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今日のことば「いただき方を知らぬ人」 最近はグルメブームというのでしょうか、おいしい店の紹介や、料理に関する本がたくさん出版されているようです。また外国に出かける人も増えて、各国の料理の作り方や、外国の有名なレストランまで、いろいろ紹介されています。 それで、最近は食事についてうんちくを傾ける人は多いのですが、逆に、心から感謝して食事をいただく人は少なくなっているのではないでしょうか。 世界でいちばんおいしい料理の名前は「空腹」という料理だと言われます。本当にお腹がすいているときには、何を食べてもおいしいものです。捕虜生活を送った人が、「パンの耳がこれほどうまいものだったのかと初めて知った」と書いている文章を読んだことがありました。 いまの日本は、世界中からおびただしい食材を輸入しているのですが、その多くが食べ残され、捨てられているのだそうです。臨済宗の松原泰道(まつばらたいどう)師は、「『食べ方』を知っている人はいくらもいるが、『いただき方』を知らぬ人が増えている」と言われています。まさにそのとおりで、まことに残念なことです。 庭野日敬『開祖随感5』78~79頁より
2021.01.20
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HOME > 今日のことば7/7 Thu一票の行使 宗教は、私たちが毎日生活しているこの社会をよくするためにあるものです。つまり世直しが目的です。それは、ただ祈るだけでは実現しません。祈りはもちろん大切ですが、「よい社会になりますように」と、ただ祈るだけで、現実の社会がすばらしい社会に変わるものではありません。社会を大きく動かすいちばんの力は政治です。ですから、なによりもまずよい政治が必要なのです。その政治は、どのような政治家を選んでまかせるかにかかっています。そう考えてくると、選挙の大切さがよく分かってきます。私たち一人ひとりが責任を持って選挙権を行使することによって、国のために本当に役立つ人を国会に送り出すことができます。一票の行使によって国民の意思を国政に反映できる貴重な権利をむだにしてはならないのです。選挙のたびに、おもしろ半分で立候補する人がおり、また、おもしろ半分で投票する人がいますが、政治を甘く見すぎると、そのつけは自分に回ってきてしまいます。政治がだらしないと非難するよりも、そうした人物を選んだ自分たち自身を反省すべきなのです。 庭野日敬著『開祖随感』
2016.07.07
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HOME > 今日のことば2/9 Tue 私がいつも「いまの日本ほど自由な国はない」とみなさんに申し上げるのも、実際に私が外国のさまざまな国を訪れて、自分の目で見、そう実感しているからです。社会主義国や軍事政権下の国々に比べれば、日本は自由すぎるほど自由です。むしろ自由と責任のバランスが失われて、自由放題に傾いてしまい、ゴネ得がまかり通って正直にこつこつ働くむなしさを感じている人も少なくないように思うのです。仏教では、自由には必ず自在をつけて自由自在といいます。自由とは自らに由ること、つまり自灯明(じとうみょう)です。そして、その自分は、常に法を灯明としている自分なのです。法とは宇宙を貫く真理のことで、私たちの体も心も、その真理の働きによってつくられ、動いています。また、まわりの社会も、天も、地も、草木も、動物も、この真理の働きによっているのです。つまり、法とはこの世のすべてのものを生かす大生命であり、その中に自分があるときに真の自由、主体性が確立するわけです。これが「随処に主となる」ことです。自らが主体性を持って「主となる」ところに貪欲(とんよく)の奴隷(どれい)から解放された自由の境地が生まれるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2016.02.09
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HOME > 今日のことば 11/18 Wed 正直が人間の道 どんなときも正直で、うそがないのが信仰者にとっていちばん大事なことではないでしょうか。いつも自分のありのままをさらけ出していれば、こんな楽なことはありません。 よく信仰をすると窮屈だという人がいますが、それは自分をことさら立派に見せなくてはと無理をしているからです。いくら言葉を飾って立派に見せようとしても、メッキはすぐにはがれてしまいます。いつも自分のありのままを出していれば、なんの窮屈も感じません。それで、自分に欠けているところがあれば、人さまがそれを教えてくださって、自分がだんだん本物になっていくわけです。 とは言っても、なんのうそもなく自分の裸(はだか)をさらけ出すのは、そうたやすいことではありません。つい、自分のいいところだけを見せたいと、とりつくろうのが世間一般でしょう。そのお体裁をぬぐいさって、いつも正直に生きるためには、絶対に信じられる対象を持ち、信じきれる仲間を持つことが欠かせません。 正直とは、人間の道にピタリとはまっていることであり、神仏に直結していることなのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.18
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HOME > 今日のことば 11/16 Mon ご恩報じ 八十八歳の誕生日を全国の会員のみなさんに祝っていただいて、私がなによりもうれしかったのは、みなさんが現在の幸せを報告してくださる、その喜びの笑顔でした。人さまの喜びのお手伝いができる幸せを、あらためてかみしめさせていただきました。 私の生まれ故郷は、一年の半年近く三メートルもの豪雪に埋もれてしまうのですが、その雪の下で、村の人たちは助け合って暮らしていました。私の家は十二人もの大家族でしたが、ついぞ、いがみ合うといったことはありませんでした。小学校に入ると、校長先生が神仏を拝む大切さを教えてくださいました。そして、ご法を通して出会うことができた数えきれない方々のご恩によって、今日の私があります。 「自分の受けた恩を一つ一つ数え上げたら、お返しできたことのあまりの少なさを思わずにいられない」とおっしゃる方がおられます。 山のようなご恩をいただいて生かされてきたこの命を、一日も長く生きて、ご恩報じをしなくてはと思う一日一日です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.16
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HOME > 今日のことば 11/14 Sat われの力にあらず 九十歳の私の誕生日をみなさんにお祝いしていただいて、あらためて思うのは、「われの力にあらず」の一事です。 この時代に、この国に生を享け、数かぎりない人びととの出会いによって頂戴できた力によって、今日の私があります。 人ばかりではありません。まわりのあらゆるものに生かされて、こうして毎日を過ごせる自分を思うと、お会いする一人ひとりの人に、周囲の一つ一つの物に、心から合掌せずにいられません。 幼いころ祖父のひざに抱かれて、「世のため人のために役立つ人間になるんだぞ」と言い聞かされた言葉が、年とともに、重みを増してくる思いです。まだがんぜない子どもの私に、その言葉の意味が本当に分かるわけはありません。しかし、それを繰り返し繰り返し言い聞かされているうちに、その言葉が体にしみついて、いつのまにか、それが私の人生の方向をきめてしまったように思うのです。 心から「ありがたい」と言えることが、どんなに幸せなことか……。道元禅師がおっしゃられた「万法に証される自分」を知ると、なすべきことは報恩行ただ一つです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.14
