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北京での最後のランチはガイドの李さんの超お勧めだという麺のお店・面酷へ。入ってすぐにキッチンカウンターがあり、いろいろな種類の麺をその場で打っているのが見られます。中華麺と言えば、スープのなかに沈んでいるものを思い浮かべるんだけど、ここでは肉味噌だれと、唐辛子だれをつけて食べる形式になっていて、運ばれてくる麺がちょうどイタリアンのパスタのようにショートパスタになってました。皆で取り分けるのにはその方が取り易いし、量の加減もできるので楽でした。その他のお皿も癖のない良い味で(前日のランチの鼎泰豊もそうだけど)こういう味が今の北京の人々には受けているのかもしれません。鶏の丸揚げも出てきて・・・これはビールがなければ食べられないでしょう。ん~~おかわりください!写真ではよく見えないかもしれないけど、頭までこんがり揚がっていました。鶏肉はNGなAさんには、遠ざけておきたいお皿だったでしょうね(笑)ランチの後はもう空港へ向かうだけです。高速道路は整然として混んでいました。とにかく人も車も多すぎ!空気も歩道も汚れているし・・・と思ったけど、活気のあったころの日本もこんな感じだったから、これは国としての成長過程のひとつなのでしょう。少しまえに世界中の九つの国の印象からくる年齢っていうものを日本国内でアンケート調査した結果を何かで見ました。日本はアメリカ・スウェーデン・イタリア・韓国・ブラジル・インド・シンガポール・中国を押さえて最年長の52歳でした。中国は最年少の31歳。歴史は4000年でも、現代国家としての体裁を整えてからは日が浅く見られているのかな。52歳って大人として成熟しそろそろたそがれてくる、無理の効かなくなりはじめる頃かしら。31歳って・・・わき目もふらず人生を切り開こうとしていた時期かな。そういう勢いの違いが街の様子にも表れているのかもしれません。空港近く、高速道路の分岐点で、高速道路を支えている橋脚に「日本友終」っていう落書を発見。中国語としての意味は?正確にはわからないけど、短絡的に〈お隣とは絶交〉なんて、小学生のような対応じゃないかなぁ。なんだか悲しくなります。少なくとも52歳の私達は(本当はもう少し上だけど・笑)大人の対応をしていきたいものです。空港ではお土産のお菓子を買いました。いつものA先生との中国旅行では、地元のスーパーマーケットでお買い物っていうアドベンチャーがあるのだけど、今年は諸般の事情から割愛されました。だからお菓子も空港売店で・・・。15時45分、飛行機は定刻に羽田へと飛びたちました。乗客率は30%以下かもしれない。特にビジネスクラスとプレミアムエコノミークラスはがらがらでした。空港でチェックインの際、優秀なツアコンのSさんが私達のツアー全員をエコノミーからプレミアムにランクアップしてくれるよう交渉してくれました。なので帰りは座席がゆったりで楽々。食事などのサービスはエコノミーのままなのだから、このランクアップは航空会社としてもそれほど損はないはずです。飛行機のなかでは映画『メリダとおそろしの森』を見ました。小さい画面だから実写よりもアニメのほうが見易いです。羽田には夜8時過ぎに到着し、バスで帰宅しました。ちなみに私が買ったお土産の数々・・・色合いもやはり中国テイストです(笑)赤いTシャツは生後6ヶ月の姪の娘に・・・あまりにも可愛いんで最小サイズが2歳だったけど買っちゃった。若草色のTシャツはカンフー劇場で買ったもので、その上に乗っかってるものは万里の長城のスノードームです。あの場所の土産物店で見つけて、店員に「いくら?」って顔で聞いたら、彼女は電卓を持ってきて260と表示・・・260元?高い!と思ったけど、ここでしか買えないと思ったから購入・・・。時間が有ったら値切れたわ。本当は白く雪の積もったのが欲しかったんだけど、手渡された箱のなかには、黒い長城が入っていました。ちょっと悔いの残る買い物です。A4サイズのフォトアルバムも実は購入。これはずっと旅に同行していたカメラマン兼ガイド助手の王さんが撮りためた写真を出発前夜に徹夜で全員分の個人フォルダーを作ってきてくれたもの。なかの写真1枚が80元とかなり高かったけど、彼女の熱意ときれいな写真に負けて買いました。でも、写真の枚数によって値段が変わるので、購入写真は厳選させてもらいました(笑)ガイドといえば李さん・・・。とても可愛い顔をした30代の小柄な女性なんだけど、結構車通りの多い道でも平気で皆を渡らせました。その時の掛け声が「はい、勇気を出して」少し行けば信号のある横断歩道があるのに・・・と思ったけど、どうやら北京の交通事情は日本とは違うらしく、渡れるときに渡る。車も走れるときには走る。信号は便宜上のもの。という感じでした。ガイドさんたちからも同行した皆さんからも楽しい刺激をいただいて無事帰国です。長々と旅行記にお付き合いくださって、ありがとうございました。
2012年10月22日
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9月24日。いよいよLast day。前夜は調子にのって紹興酒も頂いてしまったので、さすがに疲れが残ってしまいました。すっきりしていないけど、がんばって5時半起床。日壇公園につくと、李先生達は既にご到着。宴会の翌日なのに全然お疲れが見えません。お弟子さんも一段と眼力が強くなっているようで、ポーズを決めたときの迫力は、凄いです。これって呉式ベースだからでしょうか。李先生も、初めてお目にかかったときの好々爺然としている雰囲気などもうなく、日々精気が増しているようです。もしかして私達、吸い取られてる??いつもは身だしなみに隙の無いマダムNの太極拳パンツの色合いが少し昨日と違っている・・・よくよく見ると縫い目のあたりがもそもそ・・・ん?前後ろではなく裏表間違い?やっぱりみんな疲れ始めています(笑)最後に李先生からA先生に著書をプレゼントなさいました。フルカラーの北京体育大学出版社発行の立派な本!それに達筆でなにやら奥付が書かれている様子・・・太極拳と書道はとてもつながりの深いものだそうです。中国の書の文化。漢字を使う国のものとして、尊んでいきたいものです。私達もこの太極拳教本、買えるものなら買いたいとお願いしたら、ご自宅からお孫さんが持ってきてくれました。李先生は中国の伝統的な家屋・四合院にお住まいだそうです。中庭を囲んで東西南北に建物がある・・・あれです。お孫さんとか、家族に囲まれてながら中庭で太極拳をなさっているのでしょうか。目に浮かぶような中国の景色ですが、北京市内ではどんどん取り壊されているそうで・・・。先生のお宅はどうなっていくのでしょう。李先生たちにお別れして、ホテルに戻ります。ホテルの中庭ではこの日も結婚式の準備が始まっていました。新郎と思われる人が白地に金のモールのついた制服を着ています。なんかカッコイイ! と見ていたら新郎の母と思しき人がニコニコしています。「素敵ですね、おめでとうございます」と、身振り手振りで話しかけてみたらお母さんも「うちの息子、パイロットなの、結婚するのよ、もううれしくって・・・」とそちらも身振り手振りで応えて下さいました。中国語が話せなくても、こういうことは万国共通。人の幸せな様子は、こちらまでホンワカさせてくれる力があります。ホテルの近くにはこんなマックカフェがあって・・・入ってみたかった。朝食の後チェックアウトして荷物はバスのなかに運び込み、きょうの観光へ出かけます。向かった先は天壇公園。まず通ったのがこの長~い七十二長廊です。ここは市民の活動の場になっていて、長い廊下の手すりには隙間無く誰かが腰掛、思い思いの趣味に興じていました。ガイドは「年金生活者はここに来て編み物をしたり碁をしたり、歌ったりして過ごしている」と、やたら年金生活のことを言ってたけど、共産主義だから老後はゆっくり暮せるということを強調しているのでしょうか。でも、まだまだ元気そうなオジサン・オバサンがいっぱいいて、この廊下の使用権をめぐって勢力争いがおきてもおかしくないほど(笑)冬でもやってくるのか?と聞いたら、さすがにそうでもないらしく、では長い冬の間、皆さんはお家に篭っているのでしょう。季節の良いときに外気のなかで過ごす・・・公園活用は中国ではとても盛んで、とてもよい風習だと思いました。~~~~天壇公園について某サイトから説明を丸写し・汗~~~天壇とは天神と地神を祭ったり豊作を祈ったりした場所です。昔から皇帝の一番の仕事は食料の確保です。飢饉になれば国は滅びます。天の神に祈り、農業暦を地方役所を通して農民に伝えました。当時は天候と農業の関係についての知識が少なく、役所から通達された農業歴によって種まきや刈取りをしていました。農民を確保するには農業歴が重要でした。祈年殿の建物は明の永楽帝の十八年(1420)に建てられて、直径32.72m、高さ38mの円形の建物です。天は丸い物とされていたのでこの形になりました。~~~~おっしゃるとおりの丸い巨大な塔を中心に、紫禁城よりもさらに広い美しい公園が広がっていました。ここは北京でも随一のパワースポットだと、今になって知ったのですが、あの日本人を冷たい目で見る状況では、パワーストーンにまで近づくことはできなかったですね。しかし、いくら無言の観光をしていても、物売りが私達を見ると「せんえん、せんえん。おねえさん、せんえんだよ」と言って来るのですから・・・バレているのです。中国猛者のNさんが堪能な中国語でいくらカモフラージュしようとしても、滲み出てくるのんびりムードは隠せないようです(笑)
2012年10月19日
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紫禁城を後にして行ったのは、ガイドさんお勧めの布団屋。いったい何なんだ?!と私も思いました。中国に来てお布団を買っても、どうやって持ち帰るのよ。第一そんな予定じゃないし。まぁ、ガイドさんもこうして客を連れまわすことによっていくばくかのマージンを貰っているのだろうし、それも含めての観光なんだろうから仕方ない・・・と思っていました。バスから降りて案内された先には、まだ建設仕上げの段階のビルの半地下に広くて明るい会場があって、そこにたくさんのベッドが並んでいました。大勢の売り子が待ち構えているのが見えます。まず、売り物の布団の説明を20分くらい聞きます。(疲れて居眠りをしている人も多い・笑)そして実際に布団の上に寝てみたり枕を試してみたり・・・。これが非常に気持ちがいい。係の人がペッたり張り付いてあれこれ日本語で勧めてくるのが煩わしいほど気持ちいい。いわゆるラテックスなのです。北京オリンピックの際選手村で使っていたものだそうで、天然ゴム採取から加工・販売まで一貫して手がけているという。100%天然ゴムなので虫・ダニの心配がなく、日光消毒どころか日に当ててはいけないという代物。高反発で沈み込んだりしません。実は買ってしまったのです、私。真空パック状態にすると枕ならスーツケースに収まるサイズだし、お布団なら送料・関税ともに向こうもちで送ってくれるというし(値段の中に既に組み込まれているということでしょうが)実家の母に送りました。母はとても暖かくて気持ちがいいとご満悦です。高かったけど、面白い買い物でした。笑っちゃうのが、ここで着替えをしたこと。夏の暑さが残る紫禁城を観光して汗まみれの私達は、この後ホテルに戻ることなく夕食に向かうことになっていたので、少しフォーマルに着替えるために、ガイドが、販売所の一室を借りることを交渉してくれました。お布団やら枕やら、たくさん買ったんだからわがまま言わせてもらいましょう(笑)次に行ったのは瑠璃廠という古い北京の雰囲気が漂う街角。夕暮れも迫り写真ではよくわからないのですが、商店街です。~~~ちょっと斜めから見た説明文をコピペします。~~~筆、硯、墨、紙の文房四宝と印章、書画骨董など、おそらく日本人を含み「外国人」の想像する「中国」がここにある。もちろんこの街の造りが清朝の大街を模して作られていることもあって、とても映画チックな雰囲気もまた魅力のひとつ。当然毎日多くの観光客を集めてにぎわっているのだ。 ただし、街が今のような姿になったのはつい最近のことだとか。つまり終戦、そして文革を経て、ようやく経済開放が認められてからのこと。当時付近に散在していた露天の骨董品(当然偽物も多い)商たちをかき集め、そして新しく作った建物に押し込んだというのが、現在見られる瑠璃廠の街並みなのだ。~~~~~いまの日本人はこんなところをうろうろしていては危ないので、どこにも寄らずただチラッと通りを眺めただけで帰ってきました。本当はフートン(胡同)を人力車で観光するという企画もあったのですが、取りやめになりました。どの観光地も噂ほど混みあってはいなかったのは、日本人観光客がほとんどいなかったせいかもしれません。中国庶民にとっても、いまの状況は好ましくないのじゃないかしら。そして今回の旅の最後の晩餐です。広東料理の店・肖江南お店のまえの柱がこんな風に飾られているのですが、お料理は正統派中華料理でした。太極拳の李先生とお弟子さんを交えてのお食事会です。上座には先生方と旅の重鎮のお歴々、ガイドの李さんも通訳として加わりました。そしてもうひとつの卓にはお弟子さんと通訳の方、それから私達・下々のもの(笑)そのお弟子さんへの質問が多くて、というか会話が弾んでお弟子さんはちっとも食べる隙がありませんでした。申し訳ない(汗)体格のよいお弟子さん・・・名前は忘れました、すみません。はじめは50歳くらいかな?と思っていましたが、59歳だそうです。だれも質問していないのに、というか、触れてはいけない部分かと思っていたのに、彼は自分から話し出しました。「今はこんな頭ですが、数年前まではふさふさしていました。北京オリンピックの開会式での太極拳の集団演技の指導のため、こんなになってしまいました。晴れがましい舞台なのでだれもが参加したがり、その選考から始まり演技の指導まで、たいへん苦労しました。でも、自分にとっては人生最大の喜びでした」そうか~。頭髪に代えてもよいくらいの値打ちがあったのよね。それはわかります。でも意地悪な私は聞きました「ご自身の結婚と比べてどっちが最高ですか?」彼は慌てて「結婚です」と、答えてくれました。その答えに私達中高年の女性テーブルからは拍手喝采でした。彼のお嬢さん(もちろん一人娘)は大学生で李さんのような外国人相手のガイドを目指しているそうです。日本語を習得するために日本に来ることはあるのか聞いてみると、韓国語のほうに惹かれていると・・・今の情勢を考えると日本語には未来が無いと判断されても仕方ないですね。そんなプライベートなことにまで踏み込んで、楽しい会話が続きました。通訳でついてくださった方の名前は春月さん。きれいな名前だと褒めると、彼女は名前の由来を聞かせてくれました。〈彼女のおかあさんは文盲(こういう単語を使っていました!)で、娘に名前を付けることも覚束なかった。そこで2月の夜に生まれたから春と月とした。〉春月さんはいい加減に名づけられたようで好きではないといっていましたが、私達からはロマンチックで素敵だと思うと話しました。お料理の写真は取り忘れました。例によって廻るテーブルがご馳走でいっぱいでした。そしてホテルに戻って、11時になる前にもう眠くて眠くて仕方がなく、横になるとあっという間に気を失っていました。
2012年10月17日
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9月23日 この日はちゃんと中国時間で5時半に起床(笑)6時半には日壇公園へと向かいました。1時間強の朝練習を終え、一旦ホテルに戻って朝食をとり、ふたたび10時には公園へ。この日は旅のハイライトでもある、李先生のご指導を受けての2時間練習です。基本的にはA先生がいつも教えてくださることと変わりませんが、中国風スパイスが効いています。場所の雰囲気も、李先生のパワーも、皆の集中の仕方も作用しているのかもしれません。こうして太極拳的突出した時間があるという幸せを、私はしっかりと覚えておかなくてはなりません。密度の濃い2時間を過ごして、ふたたびホテルに戻りあわただしく着替えをして昼食に向かいました。この日のランチは鼎泰豊で飲茶・・・って台湾のお店じゃなかったかしら?しかもわたしの生活圏にも支店があるし。しかし、ここは大きな店舗でした。メニューの種類も豊富です。上海蟹も扱っているようです。かに味噌入りシュウマイ・チャーハン・酢辛湯スープ・くらげの前菜と、みんな薄味で厭味のないよいお味。午前中の通算3時間を越える練習の後なのでビールがおいしい。気分もほぐれて大盛り上がりのランチでした。さて、いよいよ故宮博物館(紫禁城)へまいります。今年の太極拳旅行の行き先が北京と決まったときから、A先生をはじめとする何人かで浅田次郎著の『蒼穹の昴』『珍妃の井戸』『中原の虹』の三作品を読み込んでいました。私は『蒼穹』については田中裕子主演のドラマでお茶を濁し、『珍妃』のほうは新刊で出たばかりのころに読んでいたのでその古い記憶を頼りにし、『中原』だけを一生懸命この夏に読み切っていました。だから思い入れも強い(笑)井戸も見たいし九龍の壁も見たい。幼さない皇帝が書いた扁額も。もうすぐ国慶節を迎えるので天安門は飾付けが始まっていました・・・と思うのですがいつもこんなにきれいにしているのでしょうか。近寄ると毛主席の肖像画が掲げられていて、お決まりの中国のイメージどおり。左右には常設の桟敷席が並んでいて、ここから時の権力者達が手を叩きながら軍事パレードを見物するのでしょう。とにかく大きい。門や塀を構築している部分の内部はどうなっているのでしょう。地下倉庫とか、秘密の部屋とか、兵士の宿泊施設になっているとか?ガイドの李さんに聞いてみると、ただ石が堆積しているだけの単なる土台だそうです。こんなボリュームを有効利用しないなんて・・・と思うのは狭い国で暮しているからの発想なのでしょう。土も石も人海戦術でどんどん運んできて積み上げて、南北の長さ961m、東西の幅753m、面積約725000m²の城を囲んでしまうことができる、その権力には、ただただ恐れ入るばかりです。万里の長城も紫禁城も、規模の大きさには圧倒されます。中国って凄い。使役できる人の数がこんなに多いということは、それだけ権力者の力が強大だということで、そういう仕組みを作ることができる中国人の精神構造が怖いような気もします。ばらばらにならずにまとまっていく・・・求心力。中華思想。今もしっかり生きているのでしょう。太和殿へ登る階段の中央部分は皇帝しか使えないってことは知っていましたが、ここを歩くのかしら?この龍の彫り物の上を?歩きにくいでしょう??って思っていたら、当然のこと輿に乗ってこの彫刻の数十センチ上空を渡っていたと。そうか、なんでも自分の足で移動しなければいけない庶民とは違うんだ!じつは皇帝も不自由に感じていたんじゃないかしら。太和殿からまっすぐ奥に進むのが一般的な観光コースだそうですが、私達は九龍の壁と珍妃の井戸を見たい為、右にそれて進みました。だんだん建物は、人が住んでいるのにあわせたサイズになってきます。後宮って所ですね。ここには最盛期3000人の美女と数万人の宦官が居たそうで、食べ物が追いつかず、餓死する人もでたそうです。一旦ここに入ってしまった人は、外の世界には出て行けないし、出ても暮していくすべが無かったということですね。行き場のない人たちの恐ろしい世界。そんなところに君臨するのなんて、やっぱり皇帝は気の毒な人だったのじゃないかしら。紫禁城を南の午門から入り東側の建物を突っ切って北の玄武門まで歩きました。北には景山が聳えていました。この山も確か人造だったような・・・。ここで明の最後の皇帝が自死したのだったわ。そんな『中原』からのトリビアを思い出しながら、紫禁城を後にしました。また行きたい紫禁城。次回は一日ずっといて堪能したい。そのためにも中国と仲良くしましょう!
