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HOME > 今日のことば 3/17 Tue女性の力 若い娘さんが都会にあこがれて、生まれ育った故郷を捨てて出ていってしまうと、男性も居着かなくなってしまう。女性にとって魅力的な町づくりが最大の過疎化対策だという説を聞いたことがあります。なるほど、とうなずかされます。信仰でもそれがいえるのです。女性が教えに目覚めると、たちまちご主人が教化され、子どもさんも、仏さまに手を合わせるようになってきます。逆に、ご主人が信仰をするようになっても、奥さんが本気になるまでには、なかなか時間がかかることが多いのですね。女性はそれだけの感化力を持っているわけです。日蓮聖人は、「矢の走るは弓の力、男のしわざは女の力」とおっしゃられ、その女性の力は、「物に随って物を随える」力だと教えられました。男をよいほうに走らせるか悪いほうに走らせるか、社会をよいほうに向かわせるか悪いほうに向かわせるか、女性がカギをにぎっているともいえます。まず女性に目覚めてもらわなくてはなりません。女性は社会を変え、世界を変える力を秘めているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.17
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HOME > 今日のことば 3/16 Mon心の壁をくずす 女性にとって、子育ては大事業です。心配と苦労の連続で、それだけに、手ごたえも喜びも大きいのですが、さて一人前に育て上げたとホッとすると、見知らぬ相手が現われて、手塩にかけたかけがえのない娘や息子を連れていってしまう。お嫁さんのアラを並べたてるお姑さんの気持ちの根っこに、自分が育て上げた宝物を横取りされたような悔しさがあるような気がするのです。そういう悔しさが根っこにあると、相手のすることなすこといちいち気に入らなくなってしまうわけです。そこで逆に、「この息子のところへ、よくお嫁さんにきてくれた」と、こちらの気持ちを切り換えてしまえば、「若いのだから、いろいろ未熟なのは当然だ」と、教えてあげる言葉にも、感謝といたわりの思いがこもってきます。まず、にらみ合いの壁を打ちくずしてしまうのが先決です。初めは形だけでもかまいません。互いに、いいところを見つける努力をして、ほめ合う。すると心の中の壁がとれて、気を許し合えるようになります。女性同士の理解が生まれ、理解し合えると、なによりも力強い味方同士になってしまうのです。嫁と姑の平和共存も心の持ちようひとつです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.16
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HOME > 今日のことば 3/15 Sun見捨てない愛 夫婦の愛をぎりぎりまで突き詰めていくと、それは相手を見捨てないこと、といえるのではないでしょうか。見捨てないためには、許しが必要なのです。どんなに好き合った相手でも、毎日、朝から晩まで鼻を突き合わせていると、だんだんアラが見えてきます。それにいちいち目くじらを立てて、性格の不一致などと言い合っていたら、とても添い遂げられるものではありません。それまで他人だった男女が一つになろうというのですから、初めからなにもかも分かり合えるはずがありません。どうしたら心を一つにして助け合い、支え合っていけるようになるか、互いに努力し合い、人間として成長していくのが結婚生活というものでしょう。最近は、結婚したくてもできない男性が増えて、「女性のほうが売り手市場で、男性が女性に合わせていかなくてはならない時代になった」などと、しょげている人がいますが、どちらがどちらに合わせるなどと、時代によって変わるものではありません。男と女のそれぞれの特性、考え方を認め合うところから、許し合う寛容さが生まれてくるのだと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.15
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HOME > 今日のことば 3/14 Sat百人の力を借りれば百人力 一人の力には限りがあります。お金も身分もなかった秀吉は、「十人の力を借りれば十人力、百人の力を借りれば百人力。人の力を借りるには、人を喜ばせなくてはならん」と、ひたすら人を喜ばせることに心をくだいたそうです。それで、あれだけの大仕事を成し遂げたわけです。では、どうしたら本当に人を喜ばせることができるかです。佼成会を始めた当初、私は牛乳屋のおやじさん、妙佼先生はイモ屋のおばさんでした。けれども、人さまをお救いしたい一心で、ただひたすら相手のことを考えて尽くしました。苦しんでいる人を見ると、車に乗せてあげる。後押ししてあげて、仏さまの教えに導く。しかも、なんの見返りも一切求めないのです。すると、人が必ず集まってきてくれるのですね。相手の喜ぶことだけを考えていると、相手に何かしてもらいたいといった要求もなければ、不満も生まれません。こちらに感謝や尊敬を求める気持ちがあると、こんなに面倒をみてあげているのに、何ひとつ返してくれない恩知らずの人だ、などといった不満が頭をもたげてくるわけです。これでは、どんなにしてあげても、人が慕い寄ってくるわけがありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.14
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HOME > 今日のことば 3/13 Fri人の持ち味 「一を聞いて十を知る」というような人ばかりがそろえば、なにごとも、とんとん拍子に運ぶだろうと考えがちです。ところが、そうした目から鼻へ抜けるような人というのは、先が見えすぎて、とかく次々と目移りしたり、人の言葉に耳を貸すことができずに我流を押し通したりしがちで、そのために組織を乱すようなことになりかねない欠点も持っているわけです。反対に、十聞かされても一つか二つしかできないというような人を見ていると、じれったくなるのですが、そういう人が、じっくりと一つのことに取り組んで、大きな仕事を成し遂げることがあります。とりわけ宗教教団では、そうした持続力こそ貴重です。どちらがすぐれていて、どちらが劣っているなどと決めつけられないのです。堅固な城の石垣は、丸い石、四角な石、三角の石がきっちりと組み合わされ、積み上げられて、びくともしないものになっているのだといいます。それと同じで、それぞれ特徴を具えた人が一つに結束してそれぞれの力を出しきれるかどうか。そこが組織の決め手です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.13
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HOME > 今日のことば 3/12 Thu可能性は半々だから 大勢の人の先頭に立つリーダーは、あくまでも「この仕事をやりぬくのだ」という意志、そして、「これは必ずやり遂げられるのだ」という確信が、なによりも大事です。それが、周囲の人を引っ張っていく力の源泉だからです。リーダーは、みんなに新たな一歩を踏みだしてもらう、その先頭に立つ人です。これから始める仕事の可能性は半々であっても、出発点で「この仕事は果たしてできるのだろうか」と迷うと、天秤は失敗のほうに傾いてしまうことが多いものなのです。かつて「ミスター・ジャイアンツ」と呼ばれた長嶋茂雄さんは、ここぞという見せ場で必ず打つといわれたものでした。その秘訣について長嶋さんは、「そういう場面でホームランを打つ自分の姿を、いつも頭に描いていることです」と話されていました。「打てるだろうか」「いや打てないかもしれないな」などと迷わないわけです。「この仕事は必ず成し遂げられる」と信じる力が、天秤を可能性のほうに傾けるのです。信仰の世界も同じです。「この教えどおり行じれば、必ず救われます」と言いきれる人でなくては、人は救えません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.12