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HOME > 今日のことば 11/13 Fri 後押しされる幸せ 私は、初めから宗教者になろうと考えていたわけではなく、ただ、さまざまな苦しみを抱えている人を救う教えはないものかという探究心と、私のような者でも人さまのお役に立てるならという、ただそれだけの気持ちでした。 ですから立正佼成会を創立してからも、みなさんのお布施で生活する気持ちにはなれず、当初は、あくまでも働きながら布教をするという姿勢をくずさなかったものです。私が三十七歳のときに最初の本部道場が建てられて、そのとき、会員のみなさんから「会長が牛乳配達をしていたのでは困る」という声が出、それでようやく牛乳店をやめてご法一筋の生活に入ったのですが、それでもまだ、会員のみなさんのお布施で生活するのを潔しとせず、「仏飯(ぶっぱん)を頂戴(ちょうだい)するからには不惜身命(ふしゃくしんみょう)の心構えでなくてはならない」という決意にいたるまでに、かなりの葛藤(かっとう)を重ねたものでした。 六十八歳の誕生日を迎えてあらためて振り返ると、私はみなさんに背中を押されて宗教者にしていただき、平和のために世界を飛び回れる最高の日々を送らせてもらっているわけで、感謝以外のなにものもありません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.13
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HOME > 今日のことば 11/11 Wed 握りこぶしはない 本会にもマスコミ関係の方がしばしば取材にきますが、異口同音に、「佼成会は開放的で、自由に取材をさせてもらえてありがたい」と言ってくださいます。特別な霊能力によらなくては救われないとか、秘密の教えで成り立っている教団であれば、取材されては具合が悪いということもありましょうが、佼成会には、そういうものは一切ありません。 たくさんの教団の中には、神秘性で権威づけて「知らしむべからず、よらしむべし」といった一方的な信者への押しつけで、どんな批判も許さず、教団の絶対性を保とうとしているところもあるかもしれません。しかし仏教の教えは、いつでも、どこでも、だれにでも「なるほど」と納得してもらえる教えです。そして、すべての人を等しく真の幸せに導くことができるという意味で、絶対の法なのです。 お釈迦さまは「私には、隠している握りこぶしはない」と語っておられます。自分だけが握っていて人に明かさない秘密の法など私にはなく、すべてを説き明かしたとおっしゃられるのです。その教えをしっかりと持(たも)ってこそ、国民皆信仰を呼びかけられる宗教教団となるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.11
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HOME > 今日のことば 11/10 Tue 先に憂い後に楽しむ 後楽園というと、みなさんは野球場を思いだされると思いますが、元は、水戸の殿さまによって造られた庭園の名前で、中国の「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という古い言葉から、そう名づけられたと聞いています。 「先憂後楽」とは、国を治める者は民に先立って憂い、民に後れて楽しまねばならぬ、という意味です。民に後れて楽しむとは、民が喜ぶのを見て自分の喜びとすることで、為政者にとって大切な心構えです。 逆に言うと、民に先んじて自分だけが楽しむような為政者であっては失格ということになります。為政者、政治家にかぎらず、先憂後楽は人を導くリーダーのすべてが心すべきことでありましょう。 あの人、この人のことを、自分のことより先に心配してあげる。なんとしても幸せになってもらわなくてはならないと、その道を教えてあげ、その人が幸せになった姿を見て「本当によかった」と心から喜ぶ。そういう人になりたいものです。 それこそ、仏さまのお慈悲の眼を持った人でありましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.10
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HOME > 今日のことば11/6 Fri取り越し苦労先を見越して準備を怠らないのは大事なことですが、その度が過ぎると、不安ばかりがつのってしまいます。私は、人から楽天家だとよく言われるのですが、楽天家になる秘訣は、自分にできる精いっぱいの努力をしたら、あとは仏さまにおまかせしてしまう。仏さまは必ず最良の答えをくださる、と信じてしまうことだと思うのです。「自分の努力、人さまの助け、そして神仏の加護がなくては事は成らない」と山田恵諦猊下は、いつも教えてくださっていました。あれこれと心配しすぎるのは、全部自分でやらないと気が済まない、自分の力ですべては成るもの、と思い込んでいるからではないでしょうか。みなさんも、過ぎてしまったことを振り返ってみると分かると思うのですが、あれこれ心配したことの九割方は、取り越し苦労だったはずです。野球のピッチャーでもそうですが、全部のバッターを三振に打ち取ろうと力まずに、打たせて味方に守ってもらう、という生き方を覚えてしまうと、肩の力が抜けて、自分の持てる力を、ありったけ出しきれるようになってくるのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.06
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HOME > 今日のことば 11/5 Thu 自分を磨く荒砥 『菜根譚(さいこんたん)』という書があります。中国の古い時代の書で、すぐれた処世哲学が説かれているのですが、その中に、「耳には耳の痛いことばかり。胸には無念なことばかり。それがわが玉を磨く砥石となる」という言葉があります。その言葉を、会社に入社した青年時代から五十年間、つらいことがあるたびにかみしめ直してきた、という経営者の方がおられました。 「毎日、もう嫌なことばかりだ」と腹を立てて過ごすか、耳に痛い言葉も自分を励ます言葉としてかみしめていくかで、その人の人生が、まるで違ったものになってしまうのではないでしょうか。 うれしくなるような言葉は、めったに聞けるものではありません。躍り上がるような喜びは、そうあるものではありません。入社したばかりの新人時代は、つらいことやくやしいことばかりのように思えても、それを素直な心で受け止めると、その一つ一つが貴重な教えになっていくのです。 自分を磨いてくれるお師匠さんが、まわりにたくさんいるのですが、それを善き師、善き教えにしていけるかどうかの決め手は、やはり素直な心になれるかどうかにあると思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.05
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HOME > 今日のことば 11/4 Wed 一家の心棒 子どものころの私にとって、父は最高のお手本でした。いつも体の弱い母親を気遣い、難しい仕事は自分が全部引き受けて、それぞれの子どもの分に応じた仕事を、手をとって教え、覚えさせていくのです。父にそうして厳しく仕込まれたお陰で、私は、のちに上京して奉公するようになっても、奉公先の仕事がまことに楽なものでした。 理想の父親像についていろいろに言われていますが、最近、父親の影響力が弱くなっている原因は、父親が自信を失ってしまっていることにあるのではないでしょうか。 この社会は、秩序というもの、ルールというものがなくては成り立ちません。そのことを教える父性は、いつの時代にも欠かせない大切なものです。それによって公私の区別、善悪の区別を子どもたちが身につけていくわけです。権威を振り回す父親ではなく、子どもが心から尊敬できる父親であることが、なによりも大切だと思うのです。 一家に心棒があることで、子どもは社会で生きていくルールと責任感を身につけていきます。父親の影が薄れてしまうと、この社会全体が心棒のないものになってしまいます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.04
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HOME > 今日のことば 11/3 Tue 心が分かる友 「いちどツッパリのレッテルを張られてしまうと、学校でも家でも、なにをやっても色眼鏡で見られて、ツッパリやるしかなくなってしまうんです」という高校生の訴えを聞いたことがありました。 表からだけ見ていると、「いくら言って聞かせても、性懲りもない子だ。もう、なにを言ってもむだだ」とサジを投げたくなるのですが、その子が、心の奥にそんな切なさを隠しているのです。 「善知識」とは、善き友・最高の友のことであるのは、みなさんもよくご存じだと思いますが、この「知識」という言葉は、相手を知り尽くしている、相手の気持ちが手にとるように分かる、という意味なのです。 相手の気持ちを知り尽くしているから、悲しみにうちひしがれている友に寄り添ってあげられるのです。友の喜びを心から喜んであげられるのです。必ず幸せになれる道に導いてあげられるわけです。 私たちのサンガを、そういう真の友の集まりにしていこうではありませんか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.03
