2009年03月01日
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http://blog.livedoor.jp/nishiki_maple/archives/cat_50000945.html
 問題は京都の仏教界であった。今なら同志社を京都に作るなら拝観謝絶のようなことをするのであろうが、当時そんな考えもなかった。ただ、人を介して嫌がらせが行われた。ただ、これも不思議なことだが、山本覚馬の縁が有効であった。覚馬が京都の黒谷の会津藩邸にいた頃、会津への人入れ稼業をしていたのが大沢清八という侠客の大親分であった。この養子が大沢善助という人で、組の若大将であった。善助は清八の会津との関係で覚馬の所に出入りするが、この縁で新島の教えに感銘して、洗礼を受けた。この善助は組を小鉄という幹部に譲る。これが「無理ヘンにドス」といわれる会津の小鉄である。同志社への京都での反発が強かったが、小鉄は一家のものに、こう語ったという(京都新聞社「京都百年」による):
 「大沢の若大将が新島というヤソの先生にお弟子入りをしやはった。あの若大将のしやはることは、大親分でも間違いないというてはった。オレは学問がないので、ヤソがいいものかどうかわからん。そやけど、若大将がお弟子入りしやはるほどやさかい、町の人のいうような悪いものやないと思う。お前ら、同志社のもんに喧嘩売ったら承知せえへんど」
 こうした会津小鉄組の押さえが仏教界からの反発を抑えたのであろう。この若大将の善助は後に府会議員となり、明治32年から府会議長(初代は山本覚馬)となった。

ドラマで 北浜から伊丹まで 文平さんの お供で ついてきた人たちは たぶん 小鉄会のみなさんだったんじゃないかなという噺です。人脈からみると大沢との縁は 退蔵さんの頃からだったのでしょうか





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最終更新日  2009年03月01日 13時13分21秒
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