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「鎌倉殿の 13 人」も「頼朝」が鎌倉に拠点を定め、いよいよ「義仲」勢を打倒し、平家との戦いのステージに入ってきました。史実ではこれから「頼朝」軍の源氏は壇ノ浦の戦いで平家を滅亡させ、日本史上初めての武家政権を誕生させることになります。
ここで、これまでの大河ドラマ「鎌倉殿の 13 人」の中で、「頼朝」を中心とした「源氏」の登場人物とその最期をみてみたいと思います。
<源氏の家系図>

( 出典: すごい 源氏 系図 - グアンパンメント )
<大河ドラマに登場人物と最期>
◎源頼朝( 1147-1199 )→父源義朝、母由良御前
〇源範頼( 1150-1193
)→父源義朝 (
六男 )
、母池田宿 (
磐田市 )
の遊女▽ 頼朝に謀反の疑いをかけられ伊豆国へ流罪、殺害される
〇阿野全成(
1153-1203
)→父義朝
(
七男
)
、母常盤御前
(
義経の同母兄
)
▽
頼朝死後、頼家と対立、頼家の命により誅殺される
〇源義円 (
1155-1181
)→父義朝
(
八男
)
、母常盤御前
(
義経の同母兄
)
▽
源行家挙兵に加わるが、戦死
〇源義経 (
1159-1189
)→父義朝
(
九男
)
、母常盤御前▽
頼朝の命を受けた藤原泰衡攻められ、自刃。
〇
源義仲(木曽義仲)(
1154-1184
)→父源義賢、小枝御前▽
源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで戦死。
源義高 (
1173-1184
)→父源義仲、母今井兼平の妹※巴御前とも▽義
仲戦死後、頼朝から逃亡したが入間河原にて討ち取られる (12
歳 )
〇源行家( 1141-1186 )→父源為義(十男)、母不詳(鈴木重忠の娘)、義朝とは兄弟▽ その後、源頼朝と対立が深まり、文治 2 年( 1186 年)、捕縛・斬首された
〇甲斐源氏
武田信義( 1128-1186 )→父源清光、母不詳▽ 一族への頼朝の弾圧や息子の暗殺などがあったが、文治 2 年( 1186 年) 3 月 9 日、享年 59 で病没

(出典:戦国ヒストリー)
<「源範頼」( 1150? ~ 1193? )の出自は母は池田宿の遊女、浜松市で誕生>
今回、調べるうちに、「範頼」がこの 磐田市・浜松市と関連がある
ことが分かりました。そこで、「範頼」について掘り下げてみました。(以下は引用です)
「範頼」は「義経」とともに鎌倉軍の総大将を務めた。
「範頼」は義朝の六男で はありますが、母は遠江国池田宿の遊女ということで常盤御前の子供ではありません。ドラマの中でも、「義経」の物おじしない態度と比べ、「範頼」はどちらかというと「控え目で実務的」な印象があります。蒲御厨(浜松市)で生まれたため、蒲冠者と呼ばれた。幼少期に京に上り、後白河院の近臣である藤原範季に養育され、一字をもらい「範頼」と名乗った。内乱期は、異母弟の義経とともに鎌倉軍の総司令官として西国を転戦する。
※母は「遊女」とは称していても実際には単なる芸能民ではなく池田宿の有力者(長者)の娘で、父・義朝が池田宿との関係構築を目的として婚姻を結んだのではないかとみる説もある
最初の上洛戦では大手の大将軍として近江の瀬田から京に迫り、琵琶湖畔の粟津の戦いで「 木曾義仲」を追討。一ノ谷の戦い では大手の生田を攻めて、平知盛・重衡ら平家の主力を破った。
※遠江国池田宿 ( 出典:世界大百科事典 第2版 )
遠江国の中世宿駅,近世東海道の天竜川渡船場。また松尾神社領池田荘の中心部で,荘官居住地でもあった。宿はもと川の西岸にあったが,河道の変化によって東岸に移動した。池田宿は中世を通じて紀行文や軍記物にみえるが, 最も繁栄したのは平安末から鎌倉期 で,「平宗盛」と宿長者の娘「熊野(ゆや)」の物語は,謡曲《熊野》で名高い。「徳川家康」は池田渡船場の船守に種々の特権を与えたが,近世には衰退した。現在,静岡県豊田町池田。【本多 隆成】
その後、「頼朝」の命により「義経」を京に残し、「三浦義澄」や「北条義時」、「和田義盛」ら有力御家人を率いて 西国へ遠征 する。しかし、軍船・兵糧不足のため平家追討は進まず、御家人たちの間には厭戦気分が漂った。
「範頼」はしばしば「義経」と比較され、凡将のレッテルを貼られることが多い。その理由の一つに、この西国遠征の長期化が挙げられる。
しかし当時、飢饉や災害で諸国は疲弊していた。兵糧の確保は容易ではなく、「範頼」でなくとも長期の遠征は困難だっただろう。
それでも「 範頼」軍は元暦 2 年( 1185 ) 1 月に九州に達し、筑前・豊後の平家勢の掃討に成功する 。「範頼」軍による北九州制圧は、 2 ケ月後の 壇ノ浦の戦いで平家の退路を断つ結果となり、源氏軍勝利の一因 となった。
幕府草創後も源氏一門として重きをなしたが、身内に厳しい「頼朝」の警戒心はぬぐえなかったようだ。
建久 4 年( 1193 ) 5 月、曾我兄弟の仇討事件が起こり、頼朝が殺されたとの誤報が鎌倉に届いた。嘆き悲しむ「北条政子」に対し、「範頼」が「私がいるので心配ありません」と慰めたところ、この言葉が頼朝にとって代わろうとする野心とみなされ、謀反の罪で伊豆の修禅寺に幽閉、殺害された。
~あとがき~
大河ドラマ「鎌倉殿の 13 人」を見ていて、前半の大泉「頼朝」のなんとなくユーモラスでコメディタッチだったのが、回を重ねるにつれて「頼朝」が冷徹、冷酷な側面が現れてきています。三谷脚本も、がらっと「頼朝」の存在を変化させてきています。さらに、この先の史実をみてみると、「鎌倉殿の 13 人」の有力御家人の最期や「頼朝」の兄弟に対する仕打ちは過酷を極めますね。「家康」などとくらべると、「頼朝」は幼少からの自分の信頼できる腹心がいないようです。どうも、「こころを許す」ことのできる人材は少なく、信頼するより、常に謀反等を心配する日々だったような気もします。最も気を許せる肉親ですら、過酷な仕打ちを行っているのはなぜでしょうか。史実から見るとなにかホッとしたことのない人生だったような気もしてきました。歴史を裏読みすると、有力御家人が「頼朝」に肉親を打たせ、結果的にを裸の王様にさせていくということもあるのかもしれませんね。以上
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