンス」でSHINGO☆(しんごすたー)として活躍。ベースを担当している。◇初めて知った祖母の過去 移民3世の慎吾さん。台湾とのハーフだということは小さい頃から認識していたが、祖父母の移民の歴史を知ったのは、「八重山の台湾人」を読んでからだという。 「本を読んで衝撃を受けましたね。おばあちゃんはああいう性格なので、(自分が)若い時は口喧嘩をしたりしてたんですね。口うるさくて嫌いになった時期もあって。だけど本を見て、本当に苦労して、生きるか死ぬかですよね。石垣に来るってことも。大変な思いをして石垣に来て、だからこそ僕はここに存在してるんだ。逆に感謝しないといけないのにそういうことを知らないでおばあちゃんに当たったりしていたので、反省もしつつ。ほかの石垣のおじいさん、おばあさんも昔から交流はありましたが、どういう関係なのかは全く知りませんでした。説明されても理解出来なかったと思う。でも本を読むと関係が分かって、それがきっかけで歴史に興味をもつようになりましたね。それまでは全く無かったんですが」(慎) 慎吾さんは玉代さんの里帰りの旅に同行。台湾を訪れるのは実はその時が初めてだったという。それにも関わらず、外の空気を吸った際、不思議な感覚にとらわれた。 「においが印象的でしたね。懐かしいし、『このにおい知ってる』と思って。外なのになんでって思って。おばあちゃんのにおいがする(笑)。おばあちゃんと一緒に住んでるんですけど、おばあちゃんの部屋のにおい。線香とか化粧品とかのにおいなんでしょうね」 ◇近くて遠い… 八重山と台湾 タイトルの「海の彼方」には、近くて遠い台湾と石垣の複雑な悲しい歴史に対する思いが込められている。 「台湾と石垣はとても近いですよ。フェリーでも一晩で行ける距離なのに移民にとっては遠い外国。すごく遠い外国の海の彼方。そう考えるととても悲しい。国境の島とも言えるのに、そんなに近いのに(かつては)密入国しないと行けないとか。今でも那覇を経由しないと行けない。とても遠い。でも地図で見るとすごく近い。玉代ばあさんはラジオで台湾の宜蘭地方の台湾語ラジオを聞いています。ラジオの電波が届くほど近いのに行けない。特に無国籍の時は台湾にも帰れないし、日本人としても認められなくて。そういうのを考えると私は海が重要だと思いますね。八重山という島で、すぐ海が見えるのに、台湾に行けない。台湾、石垣、どちらにとっても『海の彼方』ですよ。どちらにとっても遠い」(黄) ◇ドキュメンタリーの社会的責任 昨年、台湾生まれの日本人、いわゆる「湾生」の姿を追ったドキュメンタリー「湾生回家」が台湾で公開され、興行収入3000万台湾元のヒットを記録した。湾生も、「海の彼方」で扱われる台湾移民も、歴史に翻弄されながらも、これまであまり知られていなかった存在だ。黄監督は「ドキュメンタリーの社会的責任はみんながわからないことを発掘して、世の中に出すこと」だと力説する。 「八重山の移民については研究や論文もありますが、どれだけの人に伝わっているかはわからない。一般の人が読むものではないので。ドキュメンタリーは映画という媒体でより多くの人に見てもらうことができます。去年の『湾生回家』もそうですが、それらはみんなが知らないけれど知るべきテーマ。日本人としても、台湾人としても、自分の国の歴史の一つとして、一つの現状として、今まだ存在するけれども長年忘れられてきた人の歴史や運命、どういう経緯でこうなっているのかを伝えるドキュメンタリーは、社会的に必要だと思っています」 ◇歴史を「感じてほしい」 「『人』のドキュメンタリーが好き」だと語る黄監督。ドキュメンタリーは知識を得るとともに、いろいろなことを「体験」できるのが魅力だといきいきとした表情を見せる。 「今まで隠されていた歴史を『知らせる』というよりは『感じてもらう』。見て、一緒に旅をして、石垣にそういう人が存在するということを、映画の家族のストーリーに一緒に入って体験できる。それは映画の力であり、魅力ですよね」 台北映画祭世界プレミア上映の様子台湾の観客の中には、作品を見て自分のおばあさんを思い出したという人もいたという。同作を通じて自分の家族を思い出し、「自分の過去を反省して、未来を改めて考えてくれれば」と監督は作品にかける思いをのぞかせた。同作は台湾では9月30日、日本では来年春に公開予定。同作には映画祭版と劇場版の2バージョンがあり、一般公開では劇場版が上映される。映画祭版は家族の旅にスポットを当てているが、劇場版は歴史的な要素がより多く加えられるという。公開を前に、台湾では様々な催しが企画されている。 9月中旬には、石垣から最も近い東部・宜蘭のビーチで野外上映会を実施。上映後には音楽パフォーマンスも予定されており、慎吾さんもステージを披露する。慎吾さんは玉代さんのために作った歌を「台湾語で歌いたい」と意欲的だ。 また、9月から10月にかけて、台北と台中で八重山の台湾人をテーマにした展覧会を開催する。台中を選んだのは、移民の多くが台中や彰化の出身だからだという。さらに、台湾移民だけでなく、沖縄と台湾の交流史など幅広いテーマを設定した講座を台湾各地の大学を中心に、書店やカフェなどでも複数回開く。 (名切千絵)台湾生まれの日本人“湾生”が里帰り 母校で思い出語る日本統治時代の建成小学校で学んだ元児童たちが台北を訪れている。彼らは生まれも育ちも台湾のいわゆる「湾生」だ。ゆかりの場所をめぐったほか、25日には戦後に建成国民中学となった母校を訪れ、生徒と交流。夜には一般人を対象としたお話会で当時の思い出を語った。お話会は台湾在住の作家、片倉佳史さんが司会となりインタビュー方式で実施。当時の町の様子や暮らしぶり、印象深いエピソードなどが語られたほか、歌が得意と話す中田芳子さんはキーボードを奏でながら当時台湾で流行ったとされる「台湾楽しや」を歌い、約150人が集まった会場を盛り上げた。
2017年01月19日
閲覧総数 219
28