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HOME > 今日のことば 11/2 Mon リーダーの仕事 1996年の日本シリーズを制したオリックスの山田久志投手コーチは、打たれてマウンドを降りる投手にも、「よくやった」と声をかけて、ベンチに迎えるそうです。 これが、できそうでなかなかできないことなのですね。八割方は成功して一つ二つ失敗しただけでも、その失敗を責めたくなってしまうのです。注意する側の気持ちとしては、「そこさえ直せば……」という親切心で言ってあげているつもりでも、それが、なかなか相手に伝わりません。そればかり言われると、逆に失敗を恐れる消極人間になりかねないのです。失敗の原因は自分がいちばんよく知っているわけです。しかし、その欠点を直すのは、そう簡単にはいきません。 ですから、欠点のほうよりも、いいところを見つけて、そこを伸ばす助言をしてあげる。これだと、自分の得意なところを磨いていくのですから、能率が上がって、のっていけるわけです。長所が伸びると、短所も魅力に変わっていくものなのですね。人育てのうまい人は、そこをよくわきまえています。 人は必ず、どこか長所を具えています。それを見つけてあげるのが指導者の仕事です。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.02
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HOME > 今日のことば 11/1 Sun 下問を恥じず その人がリーダーとしてふさわしいかどうかを見るのに、私は、「どれだけの人がその人についてきているか」を見ることにしています。いくら仕事ができて、正論を吐く人であっても、自分のやり方だけをぜったいのもののように考えて押し通すリーダーだと、人は「はい、はい」と聞いているようでも、心はそっぽを向いているのです。 セールスで成功するのは、売り込もうとする商品について、立て板に水を流すように滔々と説明できる能弁な人よりも、お客さんから話を引きだせる人のほうだといいます。 「下問を恥じず」という言葉があります。分からないことは部下からでも素直に聞けることですが、そういう心の広さが具わると、おのずと人が引きつけられてくるのです。上司に聞かれた部下は、自分が役に立てたうれしさで、やる気を起こすわけです。 人の気持ちが分かる温かさを持ったリーダーのもとでこそ、人は育つのですね。その温かさは、いつも「まわりのみんなのお陰さまで自分のつとめを果たさせてもらえるのだ」という感謝を忘れないことから生まれてくるのだと思うのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.11.01
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HOME > 今日のことば 10/31 Sat 体内ジョギング ノーマン・カズンズさんは、米国で発行されている「サタデー・レビュー」誌の編集長をつとめられ、平和運動の先頭に立たれた方です。第七回の庭野平和賞をお受けくださって、法輪閣で対談させていただいたときのことが思いだされます。 カズンズさんは、かつて膠原病という難病で苦しまれたことがありました。その病気を、体内ジョギングとビタミンの投与で見事に克服されて仕事に復帰されたのですが、その体内ジョギングというのは、腹の底から笑うことだったと言われるのです。 喜劇映画を見て腹を抱えて笑うと、激痛が和らいで、よく眠れるのだそうです。カズンズさんは、「幸運だったのは、私の主治医が生への意欲を励まし続けて、心身両面の抵抗力を総動員させることに徹する人だったことだ」と言われています。 人の生命力は、計り知れない力を秘めています。病気を治すのは、薬の投与などの医療の技術もさることながら、自分の体に具わる治癒力であることが分かります。宗教による奇跡の治癒もその力が引きだされた結果だろう、とカズンズさんはご自分の体験を通して書いておられます。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.31
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HOME > 今日のことば 10/30 Fri 日記は自分史 私は毎日のことを日記につけておく習慣で、朝、何時に起きて、だれに会い、どういうことがあったか、一日の出来事を記録してきました。 それを若いときからずっと続けていると、世の中のこと、自分自身のことが、だんだん客観的に見られるようになっているのに気づけるのです。 また、あらためて振り返ってみると、果たしてここを乗り越えることができるだろうかと思うような難題にぶつかって必死の思いで生きていたときこそ、自分が成長する大きなチャンスになっていたことが、分かってきます。簡単な記録であっても、読み返すと、その時々の記憶が鮮明によみがえってきて、かけがえのない自分史になっているのです。 なによりも大事なことだと思うのは、その記録を通して、「これまでの自分の人生に起こったすべてのことが、一つとしてむだなものはなかったのだ」と、しみじみと思えてくることです。ですから、その日の日記の最後に、「本当にありがたいことだ」と書き加えずにいられなくなるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.30
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HOME > 今日のことば 10/28 Wed 認めれば認められる いくら努力しても、人は自分のことを正しく評価してくれないと不満をもらす人がいます。その不満で、やる気をなくしたりヤケを起こしたりしたら、自滅の道をたどることになってしまいます。そこのところで、ちょっと見方を変えて「では私は、人のことをどれだけ認めてあげていただろうか」と考えてみてほしいのです。あらためて自分を振り返ると、自分も人のことをあまり認めてあげていないのですね。 人に認めてもらいたかったら、人を認められる自分になるほうが先です。その心のゆとりが持てると、人の目を気にして一喜一憂することがなくなります。人に認められようが認められまいが、気にならない。自分のなすべきことに黙々と励み、喜んで人さまの下積みに徹していられるようになってきます。 いつも申し上げるように、信仰者の安らぎは仏さまがすべてご照覧だという安心感にあります。樹木の根は見えませんが、下に深く根を下ろせば下ろすほど幹や枝葉は上に伸びていきます。無理やり人の目を自分に引きつけようとするよりも、自分が大きく育っていけばいいのです。高くそびえる木は人の目を引かずにいないのですから。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.28
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HOME > 今日のことば 10/27 Tue 「聞く」とは実行 嫁姑の問題は、一筋縄ではいきません。その嫁姑のあり方の機微について巧みに話される先生が、「講演が終わったあとで、お姑さんは、この話をぜひ嫁に聞かせたかったと言ってこられ、お嫁さんは、うちの姑さんにぜひ聞いてもらわなくちゃ、と言ってくるんですよ」と話されていました。 同じ話を、どちらも耳の痛いところは飛ばして、都合のいいように解釈して聞いているわけです。そして、「なるほど」と自分の心に残ったところだけを覚えているのです。 経典に「法を聞くことあらん者」とある、その「聞く」という言葉は、自分の才覚を一切抜きにして仏さまのお言葉どおりお受けすることで、都合のいいところだけつまみ食いするような聞き方では、聞いたことにならないのですね。その言葉の意味を本当に理解し、心に刻みつけ、実行するのが「聞く」ことです。自分がうれしくなるような結果をいただくと大喜びするけれども、意に反する結果だと、「こんなに精進しているのに」と不平が出るようでは、本当に聞いているとはいえません。 どんな結果にも仏さまの説法を聞き取り、素直にそれをお手配と受け取れてこそ、「法を聞く者」となるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.27
