2010年03月06日
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篠崎小竹と古賀謹一郎


http://www12.plala.or.jp/HOUJI/bunkajin-haka/newpage393.htm

 篠崎三島は江戸後期の儒者で、大坂を代表する私塾「懐徳塾」と並び称せられた「梅花社」の 創設者である。
1736年(元文元年)大坂の生まれ。名は応道、字安道、号三島・郁洲。通称伊予屋長兵衛。屋号が示すように父長兵衛が伊予から大坂に出、紙屋を営んでいた。 三島はその次男で、長男の主馬は文人気質で、諸芸に秀で、家業を離れたため、父の隠居後2代目長兵衛を名乗った。
 始め、菅甘谷の門人兄楽郊に学び、のち甘谷についた。 儒学以外に詩文、易学、天文にも通じ、天文は麻田剛立に学んだ。大坂の町人学者の例にもれず、三島も よく家業にも精励し、商いは繁盛したが、1776年(安永5年)家業をたたみ、土佐堀の隠居所に私塾「梅花社」を開いた。講義の傍ら、月に3回詩会を開き、名ある文人達が参加した。 また、片山北海らの「混沌詩社」にも参加、音曲もよくした。1813年(文化10年)76歳で没した。

  篠崎小竹は1781年(天明元年)大坂の生まれ。名は弼、字承弼、号は小竹、畏堂、摂江、南豊、梅花書屋など。通称長左衛門。 小竹の実父は豊後の出身で 京町堀で医者を開業していた加藤周貞。小竹は幼い頃から、聡明で、学問を好み、9歳で「梅花社」に学び、4年後三島の養子となる。
  頼山陽 とは生涯の親友となり、 山陽の勧めもあり、江戸に出て、昌平黌の尾藤二洲に学んだ。
数ヶ月で帰阪、更に四国、中国と歩き見聞を広め、その後再び江戸に出て古賀精里に師事、朱子学を徹底的に学んだ。
  「梅花社」は小竹の代に至り大いに繁盛し、幕末の大坂で最も広壮な塾となり、門下生1500人を数えている。書家としての小竹は、頼山陽をして「詩文は 吾小竹に勝り、小竹の吾に勝るものは書なり」と語ったといわれ、門前市をなした。在坂の文人の墓標は、彼の筆になるものが多い。1851年(嘉永4年)70歳で没した。


http://kotobank.jp/word/%E5%A5%A5%E9%87%8E%E5%B0%8F%E5%B1%B1

奥野小山 おくの‐しょうざん
1800‐1858
江戸時代後期の儒者。
寛政12年生まれ。篠崎小竹(しょうちく)にまなぶ。天保(てんぽう)のころ和泉(いずみ)(大阪府)伯太(はかた)藩にまねかれる。のち近江(おうみ)(滋賀県)三上藩につかえ、大坂蔵屋敷留守居役をつとめて藩士の子弟におしえた。安政5年8月20日死去。59歳。大坂出身。名は純。字(あざな)は温夫。通称は弥太郎。別号に寸碧楼。著作に「小山堂文鈔」「小山堂詩鈔」など。

http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E8%A5%BF%E8%80%95%E7%9F%B3
中西耕石 なかにし‐こうせき
?西
1807‐1884
江戸後期-明治時代の画家。
文化4年生まれ。陶工の家に生まれ、大坂で篠崎小竹(しょうちく)の門にはいる。のち京都で小田海僊(かいせん)にまなぶ。山水、花鳥にすぐれ、日根対山(ひね‐たいざん)、前田暢堂(ちょうどう)とともに「対暢耕」とよばれた。明治17年1月9日死去。78歳。筑前(ちくぜん)(福岡県)出身。名は寿。字(あざな)は亀年。別号に竹叟。