30年間の実験は余にこの一事を教ゆ日本醤油醸造株式会社々長 鈴木藤三郎(実業の日本,11(16),1908-08) 余はいかなる辛抱で今日に至りしか 一口に辛抱するというが、これには二種あると私は思う。 道理により一貫してする辛抱と、他は道理も何もなく、ただ辛抱すれば利益であるという、いわば自然的ともいうのであろう。同じく辛抱するのであるから、何らをとったからといってわるいとことはない。どちらの辛抱から収める結果も同一である。 しかし一貫した道理に基づいた辛抱は強固の基礎がある。この道理を離れない限りは決して辛抱を欠くことがない。道理にも何にもよらぬ辛抱はちょっとは強い、相当な程度まではこらえて行くことが出来る。しかし一大事変が起きると必ずこれに対抗することができない。固い基礎がないからである。それゆえ、どうしても一定の道理で一貫した辛抱でなければ十分にその力を発揮させることが出来ない。一貫する道理とは事業に対する観念である。この観念が正当であるなれば、必ず辛抱ができる。不肖ながら私が今日まで一事業に辛抱しその大成を期して来たというも畢竟(ひっきょう)するに事業に対する観念が間違っていなかったからと自分は信じている。 肥取人うらもその職務は大切 では事業に対する観念はいかなるものであるか。 世間の人は自分の仕事を卑下して他人の仕事を大層うるわしいもののように思う。かの人のやっている云々(うんぬん)の仕事は気が利いているが、自分のする仕事はいかにも気が利かぬ。かの人の仕事は容易で面白味があるが、自分のは苦痛ばかりですこしも面白味がない。うらやましい。位地を代えてみたいとこういう考えを懐いている人がすこぶる多い。しかし私はこれが根本の誤謬(ごびゅう)だと思う。辛抱がしきれなくなるのもこれがためで、滔々(とうとう)たる世上、失敗者のみ多いのもまたこれによるにほかならないことと信ずる。元来世の中の仕事というものは、貴賤上下があるべきはずがない。いやしくも法律が禁じていない限りの仕事はいずれも多少社会を裨益(ひえき)するもので、その間に軽重上下すべきことはない。早い例が地方から出て来る「肥汲人(こえくみにん)」。あれは普通人が最も卑下するものである。臭くもあれば労力もいる。しかしもしこの肥汲人がなければ東京全市は糞の海となるであろう。地方の農家は大切な肥料を得ることができなくなる。人が最も卑下する肥汲人すらもその職務としては大切な、尊重すべきものである。いわんやその他をやである。もし下等だからといって、各自がその職務に勤労しないことになれば、社会の進歩するに従い、人生はかえって死滅することになる。こういうと極端のように聞こえるが、社会の道理は実にこれを教えている。 先人の大恩はいかに報ゆるか。 今日世間に現存している人間はいかなる身分のものでも天地の恵みと祖先の遺徳とによりて現代の開明に浴している。すなわち学問でも教育でも政治でも宗教でもはた農工商その他いやしくも人間社会における一切の事物はことごとく我らの祖先が数千年前の穴居時代から今日までに経験工夫のかずかずを積みて遺された賜物である。たとえどんな大学者がここに出てきても先人が学問を遺されてなければ学ぶことが出来ない。数千年前の吾人の祖先は一歩、外へ出れば猛獣に噛まれるの危険があったけれども、今日はいかなる所に行くも危険なく、また極めて容易に簡単に往来することが出来る。これらはすべて先人の遺徳にほかならない。そういうわけで人は生まれながらにして天地の恵みは申すまでもなく、祖先の遺徳を受けていることの大なるは到底言語で言い現わすことが出来ることではない。既に大変な恩を受けている。故にその恩に報じなければならない。それが人の道である。既に受けている恩に報ずるということをもって生涯勤めなければならない。たとえて言えば我々を先人という相手から品物は受け取っているのであるから、今日はその代を払わなければならない。お互いの間に些少の貸借関係があり、期限が来ても返さなければ催促される。返金しなければ直ちに信用が墜ちてしまう。我々が天地先人(せんじん)から受けている恩は広大無辺のものである。返せといって催促こそせぬ。けれども些少の貸借さえも必ず返金せなければならぬ我らがこの大恩(たいおん)を看却(かんきゃく)すべきはずがない。 我らは何ゆえに職務に勤めねばならぬのか しからばどうしてこの大恩に報ゆるか、礼拝するのはこの大恩に報ゆる所以(ゆえん)にあらぬ。それには先人の精神、人生の目的から考えたならばすぐに解る。人生の目的というと近時の哲学者のはなしのように聞こえるが、つまりは現代のわれわれが倍々勤労を積み人の幸福となるべきことを拓(ひら)き、祖先の遺徳に加えてこれを後代に伝え、子々孫々、かくのごとくして数百千代の後にはこの世界をして遂に円満無欠の楽土となすようにつとむることで、一言もってこれをおおえば後世子孫の幸福を計るということに帰する。既に人生の目的がここにありとすれば人々はこの大目的を達するために進まなければならぬ。しかし独りの力であらゆることはできぬ。人間社会には古来それぞれ職務を分担するという便宜な慣習が自然に成立している。人が各自にその職務を完全につとめて行きさえすれば人生の大目的は自ずから達せられる。人がこの世に生れて奉る以上、すべて職務のないものはない。その職務を選択するには種々なる事情もある。その性質にもしたがうだろう。嗜好学問その他の各条件に応じて適当に定める。すでに職業が一定した以上はその職務に向いて一直線に進むべきである。職務のためには一切の私事を犠牲とし誠心誠意に勤労すべきである。これがすなわち天地先人の鴻恩(こうおん)に報ゆる所以(ゆえん)で、また人が各自にその職務とする所に一生懸命に働かなければならぬ所以である。職業の種類は種々あるが、いずれも人生の大目的を達するために各自がすることであると思えばいかなることでも卑しくもなければまた恥じることもない。すべての職業は法律で禁じたことでなければ必ず多少ずつ社会に利益を与うるものである。利益を与うるものであるからその仕事は人生の目的に達し、人としての道を完(まっと)うするものである。こういうように事業を観念したならば、いかなる職業位地でも決して辛抱の出来ぬものでない。いな出来ないどころではない。最初から辛抱などということは起こるわけがない。この事業は面白くない。骨ばかり折れて利益がない。同窓はあんなに好位置にあるに自分はまだこんな位地にしか上れぬなどと不平を言い、辛抱が出来なくなるのは一言でいえば利己主義のためである。根本において間違っている。 私は22歳の時からこの主義を信じ、すでに30年間この主義をもって、馬車馬的に一直線に進行してきたのである。もし私に多少の成功があるとすればそれはこの主義を行うにつれて生じた副産物である。最初に私が一貫した道理のもとに辛抱するといったのもこの理由から割り出したことである(もちろん道理は各人により多少異なるであろうが)
