2004年10月19日
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本能寺の変は酒呑童子の物語(いわゆる鬼退治)に似ているという方もいます。星野之宣の 宗像教授伝奇考という中に、
本能寺の変と 源頼光の鬼退治との共通性を取り上げている 漫画があります。酒呑童子も 魔王第六天 信長も魔王第六天と自称したようですが、光秀が、大江山を通り、桂川を渡るというところとか、光秀が自分のご先祖に源氏を見たとか、信長のある面での凶暴性、異常性とかかから、これを取り上げる人が多いようですが。そこから思うに信長が どうだから 光秀が という遺恨説の根拠が薄いのも、信長に痛めつけられた、浄土真宗や 天台宗の坊さんたちの 創作じゃないの?という気がします。

また事件の描写にしても どうもテレビや 小説では いろんな描写が本能寺の変では なされていますが、おおよそのところは、足利義教と 義輝の暗殺事件を元にしたものといっては 語弊があるかと思いますが、どうもそんな気がします。

鈴木真哉さんの鉄砲と日本人という本では
 凱旋してから一ヶ月半も経たないうち、信長は本能寺で死ぬ。通説では、信長主従は最後まで大奮戦して死んだということになっているが、これは信長公記などの記事をそのまま取り次いだもので、とても真実とは思えない。信長側の人数は100人足らずで、甲鎧の用意もなく、信長自身の持弓、持槍を除けば、打刀以外に何の武器も持っていなかった。これに対して明智勢は1万3000、戦闘員はその半分ぐらいだったとしても、彼らは完全武装の集団だった。これでは初めから勝負になるはずもないのである。斎藤利三の息子の伝えた話によると、本能寺の門を破って乱入した明智勢が鉄砲を打ちかけると、信長の近侍たちが あわてて飛び出してきたが、なにぶん帷子一枚の素肌であるから、20人ばかりも打ち倒されたとある。残りの者も同様に 弓鉄砲の的となってなすすべもなく撃ち殺されたにちがいないが、大田牛一にしてみればそう書くに忍びなくて、故主の奮戦憚を仕立て上げたのだろう。
としていますが、いかがでしょうか?

網野善彦氏 増補 無縁 公界 楽、奥野高広氏 織田信長という本の中ではこの中には明智の手勢から さるお坊さんが信長の遺体を引き取り 葬ったという記載を引用しています。なぜさらし首にされなかったかが疑問ですが。 光秀がさらし首にしなかったらしいことが、信長の生存説をだしてしまうことになり、与力大名達を組織できずに、敗北してしまう要因になったように思います。







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最終更新日  2004年10月23日 08時15分53秒
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