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鎌倉幕府のはじまりは「いいくに (1192) つくろう鎌倉幕府」と年号を暗記したものです。最近は平家滅亡し、守護地頭をおいた 1185 年が始まりともいわれています。正直あまり鎌倉幕府としての歴史は、戦国時代や江戸時代にくらべるとなじみが薄く、せいぜい頼朝が鎌倉に幕府を開いた以降のことしか記憶がありませんでした。ところが、今回の NHK 大河ドラマ「鎌倉殿の 13 人」(脚本三谷幸喜)をみていて、知らなかった鎌倉幕府成立以前の頼朝、伊豆 ( 北条氏等 ) での歴史の部分が実に興味深く面白く拝見しています。今回の旅行でも、伊豆の国市 ( 北条氏邸跡等 ) 、伊東市(伊東祐親邸等)、石橋山古戦場、湯河原(ししどの窟)などを見てきましたが、頼朝が鎌倉に入るまでの歴史は波乱に実に富んでいます。
<当時の時代背景(引用です)
ちょっと、わかりにくかったのは当時の時代背景でした。そこで、少し深堀してみました。
治承三年 (1179
年 )
の政変により知行国主の多くが変更となり、それに伴い坂東は新知行国主の息のかかった平氏家人や平氏方目代により、上総氏、千葉氏、工藤氏などの旧知行国主に近い豪族たちが圧迫されていた。圧迫されていた豪族達は反撃の機会を窺っていた。
(出典:wikipedia)
治承 4
年 8
月 17
日( 1180
年 9
月 8
日)、伊豆国に流されていた義朝の三男・頼朝は以仁王の令旨を奉じて、舅の北条時政や土肥実平、佐々木盛綱らと挙兵し、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害した。だが、続く 8
月 23
日( 9
月 14
日)の石橋山の戦いで頼朝は大庭景親、伊東祐親率いる平家方に惨敗してしまう。
頼朝は山中に逃げ込んで平家方の追跡をかわし、土肥実平の手引きで船を仕立てて真鶴岬(神奈川県真鶴町)から安房国へ向かった。 頼朝に味方していた三浦一族も平家方の畠山重忠らに本拠衣笠城を攻められ、城を捨て、海上へ逃れた。
※治承三年の政変(じしょうさんねんのせいへん)は、治承 3 年( 1179 年) 11 月、平清盛が軍勢を率いて京都を制圧、後白河院政を停止した事件。
<今回の「伊豆の国市」及び周辺地域の史跡を訪ねて>
今回の旅行の中で、印象深かったとこをはどこだったかを振り返ってみました。
[ ししどの窟(湯河原町鍛冶屋) ]
何といっても、ベスト1は湯河原の「しとどの窟」です。源頼朝が 1180
年石橋山の戦いに敗れて、平氏から身を隠したと言われる洞くつです。ここは、「石橋山の古戦場」から車で向かいましたが、とにかく、湯河原温泉を抜けて山をかなり上り、所定の駐車場にやっと着いたというのが感想です。
(「
ししどの窟」撮影筆者)
こんなところまでよくも逃げてきたのかと思うと、本当に大変だったろうという気がしました。車を置いて、少し舗装された道を歩いたあと、九折の道を
数百m下り、
やっとのことで洞くつに到達するという感じです。つらかったのは帰りでかなりの急坂をひたすら上ります。太ももにかなり負担がかかりました。この洞くつはその荘厳さや
20
体を超える石仏(土肥椙山観音像群)、滝など非日常を味逢うことができました。かなり体力が求められますが、是非とも訪問して欲しい史跡です。実は、真鶴にも同名の史跡がありますが、ここも源頼朝が隠れ、真鶴から房総へ逃げたところでもありますが、湯河原の「しとどの窟」とは別のところです。要するに同じ名前の洞くつが
2
つあるという事でした。
[
石橋山古戦場 ]