2016年01月15日
閲覧総数 56
29

昨年11月21日に寄贈したものである。平成28年2月3日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 183図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道立図書館 岩手県立図書館 宮城県立図書館 秋田県立図書館 山形県立図書館 福島県立図書館 栃木県立図書館 栃木県立足利図書館 茨城県立図書館 群馬県立図書館 埼玉県立図書館 東京都立図書館 神奈川県立図書館 山梨県立図書館 福井県立図書館 長野県立図書館 富山県立図書館 三重県立図書館 愛知県立図書館 岐阜県立図書館 京都府立図書館 和歌山県立図書館 石川県立図書館 兵庫県立図書館 島根県立図書館 岡山県立図書館 広島県立図書館 香川県立図書館 徳島県立図書館 福岡県立図書館 長崎県立図書館 佐賀県立図書館 熊本県立図書館 鹿児島県立図書館 沖縄県立図書館市区町村立図書館 95図書館札幌市立図書館 帯広市立図書館 富良野市立図書館 網走市立図書館 旭川市立図書館 江別市立図書館 北斗市立図書館 恵庭市立図書館 釧路市立図書館 京極町立図書館 八雲町立図書館 厚岸町立図書館 佐呂間町立図書館 五戸町立図書館 八戸市立図書館 十和田市立図書館 盛岡市 遠野市立図書館 石巻市立図書館 花巻市立図書館 二戸市立図書館 相馬市立図書館 南相馬市立図書館 会津若松会津図書館 南会津町立図書館 いわき市立図書館 喜多方市立図書館 新地町立図書館 三春町民図書館 日光市立図書館 真岡市立図書館 鹿沼市立図書館 那須烏山市立図書館 ひたちなか市立図書館 八千代町立図書館 館林市立図書館 藤岡市立図書館 所沢市立図書館 渋川市 市原市立図書館 常総市立図書館 黒部市立図書館 滑川市立図書館 金沢市立図書館、羽咋市立図書館 あわら市立図書館 横浜市立図書館 相模原市立図書館 秦野市立図書館 厚木市立図書館 伊勢原市立図書館 小田原市立図書館 大和市立図書館 藤沢市立図書館 逗子市立図書館 平塚市立図書館 二宮町立図書館 静岡市立図書館 掛川市立図書館 浜松市立図書館 袋井市立図書館 湖西市立図書館 菊川市立図書館 御殿場市立図書館 焼津市立図書館 森町立図書館 富山市立図書館 黒部市立図書館 滑川市立図書館 金沢市立図書館 加賀市立図書館 大野市立図書館 豊田市立図書館 新城市 南丹市立図書館 京丹後市 大阪市 三田市 姫路市 赤穂市 西脇市 松江市 長崎市 佐賀市 水俣市 都城市 小林市 えびの市 日置市 大崎市 南大隅市根占 薩摩川内市立図書館 指宿市立図書館 姶良市立図書館 与論町立図書館大学図書館 52図書館東京大学 京都大学 北海道大学 東北大学 九州大学 弘前大学 岩手大学 福島大学 宇都宮大学 新潟大学 金沢大学 兵庫大学 徳山大学 高知大学 長崎大学 大分大学 鹿児島大学 北海道教育大学 大阪教育大学 東京農業大学 東京農業大学学術情報センター〔オホーツク〕 早稲田大学 法政大学 東洋大学 拓殖大学 日本大学生物自然科学部 鹿児島県立短期大学 鹿児島純心女子大学 鹿児島純心女子短期大学 聖隷クリストファー大学 敬和学園大学 玉川大学 青山学院大学 日本女子大学 北星学園大学 金沢学院大学 水産大学校 駒澤大学 関西国際大学 酪農学園大学 高崎経済大学 静岡産業大学 東北福祉大学 立命館大学 西南学院大学 札幌大谷大学 宮城教育大学 横浜桐蔭大学 活水女子大学 関東学院大学 南山大学名古屋 大倉山精神文化研究所 南山大学(なんざんだいがく、英語: Nanzan University)は、愛知県名古屋市昭和区山里町18に本部を置く日本の私立大学である。1949年に設置された。神言会宣教師ヨゼフ・ライネルスが1932年に設立した旧制南山中学校に始まり、1946年に設立された旧制南山外国語専門学校を経て、1949年に南山大学となる。1995年に修道会を通して兄弟関係にあった名古屋聖霊短期大学を併合。「カトリック世界観に基づいた学校教育」を理念として、『人間の尊厳のために』(ラテン語でHominis Dignitati)を教育のモットーとしている。国際的な校風を標榜しており、留学生の誘致に積極的で、名古屋キャンパスでは欧米系、瀬戸キャンパスではアジア系の留学生が主として在籍している。カトリック系大学である上智大学とは姉妹校関係にあり、体育会系を中心として年に一度の「上南戦」を長年にわたり行っている。また近年は両校の管弦楽団による合同演奏会、受験生を対象にした合同入試相談会を実施するなど、体育的行事だけでなく文化的交流も盛んになってきている。人文学部キリスト教学科(旧文学部神学科)はカトリック司祭養成課程でもある。大学発祥の五軒家町周辺の山林地が「南山(みなみやま)」と呼ばれていたことに由来する。南山大学では、それに加えて「なんざん」は李白の春日行や詩経に散見する「南山」「南山寿」などにも通じるため、この持久、堅固を意味し、長寿を慶祝する辞儀を考えて同校が永久に繁栄し偉人を輩出するよう願いを込めて名付けたとしている。キリスト教史学会編『戦時下のキリスト教 宗教団体法をめぐって』2016年1月8日本書は、2014年9月に同志社大学で開催された第65回キリスト教史学会の全国大会で行われたシンポジウム「戦時期宗教団体法下におけるキリスト教」を、2015年8月に教文館で書籍化したもの。このシンポジウムは、1939年に出された宗教団体法の下で、戦時体制下のキリスト教はどうであったのかを検証することを目的としていた。