2012年10月13日
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ランチのあとはいよいよ万里の長城見学です。バスは更に郊外へと向かいます。果樹園もなくなり、周囲は険しい渓谷になってくると、山の尾根に映像でしか見たことのなかった石組みの櫓や塀が・・・これだ~!どうやら昔の関所のようなところを挟んで左右に続いている様子・・・。バスがさらに近づいていくと、そこには大きな駐車場がありました。しかし駐車場は大混雑で、ロープウェイに乗るのには1時間待ちだという話。「では、1時間歩いて登ってもいいでしょうか?」と、ガイドの李さんが言います。もちろん、歩きましょう!太極拳をしにくるくらい元気な私達ですから(笑)駐車場の端でバスを降り、土産物屋の立ち並ぶ広い道をすこし歩くと、長城への登り口がありました。チケット売り場に併設されたイヤホンガイド貸出し口には、数カ国の言語と国旗が書かれていたのですが、日本については国旗が消されていました。日の丸を見て過剰反応する人を、必要もないのに刺激することはない、と考えての処置なのでしょう。そういう理性的な判断ができる人と、簡単に暴徒と化す人とが混在している場所なんだと肝に銘じておかなければなりません。なるべく静かに、日本語は慎んで・・・って、中国語はできないのだから無口になるしかありません。長城は険しかった!うねうねと山の尾根に忠実に乗っかっているのだから、場所によっては手を付いて歩きたくなるほどの急な道なのです、あの塀の上は。景色は素晴らしいし、この建造物のボリュームには圧倒されますが、なによりもこんな山奥の尾根にまで囲いを造らなければならないほど、騎馬民族の侵入が怖かったというその思いが凄い!義経じゃあるまいし、こんな急な山を人馬が通るなんてありえない、と思ったのですが、頂上の高さは羊が越えられないような高さにしてあるのだそうです。騎馬民族は生活の一切合財を携えて来るわけだから、重要な財産の羊が越えられなければ、移動できないということらしいです。20年前にもここへきたことのあるA先生やM先生は、昔は観光客と言えば外人ばかりだったしこんなに人が多くなった・・・と言ってました。それだけ中国の人が生活にゆとりを持てるようになったということなのでしょう。長城のところどころにある兵隊詰め所(?)を2つ歩いたところで引き返してきました。ちょうど1時間。今と昔ともっと昔を思いながら。途中、関西弁で大声で離しているおじさん達がいました。これもまた一つのスタイルなのでしょう。日本人だからといってこそこそするのは確かに卑屈です。でも、要らない面倒は起こしたくない・・・。北京市内に戻ると官立だという隋縁芸術館へ案内されました。1階は貴石の美術館になっていて、日本語の悠長な係の人から中国の貴石についてレクチャーを受けました。寿石・青田石・鶏血石の三つが三大貴石と呼ばれるそうで、自然からでたものとは思えないほどの色合いや質感を堪能し、精緻な彫刻に目を見張りました。そしてずっと奥のほうに案内されると、そこには中国風(中国だもの、あたりまえ)飾り棚に収められた貴石アートの数々。「それが飾り棚とセットで、輸送料・税金込みでなんと今なら118万元!お好みにより貴石アートは別のものとのお取替えができます。風水的にも好評なこの一品、旅の思い出に家運の上昇に、是非この機会にお求めください」という仕組み・・・無理無理。庶民で狭い家に住む私は、地下に広がる工芸品お土産物販売所でこまこまとしたものを1万分の一の金額で買ってきました。店<美術館じゃなかったのか?>のそとにも美術品が展示されてました・・・埃をかぶって。夕食は北京ダックです。全聚第という老舗です。北京ダックならここ!と言われている名店だそうです。家鴨のぱりぱりした皮を、目の前で剥いでくれました。美味しかったけど、量が多いのでお皿が空かない。一生懸命食べました、私。このあと、中国猛者のNさんご推薦のカンフー伝奇を観にいきました。(と言っても全員じゃなく希望者だけ)場所は前日の京劇の芝居小屋とは違って、近代的で大きな劇場でした。芝居のせりふは英語で、字幕は中国語で出ていました。日本人団体が多ければ、日本語で出ていたのかもしれません。ストーリーは、母に連れられて寺にやってきた少年が純一という名(日本名みたい・笑)をもらい、修行を積み偉い老師になっていくという・・・。注目すべきなのはそのカンフーの技の数々。ジャッキーチェンでお馴染みの蟷螂拳とか酔拳をはじめとする拳法のさまざまな技と集団での演舞。見事なものです。いちばん印象に残ったのは、着地するときに体重を感じさせずにふわっと降りることです。最後の最後まで神経を使っているのに、硬くならない・・・彼我の大きな隔たりを感じます。Tシャツを買ってホテルに戻りました。
2012年10月13日
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バスは北京繁華街の高層ビル群を抜け、果樹園の続くなかをしばらく走って目的地・十三稜に到着しました。バスを降りるとすぐ近くに桃を売る露天商のパラソルが並んでいました。ここは駐車場の中でしょう?と思いながら売り手の方たちを見ると試食用に桃を剥いていました。が、皮はそのまま地面に落としている・・・何も気にせず当然のように・・・。こういうメンタリティが、理解できないのですよね。そういえばホテルのある路地にも犬の落し物や痰と思われる液体が落ちているので、ぼんやりして歩けません。パリも犬の落し物については無頓着だけど、毎朝清掃車が来ていちおうご破算にしてくれるのでしたが、北京ではどうなんでしょう。十三稜の説明をまたまたコピペします~~~北京の中心から北西へ約50km、昌平県の天寿山南麓に広がるのが「明の十三陵」です。そこは文字どおり、15世紀初頭の明朝の3代皇帝「永楽帝」から7代皇帝を除く、16代皇帝まで13人の陵墓が散在しています。しかし現在一般公開されているのは、「永楽帝」の陵墓である「長陵」、隆慶帝の陵墓「昭陵」、そしてここ14代皇帝である「万歴帝」の陵墓「定陵」の3つだけです。定陵の特徴は地下数10mに作られた地下墳墓にあります。地下墳墓はいくつかの部屋に仕切られ、それぞれに竜の飾りの付いた皇帝の玉座、鳳凰の飾りが付いた皇后の玉座、そして万暦帝とその皇后の柩などが安置されています。~~~~~ここが定陵の入口です。この先をしばらく歩いて地下墳墓へといったのですが、とにかく広い・大きい。15段の階段を10回降りました・・・つまり帰りは150段登るということです(涙)大理石の固く冷たいお墓には棺のレプリカと石の玉座しかありませんでした。本来あったマホガニーの棺や財宝の数々は文化大革命のときに持ち去られてしまったそうです。この地下墓地を建設したため、後年明の財政は逼迫したとも言われています。死後にまで無駄な華美や威厳を保持しようとするのは、民衆にとってどんなにか迷惑だったことか。こんなもので死後の世界がバラ色になるって信じていたのかしら?権力の中心にいる人は、孤独で奇妙な生活をしていたのじゃないかしら。皇帝になるって神の子どもになるってことだから、人間の感性じゃ追いつかない生活をしなくちゃならないのかもしれない。皇帝も実は気の毒な人だったのかもしれません。「この地下墓地の発掘調査は1956年から行われましたが、王墓を暴くと悪いことが起きるという言い伝えどおり、1958年には文化大革命が起きました。」・・・とガイドの李さんは話していました。でも、いまネットで文化大革命を調べてみると始まったのは1966年とあります。1958年は大躍進政策の始まった年。この政策が見事に失敗し公表されているのは数千万人、実は数億人の餓死者が出たという、中国の歴史のなかではかなり厳しい出来事でした。ともかく、この発掘はそういう時代の流れのなかにあったということなのでしょう。そして、中国の人は文化大革命を禍々しい歴史と解釈しているということに驚きました。 何にも書かれていない大きな石碑もありました。それは、亡くなった皇帝があまりにも暗愚だったため、讃える言葉も無かったためだそうです。あまりにも露骨な・・・。科挙で這い上がってきた英才たちは、暗愚な皇帝を、心の奥では馬鹿にしていたんでしょうね、きっと。バスのなかでは、中国のお菓子の試食販売会が開催されました。お勧めの胡麻と蜂蜜のせんべいを購入。もとは6個で1パックだったけど、皆で分けて2個だけ買いました。昼食は四川料理です。お店は1階が大土産物店、2階が大食堂になっているところで観光客ばかり。日本人を含めた外人率が高かったです。どのお料理もまんべんなく赤く染まっております(笑)私は結構いけたけど、辛いのが苦手な人には辛かったかもしれない・・・。麻婆豆腐の辛さは、半端なく、美味しかったです。このときの話題は宦官の手術のこと。手術は成長するにつれ何度か施されるという話をどこからか聞いて、敬愛するTさんが「切ってもまた生えてくるのか知らん?」とのたまったことで火がつきました。たまたまこのテーブルには男性がいなかったので、おばさんたちの手術に対する疑問と憶測はとどまるところを知りません。個室なので日本語での大激論も遠慮することはありません。で、結論はつかず・・・。蒸し返したくありませんが私は帰国後ネットで調べました。<春児、よくがんばったね>
2012年10月11日
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9月22日、私はその敬愛するTさんにひどいことをしてしまいました。太極拳の朝練習があるので、6時にレセプション前に集合・・・と記憶していた私は、前夜携帯の目覚まし時計を5時半にセットしていました。で、当然鳴りました。「Tさん、起きましょう」「急いで支度しましょう」などと言っていたのですが、出掛ける段になって外を見ると暗い、暗すぎる。「モーニングコールが5時半にくるはずだったけど、まだこないねぇ」とTさん。もしやと思って現地時間に直しておいた腕時計を見るとまだ5時前・・・しまった!携帯の時間を中国時間に合わせていなかった!いままで海外に行っても自動的に現地時間に合わせられていたから、中国でもそうだと思ってたら、どうやら違ったようです(汗)昨日も遅くまで動き回っていて疲れたはずなのに1時間も早くに起こしてしまった!心は平身低頭しながらお茶を入れて時間の経つのを待ちました。で、日本時間から1時間遅れて5時半のモーニングコールがきました。も・もうしわけない。それでやっと5時50分になったところで「さあ、行きましょう」とTさんを促し外に出てゆっくり歩きながらレセプション前に行っても、誰も来ない(ふたたび汗)しばらく竹林のなかを散策したり、宴会用の建物を覗いたりしていたらやっとM先生がいらっしゃいました。「6時半集合ですよね」え~!!またしてもいい加減なことをしてTさんを惑わしてしまった。もう、私のことは信じないでください。そんな私にも怒らずいてくださるTさん。ますます敬愛の念を深めたのでした。早起きは3文の得と言っても、この場合はただの迷惑。この日このホテルではガーデン・ウェディングがあるらしく、庭にいすを並べていたり・・・小さな建物を丸ごと装飾していたり・・・こういうのを堪能できたということで・・・(汗)さて、中国時間で朝6時半。ガイドの李さんや王さん、ツアコンのSさんを含めて全員集合しバスに乗って向かったのは日壇公園。北京には紫禁城を真ん中にして、北に地壇公園、西に月壇公園、南に天壇公園、そして東に日壇公園があるのですが、それ以外にもたくさん公園があって、そのどこも市民の活動の場となっている・・・はずです。中国の人って朝早く、ジム代わりに公園に行って思い思いの運動をしているようです。太極拳はもちろん、社交ダンスや創作ダンス、盆踊りみたいなのもあったし、楽器の演奏もしていました。だから朝の公園は賑やか。大音量でCDをかけるグループもいるのでちょっと迷惑だったりして・・・私達の後ろでは黒いベリーダンス風の衣装を着たおばさんたちがタイの踊りのような太極拳のような不思議な体操を始めていたりして・・・それも含めて中国の朝の景色です。もともと私が太極拳に興味をもったのは、こうして公園で無心に動いている中国人のグループを見たことからなので、この景色には魅かれます。私達はここで中国太極拳界の重鎮・李乗慈先生とそのお弟子さんたちと待ち合わせしていました。李先生がどんなに偉いかというと、国家級社会体育指導員・栄誉国家級武術裁判員和国家武術委員、北京市呉式太極拳研究会会長、武術段位制首批八段で、勲章を貰っていて・・・。中国語なのでよくわかりませんが制定太極拳の塘路を決めた中心の一人だそうです。本もたくさん書かれていて、海外でも指導していらしたそうですが1929年生まれの82歳。公園に現れたときには身内の方に支えられながら杖を突いていらしたので、〈実際はお弟子さんが教えてくださるのね・残念だけど李先生の動く姿は拝見できないのね〉と思っていたのですが、いざ練習をはじめると、はじめは声だけ、そのうち腰掛けていたベンチから立ち上がり、手取り足取り、仕舞いには私のお尻の角度がちがうとピチャっと叩いて(笑)その熱心さには皆驚きました。厳しいのですが、説得力があります。呼吸一つをとっても、その時の李先生の体の様子が変化するさまを、実際にその体に触れて確かめるよう触らせてくれたり。思わず李先生のパワーを頂きたくて、たくさん触れさせていただきました。朝ごはんまえの1時間とはいえ、密度が濃い・・・。疲れてホテルへと戻る私達・・・日本人だってばれているでしょうね。 ホテルに戻ってこのあとの観光に備えて着替えました。この時期、北京は寒いはずだったのに、連日30度近くになるみたいで、日本と同じ異常な夏のようです。朝食はホテルのこじんまりしたレストランでバイキングでした。メニューは、パン・お粥・焼きそば・野菜の炒め物や果物・・・。スイカがとても美味しかったです。全体には可もなく不可もなくってところでしょうか。オムレツのブースもあったのですが一皿に卵3個を使うと聞いてやめました。9時半、ホテルを出発して十三陵へ向かいました。この日は土曜日なので行楽に出掛ける車が多く、高速道路もしばしば渋滞です。中国の人々はこうして休日にマイカーで行楽に行く余裕ができてきて、いままさにどんどん出掛けるているのだそうです。これまで世界遺産だとか観光地だとか言っても、外国人観光客が行く場所でしかなかったのに、中国の人々がこぞって観光に出掛け、自分の国の素晴しさを確認しているのです。いま自信をつけてつつある彼らの息遣いが、この車の流れから感じられるようです。
2012年10月11日
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北京でのナイトライフ、それは観劇です。京劇を鑑賞しに、とある劇場へバスは向かいました。これが京劇の常設劇場です。 (入っていくスレンダーな女性はガイド手伝い兼カメラウーマンの王さんです)中庭があったりトイレが粗末だったり・・・かなり場末の雰囲気ではありますが、中国の伝統的なものを鑑賞するには雰囲気抜群です。場内は、1階席は平たい床の上に四角いテーブルと、それを囲むように置かれた椅子が数客。テーブルにはお茶とお菓子や果物の用意があります。2、3階席は桟敷のように区切られていて、規模は小さいけど、まるでオペラ座のようです。ステージは能舞台のように囲われた空間で、大道具は置かない決まりだそうです。ここで観たのが…ん~題名はわからない(汗)演目はふたつで、はじめのものは恋する村娘と世話焼きばあさんの話。もうひとつは、夫のために門外不出の薬を持ち出した白蛇の精が制裁を受けるという話。ストーリーは単純です。特筆すべきはその発声、しぐさ、いでたち、そして殺陣。歌舞伎のように、約束事の上に成り立った演劇の面白さがふんだんにあって、とても楽しめました。深く京劇を理解していれば、素養があれば、もっともっと楽しめたのかもしれません。イヤホンガイドを渡されたので、ストーリーはそれで把握できました。でも、このイヤホンガイドが実況中継的なものではなく、解説文をただ読み上げている方式だったので、ときどき邪魔になりました。しかも同じ話をリピートしているし。これならリーフレットに書いて渡してくれれば記念にもなって良いのに。一番面白かったのは殺陣です。動作のなかに太極拳の要素や太極剣のきめポーズが入っていて、そのたびに「ほぅ~」と見惚れてしまいました。演じているのはスレンダーな女性でした。あの烈しい動きでも汗ひとつかかない・・・訓練の賜物でしょうか。でも、いま目に浮かぶのはあの世話焼きばあさんのインパクトありすぎの顔です(笑)それから村娘の持っていた布が汚れていたこと・・・舞台がとても近いだけに気になってしかたない。客は海外からの観光客(わたし達とヨーロッパ系の人達)がいるだけで、とても空いていました。経営難なのかしら・・・。この劇場へ向かうときだったかな?天安門広場のまえをバスで通り、見学したことになりました。暗くなっているし、外には出たくないのでこれで充分です。それにとにかく広い・長い。徒歩だとしたらどこをどう見学したらよいのやら。どのくらいの規模かというと、天安門広場が面している長安街という片側5車線、両側で10車線の道は直線で13.4キロつづいているという・・・ちなみに有事には滑走路として使うことを想定していて道幅100メートルのところもあります。(非常時には党幹部がここから逃げ出せるように?)その物量作戦、さすが中国共産党です。向かうところ敵無しってかんじですね。このあとやっとホテルへ。竹園賓館の紹介はホテルのホームページからコピペします。~~~北京竹園ホテルは鼓楼西の静寂な路地裏に位置し、古典式な中国庭園建築である。もともとは清の時代末期の郵便大臣-盛宣懐の私邸で、また伝説により、ここはかつて宦官-安徳海のガーデンだったようです。敷地内の楼閣がお互いに繋がり、回廊がうねっていて、竹の林が沢山植えており、築山と噴水が散在しています。園中の至る所まで名人の書画作品がかけられ、濃厚な中国文化雰囲気を実感できます。 ホテルはツーインルーム、シングルルーム、スイートルーム、VIPスイートルーム、中国庭院式スイートルームなど各グレードの客室がある。古風の客室が風雅かつ心地良いである。~~~と、ちょっとビミョーな日本語がご愛嬌でしょう。バスはホテルのある路地のなかにまでは入ってくることができないので、わたし達は表通りでおりて、数分胡同(フートン)を歩いてホテルに着きました。中庭に面していくつかの建物があって、そのなかのひとつがレセプションになっていました。説明文にもあるようにかなりディープな空間でした。わたし達の客室は回廊を少し進んで、竹林の横を通った先にある3階建ての(エレベーターなし・荷物はボーイさんが運んでくれない・涙)まぁ近代的と言えば近代的な建物のなかでした。わたしは今回も敬愛するTさんと同室にさせてもらいました。
2012年10月10日
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中国・北京への太極拳旅行への参加を決めたのは、まだ日中国交正常化40周年記念行事が行われる予定があった8月のことでした。それがまさかの急転直下・・・中国国内でこんなに反日感情が高まってしまうとは!テレビではあちこちでおきたデモや暴動騒ぎや日系企業の焼き討ちを何度も放送しているし、ネットでは、中国に住む日本人が外に出られない状況だというし。これで機嫌よく「いってらっしゃ~い」と送り出してくれるほど、私の家族は鷹揚ではありませんでした。ムスメに叱られオットに呆れられ・・・でも、行っちゃいました。北京♪9月21日朝6時に最寄り駅に集合し、電車を乗り継ぎ羽田空港に着いたのは1時間後。ここで他の地域からの参加者と合流し、ツアコンのSさんと合わせて総勢16人の旅の始まりです。中国猛者のNさんは一日前に北京入りして偵察開始?!9時半。北京への出張や旅行はキャンセルが相次いでいるらしくJAL機は大幅に定員割れの状態で飛びたちました。飛びたって少ししたら、隣の席のKさんが「あれ、あんなところに飛行機が飛んでる」と窓の外を指さします。しかし、いくら目を凝らしても機影は見えず・・・「どこですか?ずっと遠くで見えないわ」と応えると 「ほら、すぐ窓の外。翼があるでしょう?」って、それは私たちが乗っている飛行機の翼ですから!(爆笑です)この日のランチは機内食です。炊き込みご飯はべちゃべちゃしていて不味かったそうです。わたしは洋食にして、しばしパンとはお別れ。映画は「テルマエ・ロマニ」を鑑賞している人が多かったようです。北京国際空港は4年前のオリンピックを機に新らしくなったようで、広くコンテンポラリーな空間となっていましたが少し暗かった。省エネですね。入国審査を終えて出た場所の両側に長さ数十メートルの絵巻物が飾られてあったのは圧巻でした。中国に来た~!って気分になれます。さっそくチャーターしてあるバスに乗り込みます。バスの運転手も、現地ガイド兼通訳の李さんも、これからの四日間、わたし達と生死を(大げさね)共にしてくれるとのこと。人ごみのなかでは日本語を話さないように、目立った行動はしないようになどなど、この時期だからこそのビミョーな注意を受けました。でもバスのなかは日本租界。ちょうど二人掛けの座席をひとりずつ占領しても良いくらいのバスだったので、のんびりリラックスして頤和園(いわえん)に向かいました。~~某サイトからコピー~~頤和園は万寿山とその南に広がる昆明山の総称で、面積は約290万平方メートル、背後に聳える玉泉山や西山を庭園の風景の中に取り入れている、北京最大の皇家園林です。1750年に清の乾隆帝が母親の還暦を祝うために造営した庭園が始まりで、杭州の西湖を模した昆明湖や、中国伝統の神仙蓬莱思想が庭園の各所に表現されています。~~~~面積の4分の3を占める湖は人造湖(水深2メートル)というか、掘って水を溜めたそうで、その時に余った土を積んで万寿山などを造ったそうです。まさに人海戦術!労働力の豊富さ!後ろにそびえているのはお寺です。西太后は毎日お参りに行ったそうです。纏足していて長く歩けなかったでしょうから、輿に乗っていったのでしょうね。たいへんだわ、使われていた人たちは。ここには西太后の逆鱗に触れた光緒帝が幽閉されていた一郭があり、その狭さや殺伐とした設え(図書室は必要ないと判断され煉瓦で閉ざされていたり)に、驚きました。こんなに美しい回廊が700メートルも続いているのに、そこには7000枚を越える絵画が施されているのに、光緒帝は散策も許されなかったとは・・・。無口に観光し(日本語が聞こえると耳障りに思う現地の方もいるのではないかとの配慮)再びバスに乗って北京の中心に向かいます。視界はよくありません。スモッグと霧のせいだそうです。車道に止めたリヤカーの陰で昼寝をしている人がちらほら・・・危ないよ~。車の量は多いです。渋滞がしょっちゅうだというのには納得です。駐車場の数の2倍、車が走っているそうです。車庫証明はどうなっているのかしら。この日、一番多く見た外車はベンツです。それからワーゲン、アウディ、ヒュンダイ。人気だという日本車はまったく見当たりません。この時期、なにをぶつけられるかわからないものね。しかし、洗車をしていない車が多い。アメリカだってここまでひどくは無いと思います。日本の清潔さが異常なのかもしれないけど。ここで、ガイドの李さんからの豆知識を・・・北京市は日本の四国とほぼ同じ面積だそうです。中国では、省のなかに市があって、市のなかに県がある、という構造で、日本とは規模がちがうのはあたりまえです。現在1万円は720元。1400円が100元と換算するといいそうです。わたし達も両替はバスの中で李さんにしてもらいました。そして到着したのが火鍋料理『小肥羊』羊肉が苦手な人も多いので牛肉の割合が多かったようです。薬膳鍋ですね。美味しかったです。鍋料理のほかにつきだし的なお皿がいくつも出てきました。すべて大皿料理です。中国だ!そして北京のナイトライフへ・・・