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HOME > 今日のことば 3/11 Wed応病与薬 「若し法を聞くことあらん者は一りとして成仏せずということなけん」と仏さまが私たちに約束してくださっている法華経は、どんな人をも救いとる真理の教えです。しかし、たとえば病気の違い、病状の変化に応じて、お医者さんが与える薬が違うように、真理の教えも、その人に応じ、その苦しみに応じていちばん適切なかたちで、具体的に説いてあげなくては、本当に人を救うことはできません。その問題、その人に応じた処方が方便なのです。大法則だけを示して、これが理解できないようでは程度が低すぎる、などというのは慈悲が足りないのですね。この人をどうしても救わなければならないと真剣になったら、自分の体験でも知識でも、もう、ありったけ総動員して、全力を振り絞らずにいられません。その慈悲のほとばしりであったら、どんなに強い言葉でも、反発を買うようなことはありません。また、優しく包み込む言葉で相手を甘えさせたり堕落させたりするようなことは決してないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.11
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HOME > 今日のことば 3/10 Tue懐の深さ 人間を練るのにいちばんいいのは、自分に反発する人、こっちの言うことを聞かない人にぶつかったときです。そういう人に出会うと、「人というものは一筋縄ではいかないものだ」と思い知らずにいられません。なんでも「はい」「はい」と言うことを聞いてくれる人と違って、いちいち突っかかってきたり、こっちのアラばかり探しだそうとしているような人に真正面から取り組んで、「なんとかしてこの人に分かってもらいたい」と真剣になると、その突っぱっている態度の裏に隠された、その人の寂しさや弱さが、だんだん見えてくるようになるのです。その相手の心が見えると、もう他人事ではなくなるのですね。実際に、さまざまな人とぶつかり、取り組んでみて、「なるほど、人の心というものはこういうものだったのだ」とつかめると、腰がすわってきます。どんな人に対しても、たじろぐことがなくなります。それが、懐の深さになるのです。人間の本当の心の中が分からなくては、本当の思いやりは生まれません。それでは、人がついてきてくれないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.10
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HOME > 今日のことば 3/9 Mon苦しい時が正念場 夫婦仲がこじれた上に、子どもが急に乱暴になって「これが自分の子か」と恐ろしくなるような言葉を親に投げつけてくる。「もう、どうしたらいいのか分からなくて......」と訴える方がいました。しかし、そうして追い詰められ「自分の力では、もうどうにもならない」とせっぱ詰まって初めて、人の言葉を本気で聞く気になってくるのですね。仏さまは「一切衆生はわが子。私が必ずみんなを救護(くご)してあげます」とお約束くださっています。それなのに、どうしてこんなつらい目に遭わされるんだろう、と恨みたくなることも人生にはしばしばあります。次から次へ不幸が重なって、「神も仏もあるものか」と捨てばちになりかけるときもあります。しかし、仏さまは決して私たちをお見捨てになることはありません。苦しみを与えられるのも仏さまのお見守りで、いまこそ自分をしっかりと見つめて、自分を変えなくてはならない時だ、と教えてくださっているのです。崖っぷちに追い詰められた時こそ、正念場です。また、その時こそまわりの人が声をかけてあげなくてはならない大切な時なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.09
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HOME > 今日のことば 3/8 Sun世界の人に好かれる国 アメリカでの調査で、「日本製品は非常によい」と答えた人が七三パーセントだったのに、「好きな国」となると、カナダの九四パーセントに対して、日本は六一パーセント、ヨーロッパ諸国に比べても極端に低いという結果が出たそうです。日本製品への評価もさることながら、世界の人に好かれる日本人になる努力が、より大切なのではないでしょうか。軍備拡張競争が、自国の防衛どころか経済の破綻を招き、国を危うくしてしまうことが分かってきたいま、どうしても新しい真の安全保障をつくりださなくてはならなくなっています。その安全保障のいちばんの基礎は、やはり人と人との信頼関係です。国と国の間で互いに好感情を持ってくれる友人をどれだけつくれるか、そのための努力こそ大切です。その友だちづくりには、お互いが共通の目的を持って、共に行動することが欠かせないと思うのです。世界の国々の経済の建て直し、地球の環境破壊防止など、いわば地球規模の人類の大問題も、世界の人びとが心を一つにして取り組むことができるようになれば、そうした難題が互いの心をつなぎ合わせるための好機に変えられていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.08
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HOME > 今日のことば 3/7 Sat皺(しわ)の間の宝物 会の創立当初から修行を積み重ねてこられ、ご法を広めてくださった方々が一堂に会して、創立記念日をお祝いできました。たくさんの懐かしいお顔を拝見して、思いだした話がありました。かつて武名をとどろかせた武将の一人が、伊豆の伊東にこもって隠居の日々を送っていることを聞いた武田信玄は、「私の話し相手になってもらえまいか」と使いをやります。「いや、私はもう年老いた隠居の身。もはや私の話などなんの役にも立ちますまい」と武将が固辞すると、信玄はさらにこう懇願するのです。「老人には皺と皺の間に経験という宝物がひそんでいる。それを役立ててほしいのだ」その信玄の言葉に感激して甲府へ出向いた武将が、さまざまな経験談を語るその話を、信玄は、逐一書き留めながら耳を傾けたと伝えられています。「皺の間の宝物」とは、いい言葉ではないですか。「古老を尊ぶ国ならば、衰亡することはない」と教えられたお釈迦さまのお言葉も思いだされます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.07
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HOME > 今日のことば 3/6 Fri万人を住まわせる大建築 立正佼成会創立五十五周年を迎えて、法華経に遇いえたときの感激が、昨日のことのようによみがえってまいります。私の恩師の新井助信先生は、孔子さまの教えに心酔されていた漢学者でした。その先生が法華経を勉強されて、「これは万人を住まわせる大建築だ。それに比べると、孔子の教えはよく整えられた盆栽ともいえよう」と感嘆され、「法華経は、さまざまな教えのすべてに、そのところを得させ、すべてを生かす教えだ」とおっしゃって、講義してくださったのでした。その新井先生の講義をうかがって、私は「これだ!」と全身が震える思いがしたものでした。私はそれまで、六曜の法則、修験道の荒行、姓名鑑定など、人を残らず救える道を求めて遍歴してきたのですが、ついに、そのすべてを包含して、しかも百パーセント人を救うことができる教えに出遇えたのです。まさに手の舞い足の踏むところを知らぬ感動で、もうじっとしていられなくなってしまったのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.06
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HOME > 今日のことば 3/5 Thu逆縁も功徳 何か事が起こると、「さあ大変」と言うのが口癖になっている人がいますが、いつもお話しするように、私は逆に、難問がくると「これは、おもしろくなってきたぞ」と自分に言い聞かせるのです。そこの紙一重の差が大事だと思うのです。さあ大変と思うと、腰が引けてしまいます。反対に、「ようし」と心を決めると、すぐ行動が起こせるのです。行動を起こせば、必ずどこかに道が開けてきます。それで自信がついてくるわけです。創立記念日を迎えて心によみがえってくるのは、恩師の新井助信先生に「仏教は苦滅の道」であると学んで、「どんな苦も救うことができる教えを見つけたぞ」と、躍り上がらんばかりだった当時の感動です。その苦滅の道のかなめは、自分に不利なこと、つまり逆縁をも仏さまのご功徳であり、善縁なのだと受け取れるようになることにあります。その考え方で、私はなにごとにも対してきました。それができなくては、本当の宗教者とはいえないと思うのです。とりわけ幹部のみなさん方に、そこのところを、しっかりと心に刻みつけておいてもらいたいのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.05
