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葉山・花らんぷ。ケーキ店です。2000年に閉店し 翌年 突然復活しました。[Before 花らんぷ][After 花らんぷ]どちらが気に入りましたか。
2010.07.29
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メアリー・スティーヴンソン・カサット(1844年 - 1926年)は、アメリカの画家・版画家。フランスで生活することが多く、最初に友人になったのがエドガー・ドガで、後に印象派の展覧会にも出品。カサットは、独特の力強いタッチで、母と子の親密な絆を、さらに、女性の社会的および私的生き方を描き続けた画家です。彼女はフィラデルフィアのペンシルベニア美術アカデミーで絵の勉強をはじめましたが、いっこうに進まない授業と男子学生の見下した態度に我慢できず、巨匠の下で勉強しようとパリに渡たりましたが いったん帰国。1871年、ピッツバーグの大主教からイタリアの絵画を模写して欲しいという依頼があり、カサットは再びヨーロッパに。カサットはヨーロッパの主だった美術館を回って、絵を独学で勉強。それからパリに行き、カミーユ・ピサロの下で絵を学んだ。1872年、カサットはパリ・サロンに初めて絵を出品。審査員はしぶしぶ絵を受理したが、批評家たちは、色は明るすぎるし、肖像画は実物以上に精密すぎると酷評。ある時、カサットは美術商の店のウインドーで一枚の絵を見かけた。ドガのパステル画だった。カサットはサロンに反抗しているのは自分一人でないことを知った。カサットは友人への手紙にこう書いています。"窓のところに飛んでいって、鼻をぺちゃんこにして、彼の絵をできるだけ吸収しようとしたものよ。""それが私の人生を変えたの。私はその時、芸術を見たわ。私が見たいと願っていた芸術を。"1874年カサットはドガと対面を果たし、ドガはカサットに印象派の展覧会に作品を出品してみないかと誘い、印象派の展覧会にカサットの絵が架かった。1886年まで、カサットは印象派の積極的なメンバーだった。印象派から離れた後も、ドガや女流画家のベルト・モリゾとは、ずっと友人のままだった。パステルの使い方に熟達し、結果的に彼女の代表作はパステルで描かれたものが多かったのです。カサットが印象派から離れた理由は、母と姉妹を看病するためだった。看病の間、筆を握ることもなくなった。姉妹は1882年に亡くなった。母親は何とか健康を回復。1880年代中頃にはカサットは再び絵を描き始めた。カサットの作風は進化していた。印象派から、よりシンプルで、よりわかりやすいアプローチになっていった。1886年まで、しばらくカサットはどんな運動にも属さずに、さまざまなテクニックの実験を続けた。カサットの人気の基礎である一連の母と子を描いた絵の特徴は、正確な素描、優しい視点、その上に、決して感傷に溺れていないことなのです。1891年、カサットは、ドライポイントやアクアチントで描かれた、高度なオリジナル・カラーの連作版画を発表。その中には、その前年パリで見た日本画にインスパイアされた「水浴する女性」、「髪飾り」が含まれています。1914年以降、カサットは絵をやめた。目がほとんど見えなくなったのです。絵は描けなくなったが、カサットは女性参政権の理想に向けて前進。カサットの芸術への貢献を称えて、フランス政府はカサットにレジオンドヌール勲章を贈った。(メアリー・カサット 自画像)(舟遊び)(お茶)(ランプ)(青い肱掛椅子の少女)(子供の入浴)(水浴する女性)(その他)
2011.06.21
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彩雲は、太陽の近くを通りかかった雲が、緑や赤に彩られる現象。瑞雲、慶雲、景雲などともいいます。この現象は、日光が雲に含まれる水滴で回折し、その度合いが光の波長によって違うために生ずるもので、大気光象の1つ。彩雲は昔から吉兆とされ、古くから景雲や慶雲、また瑞雲などとも呼ばれ 、仏教では「日暈」とともに、寺院の落慶、入仏開眼法要などには「五色の彩雲」と呼ばれ、よく発生する現象として知られいます。また、西方極楽浄土から阿弥陀如来が菩薩を随えて、五色の雲に載ってやってくる来迎図などにも描かれており、瑞相の一つです。
2011.09.14