2012年10月09日
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事故ってほんとうに面倒・・・。されてしまったほうがこれだけ面倒なら、してしまったほうもへこむだろうなぁ・・・。先週末、オットの運転で、首都高池袋線下り美女木ジャンクション手前のゆるい下り坂。車の量は多かったのだけど、それなりにスイスイ走っていました。わたし達の前の陸送車が急ブレーキをかけ、あわててオットも急ブレーキを踏んで止ったところに、後ろから来た廃棄物処理トラックがぶつかってきました。あぁ、事故!オットはぶつかってくるのがバックミラーでわかっていたので特に外傷はなし。後部座席にいた義母もきょとんとした様子ながら何もなし。しかし、助手席にいた私は座席にバウンドしてぶつけられた感じで、あまりよろしくない。首も背中もかなりの違和感。頭もなんだかすうすうして、やられた!って思った。とは言っても救急車を呼ぶというほどでもないし、エアバックが開いたわけでもない。肩や腕をぐるぐる回して筋肉が硬直しないように解しているだけ。オットは路肩に車を寄せて後ろのトラックの運転手と話し出した。まずは警察を呼ぶ。車の後部はリアバンパーに亀裂とへこみができ、バックハッチの一部が押しつぶされている状態。走行に問題はないらしい。トラックのほうは無傷。作りが違うんだわ。車の右側をびゅんびゅん他の車が通っていくのが怖いけど、警察が到着するまでは動かせない。じきに高速パトロールがやってきて赤コーンを立ててくれたので少しほっとした。あぁ、こんな状況で停車している車を横目に走ったこと、あるよねぇ。「あ、事故だ」なんてまったく他人事だったのに、今はわたし達が当事者。事故から1時間後にやっと警察登場・・・遅い。いろいろ書類をかいてその場からわたし達が再出発できたのはその30分後でした。高崎でムスメを乗せて、箕郷しばざくら公園で半分しか咲いていない芝桜をみて、自衛隊航空基地の満開の桜を見て、伊香保温泉で湯治の気分になって日曜日に帰ってきました。月曜日、やはり様子が変。枕をしては寝られない。首が痛い。一時間立っているだけで首と腰が重くなる。仕方ないので整形外科に行きました。実はわたし、10年ほど前にも追突され、同じ整形外科にしばらく通いました。顔がひん曲がるんじゃないかって思うような首の牽引も半年くらい続けました。でも、完治はしないのでなんとなく足が遠のき今にいたる・・・。首や腰は以前からそれぞれに問題があることは言われていたので、5年ほど前から、調子が悪いと懇意にしている整骨院で整えてもらっていました。なのでお医者さんに「整骨院に、定期的に通っているのですが、今回も通っても良いものでしょうか?」と聞いたら口調が怒りモードになって「私の知らない治療を受、保険の書類だけかけといわれても、わたしはできない。整体にいったらもう何もできない」と早口でのたまう。あぁ、誤解している。わたしは整形外科のお医者さんに治療の方針を決めてもらって、それに従っていこうと思っているのに、はなから保険適用できる整骨院へいくと決めてかかっている・・。「この先どうしたらいいんでしょう?」と聞いたら、「ムチ打ちはとりあえず様子を見て症状が固まってからでないと治療できません。2週間ほど様子を見てください」とのこと。でも、それならなぜレントゲン写真ができるまでのあいだに、ホットパックと電気治療をさせたのですか?何もできないというのに・・・。リハビリに通うように、とも言われずにここでお話は終わり。帰りに会計で事故による通院なので預かり金5000円を置いて帰ってきました。リハビリには通ったほうがいいのかしら?と事務の人に聞いたら「週2~3度、来てください」とお答え。事務の人が答えるって言うのも変だわ!事故はほんとうに迷惑。車を購入したディーラーに修理の見積もりをしてもらったら、いろいろ取り合えるしナンバープレートも一旦外さなければならないので、早くてもゴールデンウィーク明けに入庫ということになった。え~!後ろがくちゃくちゃのまま買い物に行くわけ?カッコ悪い。でもね、陸送車と廃棄物処理車に挟まれて大怪我しなくて良かった、そう考えよう。追突したトラックの運転手も、きっと今頃落ち込んでいるだろうなぁ。一生懸命ブレーキを踏んだけど、車が止まらなかったって言ってたもの。仕事中の事故は、それはそれで面倒だろうし。あぁ、パソコンに向かうと腰と首が痛い。
2012年04月26日
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4月からは社会人、というかもう遊べなくなるムスコと有楽町に行く用事があったので、ついでにいろいろ詰め込んで一日デートをいたしました。思い起こせば20数年前・・・でかくて穏やかな赤ちゃんでした。よく食べよく眠り、実に育てやすい子でした。それが実はものすごい甘えん坊で人見知りで、5歳を過ぎるまで誰にも預けることのできないほど、わたしから離れない子でした(幼稚園にも行きたがらず・汗)長じて現在・・・優しいって言えば優しい、自分にも他人にも。たくさんの男友達と(女の影無し・涙)遊び暮らしていたのですがとうとう年貢の納め時。自立してくれるかと思いきや、自宅から通勤できるそうで・・・。それでも、もうあまり構ってくれなくなるんでしょうね。上野にお昼到着。手早くラーメンを食べて向かったのは、国立科学博物館です。三月にマチュピチュにいきたかったけどいろいろあってダメだったムスコと、行ってみたいけどたぶん無理な私とが、ここでお茶を濁します。思っていたよりずっと楽しめました。映画の3Dは疲れるので嫌いだけど、ここでみたマチュピチュの映像は適度な迫力と単純な構成でとても良かったです。それから何体もあったミイラ、色とりどりの織物。このチケットに印刷されている物体も、思いがけない錯覚があって。二人で満足してでてきました。春休みだし、会場は小学生だらけではないかと思っていたのに、大人だらけでよかったです。次に有楽町で用事を済ませ、映画です。シャーロックホームズ2!はじめは会話のテンポが速くて頭が疲れちゃったけど、アクションが始まると爽快です。こんなホームズは私の持っていたイメージとはまったく違う。ホームズのお兄さんも違う・・・けれど面白い。昔、BBSが作成したあのテレビドラマのホームズが、わたしの中のホームズだったけど、これはこれで・・・別物。それでも面白いからOKです。そしてこれに遭遇しました。この日の朝、ニュースで全国から集められた桜が、有楽町でいっせいに開花するって言ってたけど、正にこれです。桜の枝にはその枝の産地を標記した札が下げられていました。実際に沖縄から北海道までの桜が一同に花開くことはないのだから、この技術の素晴らしさと職人さんの経験値の高さ、努力に驚きです。植え込まれたポットには被災地へ向けてのメッセージが書き込まれていて、どこに行っても、いつになってもこういう思いは消えることも薄れることもないのだとあらためて感じました。そして最後はお寿司♪7時半にオットと赤坂見附の駅で待ち合わせをしていて、一緒に向かったのが「はしぐち 鮨」豊川神社裏手の人通りの少ない通りの角に立つビルの二階。引き戸を開けて中に入ると待合のようなスペース・・・奥から感じのよい着物姿の女性が出てきてコートを預かってくれて、誘われた奥には広いスペースに檜の一枚板のカウンター。ご主人がこちらを向いていて、8席くらいを相手に握ってくれるらしい。店はこの二人だけで仕切っているらしい。清潔で、凛とした空間。カウンターにはカメラと携帯がバッテンされている小さな絵表示がありました。そうだよね、写真をとろうとする人がいると、どうしても気になって一瞬その人にすべての空気を掴まれてしまう。あとはそんな間が気になって集中できなくなるけど、私からやめてほしいとは言えない。だから、こうしてお店のほうで禁止してくれると嬉しい。お鮨は、お任せで・・・美味しかった。あのウニは何だったのかしら??わたし達の隣には60代と思われる女性が二人、仕事とグルメと人間関係の話で盛り上がっていた。最近まで放送していたドラマ『最後から2番目の恋』の、キョンキョンとその友達の会話のようだった。あのドラマが60代まで続けば、こんな調子になるのかな。このお寿司屋さんにも来馴れているようで、可処分所得は多いのでしょう・・・。世界が違う人たちでした。と・・・ムスコとデートと言いながら実際はオットのおごりの締めでした。次はムスコの初ボーナスで連れてって♪
2012年03月25日
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太極拳、神奈川県大会へ出場しました・・・惨敗。まだまだ未熟な部分を発見し、来年はこんな気分にならないようにしっかり練習をつんでおこうと心を新たにしています。さて、ヴェニス。ゴンドラを降りたところでまだ陽はあるので、ムスコが楽しかったというアカデミア地区へ行ってみました。確かに!サンマルコ寺院周辺とはちがって落ち着いています。ショップも、ブランド店や土産物屋というより、こだわりの逸品を置いているような雰囲気。食べ物屋さんも落ち着いて見えます。いくつか美術館もあり、シックなアートの街・・・かな?オットがどうしても入ってみたいというので2009年にオープンしたプンタ・デラ・ドゥガナ~現代美術館へ行ってみました。建築家・安藤忠雄氏が古い税関の建物をリノベーションしたそうで、外観の歴史はあるのに無機質な感じと内装の自由さが、展示物を先入観なしに見せてくれる、素晴らしい建物でした。展示物は現代だけあって、時々刻々と変わっているようですが、インパクトの強さは凄いです。新鮮で強烈な美術館でした。ただ、一つの作品だけはどうしても受け入れられない・・・。ボディ・バッグ(死体を入れる袋)が、あたかも中身が入っているような形状でいくつも床に並べられている展示は、いまの日本人には辛い景色でした。これをどう受け止めるか、ということはアートとそうでないものの境界線をどのあたりにするのかということであり、その時の心理状態で変わってしまうのはかなり際どい作品だということなのではないでしょうか。写真は撮らなかったのでこの方のブログで雰囲気を掴んでください。http://www.loftwork.jp/blog/chiaki/2009/06/punta-della-dogana-1.html美術館を後にすると日が暮れはじめていました。運河に映る街灯が揺れて美しい。ヨーロッパを感じます。帰宅したボートが家々の前に係留されています。アカデミア美術館の前の橋を渡ってホテルのある方向へ戻ります。サンマルク広場の鐘楼には光で雪のモチーフが映し出されていました。明日の朝は、ここに登ろう・・・。いったんホテルに戻ってから7時半にリアルト橋の向こう、カドーロにあるレストランに向かう・・・つもりが、うっかり近道を取ったはずなのにとんでもなく方向を間違え、気がつくとひと気のない地元民ばかりの街角で3人顔を見合わせてしまいました。狭く暗く見通しの悪い道、時折すれ違うのは地元の酔っ払い・・・怖い。お店を閉めようとしている人にリアルト橋の方向を聞いてみたけどお互いにまるで通じない(涙)なんだか同じ場所を3回見たような・・・。そんなこんな苦闘しながら奇跡的に予約の8時を10分遅れてバールに到着。なんだかこんなことばかりしている。前日の店にシステムは似ているが、もっと雰囲気が暖かい。きっと慣れたせいだわ。どこかのカップルと相席だったけど、すわれれば文句は言えない。前菜盛り合わせ、魚バージョンと野菜バージョン。もっとそれぞれの味に特徴があればいいのだけど・・・イカスミのパスタも塩辛いだけ・・・。付け合せのポレンタの味気なさはなんともいえない。それでもこんなに混んでいます。席が空くのを待って立ち飲みしているけど、あれで充分なお味ではないかと・・。帰りはすんなり水上バスに乗れたけどオットが寒がっていました。ここで風邪をひかれてはたいへんなので、バスタブにお湯を張って入ってもらいました。
2012年03月18日
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いつまで続くんでしょう、ヴェニス。週末は映画「ドラゴンタトゥーの女」を見てきました。原作は3部まで読み終えていたので、私なりのリスベット像やミカエル像ができていて、映像のなかと刷り合わせるのがちょっとたいへんでした。私的にはリスベットはもっと子供のような、骨の細い感じで少女の面影があったし、ミカエルは文学中年っぽくもう少し髪の長いスエードのジャケットでも着ていそうな男かと思ってました。犯人は、小柄かと思っていたし・・・。でも、映画が終わるとストンとその役柄に納まっていたので、納得です。原作者がすでに他界しているのは実に残念。さて、ブルーノ島から本島に戻って、サンマルコ寺院あたりをぶらぶら歩きながらウインドーショッピング・・・横目で見ると寺院の入り口には行列ができています。そうか、入場するのには並ばなくてはならないのか!30人ほどの列だったのであっさり入れました。なかは長年の香と人の息と潮風ですっかり煤けていました。本来は黄金に輝いているはずの壁のモザイクが、歴史の澱に覆われて古道具屋に置かれた雑貨のように草臥れていました。しかもひょいと手を伸ばすと届く近さ!悪戯する気がなくてもうっかり汚してしまいそうです。寺院の維持・・・中世にはたくさんの喜捨があり、貴族や富豪が競って盛り立てていたのでしょうが、いまは観光客の入場料に支えられているのかもしれません。(入口・資料館など3ヶ所で、合計10ユーロ支払いました)ヴェニスの街同様、歴史の波に取り残されているような感じでした。バルコニーから外に出て広場や海を眺めました。どこもかしこも見事な細工で覆われている、確かに世界で一番美しい広場だったのでしょう。そろそろランチ・・・。実は前の日から気になっていたお店・Osteria da bacoがあったので、勇気を出してそこに入ってみました。どう勇気が要るかというと、パニー二を注文して焼いてもらって店内で食べたかったのです。イタリア語の本は持ってきていないけど、ボディーランゲージで勝負!指先確認で私はハムとアーティチョーク、オットはチーズと生ハムを注文したら、大丈夫でした。店内の簡単な椅子に腰掛けついでに白ワインを2杯。隣のテーブルには常連らしいゴンドラ乗りのお兄さん達が大きな声でおしゃべりをしています。お店のお姉さん達との話が弾んで賑やかでした。暖かくて美味しくて楽しくて、ヴェニスで一番の食事でした。実はこの夕方は、ムスコと3人でゴンドラに乗る予定にしていました。ホテルで3時に待ち合わせ、近くの船着場でちょうど客をおろしているお兄さんに声をかけてみました。もちろん英語で。そるとお兄さんも流暢な英語で値段交渉をしてきたので、さっそく乗船。英語だったら何とかなるわ。それに恥ずかしいから歌はいらないし。お兄さんは、30分80ユーロだけど、40分100ユーロで静かな地区を回るっていうのはどう?と聞いてきた。オットはそれで良いと答えたけど、私は40分は長いのでは・・・それに大運河のほうへも行ってみたいし・・・。それでも、水辺の暮らしを水面の高さから見るのは面白い。そういえば紹興でもこんなのに乗ったなぁ・・・でも、ヴェニスのゴンドラの操船技術はすごい。幅2メートルくらいの水路で他の船とすれ違ったり90度曲がったり・・・。足で壁を蹴って絶対に船を擦らないように操作していました。そうこうしてる間に、40分は過ぎてしまいました。思っていたよりも短かったような気がするほど楽しかった。終点はホテルの近くです。お兄さんは操船技術をお父さんから習ったそうで、生粋のヴェニスっ子ということらしい。楽しそうにヴェニスを案内してくれた彼は、ヴェニスの将来をどう感じているのかなぁ。
2012年03月07日
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ブラーノ島に近づいていくと、鐘楼が見えてきました。が、なんだか傾いている。ピザの斜塔のようです・・。地盤沈下のせいなのでしょうか?近くによって写真を撮ってみたけど、傾いている方向の関係で傾いているようには見えません。町並みはカラフル!暗くなってから帰宅する漁師達が自分の家を間違えないように色を塗ったという話ですが、暗いと色も判別できないのでは?などと、つっこむのはやめましょう。こんなディズニーの町のような色合いなのに、しっかり生活感はあって洗濯物が干されていたり朝市の場所があったり、地元の商店が開いていたり・・・。ファンシーなレストランなど、どこにも見当たりません。そういうなかでも、これは?床屋さんかな?戸口の前に潮よけの板が立っているのが、生活の知恵のようです。移動八百屋さんもこの島なら船でやってくるのですね。島のメインストリートには観光客のためのレース製品のお店がたくさんありました。でも、どこかで見たタイプのものばかり・・・。きっと中国で大量生産されたものだと思う・・・。しかし、島の奥のほうにあったこのお店は違いました。何しろ実際の製作者の一人が実演しているし、中途半端なものは置いていません。(となりの包帯ぐるぐる巻きは私です。あまりに着膨れているので隠しております。)階段の途中にかけてあった額縁付きの作品なかからこれを買ってきました。ブラーノ島の傾いた鐘楼の図柄です。こんなに小さいのに7種類のレース編みの手法を使っているそうです。お店の人はぱっと見て、このサイズなら一ヶ月はかかる…と言っていました。本当かどうかはともかく、それに見合うだけのお値段でした。買い物もしたし、島はかわいかったし、大満足で11時26分発の水上バスに乗ってヴェニスへ戻りました。
2012年02月29日
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2月29日・・・四年に一度のこの日、関東地方は大雪です。窓の外の公園は真っ白。その上に更に雪が降っています。ここはどこ?実家の庭? コネチカットの傾斜のある庭? ソルトレークのスキー場?苗場?そんな幻想も虚しく、いつものマンション6階の窓際のパソコンに向かっています・・・。12月30日、6時起床。まだまだジェットラグは解消されません。今回の旅行、季節柄汗をかくことはありませんが、冬物衣類は嵩張る・・・。そこで全員(と言ってもオットとムスコですが)に「自分の衣類は自分で管理し、必要があったら自分で洗濯しなさい」と言明しておきました。そんなのあたりまえ・・・というご家庭もありましょうが、うちは私が甘やかしていたせいで、私がたいへんな目にあっていました。でも、今回からはそうはいかない。この朝、さっそくムスコは下着類の洗濯に勤しんでいました。オットはまだ危機感がないらしくホテルロビーのパソコンで調べ物・・・大丈夫かな?朝食は7時半からホテルのキッチンでいただきました。ハム・チーズ・スティックサラダ・オムレツ(希望により焼いてくれる)・カプチーノ・ブラッドオレンジジュース。B&Bなのですが、世話を焼いてくれる女の子がとても気が利いていて、楽しい雰囲気でした。洗濯後のムスコは狂ったように食べてました。部屋に戻って本日の作戦会議。昨日のムラーノ島はやや失敗。しかし、乗船した船はブラーノ島行きで、たくさんの客はそのまま乗っていった・・・ということは、もしかするとムラーノよりブラーノのほうがいいんじゃないか?という結論に達し、オットと私はブラーノ島へ。ムスコは一人でぶらぶらしたいというので、一日別行動になりました。ヴェニス本島のサンマルコ寺院近く(南側)から島の東を回って北側にある船着場へいき、そこからブラーノ島へ向かう船に乗り換える事にしました。船着場にはお花屋というか、日本で言ったら仏具屋が数件・・・ここで買い求めてお墓参りとかに行くのでしょうか。船着場はこんな感じです。まず、チケットを読み取り機にかざして(誰も検閲しないけど)手前の高い位置に黄色い横線のなかに船着場の名前が書かれた艀というか、屋根付き浮き桟橋に乗って船が来るのを待ちます。水位によって高低差が変わる陸地からの乗船よりも、揺れも同じ状況の浮き桟橋を経由して乗船するのは、実に良い考えだと感心しました。水辺に住む人にはあたりまえかもしれないけど、私には新鮮な発見です。水上バスの運行は1艘あたり3~4人の人が行っているようです。運転士のほかに船着場に着いたら舫い綱を締めて接岸させ、乗客を囲っていた柵を開けたり・・・。この船は女性乗務員が綱を持っています。海を渡っていくのですが運河ほどではありませんが、何せ交通量が多いのです。小船やゴンドラ、定期船・・・。ぶつかったりしないものなのか心配になりますが、見渡せば海上にたくさんの杭が並んで立てられているではありませんか。 (この写真は翌日サンマルコ広場の鐘楼の上から撮ったものです)これが澪つくし、海の道標なのですね。この杭を左側に見ながら時速7~20キロで進むのが決まりのようで、速度制限の表示も海のところどころに立っていました。マルコポーロもここから世界へ旅立っていったのですが、その頃もこんな杭があったのでしょうか。ブラーノ島に就くまでの約40分、崩れ落ちた家の乗った周囲数十メートルの島とか、教会だけの島とか、御伽噺ができそうな景色です。島の周囲を堅牢にレンガやコンクリートで囲んで、海水の浸入を拒んでいればなんとか海に没していかずに済むようですが、もともとは植物が群生している場所に杭を立てて造った島々。いつかは海に還っていくのも致し方ないのでは・・・と達観してしまいます。まさにその植物・葦の群生したままの陸地にもなっていない広く平らな所もありました。ここに杭を打って新しい土地にしても、いつかは沈むかもしれないのですよね。
2012年02月29日