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HOME > 今日のことば 10/26 Mon 次郎長親分の心意気 ある会社の社長さんが、こんな愚痴をこぼされていました。「朝礼で、遅刻をしない、むだを省く、自分が社長のつもりになってほしい、と口をすっぱくして言っているのですが、まるで反応がなくて、もうお手上げです」と言われるのです。 どうして社員の反応がないのか。だいたい社長さんの朝礼の訓示というのを聞いていると、会社の都合だけを押しつける訓辞になっていることが多いのですね。上からの押しつけを感じると、人は内からの意欲がわいてこないのです。 清水の次郎長親分のことは、みなさんもよくご存じだと思います。あまたの荒くれ男に慕われて、街道一の親分と名をとどろかせたその大親分に、ある人が、「大勢の子分の中で、親分のために命を投げだしてもいいという子分が何人いると思いますか」と尋ねると、次郎長親分は、「まあ一人もいないでしょうが、私はどんな野郎のためにも命を投げだすつもりです」と答えたという話が残っています。 ちょっと乱暴のような話ですが、そんな上司を持ったら、部下はその意気に感じずにいられないのではないでしょうか。ぜったいの信頼を寄せれば、人は必ず応えてくれるものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.26
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HOME > 今日のことば 10/25 Sun 妙佼先生の厳愛 だれしも、つい怠け心に引きずられる弱さを持っているのですが、それを、ちょうどいいようなことばかり言って甘やかしていたのでは、そこからなかなか抜けだすことができません。 妙佼先生の祥月命日がめぐってきて、ありし日のお姿が目に浮かんでくるのですが、妙佼先生は、そこのところを見過ごされない方でした。「この人を本物にしなくちゃならない」と思うと、箸の上げ下ろしにまで注文をつけられるのです。ご法の行じ方はもちろんのこと、毎日の生活での一挙手一投足を見ておられて、こと細かに教えてくださいました。 そのお陰で、幹部さんたちがみんな姿勢をきちんと整えることができたのですが、妙佼先生のすばらしいところは、その厳しいお言葉の一つ一つが大きな慈悲心に発しているのが、ひしひしと伝わってくるところでした。親身になって、一人ひとりに細かな心くばりをされるのです。 人は、相手が本当に自分を愛してくれているのを感じるときだけ、その叱責や忠告を前向きに受け取れるのですね。相手の幸せを願う無私の慈悲心が伴わない厳しさは、逆効果になりかねません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.25
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10/24 Sat 最後の支え 子どもが大きくなって親に逆らったり偉そうな口をきくようになっても、お母さんには、幼いときの母親だけが頼りで親の言うことはなんでも素直に聞いてくれた、けがれのない子どもの記憶が残っています。わが子に対するこの母親のぜったいの信頼が、なによりも大事なのです。 かりに、わが子が周囲から非難されるようなことをしても、母親は「この子は本当は優しい心を持った子なのだ。たまたまなにかの拍子で間違いを起こしただけだ」と、わが子を信じています。たった一人だけでも、この世に自分を信じてくれる人がいてくれることが、子どものなによりもの支えになるのですね。いつも自分を見守ってくれている人がいると思うと、踏ん張って、立ち直れるのです。仏さまのお慈悲の見守りも、この母親の愛情と同じです。 「いま、どんなに汚れをまとっていようとも、その汚れをぬぐえば、あなたの仏性が輝き出るのですよ」と、仏さまは私たちを信じきって、呼びかけてくださっています。仏さまは、どんな人であっても、いま、どんなことをしていようと、最後までお見捨てになるようなことはないのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.24
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HOME > 今日のことば 10/23 Fri 心と心の共鳴 一人の人にご法を分かってもらうくらいのことは、簡単にできるように思うのですが、いざ「この人に本当に分かってもらいたい」と思うと、これが大変なのですね。お導きや手どりで、それを嫌というほど思い知らされている人も多いと思います。しかし、落胆することはありません。経典にも「須弥山(しゅみせん)を手にとってそれを他の世界へ投げ移すことよりも、一人の人に法華経を説くことのほうが難しい」とあります。 相手が本気でやる気になってくれてこそ、本当に分かってもらえた証拠なのですが、人が本気になるのは、心から納得したとき、つまり頭の中で理屈として分かっただけでなく、感情が納得したとき、心から共感し共鳴したときなのです。その共鳴の感動は、相手が心から求めているものと、こちらの心がピタリと一致したときに起こります。だからこそ理屈やお説教よりも、相手の思いを聞くほうが大事なわけなのです。 難しいのは、話は聞けても相手の気持ちまで本当に聞き取れるかどうかです。それができたときに「心と心が通い合うというのは、こんなにすばらしいことだったのか」と、言葉に言い表わせないような感動がわき上がってくるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.23
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HOME > 今日のことば 10/22 Thu 理想像を持つ アトランタで開催されているオリンピックでの、日本選手の活躍が毎日、テレビで伝えられています。そのアトランタ五輪日本柔道男子監督として山下泰裕さんが活躍されている姿を見て、以前、対談でうかがった話を思いだしました。 山下さんが「柔道が強くなりたい」と思うようになったのは中学校に入ってからなのだそうですが、そう思い立つと、親や先生の言うことよりも、柔道の先生の言うことが、いちばんよく聞けるようになった。先生に、「柔道を学ぶ人間は、人を思いやる心を持ち、礼儀を重んじなくちゃならん。強くなるだけでなく、柔道で学んだことを社会で生かさなくちゃならんのだぞ」と教えられると、それまで親に言われてもなかなか素直に聞けなかったことが、「はい」と聞けるようになって、それで自分が変わってしまったというのです。 少年時代や青年時代に、自分のめざす目標をしっかりと定め、理想像を持って努力することがどんなに大切であるか、よく分かるお話でした。大舞台で活躍する選手の姿に、あらためて教えられる思いでした。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.22
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HOME > 今日のことば 10/21 Wed うしろ姿が語る言葉 「うしろ姿で人を導く」というのは、佼成会員の合言葉の一つですが、そのうしろ姿とはどんな姿かというと、教えを実践する姿なのですね。いくら口で立派なことを説いても、やっていることがそれと裏腹では、逆に、そのうしろ姿を見られてしまいます。 言葉は人と人をつなぐ大切なものなのですが、うっかりすると、つい、それに頼りすぎてしまうのです。自分がやってもいないこと、やれもしないことを滔々と述べるようなことになりがちです。たとえばお母さんが、自分もやっていないような立派なことを子どもに口うるさく言って聞かせても、逆効果になるだけですね。講演などでも、講師が話している内容そのものよりも、講師の態度などその人の全体の印象のほうが、ずっと影響力が大きいそうです。 教えのとおりに実行している人が、自分の体験でつかんだことを自分の言葉で話してこそ、人の心に強く響きます。そういう人の口から出る言葉は、ひと言でも、ずしりとした重さをもって人を動かすのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.20