篠崎小竹は本名を長左衛門と云ひ、博学能文、浪華第一の学者であつたが、此人、学者に似合はず蓄財が上手で「学者中の鴻池」といふ綽名さへ付けられてゐた。家作なども大分ん持つてゐて、其方の資格では家主長左衛門と呼ばれてゐる。そういふ人物だから、只だ物識りで器用に文章を書き宇も上手だと云ふだけのもので、学者らしい見識もなければ誠意もなかつた。それで鴻池家に対しては先つ御出入りの格で、今日は主人善右衛門殿に論語の御講釈を申上げる筈で、早朝から此の一室に詰めて、主人の出座を待つてゐるのであつた。

http://homepage3.nifty.com/taenia/naniwa12/shotiku.html
中村真一郎は『頼山陽とその時代』に、篠崎三島・小竹親子の“商売上手”をやや皮肉っぽく書いていますが、彼の私塾は養父にも勝って多くの門人を集め、大坂を代表する儒者・詩人としての盛名をほしいままにしていたようです。当時、大坂で出版された詩集などのほとんどすべてに、彼が乞われて書いた序文を見出せることを見ても、その人気のほどがうかがえるでしょう。もっとも彼自身は温厚な人物で、うわべを飾ることを好まず、後進の教育に努めたと伝えられています。

http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/kizaki2.htm
 それは此ういふ訳である。篠崎家の借屋に、山田屋大助といふ生薬屋があつたが、この男はもと能勢の生れで、在所には田地も多分に所持して居つた。大助は元来気慨のある男、大塩平八郎が脆くも敗れたのを心外に思ひ、在所の百姓を語らうて、千人余りの同勢を組立て、七月三日の夜から池田、伊丹辺りを暴れ廻つたので、大坂から役向の人々出張の上、池田猟師に命じ、鉄砲を揃へて打向はしめたから、烏合の衆は忽ち散乱し、首魁の大助も鉄砲腹で自滅して了つた。


古賀謹一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
古賀 謹一郎(こが きんいちろう、文化13年11月11日(1816年12月29日) - 明治17年(1884年)10月31日)は、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての儒学者・官僚。本姓は劉(漢の高祖劉邦の末裔という)。諱は増(まさる)。官途は筑後守。字は如川。号は謹堂、茶渓など、また沙蟲老人とも称した。祖父は寛政の三博士として有名な儒者古賀精里。幕末安政の改革を主導した老中阿部正弘のブレーンとして知られる。
目次
1 生涯
1.1 洋学指向の儒者
1.2 蕃書調所の設立
1.3 不遇の晩年
2 参考文献
3 関連項目
[編集]生涯
[編集] 洋学指向の儒者
文化13年(1816年)11月、江戸昌平黌官舎にて、父・儒者古賀?庵と母・鈴木松との間に生まれ、謹一郎と名付けられる。儒者の家系に生まれたことから、幼い頃から漢籍・経典に精通する。天保7年(1836年)大番役、同12年(1841年)書院番として幕府に勤務。家塾久敬舎を父より引き継ぐ。弘化3年(1846年)31歳で昌平黌の儒者見習となる。翌年、儒者となり15人扶持。
儒学者でありながら、洋学の必要性をいち早く感じ、漢訳蘭書による独学にて、西洋の事情を習得する。この頃、米国への漂流者から欧米の事情を取材した『蕃談』を著す(書写本にて流布)。 この時期の昌平坂学問所の教官としての同僚に佐藤一斎、林復斎、安積艮斎らがおり、また昌平黌および家塾久敬舎で教えた儒学上の門人として阪谷朗廬、重野安繹、原伍軒(市之進)、大野右仲、秋月悌次郎、河井継之助、白洲退蔵、平田東助らがいる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E6%9D%B1%E5%8A%A9
平田東助(ひらた とうすけ、嘉永2年3月3日(1849年3月26日)- 大正14年(1925年)4月14日)は、日本の明治・大正期の官僚・政治家。農商務大臣・内務大臣・内大臣を歴任する。山縣有朋の側近としても有名。
山形県米沢出身。爵位は伯爵。医師の伊東祐順は兄。息子の平田栄二は日本画家で、栄二の次男・正治は松下幸之助の娘婿となり松下電器産業会長を務めた。二男の平田昇は海軍中将となった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E6%9C%88%E6%82%8C%E6%AC%A1%E9%83%8E
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、1824年(文政7年)- 1900年(明治33年)1月5日)は、江戸時代後期、幕末の会津藩の藩士。父は丸山胤道で次男。名は胤栄。字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)を正規の名前とした。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%8E%E5%8F%B3%E4%BB%B2
大野 右仲(おおの うちゅう、天保7年12月8日(1837年1月14日) - 明治44年(1911年)6月11日)は、幕末期の唐津藩士で、新選組隊士。頭取。後、陸軍奉行添役。
[編集] 生涯
唐津藩士大野勘助の長男に生まれ、安政3年(1856年)、21歳より昌平坂学問所で学ぶ。
戊辰戦争が勃発すると、藩主小笠原長行に従って会津へ入る。5月始めごろには、旧友で当時越後長岡藩の筆頭家老にまで登りつめていた河井継之助のもとに居り、長岡藩が中立堅持の末、小千谷談判の決裂により新政府軍との開戦に至る現場に居合わせた(『史談会速記録』)。療養中の土方歳三を訪ねて戦況を調査した後、仙台で新選組に入隊。榎本武揚艦隊と合流して蝦夷地へ渡った。
箱館政権(蝦夷共和国)下では、陸軍奉行並に就任した土方歳三直属の部下となり、二股口の戦いから、箱館総攻撃に至るまで土方の補佐役を務めた。
降伏後、新政府に出仕。明治4年久美浜県権参事、豊岡県権参事。ほか、千葉、長野、青森各県の要職を歴任する。また箱館戦争の記録(『函館戦記』)を書き残す。
明治44年、死去。享年76。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AA%E8%B0%B7%E6%9C%97%E5%BB%AC
阪谷 朗廬(さかたに ろうろ、1822年11月17日 - 1881年1月15日)は、日本の漢学者、儒学者。江戸時代末期は教育者として、明治維新後は官吏としても活動した。東京学士会院議員。
名は素(しろし)であり、阪谷素名義での著作もある。朗廬は号である。幼名は素三郎、通称として希八郎も用いた。
阪谷芳郎(元大蔵大臣、東京市長)の父。