ベスト2は「石橋山の古戦場」です。ここも、「しとどの窟」と同様、どちらかというとかなりマニアックな場所で、ほとんど訪問者がいないようです。伊東方面から小田原に向かってくると、かなり入口が分かりにくく、目的地までの道も狭いので注意が必要です。ここは源頼朝が 1180
年の兵をあげ、平氏政権の大庭景親らと間で行われた戦いで頼朝軍 300
人に対し、平氏軍 3000
人と兵力差がある中で大敗し、箱根山中に敗走したという歴史があるところです。すぐ近くにJR東海道線も通っているところです。
(「石橋山古戦場」石碑、撮影筆者)
最初の戦いという位置づけの場所ですが、ここに、「佐奈田与一義忠討地の地(ねじり畑)」という碑がありました。訪問時にはよくわからなかったのですが、自宅に戻り調べてみたところ、この侍は頼朝軍で 25
歳での戦い
でなくなった一武将でした。
(「
佐奈田与一」の碑、撮影筆者)
※ 佐奈田与一と郎党文三の死は、治承4年( 1180 )年8月の石橋山合戦の時のことである。 同月 23 日、石橋山の谷を隔てて平家方と対峙した頼朝は、決戦の時が迫るのを知ると、諸将に向かって、平家方の先陣となって来ると思われる大庭景親(かげちか)、俣野(またの)五郎に誰を立ち向かわせたらよいか、と問うた。
すると岡崎義実(よしざね)がすかさず我が子佐奈田与一義忠を推挙した。頼朝は与一に先陣を命じた。命を受けた与一は、郎党文三に後事を託し、出陣しようとしたが、文三は幼いころから苦楽を共にした殿を見捨てることはできない、と言い張った。
与一と文三は敵の先陣めがけて突進した。与一の姿を見て平家方の武士は組み討ちしようと我れ先にと進んだが、与一の奮戦になす術を知らなかった。与一の前に平家方の剛者俣野五郎があらわれた。大力の俣野は海の中へ落ちる断崖の上で、与一に組み付き、二人は上になり下になりの格斗を続けた。 戦いは一瞬与一の有利に働いたが、俣野の加勢にかけつけた長尾新五と弟の新六の手により、遂に与一は二十五歳の若さで討ち死にした。郎党文三も稲毛重成(しげなり)の兵に囲まれ、奮戦の末、主人と死をともにした。(小田原市資料よりの引用です)

(歌川国芳、 真田与一能久と俣野五郎景久)
[北條氏邸跡(円城寺跡)]
ベスト
3
は
「北条氏邸」跡です。鮎釣りで有名な1級河川の狩野川沿いにあり、現在は碑と案内看板がある程度で、雑草のはえる平坦な場所でした。ここに父時政、姉政子、義時など北条氏一族が住んでいたと思うと、なにか「夏草や兵のどもが夢の跡」の松尾芭蕉の一句を思い出しました。今はただ草の生える平な土地でしたが、館、見張り台なのがあったと思うと、「 TV
ドラマ」のシーンと被って印象の残る場所でした。歩いて行ける範囲のすぐ近くに「政子の産湯の井戸」もありました。活気のある「北条邸の生活の場面」が目に浮かんできました。


( 北条邸跡、撮影筆者 )
~あとがき~
旅を振り返り印象をまとめるのも時間と手間はかかりますが、ある意味で整理ができて楽しいひと時でもありますね。今回の旅行は、頼朝、北条氏が現在の伊豆の国市での生活から平家打倒の兵をあげるまでの史跡を訪ねてきました。史跡というと資料館や寺社や碑、銅像、などになりますが、ある程度その史跡の背景を知らないと、ただその場所に行ったという事だけになってしまうのでちょっともったいない気がします。事前に調べ、スケジュールを組み立てるのも、手間はかかりますが、ネットにて史跡を調べたり、 TV で放映した関連の録画番組をみたりする”過程”も、ある意味で尋ねる史跡、歴史が徐々にリアルになっていく楽しみがあります。所詮、自己満足の類ではありますが折角の旅の機会、時間をより大切にして「感動を創造」していきたいものですね。以上
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