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水上バスに乗ってムラーノ島に行きました。ヴェニスのお土産といえば、ベネチアングラスでしょう?30年位前、妹がヴェニスのお土産にきらきら光るカットグラスのペンダントヘッドをくれたことがありました。だからなんとなくカットグラスが主流かと思っていたら、カットグラスなどどこにも見当たりません。まず、ムラーノ島のお店は皆ガラス工芸のお店ばかり。観光客目当てだもの、当然です。しかし、よくよく観察してみると、安いお土産物的なものばかりのお店と、工房を選んで芸術品として扱っているお店とがあります。店のWellcomeの雰囲気が違います。安いものを買って壊れないよう恐々持ち帰る気になれないし、芸術品は、あまりに高くて買う決心がつかないし・・・。結局何も買えず。いまのムラーノ島の主流は、金太郎飴のようなモチーフを使った細かくカラフルな模様の作品のようです。見方によっては目玉がいっぱいついているようで、ちょっと・・・。ガラス博物館にも行ってみました。ムラーノで創られたガラス工芸の手法の展示がおもしろかったけど、まぁそれだけ。30分も船に揺られてくるほどのことはなかったかもしれない。ヴェニス本島に戻って、やっとランチです。お腹すいた~。イタリアっぽいものが食べたかったので適当に入ったお店でカネロニとピザとラザニアを食べました。普通に美味しかった。ランチ後はムスコと別れて行動です。私達はウィンドーショッピング。マーブル紙の文具店を覗いたり、カーニバルの仮面専門店を見たり、靴やかばんを見たり。かわいいデザインのバッグがあって、ムスメへのお土産に買おうかと思ったけど、そのタイプのバッグが観光客相手のお店のどこにでも置いてあって、しかも店主が皆アジア系・・・。ヴェニスではないどこかで作られている製品なのでは・・・と興ざめしてしまい、買いませんでした。ぶらぶら歩いてすっかり疲れてホテルに戻りました。少し休んでいるとムスコが帰ってきました。さて、7時半。予約してあるスペードというレストランへ向かいました。外は雨なのでホテルの傘を借りて、水上バスに乗って行ったのですが、道に迷ってしまい・・・あぁ、ヴェニスの道はわからない。昼でもこんな調子でまっすぐの道がないのに・・・夜ともなればますます混迷・・・。時々現れる明るい道も・・・人で賑わうのは夕暮れ時だけ。8時近くなると人通りも少なくなるし・・・。やっと到着したお店は居酒屋のような雰囲気で、雨の仲人が列をなして入店を待っているところでした。予約していて良かった。狭くて賑やかでテーブルクロスなんかもちろんない、地元のお店風、観光客でいっぱいのお店です。店内に入れた人は席が開くまでのあいだ立ってワインを飲みながらショーケースの中の前菜をつまんでいました。あんなマネは私達、なかなかできない。残念。名物の干し鱈の三種盛り合わせは、全然口にあいません。小たこのトマト煮は臭いし、ポレンタはオートミールのようで美味しくない。お魚のラザニアとあんこうのパスタは、美味しかった。なんだかなぁ・・・の気分だったので帰り道、お菓子屋さんで甘いビスケットを買ってホテルで食べました。やっと満足です。魚料理に関しては、日本人ってうるさいのかもしれない。
2012年02月22日
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ヴェニスで2泊するホテルは Hotel Le Isole という3階建てのプチホテル。場所はサン・ザッカリア教会とサンマルコ寺院の間の、観光に便利なところです。古い建物を改装してできた新しいホテルです。ここにファミリールームというのがあったので予約を入れておきました。そこが、大きな部屋にキングサイズベッドが一つとソファベッドが一つ。それに簡易ベッドも入れてあって、そのほかに小さなソファと椅子、アンティークなキャビネットなどなど。広さは充分だし天井も高くて気持ちがいい部屋でした。窓からは(二階なので)インテリア雑誌に掲載されそうなモダンイタリアンに装飾された中庭が見下ろせました。見上げると天井にはこんな素敵なシェードが・・・布張りのようです。それが3層になっていて、淡い光が部屋を優しく包みます。これ、欲しい!実際に部屋に入ったのは夕方なのですが、忘れないうちに書き留めておこう(汗)ホテル受付の感じのいいお兄さんにスーツケースを3個預け、お手洗いを借りてから観光に出発・・・しようと思ったら「コーヒー、いつでも只だよ」というのでいただきました。ホッとする。行きたい所、と言ってもよくわからないので、ガラス工芸の島・ムラーノに行ってみることにしました。水上バスに乗るには、先ほど降りた船着場から乗船するより、ちょっと歩いて島の北側まで行ってからのほうが効率良さそうなので、ガイドブック片手に歩きました。途中で大運河を見渡せるリアルト橋を渡ります。ここからの景色は、ヴェニスの観光案内にならどこにでも載っているような、まるでザ・ヴェニスです。通ってきた道はどこも狭く当然車は一台も走っていません。ヴェニスのなかには車道が無く、水上バスと水上タクシーがあるだけで、基本は徒歩。年老いた人にはちょっとたいへんなところです。しかも家々は古く、エレベーターがない時代からのものばかり。一階にはお店が入っているけど、2階より上は明らかに誰も住んでいない、鎧戸の閉められた建物が多く、沈みゆく街、没落した商都の悲哀を感じます。ここに住む人は、いるのでしょうか?学校は?病院は?警察はありました。ポリス・ボートをよく見ました。年中得体の知れない観光客が大勢押しかけてきて、お金でサービスを買っていく。街は賑わっているけれど、一方で年々沈んで行き、大潮のときは水浸しになる・・・。実際、街のあちこちで水位が上昇したときの交通の確保方法(通れる道とか、行き着ける船着場などの地図)が表示されていて、家々の戸口には水が浸入してこないように堰き止めのための板が打ち付けられていたり・・・。今はまだ冬だからあまり感じないけど、気温が上昇すると水の匂いもひどくなるらしいし。今だって、道のあちこちに犬の糞が落ちていて気を抜いて歩けない。古いままでいることの難しさを感じるけど、こういった風情でないければヴェニスはヴェニスとして評価されないわけだし。経済環境に取り残され、自然環境に怯えつつ観光だけに頼って生きていく街の、哀しさばかり気にかかり、私には少し居心地の悪いところです。さてさて、船着場近くのマーケットに到着。食べること大好き家族は、ここで買い物は出来ないけどたっぷり見て楽しみます。まずは、魚市場種類は、そんなに多くないかな。アンコウやスズキ、モンゴウイカ、小エビ、ヒラメ・・・それからウナギも!青物市場では大好きなアーティチョークに目がいきます。それからフェンネルとか、各種カブとか・・・。肉屋さんはテントではなく市場に面した商店街に軒を並べて入っていました。赤みの牛肉が1キロ20ユーロくらい。大きな鴨がぶら下がっていたり、(映像的に恐ろしいので写さなかったけど)皮を剥かれ目玉がついたままのウサギとか、眠っているような子豚とか、種類が豊富すぎて食欲減退です。
2012年02月22日
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日本で、27日の朝6時半におきてからこの時(イタリア28日午後11時)まで、延々50時間もベッドで休むことがなかった私・・・せっかく寝たのに翌朝4時半には目が覚めてしまいました。時差のばか~。7時にホテルの朝食(ただ飯です)をいただきました。これがまた美味しいクロワッサンで、つい2個も食べてしまった。大体こういうところの食事はかなり簡単で、切りたてのハムとチーズ、ヨーグルトにジュース類それからパンとコーヒーなんだけど、さすがレ・カランドレ併設ホテルだけのことはありました。簡単でも一つ一つが美味しい♪食べ終えたらすぐに出発です。タクシーを呼んでもらって駅へ。今度は落ち着いた運転でした。昨夜は暗くて見えなかったけど、街の様子がわかります。2階建ての建物が車どおりに面して連なっていて・・・世界中どこでも見かけるぱっとしない交通重視の通りです。が、広い公園の一角に古い遺跡の崩れた壁がみえました。あれはたぶん納屋ではないでしょう。本当はこのPadovaは、古い遺跡の多い見所もそこそこある町なんだそうです。交差点はヨーロッパ特有のあのサークル・・・。なんだか懐かしい。8時31分の普通列車でヴェニスに向かいます。平地を走っていたのに最後は陸地を離れ、海に架かる長い鉄橋を走りました。周囲はアドレア海?湖のように穏やかです。乗車時間35分で着いたヴェニス・サンタルチア駅は荒廃していました。荒廃、は言い過ぎかも知れませんが、とにかく各サービスカウンターが軒並み閉鎖状態。窓口にはベニヤ板が打ち付けられていて、観光客には優しくない景色です。とりあえず、オットは二日後の列車の切符を買いました。その後駅から出ると目の前がもう運河。水上バスのチケットブースでいろいろ検討した結果、36時間チケットを購入することにしました。もちろん路線図とか時刻表とかくれるのかと思いきや、なんと有料だそうで・・・。だったら要らないね。毎回水上バスの乗り場で確認しましょう。まずは、ホテルに荷物を置きに行かなくては。旅行ガイドブックにあった路線図をみて、とにかく乗船してみました。乗る際に、艀の前に立っているチケット認証ボックスに買ったばかりのチケットをかざしてアクチベート完了です。これから毎回この水上バスに乗る前にはチケットをかざさなければならないのですが、実際それをしなかったとしてもお咎めを受けることがあるのでしょうか?してもしなくても同じ・・・もっと言えば、無賃乗船も可能な感じ・・・。いえいえ、皆がそんなことをしたら水上バスの運行ができなくなってしまうでしょうから、もちろんしませんが。なんだか甘いなぁ・・・と思うのは私が辛いからでしょうか。ムスコは大あくびです。本当は大運河を通る水上バスに乗りたかったけど、私達が向かうサンマルコ寺院近くのホテルに行くには海を渡っていくほうが停船所の数が少なくて良いらしい。景色は・・・まぁまぁと思っていたけど、ヴェニスに近づくとこんな景色が!はるばる来ちゃったなぁ~。
2012年02月19日
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ユーロスター、ファーストクラスの内部は、ゆったりとしていました。左右に2人用と1人用のスタイリッシュな椅子があって、乗車すると間もなく、飲み物とスナックのサービスがありました。ハリーポッターのホグワーツ特急のようなコンパートメントは、昔風なのでしょう。すぐに外は暗くなっていきました。イタリアの地方都市を通っていったのですが、街灯も少なく家々の灯りもあまり漏れてきません。まだクリスマスシーズンなのにイルミネーションもほとんど見かけない・・・。静かな暮らしなのでしょう。経済が活発ではないというのはこういうことなのでしょうか。でも、それはそれで穏やかでいいのかもしれない。日本のように、信者でもないのにクリスマス協奏曲に踊らされて消費活動に必死になっているというのはもうカッコ悪いと、気づかなくちゃ。などと思いながら・・・いつの間にか小さな駅に降り立ちました。Padovaで降りたのは私達3人のほかに、数人の日本人若者グループ。皆さんなにやら楽器を持っていらっしゃる。学生さんかしら?各ホームは地下通路で繋がっているのですが、どちらに行けばタクシー乗り場にいけるのかわからず、右往左往してしまいました。イタリア語!もっとしっかりメモして来ればよかった。・・・というか、言葉のわからない人のためにもっと親切な表示があればいいのに。それでも何とか駅出口を見つけ、ついでに隣接しているSuper(スーパーマーケット)も見つけたので水を買って、タクシーに乗り込みました。このドライバーが凄い!携帯でおしゃべりをしながらものすごいスピードでスイスイ滑らかに周囲の車を抜き去っていく。あまりの超絶運転に3人とも顔が引きつって声も出ない有様。さすがフェラーリの国・イタリアです。でも、こんな恐怖はいらない(泣)15分の恐怖から開放されたのは、ホテル・マカロニ・・・というよりレストラン・カランドレの前です。本体はミシュラン三ツ星のレストランのほうですが、それに宿泊施設が併設されていて、これがぜんぜん凝っていない、安普請のただ泊まるだけの施設です。それで充分です。隣の部屋のムスコと壁越しに会話できて便利ですし(笑)着替えて少し休んで、夜8時。ホテルの外に出て10歩歩いたところがレストラン入り口です。内装は、基本が黒とベージュ。ライティングにも凝っていて、落ち着いた雰囲気でした。案内された木製の丸テーブルの真ん中にはなだらかな窪みがあって、ここに食事パンを包んだナプキンが置かれたり、デザートのあとにはフルーツがアレンジされたオブジェが置かれたり。使われている食器も微妙な窪みや揺らぎがあって、美しかったです。みなレストランのオリジナルだそうです。後日、ヴェニスのサンマルコ広場を囲む高級店のなかにカランドレの支店があり、そこでもこのグラスが売られていて・・・買いたかった。買って日本に送ってもらえばよかった・・・と、今でもちょっと後悔してます。ネットで買えるかも。肝心のお料理のほうもスマートでインテリジェンスと冒険心に溢れていて素晴らしかった。印象に残ったのは シメジのフライ。パスタなしのカルボナーラソースを卵の殻に詰めたもの。海藻とミルクのリゾット、キャビア添え(これなど、磯の香りぷんぷんで、本当にヨーロッパの人が食べられるのか心配になります)。ほぼ生の牛赤身ステーキに添えられたミルクソースとビーツのエスプーマ(ミルクソースには卵黄とエバミルクと香草が加えられていたような・・)。それから写真のアミューズとして出てきたスナックのようなパン。シェフがまたかっこ良かった。背が高くてすらりとしていて、顔はトム・クルーズに似ていて、若くて感じが良くて。欠点なんかないけど、きっと仕事には厳しく才能に溢れていて、家庭人にはなれないかも…などと余計な詮索をしてました。お料理は少ないほうのコースでひとり200ユーロ。ワインはペアリングにして一人100ユーロ。三ツ星であの味で・・・リーズナブル!http://www.alajmo.it/pagina.asp?pagina=calandre&lingua=ing&lin=top
2012年02月19日
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ムスコとの待ち合わせにはまだ時間が有ったので少し散歩をすることにしました。まずは近くのナボナ広場で、いかにも観光客目当ての出店を冷やかしてみることにしました。場末のお祭り広場という風情。クリスマスの飾りとか、キーホルダーとか・・・。絶対に買わないぞ!(笑)しかもここはスリの仕事場としても有名なところ。しっかりバッグを抱えてヴェネツィア広場のほうへ向かって歩きました。「2年前もここ歩いたよね」とか「あの時雨だったよね」とか「オットの靴が壊れてパカパカ音がしたよね」とか・・・取り止めのない思い出話。今回こうして歩いたことも、後になって思い出せるかしら。ヴィットリア・エマヌエーレ2世記念堂のなかには入りませんでしたが、この階段には、あがってみました。なんとなく視点が高くなって、広場全体が見渡せたけど、建て込んでいて狭いことがわかるってだけ。しかし、記念堂の前には見栄えの良い衛兵がいらっしゃって・・・上がってきた甲斐はありました。ここからバスでテルミニ駅まで戻ります。バス停に立っていると、得体の知れないオジサンが不自然に近づいてきて、いや~な感じ。狙われているかなと思いバッグをヒッシと抱えオットに近寄りました。思いすぎかもしれないけど。バスは結構混んでいました。私達はテルミニでバスチケットを買っていたのですが、それを提示することができない・・・運転手に近づけないのです。料金を払おうにも料金箱までいけない人もいて、結局そのまま降りていったりする人も(笑)ヨーロッパの公共交通機関の料金徴収方法はずいぶん穴抜けだなぁ・・・。そんなことを思いながらも私は眠くて仕方ない。考えてみると朝4時からずっと起きているんだもの。しかも時差ボケボケのまま。オットが地下ショッピングセンターの有料トイレで用を足しているのを待っていたら、ムスコが登場。偶然ね。ムスコはシスティーナ礼拝堂にいたく感激し、あの場所に2時間もいたらしい。そんなことができるのが個人旅行の良いところだよね。一緒に預けていた荷物を受け取りに行って、3時45分発のユーロスターに乗り込もうと、ホームへでました。発車まで時間があるのでムスコとコーヒースタンドに寄りました。イタリア語を思い出せなくて「2coffee」と言ったらデミタスが出てきました。そうだった。スタバじゃないんだ。コーヒーといえばデミタスが当り前だったんだ。くいっと飲んだら、とりあえず目が覚めました。5番先に来たユーロスターのファーストクラスに乗りました。ここから約3時間半北東のヴェニスの近く、パドヴァという町に向けて出発です。車窓から、崩れ落ちそうなレンガ造りの建物を見つけただけでもう古代の建造物かと心が躍ります。実際は農家の納屋だったりするんだけど。なだらかな農地に羊や牛がのんびり草を食んでいて、小高い丘には必ず古い建物がのっかている。昔からの風景なんだろうなぁ。日本の新幹線からの景色とはずいぶん違う。それにしてもトンネルが多くて眠くなります・・・。
2012年02月18日
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テルミニ駅で真っ先にしたことは3つのスーツケースを預けることです。駅地下はまるで川崎駅地下のような、新宿駅地下のようなファッション関係のショッピングセンターになっていました。すごく見慣れた店舗の並び・・・どこの若者も、こういうところで買い物をするのかしら。その外れの更に奥まった通路の先に荷物預かり所がありました。なかには中国人と思しき若者やわたし達のような旅行者が数人、カウンターの順番を待っています。ガタイのいいおじさん3~4人で荷物を受け取ったり、奥に運んだり・・・朝のうちは受付のほうばかり混むようです。1個8ユーロで5時間まで。延長すればそれなりに追加料金がかかりますが、そんなに長くローマには滞在しない・・・予定。コインロッカーがなぜないのか・・・テロ対策?ロッカーを理不尽に壊されてしまう?死角が出来るのはまずい?いろいろ考えられますが、どこにでもコインロッカーがある日本は平安です。次にこの日の宿泊先、パドヴァまでチケットを買いに緑の窓口(?)に行きましたが、これが長蛇の列!ローマではムスコと別れて行動する予定だったので、ムスコまで一緒に列に並ぶ必要はない・・・15時20分に緑の窓口前で会おうと確認して、ムスコは一人地下鉄の乗り口方向へ去っていきました。彼の目的はバチカン美術館とシスティーナ礼拝所見学です。私達は2年前に行って感動してきたから、今回は別の場所へ向かいます。30分並んで窓口に行くと、オットはやおらメモを取り出して係りのおじさんに渡しています。そうそう、イタリア語わからないもの、行き先と人数と乗車する時刻を書いたメモを見せたほうが確実で早い!たとえ公共の窓口でもヨーロッパは英語が通じるとは限らない。しかし、なぜか列に並んでいるときに中国語のおばさんに何かを聞かれた私。中国人に見えたのね?お役に立てなくて残念。私達の目的地はサンタンジェロ城です。ほら、映画「天使と悪魔」の最後のあたりでラングドン教授が駆け込む城砦です。バスでも行けそうだけど、大人な私達はタクシーに乗ることにしました。このタクシー乗り場で面白いシステムを発見!ガードレールに沿ってタクシー待ちの列が出来ているのだけど、そのレールにたくさんの新聞をきれいに並べて架けている人がいました。タクシー待ちの人がそれを手にして買っていきます・・・新聞売りのようです。が、戻ってきたタクシーの窓から運転手が車内にあった新聞をそのおじさんに差し出しているではありませんか。リサイクル? なるほど(笑)サンタンジェロ城は前回バスやタクシーのなかから周囲を見ていました。135年、皇帝ハドリアヌスが自らの霊廟として建設。 霊廟はきれいな円形で、太陽を象徴したハドリアヌスが戦車を引く像が頂上に設置された。暫くすると軍事施設として使用されはじめ、403年にはアウレリアヌスの城壁の一部に組み入れられ、14世紀からは教皇達により要塞として強化され、またその頃から牢獄や避難所として使用された。(ウィキペディア抜粋)ということで、確かに厳しい内部です。秘密の地下道がバチカンへ通じているというのが信じられそうです。内部の階段を上っていくと、城塞の中心部にでられます。そこは中世の城そのものの雰囲気で、居住性も装飾も整っていました。眺めも良くて・・・サンピエトロ寺院が絵のようです。いまごろムスコはあの中かしら・・・。屋上からはローマ市内が一望できました。バチカンとは反対方向、遠くにはヴェネチア広場が見えます。マロニエの並木道がきれいなテルベ川沿いに歩いて、ナボナ広場近くのレストランに向かいました。しかしこの並木道、傾いている・・・斜度10はありそう・・・マロニエが育ちすぎてアスファルト全体を持ち上げているのです。すごい生命力!ちょっと迷って到着したのがRistorante Tre Atchi名前どおり店内の高い天井にはアーチがあって、アンティークな香りの漂う正統派レストランでした。ここで名物アーティチョークとアマトリアーチェのスパゲッティとポルチーニのタリアテッレをいただきました。装飾はないけどすごく美味しかった。隣の席には常連と見られるおじいさんが一人、白ワインをデカンタで頼みながらアーティチョークとパスタをゆっくり食べてました。他の席ではビジネスランチらしくアーティチョークのお皿、ほうれん草のお皿。パスタのお皿、お肉のお皿、そしてコーヒーを飲んで1時間弱で出て行きました。とても雰囲気の良いお店でした。難点はこの時ホールはおじいさんひとりで仕切っていたこと。忙しそうだった~。レストランはこんな路地裏にありました。クリスマスの名残・・・夜になると星が降るようにきれいなのでしょう。
2012年02月08日
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シャルルドゴール空港の朝はまだ明けていない。何しろ午前4時。パン屋のPaulもまだ覆いが被せられているけど、どこからかパンの焼ける匂いが漂ってくる。空港の中にいても、パリの朝だわ。ここで7時発のローマ行きに乗りかえるまで時間をつぶさなくては。何もすることもないし免税店どころかカフェも開いていないので、搭乗口前のベンチで7時まで人間観察(?)を。向かいの席に座った一行は中年の白人女性二人とアジア系の少年が二人。わがままを言ったり話したり、家族のような雰囲気・・・あぁ同性のカップルとその養子?空港係員の三分の一はアフリカ系が占めていて、彼らは背も高くスタイルの良いこと!だけど長くヨーロッパに居続けると、色も中途半端に褪せてくるし体型も緊張感が薄れてくるのよねぇ。明るく元気な大家族もいて、彼らの荷物は大きい。民族の大移動?などとしていたら眠くなってきた・・・なのにオットとムスコは次のスケジュール確認と買い物のことでうるさい。なるようになるって。飛行機からみたアルプス。少し前まではまだ暗くて、雲海も海かと思ったし山間の町の灯も入り江の灯かと思った。ヨーロッパの上空を飛ぶのは興味深い。最近の飛行機はキャビンアテンダントが男性の場合が多々あるけど、この飛行機は女性を見なかったような・・・。しかも男性CAが威厳のあるオジサンばかりで、これもテロ対策なのかしら。サービスされたフラッドオレンジジュースは本当に赤くて酸味が強くて刺激的なお味でした。そして9時、ローマ到着。空港からは直行電車に乗ってローマの中心にあるテルミニ駅へ向かいます。しかし、何台もあるチケットの自販機のうちオットが並んだのがプリンターの故障で停止してしまい、時間のロスをしてしまいました。電車に乗って、ここで荷物を詰め込み・・・ん?飛行機って時々預けた荷物が出てこない時があるでしょう?過去2度ほどそれで泣きました。なので今回は機内持ち込み荷物のほうに一日分の着替えと最低限の身の回りのものを入れておいたので、こんな場面で無事に手元に戻ったスーツケースに全部を纏めたのです。周りのイタリア人の奇異なものをみる目はちょっと恥ずかしかったけど。10時10分、テルミニ駅到着・・・がドアが開かない。どうやらボタンを押して開けるらしいのですが、わたしがいくら押しても開かない・・・。この車両の乗客の半分の出口はわたしのボタン操作にかかっている、と思っても、開かないものは開かない。皆ですごすご別の扉から降りました。私のせいじゃないよ!