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HOME > 今日のことば 3/4 Wed自分を燃やしきる 「法華経の一偈一句でも聞いて一念でも随喜する者は、必ず最高の悟りを得て仏になれることを、私が保証します」と「法師品」で仏さまは約束しておられます。信仰は不思議なもので、ほんのわずかしか教えを知らなくても、「ありがたい、ありがたい」と言っている人は、次から次へ功徳を頂戴できます。ところが、あれこれ理屈をこねる人は、隅から隅まで教えを諳(そら)んじているようでも、なかなか功徳がいただけません。どこに原因があるのかというと、理屈だけの人は感激がないのです。それで打ち込み方が違ってくるわけです。教えの一句でも、感激を持って受け止める人は、その教えを行じることに自分を燃やし尽くします。自分を燃やし尽くせる人は、周囲の人をも燃えさせることができるのです。ですから、まわり中が功徳だらけになってしまって、もう、ありがたくてたまらなくなるのです。素直な心で一瞬の感激ができるか、いたずらに理屈をこねまわして、行がおるすになってしまうかの違いで雲泥の差がついてしまうわけです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.04
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HOME > 今日のことば 3/3 Tue本当の敵は内側に お釈迦さまがご在世当時のインドの大国の一つマガダ国のアジャセ王が、ヴァッジ国を攻めようとして大臣を遣わしてお釈迦さまの意見をうかがったことがありました。お釈迦さまは、待者の阿難尊者に尋ねられて、ヴァッジ国の人びとが民主的な会議でものごとを決め、婦女子をいたわり、目上の人を敬い、篤い信仰心を持っていることを確かめられて、「それならば、この国は滅びることはないであろう」とおっしゃられました。その報告を聞いて、アジャセ王はヴァッジ国の征服を断念したのでした。これが国が衰滅しないための不退法の教えです。たとえば野球のチームでも、メンバーが互いにかばい合い、信頼し合っているとき、そのチームは最高の力を発揮します。自分が大切にされている喜びで、それぞれが力を出しきり一丸となるからです。逆に、メンバーが互いに背を向け合うようになると、どんなに力のある選手がそろっていても、相手チームにつけ込まれてしまいます。本当の敵は外にいるのではなく、内側にいるのです。内部のひび割れが難を呼び寄せるわけです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.03
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HOME > 今日のことば 3/2 Mon枝葉より幹が大事 一日中、口角あわを飛ばして議論しても、結局、なにもまとまらないといった会議が、ときどきあります。大筋とは関係のない枝葉のことばかりにこだわっているわけです。事を運ぶのに自分がどれだけ貢献できるか、犠牲を払えるか、その腹を決めて話し合えば、たちまち結論が出るのに、逆に、できない理由を滔々と論じているのです。なぜそんなことになるのかと見ていると、つまりは自分の立場が不利にならないようにと汲々としているのです。木も成長しすぎると枝葉が繁りすぎて、風も通らず、日も差さなくなって衰えてしまうものですが、組織も、うっかりすると伸びすぎた枝葉のほうばかりを大事にして、それぞれが自分の部署のことにばかりこだわって本筋を見失ってしまうことが起こりがちなのです。立正佼成会がめざしているのは、人びとを仏道に入らしめ、自他共に仏道を行じて真の幸せにいたるところにあります。その本筋をしっかりと見すえて、どの枝を払い、何を守るか、賢く判断していかなくてはなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.02
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HOME > 今日のことば 3/1 Sun六十点で満点 お姑さんにどこからも文句をつけられないようにとがんばりすぎて、ノイローゼになりかけたお嫁さんが、「家事は完全になんかできるものじゃないの。六十点満点でいいんです」と教えてもらって気が楽になり、「なるほど、そうだ」と心を決めてしまったら、お姑さんと気持ちが通い合うようになった、と話してくださる方がおられました。ボロを出すまいと気張っていたときは、知らず知らずお姑さんに対して身構える姿勢になっていたわけです。それでは努力すればするほど、お姑さんとの間はおかしくなってしまいます。人の上に立つリーダーの場合も同じなのですね。「下手なことを言って、揚げ足をとられてはならない」と、いつも身構えてばかりいるのでは、部下がついてきてくれません。少しの隙も見せないという人は、冷たそうで、近づきがたい人に見えてしまうのです。六十点か七十点満点でいいのだ、と腹の中をさらけだせるようにならないと、本当に大勢の人の信頼を集めるリーダーにはなれません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.03.01
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HOME > 今日のことば 2/28 Sat下り坂も一生懸命に 米ソの冷戦が終わり、世界はすぐにも平和になるのかと思ったら、なかなかそうはいきません。湾岸戦争が火を噴き、東欧諸国やソ連で政治・経済の混乱が続き、日米間の摩擦も強まる一方といった報道が相次いでいます。世界は危機的な様相をさらに深めていくのではないか、と危惧する人も多いのですが、こういうときにいちばん大事なのは、枝葉の情報に振り回されて大局を見失わないことです。世界の大きな流れを見定めなくてはならないのです。ものごとは一気になるものではありません。川の流れも一気に流れ下るのでなく、右へ左へと大きく蛇行して海へ注ぎます。登山も、登り道だけでなく、ときには谷に下る道も一生懸命に歩かなくては、めざす頂上に着けません。世界が平和と安定へ、独裁から真の民主主義へと向かっていることは間違いない事実です。しかし、なんの努力もせずに平和は実現するものではありません。人びとが宝の山へ向かう険悪道でへたばりかけたとき、化城を浮かび上がらせて人びとの気力を奮い起こさせたリーダーの役を、世界の宗教者が力を合わせてつとめなくてはならないと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.28
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HOME > 今日のことば 2/27 Fri不平が自分を苦しめる 「口は禍の門」といいます。うっかり口にした言葉が、災難の元になるわけです。『懺悔経』ともいわれる『仏説観普賢菩薩行法経』には、「舌根は五種の悪口の不善業を起す」と説かれ、また八正道の「正語」の教えでも、妄語(もうご=嘘)、両舌(りょうぜつ=二枚舌)、悪口(あっく=わるぐち)、綺語(きご=いいかげんな言葉)など、すべて自ら禍を呼び寄せる元になる、と戒めています。とりわけ修行の妨げになるのは、不平を口にすることではないでしょうか。不平というものは、いったん口から出すと、その言葉によって自分の不平不満が倍にも三倍にもふくれ上がっていきます。そればかりでなく、まわりの人にも悪い影響を及ぼしてしまうのです。自分の口ひとつで、なにもかもつまらないものにしてしまうわけです。これが自ら苦をつくりだす「苦語」です。それとまったく逆に、どんなことにも満足して、それをいつも口に出して言うことにしている、という方がおられました。毎日の奥さんの料理でも「うまい、うまい」と口に出して言うと不思議においしくなるものだといわれるのです。同じ口から不平の言葉が出るか感謝の言葉が出るかの違いで、人間関係も環境も、まるで違ったものになってしまいます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.27