日本基督教団、カトリック教会、正教会、聖公会、ホーリネスの研究者が一堂に会して議論を交わした。本書では、序章で同志社大学神学部教授の原誠氏が「宗教団体法のもとにあった戦時下のキリスト教」について論じている。また、第1章で日本基督教団の戒能(かいのう)信生牧師が同教団について、第2章で南山大学人文学部教授の三好千春氏がカトリック教会(日本天主公教教団)について、第3章で東海大学外国語教育センター専任講師の近藤喜重郎氏が正教会(日本ハリストス正教会教団)について、第4章で日本聖公会文書保管委員会委員長の大江満氏が聖公会について、さらに第5章で日本ホーリネス教団歴史編纂委員実務委員長(1998~2012年)で同教団牧師の上中栄氏がホーリネスについて、それぞれ論じている。「宗教団体法の下で、戦争遂行という国家目的のために政府の監督下に入ったキリスト教各派を検証することは、心痛むことではありますが、キリスト教が本来の姿を見失わないために必要なことです。本書が広く読まれることによって、この不幸な経験が語り継がれ、わたしたちが二度と同じ轍を踏むことのないように祈りたいものです」と、同学会理事長の大西晴樹氏は本書の巻頭言に記している。なお、本書はまた、同学会大会シンポジウムの書籍化として出版された『宣教師と日本人―明治キリスト教史における受容と変容』(教文館、2012年)、『植民地化・デモクラシー・再臨運動―大正期キリスト教の諸相』(同、2014年)の続編だという。「それらも合わせ読まれることによって、日本におけるキリスト教の歴史に対する理解を深めてもらえれば幸いです」と、大西氏は述べている。本書は戦後70年であった昨年の夏に出版されたものであり、また本書には含まれていない教派もある。しかし、戦争と平和をめぐる昨今の状況の中で、キリスト教の在り方を考えるとき、こうした歴史についての理解を深めておくことは、新年が明けた今もなお、大きな意義があるのではないだろうか。キリスト教史学会編『戦時下のキリスト教 宗教団体法をめぐって』教文館、2015年8月、本体価格2200円。『報徳』もまた、「戦争遂行という国家目的のために政府の監督下に入った報徳各団体を検証することは、心痛むことではありますが、報徳が本来の姿を見失わないために必要なことです。」といえよう。こうした「明治報徳運動史における受容と変容」「植民地化・デモクラシー―大正期報徳運動の諸相」といった「家政調べ」ならぬ検証なくして、真正のノーブル(気高い)報徳運動は生まれないのかもしれない。 内村鑑三は日清戦争の際、ペルシャに立ち向かうギリシャを想起して日本を擁護した。しかし日露戦争からは自らの義戦論を徹底的に自己批判して非戦論を説いて微塵も揺るがなかった、真正の日本国憲法第9条の土台はそこにこそある。 二宮尊徳先生もまた「報徳外記」において「天理を極めるならば、有無を交換し、有余と不足を融通すべき理があり、天徳にのっとれば諸民族を恵み安んずるべき義がある。この理と義によって交易を許すならば、またどうして不可とすることがあろうか。」「我が国としては、その命に従って、その分を守り、分内を節倹して海内を恵み安んじ、分外を譲って海外に及ぼすのであるという道理を、反復して教え諭すべきである。」「施して海外に推し進めるならば、光輝ある神州は万国と共存し、永遠に富嶽の安きに置くことができよう。これこそ報徳の及ぶところ、我が道の終わりである。」(第二十五 報徳) 報徳の教えには「非戦論」の端緒があり、「世界に推し進める」契機があった。明治以降の報徳はそれを拡張できなかった。 鈴木藤三郎の「願文」に曰く。「仰ギ冀クバ先生ガ神霊ノ冥護ニ依リ人類必至ノ要道タル報徳教義ノ広ク天下ニ普及シ真正ナル文明ノ実ヲ見ルヲ得ンコトヲ不肖藤三郎誠恐頓首頓首敬テ白ス 明治四十二年五月三十日 報徳社徒 鈴木藤三郎 九拝」
2016年02月03日
閲覧総数 51
30

いわきワシントンホテルが最大9時間滞在「テレワークプラン」2020年05月02日いわき市のいわきワシントンホテルは1日、日中最大9時間滞在できる「テレワークプラン」を始めた。新型コロナウイルス感染症の感染防止策としてテレワーク導入が進む中、通信や仕事の環境が整った個室(シングル)を提供して、仕事の効率アップを支援する。 通信環境が整わないなど在宅勤務が難しい人もいることから新プランを企画。Wi―Fi(ワイファイ)や有線LANに無料で接続でき、オンライン会議などにも対応できる。午前9時~午後6時の最大9時間の日中滞在型プランで、1人1室3980円(税込み、サービス料込み)。 ベッドでの仮眠もでき、ミネラルウオーターなどの飲料のほか、専用駐車場が無料となる。土、日曜日と、祝日含め利用可能で当面7月31日まで受け付ける。 但野裕子営業課長は「気分転換も図りながら利用していただきたい。テレワークが推奨される中で役に立てれば」と話している。予約は専用ダイヤル(24時間対応)
2020年05月02日
閲覧総数 69
31

「涼宮ハルヒの消失」など京アニのアニメ映画19作を上映、TOHOシネマズ池袋にて2020年6月30日「涼宮ハルヒの消失」「映画 けいおん!」「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」など、京都アニメーション制作の劇場アニメ19作品が東京・TOHOシネマズ池袋にて特集上映される。7月3日に開業するTOHOシネマズ池袋の企画する特集上映「もう一度観たい!あのアニメ作品」のラインナップとして発表されたもの。今回の企画では7月3日から9日まで、日替わりで19作品を上映。初日となる3日には「天上人とアクト人 最後の戦い」「涼宮ハルヒの消失」、4日には「映画『けいおん!』」や、「リズと青い鳥」を含む「響け!ユーフォニアム」の映画シリーズ、5日には「Free!」の映画シリーズ、6日には「中二病でも恋がしたい!」の劇場アニメ2作がラインナップされた。さらに、7日には「劇場版 境界の彼方」の「過去篇」「未来篇」、8日には「聲の形」「たまこラブストーリー」、最終日の9日には「ヴァイオレット・エヴァーガーデン 外伝 -永遠と自動手記人形-」がスクリーンにかけられる。