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HOME > 今日のことば 10/20 Tue 老化のバロメーター 「近ごろの若い者は」と言いだしたら、老人の仲間入りだといいます。それが心の老化のバロメーターだというのです。確かに、なんでもひとからげにして決めつけたがるのは、かなり心が固くなっている証拠です。硬直した価値観ですべてを割り切ろうとして、逆に自分がしばられてしまっているわけです。 若い世代は、未知の未来を探りながら生きていく人たちです。変化のはげしい時代に、過去のやり方だけではやっていけないと感じてはいても、ぜったいの自信があるわけではありません。年長者の経験に学ぶ大事さは分かっているけれども、それにしばられては困る、と若い人たちは思っているのです。 「善に伐(ほこ)ること無けん、労を施すこと無けん」という言葉があります。善行をひけらかしたり苦労を押しつけたりするような態度が見えると、人は聞いてくれません。謙虚さと思いやりの心を持たないと、いちいち腹が立って「もう私の時代は終わった」と、ため息ばかりの毎日になってしまいます。 若い人たちの考えも聞こう、という気持ちになると、なによりも自分の気持ちが楽になるのです。すると、若い人も先輩の話も聞かせてもらおう、という姿勢になってくれるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.20
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HOME > 今日のことば10/18 Sun人の心を開かせる笑顔 「私なんか、だれからも好かれないんだ」と決め込んでいる人がいますが、この世の中に、そんな人がいるわけがありません。そんなふうに自分で決めつけている人をみると、自意識が過剰すぎるのですね。人のちょっとした言葉で、「私はだめな人間なんだ」とか、一つでも嫌なことがあると、「私には、いいことなんかあるはずがないんだ」というように、悪いほう悪いほうにばかり考えるのです。これは、過剰な自己防衛意識のせいです。自分を守る垣根を高くしすぎて孤立してしまい、自分の素直な心や、優しさを無理やり抑え込んでしまっているのです。その優しい心を、曲折させずに素直にスッと表に出せばいいのです。難しいことはありません。人に会ったら、笑顔でちょっと挨拶するだけでもいい。笑顔は、どんな人の心も和ませる最高のコミュニケーションです。「親を喜ばそうと思って、なにもしてあげられることがなかったら、日に二、三度、笑顔を見せてあげなさい」という日蓮聖人のお言葉があります。笑顔は人の心を開かせる力を持っています。その開かれた心が、みんなの素直な心を引きだすのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.18
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HOME > 今日のことば 10/17 Sat この道一筋に 野球放送の解説の方が、こんな話をされていました。「選ばれてプロの世界に入ってきた人が一流選手として残れるかどうかは、最初の五年間が勝負。その間、朝から晩まで、それこそ寝ても覚めても“野球漬け”の生活で練習に打ち込むか、そこで楽することを覚えてしまうか、その違いだ」というのです。これは、すべてのことに通じるのではないでしょうか。 われを忘れて何年間か一つのことに没頭すると、あるところから、つらい修行が苦でなくなってくるのです。難問にぶつかるほど、それと取り組んで腕を磨くのが喜びになってきます。そこから、この道一筋に生きぬく自信が生まれてくるのです。 私が十八歳で上京するとき、父が「給料が安くて、暇がなくて、骨が折れるとこへ奉公しろ」と言い聞かせてくれたものでした。暇がなくて給料が安ければ、悪いほうに走る余裕はありません。仕事に打ち込むしかないわけです。それで仕事がしっかり身について、まわりの信用も得られるわけです。 あとになって、「なるほど」と、父の言葉にあらためてうなずかされたものでした。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.17
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HOME > 今日のことば 10/16 Fri 両立させる智慧 教会によっては、お役をしてくださる人たちの人間関係がぎくしゃくしてしまっているところが、ときどきあります。そういうところに赴任する教会長さんに、私はいつも「仏法の法則によれば争いなど起こることはないのだという信念を、しっかり持ってください」とお願いするのです。 こっちの人の言い分、あっちの人の言い分を聞きすぎると、心が揺れ動いてしまいます。ですから、どっちがよくてどっちが悪いといった判断は一切抜きにして、「ご法では、こう教えているのですよ」と説いてあげればいいのです。仏教の教えの基本に戻れば、相手だけが間違っていて、自分はぜったいに正しいというようなことがあるわけがない、と分かってきます。 お釈迦さまの教えは、どちらが正しくてどちらが間違いだなどと裁くものではありません。ご法の基本をしっかりと示してあげると、自分の言い分に固執していた人たちが、どちらも自分の足りなさに気づいてくれるのです。 正見を妨げる元凶は、先入観や固定観念です。それを捨てて仏さまの智慧に直入するのが柔軟(にゅうなん)心です。仏さまの教えは、あくまでもすべての人を救うためのものなのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.16
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HOME > 今日のことば 10/15 Thu 毎日の生活を整える行 信仰者は、まず毎日ご宝前での朝夕のお勤めができるようになる。そして、ご命日に教会に参拝し、法座にすわらせてもらう。そこで仏さまの教えに自分を合わせていこうと努力するようになると、生活のすべてが「行」になっていきます。行とは、行動のことです。毎日の生活の中での自分の行動を、一つずつ仏さまの教えに照らし合わせて整えていけるようになるのが、在家仏教徒の行といえましょう。 知識を学んだだけで仏教が分かったつもりになるのは、たとえば、ゴルフ上達法の本を読んだだけでゴルフができるつもりになったり、教則本を読んだだけで、楽器の演奏ができるつもりになったりするようなものです。まさか、そんなことを考える人はいないと思いますが、仏教の修行も同じです。 宗教は知識を学ぶものではなく、生き方を身につけるためのものです。教えを学んだら、そのとおりに実行してわが身に体していく。繰り返し実行して、教えをしっかり身につけていく。その修行を見守る人が近くにいてくれると、それが容易にできていくのです。サンガの仲間がいることで修行が本物になっていくのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.14
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HOME > 今日のことば 10/13 Tue 仏さまが一緒の大安心 大学を卒業したのに、まだ依然として親がかりという青年が増えていると聞きます。親というものは、子どもがいくつになっても危っかしくて、できれば、いつも子どもについていて危ない目に遭わせたくないと願うものです。しかし、それではいつまでたっても子どもの自立心が育ちません。 拒食症や過食症、家庭内暴力、不登校などで苦しんでいる若者たちと取り組んでいる精神科医の斎藤学さんは、その症状の奥に対人障害があり、さらに家族の問題があると言います。 大切なのは、まず「独りでいる能力」を育てることで、それは母親が赤ん坊をしっかり抱きしめる腕の中で芽生え、成長に応じて、ひざの上、部屋の中、家の中、そして外へと、一人でいられる範囲を広げていくことによって育っていくのだというのです。その段階を踏むことで、子どもは、どこにいても母親と一緒だという安心感を持って、人と協調していけるようになるのだといいます。これを信仰的に言えば、「いつも仏さまが一緒」の大安心と言えるのではないでしょうか。 親子の絆も、成長に応じてだんだんにゆるめていく知恵が伴わないと、愛情が逆に子どもの足かせになりかねません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.13