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HOME > 今日のことば 2/26 Thu耕された心 カルチャー教室が大はやりです。カルチャーとは教養や文化のことで、「耕す」という言葉が語源だそうです。心が柔らかく耕されていてこそ教養ある人といえるのではないでしょうか。よく耕された土は、すべてを受け入れてはぐくみ育てるように、豊富な知識を具えるのは、それによって偏見や固定観念を離れて、ものごとをさまざまな角度から見られるようになるためなのです。ところが、うっかりすると逆に、たくさん詰め込んだ知識をこれみよがしに振りかざして、それで人を見下したり、人の言葉には耳も貸さないという態度をとってしまう人がいるのですね。『法華経』には「諸の有ゆる功徳を修し柔和質直(にゅうわしちじき)なる者」という言葉があります。本当によく耕された人となるためには、知識を学ぶのと一緒に、人に奉仕する実践が必要です。それが功徳を積むことです。人の幸せのために働くことなどなにひとつしようとせず、ただ自分を偉く見せるための勉強であっては、心を耕すどころか、博識で武装した独善的な人間になってしまいます。「学んだことの証は変わることである」という言葉があります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.26
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HOME > 今日のことば 2/25 Wed一か月だけの入会 お釈迦さまの降誕会に、横手教会の教会長さんが、たいへんおもしろい説法をしてくださいました。かつて、教会長さんは会社の先輩に佼成会の道場に誘われて入会をすすめられたのですが、道場の会員さんの姿を見て、「世の中には、こんなにだまされやすい人がいるのか」と、あきれてしまったというのです。しかし、日ごろ尊敬している先輩のすすめなので、断わる口実に「一か月だけでやめさせてもらえますか」と条件をつけて、入会したのだそうです。ところが、『人間らしく生きる』という私の著書をすすめられて読み、大会で私の説法を聞いてすっかり安心してしまい、一か月経って、先輩から「もう一か月経ったんだから、やめてもいいよ」と言われても、やめるどころか、それから二十数年間"ご法漬け"になって、とうとう教会長のお役をさせてもらうようになったという説法でした。道元禅師は「正師を得ざれば、学ばざるに如かず」とおっしゃっています。教えのありがたさは、いっぺんに分かるものではありません。道案内役の私たち一人ひとりが、自ら光を発して道を照らし、案内してあげなくてはならないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.25
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HOME > 今日のことば 2/24 Tue猊下の励まし 山田恵諦猊下に最後のお別れを述べさせていただいて、胸が締めつけられる思いでした。しかし、猊下が笑顔でうなずきながら聞いてくださっているお顔が目の前に浮かんできて、これまでに頂戴した数々のお言葉が、耳によみがえってまいりました。「比叡山の使命は、仏教によって世の人の幸せを願い続けていくことにあります。せっかく人間に生まれてきたのだから、みんなが幸せな人生をまっとうするように祈り、導く。これがすべての宗教の起こりです」「比叡山で修行された祖師方は、自分の派を興(おこ)そうとか、自分の悟りを広めよう、といった気持ちで布教されたのではありません。世の人の幸せをそっちのけにして、教えを広めることが中心になることから過ちが起こるのですよ......」そうした猊下のお言葉のひと言ひと言が、私にとって、なによりもの励ましでした。いまも、猊下は私どもを励まし続けてくださっておられるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.24
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HOME > 今日のことば 2/23 Mon心の奥底の求め アルコール依存症の人や拒食症の少女などを見ると、「こうなっては、とても自分たちの手には負えない」と思ってしまいますが、そうして周囲を拒絶している人も、「私は弱い人間なんだから、しっかり抱いてほしい」と、体で愛を求めているのだと専門の先生からうかがったことがあります。仏さまは「衆生の深心の所行を知つて、通達無礙(つうだつむげ)なり」とおっしゃられます。人は、言ったりやったりすることと、心の深いところで求めているものとが違っていることがしばしばあるのです。みなさんも人に優しくしたいと思いながら、つい邪険にしたり、善いことをしなくてはと思いながら、怠け心に引きずられることがあるのではないでしょうか。とんでもない悪事をおかしてしまう人でも、良心のかけらもないという人はいません。いけないことだと知りながら心ならずも悪に引き込まれて苦しんでいる、その奥底の心を見ようとせずに、表面の言動だけで人を裁いてはならないのです。まず自分自身の心を深く見つめることができなくては、人と苦しみを共にする同悲は生まれません。その慈悲がなくては、人は救えないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.23
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HOME > 今日のことば 2/22 Sunだれからも好かれる人 春四月は、新しい出会いが多い時です。とりわけ若い人たちは、職場での新しい上司や同僚との人間関係が心配で、「人に好かれる方法はないものか」と苦心している人もいると思うのですが、いちばん確実な方法は、こっちが相手を本当に好きになってしまうことです。よく「私はどうして異性にもてないんだろう」と悩んでいる人がいますが、そういう人は、自分のいいところだけを見せようと格好ばかり気にしているのですね。すましこんだり、高尚な話をしたりして、肝心な相手を少しも見ていないのです。それよりも相手を好きになってしまうほうが早道です。人は自分に好意を持ってくれる人を自然に好きになるものなのですから。法華経には、三十三身を現じてどんな人も救わずにおかない観世音菩薩が登場しますが、その名の「観世音」とは、相手の心、相手の願いを見通すという意味です。「私は口下手でお上手を言えないから」とあきらめている人がいますが、「愛語」とは、多く話すより聞くことを多くすることといってもいいでしょう。だれの、どんな話にも親身になって耳を傾けられるようになったら、だれからも好かれる人になります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.22
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HOME > 今日のことば 2/21 Sat仏さまは大衆の中に NHKの大河ドラマ『太平記』の原作者の吉川英治さんが、「われ以外みなわが師」という言葉を生涯のモットーにされていたことは、よく知られています。吉川さんは横浜のドックの職工をはじめとして、二十もの職業を転々としながら独学をされた方ですが、「大衆は大知識」と、よく言われていたそうです。みんなの中に入って、みんなの気持ちで書かなければならない。テクニックではごまかせない、と身をけずる努力をした、と語られています。吉川さんの書かれる文章が大衆に希望を与え、大衆に愛され続けているのは、この努力から生まれたものでしょう。教えてやるのだ、引っ張り上げてやるのだといった姿勢では、多くの人を感動させることはできません。真宗中興の祖といわれる蓮如上人は、「上臈(じょうろう)ふるまひにては成へからす」と、常に戒められていました。貴族ぶったり尊大に構えていると、民衆にそっぽを向かれてしまうと言われ、ご自分も門徒の人たちと席の上下なくすわって、一人ひとりの話に耳を傾けられたのです。その民衆の中にこそ仏さまがいらっしゃることを教えておられたのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.21