2020年06月30日
閲覧総数 209
32

1268年(文永5年)1月、元の使節が国書(*)をもって訪日。*クビライの国書は次のとおり。大蒙古国皇帝、奉上天眷命書日本国王、(大蒙古皇帝、・・・書を日本国王に奉ず)朕惟、自古小国之君、境土相接、尚務講信修睦、祖宗受況我天明命、奄㾛有区夏、遐方異域、畏威懐徳者、不可悉数、朕即位之初、以高麗无辜之民、久瘁鋒鏑、即令罷兵、還其彊域、反其旄倪、高麗君臣感戴来朝、義雖君臣、而歓若父子、計王之君臣亦已知之、高麗朕之東藩也、日本密㾛邇高麗、開国以来、亦時通中国、至於朕躬而無一乗之使、以通和好、尚王国知恐之未審、故特遣使、持書、布㾛告朕志、冀自今以往、通問結好、以相親睦、且聖人以四海為家、不相通好、豈家之理哉、至用兵、夫執所好、王其図之、不宣、(もし武力を用いなければならないようなことになれば,これはもとより好むところではない。日本国王よ、よく考えてください)至元三年八月鎌倉幕府はこの危機に北条時宗を8代執権に就任させた。元は、日本を属国にするつもりでいたが、度重なる元からの国書を幕府・朝廷は黙殺した。その結果、1274年(文永11年)、元と高麗の連合軍が博多に上陸することになる。元軍の激しい攻撃に日本軍は敗走してしまうが、夜中に暴風雨となり、元・高麗連合軍も艦船が破損・難破したため撤退したといわれる。1275年(建治元年)は、元は杜世忠ら5人を日本に派遣し、再度日本の服属を求めるが、北条時宗は、龍ノ口でこの使節を処刑した。藤沢片瀬の常立寺には、元国使の供養塔(元使塚)が建てられている。1279年(弘安2年)、後に円覚寺の開山となる無学祖元が来日し、建長寺に入った。蒙古襲来への対応に苦慮し悩んでいた北条時宗に「莫妄想(煩悩)」の文字を与えたといわれている。1279年、南宋の降将・范文虎が、南宋と日本のよしみで元に通好するように薦めれば、日本は応じるかも知れないということで、宋の旧臣・周福、通訳・陳光、日本僧本暁房霊果などを使者に立て、国書を携えて来日したが、内容は杜世忠が持参してきたフビライの国書と大差がなく、今度は京・鎌倉幕府にまわすことさえなく、博多で斬首した。幕府は、文永の役での教訓を踏まえ、博多湾周辺に「石築地」(いしついじ)を築くなどして再度の蒙古襲来に備えていた。1281年(弘安4年)、元と高麗の連合軍は再度襲来したが、石築地の効果もあって、元と高麗の連合軍を海上に退かせることに成功している。そして、またも暴風雨に見舞われた元と高麗の連合軍は、大きな被害を受けて撤退したという。1282年(弘安5年)、北条時宗は蒙古襲来の戦没者の供養のため、円覚寺を建立し、開山には無学祖元が迎えられた。13世紀におけるモンゴルの対日本戦争高麗の忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は元の世祖に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する。毎年元に莫大な貢物、人員等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。1272年 クビライに日本への遠征時には助成する旨を提言高麗史、元宗十三年、三月条の記惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容 戦艦兵糧 方在所須。儻以此事委臣 勉尽心力 小助王師。惟(おも)んみるに彼の日本、未だ聖化を蒙(こうむ)らず。故に詔(みことのり)を発して軍容を継糴(けいてき)せしめんとせば、戦艦兵糧まさに須(みち)いる所あらん。もし此事(このこと)を以て臣に委(ゆだ)ねなば、心力を尽し勉め、王師 を小助せん。1274年元 高麗に戦艦三百艘の造船を命じ、日本遠征のため(元寇)戦艦大小九百艘を準備させる。10月 文永の役1278年2月 弁髮・胡服令を下す。7月 クビライに謁見。日本遠征への兵力助成を申し出るが、高麗の窮状を訴えて日本遠征への再度遠征については止むことを請う。1279年2月 クビライ、日本遠征のため、江南の楊州湖南など四省に戦艦六百艘の建造を命ず。6月 東征元府への中書省旨により戦艦九百艘を建造しておくよう命ず。8月 元朝より将軍 金伯と使者 金宗義が遣わされ、慶州道で軍器を点検する。1280年2月 忻都、洪茶丘が日本への諭使・杜世忠の斬殺を理由に早期の出兵を提案するが、クビライは南宋の降兵と戦艦が整わないためこれを退ける。6月 クビライ、范文虎と討議し江南降兵を用いた再征軍の再編を進めさせる。8月 忠烈王、入朝。クビライ、日本遠征に参加する諸将を招集し、遠征の基本方針を決める。併せて日本遠征の征収日本行中書省が設置され、忻都、洪茶丘、范文虎の三名は同行省の中書右丞に任命される。忠烈王、クビライに謁見して日本遠征について7つの希望条項を上奏し、クビライこれを受け入れる。11月 元朝に使者を発し、兵船九百艘など準備が完了した事を報告する。また、忠烈王が征東行省の長官のひとりに加えること、金方慶など高麗の将兵にもモンゴル軍なみの官位称号の授与などを要請する。1281年 弘安の役1月 クビライ、阿剌罕(アラカン)、范文虎、忻都、洪茶丘らを招集し日本への出征命令を下す。2月 諸将、燕京を出発。 下旬、金方慶が開京に帰還しクビライの命令を伝達。3月16日 金方慶らを合浦に派遣する。3月18日 忻都、洪茶丘が遠征軍を率いて到着する。3月19日 忠烈王、クビライからの「駙馬国王」の宣命と「中書左丞行中書省事」の印を受け取る。3月20日 忠烈王、忻都・洪茶丘と遠征について討議する。忠烈王 南面し、忻都ら東面する。忻都ら合浦へ出発する。4月 忠烈王、合浦に行幸する。5月3日 忻都、洪茶丘、金方慶ら率いる東路軍、合浦より日本へ向けて出征する。7月16日 忠烈王、合浦より帰還する。7月21日 金方慶らから太宰府での戦報を受ける。8月16日 別将 金洪柱が合浦より行宮に至り、東征軍の敗報と金方慶らが合浦に帰還したことを告げる。*アラカンが日本に出征するとき、天子が諸将に宣諭してこう言った。