2009年04月11日
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右翼団体というのは 戦前はわりと アナーキーな面があり 組織的に 割と 流動的な面があったように思えるのですが 戦後は右翼団体と暴力団体との親和性がでてきて 閉鎖的な面が強くなってきたようにも思えます

義一センセイも 北原白秋の弟子とか 早稲田系の文人であった面があるはずで 当時の右翼団体が それを取り込んだ面があるはずなんですが 文学史では どうでもいいような恋愛ごとは とりあげるのですが こういうことはあえてとりあげないむきがあるようです


ジローさんの周囲にいた 文学者連中も今日出海 河上徹太郎にしても 文学者という面よりも 文壇フィクサーという面が強かったはずで こういう面をあえて書かない人がいるから ジローさんの怪しい面が表にでてこないのです

この文学者仲間との交流という面からみると 三浦義一の 戦前の姿がみえてきます

http://blog.kajika.net/?eid=416351
戸川貞雄氏の「橋本欣五郎」がある。古沢元の友人で大日本赤誠会に集まった作家グループ尾崎士郎、竹田敏彦、浜本浩、鷲尾雨工、角田喜久雄らの一人。戦後、平塚市長になり、戸川猪佐武、菊村到の兄弟作家の父でもある。戸川氏の「橋本欣五郎」は、まだ読んでいない。 橋本欣五郎の全体像が掴み難いのは、その折々の側近が早くして亡くなった事情がある。たとえば、桜会など軍人時代は長勇陸軍少将が詳しい。西郷隆盛の側近・桐野利秋に比せられた人物だが、沖縄戦で第三二軍参謀長として牛島満中将とともに割腹自決している。さらに桜会から大日本青年党、大日本赤誠会、大政翼賛会を通して親しかったのは、建川美次中将だったが、黙して語らなかった。 大日本青年党以降、大日本赤誠会、大政翼賛会時代でもっとも近かったのは雨谷菊夫、古沢元であろう。ともに橋本欣五郎の側近であり、ブレーンであった。雨谷は黙して語らず古沢はシベリアに抑留されて果てた。 橋本欣五郎の手記は「昭和史の源泉」(昭和十年)と「橋本欣五郎口述」(昭和三十二年)などがある。「昭和史の源泉」は三百字詰洋紙に百十枚のものだが、カーボン紙で四部複写し長勇少佐(当時)らに渡した。原文は銀座で歯科医院を開いていた内田キヌに渡して読ませている。内田キヌは全文を書写して橋本欣五郎に返却したが、これが戦後、中野雅夫の手に渡って「橋本大佐の手記」として公開されいる。昭和三十八年のことである。

ここにでてくる 尾崎士郎は 義一先生の同志でもあり 長勇の兄弟分でもあり 義一先生の部下でもあったのが ここにはでてこないのですが 後年に東京温泉をつくる許斐氏利になります

佐野真一の阿片王の中に  若松華瑤という赤誠会のメンバーが 東條の秘書になり 里見機関と東條をつなぐパイプになっていたという噺がでてきますが ここに許斐や児玉センセイがでてきますが
大日本赤誠会のネットワークを見ると なるほーどという気がします



実態のない大言壮語 戦後最高のフィクサーって何人いるのでしょうか 笹川先生は議員でしたからともかく 義一先生や児玉軍団の大化会のメンバーをみると 基本的には グレン隊ですから これに 大日本赤誠会などの上部団体を足して考えると 彼らがなぜ 戦後 のし上がることができたのか みえてくるものもあるように思えます

おそめのなかで 義一先生が上羽秀を連れて 相撲見物に行くさいに 配下の連中をむかえに出させて ひんしゅくを買った噺が出てきますが 義一先生は何をおもっていたんでしょうか










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最終更新日  2009年04月11日 09時06分08秒
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