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HOME > 今日のことば 2/20 Fri身についた習慣の力 たとえば柔道の投げ技にしても、また野球のバッティングやゴルフのスイングにしても、「こうやるんだ」と教わって、すぐ、そのとおりやれるものではありませんね。毎日、繰り返し繰り返し練習して自分の身について初めて、試合でその技が出てきます。信仰も同じで、理屈は一度聞けば分かりますが、それを本当に自分のものにするには、毎日毎日の行が欠かせません。とかく人は、その気さえあればなんでもできるように錯覚しがちなのですが、習慣の力の大きさを忘れてはならないのです。よい習慣も悪い習慣も、それが身につくと、人の意志も、判断力も、その人の人生までも支配してしまいます。よい習慣が身につくと、ことさら意識して努力しなくても、やすやすと事が成っていきます。逆に、悪い習慣がついてしまうと、自分の意志に反してずるずると引きずられていってしまうのです。毎日出会う人、出合うことに対する見方、考え方、行動が自然に教えにかなうようになっていく習慣づけがどんなに大切であるかが分かります。習い性にしてしまうその訓練の場がサンガであり、道場なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.20
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HOME > 今日のことば 2/19 Thu老けこみ方の違い 私が立正佼成会の会長になったのは三十一歳の時でした。頭も黒々としていたのですが、五十年余も説法してきますと、屋根もだいぶいたんでまいりました。しかし、これは自然現象ですから、ちっとも苦にはなりません。今日まで、人さまに一心にご法を説かせていただいてこれたことがなによりもありがたくて、その日その日に起こったことを日記に書いたあとに、「今日も楽しく終わった。ありがたいお手配だった」と書き加えるのです。こうして毎日の変化を感謝で素直に受け止める生き方が、そのまま「生老病死を度(ど)し涅槃を究竟(くきょう)する」ことだといってもいいのではないか、と私は思うのです。年のわりに老けこんでしまう人と、とてもその年には見えない人とがいますね。その差が、年とともに開いてきて、五十歳を過ぎるとプラス・マイナス十歳以上になるといいます。それは気力の差が大きく影響しているように思えます。どんな変化も感謝で受けようとする心から、謙虚さ、優しさ、楽しさがあふれてきます。幸せの源泉は、そのへんにあるのではないでしょうか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.19
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HOME > 今日のことば 2/18 Wed水勢に逆らわず 全長五四〇〇キロメートルにも及ぶ中国第二の大河である黄河は、中国古代文明の生みの親ですが、暴れ始めると、すべてを押し流す狂暴な川に一変してしまいます。堯(ぎょう)の時代、その治水を命じられた鯀(こん)は、九年もかけて堅固な堤防を築きましたが、出水で決壊し、失敗してしまいます。そのあとを受けた禹(う)は、流れを防ぎ止めようとせず、水勢に逆らわずに水の道を造って誘導する方法で、見事に成功したのでした。人を導くのも同じなのです。人が不平を漏らすのは、何かわけがあるからです。それが自分勝手のわがままにみえても、「不平があるのなら、不平のままでけっこう。みなさんの言いたいこと、聞きたいことを、なんでも話し、聞かせてください」と、まず耳を傾けていく。そんなことは取るに足りないことだと押さえつけようとすると、表面は従っているようにみえても、内に鬱積したものが、いつか爆発してしまいます。もつれた糸をじゅんじゅんに解いていってあげるのが、上に立つ人の役目です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.18
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HOME > 今日のことば 2/17 Tue自らを度す心 ご主人のお酒やたばこの量を、なんとかして減らしたいと願っている奥さん方が多いのではないでしょうか。経済的なこともさることながら、なによりもご主人の健康が心配で、つい口うるさく言ってしまうのですが、なかなか聞いてもらえません。子どもの勉強も同じで、口で言って聞かせて、すぐにやってくれるのなら苦労はないのですが、そうはいきません。人は自分がその気にならないかぎり動きだすものではないからです。どうしたら、その気になってもらえるかです。一日に百本も吸っていたたばこをやめようとして何度も失敗していた人が、きっぱりとたばこをやめることができたという話を聞きました。その決め手になったのは、隣の部屋で奥さんが、「お父さんは、たばこをやめて今日でもう十日目ね。尊敬するわ」と、子どもたちと話しているのを聞いたことだったというのです。その、たったひと言が、なによりもの励ましになったわけです。『無量義経』には、この経は「菩薩の未だ発心(ほっしん)せざる者をして菩提心を発(おこ)さしめ」とあります。「自ら度する心を起こさしめる」秘訣は、このへんにありそうです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.17
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HOME > 今日のことば 2/16 Mon人の喜びを喜べる人 「妻の前で、間違っても他の女性のことをほめないことにしているんです」と言う人がおられました。ご主人のお母さん、つまり奥さんにとってはお姑さんの料理をほめても、奥さんが自分へのあてつけのようにとって、ひがむというのです。女性のひがみとはちょっと違うかもしれませんが、人の喜びをわが喜びとし、人の苦しみ悲しみをわが苦しみ悲しみとすることは難しいことなのですね。人の苦しみに同情することはできても、人がほめられたり、抜擢されて昇進したりするのを心から喜んであげるのは至難なことなのです。口では「おめでとう」と言いながら、心の中は「あの人がほめられるくらいなら、私だって」という思いがわいてくるのです。人は自分では気づかずに人のアラを探す虫眼鏡を持ち歩いているといいます。自分よりかなりすぐれた人を見ても、「まあ、私と同じくらいかな」としか見えない。自分と同じ程度の人は、はるかに下のように見えてしまうわけです。人の喜びをどれだけ喜べるかが、自己中心をどれだけ克服できているかのバロメーターになるのではないでしょうか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.16
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HOME > 今日のことば 2/15 Sunお手本の大切さ よく人さまから「開祖はどんな人に会ってもよいところを見られ、どんなことに遭っても、いいほうに解釈されますが、何か秘訣があるのですか」と尋ねられることがあります。秘訣といえるかどうか知れませんが、私はいつも、仏さまなら、こういう人にどう対されるか、こういうことに対してどう考えられるかと思い起こして、その真似をさせてもらおうとつとめてきました。子どもは親の真似をして大人になりますね。弟子はお師匠さんをそっくり見習って一人前になっていくわけです。みなさんも、「あの人のようになりたい」と思うお手本があったら、そっくりその人の真似をしていれば、いつのまにかそうなってしまうのです。毎日出会う人、出合う出来事の一つ一つを、経典に照らしてそこに示されたとおりに実行していくのが、本当に法華経を読誦すること、つまり身読です。約二千五百年前に入滅された仏さまは、私たちの肉眼では見ることはできませんが、経典に示されたとおりに実行すると、目の前にその仏さまがありありと
2015.02.15
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HOME > 今日のことば 2/14 Sat仲間との出会い 毎朝のテレビ小説を見ていても、「こういう考え方になれば、あの人もすぐ幸せになれるのに」と、歯がゆくなることがあるのですね。みなさんのまわりにも、そういう人がおられると思うのです。狭い自分の見方・考え方に凝り固まって、自分で苦しみをつくりだしているわけです。そういう人を、自分の力だけでは説得する自信がなくても、「道場にご案内すれば、教会長さんがおられる、支部長さんがおられる、親身になって心配してくださる仲間がたくさんいる」と信じきっていれば、ひと声かけて法座にお連れしないではいられなくなります。みんなの力で、そういう本物のサンガをつくりだそうではありませんか。「大歓喜を生じて自ら当に作仏すべしと知れ」という言葉が『法華経』の「方便品」にあります。腹の底から揺さぶり動かされるような感動を覚えると、人は百八十度変わってしまうのです。その感動というのは、人と人の心が本当に通い合ったときに生まれます。それが魂の出遇いであり、道場がその出遇いの場になってこそ本物のサンガといえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.14