2012年02月05日
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暮も押し迫る12月27日、義父の四十九日も終わり今年はお正月行事が一切できないし、ムスメは仕事でほとんど家に帰らないという見通して、長々延期にしていたヨーロッパ旅行に出発しました。思えばあの3月11日、ヨーロッパへムスメとオットと私3人で旅立つつもりで、すでに荷物のパッキングは済み、航空会社のサービスで成田へスーツケースを運んでもらう手はずを整えていました。翌12日は十数年ぶりの短大の同級生たちとのランチが予定されていて、ほんとうに能天気に自分の足元も見ずに浮かれていました。そして世界が変わって・・・同窓会はもちろんキャンセル。旅行も散々悩みましたがキャンセル。しかし一足先にムスメは、就職前の短い期間にフランスにいる友達にあいたいと、渡仏していました。その後は仕方がないのでムスメひとりで数日滞在し、成田が正常で飛行機の手配がついたところで、予定よりはやく戻ってきました。あぁ、キャンセル。エールフランスにはたくさんお金を払いました。キャンセルのメールをフランスのあちこちのホテルやレストランに送ったのですが、事情を察して「日本を応援しています」とか「これるようになったらまた予約してください」とか、心温まるメッセージが添えられてあったものもありました。そして本格的に義父の容態が悪くなり・・・秋まで持たないと言われていたのでオットは、暮の旅行を着々と計画していったのです。今回は、春からの就職するムスコと出かけられるのはこれが最後かもしれないと、彼を連れて行くことにしました。ムスメは、一人ででも、短期留学ででも、すでに何度かヨーロッパに行っていますが、ムスコは8年前家族で行ったのが最初で最後。あとはいつも留守番でした。面倒くさがる彼に、行きたい所に連れてってあげるというと「バルセロナでサグラダファミリアを見たい」と。「う~ん、スペインに行くなら私はアルハンブラに行きたい。」そしてオットは「沈んでしまう前にヴェニスに行きたい。」それぞれの目的を叶えつつ、オットの願望を遂げた旅の始まりです。夕方家を出て、成田の第2ターミナルで仕事帰りのオットと待ち合わせをしました。深夜出発のエールフランス、パリ直行便です。文庫本2冊とコミック最新の「聖おにいちゃん」、旅のガイドブック3冊。これで間に合うか、心配だったけど深夜のターミナルは売店が閉まっていたのです。ほんとはあれこれ買い物をしてラーメンでも食べようと思っていたのに・・・迂闊でした。搭乗前に外国人向けのようなやたら高額な蕎麦とおでんを食べて、これでしばらく日本食とはお別れです。座席はプレミアムエコノミー。横幅は少し広くなっているし、簡素な飛行機内グッズも備えてあって良かったのですが、やはりフルフラットではない、というか、中途半端にリクライニングで中途半端に足を投げ出せるので、快適度合いは・・・中途半端でした。食事はエコノミーと同じトレーご飯。もともと飛行機内の食事には期待していないし、食欲も湧かないのでこれで充分です。いちおう照りやき定食が来たけど、たれは甘いしお肉は風味がないし、ご飯はべちゃべちゃで、やっぱり・・・っていう感想でした。映画は「僕らにできることはなにもない」という向井理君主演のもの。これ、観たかったんだわ。そして実際よかった。もう一本「プリンセルトヨトミ」原作は面白かったけど、映画は・・・。無理がある世界を実写で取るというのは、相当なエネルギーを使わないとなんだかなぁの世界になっちゃうという映画でした。飛行時間約14時間。ムスコはトイレに1度しか行かないのに、私は4回も行ってしまった。エコノミー症候群も気にしていたけど、やっぱり年齢のせいかしら。夜に発ってずっと太陽のあたらない場所ばかりを飛んできたので、窓の外はいつも漆黒の宙でした。そしてフランス時間28日朝4時03分。パリ・シャルルドゴール空港到着。
2012年02月04日
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今年の領収書をまとめておいた箱をひっくり返して片付けました。気になるのは映画などの切符。今年は少なかった・・・。美術館は、根津美術館だけ?あ、静岡県立美術館の『百花繚乱』もあった。それから横浜球場での対阪神戦が2枚。映画は『バーレスク』『ヒア アフター』『パイレーツ・オブ・カリビアン』・『ハリー・ポッターと死の秘宝』それから『ジョージ・ハリスン』来週『エルブリ』を観にいく予定だけど・・・少ない。今年は義父のことがあってエンターテイメントを予定する余裕がなかったから仕方ない。それに月曜・火曜・木曜もしくは金曜・土曜に太極拳、水曜はテニス、日曜の半分は詩の会。時々実家に帰省してたし。・・・園ター手印じゃなくてエンターテインしている暇がなかったのは私のせいですね。映画『ジョージ・ハリスン 』は、よかった。http://youtu.be/4TZmrYUtj2Y 本編はこんなトーンで、かっこつけの生意気な高校生のジョージがいきなり世界的なアイドルになってしまって(しかも早熟なジョンやポールと一緒に!)グループの一員として自由になる部分と不自由な部分とのアンバランスがあって、ついにジョージがビートルズを手放してしまい、親友のエリック・クラプトンと妻が恋に落ち、妻を見送り、インドの宗教と音楽に嵌り、ドラッグに溺れ、ロサンゼルスで城を買い、スタジオを作り、庭に入れ込んで造園に凝り、息子の成長を楽しみにし・・・癌におかされ58歳で亡くなるまでの長い長い3時間半の映画だったけど、よかった。ビートルズのことはあまり良く知らないけど、ジョージのことも、ビートルズ解散後の大失敗のツアーのことと、インド音楽に傾倒していたことと、エリックに妻を譲ったことくらいしか知らなかったけど(そのときにエリックが作った曲『レイラ』は大好きだけど)こんなに少年のままのアーティストだったのかと、いまさらながら胸がキュンとしました。http://youtu.be/X1guu5ra_y0 彼は友達が多かったらしいけど、それだけ魅力があったんでしょうね。敵には見えない、人の心にすっと入ってくる才能があったんでしょう。しかし、豪華!彼の周りの人々の凄さ!9・11とあ3・11など、彼が生きていたらどんな活動をしていたのかと思うと残念です。
2011年12月07日
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8時半くらいに、盛岡駅前から岩手県交通の企画バスに乗って、八幡平方面へ向かいました。企画バスなので観光バスの体裁だし、高速道路も使います。例年だと10月初め、八幡平の山頂は紅葉のシーズンなのですが、ことしは10日も遅れているとかで、葉の先が少し色ついている程度・・・。紅葉の絶好のポイントも、本来ならバスを停めて観賞するところなのにスルーでした(涙)いやいや、それでも昨日よりはいい。前日は雪のため、バスは途中の温泉からひきかえしたっていうんですから。山頂のレストハウスで下車し、地元のガイドさんとともに小一時間の散策に出かけました。雪の名残はあちこちに・・・ここなんか、晴れて紅葉していたらさぞかし綺麗だったことでしょう・・・赤いものはナナカマドの実だけでした。レストハウスには地元の飲み物だけの自販機がありました。黒豆茶を、お買い上げ~。山頂は寒かったので、昼食におでんを食べて下山するバスに乗りました。そして途中の松川温泉で下車しました。今回の宿は、バス停目の前の峡雲荘です。ネットで探したら、ここは近年改装したということで・・・素朴で清潔で快適な宿でした。暖房は地熱で、冷房は外気で、中間を取りたかったら少し窓を開けて、乾燥を防ぐために濡れタオルを暖房機の上にかけておいて・・・という宿の人のアドバイス。究極のエコです。夕食までにたっぷり時間があったので、近所の宿に貰風呂に行きました。受付で言えば、共通風呂券がもらえます。峡雲荘から徒歩10分の松川荘へ行きました。これがなんというか、鄙びているというか古いというか汚いというかぼろいというか・・・。野趣溢れる露天風呂が売りだそうで。それがほとんど混浴。脱衣所も共用・・・私はもうどうでもいいけど、さすがにムスメはいかんでしょう。つり橋を渡った先の露天風呂とか、渓流に面した洞窟風呂とか、旅番組で紹介されたらきっと入りたいと思うでしょうが、実際は困難です。そういえば、数時間前、ある温泉宿では、露天が本当に露天で、素っ裸のおじいさんがお風呂の淵を歩いているのがバスのなかから見えてました。それに比べれば回りは深山。でも、無理。仕方ないので内湯の女湯にはいることにし、裸になって行ってみたらあまりの熱さにつま先も入れられない。見ると、そこから行ける露天風呂もあるようなので出てみたら、本当に小さい露天があってしかも目の前の沢から水が引かれて湯温を下げている様子。ここではじめてゆっくりお湯に浸かることが出来ました。宿に戻って、こちらのお風呂にはいり、いよいよ夕食です。部屋に運んでくださるので、楽チンです。ほろほろ鳥の鍋と天然岩魚の塩焼きのついたお膳です。花巻温泉の少し先に台温泉があるのですが、その近くで生産されているというほろほろ鳥。地元でもあまり食する機会のない食材です。滋味と甘味のあるお肉で美味しかったです。お酒は岩魚の骨酒。焼いた岩魚を浸した燗酒で、飲んだあとに食べた身も、ちっとも臭みがなく上品な筋肉・精悍な山の精をいただいている気分でした。ビールも地元に拘ってみました。満腹なのに、甘いものは食べたい。ムスメとの旅はこういう無茶が出来てうれしい。売店で気になるアイスクリームを3つ買って、食べちゃった。翌朝早くにお風呂へいってみたら誰もいない・・・シャッターチャンス!左側の桶に普通のお湯が満たされていて、それを桶ですくいながら体や髪を洗います。基本、シャワーはありません。酸が強すぎて水道の蛇口など、金属が変質してしまいます。うっかりムスメがつけていたティファニーのシルバーのビーンのネックレスも、黒曜石のようになってしまいました。あちゃー!露天も白濁したお湯です。岩には湯の花が付いていて、触ると白いペーストがとれます。かえすがえすも紅葉でなくて残念。朝食は広間でいただきました。ここでも岩魚の干物が出てきておいしかった。コーヒーは囲炉裏のある場所で。火のある景色は、和ませられます。壁にはツキノワグマの毛皮が・・・9時半、宿の前を出るバスに乗って盛岡駅に向かいました。しかしこのバスは普通の路線バスのため、高速道路は使わなかったし、ちょこちょこ停車するので時間がかかってしかも片道1000円近く・・・企画バスの素晴らしさをあらためて感じました。盛岡で盛楼閣の冷麺を食べてお土産を買おう!と意気込んでいたのですが、バスを降りるとこでオットからメールが・・・「おじいちゃんの容態が悪化したので速く返れ」急いで新幹線のチケットを買い、出発までの短い時間に海運橋を渡った先の地元の食品を扱ったクロステラス盛岡で松茸をGETし(3000円弱で買ったけど、後日東京のデパートでは1万5千円くらいで売られてました。味も香りも抜群でした〉駅弁を買ってはやてに乗り込みました。このお弁当もおいしかったです。ゆっくりするつもりが最後は慌しく盛岡を離れることになって残念でした。義父はこのときは持ち直して、しばらく入院と付き添いの日々は続いたのでした。でも私はいろんな疲れで風邪を引いてしまい、結局亡くなる時まで行くことはなかったです。
2011年11月15日
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いろいろありまして、10月19日に義父が亡くなり、その前の数日間からその後の1週間、風邪を引いていたり毎日用事があったり・・・でした。今は四十九日に向けての準備がいろいろあって、まだ以前のきままな毎日は戻ってきていません(涙)が、忘れてしまう前に!あの病床の付き添いに私の心がすっかり歪んでしまいそうになっていた時、ムスメが遅い夏休みを取らなければならなくなり、この機会にムスメがご無沙汰だった岩手の母のところに帰ってこようということになりました。新幹線の新花巻駅で降りて、釜石線に乗り換えてようと、ホームに立つと目の前にこんな看板がありました。(いつもはタクシーでさっさと実家に向かうのですが、二駅だけ釜石線に乗ってみたかったので・・・)海の幸溢れる三陸へ誘う・・・。あの橋上市場も、もう無いのでしょうか。こんなに元気のある看板の景色をもう一度取り戻すのはたいへんです。過疎が進み高齢化が進み・・・活気をどこから生み出していけるというのでしょう。釜石に限らず、どの田舎も将来設計が難しくなっていると思います。看板の向こうには実りの田んぼと案山子。母の家に泊まったのはたった1日でしたが、母はたいそう喜んでくれて、裏庭のサツマイモ堀りをしようと・・・後ろに写っている家は母の持ち家で、他人に貸しています。ノリの良いムスメに母はすっかり喜んじゃってます。サツマイモはこんな状態・・・秋の庭には、こんな彩りがありました。翌日早くに盛岡へ行きました。30年前、私がお勤めをして毎日通っていたときにはなかったわ、こんなトイレ。銀河鉄道をイメージしているのかな。駅前のバス乗り場から県北バスの季節限定企画『八幡平山頂をガイドと歩く往復切符』(実はきちんと名前があったのですが忘れちゃったので勝手に名づけました・汗)を1200円で購入し、八幡平へ直行する観光バスに乗り込みました。途中から、冬は地元のスキー場でインストラクターをしているというおじさんがガイドとして乗り込み、雑談のような解説を聞きながら楽しく八幡平を目指しました。
2011年11月06日
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9月は今日で最後。5年前の今日、実家の父が亡くなった。あの日もお天気が良くて、リビングに掃除機をかけているところに甥が電話をかけてきて「おじいちゃんがさっき亡くなりました」って報せてくれたんだった。長くはないとわかっていたから、動揺はしなかった。家族みんなの喪服を用意して、わたしは一足先に新幹線に飛び乗って帰省したんだった。近所に住む義父がいよいよ終末期をむかえている。昨夜は夫が病室に泊まりこんで見守っていた。わたしはたった一人の自宅で短く深い睡眠を取った。今朝は4時から目が覚めて、5時にはもう着替えてしまった。わたしはこれから起きるであろう様々なことに怯えている。8月13日に4回目の緊急入院。義父は末期の癌で手の施しようがないといわれている。たまたま太極拳の練習から帰ってきた私は、わけもわからないまま救急車に同乗させられ、今義父がいる病院へ向かった。それまでも2度、救急車には同乗し、聞かれるままに義父の病状ポートフォリオを語ってきた。慣れたものだ。でも、いつもどうしてわたしなの?と思ってしまう。車で後から着いていくというもっと近しい人たち・・・車を持って行くのがそんなに重要かしら?一刻を争うときに、わたしで良いの?今回の入院は緩和ケア病棟への移動で、回復し帰宅するという道はなくなった。寝たきりになってときどき痰を詰まらせ、口から何も入れられなくなっている義父に、わたし達ができることなど何もない。彼が心にかける人たちがときおりベッドの横に座って手を握って・・・そうして時間を過ごすものだと思っていた。わたしは、2~3日に一度、義母を車で送りがてら汚れたタオルを替えたりしてくればよいものだと思っていた。もともと義父は私のことを気に入ってはいないのだから。義父の意識は、急速に進んだ痴呆のため、ほとんどここにはいないことが多い。ずっと付き添って見張っていたのでは、義父はいつも頑張って生きていなくてはならなくなる。苦しみが増すばかりの最後の時間を引き延ばすのは、気の毒だった。しかし、義妹の希望は、出来るだけの時間を誰かが見ててあげること。少しの変化でもあれば、ちくいち看護師や医師を呼んで対処することだった。そのために彼女は差し出せる時間の全てを、病室で過ごしていた。時には夏休み中の中学生の息子を伴って。〈ここでわたしが何も言わなければ、彼女はずっとそこに居続けることになる。彼女の家庭や子供達の管理も何もかも放り出して・・・。〉そう思ったから、わたしは一日のなかの3~4時間(行き帰りの時間を合わせると6時間近く)を差し出すことにした。そうやって一月以上が経った。そのなかで義父はほとんど私と意思の疎通をすることはなかったのに。9月26日 ますます衰えて会話どころか単語すら口から発することもなくなっていた義父が何か言おうとしていた。そこには私しかいなかった。「はい、なんでしょう?」と近づくと義父は「いろいろ ありがとう」とはっきりと言った。私は息を飲んでしまった。それからゆっくり「はい、わかりました。そう言っていただけてうれしいです。」と答えた。あとはもう、なにを話していたのかわからない様子で義父は混濁した意識のなかに再び落ちていった。私は絶句して立ちすくんだ。これがたぶん義父と私とのお別れだと思う。今日は昼頃から病室に詰めることになっている。涙は、もうでない。
2011年09月30日
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JR東日本の『大人の休日切符』の企画で、東北方面への乗車券・新幹線代金が4日間乗り放題15000円になるというのがあります。年に2~3回そういう時期があるのだけど、今回は9月1日から2週間ほどの間で、これを利用してピュッと実家に帰ってきました。実は近くに住むオットの父の容態が思わしくなく、8月半ばからずっと時間を割いてきたのですがますます思わしくなく・・・。このままでは当分実家に帰れそうもない。お盆も帰れなかったし・・・。エイッ、帰っちゃえ!と、とにかく帰ってきました。母は、とても喜んでくれました。やはり寂しいし心細いんだろうな。3ヶ月前に会ったときよりますます痩せてしまって、父が亡くなる少し前からの5年の間に20キロ近く減量してしまいました。もう、げっそり。一人ではテキトーなものしか食べないんだろうなぁ・・・母の庭にも秋の気配。前回行ったときに植木屋さんが来てばっさり枝を払っていった柿の木。今年はちょうど良いくらい実をつけていました。終わりかけている朝顔の間からこんな蔓の花が顔を出していました。小さいけどビビットな赤が目を引きます。モミジルコウという名前。たしかに葉っぱはモミジのようです。金魚の池。夏に何度か替えたのに、水は緑に濁って20センチもあるコメットや流金が滲んで見えます。もっと気温が下がれば、透明になるのだけど。9月3日に今年はじめて咲いた秀明菊。調べてみたらジャパニーズ・アネモネとも言うそうで、菊ではなくキンポウゲ科の植物らしい。とても上品な白です。そしてブルーベリー。たくさん実をつけていました。自分で摘んできて、いま我が家の冷蔵庫の中にいます。生で食べるのにも飽きたから、残りはお砂糖をかけてレンジでチンして簡単ジャムにしていただきます。新幹線の新花巻駅前には、宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』をモチーフにしたこんな壁があります。近づくと確か曲が流れるはず・・・と、行ってみたらこんな張り紙が。故障のためですか。節電のためかと思った(笑)岩手は、花巻は、変わらず穏やかな空気が流れています。三陸では悲惨な景色が広がっているのに。福島でも日常をひっくり返されて人たちがたくさんいるのに。和歌山でも、奈良でも、思いがけない災害が人々を苦しめているのに。日本中が全部ひっくり返ったのではないのです。まだまだ懐は深いのです。みんなで分け合っていけば、乗り越えられると信じています。
2011年09月10日
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高校野球、日大三高が優勝しましたね。野球が終わると夏もおしまい・・・そんな季節感があります。やっと阪神もホームに帰れる。ことしは横浜球場へ2度、阪神×横浜戦を見に行きました。(オットがファンなもので・・・)夕方からのゲームでも、青空の下は気持ちが良い。3塁側は黄色一色。座ったらまずビールです。関西弁のやじをつまみにグイッ・・・プハーッ!新井君のしゃっきりしたお尻が素敵。マートンはテレビで見るよりがっちりしているし、ブラゼルは反対にすっきりしています。そんなこんなで日がくれて・・・確かこの日は能見君で負けちゃったんだわ。椅子は固いし狭いし、おじさん・おにいさんの汗や唾が飛んでくるし。帰りの道は混んでるし。横浜球場は阪神名物の風船飛ばしをさせてくれないし。それでも楽しい屋外の野球観戦。こんなのも買い込んで楽しみます。いろんな選手が生まれては消えて・・・みんなわたし達と一緒に歳をとっていくのですね。新しい力を応援しつつ、明るいスポーツ観戦ができる幸せに感謝しつつ・・・。ビール、もう一杯!