「一つだけ朕が心配するのは諸君同士が協調しないのではということだ。」 果して諸将は尸(かばね)をになって帰るような大敗を喫した 。彼らは上言した。「将校たちが統制に従わず勝手に逃亡したので、兵士を船に載せて合浦に至り郷里に還らせなした。」敗卒のウショウが逃れて帰ると言った。「省臣たちが先に逃げ去り、軍を五龍山の下に遺棄し、日本に殲滅されました。」ここに諸将の罪が露見した。アンギルは言う。「近年、民は貧しく賦は重く、しきりに水害やひでりが起こっても、瀕死の者を救うこともままならず、そこに駆り立てて海外遠征を実施するのでは悲しみ嘆かない者はいません。大軍は東海でくじかれ、乱れ慌てて意気阻喪し、人々は戦う意欲を失っています。」1282年1月 元朝、征東行省を解散する。至元20年(1283年)世祖はまた言った。「日本はいまだかつて侵攻したことはないが、交趾(ベトナム)は我が辺境を犯しているから、ここは日本はさしおいて、もっぱら交趾を相手にするのがいい。」こうして日本遠征をとりやめた。
2020年09月27日
閲覧総数 420
33

「天路歴程」そこでクリスチャンは喜ばしく、晴れやかになり、愉快な心持ちで言った。『彼はその悲しみによって私に憩いをたまわり、その死によって生命をたまわったのだ』と。そこで暫くの間、じっと立って眺め、かつ不思議に思っていた。十字架を見るということこういうふうに重荷をとって楽にするというのは、極めて驚くべき事であったから。彼はそれ故に、眺めてはまた眺めていると、終に頭の中の泉がその頬をつたって水を送り出した。Then was Christian glad and lightsome, and said with a merry heart, "He hath given me rest by his sorrow, and life by his death." Then he stood still a while, to look and wonder; for it was very surprising to him that the sight of the cross should thus ease him of his burden. He looked, therefore, and looked again, even till the springs that were in his head sent the waters down his cheeks.さて、彼が眺めながら、泣きながら、立っている時、どうだろう。3人の「輝けるもの」が彼のところへ来て、『平安、汝にあれ』と挨拶した。そこで、その第一の者が彼に言った。『汝の罪はゆるされたり』と。第二の者は彼のからだからボロをはぎとって『着替えの衣』を着せた。第三の者はまた彼の額にあるしるしをつけ、またその上に封印のついた巻物を授けて、急いで行く道すがら、それを読むように、また「天の道」でそれをさし出すようにと言った。そこで彼らは立ち去った。Now as he stood looking and weeping, behold, three Shining Ones came to him, and saluted him with, "Peace be to thee." So the first said to him, "Thy sins be forgiven thee," the second stripped him of his rags, and clothed him with change of raiment, the third also set a mark on his forehead, and gave him a roll with a seal upon it, which he bid him look on as he ran, and that he should give it in at the celestial gate: so they went their way.*Little Women 「Playing Pilgrims」 「みんな覚えていますか。あなたがたまだ小さかった頃、よく『天路歴程』をして遊んだのを?重荷の代わりに私の小布袋をしょわせてもらって、帽子と杖と巻物をもって、地下室からずっと家中を遍歴して歩くほどお気に入りの遊びはなかったのよ。その地下室は『滅亡の町』で、そこからだんだんお家の屋根の上までのぼっていって、そこで天国をつくるためにいろいろな美しいものをみつけるんでしたね」Do you remember how you used to play Pilgrims Progress when you were little things? Nothing delighted you more than to have me tie my piece bags on your backs for burdens, give you hats and sticks and rolls of paper, and let you travel through the house from the cellar, which was the City of Destruction, up, up, to the housetop, where you had all the lovely things you could collect to make a Celestial City.「これはね、いくつになってもやっていいことなんですよ。私たちはみんなそれぞれのやり方でそういうことをしているんですからね。みんなの重荷はすぐそばにあるし、道は私たちの前にあるのです。そしてね、いいことをしたいとか、幸せになりたいという気持ちは私たちの道案内で、それが私たちを導いてさまざまな苦しみや間違いを通り抜けて平和なところに連れていってくれるのです。それが本当の天国なのよ。それじゃあ、小さな巡礼さんたち、今度はお遊びじゃなくて、まじめになってもういっぺんやってみましょうか。