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昭和30年代半ばから昭和50年代半ばまでの20年間、横浜の夜はナイトクラブがリードしていましたね。昭和29年に「ナイト・アンド・デー」が店開きすると、「ブルースカイ」「エンゼル」「チャイナクラブ」「グランドパレス」など同業者が続々と参入。その勢いは「ナイト・アンド・デー」の専属歌手だった青江三奈が「伊勢佐木町ブルース」の大ヒットを飛ばしたことで、決定的になったのです。社用族がはるばる東京からやって来て、たくさんの金を落としていったものです。現存するのはクリフ・サイドだけですね。(昔の横浜山下公園界隈)市電の文字が有るでしょ。この頃は横浜に市電も有ったのです。 マリンタワーの隣にブルースカイの文字が見えます。ここのバンドマスターはフィリッピン人のネギさん。半分居眠りをしながら指揮棒を振っていましたね。ナイトクラブは基本的に男女同伴で行くのですが、男性客のためにホステスさんも居りました。名前は失念しましたが、ダンスをしていると きまって「七色の虹が消えてしまったの」を耳元で唄うホステスさんがいました。(ラブユー東京/黒沢明とロス・プリモス)http://www.youtube.com/watch?v=JIZojTmhvIo&feature=related七色の虹が 消えてしまったのシャボン玉のような あたしの涙あなただけが 生き甲斐なの忘れられないラブユー ラブユー 涙の東京いつまでもあたしめそめそしないわシャボン玉のような 明るいの涙明日からは あなたなしで生きてゆくのねラブユー ラブユー 涙の東京幸せの星を きっとみつけるのシャボン玉のような 夢見る涙お馬鹿さんね あなただけを信じたあたしラブユー ラブユー 涙の東京 最近 私の観るTVは従来の「天気予報」と「ニュース」に「NHKの演歌を含む昭和年代の歌謡番組」が加わりました。若い頃はジャズフアンで演歌など軽蔑していたのですがね。(おまけ)1946年に開業して、そのままの姿を今に残すクリフサイドは存在自体が「奇跡」と言っても過言ではないですね。ブルースカイやナイト・アンド・デーのようなナイトクラブというより高級ダンスホールというべきかもしれません。全盛時代そのままの華麗なダンスフロアは、今でもフルオーケストラのジャズナイトとダンスナイトに満席 熱気に包まれているようです。ライブハウスは、エントランスロビー2階に位置する「トランペットルーム」に有ります。ここは ルイ・アームストロングから「日本のサッチモ」とあだ名された伝説のジャズ・トランぺッター、南里文雄にちなんで名付けられた場所なんですよ。南里文雄の記念写真↓
2012.04.26
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葉山・花らんぷ。ケーキ店です。2000年に閉店し 翌年 突然復活しました。[Before 花らんぷ][After 花らんぷ]どちらが気に入りましたか。
2010.07.29
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マリー・アントワネットはフランス国王ルイ16世の王妃。 A. マリア・アントーニアはウィーンで誕生。●イタリア語やダンス、作曲家グルックのもとで身につけたハープやクラヴサンなどの演奏を得意とした。●3歳年上のマリア・カロリーナが嫁ぐまでは同じ部屋で養育され、姉妹は非常に仲が良かった。オーストリア宮廷は非常に家庭的で、幼い頃から家族揃って狩りに出かけたり、家族でバレエやオペラを観覧した。また幼い頃からバレエやオペラを皇女らが演じている。B. 当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から伝統的な外交関係を転換してフランスとの同盟関係を深めようとしており、その一環として母マリア・テレジアは、アントーニアとフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策した。結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたが、ルイ・オーギュストの父で王太子ルイ・フェルディナン、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王アウグスト3世兼ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世の娘)がともに結婚に反対で、交渉ははかばかしくは進まなかった。 1765年にルイ・フェルディナンが死去。ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。●このときアントーニアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。マリア・アントーニアが14歳のとき、王太子となっていたルイとの結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行され、アントーニアはフランス王太子妃マリー・アントワネットと呼ばれることとなった。このとき「マリー・アントワネットの讃歌」が作られ、盛大に祝福された。C.マリー・アントワネットとルイとの夫婦仲は、趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって、思わしくなかったと言われる。彼女はその寂しさや慣れないフランス王室での生活を紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。母マリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って諌めたが、効果は無かった。●さらに賭博にも狂的に熱中したと言われる。だが賭博に関しては子が生まれるとピッタリと止めている。●また、ただの向こう見ずな浪費家でしかないように語られる反面、自らのために城を建築したりもせず、宮廷内で貧困にある者のためのカンパを募ったり、子供らにおもちゃを我慢させるなどもしていた。母親としては良い母親であったようである。D.ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。●王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化させたり、全王族の食事風景を公開することや、王妃に直接物を渡してはならないなどのベルサイユの習慣や儀式を廃止したり緩和させた。しかし、誰が王妃に下着を渡すかでもめたり、廷臣の地位によって便器の形が違ったりすることが一種のステイタスであった宮廷内の人々にとっては、アントワネットが彼らが無駄だと知りながらも今まで大切にしてきた特権を奪う形になってしまい、逆に反感を買ってしまった。 ローザ・ベルタンという新進ファッションデザイナーのドレスを好んで着ており、ローザ・ベルタンのデザインするドレスや髪型、宝石はフランス宮廷だけでなく、スペインやポルトガル、ロシアの上流階級の女性たちにも流行し、アントワネットはヨーロッパのファッションリーダーとなっていった。●アントワネットはファッションに浪費はしたが、凝ったスタイルのファッションは好まず、簡素なデザインのものを好んだ。プチ・トリアノン宮で田舎娘の格好をするのを好み、この頃ローザ・ベルタンはアントワネットのために袖や長い裳裾を取り払ったスリップドレスをデザインしている。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。一方、彼女は大貴族達を無視し、彼女の寵に加われなかった貴族達は、彼女とその寵臣をこぞって非難した。彼らは宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まっていた。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではアントワネットへの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。E.1789年7月14日、フランスでは王政に対する民衆の不満が爆発し、フランス革命が勃発した。ポリニャック伯夫人ら、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていた貴族たちは、彼女を見捨てて亡命してしまう。彼女に最後まで誠実だったのは、王妹エリザベートとランバル公妃マリー・ルイーズだけであった。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されたが、そこでマリー・アントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。 1791年、計画は実行に移され、ルイ一家は庶民に化けてパリを脱出する。アントワネットも家庭教師に化けた。フェルセンは疑惑をそらすためにルイとアントワネットは別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢な(そして足の遅い)ベルリン馬車に乗ることを主張して譲らず、結局ベルリン馬車が用意された。また馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や咽喉がすぐ乾く国王のために酒蔵一つ分のワインが積めこまれた。このため元々足の遅い馬車の進行速度を更に遅らせてしまい、逃亡計画を大いに狂わせてしまうこととなった。国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、6月25日にパリへ連れ戻される。このヴァレンヌ事件により、国王一家は親国王派の国民からも見離されてしまう。 1792年、フランス革命戦争が勃発すると、マリー・アントワネットが敵軍にフランス軍の作戦を漏らしているとの噂が立った。8月10日、パリ市民と義勇兵はテュイルリー宮殿を襲撃し、マリー・アントワネット、ルイ16世、マリー・テレーズ、ルイ・シャルル、エリザベート王女の国王一家はタンプル塔に幽閉される。タンプル塔では、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、楽器を演奏したり、子供の勉強を見るなど、束の間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。F.革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。息子である王位継承者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。マリー・アントワネットはコンシェルジュリー牢獄に移され、その後裁判が行われたが、結果は初めから決まっていた。急進化する革命裁判所は多数の反革命を処刑するための、最初の生贄としてアントワネットを欲していた。しかし、アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航。業を煮やした裁判所は息子のルイ17世の非公開尋問をおこない、「母親に性的行為を強要された」と証言させた。しかし、この汚い企みに対しアントワネットは裁判の傍聴席にいた全ての女性に自身の無実を主張し、大きな共感を呼んだ。 しかし、この出来事も判決を覆すまでには至らず、彼女は革命裁判で死刑判決を受け、コンコルド広場において夫の後を追ってギロチン送りに処せられることとなった。●処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベト宛ての遺書を書き残している。内容は「犯罪者にとって死刑は恥ずべきものだが、無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」というものであった。この遺書は看守から経由して後に革命の独裁者となるロベスピエールに渡され、ロベスピエールはこれを自室の書類入れに眠らせてしまう。遺書はフランス革命後に再び発見され、マリー・テレーズがこの文章を読むのは1816年まで待たなければならなかった。●遺書を書き終えた彼女は、朝食についての希望を部屋係から聞かれると「何もいりません。全て終わりました。」と述べたと言われる。そして白衣に白い帽子を身に着けた。