2008年05月11日
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カテゴリ: 田中清玄
赤http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/8/epyqrf/crmqrf.html

「新申報」についての情報
そういえば以前、渡辺さんが「新申報」についての情報を求めていらっしゃいました。
今日たまたま読んでいた、昭和16年発行、馬渕逸雄著「報道戦線」に、「新申報」についての記述がありましたので、紹介します。

  事変勃発当初上海には大小三十近い華字紙があつて猛烈な抗日態度を示し、十数の外字紙も亦日本に反抗を続け、上海以外の各地の新聞悉く抗日であつた。之に 対し日本側では僅かにローカルの三紙があつたのみで、而も之等は敵の爆弾によつて工場が潰滅せられ謄写版でニュースを配給するに止まると云ふ有様で、新聞 による宣伝は全く歯が立たない実情であつた。
 口では日本帝国の真意を支那人に闡明すると云つても、日本の考へを支那人に知らせる手段なく、戦闘 には勝ちながら敵側の戦勝デマを拱手して見て居なければならないといふ有様で、華字によつて支那人に呼びかけるべく、日本側によつて華字紙を発行するとい ふ事が絶対に必要であつた。
 事変前「上海日日」は夕刊として華字版を出して居たが、事変勃発と共に発行を停止して居たので、軍報道部は其の工場 並びに発行権を買収して新たに華字紙を発行する事にした。そして租界の一流紙「新聞報」と「申報」を兼称せしむる意味で「新申報」と名づけ、堂脇少佐、金 子少佐が苦心の末、程克 初め有力な支那人を集め、論説委員として日高、山本氏等を招き、昭和十二年十月一日創刊した。
日本人の出した新聞を抗日 意識に燃えた支那人が読む筈がないので、当初は全然その記述も体裁も支那人発行のものとして出し、南京、蘇州、上海等の要人に郵送したのであるが「斯の如 き非愛国の文字を見るに忍びず」とて酷評を朱書して返送して来るものもあり、上海租界では売子が迫害せられ、売ることが出来なかつた。そこで飛行機によつ て支那の戦線に撒布し、抗日支那将兵に日本のニュースを読ませることにした。
 赤松克麿君、高谷覚蔵君が報道部の応援に来て、力瘤をこの「新申報」の論説に入れて呉れ、申城、?(パソコンで出ないので一番近い字)城の筆名によつて大いに論陣を張つたものだ。


(「報道戦線」P223~P224)

http://www.waseda.jp/prj-m20th/magazine/magazine4/asahi.html


一、 朝日新聞社の「汚点」
  朝日新聞社は創刊111周年の1990年に浩瀚な4巻本の『朝日新聞社史』(以下『社史』)を公刊した。中江利忠社長(当時)はその「序」のなかで、「公 平無私」や「不偏不党」の編集方針で言論の自由を貫き、真実の報道と進歩的な評論を展開して来たが、この長い111年の歴史の中には「残念ながら、太平洋 戦争の一時期などのように、この創刊以来の伝統が守り切れなかったり、逸脱して大きな汚点を残したりした事実も、消すことができません」と述べている。
  たしかにこの期に日本は有史以来、はじめての敗戦を喫したのであるから、『社史』のなかで「大正・昭和戦前編」の巻が近現代史の中での同紙の評価を自ら問 うものとなっている。最有力紙として日本の開戦に賛成し、国民を戦争に駆り立て、国内外の多くの人命や財産をなくし、外国による占領という不名誉な事態を 導いた責任は厳しく自己評価しなければならない。
 自らの戦争責任については、すでに同紙は従来の社史でかなり率直に分析し、反省の姿勢を示している。今回の社史においても、その姿勢は貫かれている。各時点の同社の行動について、今まで以上に新しい資料が公開され、分析にも踏み込みが見られる。
  しかし社長が「序」で言っている「汚点」を抉り出し、「過ちは過ちとして包み隠さず記述」しているだろうか。この小論ではこの700ページになんなんとす る「大正・昭和戦前編」を論じ尽くすことは出来ない。そこで、この巻の「昭和戦前編」の第9章「総力戦に協力」にある第5節「南方と大陸の新聞経営」の末 尾の実質1ページの箇所のみを取り上げてみたい。1942年秋から占領地で『ジャワ新聞』、『香港日報』などを軍当局の委託を受けて経営していたことは、 同社のどの社史でも触れているが、小論が対象とする「大陸新報と新申報」については今回の『社史』で初登場したものである。そこでまずその全文を引用して お(1)く。

 昭和十四年元日創刊の「大陸新報」は、華中における日本の国策新聞で、陸軍、海軍、外務三省と興亜院の後援で設立、本社 を上海においた。朝日から相当の人員が大陸新報に転じた。これは朝日が軍から委託されて経営したのではなく、朝日が新聞経営に協力したのであった。その点 で、ジャワ新聞などとは発足のときから性格を異にしていた。朝日はアール・ホー高速輪転機二台とオートプレート一台を貸与した。また、大陸新報社は、現地 軍報道部が発行していた華字紙「新申報」を合併して姉妹紙とした。
 「大陸新報」設立時の事情について、美土路昌一(当時、朝日新聞常務取締役・東京本社編輯局長)の話は要旨つぎのとおりである。
  昭和十二年末の南京占領の後と思う。陸軍の影佐軍務課長が朝日新聞社に来て、「軍の考えで上海で新聞を出したいが、朝日でやってくれんか」といったが、 断った。その後福家俊一が甘粕正彦の使いで来て「海軍も一緒で宣撫工作として新聞を出したい」という。「それでは、朝日は関係はしないが、新聞を出す手伝 いをしよう」といった。私が「そもそも新聞は自主的なものでなくてはいかん。御用新聞は現に上海でも北京でも役に立っておらぬではないか。軍の悪いことは 悪いと書かなければ本当の役には立たない」といったら、影佐も海軍の岡軍務局第一課長も「それで結構だ」といった。そうして、朝日が手伝いをすることに なったわけだ。福家を社長にしたら飛上って喜んだ。……そんな風で“自主民営”を創立方針として出発したわけだが、あのような時勢でもあり、必ずしもその 通りにはゆかなかった。そのうち福家をやめさせて副社長の尾坂与市(朝日出身)を社長にした。尾坂君は立派な男だった。上海でも大分軍にたてついたそう だ。終戦後もみんなを帰して一番あとまで残った。

 以上が南方および中国での朝日関係の新聞であったが、戦後、美土路は、「私は戦時中の御用新聞発行 には反対だった。しかし当時、私にはそのことで相談もなかった。相談しても賛成すまいということだったろう。村山、緒方、石井君らで決定していたようだ。 それは日本が勝ち、南方地域が日本の勢力範囲に入れば、ますます朝日新聞が発展することになる、部数がふえるという感覚であったのだろう。大陸新報は私が 関係したが、これは別で意味が違うと思う」と語っている。





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最終更新日  2008年05月11日 09時57分20秒
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