2011年08月20日
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今朝の朝日新聞に、こんな記事が載っていました。復興へ出資いかが? 大槌の水産業者 一口一万円、お礼も3月11日の東日本大震災で、これまで一生懸命築いてきたものが全て無くなりました。地域の水産加工業は全滅しました。幸い人は残りました。やる気はあります。ノウハウもあります。でも、資金がありません。応援してくれる人たちがいます。いち早く立ち上がって、狼煙を上げて地域のみんなを引っ張っていきたいと思います。皆さまのご支援を宜しくお願い致します。詳しい内容はこちらのサイトをご覧ください。http://www.otsuchi.jp/index.html私ももちろん出資します。たった一口ですけど。どこに流れていくのか分からない大規模募金は、手ごたえがなくて寂しいと思っていました。でも、これなら、一緒に復興を感じていける様な気がします。これからもずっと応援していけそうな気もします。なにより、三陸の海の幸は本当に美味しいし♪最近被災者支援サイトのひとつ『アゲマス』で、被災された方に家で眠っていた品物を直接送ることができました。登録したり、メールのチェックをしたりと少々わずらわしいけど、被災された方をささやかながらお手伝いできている実感が得られ、うれしいです。こちらのサイトもご覧ください。http://agemasu.jp/-/n/もうひとつ。ホームレス支援の『ビッグイッシュー』私はときどき通る溝口の駅前で、いつものおじさんから買います。定価300円の薄い雑誌ですが、中身はなかなか濃い。毎回世界の有名人のインタビュー記事が載っていて、先週買ったのはユアン・マクレガーだし、その前のはクリント・イーストウッドでした。売り上げ300円のうち、160円が売っている本人の生活資金になるのだそうです。必ず買うわけではありませんが、私が幸せだなって思えた日は、そのおすそ分けのつもりでおじさんに声をかけます。
2011年08月16日
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何とタイトルをつけたら良いのやら・・・。毎日こんなでは、気力が持ちません。意地でも日中のエアコンはつけないことにしているので(当然夜も・・)極力外出をして人様の電力を使わせていただいています。例えばジム、デパート、映画館、美容院・・・このごろでは義父の付き添いの病院通いも涼しくて良いかなって思えてきています。ことしの節電対策の目玉はどちら様もこれでしょう・・・・西側のムスメの部屋の窓はこれでカバーしていますが、東はこれ・・・あまり役立っているとは思えないけど、心が和みます。同じ鉢にこの紫と、白の西洋朝顔と、小ぶりの赤の朝顔を植えましたがこれしか咲きません。土のなかで勢力争いがあったのかしら。西洋朝顔はツルが枯れてきています(汗)日中は太陽光発電をしておいて、夜になるとほんのり灯る明かり・・・玄関の明かりを点けずにこれを常夜灯代わりにしています。1個では暗かったけど2個にしたら風情があって、好評です。これも節電です。季節の味、鮎が到来しました。熊野古道の語り部さんが、熊野の恵みを届けてくれます。ヨッシーさんが自分で釣っていらっしゃるので、天然です。川魚は苦手の方でもこれは別物。苦味もなにもかも、ほかでは味わえない富田川の絶品です。今日はこれから義父の様子を見てから、近所の梨園でヨッシーさんあての梨の配送を頼んできます。暑いけど、動かなくちゃ。
2011年08月11日
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うなぎの日、今年は7月21日だとマルイの食品館に張り出されていました。季節のものって食べておかなくちゃならない気になりますよね。せっかく四季のはっきりした国に生まれたんだものね。うなぎは、お店で食べるのは好きですが、スーパーで売っているのはあまり・・・かといって専門店で買ってくるのは高い。数年前までは高島屋地下の『ての字』でひと串630円のセールが時々あって、そのときは並んででも買っていたけど、あんな値段ではもう買えない・・・(涙)しかし、今年の4月にムスメの引越し先の浜松へ行ったとき、見つけてしまいました!激ウマの冷凍うなぎ。1尾950円で小ぶりですが、ちょっとお目にかかれないお味。しかも白焼き。もともと浜松、浜名湖と言えばうなぎなのですが、どこで買えるのかよくわからなかった私。帰路に着くローカル線の舞阪駅でオットと「お土産にうなぎでも買えばよかったね」と話していたら、スズキ自動車の関係者と見られる方が(すぐ近くにスズキの本社があり、その日は新入社員の受け入れをしてました)「駅の周りにうなぎの問屋がいくつかありますよ。個人でも買えますよ」と教えてくださいました。電車の時間まで間があったので、駅から見えた問屋さんらしき建物に行ってみました。お店のパーキングにはこんな絵心・・・店舗といっても事務所のようなところで、おずおずと事務の女性に「うなぎ、買えますか?」とたずねてみたら「予約をしてもらえれば焼き立てを用意できますが、今日ですと冷凍になります」と、面倒そうな顔もせず対応してくださいました。それで「3尾でも買えますか?」とたずねたら「もちろん!包装している間にうなぎ、見て行きますか?」とうなぎの保管場所を指差す・・・えっ?湖じゃなくて倉庫?養殖しているのはたしかに湖だそうですが、調理する数日前から店舗の隣の倉庫で泥抜きをするのだそうです。うなぎの入った、笊のようになった桶を重ねて、上から天竜川の清水を浴びせて置くのだそうです。そして手で裁いて串を打って焼くと。こちらのお店、職人さんが手作業でうなぎを焼いているところが売りの一つのようです。帰宅して、パンフレットにあったように真空パックをボイルして温め、半分は白焼きで、半分はたれをつけて焼いていただきました。絶品!(うなぎの写真がないので、そのときに写した富士川パーキングからの絶品富士で代用です・汗)そろそろ土用の丑の日用に、注文しなくっちゃ!美味しいお店のアドレスは、こちらです http://www.taketsune.com/
2011年07月14日
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50代の主婦6人の集まりを女子会といってよいのかどうか・・・ダメでしょうね(笑)昨日はテニス友達と久しぶりに都内へ出かけました。目的はマンダリン・オリエンタル・ホテルでいただくハイ・ティー。ハイティー自体は2時半からだけど、日本橋界隈までいくのは珍しいことなので、なぜか2時間前に日本橋三越で集合。ハイティーではたくさんのお菓子が食べられるので、お昼は軽~く・・・ということなのでコレド室町一階のにんべんで立ち食いおにぎりとお出汁をいただきました。それからそのあたりの新鮮なお店を徘徊・・・いつもの街とは違っておしゃれ~と、テンションが上がります。そして2時を少し過ぎ、いよいよホテルエントランスへまいりました。一階は、案内カウンターとエレベーターホールだけしかありませんが、重厚・・・この薄暗さは節電のためではなくそういう照明になっているのですよね?エレベーターで37階にあるセンスという中華料理のお店へいくと、ショッキングピンクのチャイナドレスを着たお姉さん達が優雅に席へ誘導してくださいました。そして私たちの席からの景色が、これ!スカイツリーがくっきり。その下にはアサヒビールの建物や両国国技館、大江戸博物館、隅田川・・・お相撲、始まるようですね、東北にはお相撲の好きな人、大勢います。尻すぼみなスポーツ、元気になってほしいです。浅草のサンバカーニバル、今年は中止になってしまいました。隅田川の花火大会の日程とぶつかってしまったそうで・・・ムスメが出場していたお祭りだけに、私としては寂しい。まぁ、とにかくそういう下町を一望です。そういえば、ムスメは学生の頃、このホテルの38階のレストランの受付のアルバイトをしていました。ハイヒール着用で腰を痛め、すぐやめちゃいましたが。あの頃はホテル業界も希望就職先の一つでしたが、軒並み大きなホテルの採用見合わせがあって方向転換せざるを得なくなり、その後いろいろあっていまでは浜松・・・あの頃は想像も出来なかったことです。建物に白やベージュのビルが多いのは日本の特徴でしょうね。緑がなく、道路が狭く、土地がみっしりと埋め尽くされているようで、息苦しくなる景色かもしれません・・・視線は空に逃げます。そして運ばれてきたハイティーは・・・お茶の種類は選べます。当然一番お高い鉄観音茶にいたしました。これだけでも3000円ですから。普段なじみのない中国のスイーツの数々は、美味しかったし面白かったです。これで4500円+税サービス料。たっぷり頂いて2時間もおしゃべりをして、満足して帰ってきました。つぎは中華街で飲茶がいいかな、などと話しながら・・・。
2011年07月08日
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ちょっと間が空いちゃった。実家に帰ってました。さて、3日目。実は旅の初日の夜にオットの父が入院したという知らせがあって、急遽とんぼ返りを覚悟しました。しかし、オットは帰らないと・・・冷静に考えると、戻ったところでなにもすることはない。実はこのところ毎月緊急入院しているので、ようすはわかります。家にいる家族に確かめてみたら、大事に至ることでもなさそうなので、そのまま旅を続けました。そして帰宅する日、当初は京都で夕食を食べてから帰ろうと計画していたのですが、さすがにそれはやめて、その日のうちにお見舞いに行くことにし、昼に帰ることにしました。かなり疲れちゃったというのも、ありまして・・・。ホテルで朝食(1000円なり)を食べ、市内バス一日乗車券(500円)を購入してチェックアウトしました。二条城前からバスに乗って向かったのは京都駅。ここでコインロッカーに荷物を預け、再びバスに乗って京都御所の近くの、革堂(行願寺)へ行きました。西国三十三所の19番め。周りが市街地なので前日の緑いっぱいの境内を持つお寺とは全然趣を異にします。朝、と言ってもそれほど早くはないのですが、人影は少なく清々としています。こじんまりとした境内のなかは由緒あるお寺らしく、落ち着いた佇まいでした。次に向かったのは六波羅蜜寺です。ここも当然、西国三十三所のひとつ。バスを降りて五条の橋を渡って少し歩いたところにありました。あたりは建て込んだ普通の街並で、知名度の割には狭すぎっ!門を入って正面に金ぴかの、都七福神のお一人である六波羅弁財天がいらっしゃいました。お堂も新しく朱色に輝いていて、華やか~。六波羅蜜寺本体も、修復が近年行われたため彩色が鮮やかでした。ご本尊の十一面観音は厨子のなか。12年に一度しかお目にかかれないそうです。しかしここにはあの口から6体の阿弥陀が出ている空也上人立像や、平清盛坐像など、見ごたえのあるお宝があります。狭い宝物展示室(600円なり)には私たちのほかに2組、それに案内のおじさんが一人。どれもすばらしい像ですが、とくに平清盛は来年マツケンが演じるので興味津々・・・そんなことをオットに話していたら、案内のおじさんが「松山さん、何度かいらっしゃいましたよ」とおっしゃいました。「小雪さんと結婚する前にね」って、それはそれは・・・おじさんも芸能通ですね(笑)ここをでて通りを歩いていると開晴小学校・中学校という真新しい建物がありました。公立の小中一貫校らしい・・・いま調べてみたら、この東山地区は少子化のため生徒数の減った小さな学校がいくつもあったので、それを統合してここに生徒数860人、一学年3~4クラスの学校がこの4月に開港したらしいのです。新しい学校の晴れがましく明るい気配が、建物全体から沸いてくるようでした。大きな学校になって不安な面もあるかもしれないけど、もともと社会は時々刻々と変化していものなのだから、適応していってほしいな、子ども達には。そしてまたまたバスに乗って錦小路近くで下車し、開いたばかりのお店を眺めながら次のお寺に向かいました。お買い物もしたかったのですが、その日のうちに食べられるかどうか分からないし、気温は高くなってきているし・・・。無理は出来ない。でも、あの黒豆、買いたかったなぁ。今回最後のお寺は六角堂です。ここも西国三十三所。狭いけど庶民的なにぎにぎしたお寺で、名前の通り六角形のお堂・・・特に見るものもないけど六角であることを確かめるため、お寺の裏までぐるっとまわってみました。すると、後ろには華道池坊の会館があるではありませんか。近代的でお金がかかっていそうなガラス張りの建物。狭い池には白鳥が・・・羽を折られて飛べないようにされているのかな。もともとはこの六角堂の本尊如意輪観音に花を供えることとなっていた池の傍の坊に住むお坊さんが創始者らしいのです。しかし、いまではもともとのお寺を凌駕する会館が、観音様を圧倒しているみたいです。石で作られたいけばなのモニュメントがあるけれど、なんだかなぁ・・・。華道の家元って、儲かるんだ!としか見えません(笑)そんなことを思っていたらオットの頭に鳩がポトッと・・・。あ、観音様はそんなこと気にもしていないのに、庶民の私が下世話なことを思ったからばちが当たったのかしら?!私じゃなくオットに(笑)では、ここで京都駅に戻ります。当然バスで。駅に隣接するデパ地下で、お昼のお弁当を買って、お土産の鯖寿司と阿闍梨餅を買いました。私お勧めの阿闍梨餅は、好評でした。あのモチモチ感、美味しさの割りにお手ごろなお値段。日持ちしないところもまた希少価値があって良いです。決して東京のデパ地下になど進出して欲しくない。京都駅は吹き抜けも広く、立体が美しくて・・・現代建築。好きです、この鉄の連なり。上層階ではどこかの学校の吹奏楽部が演奏会を行っていました。上空から降ってくる金管楽器の音は、若い息吹を感じさせてくれます。京都は、古くて新しくて奥が深い。
2011年07月01日
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たっぷりの糖分で昼食を済ませたので、お寺を出ることにしました。駐車場脇を通ると、お土産物屋さんがテントを並べていました。なかには、先ほどの甘味所で頂いた飴菓子も。地元宇治の岩井製菓の〈ごま千枚〉もありました。ゴマを飴で固めて板状にし、小さく切ったもの。美味しかったので買いました♪つぎは醍醐寺です。京阪〈三室戸〉の駅から再び〈六地蔵〉へもどり、地下鉄東西線で〈醍醐〉まで行くのが、簡単そうです。(いま調べてみたら〈六地蔵〉からバス、という手もあったみたいです・汗)醍醐の駅からタクシーでいきなり上醍醐の准胝堂(西国三十三所の一つ)に行くつもりでした。山門から上醍醐まで徒歩で1時間もかかるというのですから、そんなことをしていたのでは日がくれてしまいますし、私の足が持たない・・・。しかしタクシーの運転手さんが言うことには、2008年に准胝堂は全焼した・・・えっ!そんなたいへんなことになっていたの???御朱印は、どうなるの?とりあえず醍醐寺に行ってみることにしました。徒歩だと10分と少しですが、どうやらバスがあるようで・・・市内循環バスがちょうど来たので乗って行きました。バスを降りるときに運転手さんから「往復するんでしたら帰りの切符をいま買ったほうがお得ですよ」と教えてくださいましたが、この距離なら歩いたほうが面白そうなので購入せず。でも、ご親切にありがとうございます。醍醐寺の参道は、古い木々にはさまれて風格がありました。ここの拝観料は1000円。伽藍と三宝院が見られる共通券でした。伽藍は・・・広い。これは確かに手とお金をかけなければ荒れてしまいそうです。いまだって充分に古いし、手入れも必要な気もします。国宝や重文がたくさんあるようですし、世界遺産にも登録されているのですから。地の利が悪いのですね。京都市内だったら観光客も大勢きたでしょうに。でも、こういう場所だから秀吉も大々的に花見をしようと思い立ったのでしょうし、その名の由来とも言える極上の水が沸くのでしょう。西大門をくぐると、右側に清瀧宮があったのですが、オットがビシビシと気を感じる、と言います。普段そういう眼に見えないものを相手にしない人だけに、なにか彼のチャンネルにぴったり来るものがあったのでしょう。境内をずっと登っていくと、無量寿苑と弁天堂が見えてきました。これが極楽を表した景色なのでしょうか。この赤いお堂には弁天様がいらして、そこで音曲を奏でている・・・そういう場所ですね。太鼓橋を渡って、もっと奥に進んでみました。深山幽谷の趣で、庵の礎石が残っていたりして・・・随所に長い歴史のあとが残っていました。醍醐の山から流れてきている川が、池に注ぐところ・・・気になっていた御朱印は、国宝金堂脇で頂くことができました。上醍醐まで行かないで、なんだかずるをした気分です(汗)五重塔も金堂も大きくて立派で、特に屋根の上の相輪が重々しくデザインされているところがポイントでした。不動堂前には護摩焚きの用意がされていて、杉の葉が丸い山の形に積まれていました。さすが真言宗醍醐派の総本山。三宝院にも入りましたが、あまり記憶にない・・・。秀吉設計のお庭も、大きな自然のなかでは軽く見えます。醍醐寺からは歩いて〈醍醐〉の駅に戻り、そこから更に地下鉄で一駅北上し、〈小野〉で下車しました。ここから歩いて数分のところに勧修寺(かじゅうじ)があります。こちらのお庭が、また佳いのだそうです。本堂のほうには近づけませんでしたが、勧修寺氷池園と呼ばれる古い池泉式庭園が今回の目的。まず、樹齢750年のハイビャクシンというヒノキ科の潅木を愛で、それに覆いこまれているように立つ水戸光圀寄進の石灯篭を眺めて進むと、広い芝生の庭に出ました。あれあれ、ずいぶん現代的と思ったら、その向こうにおどろおどろしく古そうな池が待っていました。池のなかには島があって、花菖蒲と睡蓮と白鷺、五位鷺が集っています。これもまた、極楽浄土の姿なのかしら。池の周りを散策しようと歩き出したら、立て札にこんなことが書かれていました。『この先行かれるのはご自由ですが大いに危険』そうあると、やっぱり行くでしょう(笑)結論から言うと、なにも危険ではなかったのですが、足元や鳥の落し物に気をつけてという意味だったのでしょうか。それとも何かを連れて帰っている・・・なんて、ないよね?池の周りを一周しているとき、楓の枝がところどころ赤く見えたのでよく見たら・・・まだ若い種ですね。もっと時間がたつと、ひとりでに枝から離れてくるくる廻りながら落ちるのですよね。誰も見ていなくても、何かシステムがあるんだわ、自然って。さて、もう閉園時刻。京都市内のホテルに戻ります。帰りは簡単、地下鉄〈小野〉の駅から〈二条城前〉まで1本です。ホテルでちょっと休憩して、7時に予約を入れているお食事どころへ、これまた地下鉄で向かいました。〈五条〉駅から徒歩2分のあぎおやが目的地です。あまりに簡素な概観に面食らって、写真を撮ってきませんでした。が、表札も看板も出ていなければ、お料理表には値段もない・・・お料理を作るのはご主人一人で、ギャルソンのような格好の接客の女の子が3人。これでカウンター7席とテーブル2席をまわしていくのです。評判のお魚の焼き物(あまだいを注文)も、もちろん美味しかったけど、お通しの水菜の燻製サラダが絶品!文字では伝えられない素晴らしさでした。いろいろ食べて、日本酒・黒龍とシャブリをたくさん飲んで、お店を出たところまでは覚えているけど、後は記憶にありません(汗)翌朝オットにそう言ったら「ふつうに帰ってきてシャワーも浴びてたよ。ちょっとふらふらしてたけど。いつもと同じだよ」・・・う~む。習慣とは恐ろしいというか、素晴らしい。
2011年06月22日