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HOME > 今日のことば 2/13 Fri本物の魅力 ご命日の説法で、福岡教会の支部長さんがこんな話をされました。支部長のお役の声がかかって迷っているとき、銀行の支店長をされているご主人が、こんなアドバイスをしてくださったというのです。「お役を離れても、どれだけの人が本当に自分を慕ってくれるか。その、人間の本当の魅力を身につける修行をするつもりなら、お役を受けさせていただきなさい。私も職場でそれを心がけているんだよ」と。人を救う菩薩の四つの資格の一つに、「同事」ということがあります。同事とは、相手と同じ立場に身を置くことです。観世音菩薩はその人その人にふさわしい姿で身を現わされて、「つらいね」と隣で言ってくださいますね。高みに立って「こうしなさい」とは言われません。いつも人さまと同じ立場に身を置いて、一緒に仕事をさせてもらっていると、それぞれの人が口には出さなくても、胸にさまざまな思いを抱いているのが見えてきます。その思いを本当に分かってあげられる人間になりたいと努力していくのが、本当の人間の魅力を具える修行です。菩薩行の目標はそこにあります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.13
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HOME > 今日のことば 2/12 Thu意柔軟(こころにゅうなん)でいられる秘訣(ひけつ) 先日、ある新聞社から「あなたの好きな言葉」「座右の銘」ともいうべきものがあったら、六百字ほどの原稿にまとめてほしいという依頼がありました。私どもが所依の経典としている『法華経』には、すばらしい言葉がたくさんあります。その中から私は「意柔軟」という言葉を選んで、原稿にまとめました。意柔軟とは、心が柔和であることで、がんこの反対です。これは軟弱とはまったく違います。真理に対して素直であり、従順であることです。とりわけ昨今は自己主張と対立に明け暮れる人びとが多くなっているように思えるのですが、それは、なんでも枠(わく)にはめ込んで考え、自分の主義主張に凝(こ)り固まっているからではないでしょうか。そのため素直に相手の意見に耳を傾けることができない。これでは自分の進歩向上は望むべくもありません。自分のいるそのすべての場所が道場であるという考え方は、意が柔軟であってこそ可能になります。それでなくては、一切から学ぶという姿勢、いたるところが道場であるという考え方は生まれてこないのです。それが生涯(しょうがい)教育だといってもいいと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.12
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HOME > 今日のことば 2/11 Wed仏になる教育 教育の目的は、知識の習得だけでなく、立派な人間をつくることにあります。人格完成こそが教育の究極の目的です。その人格の完成は、ただ知識を詰め込むだけでできるものではありません。宗教的な情操教育が伴わなくてはならないのですが、その宗教が教育界で軽視されているのが現状ではないでしょうか。人格の完成とは、仏教の言葉で言えば「仏になる」ことです。人間は本来的に一人でいることができない存在です。人と一緒に社会をつくって生きていく。そのためには、社会のしつけをしっかり教えなくてはなりません。第一に、自分のものと人のものの違いをしっかりと教えること。それから、自分の力で立つこと。転んでも自分で起きること。そして、人は一人で生きていけないのですから、まず人のことを考えること。それを教えるのが、そのまま宗教教育であるといっていいと私は思うのです。大学出の秀才なのに自分のことばかり主張して人に嫌われ、相手にされない人がいます。それでは大学まで出てもなんにもなりません。宗教教育の必要性は、ますます高まっているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.11
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HOME > 今日のことば 2/10 Tue無舌居士(むぜつこじ) 幕末から明治にかけての噺家(はなしか)・三遊亭円朝(さんゆうていえんちょう)師匠は、自作の人情噺や怪談噺で人びとの人気を博しましたが、この円朝師匠は天竜寺管長の滴水(てきすい)和尚から「無舌居士」という居士号を贈られています。噺家にとって舌ほど大切なものはありません。その噺家に滴水和尚は「舌頭(ぜっとう)を離れて話す」という公案(こうあん)を与えたのです。それは、技巧に走って舌先だけで話すことを戒(いまし)め、ただ無心に、自分がしゃべっているという意識さえもなく噺と一つになる噺家をめざせ、といった意味だったのでしょう。当時、得意の絶頂にあった円朝師匠が、それを流暢(りゅうちょう)な舌に頼って驕(おご)ってはならぬという戒めとさとったときに、滴水和尚は円朝師匠に無舌居士の号を贈ったのでした。私たち宗教者も、うっかりして真心の伴わぬ舌先だけの説法になっていることはないか、自らを戒めたいものです。マンネリ化した建て前だけの言葉で話していることはないか、常に自分を振り返って戒めなくてはなりません。口先だけで人を真の覚醒(かくせい)に導くことはできません。心したいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.10
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HOME > 今日のことば 2/9 Monまず人さま 佼成会を創立したばかりのころは、私はまだ牛乳店をやっていたのですが、朝から晩までご法のことばかりしているものですから、仕事のほうは手抜きになってしまい、営業成績はどんどん落ちていってしまいます。一家の家計を預かる家内が不安がって、「お父さん。信仰もいいですが、これでは困ります。いいかげんにしてください」と苦情が出始めます。その家内に、私は「己を無にして人さまのことを考えるのが菩薩行(ぼさつぎょう)というものなのだよ」と言い聞かせるのですが、家内は、「あすのお米もないというのに、少しは家のことも考えてからにしてください」と反論します。そこで私はさらに、家内にこう言って聞かせたものでした。「よく考えてごらん。人はみんな自分を第一にして生きているけれども、それでもなかなか思いどおりにいかずに苦しんだり、争ったりしているのだよ。自分中心では決して幸せにはなれないと、みなさんが教えてくださっているのだ。教えどおりに、まず人さまと考えていればなんの心配もいらないのだよ」と。それは、いまも少しも変わらぬ私の確信なのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.09
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HOME > 今日のことば 2/8 Sun仏祖に至る道 祖師仏教という言葉があります。道元(どうげん)禅師、法然(ほうねん)上人、親鸞(しんらん)上人、日蓮(にちれん)聖人などを祖師とする仏教のことで、それぞれの時代の民衆に対して祖師方が、自分の信念と情熱を傾けて仏さまの教えの神髄(しんずい)を説かれたのが礎となって各宗派が生まれ、今日に至っているわけです。ところがつい最近まで、同じお釈迦さまの教えを説きながら互いに反目したり、なかには、お釈迦さまよりお祖師さまのほうが偉いのだと平気で言い、そう信じている人もたくさんいました。しかし日蓮聖人は、お釈迦さまを「教主」とされ、教えの主であるお釈迦さまあっての仏教であり、そのお陰の自分であると明言しておられます。仏祖(ぶっそ)あっての祖師ということになりましょう。私たちは、そのお祖師さまを通してお釈迦さまの教えに直参(じきさん)することこそ大切です。それであって初めて同じ仏教徒として共通の理想をめざすことができます。そして、その教えの神髄を極める努力の中で、世界の他の宗教とも力を合わせていくことこそが宗教のあるべき道であると理解できていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.08