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「ジェンカ」とは、フィンランドの民謡、または、この楽曲を用いたフォークダンスです。作曲はラウノ・レティネン。フィンランドで1960年代にはやった流行歌であり、日本ではマイム・マイムやオクラホマミキサーと並ぶ、最も有名なフォークダンスである。フィン語では「レトカ イェンッカ」 (Letka Jenka) もしくは Letkiss で「列になって踊ろう」の意味。「列になって踊ろう」の意味の通り、前後に連なって踊る。後ろの人は前の人の、腰か肩を軽く掴んで列を作る。踊りはごくシンプルで、右足を、右斜め前に出し、戻す。2回繰り返す。 左足を、左斜め前に出し、戻す。2回繰り返す。 前方へ、飛び跳ねて1歩ぶん進む。 後方へ、飛び跳ねて1歩ぶん退く。 前方へ、飛び跳ねて進む。3回進む。 以下、この「右足・右足、左足・左足、前、後、前・前・前」を繰り返す。ジェンカ(Let's kiss)http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=r5-cCNDe6E8(Finnish dance "Letka - jenka" \ Ensemble "Kantele")http://www.youtube.com/watch?v=VELTH9NdE5o
2009.10.11
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米国に住んでいる頃、住まいのベランダに よく「蜂鳥」が飛んできました。この鳥は、はハチドリ科に属する鳥の総称で、 鳥類の中で最も体が小さいグループであり、体重は2-20g程度。 毎秒約55回、最高で約80回の高速ではばたき、空中で静止するホバリング飛翔を行います。 「ブンブン」 とハチと同様の羽音を立てるため、ハチドリ(蜂鳥)と名付けられ、俗にハミングバードともいいます。英語の hummingbird を語源としており、こちらも同様にハチの羽音(英語における擬音語が hum)から来ています。なお、フランス語では oiseaux-moucheと呼ばれておりますが、直訳すると 「蝿鳥(ハエドリ)」となります。この名前は可哀そうです。 カリブ海にあるトリニダード・トバゴの国鳥でもあります。[ミドリハチドリ][ノドアカハチドリ][その他]花の蜜を主食としており、ホバリングで空中で静止しながら、花の中にクチバシをさしこみ、 蜜を吸うという独特の食事の取り方をします。花の蜜を吸うためにクチバシは細長い形状をしているため、昆虫であるスズメガが生息する地域では、成虫の動作が酷似するため、両者を見間違うことがあります。ある種のハチドリは特定の植物と密接な関係をもっています。例えば、ヤリハシハチドリ Ensifera ensiferaのクチバシは非常に長く、 全長10cmを越えることもあり、このような長いクチバシでないと、非常に長い花冠をもつ トケイソウの一種Passiflora mixtaの蜜を吸うことができません。 このように1対1のペアなので、ヤリハシハチドリは他のハチドリや昆虫との食料をめぐる競争を回避することができる訳です。一方、Passiflora mixtaにとっては自分専用の花粉媒介者がいることで効率的に受粉することが可能で、このように お互いにとって利益があるため、特殊なペアができたのです。足は退化しており、枝にとまることはできますが ほとんど歩くことはできません。約112属320種のハチドリが北米から南米にかけて生息し、キューバに生息するマメハチドリ Calypte helenaeは世界最小の鳥であり、全長6cm、体重2g弱しかないのです。南米のジャマイカでは、ハチドリの群れが一種の名物となっています。蜜が大好きなヒヨドリの仲間の一部が、花から蜜を吸う生活様式に適応して、自然選択により現在のような姿に進化したと考えられます。効率よく蜜を吸うためにはハナバチ属のように花にとまって吸蜜するのが良いのですが、鳥類の体の構造上、昆虫よりもどうしても体の密度が大きくなるため、花にとまることができません。そこでスズメガのようにホバリングしながら吸蜜できるように、胸筋や心肺機能を独自に進化させて今日に至った訳です。ほんとうに蜜蜂のように小さく、しかも空中で静止しているように浮かんでいます。独り暮らしの old にとって、珍しくも有り 心和む「蜂鳥ちゃん」でした。
2011.09.23