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HOME > 今日のことば 10/12 Mon 万灯をともす人 日蓮聖人のお逮夜には、勇ましい万灯行進が繰り広げられます。日蓮聖人は、「いまの日本国で最高の富者は、日蓮でありましょう。法華経に命を奉って、後の世まで名をとどめることができるのだから」とおっしゃられました。 法華経に命を奉るとは、生死を自分が置かれたその場所に賭けることです。法華経は「たとえ花園であれ、林中、僧房、在家信者の家、宮殿であれ、その場に塔を建てて供養しなさい。そこが道場なのです」と教えています。自分に与えられた仕事、自分に与えられたお役に、はじけるような喜びを持って打ち込んでいくと、その姿が周囲の人びとの心に灯をともしていくのです。これが、その場その場に塔を建てることだといえましょう。 自分がいま働いている職場、家庭、地域を修行の場として、人びとの心に灯をともしていくその喜びを、笛、カネ、太鼓を打ち鳴らし、マトイを打ち振って人びとに示していくのが、万灯行進です。 二陣三陣となって、日蓮聖人に続く意気込みを示そうではありませんか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.12
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HOME > 今日のことば 10/11 Sun 愚痴の聞き手 体の疲労が重なると病気になってしまうように、言いたいことを無理やり胸にしまい込んで抑えつけていると、いつか爆発しかねません。心の健康には、愚痴をこぼすことも必要なのですが、その聞き役になってくれる相手が大事なのです。 NHKテレビの大河ドラマで『秀吉』が放映されていますが、そのドラマで見る秀吉は、あけっぴろげで磊落(らいらく)そのものです。しかし、あの秀吉も、不満や悩みごとをなんでも話せる石田三成という家臣を持ったお陰で、人前であんなに明るく振る舞えたのだと聞いたことがあります。 そういう相手がいないと、まわりに自分の愚痴をぶつけて人を傷つけ、それがはね返って自分も傷ついてしまう、といったことになりがちです。といっても、愚痴を聞いてくれるのはいいけれども、その愚痴をあおりたてて、ますます不満を大きくさせてしまう、という人もいるのですね。そうではなく、愚痴をじっくり聞いてくれて、それをプラスの考え方に上手に導いてくれる、そういう相手が大切なのです。 私たちのサンガを、そういう友だちづくりの場にしていきたいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.11
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HOME > 今日のことば 10/10 Sat 一つでもよいところを 人を育てる教育でなにより大事なのは、楽しさだといいます。学ぶ楽しさがなくては、人は育たないのです。私どもの教会でも、その楽しさがいちばん大事ではないでしょうか。いかに修行の場とはいえ、苦しみに耐えるだけの場になってしまったのでは、長続きするものではありません。 ある音楽の先生が、生徒のレッスンを長続きさせるコツについて、「授業は厳しくても、なにか一つほめてあげて、気持ちよく帰ってもらうことが大事」と言われていました。 なにごとであれ、一つのことを本当に身につけるのには、まず、やり続けることが大切です。人は、ほめられると向上心に火がついて、学ぶことが楽しくなり、希望がわいてきます。それが懈怠の心に打ちかつ力になるのです。 人の欠点は嫌でもすぐ目につきますが、人のよいところは努力しないと見えてきません。ほめ上手の人は、その努力を欠かさないのです。どこか一つでもいいところを見つけて、ほめてあげる。お辞儀の仕方一つでもいい、返事の大きさだけでもいいのです。そうして教会を楽しい修行の場にしていく努力が、自分を大きくする修行にもなっているのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.10
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HOME > 今日のことば10/9 Fri後生畏るべし「いまの若い者は夢がない」と決めつける人がいますが、人は現実が困難なときほど、夢を見たいものなのです。人が行動を起こすのは、自分の欲求を満たしたいからで、とりわけ青年時代は欲求のかたまりのようなものです。夢を持たない青年などいるはずがありません。青年が胸に秘めている夢を知ることが、まず第一です。青年に夢を語らせると危っかしいところがあって、「現実離れしている」と、つい口をはさみたくなるのですが、青年の言葉をさえぎって大人の考えを押しつけようとすると、青年は自分を表に出さず、動かなくなってしまいます。『論語』に「後生畏るべし。いづくんぞ来者の今に如かざるを知らんや」とあります。若い者は頼りないなどとあなどってはならない。自分より後の世代の者にひそむ芽に注目しなくてはならない、という戒めです。青年から学ぼう、教えてもらおうという姿勢で耳を傾けて、まず行動を起こさせる。未熟なところや失敗があって当然です。しかし、十の小言より一つのほめ言葉で、「これはいい」というところを認め、ほめてあげると、青年は責任を持って自分で道を選んで進むのです。庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.09
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HOME > 今日のことば 10/8 Thu 受け入れる器量 組織を預かる長にとって、いつも満場一致で事が運ぶほどうれしいことはありませんが、それに慣れると、違った意見に耳を貸すことができなくなってしまいます。「あえて事を構えることはない」という空気が大勢を占めてその場の流れで事が決まり、あとで「なんであんな決定をしたのか」と悔やんでも取り返しがつかない、といったことが起こりかねないのです。 名君の誉れ高い土佐藩主山内容堂は、初め忍堂と号していたのを「忍ぶでは藩主として器が小さすぎる」という進言を入れて容堂と改めたことは前にもお話ししましたが、耳に痛い言葉であってもそれを受け入れる器量を具えないと、どんな会議も、だんだん発言が少なくなってしまいます。 私は世界宗教者平和会議などの会議でも、みなさんの発言を真剣に聞かせてもらいます。すると、問題のかなめのところが「これだな」とつかめてきます。そこで、自分の考えを話させてもらうのです。そうして得られた結論だと、反対の人の意見も頭に残っていますから、事を進めるときに、そのことにも注意を払う。器がもうひとつ広がると反対意見にも耳を傾けて注意深く事を進める大きさが具わってくるのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.08
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HOME > 今日のことば 10/7 Wed 夫婦の味 分かりすぎるほど分かっているつもりの相手なのに、ちょっとした言葉で夫婦の仲がギクシャクしてしまい、それが高じて、「あんな人とは夢にも思わなかった」「私のことなど、まるで分かってくれていなかったんだ」「だまされた」と、離婚にまでいたってしまうようなことも、ままあるのです。 また、子育てや家のローンで力を合わせてがんばってきて、やがて子どもが巣立って夫婦二人っきりで向かい合うようになったら、共通の話題さえ見つからないといったご夫婦もおられます。 じつは、そこからが本番なのですね。いくら長いこと夫婦でいたといっても、ただ一緒に暮らしているだけで、夫婦が同じ考えになれるものではありません。 男性と女性では、発想の大もとが違ってあたりまえです。むしろ、その違いを理解しようとつとめるのが、夫婦の暮らしだともいえましょう。互いを理解しようとして、思いやり、いたわり合うことで、夫婦の味が生まれてくるのです。 「感謝の眼で見なければ、本当のものの姿が分からぬ」と京都大学名誉教授の平澤興先生はおっしゃっておられました。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.06
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HOME > 今日のことば 10/6 Tue本当のかっこよさ人に嫌われたかったら、自分の自慢話ばかりしていればいい。だが、人に好かれたいのならば自分の失敗談をすることだ、といいます。私たちはふつう、人によく見られたいと、自分のいいところばかりを人に見せたがり、欠点は隠したがります。『法華経』の「方便品(ほうべんぽん)」に「瑕疵(かし)を護り惜む」という言葉がありますが、自分の欠点を知りながらそれを後生大事にして、思いきって切り捨てることができないのです。自分の短所を切り捨てるのには痛みが伴います。その痛さを恐れて傷をかばっているわけです。その自分の欠点や失敗を思いきってさらけだせるようになると、それが飛躍のバネに変わるのですね。その訓練の場が法座だといってもいいでしょう。法座でみんなが謙虚に自分を包み隠さずに話している姿を見、その話を聞いて心から感動すると、自分もありのままをさらけださずにいられなくなってきます。すると人に言われなくても心の底から自分を反省できるようになるのです。それで新しい一歩が踏みだせるのですね。かっこよく見られたいと思っているうちは、本当にかっこいい生き方はできません。庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.06