お父さまのお帰りまでどのあたりまで行けますかねえ」We never are too old for this, my dear, because it is a play we are playing all the time in one way or another. Out burdens are here, our road is before us, and the longing for goodness and happiness is the guide that leads us through many troubles and mistakes to the peace which is a true Celestial City. Now, my little pilgrims, suppose you begin again, not in play, but in earnest, and see how far on you can get before Father comes home.☆ このLittle Women は Pilgrims Progressに即して、構成されている。それが上述に予告されている。第4章重荷、第6章美の宮殿、第7章屈辱の谷、第8章アポリオンと会う、第9章虚栄の市と巡礼の行程にそって物語を展開しているのである。すなわち 読者である少女に 「Be Liittle Women」 小さな淑女であれ と巡礼の物語を下敷きにして 真のクリスチャンとしての宗教的情操と「慈悲と智慧」を身につけさせようという作者の意図がこめられているのかもしれない。
2020年11月14日
閲覧総数 319
34

東かがわ市立図書館が「資料で読む技師鳥居信平著述集 台湾の地下ダムの原点は徳島県技師時代にある」を蔵書としていただいた。香川県立図書館、善通寺市立図書館についで3館目である。1 本館 一般 開架書庫 (289 シ) 貸出できます 318305257東かがわ市のニュース松山英樹が年間500枚使うグローブの職人技2021/9/6香川県東かがわ市は70以上の製造業者があり国内シェア9割以上を占める「手袋のまち」だ。東京五輪では金メダルを獲得したフェンシング男子エペ団体の3選手のほか、ゴルフ代表の3選手も東かがわ産の手袋で大会に臨んだ。また、侍ジャパンのバッティング手袋も同県三木町と東かがわ市の「香川産」だ。なぜ、四国に「手袋のまち」が生まれたのか。その起源を探った。五輪ゴルフ代表の4人中、松山英樹、星野陸也、畑岡奈紗の3選手のグローブのブランドは「スリクソン」。OEM(相手先ブランド製造)を行ったのは、東かがわ市の会社「ハシセン」だった。橋本庄市社長(64)は「柔らかさやフィット感、伸びにくさ、汗で滑らないなどのさまざまな要求に応える素材の開発が重要です」と話し、大手の化学繊維メーカーと共同で部位ごとに最適な素材を模索しているという。プロ用の製品は東かがわ市の本社工場で製造しており、松山、星野両選手には専属の職人がいる。職人により縫製の仕方が違い、仕上がりが全く変わるためだ。松山選手が平成25年に用品契約して以来の担当が、縫製一筋55年以上の山下多美子さん(71)。メーカーの用具担当者を通じた細かい要求に応えていくが、松山選手はグリップ側の生地がやや厚めでクッション性のあるのが好みという。橋本社長は「生地の厚みが0・1ミリかわるだけでクラブのグリップの太さが全く違うように感じる繊細な世界だ」という。それだけに、山下さんは「季節によって春用、夏用と要求が変わってくる。晴天用と雨天用でも違う。ミリ単位で同じ仕上がりになるように細心の注意を払う」と話す。松山選手は一般のプロの倍近い年間約500枚使用するので製造は大変だが、山下さんは一枚一枚丁寧に仕上げている。橋本社長は松山選手の銅メダルをかけたプレーオフをテレビで見た。結果は残念だったが、「従業員にとって画面に手袋が映ったり、いい成績を残したりするのが喜び」と話した。一方、金メダルを獲得したフェンシング男子エペ団体では高松市出身の宇山賢(さとる)選手ら4選手中3選手が東かがわ市産のグローブを着用。世界一を裏方として支えた。ほかに男女フルーレや女子エペの選手も。惜しくも予選で敗れたが、パラリンピック車いすフェンシングの阿部知里(ちさと)選手(高松市出身)も5年前から付き合いがある。なぜ、東かがわ市は手袋のまちになったのか。歴史は明治にさかのぼる。日本手袋工業組合の代表理事でもあるハシセンの橋本社長が調べたところ、明治19年、白鳥村(現東かがわ市)の千光寺副住職、両児(ふたご)舜礼(しゅんれい)が15歳年下の19歳の近所の女性と駆け落ちし、21年に大阪でメリヤスの指無し手袋の縫製を始めたのがきっかけのようだ。当時衰退していた地元の製塩業従事者らを救済するため、両児の急逝で後を継いだ親類が32年に会社を設立し、地域を挙げて手袋産業に乗り出した。1914(大正3)年、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)で、当時最大の消費国、英国が最大の生産国ドイツと敵対したことで、英国から代替生産国として日本へ大量注文が入り、多くの工場もできた。第二次大戦後、高度経済成長期の大量消費社会の中で手袋産業も昭和30年から活況になった。37年に日本手袋工業組合が設立された。現在は県内56社を含む66社だが設立時には加盟248社、下請け550社の規模を誇った。46年のドルショック以降は輸出が激減し、内需拡大へ方向転換。高級化やファッション路線、スポーツ用と多様化が進み、カバンやニット製品などにも進出した。平成になると、国内で商品開発や営業活動、海外で生産という国際分業の形が確立する。
2021年09月10日
閲覧総数 123
35