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HOME > 今日のことば 2/7 Sat三振覚悟の空振り 南海ホークスの名監督といわれた鶴岡一人(つるおかかずと)さんが、こんなことを言われていました。「ここ一番というときにピンチヒッターに立てたバッターが、見逃しの三振をくったときほど監督として腹立たしいことはない。せめてバットを思いきり振って三振したのなら納得がいくが、バットを一度も振らないで三振する打者を見ると、『球は振らなきゃ当たらんのだ』と蹴飛(けと)ばしたくなる」というのです。このたびの米国大使館員人質事件の解決のために私が駐日イラン大使館に何度も足を運んで働きかけ、ホメイニ師が招集する「米国のイラン介入を討議する国際会議」出席のためイランを訪れることを決めたのも、それと同じ気持ちからでした。宗教者の私が、そういう国際会議に出席するのは場違いの感もしましたが、このままでは中東の危機がいつ大きな戦争になるかしれません。私たちが世界宗教者平和会議を推進しているのも、こういう危機回避の仲立ちをする使命が宗教者に与えられていると考えるからにほかならないのです。私は思い切って大きな空振りをする決心でイランの会議に参加し、その宗教者の無欲さが一つの成果につながったと信じているのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.07
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HOME > 今日のことば 2/6 Friせちがらい世にも このせちがらい世の中で人のことなどかまってはいられない、自分の得になることならするが、ちょっとでも損になることは知らぬ振りをする、というのが大方の人の生き方でしょう。せちがらい世の中とは、世渡りの難しい社会といってもいいでしょう。自分を第一にしなければ負け犬になってしまうと考えるのは当然かもしれません。とりわけ現代の社会はそれが顕著で、その中で「世のため、人のために奉仕する」といった生き方は一見、愚かなことのようにも見えるのですが、しかし、よく考えてみてほしいのです。人間は有史以来、物心両面の幸福をめざし、平和でありたいと願って必死に生きてきたのに、いまもってこの世界から争いはなくならず、不幸はあとからあとからふりかかってきます。いや、幸福を求めれば求めるほど、さまざまな形で新しい不幸が増えていくのです。その原因をよくよく突き詰めていくと、それが自分だけの幸福を求めた結果であることに気づかされるのです。理屈が達者で小賢(こざか)しさばかりが目立つこの世で、他のために尽くす大愚(たいぐ)に徹するのが仏道であり、そこにしか真の幸せに至る道はないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.06
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HOME > 今日のことば 2/5 Thu深く因果(いんが)を信じ 人間にはだれしも欲があり、自分勝手を通したいエゴイズムがあります。ですから、どうしても目先の利害得失にとらわれ、因果の道理を忘れがちになってしまうわけです。正直なところみなさんも、うまく立ち回って甘い汁を吸っている人を見たりすると、因果の道理など本当に存在するのだろうかと疑問を抱いてしまうこともあると思うのです。仏さまの教えどおりに正直に人さまへの奉仕を先にする生き方をしていたのでは、この社会で自分だけ遅れをとるのではないか、と心がぐらつくこともあるかもしれません。それでつい、自分の欲を満たしたい、楽をしたいといった願いにひきずられ、立派な家に住み、ぜいたくな生活をしている人と自分を比べてうらやみ、ねたむといったことになってしまうわけです。そういう人に対して、経典には、きわめて大切な言葉が説かれています。「仏説(ぶっせつ)観普賢菩薩(かんふげんぼさつ)行法経(ぎょうぼうきょう)」の「深く因果を信じ、一実の道を信じ、仏は滅したまわずと知るべし」という一節がそれです。仏教徒の私たちにとって、仏を信じ、因果を信じ、ひたすら菩薩道をあゆむ以外に、幸せに至る道はないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.05
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HOME > 今日のことば 2/4 Wed理屈より実践 浄土真宗の真溪涙骨(またにるいこつ)師は「人生語録」にすばらしい言葉を遺されています。「実践に理屈なし。問うの無用、答うるの無用。ただ『捧(ささ)ぐる』の一事あるのみ」というのもその一つです。なぜ善いことをしなければならないのかと問うのも無用、功徳を積みたいからと答えるのも無用、菩薩行(ぼさつぎょう)には理屈は不要だというのです。シンガポールで第一回アジア宗教者平和会議が開催されたその会議のさなか、私たちはベトナムからボートで逃れ出る難民の救援に取り組みました。雨期が迫っていて、放っておけば海の藻屑(もくず)となるのが目に見えていたからです。その宗教者の救援活動に対して、「ボートピーブルは体制からのはみだし者だから援助すべきではない」とか、「ボートピープルはベトナムの内政問題であって干渉すべきではない」と、国際通を自ら任じて講釈する人たちがいました。しかし、そうした高邁(こうまい)な理論を振り回すよりも、自分の目の前に救いを求め、懐(ふところ)に飛び込んでくる窮鳥(きゅうちょう)がいたら、なんとしてもそれを救おうと力をふりしぼるのが人の道なのではないでしょうか。宗教者の実践は、これあるのみです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.04
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HOME > 今日のことば 2/3 Tue真珠貝の心 節分には、「福は内、鬼は外」と唱えて豆まきをしますが、その鬼はどこにいるかというと、自分の心の中にいるのですね。みんな、自分の見方、考え方の癖で苦をこしらえているのですが、それに気づかずに、あの人のせいだ、この人のせいだと、まわりのせいにしてカッカし、イライラしている。それでニョキニョキと角が生えてしまうのです。その鬼になっている自分が見えないのです。ですから、いつもそばについていてくれて、「ほら、それが鬼の心ですよ。その心が不幸を呼んでしまうのですよ。見方をこう変えると福の神がくるんですよ」と教えてくれる、いわば人生のコーチが必要なのです。そういうコーチがいないと、自分の心に住みついた鬼をなかなか追いだせないわけです。幸福を呼ぶ心とは、たとえば真珠貝が異物が自分の中に入ってきてもそれを幾重にも包んできれいな真珠にしてしまうような心だ、と教えてくださった方がいます。おもしろい譬えではないですか。鬼の心を真珠貝の心に切り換えさせてくれるのが、サンガの仲間同士の磨き合いです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.03
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HOME > 今日のことば 2/2 Mon福が福を生む 節分を迎えると、どこの家でも「福は内」「鬼は外」と大きな声を張り上げて豆まきをしますが、こっちの家も、あっちの家も、わが家だけで福を独り占めしようとしたのでは、せっかくの福が、逆に、みんなこぼれていってしまうのではないでしょうか。二宮尊徳翁に「富者の道は推譲」という教えがあります。天の恩、地の恩、人の恩を心に刻んで、その恩に報いるのが譲です。商売で成功している人を見ると、利にさとく才覚のある人よりも、意外に不器用な人が多いそうです。儲けを独り占めしてしまうのではなく、人さまの取り分も残しておいてあげる、福を人さまに分けてあげる。すると、福が福を生んで自分のところへ帰ってくるのです。菩薩行とは、悪条件も苦にせずに喜んでやらせてもらうこと、といってもいいと思うのですが、こっちが人さまにも福を分けさせてもらおう、という考えになると、まわりから自然に事がうまく運ぶように、順序が整ってくるのです。商売も菩薩行も一つなのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.02