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HOME > 今日のことば 10/5 Mon 幸せを分かち合うマナー ある方が、「ヨーロッパを旅行して地下鉄に乗ったら、前にすわっていた五、六歳の子どもがパッと立って席を譲ってくれて、びっくりしてしまいました。日本では考えられないことです」とおっしゃっていました。確かに、日本ではそういう光景はあまり見られないように思います。 戦前の教育の反動もあったと思うのですが、戦後の教育は、子どもを型にはめるしつけを民主主義に反するもののように考えて、なんでも自由にさせる方向に走りすぎたのではなかったでしょうか。しかし、人と人が一緒に生活していくこの社会には、人間として守らなければならない基本があるはずです。型にはめるのではなく、人を思いやり、人に親切にする行動を、いつでもパッとできるようにしてあげるのが、しつけだと考えたらどうでしょう。 人は周囲から切り離されると、精神的に不安定になってしまいます。独りぼっちには耐えられないようにできているのです。人と喜びを共にできることが、人にとっての最高の幸せです。そのためのマナーを身につけさせてあげるのは、大人のつとめでしょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.05
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HOME > 今日のことば 10/3 Sat おはからいのままに いつも申し上げるように、信仰する人のいちばんの幸せは、仏さまがすべてご照覧だと信じていられることにあります。けれどもときどき、「こんなに一生懸命がんばったのに」「あんなに真剣に祈願したのに」「仏さまは私をお見捨てになったんではないか」と、絶望に打ちひしがれることもあると思うのです。しかし、仏さまはどんなときも、この患難の多い世でのあなたを、しっかりとお見守りくださっておられるのです。 私たちは神仏にお祈りするとき、自分の欲しいもの、自分の願いがかなうようにとお願いしますが、仏さまは、私たちの欲しいものでなく、必要なものをお与えくださるのです。 自分の力ではどうにもならなくなったとき、人はだれしも病気を治してください、子どもが受験に合格しますようにと神仏にお願いするのですが、そのあとに必ず、「でも、み心のままに」とつけ加えることを忘れないようにしている、という人がおられました。仏さまのおはからいにおまかせしてしまうと、どんな結果であっても、ある時を経て「これがご守護だったのだ」と思い知るときが、必ずくるのです。悲しみや絶望を通してこそ得られる宝物もあるのですね。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.02
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HOME > 今日のことば 10/2 Fri 自分を育てる根 わが子が親の言うことをよく聞いて、学校の成績もよければ、それで親は安心しているのですが、それは枝ぶりや花だけを見て喜んでいるようなもので、大事なのは、根の張り方のほうだといいます。どんな土地からでも養分を吸い上げて、成長していける根を育てることを忘れては、本当の子育てにならないというのです。どうしたらその根を育てられるかです。 いま梅の花が真っ盛りですが、去年のように猛暑が続くと、梅の木は生き延びるために、ものすごいエネルギーを発揮するそうです。厳しい環境で生きぬけるかどうかが根の育ち方にかかっているわけです。植木でも、水をやり過ぎると根が甘やかされて育ちません。かといって、水が足りずに枯らしてしまってはなんにもならない。そこの加減が大事なのです。子どもも同じで、愛情不足で枯らしてはなりませんが、あまり甘やかされると、自分で根を張る努力をしなくなってしまいます。 慈悲の眼とは、ただ優しいだけの眼ではなく、その人その人の持てる力を最高に発揮させる、見守りの眼です。どんな環境でも力強く生きていける力を育てあげるのが、親の慈悲の見守りといえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.02
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HOME > 今日のことば 10/1 Thu 仏さまに対面する人 お釈迦さまは、遠い土地からはるばる旅をして師を拝しにきたお弟子さんや信者の人たちを迎えると、「道中、難儀はなかったろうか。食べ物に困りはしなかったろうか。仲間はみな変わりはないかね」と、必ずお尋ねになりました。 あるとき到着したお弟子の一団に、お釈迦さまがいつものように「みんな元気だっただろうか」と尋ねられると、一行の中の一人が、「じつは仲間の一人が病に臥せってしまったのですが、世尊を拝したい一心で残してまいりました」とお答えしました。するとお釈迦さまは、「私に会いにきてくれるよりも、残って病気の友を看病してくれる人こそ、千里離れていようと私と対面しているのだよ」とお諭しになられたのでした。 私の姿かたちを見にくるよりも、私の願いをしっかり自分のものにする者こそが、私の本当の弟子なのだ、とお釈迦さまは教えられたわけです。 私たちが仏さまを拝するのは、そのみ心に近づきたいと願うことです。一人でも病み苦しむ人がいたら、看取り、助けずにいられないのが、仏さまのみ心です。私たちも、なによりもまず苦しみ悩む人を救うことを先にしなければなりません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.10.01
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HOME > 今日のことば 9/30 Wed 最高の功徳 蓮の花が開くと、その花の中にすでに実が生じています。それと同じように、因と果は同時というのが仏教の考え方です。悪事を犯しても人に見つからなければ罰を受けずに済む、と考えたら大間違いです。良心の呵責で、眠ることもできなくなってしまいます。反対に、せっかく善根を積んでも、だれも評価してくれないと考える人がいますが、これも間違いです。 人さまに喜んでもらえる奉仕をされた人は、よくご存じのはずですが、善いことをすると、言いようのない喜びがわいてきて、心が清々としてなんの心配もない日々を過ごせます。 中国・南朝の梁の始祖である武帝は、仏教に帰依して各地に多くの寺院を建立しました。あるとき達磨大師に、「余が多くの寺院を寄進したその功徳は」と尋ねると、達磨大師は言下に「無功徳」と答えられたのでした。なにか目に見える功徳ばかりが功徳ではなく、善根を積める自分になれた喜び、晴れ晴れとした心で毎日を過ごせる喜びこそが最高の功徳です。 かつての自分といまの自分の心がどんなに違ってきているか、周囲がどんなに変わったか、振り返ってみると積んだ善根がそっくり自分に返っているのに気づかずにいられないはずです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.29
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HOME > 今日のことば 9/29 Tue “本業”への出発の時 定年で現役を離れ、体もあちこちいうことをきかなくなってくると、自分の人生には、もうなんの希望も残っていないといった寂しさをかこちがちになります。しかし、人はどんなに年をとっても、最後まで成長し続けるものなのです。 昔からインドでは、長子が家を継ぐと家長は家を出て林中に住み、瞑想をしたり遊行の旅に出る習慣がありました。これまでの一家を支えるつとめを終えて、自分がこの世に生を享けたことの本当の意味を見つける“本業”に打ち込むわけです。 定年も同じです。これまで若さと健康に寄りかかり、仕事に追い回されて、つい忘れがちだった「本当の自分」を見つける最後の仕上げに取り組む「出発の時」と言えましょう。 道元禅師は、「生死の中に仏あれば生死なし」とおっしゃられています。仏とは悟れる者、永遠の生命を自覚した人、ともいえましょう。それを自覚したときに生老病死を超えた自分の真の命が発見できるのです。 すべてをあるがままに受け入れ、善意に解釈して、感謝と報恩に生きる一日一日をめざしたいものです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.29