斬首日当日、マリー・アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った(ルイ16世の場合は馬車だった)。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。●その最期の言葉は、死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」だったと伝えられる。通常はギロチンで処刑の際に顔を下向けるが、マリー・アントワネットの時には顔をわざと上に向け、上から刃が落ちてくるのが見えるようにされたという噂が流れているが、真実ではない。むしろ このような伝説が流れるほど、彼女に対するフランス国民の憎悪の念が激しかったという証拠にはなろう。12時15分、ギロチンが下ろされ刑が執行された。処刑された彼女を見て群衆は「共和国万歳!」と叫び続けたという。(写真上 少女時代・中 王妃時代・下 処刑時)上記記述の文頭に●印を付した箇所をお読み下さい。才気煥発、家庭的、奢侈に走らず、凛然とした女性であった事がうかがえます。とくに処刑前の最後の言葉は感嘆に値します。
2012.02.13
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体調悪く 引き籠り気味なので せめて歌だけでもと 「遠くへ行きたい」 を掲載しました。[中村八大]中村八大さんは (1931年- 1992年) は 青島(現在の中華人民共和国)出身。御存知の通り 永六輔とのコンビで 「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」「遠くへ行きたい」「明日があるさ」 など1950年代末から1960年代にかけて 数々のヒット曲を作曲。(遠くへ行きたい)https://www.youtube.com/watch?v=6oh-1JoAtHo&list=PLCA2618C72440DA45&index=3中村八大さんは 糖尿病を患って 昭和55年に3か月半ほど 天草の病院に入院療養されていたそうです。退院後に 主治医の先生に捧ぐ として「天草に」という曲まで作ってプレゼントされているそうです。八大さんが いかに天草に心を残しながら東京に戻って行ったのか。八大さんにとって 天草で過ごした3か月半が よほど心に残る時間だったのかということが偲ばれます。[島原] [島原] 島原市は 長崎県南東部の島原半島にある市。島原城や武家屋敷など旧城下町の街並みが残り 市内に湧水群のある観光都市です。島原城 は江戸時代初期の1618年から7年の歳月をかけ松倉重政が島原城を築城し 以後は島原藩の城下町として栄えましたが 松倉家はキリシタン弾圧をはじめ 悪政を続け1637年に島原の乱が起こり 住民は ほとんど死亡し 代わって藩を統治した高力忠房の移住政策により復興。元和の一国一城令で廃城となった原城は1637年に全国の耳目を集めることとなった。世に言う「島原の乱」が勃発。島原藩主松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き また 過酷なキリシタン弾圧を行ったため 農民一揆を引き起こし この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し 島原城・富岡城までが襲撃されたのです。しかし 一揆の攻城はうまく行かず 一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もり 小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし 組織だった籠城戦を展開し幕府軍と戦闘を繰り広げたのです。 一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく 弾薬・兵糧が尽き果て 幕府軍は1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し 1638年4月の総攻撃で一揆軍を壊滅させ 一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。幕府軍は戦後 原城を徹底的に破壊。その一方で 島原藩主松倉勝家は苛政により乱を引き起こした責任から 大名としては前例のない罪人としての扱いである斬首に処せられた。[天草四郎]天草四郎はキリシタン大名で関ヶ原の戦いに敗れて斬首された小西行長の遺臣・益田甚兵衛の子として出生。その生涯は不明の点が多いのですが 生まれながらにして カリスマ性があり 聡明で 慈悲深く 容姿端麗で女性が見たら一目惚れするとまで言われたほどだったそうです。経済的に恵まれていたため 幼少期から学問に親しみ 優れた教養があったとのこと。小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として神格化された人物であると 考えられており さまざまな奇跡(盲目の少女に触れると視力を取り戻した、海面を歩いたなど)を起こした伝説もあります。島原の乱勃発時は16才程度の少年で 十字架を掲げて戦闘を指揮したと伝わり 徳川幕府の軍隊による原城への総攻撃を受けて 炎の中で自害したとされていますが 少年であった四郎が大規模な反乱を組織したり 戦いを指導したとは考えられず 実質的な首謀者は庄屋や浪人たちなどなのです。死後に首を切断されて幕府へ送られたという話もあり 首は長崎の原城大手門前に晒されたとも伝わっています。そのとき幕府側には天草四郎の姿や素性の情報が全く伝わっておらず 原城に立てこもった反乱軍が皆殺し(内通者の山田右衛門作を除く)にされているため 旗印の近くにあった立派な服装をした少年の死体を天草四郎と断定したのだそうです。四郎の秀頼落胤説は 馬印が豊臣秀吉のものと同じ瓢箪であることなどから 大坂夏の陣で死去したはずの秀頼が大坂城を脱出して薩摩へ逃れていたとする論拠によるもので 豊臣家権威の糾合を図ったとも考えられています。このように歴史は悲惨ですが 島原も天草も のどかな佇まいの町です。普賢岳噴火まんじゅうを売ってますね ↑
2014.12.18
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