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8月8日、8.15で講演していただく、大城盛俊さんのお宅に伺いました。
車で着いた我々を出迎えて、マンションの一階で出迎えてくださいました。
後姿はかくしゃくとして、とても、喉頭がんの手術を経た、77歳の方とは思えません。
伊丹空港が見渡せる、空の広いお宅です。
入り口に、月桃(げっとう)の植木がありました。
「月桃は、沖縄戦の象徴とされているんだよ。3月から7月に花が咲く。沖縄戦は、ちょうど、月桃の咲いている間じゅう、行なわれたんだ。葉は良い匂いがして、これで食べ物をまいて蒸したりする。大城さんには、思い入れがあるのだとおもう。」 と、同行の沖縄県人Oさんが教えてくれました。
きれいに整えられたお宅には、「関西 心の賞」受賞の表彰状が壁にかかっています。
大城さんの、長年の、85年以後の、1700回を越す平和の語り部としての貢献を表彰したものです。
変わられませんね、というOさんに、「いや、毛がちょっとうすくなってね、あなたがうらやましいよ、ガハハハ。」
お話を伺いました。
H4年、沖縄に行ったとき、「基地のおかげで、飯たべてる」と言う意見が、まだ強かった。
人間の鎖で、普天間基地を包囲したとき、沖縄の人はぽつぽつしか、いなかった。
畑仕事をする人に呼びかけても、関係ない、と言われたことがあった。
それが、変わった。
今年、厚労省に陳述に行った。(沖縄戦の援護法を厚生労働省が管轄してる。)
「沖縄戦の残酷さを分かっているか。沖縄に基地が何のためにあるか、沖縄に基地を押し付けて平気か。」
官僚は答えられなかった。
基地があると、真っ先に空爆される。
そのときは、沖縄戦とは全然違う戦争になる。
障害者が大量に出る。
八重山戦争マラリアを補償せよ、という運動に、今年も参加した。
伊丹の小学校に、この前も講演にいった。
戦争になったら、子どもだろうが、年寄りだろうが、年齢なんか関係ないの。
十一歳ごろだったが、学校は授業は全部やめ。
空港づくりに駆り出された。
硬い岩盤があると、10歳の子どもに穴を掘らせて、ダイナマイトを入れて発破をかけさせた。
女は、1m半ぐらいの直径のシンメイ鍋に、虫の食った芋、一升のご飯を入れて、かゆを作った。
沖縄守備隊は食糧を持ってこなかった。可愛そうに思った沖縄の人たちが、豚や味噌や、いろいろなものを分けてあげた。
戦争が始まるまでに、米軍はスパイを送り込んで、どこに何があるか全部知っている。
座間味島には特攻隊の基地があった。そこから、戦争が始まった。
日本軍は9万人、米軍は54万人。日本軍はすぐに武器も底をつき、戦争に成らない。
最初から、捨て石。
司令官は、「最後の一人まで戦え。」と軍命を残してさっさと自爆してしまう。
戦争が始まるまでは、「安心してください、私らが守りますから。」 と言っていたのが、戦争が始まったら、自分達はガマに隠れて。
沖縄の年寄りに手榴弾を持たせ、上陸戦車に投げさせた。抵抗すれば、その場で斬り殺すか、銃殺した。
アメリカも敵だったが、日本軍も敵。頭が狂って心が鬼になっている。
戦争が始まったら、日本軍は住民に銃を向けた。
食べ物ないから、住民から食糧を奪いにきた。
軍隊は沖縄をまもったか。守らなかった。
質問
空港作りなどに住民を動員したため、軍事機密を住民は共有することになり、これが漏れるのを怖れた日本軍が、方言で話すことをスパイと見なしたり、捕虜に投降することを禁じた、ということですが。
いや、そういうことではないの。
上層部から、沖縄に来る前に、命令が出ている。