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HOME > 今日のことば 9/28 Mon 城の石垣の強さ 「異体同心なれば万事を成ず」と日蓮聖人は教えられていますが、サンガの力は、まさに異体同心の力と言えましょう。 お城の石垣は、丸い石、三角の石、四角の石、大きい石、小さい石と、さまざまな石を組み合わせることによって、地震にもびくともしないものになっているそうです。ちょっと考えると、規格どおりのそろった石を積み上げたほうが、整然として、立派な石垣ができ上がるように思えます。いろんな組織や会社などでも、初めから粒のそろった人ばかり集めれば、より能率が上がるように思うのですが、それでは大きな力にはならないのです。性格も能力も違っている人が集まって、それぞれが所を得てうまく組み合わさり、心が一つになると、どんな事態に直面してもびくともしない組織になっていくのですね。 立正佼成会の力の源も、考え方も、個性も、立場も千差万別の人が、一つの目標をめざして力を合わせることができたところにあります。伸びる会社は上意下達だけでなく下意上達もうまく行なわれて、上司も部下も一つになって生き生きと動いています。リーダーの仕事は、さまざまな個性を集めてその心をどれだけ通い合わせられるかにあるといえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.27
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HOME > 今日のことば 9/27 Sun 車の後押し役 コーチから監督に就任したばかりのプロ野球の監督さんが、「監督になったとたんに、選手の気持ちがまるで分からなくなってしまった」と言われていました。 選手の気持ちが分からなくなってしまったのでは、選手と心が一つになるはずがありません。 これは、プロ野球の監督さんにかぎりません。長になった責任感で「結果を出さなくては」とあせると、自分の考えばかりを押しつけることになりがちなのですね。監督さんの考えは、そうすぐに、みんなに伝わるものでありません。ついイライラしがちで、それが顔や態度に出てしまいます。 相手の立場に自分を置いてみればすぐに分かることなのですが、上司が自分のことを信頼してくれていないのを、言葉や態度のはしはしに感じると、部下は、まるで自信をなくしてしまうのです。 「私が教えてやるんだ」という気持ちを捨ててしまうことです。みんなに車に乗ってもらって、自分はその後押しをさせてもらうのだ、というくらいの気持ちになってごらんなさい。見違えるように、みなさんが動いてくれるようになります。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.27
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HOME > 今日のことば 9/26 Sat プラス思考への切り換え 同じ一つのことでも、よくも悪くも受け取れるものなのですが、悪いほう悪いほうにばかり取る人がいます。 人はわが身の安全が第一で、それで、つい心配や不安のほうが先立ってしまいがちです。そういう考え方を、マイナス思考というのです。しかし、いつもそういう考え方をしていると、体内の分泌物が毒素の働きになっていくそうです。 人間の煩悩のもとは、貪・瞋・癡の我執です。「我」という字は手に戈を持って身を守る形につくられていますが、身を守るつもりの戈が、自分を傷つけてしまうことになってしまうわけです。 人の考え方の癖は、性格よりも習慣のほうが大きいといいます。なにごとも、よいほうに、よいほうにと考える習慣をつけると、だんだんそれが本物になっていきます。 今年も年の暮れを迎えました。方々のお寺で除夜の鐘が打ち鳴らされますが、百八つの煩悩を洗い流してくれるという除夜の鐘を聞いたら、迎える新年こそプラス思考に切り換えるぞ、と決心を新たにしようではありませんか。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.26
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HOME > 今日のことば 9/25 Fri 周囲に振り回されない 人間として大きく成長できるかどうかの決め手は、心の柔らかさにあるといえないでしょうか。とりわけ大事なのは、自分と違う考えも受け入れられる柔軟さと、自分の間違いを認めることができる素直さです。 素直さというと、人の言いなりになる生き方のように考える人がいますが、本当の勇気と自信を持たなくては、素直に他を受け入れ、自分を変えられるものではないのです。かたくなに自分を主張する人のほうが一見、信念を持っているように見えることがあるのですが、それは、周囲に対するメンツや、人の思惑を気にしてしばりつけられ、自分に正直になれないでいる姿であることが多いのですね。 その自縄自縛から解放されて、常に人間の基本に立ち返る生き方が「自灯明」です。 周囲がこうするから自分もこうしなければならないと振り回されるのでなく、伸び伸びと、あるがままの自分でいながら、天地自然の摂理にのっとって、そこからはずれることのない生き方がつかめてくるのです。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.25
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HOME > 今日のことば 9/24 Thu 自分も大事、人も大事 信者さんに心から慕われている支部長さんがおられて、その秘訣をお尋ねすると、「私は『○○さん、おはよう』『○○さん、おはよう』と、一人ひとりの信者さんの名前を呼んで、明るく声をかけるように心がけているだけなんですよ」と答えられたそうです。 この支部長さんは、初めて道場に見えられた方でも、すぐに名前を覚えて声をかけられるのです。そのことの大切さを、どなたかの本で教えていただき、そのとおりに実践されているのだということでした。 お釈迦さまは、「だれもが自分がいちばん大事。そのことを知ったならば、自分と同じように人を決して傷つけてはならない」と教えられていますが、「仏性礼拝(ぶっしょうらいはい)」を口をすっぱくして説くよりも、どなたにもひと声、声をかけてあげる実践のほうが大事です。 「商売は儲けようと考えてはだめだ。会う人会う人を大事にする。私の成功の秘訣はそれだけです」と、ある会社の社長さんが言われています。商売の要諦をズバリと言い表わした言葉といえましょう。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.24
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HOME > 今日のことば9/23 Wed人を集める人徳「世のため、人のため」と初めから大上段に振りかぶると、どうしても高圧的な押しつけになりがちです。大げさなもの言いは、まだ本物をつかんでいない証拠です。本当に自信を持っている人は、物腰が謙虚で、だれにも分かる優しい言葉で、相手を納得させてしまいます。目をつり上げたり声高になったりするのは、仏教の布教態度とはいえないように思うのです。「桃李(とうり)言わざれども下自(おの)ずから蹊(こみち)を成す」という言葉があります。自分であれこれ言いふらさなくても、美しい花を咲かせ、おいしい実をつける木の下には、おのずと人が集まってきて道ができてしまいます。人徳がなくては、人を本当にその気にさせることはできないのです。会社の発展、組織の発展の要諦は、中心になる人がどれだけ謙虚でいられるかにあるといわれます。それが大きく命運を分けてしまうのです。謙虚さが欠けると、聞く耳を持てなくなってしまうのですね。相手の求めているものを知らずに、自分を押しつけて平気でいるのです。それでは人を動かすことはできません。 庭野日敬著『開祖随感』より
2015.09.23
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