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明けて翌朝、朝食はホテルのバイキングへいきました。本来なら2000円なのに、例の優待券で半額になりました。去年も、街へ出てからの手軽な朝ごはんを見つけることが出来なかったので、今年は余分にうろうろすることはしたくありません。旅の途中、私の足底筋膜炎が悪化したらたいへんなので、これは助かりました。まずはホテルの部屋からも眺めていた二条城へ入りました。(拝観料600円)二条城の開門は8時半と早めにもかかわらず、修学旅行の僕達が入場料の自動販売機の前にたむろっています。「誰が何のために建てたの?」と、オットが聞いてきます。徳川家康が京都に逗留するために建て、徳川家茂がここで亡くなって、慶喜が大政奉還をしたところ。慶喜は江戸城に入ったことがないらしく、実質ここが徳川将軍家最後の場所・・・と、毎度毎度の大河ドラマで学習した私は認識してるけど。「はぁ~誰も住んでいない時間がながかったなんて、なんと無駄な!」・・・たしかに。さすがに規模が大きい。京都のお公家さんのお屋敷とは、経済力が違うぞ!っとばかりの威容です。それを示すために、ここにで~んと建っていたのでしょうね。江戸城も残存していたらこんなだったのかしら。お堀に満ちた水もまた、いかにも武家の〈いつでも臨戦態勢〉という雰囲気を醸し出しています。こんな二条城は現在新規の城主を募集中だそうです。いまならここでお殿様気分を味わえるみたいですよ♪こういう遊び心、良いですね。さて、〈二条城前〉から地下鉄東西線に乗って〈御陵〉へ。ここに何があるかと言えば、元慶寺です。折があると、西国三十三ヶ寺をまわっているのですが、ここ山科の元慶寺はその番外で、花山天皇が寛和の変で出家させられた場所。花山法皇は廃れかけていた西国霊場を復活させた人で、西国霊場中興の祖として知られているそうです。開祖は僧正遍照、六歌仙のひとりです。百人一首のなかの一つ「天津風雲の通い路吹きとじよ乙女の姿しばしとどめむ」を詠ったひと。こんなに由緒正しいお寺なのに、観光名所ではないので特に案内表示があるわけでもなく・・・御陵の駅前で、地図を確認している私達に、この辺のおばさんが「どちらにいらっしゃるの?」と声をかけてくださいました。いや~親切。うれしい。だいたいの方向をうかがって歩き始めましたが、あまりに狭い生活道路・・・ほんとにこれでいいのかしら?もう一度、犬の散歩をしているおじさんに聞いてみると、当たりらしい。道を造ってから街ができたのではなく、むかしの農道やあぜ道伝いに家々が建ってしまったのですね。ちょっと不便だけど、懐かしい日本の道です。お寺は唐風竜宮造りの山門が立派なのですが、本堂はこじんまりしていて、緑溢れる境内でした。庭の手入れをしていた腰に蚊取り線香をぶら下げた作務衣の方に「御朱印を・・・」と問いかけると、立ち上がって彼が〈花山天皇〉と、書いてくださいました。田舎の心和むお寺でした。ここからは、地下鉄〈山科〉の駅まで行きたいのですが、バスか何かでも・・・と思ってその辺のスーパーマーケットの警備をしていたおじさんに、「山科へ行くバスはありますか?」と聞いてみたら、困った顔をしてバス停の場所を教えてくれたけど、どうやらかなり遠いらしい・・・それならもと来た道を戻って〈御陵〉の駅へ向かったほうがいいのかなと、話しながら歩いていると、先ほどの警備員さんが追いかけてきてくれて、〈御陵〉の駅に向かったほうがいいと教えてくれました。仕事を放ってまでわざわざ・・・ありがとうございます。しかし、駅に戻るのも結構な距離なのでここはタクシーを・・・〈山科〉の駅前はそのスポットだけ無国籍の近代的こせこせピカピカです。地下鉄東西線の南の終点〈六地蔵〉でいったん外に出て、かすかな人の流れを頼りに京阪線〈六地蔵〉から〈三室戸〉まで乗車しました。西国10番三室戸寺へはここから徒歩15分。観光スポットでもあるので、駅からの道には歩きやすいタイルが敷かれていて、迷うことはありませんでした。このお寺は5000坪もの大庭園があり、五月のツツジ、シャクナゲ、六月のアジサイ、七月のハス、秋のモミジと、自然を楽しめるところです。拝観料500円をお支払いして山門をくぐりました。しかし、今年はアジサイが遅い・・・ほとんど開花していないではありませんか(涙)あ~、あそこはツツジの植え込みだったんだ~とか、ライトアップされたツツジはさぞかし見事だったんだろうなぁ~とか、想像の中で花の彩を勝手につけて楽しむしかありません。でも、緑の滴るお庭も、よかったけど。本堂前にはハスの鉢がたくさん置かれていました。背後の山の木を伐採しているので、風通しがよさそうです(笑)ここも西国三十三所のひとつなのでご朱印をいただきました。きれいなお姉さんがさらさらと、書き入れてくださいました。くたびれてきたけどそれほどお腹がすいてはいない・・・そこで、お庭のなかの茶店で、スイーツをいただきました。美味しかったし、おなかもいっぱいです。オット的にはこのお庭の雰囲気、大いに気に入った様子で、いつかまた色づいた時期に訪れたいと申しております(笑)
2011年06月19日
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続いて行ったのは妙心寺です。京都花園地区。日本最大の禅寺だそうで、その敷地もかなりなものになります。きっとお寺が出来てから周辺の民家が建っていったのでしょうが、現在では周囲に普通の町家が建ちこんでいて、自転車で境内を駆け抜ける市民がいて・・・不思議な風景です。妙心寺の法堂は46もあり、それぞれに由緒ある文化財や庭園があるのですが、ほとんどが非公開で、白壁に囲まれた中ひっそりと禅の世界を守っているようです。(ちなみの龍安寺もこの妙心寺のお寺の一つだそうです)そうした中、わずかに通年公開されている桂春院のお庭を拝見にうかがいました(拝観料300円だったと思います)方丈の襖絵は狩野山雪の水墨画だそうですが、う~ん。状態が悪くてはっきりと見えません。建物もかなり古く、手入れの仕様がない感じで、寂れていくのがまた風情を醸しているような・・・。お庭はあまり広くないし山の中でもないのに、ひんやりとしています。特に真如の庭は、昼だというのに生い茂った楓や躑躅の茂みであたりは暗く、奥行きを感じるなかに古いお墓が何基も・・・。何かを感じような気がして、外から高校生の部活の声が聞こえなければ、逃げ出してしまいそうでした。大心院にも行きました(こちらも300円くらいお支払いしました)こちらはもう少し、人の手がかけられているのが感じられるお寺です。阿吽庭という、石で仏や菩薩を象徴したお庭が見所です。この写真はそのお庭を横から写したものですが、敷き詰められた白砂が本当に流れているように見えてくる、思いがけない迫力でした。阿吽庭を正面に見る建物は、現在宿坊として使用されていて、私達が庭を拝見しているその後ろの部屋には外国人カップルがいました。畳のこざっぱりとした部屋で、どこでどう寛げばいいのか・・・ガラス戸の外には時々観光客が通るし・・・と戸惑っている様子でした(笑)最後に入ってみたのは、退蔵院。拝観料400円だったような。妙心寺屈指の古刹だそうで、建物も立派ですが、この日は本堂で行事があって国宝の瓢鯰図はみる事ができませんでした。瓢箪と鯰の絵?!と思いましたが、これは『ころころの瓢箪でぬるぬるの鯰を捕まえてみよ』という禅の公案を題材にしているもので、ご丁寧にその公案へのたくさんの回答が、絵の上部に書かれているのです。深い・・・。そして退蔵院のおもての囲いの瓦にはこんなユニークなものがありました。ごく最近の図案です。ここのお庭は、手がかかっているようでした。まず、方丈前に置かれたアジサイの鉢の見事なこと!変わった品種なのでしょう、色も形状もきれいでした。そして、庭園に入ると目の前に枝垂桜がゆったりと新緑の枝を垂れ、その左右に黒石庭と白石庭が配置されていました。白は見たことがあるけど、黒は初めて。日本海をみているようです。庭の片隅には水琴窟があって、そばにあった柄杓で一杯水を垂らすと、山奥の洞窟から聞こえてきたような涼やかな水の落ちる音。ずーーとこれだけ聞いていたくなりました。池あり、滝あり、様々な色合いの花が咲き、見ごたえのある極楽でした。肝心の妙心寺の大伽藍は、大方丈法堂の天井雲龍図など見所はありましたが、夕方だし疲れてしまったので割愛し、101系統のバスに乗ってホテルに戻りました。そして7時。再びバスに乗って予約を入れていた居酒屋・神馬に向かいました。食べログのコメントによると、お勧めコースでいろいろ食べたほうがよさそうでしたので、そのように。実際入ってみると、なにを頼めばいいのかわからない・・・常連のかたが多いお店な様子。名物女将のおばあちゃんが、全ての注文を把握しているらしく、なんとなくいろいろ遠慮してしまいます。美味しかったのはお刺身。マグロの赤身が美味しかった。それから加茂茄子の揚げ浸しに生うにを乗せたものとか、モズク酢に温泉卵をいれたものとか、組み合わせの妙で美味しさ倍増でした。
2011年06月17日
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きぬかけの路をたどっていくと、石庭で有名な龍安寺にたどり着きました。早速拝観料500円を支払って、方丈の中にはいると、いきなりもうそこが石庭に面した濡れ縁になっていました。なんの溜めも躊躇もなく全然もったいぶらずに・・・石庭です。石庭正面からの写真はどこでも見られるので、ここでは石庭を臨む廊下の突き当たり・・・右に曲がって西の庭に向かうところです。石庭が有名だからといって、このお寺全体が無機質なのではありません。むしろこの場所を除けば、緑豊かなお寺です。苔むした石が点在する境内・・・梅雨時だからなお一層緑が鮮やかです。衣笠山の自然の息吹が吹き込んでくるのでしょうか。山門近くの鏡容池には睡蓮が咲きかけていました。あと1週間もすれば見ごろになるでしょう。さて、ふたたびきぬかけの路・・・昭和38年までは観光道路と呼ばれていたと、いま知りました。この風情のあるネーミングも公募で選ばれたものだそうで・・・なぁんだぁ~菅笠に絹を垂らしたお姫様が通った道じゃないのね ヾ(≧∇≦)ゞでも、この道沿いに金閣寺・龍安寺・仁和寺とあるのだから、確かに徒歩重視の観光客には便利な道です。その仁和寺。広い広い。仁和寺の法師って、徒然草に出てきましたよね。あれです、あのガイドもつけずに石清水に行って、しょーもない所をお参りしてきたお坊さんです。まさかそれで、後世の高校生に、『何事もよく知った人に案内をたのむべきだ』なんて教訓を垂れるときの題材にされるとは、思わなかったでしょうね。お寺全体は平成6年に世界文化遺産に登録されているとか・・・京都にはいっぱいあるんでしょうね。今回幾つ訪れることができるかな。仁和寺も数ある門跡寺院の一つで、その勅旨門の豪華なこと。広い境内には御室桜が、たくさんのさくらんぼをつけていました。御室桜は背が低いので、ちょうど目の高さにこのかわいらしい実を見ることができます。もう少し大きければ食べていたかもしれない。仁和寺御殿(拝観料500円です)は明治20年に火災で失われましたが、その後明治から大正にかけて、当時の最高の材料と技術を駆使して再建したものだということです。中途半端に江戸期のものより、国力も拡大した明治後半のほうが、充分なものを作ることができたのかもしれません。お庭も、白砂を敷き詰めた枯山水の南庭と、意匠を凝らした池と植木と各地の名石が配置された北庭。明治期の皇室の力を感じます。平成では、こうはいかないでしょう。皇室とのかかわりを、尊ぶ風潮もなくなって・・・。文化って、わけのわからない信仰心や忠誠心などがないと集中していかない・・・このままでは日本古来の文化は衰退していくのかしら。宸殿の内装ももちろん見事でしたが、外気に触れる木戸に描かれたものも、雅でした。
2011年06月14日
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震災でヨーロッパ旅行をキャンセルし、ゴールデンウィークの琵琶湖旅行は義父の健康が心配で取りやめになり、ついにやっと入梅してから京都に行くことが出来ました。雨さえ降らなければ酷暑でもなく、若い緑が美しい時期、京都のお庭はさぞかし・・・と思い出かけました。6月2日午前11時、京都駅到着。お宿は前回も泊まった京都国際ホテルに2泊です。立地もいいし、なんといってもツインで1泊8000円の優待券を使っての宿泊。有難いことです♪荷物をフロントに預け、ランチに出発しました。場所は丸太町と烏丸通の交差点近くの十二段家。外観が中国の建物みたいで変わってますが、歴史は大正時代のお菓子屋さんから始まるそうです。ここのランチはお茶漬けです。京都だものね。ぶぶ漬けをさらっと頂いて・・・と思ったら、ちゃんとおばんざい風のお膳になってました。ふわふわの甘くない卵焼き、写真をとる前に食べちゃいました。鴨なすと白身魚の揚げ浸しがついた1890円のコースです。お漬物、当然美味しかった。細かく刻んであって、残り野菜も大事に使った昔の京都の庶民の保存食なのですね。漬物処東北の、しっかりおかずにもなりお茶請けにもなる漬物とは一味違うようです。さて、腹ごしらえをしたところで取り出したのは京都観光二日乗車券です。京都駅の観光案内で一人2000円を支払ってGETしてきました。これを使えば2日間、京都市バスと市営地下鉄、京都バス乗り放題です。これを握ってまず向かったのが金閣寺。時期はまさに修学旅行生がごった返する初夏。街もバスの中も境内も、制服姿の命の焔がメラメラ燃えるのが見えそうなほど元気な若者だらけ。熟年カップルは押しのけられそうになりながら参道まで行き着いたけど、この先のかしましい展開が見えてきそうだったので、あっさりパス。もみじの季節に来よう!そう心に誓いました。そして徒歩で龍安寺に向かいます。実はこの道きぬかけの路という古い道で、ガイドマップにはいかにも散策によさそうに載っていたのですが・・・実際に歩いているのはわたしたちだけ。若者は観光バスや専用タクシーですいすい行ってしまうみたいで、この道も信号がないため地元の車がバンバン通って、名前にだまされた気分でした。
2011年06月13日
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休んでしまいました。忙しかったけど、ブログを更新するくらいの時間はあったはず。怠け癖と、ちょっぴりの節電を意識して・・・ですね。でも、実際わたしがPCを開けるのは朝早くの時間帯が多いので、電力に余裕のある時間。使っても問題ないね?なにをしていたかと言えば、プチ断捨離と、ヘルパーのまねごとです。ムスメが家を出てしまったのを機会に物の整理を始めました。これからも着ないであろう洋服がダンボールで3箱もでてきたので、新品はマルイの被災地へ送るリサイクルへもって行き、あとは着てくれる人を探して押し付けたり、小さく切って雑巾にしたり、潔くゴミにしたり。結構エネルギーが要りました。のこり1箱!藍染の剣道着、誰か欲しくない?ヘルパーのほうは、義父の入退院が3月の半ばから3度あって、そのたびに付き添いやら送り迎えやら・・・。要請を受ければ出来るだけのことはしようという姿勢で待機してます。自分の親じゃない分、かなり冷静でいます。過去には怖くてとっつきにくい義父でしたが、いまは二人でいる時間に笑ったり宥めたり、たくさん会話しています。毎週末に出かけていた玉川高島屋の地下食料品売り場めぐり、3月後半からは少しルートが変わりました。東急系の玉川ライズがオープンして、その地下に東急フードショーが出来たので、いまはその両店舗を見て回るようになりました。おかげで時間も歩数も倍かかりますが、楽しい♪きのうは高島屋の西館地下で玉川マルシェというつきに1度の朝市のようなものが開催されていました。新鮮で美味しい野菜や果物やその加工品を生産者の方が販売なさっていました。たくさん購入しました。その一部がこれ、アーティチョークと桃(3個で500円!)ライズのスイーツ売り場には撮影が入っていました。どれどれと眺めてみたら、佐々木希ちゃんとほしのあきちゃんを認識できました。さすがに二人ともかわいい。10メートル離れていても、周囲の人との顔パーツの違いが際立っているのがわかります。ほかにもかわいいと思われる女の子もいたようですが、名前も知らないし輝き度合いが違う。帰りにもう一度同じ場所を通ったら、矢部っちが空色のジャケットを着て司会をしてました。あ、ぐるナイだ。〈ごちになります〉が大好きなオットはそう言ってました。放送が楽しみ♪6月2日から、京都に2泊で行ってきました。そのときのお話を明日からまじめにアップします。
2011年06月12日
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北上山地から東に、岩手県北部の山々を切り込んで流れる閉伊川は、2級河川ながら本流であり、その川沿いに盛岡から宮古市にと走るJR山田線と国道106号線を併走させている。河口は宮古湾に注ぎ込み、小学校低学年だった私には相当に広い川幅を持って見えていた。川向こうの市中心部に行くには、宮古大橋を渡っていくのが普通だが、橋まで行く距離をカットできる渡し舟があった。魚加工工場を通り過ぎ、造船所のすぐ前に乗り場があった。船着場に特に看板があるわけではない。手漕ぎの木の葉のような船が一艘、河口を行き来しているのが見える、その先にもやい綱を垂らした杭と、申し訳程度の梯子が垂れている、そこが乗降場所なのだ。それはもう演歌の世界の渡し舟のようだった。ゆらゆらゆれる不安定な船に船頭さんの手を借りて乗り、舟の構造にもなっている横木や船べりに腰掛けて、客が5~6人ほどになるのを待つ。ころあいを見て舟は対岸に向けて漕ぎ出す。小柄ながら巧みな船頭さんが長い魯と櫂を操ってものの数分で対岸に到着し、バス料金ほどの金額を渡して岸に上がる・・・昔むかしからこういう仕組みだったのだろう。救命ベストなど、有ったようには思えない。雨が降っていたら乗客は傘を持ったまま船に乗るのだ。小さな子にはちょっとしたアトラクションのような渡し舟で、私はこれがとても好きだった。しかし渡し舟は、宮古湾から延びてきた防波堤の建設によって姿を消した。閉伊川は、大人の背よりもずっと高いコンクリートの壁の向こうを流れるようになった。宮古市中心部に行くには宮古大橋を渡るしか、なくなった。震災の直後、宮古湾から閉伊川を逆流してくる黒い塊のような津波が、あの堤防を越えようとしているのが映し出されていた。堤防は、今回無力だったのだろうか。橋は水色のペンキで塗られ、いつも川の上を通る風に吹かれていた。橋を渡った向こうに耳鼻科医院があって、そこには家の近くの国道45号線にあるバス停からバスに乗って通った。私は鼻が悪かったらしい。私が小さいころ、鼻が悪くて耳鼻科に通う子供は多かったと思う。病院に行くと鼻の中を洗浄し吸引をして帰る・・・いつどうなれば治るのかわからなかったが、母の言いつけでとにかくバス代と毎回の診察代を手にして、週に2回ほど通った時期があった。どこで治ったんだろう。別にしょっちゅう鼻水を垂らしている子ではなかったのに、なぜ通う羽目になったのか今でも分からない。ちなみに臭覚は普通以上だとよく言われる。アレルギー性鼻炎のようなものではなかったかと思う。時々その病院の帰りに母と待ち合わせ、母が通う編み物教室の先生のお母さんが開いている『おでん屋さん』に寄るのが楽しみだった。トタンで包んだだけの小屋のような店だったが、気軽に入って竹串に挿したこんにゃくやちくわに甘い味噌を付けたものをおやつ代わりに食べた。橋のすぐ袂にあったはずだ・・・とは言っても、もう40年以上前のことだからあの小屋はとっくに無くなっているとは思うが。
2011年04月22日
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こんな時期、お花見なんて自粛??って考えもあるようですが、破壊するのも自然なら、恵みをもたらすのも自然なわけで・・・どちらも享受いたしましょう。そういう不条理と人のあり方を感じながら先週の日曜日は散歩に出かけました。義父が体調を崩し、というか誤嚥性肺炎で入院したり、ムスメが就職して勤務地が静岡になっちゃって引っ越したり、実はとてもあわただしい毎日だったのですが、桜は観ておかなければなりません。まずは街の有志が作っている花壇で和みます。しばらく行くと斑入りの椿。 こんなにきれいに咲いているのは珍しい。よく見かけるのは、花びらの端が茶色くなっていたりするのに。それから白い壁を背に立つ菜の花。キャンパスに描きかけの絵のようでした。いよいよ私たちの大好きなポイント・・・ちょっと小高くなった場所から桜を見下ろせ、遠景に二子玉川が見えるところに到着。大きなクヌギの木からは、こんな花が垂れていました。無骨な樹にも春は訪れる・・・そして世田谷方面をバックにした桜。もっともっときれいにゴージャスに写せればいいのだけど・・・。足元の階段にも薄桃色の模様が。二ヶ領用水久地円筒分水にかかる桜は、このあたりではちょっと有名で、分水の前にあるベンチには沢山の人が来ていて、それぞれにのんびり桜を愛でていました。このあたり(現在の川崎市北部)は徳川家康の時代に人工用水を作ると共に新田開発をしてきたそうです。そのとき作られた二ヶ領用水には分量桶もあったのですがまだまだ不完全なもので、農業用水をめぐって争いが起きることもしばしば。近代になって円筒の分水装置も造られたそうですが、それはもっと水量のある上流でのこと。現在ここにあるのは昭和16年に作られたもので、かなり画期的な装置なのだそうです。川崎市北部の小学生はみんな学習しています。この近くの水路の一つが多摩川に注ぎ込んでいます。その道沿いも私たちのお花見ポイントです。電線に架からないように行儀良く刈り込まれている様子が気の毒なような・・・。桜も大好きだけど、私はこのミツバツツジも好き。背が高いすっきりした立ち姿に、風通しよく赤紫の花が咲いて。もてはやされないけど独自の路線を行く思い切りの良さが、好き。最後にもう一度満開の春・・・おいしそうな時期は過ぎちゃった菜の花です。東北の春ももうじきです。寒い冬から開放されて水仙もチューリップも梅も桃も連翹も万作も雪柳も、林檎も、もちろん桜もみんないっぺんに咲いて、それはそれはきれいです。ゴールデンウィーク、岩手は花盛りになるはずです。今年は、行こう!