屏東部落之心啟用 引入百年二峰圳水源7月30日、台湾初の部落の心が屏東県の新来迎部落にオープンしました。 この地域は日本統治時代にはサトウキビ畑であり、二峰圳の灌漑用地でもあったそうです。2021年、先住民評議会は8つの「部落の心模範地建設補助金」を承認し、屏東県の「新来迎部落心」が最初に開設されました。 "莱西郷のダンリン族の環境改善プロジェクトに1千万円。屏東県の新しい「来迎部落の心」の実証現場は、大武山の隣にあり、面積は3.3ヘクタール、芝生が多く、二峰圳から常に水が供給されており、特に意義がある場所です。大武山に隣接する3.3ヘクタールの敷地に建設されました。 先住民協会のイシアン・パロッド会長はメディアの取材に応じ、「部族の心は、文化の継承に重要な部族の言葉による教育も行っている」と述べた。屏東県の潘孟安県長は、「部落の心」のオープンが、先住民協会の助成による二峰圳運河の100周年記念と重なったことで、環境が完成したと指摘した。 さらに、県政府は公園やスポーツ・レジャー競技場にも投資しており、部族遺産の重要な拠点となることでしょう。
2022年08月03日
閲覧総数 91
36

「プロテスタンティズムの倫理」と「札幌農学校精神」ヴェーバーは、「資本主義の精神の発展は合理主義の巨大な発展の部分現象」としつつも、「過去および現在において資本主義文化のもっとも特徴的な構成要素となっている『天職(Beruf)』思想と職業労働への献身と生活の具体的形態は、いったい、どんな精神的系譜に連なるものだったのか」と自問する。(p.94)そしてそれは「禁欲的プロテスタンティズム」(カルヴィニズム、敬虔派、メソジスト派、洗礼派運動から発生した諸派)から生まれたとする。メソジスト派は最初十八世紀なかばにイギリス国教会で生まれ、その発展の過程で国教会かた分離してアメリカへと伝道される。敬虔派はイギリス、ことにオランダで発展した。「ピューリタニズムと呼ばれた禁欲的運動はオランダおよびイギリスで発展し、「独立派、組合教会派、パプティスト派、メノナイト派、クエイカー派を含む」(p.142)ヴェーバーは、十六、七世紀に資本主義が発達がもっとも高度だった文明諸国、すなわちオランダ、イギリス、フランス」(p.144)とする。そしてカルヴィニズムの最も特徴的な教義が「恩寵による選びの教説(予定説)」であった。一六四七年の「ウェストミンスター信仰告白」第三章第三項では、神は人類のうちある人々を永遠の生命に予定し、他の人々を永遠の死滅に予定したとする。この教説が人々に与えたのは「個々人の内面的孤独化の感情」だった。人間は永遠の昔から定められている運命に向かって孤独の道をたどらなければならない。誰も彼を助けることはできない。聖礼典も教会も助けえない。真のピューリタンは埋葬に際しても一切の宗教的儀式を排した。ピューリタン文学のバニヤンの『天路歴程』で、「滅亡の町」に住んでいること気づくと、妻子をふり捨てて「生命を、永遠の生命を!」と野原をかけ去る情景の筆致に描きだされている。「選びの教説」で信徒一人一人に生じた疑問は「私はいったい選ばれているのか」「どうすればこの選びの確信が得られるのか」だった。その中で二つの類型の勧告が生じた。「その一つは、誰もが自分は選ばれているのだとあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥けることを無条件に義務づける」己に召命に「堅く立て」という使徒の勧めが、「あの資本主義の英雄時代の鋼鉄のようなピューリタン商人にみられる「聖徒」が練成されてくる。」「いま一つは、そうした自己確信を獲得するための最もすぐれた方法として、絶え間ない職業労働を厳しく教えこむということだった。つまり職業労働によって救われているとの確信が与えられる」と、いうのだ。(p.179)中世では通常のカトリック信徒は、倫理の上では「その日暮らし」で、伝統的な義務を誠実に実行したが、それ以上の「善き行為」は一定の生活体系となっていなかった。しかしカルヴィニズムが信徒に求めたのは、個々の「善き行為」ではなく組織にまで高められた行為主義だった。生活態度の全体にわたって、一貫した方法が形づくられた。十八世紀のピューリタン的思想の担い手が、「メソジスト」(方法派)と呼ばれた。あらゆる時と行為にわたって生活様式の意味を根本的に変革することによって自然の地位から恩恵の地位へと開放する恩恵を確知しうる。そのために現世の生活は徹底的に合理化され、独特な禁欲的性格を与えた。いわゆる「紳士」(ジェントルマン)の「類型」がこれである。ピューリタニズムの禁欲は「持続的な動機」を固守し主張する能力を与え、意識的な、覚醒しかつ明敏な生活をなし、無軌道な本能的享楽を絶滅することを課題とし、生活態度を秩序あるものにした。こうした「資本主義の精神」は近世ヨーロッパとアメリカにおいて展開されたとされるが、「ボーイズ・ビー・アンビシャス・シリーズ」(二宮尊徳の会)全五集が主張するのは、「そうではない、日本においてもプロテスタンティズムの倫理は、札幌農学校、特にクラーク先生――を通じて、直接日本にもたらされた。そして、内村鑑三・新渡戸稲造・広井勇らによって、「倫理的な色彩を帯びた札幌農学校精神」が日本中に影響を与えたとする。*これこそが「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズにおいて資料を通じて解明してきたことがらにほかならない。
2022年08月03日
閲覧総数 255
37

大谷翔平「2番・投手」で先発 初10勝、104年ぶり偉業、球団記録7戦連続2ケタKで記録ラッシュへ8/4(木) エンゼルス・大谷翔平投手(28)が3日(日本時間4日午前10時38分開始予定)、本拠地・アスレチックス戦のスタメンに「2番・投手」で名を連ねた。38試合連続のスタメン出場になる。 記録ラッシュのかかるマウンドだ。これまで投手としては17登板で9勝6敗、防御率2・81。「メジャー初の10勝目」、「1918年ベーブ・ルース以来104年ぶりの2ケタ勝利&2ケタ本塁打」、「ノーラン・ライアンが持つ球団タイ記録の7試合連続2ケタ奪三振」をかけたマウンドになる。昨季は9勝を挙げてから3戦勝ちなしでシーズンを終え、今季も10勝にリーチをかけてから2連敗中。“6度目の正直”で「10勝はやっぱり節目として大事かなと思ってはいますし、プレーヤーとしては大きなことだと思う」と話していた大台到達を狙う。
2022年08月04日
閲覧総数 342