沖縄方言を使ったら、スパイとして殺せ。命令に逆らったら殺していい。
軍事機密とか、それ以前の問題なの。
沖縄の方に聞かないと分からないと思っていたのですが、米軍上陸に先立つ、鉄の暴風雨、と呼ばれる艦砲射撃こそが、多くの沖縄の人々の命を奪ったのではないのですか。日本軍の残虐行為は許されない。日本政府に捨て石にされたことが、沖縄戦が住民に多大な被害を与えた原因なのですが、アメリカは、その後の基地問題も含めて、沖縄にとってなんだったのですか。
日本軍を味方と思っていたから、その日本軍に裏切られた、という思いは強い。
アメリカに艦砲射撃をされたが、戦争だからしかたがない、というふうにうけいれることはできた。
だけど、戦後の、アメリカ兵も怖かった。
アメリカは、戦争が始まるとすぐ、おおきな捕虜収容所を作った。
テントを張って、板敷きに藁をしいたもの。
食糧の配布はなく、自分達で遠くの畑まで、芋ほりに出かけた。
その途中で、アメリカ兵が女の子をさらって、暴行した。
黒人兵が多かった。戦後のアメリカ軍も怖かった。
沖縄戦の始めのほうでは、アメリカ兵は物をあげたりして親切だったが、沖縄戦の終わりのほうで、バクナー司令官が戦死し、その後アメリカ軍は怒り狂って、めちゃくちゃするようになった。ガマを火炎放射器で焼いたり。
日本軍、負けるときは、わが身が助かりたい一心で、残酷なことができる。
軍隊とはそういうものだ、どこでも。
日本軍は残忍だったが、アメリカ軍がよかったと言うわけではない。
戦争をしてはいけない。
私は、ガマに隠れていたとき、入ってきた日本兵にリュックを見つけられた。
「とらないでください。これは、私達家族の命なんです。」といったら、「女の子かと思ったら、声を聞いたらなんや、おまえ、男か、生意気だ!」 と、日本兵にリンチにあい、片目が見えなくなり、腹に重症を負った。
捕虜になって、アメリカ軍の診療所に連れて行かれて、そこに12日間いて、英語を習ったりした。
米軍が転戦するので、捕虜収容所にもどりなさいと、ジープに乗せて帰らされたが、そのとき、これを食べなさい、といろいろなものをもらった。
でも、帰ったら、年寄りたちが、何も食べるものがなく、震えているので、かわいそうで、自分で食べれなかった。みんなに分けたら、アメが4っつ残った。
その当時、夜になると、敗残兵が収容所に物を取りに来る。年寄りがタバコを吸っていると、「これはなんだ!」と殴って奪ったりするので、CPと書いたヘルメットをかぶって収容所内の者が夜警にたったが、木の棒一本では、日本兵から身を守ることもできず、無力だった。
「うつろな目をした少女」が大田昌秀前知事によって、発見され、大城さんが「それは私です」と名乗り出られたいきさつ、などが書かれた 「沖縄戦を生きた子どもたち」(クリエイティブ21)をお借りして、お暇しました。
あ、別れ際に、よく熟れたゴーヤを、2本、頂いて帰りました。おいしそうです。
あとは、当日の講演で。よろしくお願いします。
コメント
アメリカ軍による空爆「鉄の暴風雨」は、顔のない戦争だったのではないか。湾岸戦争のバクダッド空爆のように。空爆=無差別大量虐殺は、人間の感覚を麻痺させ、受け入れさせる。あたかも、爆撃が天災であるかのように。でも、これは、アメリカの政策なのだ。住民を無差別に殺したのは、人種差別による、許しがたい罪だ。
政策立案者、戦争指導層の罪は、現場の人殺し以上に、罪に問われるべきだ。
アメリカ兵が親切だったのは、その後、沖縄を軍事支配するつもりだったから、懐柔策をとっていたものと思われる。
つまり、アメリカ帝国主義の一環だった。