http://blog.goo.ne.jp/akijosephine5/c/86266c4c8f7e7fd2968825d5c6072c7e
―次郎は生涯を通じて、「プリンスパル(原則)が大事だ」ということをことあるごとに口にしたが、それはおそらくケンブリッジでの‘Be gentlemman’(紳士たれ)と同義だったのであるまいか。イギリス紳士の精神的バックボーンは騎士道である。武士道と騎士道は、洋の東西と地理的こそ離れているが相容れないものではない。それらは次郎の中で玄妙に混じり合い血肉の一部となった。 アダム・スミスをまったく読んでいないんだな。「騎士道」なぞ野蛮で獰猛な精神として(すくなくともケンブリッジでは)最も軽蔑されていることまったく知らないんだし、新渡戸稲造の「基督教テロリズムの武士道」なんか気違い沙汰だということ、「国際的に通用しない」ということをまったく理解していない。ケンブリッジでは、キリスト教は科学的学問的対象としては徹底的に軽蔑の対象である、しかし「歴史的文化遺産マスタベーション装置」としては皆心から尊重している、こういったみえないバランスが深くケンブリッジに埋め込まれている。

次郎さんの祖父の退蔵さんの儒学者という立場から プリンシパルとか 武士道という言葉で 次郎さんが語られるのですが 退蔵さんの二人の篠崎と古賀という師匠の周辺をみていると 一人は 自分で商売もしていた 大阪の町人学者で もう一人は 江戸の 半分は 洋学者の方で この方の弟子筋と三田藩グループとの交流を推測すると 十分 興味深い 誰が この遊学先を選定していたか わかりませんが 結果として かなり先をみたものになっています
儒学者という肩書きから 退蔵さんはずいぶん保守的な堅い人ではないかとおもったのですが 上記から 考えて 半分 大阪商人みたいな福沢諭吉と 話ができる素養はあり 実務は小寺泰次郎 岸上角次が取っていたようですが きっちり算盤もわかる人だったはずです








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最終更新日  2010年03月06日 20時01分15秒
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コメント失礼します☆  
masashi25  さん
ブログ覗かせてもらいましたm(__)m
もし差し支えなければ見に来て下さい♪
http://ameblo.jp/sapurimania/
マメ知識とかも書いてます!
http://sapuri.shop-pro.jp/
ちなみに愛用してるお店です☆
いつの間にか常連になってました(笑) (2010年03月08日 19時33分06秒)

Re:  
k_guncontrol さん
武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 ―
http://www.shinchosha.co.jp/book/610005/
この本によると、幕末~維新初期は算術(経理財務、物理計算、建築計算、測量など)が出来る人材がとても少なく、
この手のスキルのある人は出自に関係なく重用されたそうです。
没落した士族と、出世した士族の境目にもなったようです。
退蔵さん、どうみても儒学関係なさそうですしね。

なおこの本、映画になるみたいです。
http://www.bushikake.jp/ (2010年08月08日 23時27分46秒)

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