2010年03月07日
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http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sandanorekisi/26_nakasozaemon/nakasozaemon.html
惣左衛門の同志達も当然罪を免れず、それぞれに厳しい刑罰が待っていた。 北畠は十五年、志茂は七年、市田は二年、井元は六ヶ月の刑期を言い渡され、 神戸石井の刑務所に収監された。これを今の懲役刑と同様に考えてはならない。 彼らを待ち受けていたのは、血も凍る拷問の日々であったに違いないのだ。 支配者層への反乱に厳罰をもって臨み、同種の反乱の抑止を図るのは、当時の 社会が未成熟であったからであるが、同様のことは現代社会においても、専制的 な独裁国家や社会主義国においてしばしば見られるところである。  実際、為政者の危惧は的中し、三田の百姓一揆からわずか十四日後の十一月 二十八日、高平でも百姓一揆が発生したほか、ほぼ同時に加東郡東条谷、川辺郡 羽束谷でも一揆が発生した。また、十二月には川辺郡藻川地区で暴動が起こった。 これらを総称して、世上、摂丹農民一揆(せったんのうみんいっき)と呼んでいる。 (遠く離れた熊本における当時の資料(肥後藩国事史料)の中にまで、三田の 百姓一揆について言及されているから驚きである。)またその後も、1871年 (明治四年)の播磨宍粟郡騒擾や同年の播但農民一揆へと連鎖していった。 (播但農民一揆では要求の一部しか通らなかった不満から、農民達は投石や銃撃 によって生野県官白州文吾を殺害している。)  群集心理というものは、時に非情である。あれほど参加者の多かった一揆 だったにもかかわらず、熱が冷めてしまえば彼らはまた臆病で気の弱い一人の 農民に戻っているのだ。事態を収拾した後の、藩役人による首謀者達に対する 悪宣伝の効果もあってか、人々の一揆幹部に対する視線は冷ややかだった。藩庁 の譲歩を引き出し、領民の生活を守った恩人であるべき彼らと彼らの家族は、 実に悲劇的な『その後』を経験することになったのである。  仲惣左衛門の刑死の二ヶ月後、長女のキヨは病死。田畑・家屋が没収となった ことで生活の糧を絶たれた妻スミは、次女サキを連れて下田中を去っていった。  北畠市右衛門の妻まさ子は夫の不在の間、幼い子供三人を女手一つで育てている。 その健気な姿に心打たれた村人達は、市右衛門を村預けにするよう、下田中村戸長 以下二十八名の連名で藩庁に嘆願してくれ、1873年(明治六年)八月ようやく 彼は帰宅を許された。市右衛門は刑務所内では一揆の首謀者の一味ということで 牢名主の侠客に気に入られ、比較的楽な生活だったようだ。しかし、そうは言っても 劣悪な環境に変わりはなく、すっかり健康を害してしまった市右衛門は、釈放から わずか二ヶ月で病死している。三十三歳の若さであった。市右衛門の姉の子で、 一揆当時まだ少年だった大西善太郎は後に衆議院議員になっている。

http://blog.goo.ne.jp/hama8823/e/f18ea6c75d75ad71a91469c838f3c250
「授戒総股居士」の文字の墓がそうだ。すぐにわかった。わたしは、事前に調べていたからわかったけど、しかし、何の説明板もないので、一般の人は気付かないだろう。仲惣左衛門は、辰巳宗左衛門ともいうそうだ。法名の総股(ソウコウ)は佐倉宗吾にちなんだという」戒名の「授戒」は読めたが、あとはしっかりとは確かめなかった。吉川弘文館の義民年表の解説に「総股」と書いてあったので、そのまま書いた。でも、西村繁著「明治2年三田百姓一揆」(六甲出版)によると、「授戒総脱居士」となっといる。総股というより、全てを脱する、という意味の総脱の方が意味がわかるのでけど、どちらが正しいのかわからない。 この墓を建てたのは、大西善太郎という元衆議院議員で、安政生まれで、一揆の参加者の子供だそうだ。顕彰碑も計画していて、碑文もできていたそうだが、妨害にあい、実現されなかった、とこの本にある。

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=00740484&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=null
関係地なる有馬郡道場村の大西善太郎という人、曾て代議士たちし事あり、此人神戸市が武庫川上流を水源とする水道拡張の企画あるを知るや其の用地として他日神戸市の為に買収せらるべき箇所を物色中明治四十三年二月十六日兵庫県庁より関係地たる道場村会へ神戸市の水道工事に関する諮問を為したり、茲に於て大西氏等一派の策士はいよいよ水道用地が道場村に存する事を知り未だ其の一般に多く知れ渡らざる先に密に関係方面の土地買収に着手したり而して彼等が思惑買を為したる土地は同郡道場村の内生野村字北山の山林七町八段五畝十二歩にして之が登記面は三千九百円なるも実際の買収価格は登記面よりも遙に廉価なり、通常の場合は登記料を慮りて実際の買収額よりも低価を示すに他日神戸市へ売却する時の懸引上登記料の多寡の如きは措いて問わず却て買収実価よりも登記面の価格を高く為したるなりとの噂あり
此の土地を買収したるは同年三月八日にして其の思惑買を為したる後二十日即ち同月二十八日に道場村会を開きて知事よりの諮問案を附議し支障なきものと認め其旨知事へ答申したり、此の山林七町八段五畝余歩の中市が千苅堰堤用地としてばいしゅうすべきは一町九段九畝十四歩にして彼等は市の買収面積の以外に少きに一驚を喫せりとの事なり
以上の如き思惑買は先ず以て普通在勝の事とするも神戸市が時価以上に見積りて買収せんとし且市の買収価格を以て売却するも少からざる利益あるにも拘らず彼等は慾の上の慾に眼眩みて容易に市の買収に応ぜんとはせず公平なる者の眼より見て不当なる価格を呼ぶに至っては言語道断というの外なし
これよりも以上に不埒極まるは大阪市西区道頓堀二丁目澤井寅蔵と云える者の行為なり、渠は道場村なる者の手を経て同地光明寺所有の幾んど荒無地に等しき原野山林合せて一町一段余歩を昨年八月七日を以て買収せり、此の登記面の価格は田一段二百九十円畑一段百六十円原野一段二十三円山林一段二十六円宅地一坪二円三十銭なるも買収実価はこれよりも遙に低価なり、此は前同様他日神戸市へ売却する時の準備にして殊更に登記面の価格を高くしたるものなり、而に澤井某は思惑屋の常として買収後直に全部を抵当に一千八百円を有馬郡三田町の小西雅之より借入れたる事実あり、而して渠は此の荒無地に等しき山林原野を前々回記せるが如き無法の高価を要求しつつあるものなり

最後に一言すべきは土地収用審査会は神戸市の価格算定を妥当なりと認め居れるが如し、唯だ神戸市より委員に嘱託せる森有馬郡長は任地の人気に顧慮して何れを是なりとも明言せず而かも同嘱託委員たる有井同郡書記が所有者側なるに於て頗る困れる地位に立ち居れるは気の毒とも云えば云えるなり、本記事は一先ず茲に筆を擱く

この当時 神戸市の実権を握っていたかというと 碑はなぜ立てられたか 興味ふかいものがあります また誰が妨害をしたか いずれにしても一揆のしこりは 十分に 明治末まで 残っていたということになります
それを 郷土の誇りにするんですねー





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最終更新日  2010年03月07日 19時37分55秒
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