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HOME > 今日のことば 2/1 Sun国際法による秩序 イランの石油はほしいが、さりとて米国の機嫌を損(そこ)ねてもまずいというので、日本は板ばさみになって苦しみました。こちらを立てればあちらが立たずというケースは、狭(せま)くなった地球上では、これからも頻繁(ひんぱん)に起こると思われます。昨年の暮れ、イランの首都テヘランで米国大使館がイランの大学生によって占拠され、大使館員が人質として拘束(こうそく)されるという事件が起こりました。この米国大使館占拠事件に対して日本政府が事態に即応できずに静観したのも、現在の日本が全石油輸入量の一割をイラン石油によっていることが原因の一つだったと思われます。しかし、世界には国際法というルールがあります。みんなが交通ルールを守り、信号どおりに行動すればこそ全体の安全と秩序が確保できるように、国際法も世界の国々がそれを守ってこそ平和が保たれます。米国大使館の占拠は明らかにルール違反であり、国際正義にもとる行為です。このような無法行為が世界中に広まれば、世界の秩序は崩れさってしまいます。それを黙視して自国の小さな損得勘定に走るか、平和を守る国際正義に立つか、道はおのずから明らかです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.01
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HOME > 今日のことば 2/1 Sun国際法による秩序 イランの石油はほしいが、さりとて米国の機嫌を損(そこ)ねてもまずいというので、日本は板ばさみになって苦しみました。こちらを立てればあちらが立たずというケースは、狭(せま)くなった地球上では、これからも頻繁(ひんぱん)に起こると思われます。昨年の暮れ、イランの首都テヘランで米国大使館がイランの大学生によって占拠され、大使館員が人質として拘束(こうそく)されるという事件が起こりました。この米国大使館占拠事件に対して日本政府が事態に即応できずに静観したのも、現在の日本が全石油輸入量の一割をイラン石油によっていることが原因の一つだったと思われます。しかし、世界には国際法というルールがあります。みんなが交通ルールを守り、信号どおりに行動すればこそ全体の安全と秩序が確保できるように、国際法も世界の国々がそれを守ってこそ平和が保たれます。米国大使館の占拠は明らかにルール違反であり、国際正義にもとる行為です。このような無法行為が世界中に広まれば、世界の秩序は崩れさってしまいます。それを黙視して自国の小さな損得勘定に走るか、平和を守る国際正義に立つか、道はおのずから明らかです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.02.01
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HOME > 今日のことば 1/31 Sat力による恫喝(どうかつ)の愚かさ 先ごろ、私はソ連のブレジネフ書記長に対して、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の非なることを訴え、即時撤退を要望する抗議文を送りました。それは螳螂(とうろう)の斧(おの)の譬(たと)えのように微々たる影響力しか持たないかもしれません。しかし私たちは、力による制圧は決して人びとの支持を得られないことを知ってもらうために、くじけることなく訴え続けなければならないと思うのです。これは、一方の側に立って相手を非難するというのではありません。武力によって人びとを抑えつけ、苦しめ、他の幸福を奪ってまで自国の安定をはかろうとしても、それはむなしい努力に終わることを分かってもらうためなのです。この一年間に世界の何人もの権力者が、暴政のためにその地位を追われています。なんとはかない権力の末路ではありませんか。それは、力による恫喝や脅迫によって望みを遂げることが不可能であることを如実に物語るものです。かりに一時的には権力によって人びとを従わせることが可能のように見えても、長期的に見れば、自分を孤立させ破滅に導くものであることを知らなくてはなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.01.31
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HOME > 今日のことば 1/30 Fri善因(ぜんいん)は必ず善果(ぜんか)に 善因は善果をもたらし、悪因(あくいん)は悪果(あっか)を招くという考え方をすべきです。しかし、現在の世の中を見ていると、必ずしもそのとおりになっていない場合があるように思う人も多いかもしれません。目の前のことだけを見ていると、「善因を積んでも少しも善いことがなく、悪いことをして平気で大手を振って歩いている人がいるじゃないか」と納得できないこともありましょう。たとえば政治の世界でも、何億というお金を受け取っても収賄(しゅうわい)罪に問われることがなかったり、清潔な選挙をした候補が落選して不正行為をした候補が当選するといったことが、あまりにも多いのは事実です。それで、善因善果、悪因悪果といっても、もうひとつ説得力がないようにも思えるのですが、五年、十年という長い年月をとおして見ると、その因果の道理のとおりになっているものです。ですから私たちは、まず道理がきちんと通用する健全な社会をつくる努力と同時に、時の経過によって必ず善因は善果に、悪因は悪果となって現われることをいつも忘れずに毎日を送ることがなによりも大事だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.01.30
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HOME > 今日のことば 1/29 Thu生かされている者同士 すべての宗教は「汝(なんじ)の敵を愛せよ」と教え、「すべてに慈悲を」と説いています。その教えが人間にとってなによりも大切なものであることはだれもが知っているのですが、その教えを、みんながすぐに実践できるのであれば、この世界は、とうの昔に平和境に変わっていたはずです。世界の宗教者が集まる会議では「神はただ一人だが、呼び名は多い」といった言葉をしばしば聞かされます。神といい仏といっても、究極のところは「天地のすべてのものを存在させている大いなる生命」といえると私は考えるのです。そして、真実の信仰とはその大生命に生かされていることを実感して、その大生命の法則に随順(ずいじゅん)して生きようと努力する、その生き方にあるといえると思うのです。ですから、拝めばお金が儲かるなどといったものでは、決して真の信仰とはいえないわけです。この社会、世界のすべての人たちが、大生命にともに生かされている同士なのだと心の底からうなずけるようになって初めて、隣人への愛、生きとし生きるものへの慈悲心がわいてきて、それが実践行へとつながっていくのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.01.29
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HOME > 今日のことば 1/28 Wed親のうしろ姿の教化(きょうけ) 私の家には孫が四人、一緒に暮らしております。まだ小学校や幼稚園に通っている子たちですが、私がご宝前(ほうぜん~仏壇のこと)でご供養をするときには、孫たちも一緒にすわって、読経(どきょう)するのです。なにしろ大家族ですから、それは賑(にぎ)やかで、家族全員がそろったかどうか点呼をとる、といった愉快で和(なご)やかな情景が生まれるのです。朝早くからの毎日の読経供養は、まだ小さな子どもたちにはかわいそうかなとも思いましたが、そうして家族がそろって仏事を行じ、読経の席に連なる敬虔(けいけん)な雰囲気(ふんいき)の中に身を置くことが全人(ぜんじん)教育の一つになると私は考えているのです。また、その毎日の行が、子どもたちの忍耐力をつけさせることにも役立つと思うのです。といっても、私の家でそうしているからといって、みなさんのうちでもそうしなくてはならないと、嫌がる子どもを叱りつけて無理やりすわらせるといったやり方では、逆に反発をつのらせるだけで、本当の教化にはなりません。やはり、親が毎日行じるそのうしろ姿を見せて、次第に感化していくことが大切だと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.01.28
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