2008年01月07日
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(編集部より)長野朗氏の略歴が判明しました。
 下記の通り、これはI教授からのご指摘です。
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 明治二一(1888)年四月三日生(原籍福岡県三池郡二川村/現在高田町)、久留米市明善中学校入学、同校卒業 。四二 (1909) 年 陸軍士官学校卒業(二一期) 同年一二月歩兵少尉に任官。
 大正元年 (1912) 、中支那派遣隊として漢口に駐在、翌二年一〇月帰還、同年歩兵中尉に進級。三 (1914) 年、青島攻囲戦に参加、同年一二月凱旋。
 大正八 年一月より一二月まで語学留学生として北京に滞在 専ら支那語及支那事情の研究に従事す。九年八月より十年八月まで支那駐屯軍司令部(天津に在りて経済及地理資源の調査に従事、九年四月、大尉に進級。
 十年 (1921) 年一一月 予備役となり支那研究に従事。(注1)後掲「年譜」によれば、一〇月一二 (1923) 年四月 支那駐屯軍司令部嘱託として天津に赴き一三年一一月まで軍司令部調査班経済主任として、兵要地誌の調査に従事。一三 (1924) 年一一月より一五 (1926) 年四月まで東方通信社東京本社に勤務、一五(1926)年 支那問題研究所創設。拓殖大学講師を兼任
 昭和二年 千倉武夫の紹介で権藤成卿と出会い、以後私淑。(同年二月、権藤、『自治民範』を刊行。この頃、拓殖大学教授に就任。昭和四 (1929) 年頃迄まで在任か(注2)

   七(1932)年四月 橘孝三郎、稲村隆一、和合恒男達と、自治農民協議会を設立し、農民新聞を機関紙とする。
一二(1937)年七月 権藤帰幽。四元義隆夫人と臨終に立ち会う。 
昭和二二(1947)年 職業軍人として公職追放。
二八 年四月  全国郷村会議を結成。教授(専任-担当科目なし)に任じられる(大学人事課発令簿)(注3)
  三六(1961)年一〇月 清水市(現静岡市清水区)鉄舟寺の境内に、自治学顕揚の碑を建立、「天下為公、大同の世」の実現を誓う。
五〇 (1975) 年 六月二一日 永眠。享年八七歳。郷里の父祖以来の墓地に埋葬。
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 なお本略歴作成に当たっては、一、拓殖大学人事課所蔵履歴書 大正一五年八月付、二、昭和二年五月付け、三、遺著『自治論』巻末にある「年譜」(注1)を参考にした。
(注2)卒業アルバム 昭和二年三月・三年三月刊行・巻末教職員住所名簿に名前あり(昭和4年記載なし)
(注3) 昭和二九~三〇年頃「中国研究」担当教員として募集要項に名前あり

こういう人たちが 四元義隆 または 田中清玄の周囲にいたらしいということがわかりますが 1937年の段階では 四元は まだムショの中で、ちなみにこの夫人は西郷家のお姫様です。獄中結婚?前からの婚約とか?







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最終更新日  2008年01月07日 11時36分49秒
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