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ルイ・アームストロングはは、アフリカ系アメリカ人のジャズミュージシャンである。サッチモ(Satchmo)という愛称でも知られ、20世紀を代表するジャズ・ミュージシャンの一人である。サッチモという愛称は「satchel mouth」(がま口のような口)というのをイギリス人記者が聞き違えたとする説や、「Such a mouth!」(なんて口だ!)から来たとする説などがある。その他、ポップス(Pops)、ディッパー・マウス(Dipper Mouth)という愛称もある。アームストロングは明朗な性格と高い音楽的技術をあわせ持つカリスマ的かつ独創的な演奏者であり、洗練されていない地方的なダンスミュージックをポピュラーな音楽形態であるジャズへ発展させた。トランペット奏者、歌手としても有名。ジャズ界でも稀であるほどの天才トランペット奏者と言われ、ウィントン・マルサリスは「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」と賞賛。歌の方でもスキャットという手法を広めたことで知られ、マイルス・デイヴィスは「アームストロングは喋りまでジャズになっている」と語っている。俺の学生時代はジャズ喫茶が あちこちに有り、SP版で聴いたものだ。このサッチモのバンブルビーは圧巻だった。
2009.02.24
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桃源郷とは、中国における理想郷。俗世間から離れ、山水の中で仙境に遊んだり素朴な農耕をしたりできる世界です。また転じて、仙人がいる・あるいはそこにいけば仙人同様になれる聖地ともされる。武陵桃源(ぶりょうとうげん)ともいいます。桃源郷のルーツは六朝時代の東晋末から南朝宋にかけて活躍した詩人・陶淵明(365年- 427年)の著した散文「桃花源記」です。その「あらすじ」は、晋の太元年間(376年 - 396年)、武陵(湖南省)に漁師の男がいた。ある日、山奥へ谷川に沿って船を漕いで遡ったとき、どこまで行ったか分からないくらい上流で、突如、桃の木だけが生え、桃の花が一面に咲き乱れる林が両岸に広がった。その香ばしさ、美しさ、花びらや花粉の舞い落ちる様に心を魅かれた男は、その源を探ろうとしてさらに桃の花の中を遡り、ついに水源に行き当たった。そこは山になっており、山腹に人が一人通り抜けられるだけの穴があったが、奥から光が見えたので男は穴の中に入っていった。 穴を抜けると、驚いたことに山の反対側は広い平野になっていたのだった。そこは立ち並ぶ農家も田畑も池も、桑畑もみな立派で美しいところだった。行き交う人々は外の世界の人と同じような衣服を着て、みな微笑みを絶やさず働いていた。男をみた村人たちは驚き話しかけてきた。男が自分は武陵から来た漁師だというとみなびっくりして、家に迎え入れてたいそうなご馳走を振舞った。村人たちは男にあれこれと「外の世界」の事を尋ねた。そして村人たちが言うには、彼らは秦の時代の戦乱を避け、家族や村ごと逃げた末、この山奥の誰も来ない地を探し当て、以来そこを開拓した一方、決して外に出ず、当時の風俗のまま一切の外界との関わりを絶って暮らしていると言う。彼らは「今は誰の時代なのですか」と質問してきた。驚いたことに、ここの人たちは秦が滅んで漢ができたことすら知らなかったのだ。ましてやその後の三国時代の戦乱や晋のことも知らなかった。数日間にわたって村の家々を回り、ごちそうされながら外の世界のあれこれ知る限りを話し、感嘆された男だったが、いよいよ自分の家に帰ることにして暇を告げた。村人たちは「ここのことはあまり外の世界では話さないでほしい」と言って男を見送った。穴から出た男は自分の船を見つけ、目印をつけながら川を下って家に戻り、この話を役人に伝えた。役人は捜索隊を出し、目印に沿って川を遡らせたが、ついにあの村の入り口である水源も桃の林も見付けることはできなかった。その後多くの文人・学者らが行こうとしたが、誰もたどり着くことはできなかった。[長廊にある蘇式彩画「桃花源」]桃源郷をサンスクリット語読みしたものが中央アジアの理想郷伝説であるシャングリ・ラです。イギリスの の思想家トマス・モアが1516年にラテン語で出版した著作に、「ユートピア(理想郷)」が有ります。ユートピアは現実には決して存在しない理想的な社会として描かれ、その意図は現実の社会と対峙させることによって、現実への批判をおこなうことにあったのです。桃源郷はユートピア伝説の範疇に入りますが、カナン・アトランティス・シバの女王の国なども同様。山梨県の白根桃源郷は、これとは異質ですよ。[モアのユートピア]
2012.02.18
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