2011年04月14日
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幼いころの大槌町の記憶は鮮明だ。YahooMapで地図を検索すると、町役場のすぐ近くに大槌保育園があり、私には5本の道が集まっている場所に見えたところが、じつは6本の道に枝分かれしているところがある。これはもう、ないのだ。営林署はもうずっと前から、ない。署員とその家族で忘年会のようなものをした、あの会議室もない。冬の晴れた日、障子とガラス窓の間の狭い空間に体を押し込めて、浜田ひろすけの絵本を読んだあの家も、もうなかったのだろう。〈母さんヤギの目の中に、こどものヤギが映ります〉〈とっとことっとこ三回り目子豚は疲れてしまいました〉何度も何度も読んだあのフレーズが、三陸の冬の日差しの暖かさと共に蘇ることはない。町は変わっていくものだけど、抗いがたい自然の暴力に一瞬にして奪われてしまうのは、受け止めるのがつらい。小学校に入学してすぐに、宮古市藤原に引っ越した。当時宮古市は、たいそう活気があったように思う。引越しのその日、まだよちよち歩きだった妹が、家の近くの砂浜を見て喜んで海に駆け込んでしまった瞬間があった。一番近くにいた私はとっさに駆け寄って半身海水にまみれながら妹を岸へ引きずり戻した。ずぶぬれの私は、引越しで忙しい親に洋服をぬらしたことを叱られるのではないかと心配したが、叱られた記憶はない。でも、ほめられた記憶もない。新しい官舎から海はとても近かった。波の高い日は音が聞こえるほどだ。家の前の道を隔てて家並みが一列あり、その裏側がニセアカシヤや松林になっていて、もう砂浜なのだ。引っ越してしばらくすると、海岸には防波堤が出来、防波堤の上が散歩道になっていた。海岸にはすぐに降りられるが、防波堤の影響で波が荒くいつも怒っているようだった。チリ地震津波・・・大人の会話の仲に何度も出てきた言葉なのだが、小さい私には何のことなのかちっともイメージできなかった。私に始めてエレキギターを見せてくれた中学生のお兄ちゃんには、実はお姉さんがいたのだが津波にさらわれてしまったという。〈津波にさらわれる〉ということがイメージできなかった。宮古には、津波の傷跡がたくさん残っていたのだろう。それすらまた塗り替えてしまうほどの災害・・・誰もイメージできなかったのではないだろうか。小学校には、はじめ5歳離れた姉と一緒に通った。道のりの中には国道45号線を横切る箇所があった。国道は上下線に分かれ歩道があって、私には横断歩道が長く感じられた。あたりには個人商店が点在していた。家から一番近いのは〈おせんさん〉とみんながよぶ、よろずやだ。お豆腐を買うときにはお鍋を持っていき、それにいれてもらう。野菜は当然新聞紙にくるんで渡される。日曜日の朝は家族5人分5本の牛乳と食パンを買いにいく。ガラスケースのなかには秤売りのお菓子があって、白い紙の袋に入れてくれた。ごちゃごちゃと置かれた商品のなかには文具もあった。国道沿いには同級生の古舘さんの家が魚屋を開いていた。大槌に住んでいたとき、魚屋などみたことがなかった。たぶん行商が来ていたのだろう。魚屋は新鮮だった。たくさんの種類の魚とあの磯の強い香り、大量の水。魚屋にはなりたくないと思った。豆腐屋もあったし、モヤシ工場もあった。普通の民家の玄関の上がり框に数種類の雑誌を並べただけの店もあった。宮古市藤原は住宅地だったので商店は数えるほどしかなかった。買い物は閉伊川を渡った向こうの市役所のある地区にいくのが普通だった。
2011年04月09日
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父は、いまはない営林署の署員だった。そのため、何度か転勤があり、三陸海岸の大槌町と宮古市に通算8年住んだことがある。大槌町に住んだのは4歳から6歳までの2年間。私はそのこじんまりとした漁村を絵本の中の世界のようによく覚えている。小さな官舎に家族5人で住んでいた。家は道路から石段を5、6段上がったところに建っていた。玄関の脇、私たち姉妹の寝室のすぐ外に井戸があって、水色に塗られた湯船くらいのプールに冷たく澄んだ水が、いつもゆらゆらと揺れていた。夏になるとこの井戸に、近所の人が野菜やスイカを浮かべていた。うちの敷地の中の井戸なのに近所の家の冷蔵庫代わりにもなっていた。おばさんたちの話し声で目覚める日もよくあった。みんな知り合いのような気分で、核家族で転勤族の私はうれしかった。町の保育園に1年と少し通った。同じ転勤族の家の子と一緒に母に見守られながら歩いて通った。町の中心近くに5本の道が集まってくる場所があった。四つ角という言葉を覚えたての私は、幼心に考えて、これを『ごつかど』と呼んだ。いまでもあれを何と呼べばいいのか、わからない。保育園にはあまり楽しい思い出がない。木造の、色彩の少ない園舎だった。昭和30年代後半のあのころは、どこもそうだったような気もする。うるさく話しかけてくる子に返事をしただけなのに、先生の話をちゃんと聞いていなかったと叱られたり、それが誰で何なのか分からないままクリスマス会の劇でマリア様をさせられ、キューピー人形のイエス様を白い布にくるんで神妙に舞台に立たされたり(保育園児が母親になんてなりたくなかったのに)、埃っぽい園庭で園長のつまらない芸を見させられたり・・・ちょっと考えすぎのひねた子だった。家のすぐ裏には堤防があった。その向こうには海があったのだと思うが、記憶にない。私の背丈では見えなかったのかもしれないし、堤防の外は子供だけでは行ってはいけない場所だったのだろう。堤防の内側はなだらかな傾斜になっていて、コンクリートの2メートル四方の枠が付いていた。その一個一個を部屋に見立ててチョークで家具を書き入れていくのが、大好きな遊びの一つだった。何個も何個も部屋を足していって・・・。一緒に遊んでいる友達の傾斜のついた部屋を訪問したり、たずねてくる友達に、私の傾いだ豪邸のなかを案内したり。イマジネーションを書き込んだ堤防の斜面が、いまでも目の中に残っている。夏、盆踊りに行くのに、蒲の穂の中の細い道を通っていったことがある。夕闇のなか、ウシガエル(食用蛙)の太い声があたりに充満し、濃い闇が重量を増しているようで気味が悪かった。湾に注ぐ小川に遊びに行くこともあった。今の子供たちと違って昔の子供の行動半径は広かった。そのなかでも私が一番小さかったのかもしれない。小学生の中学年くらいの子供が、しっかり大人びて見えていた。小川の水深はせいぜい十数センチで流れも穏やか。落ちても服が濡れるくらいの、罪のない流れだったように思う。その流れにかかる小さな橋を渡って向こう岸に行くだけなのだが、私には大冒険だった。木切れでできた橋を歩いてわたることが出来ず、思わず四つんばいになっていた。すると水はもっと目に近づくのだ。日差しを浴びてきらめく水面をいまも覚えている。昭和37年、大槌小学校に入学した。大きなランドセルを背負った私が、着物を着た母と、私の靴袋を手にした妹と、撮影の邪魔にならないようにカメラレンズの前から逃げようとする姉と一緒に、玄関前で眩しい日差しに目を細めている写真がある。桜が満開の校庭での集合写真もある。岩手でも、三陸は海流の関係で厳しい寒さにはならないのだ。なのに今年は・・・・。あのころテレビで見ていたのは『ひょっこりひょうたん島』だったろうか。そのモデルとなる島が大槌湾にあったとは知らずに。保育園があった場所は町役場の近くだ。私が住んでいた場所はそれよりももっと海に近い。もう、なにもないのだろう。あの井戸も。あの蒲の茂る沼地も。ずいぶん前から、私の記憶とは違っていたのだろうが、ほんとうに何もなくなってしまったのだろう。
2011年04月05日
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あの日、3日後に出発するのフランス旅行のために、港北区にある美容院へ車で行きました。帰りに区のスポーツセンターへ行って4月以降のテニスコートの申し込み手続きをして、近所のスーパーマーケットへ。買い物籠をもってイチゴと白菜を入れたところで地震が来ました。店内の灯りが瞬き、奥のほうの棚から商品が落ちる音がして〈これはただ事ではない〉と思い、籠を邪魔にならないところに置いてゆっくり出口へ向かいました。ほかの買い物客もそろそろと外に出てきました。揺れが収まるまで駐車場の広いところに居たのですが、店の灯りは消え、店員さんたちも右往左往していました。携帯のモバイルでテレビを見てみるととんでもない地震が東北で起きたとのこと、周囲に居た人にも告げて、携帯のバッテリーがなくなっては困るので通信は切りました。とりあえず車を義父母の家のガレージに戻し、義父母の様子を見にいくと二人とも庭にでていました。そこでまたしばらく地震の様子を伺い、そろそろ寒くなってきたので家の中に入りました。家の中には特に被害はありませんでした。私の家はどうなっているのか気になるのでそこから徒歩5分のマンションの6階の部屋にもどりました。ムスメの部屋は、棚に乗っていた本や小物が床に散乱していましたが、壊れたものはなさそうです。ムスコの部屋も、ひどい散らかり様・・・と思ったら朝のままのただの散らかりで、思わず笑ってしまいました。ほかの部屋は、特に変わった様子もなく・・・いやいや、食器戸棚の様子が変。ガラス扉の中にしまってあるグラス類が皆扉にくっついているではありませんか。地震の揺れで奥から手前へと移動したようです。戻そうと思って恐る恐る扉を引いたら、案の定グラス類が手前に倒れてくるではありませんか。息を呑んで慎重に開けたつもりだったのに、ワイングラスが1個落ちて粉々になってしました。片付けなくては危ない・・・が、電気が来ていません。掃除機が使えない。このまま暗くなったらもっと危険なので、あたりを雑巾がけして始末しました。さて、これからが本当に大変。オットはこの日九州から帰るので、丁度福岡空港に着いたころだろうし、ムスコは用事があって東陽町あたりにいる。ムスメは幸い日本には居ませんでした。私達夫婦と一緒にフランス旅行をするので、一足先に渡仏し友人たちと会っているはず。日本に居る二人に居所確認のメールを打ち、停電の夜に備えて懐中電灯や蝋燭の準備をしました。トイレに行くと・・・水が流れない!マンションの水道は電力がないと機能しないのでした。義父母の様子も気がかりだったし、あちらの家は戸建てなので水の心配はないので、私は家族が帰ってくるまでは義父母と一緒に居ようと決めました。義父はアルツハイマー症が中程度に進んでいて、周りの状況をうまく理解できないし対応するにも時間がかかります。暗い中では義母も大変だろう・・・と、思ったのもありますが、私自身が一人でいるのは怖かったのです。義母が用意した蝋燭は仏壇のもの・・・あれでは危険です。うちから直径10センチのアロマキャンドルと、防災グッズの中のこれまた太い蝋燭を持っていきました。それに、LED懐中電灯(エディーバウアーで貰ったものです)と、手動発電の電灯と携帯充電が出来るラジオ(本当にこれを使う日が来るとは思わなかった)。まだ陽があるうちに義父母には食事を済ませてもらい、あとは蝋燭の火を頼りに余震の続く中オットとムスコとの連絡を待ちました。オットは福岡空港で羽田行きの飛行機に乗るべくとにかく待機。(無理に帰ってきても列車が動かないから、そのまま福岡泊にしたら?と言ったのですが、ホテルはどこも満室だというのです)少したってからムスコから返信があり、徒歩で東陽町から水天宮前まで来て、半蔵門線が動くのを地下鉄の車両の中で待っているというのです。地下!怖い。電車はこの日、復旧しないでしょう。だから地上に出て周りの情報を集めるように指示しました。ムスコはことの深刻さに驚き、「ネットカフェに泊まろうかなぁ」「タクシー使ってもいい?」と言うのですが、ネットカフェなるものが入っている建物の安全性が分からない。タクシーがつかまるわけがない。「とにかく情報集めて、腹ごしらえして飲み物を手にしてうちへ向かって歩き出しなさい」と過酷な指令を出しました。そういえば私、何も食べていない・・・義母が心配するので冷凍庫にあったご飯をお湯で煮て即席お粥をつくり食べました。ラジオの速報に気が遠くなりそうな言葉『壊滅』が聞こえてくるし、オットもムスコもどこかを歩いている。こんな状況ではこれ以上食べたら気持ちが悪くなりそうでした。そろそろ私の携帯のバッテリーがなくなりそう。このあたりから、5分手動発電をしては1メールを送るという暗い作業が始まりました。オットからはやっと飛行機が飛ぶとメールがあり、羽田までのルートは出来たようでした。暗いから起きていても仕方ないので義父母には休んでもらいました。勿論普通に休めるはずはなく、強い余震に備えてお風呂もパジャマに着替えるのは諦めてもらいました。そして2時間後、オットから再びメール「羽田から環八まで出てきたけど寒くて疲れて、挫けそうだ・・・。」そうだよね。若くないもん。ラジオで都内のあちこちの公共施設が帰宅困難者のために休憩所として解放されたと言っていたのでそのことをオットに知らせました。ラジオでは、私鉄が徐々に動き出している様子です。そして11時過ぎ、やっと東急全線開通のニュースが入りました。急いで二人にメールしました。オットは蒲田にあるどこかの学校の休憩所ですでにそのことを知らされていて、東急目蒲線に乗ることが出来ました。そして11時45分。「最寄の駅に着いたよ」と、オットとムスコからほとんど同時に連絡が入りました。ムスコは最後の2駅だけ、やっと乗れたそう。27キロ7時間踏破です。地震が起きてから8時間、私は二人が心配で心配で・・・。メールと同じくして停電も終わり、部屋がピカピカ明るくなりました。蝋燭を片付け、義母に「二人が帰ってくるので家にもどります」と告げて家路に着きました。信号がちゃんと赤くなったり青くなったり・・・あぁ、日常に戻れる、とほっとしました。私はほんの8時間だったけど、こんな非常時がまだ続いている方たちが大勢いらっしゃる。ここに書いたことはあの地震の日の、とても恵まれたパターンなのだと思っています。計画停電で何度も不自由はしているし、近所のスーパーの棚は閑散としています。行っても楽しめるはずはないのでフランス旅行はキャンセルしました。いろんな費用がかかってしまいました。だけど、もっともっと、比較にならないほどの苦労をなさっている方たちがいらっしゃる。ずーっとこれからもこのことを心の中に閉まっておかなくては。
2011年03月28日
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花粉ですよね~。私自身はまだ花粉症ではないと思いたいのですが、ここ2週間、すっきりしない鼻と喉と頭・・・。やっぱりそうかしら?2~3日前まで、首都圏は乾燥がひどくて家のなかも湿度30%を切る勢いでした。そこで遂に加湿器を導入しようかと、家電店に行きました。当初は丸くてかわいいアロマ加湿器を・・・と思っていたのですが、花粉飛散時期でもあるし、空気清浄機も必要かも・・・と、ぐらぐらの気持ちのままでかけました。そして購入したのがこれです。予定より大きいしかわいくないし、匂いもないダイキンの製品。でも、花粉を分解消去してくれるのはこの機種だけだというし、必要以上に加湿しないようにセンサーがあるし。5000円の予定が30000円になったのは痛かったけど、おかげで喉のヒリヒリ感はなくなりました。あとは花粉症の家族が、家のなかでは快適に過ごしてくれることを祈ります。そしてこの冬導入された、家のなかの遊び♪『ドミニオン』という、ドイツで開発されたカードゲームです。お金で買ったいろんな種類の都市の構成員や施設を駆使して、領地を増やしていくというゲーム。家族4人の気が合ったとき(主に夕食後)一戦を交えます。わたしが最弱・・・。戦略的な頭も投機的な読みも出来ない。このゲームを始める前までは『チケット トゥ ライド』っていう、マップ上の線路を買い占めていくゲームに嵌っていたんだけど。そしてこちらのほうがわたしは得意だったんだけど。仕方なく今は最下位に甘んじているけど、そのうちきっと勝ってやる!!
2011年02月13日
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オットはスポーツ観戦が大好き。なかでもアメリカンフットボールへの入れ込み方は、すごいものがあります。アメリカでは2月6日の日曜日・夜、スーパーボールがありました。しかし日本時間では今日月曜日の朝・・・仕方ないのでCSでの放送を録画しておいて、今熱心に見ています。今年のスーパーボールのオープニングにアメリカの国歌を歌ったのがクリスティーナ・アギレラ。どこか歌詞を間違えたらしいけど、そんなの聞き分けられません。それよりも、自由自在に出る声。どこからあんな野太い声が出るのでしょう。映画バーレスクを撮影したときは彼女はまだ細くて可憐な感じさえあったので、その声量の豊かさには驚きました。キャバレーを舞台にしたミュージカルはいろいろあるけど、今回もショーの巧みさが良かった。のりの良い曲のときなど、思わず手拍子を打ちそうになるほど。アメリカのショービジネスは凄いです。裾野が広いものね。高校の発表会でさえ、凄くレベルが高かったもの。この映画、昨年12月公開だったけど、まだあちこちで上映しています。音楽も楽しいから、劇場で見たほうが良い映画です。共演のシェールって、1966年に「悲しきジプシー」で世界的なヒットを飛ばしていたのね。知ってる、この曲。ほかにもテレビドラマ「ヴェロニカ・マーズ」で主演していたクリスティン・ベルも踊ってました。
2011年02月07日
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初詣をしてから幾日も経たないような気もするのに、2月ですか・・・。長らく更新できずにいました。パソコンの画面が突然滲むようになって、ムスコにきいて原因もなんとなくわかったけど、とにかく入院治療が必要だということでVAIOサービスにお預けしました。入院先で検査をしたところほかにも悪いところが見つかって、結局初期化することになりました。バックアップは取っておいたつもりだったので・・。そして昨日やっと退院してきて、セットアップしてもらって、さっそくバックアップしておいた内容をインストールしようとしたら、なんと! どのホルダーも空ではないですか!どうやらインストールミスらしい・・(涙)ほろ酔い加減のオットに任せた私が悪かった・・・。写真だけは無事だったのは、なぜでしょう。私の書き溜めていたいろんなものがなくなってしまいました。気力が失せます。しかも風邪を引いて熱があるし。本当なら昨日から、お預かりしている詩の会の原稿を打ち込んで編集作業に入らなければならなかったのに。すっかりめげてます。
2011年02月01日
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西伊豆に行ったときに寄った産直のお店には、新鮮な野菜がいっぱいでした。それに珍しいものも。その中の一つがこのナントカ大根(わすれちゃったけど聖護院ではありませんでした)とにかく大きい!売り場で「かぶら蒸しにできそう」って話していたら、実際に作った方が「千枚漬けにすると美味しいよ」というので、4分の1をそのようにいたしました。本当に美味しかった!京都のお土産でいただいたりするけど、新鮮な浅漬けの千枚漬けは絶品でした。あとの4分の1はおでんに入れてみました。柔らかくてよく味も浸みて、これもよかった。次の4分の1はシンプルにベーコンと一緒にコンソメで煮てスープにしました。そして残りの4分の1こそかぶら蒸しに・・・できるかなぁ(笑)
2011年01月18日
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昨年1年間、映画館に足を運んだ回数があまりに少ないのに反省しておりました。で、友人が『エリックを探して』を見に行こう、と誘ってくれたので内容もわからずとにかくGO!いたしました。Bunkamuraの映画館は客席が平面に椅子を並べてあるだけなので、前の人の頭が気になるところです。しかし今回は幸いにも空いていて、前をさえぎるものはない。気持ちよく鑑賞できました。内容も、パニック障害を抱え生活も負け犬の中年郵便配達の男が、自身のアイドルである往年のサッカースタープレイヤーに支えられて自分を取り戻していく・・というお話。観終えた後の満足感も気持ちの良いものでした。ここで出てくるフーリガンのような人たちが、イギリスの普通の労働者達であり、主人公を支える仲間達。仕事場の仲間がこうして団結して私生活まで一緒に悩んでくれる(面白がっている?)のは、アメリカ的雇用状況の進み始めた日本では無くなったものの一つだと思います。こういうことも仕事に就いてこそ得られるもの。就職できるといいね、世の中の求職中のみなさん。そしてその前日にDVDで見た『オーケストラ!』が、夕方から再上演中でした。共産党の一党支配だったロシアで、ユダヤ人を守ろうとした(彼らの音を手放したくなかった)元指揮者が、昔の仲間を集めてパリで公演するというお話。そこに美しいバイオリンソリストがミステリアスに登場・・・この女優さん、メラニー・ロランがいい。『イングロリアス・バスターズ』で見たときも、インパクトあったし。音楽が納得させてくれる、そういう音楽の圧倒感。良かった~。DVDでもあれだけの感動だったのだから、劇場だったら音響効果も相乗して、号泣だったかも?!
2011年01月14日
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