2010年09月22日
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%87%8E%E5%8F%8B%E7%A6%AE
日本曹達を追われた中野は1942年(昭和17年)政府機関の企画院第一部第一課長の迫水久常の要請で、研究機関を綜合したのちの「調査研究連盟」を作るよう要請される。中野は「政府の機関にただ乗るのはというのでは面白くない」と考え「日曹人絹パルプから有馬登良夫を呼び寄せて、彼を企画院に送り込み、迫水の幕下に加えた」(『中野友禮伝』210ページ)。ちなみに迫水は有馬登良夫と同じ鹿児島県出身で、のちに衆議院議員、参議院議員となっている。

http://canpan.info/open/news/0000001889/news_detail.html
坪内 「アルスグラフ」の中でも、確か、東京租界という言い方をしてましたね。香港かと思うぐらいにエキゾチックで、戦後のあの時期の銀座・新橋辺りって面白かったんだなって思いましたよ。で、うちのお袋も、戦前、上海にいて、実は父親よりももっとディープな環境にいたんですよね。うちの祖父が児玉機関の吉田(彦太郎)さんをすごくかわいがっていたらしくて、僕も「吉田の彦ちゃん」という呼び名を聞いたことがあるぐらいだから。王さんの息子さんがやっていた宝石屋にも、十年ぐらい前まで、お袋はよく行っていた。だから結構事情に詳しくて、上海時代の話を聞いたりすると、中国マフィアの話もよく出てくる。赤幇(ホンパン)とか青幇(チンパン)とか。王さんがそれとどう関わりがあったのか。この本には、そういう話は全然出てきませんよね。

http://d.hatena.ne.jp/jyunku/searchdiary?word=%2A%5B%C4%DA%C6%E2%CD%B4%BB%B0%5D
梅子は坪内利八(明治21年生)と結婚し、嘉雄(大正9年生、昭和48年~58年ダイヤモンド社社長、のち会長)が生まれる。嘉雄は井上泰子(昭和2年生)と結婚し、祐三が生まれる。
小谷野家とかオタどん家と違い、父方も母方も華麗なる一族である。なお、手塚というと手塚治虫の父方の曽祖父手塚良仙を思い浮かべる人もいるだろうが、律蔵と良仙は無関係と思われる。
(参考)坪内利八を『第十九版大衆人事録 東京篇』(昭和31年9月)などで見てみると、
坪内利八 興国人絹パルプ(株)常任監査役 愛知県坪内信次郎の長男、明治21年2月生。大正5年東京帝大法科独法科卒。6年日本勧業銀行に入り、債券課主事、青森・台南・高知・和歌山・千葉各支店長、検査課長、債券課長を務めた後、昭和18年現社に入社。取締役を経て、22年現職に就任。[趣味]読書[家庭]母きん(安政5)。妻梅(明治31)東京府織田正信姉、学習院女学部卒。嗣子嘉雄(大正9)、東大法学部卒、保土ヶ谷化成役員、同妻泰子(昭和3[ママ])、東京女学館卒


【沿革】
昭和12年3月 日曹人絹パルプ株式会社創立 資本金18,000千円
昭和12年11月 八代工場操業開始(レーヨンステープル)
昭和13年6月 富山工場操業開始(溶解用パルプ)
昭和13年7月 興人商事株式会社(現・連結子会社)を設立
昭和16年9月 社名を興国人絹パルプ株式会社に改称
昭和18年4月 製紙4工場を買収、富士工場(化学紙)発足
昭和24年5月 東京証券取引所へ株式上場

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/002/1332/00204141332015c.html

〔証人倉石忠雄君各証人を代表して宣誓〕
    〔各証人誓書に署名捺印す〕

 倉石さんに伺いますが、辻嘉六氏は中曽根氏の事件について檢事局でこのようにあなたに関して述べております。
 「倉石はかねて鳩山一郎方に出入しておる人で、私とは古くからの知合です。当人は去る衆議院議員の選粒に長野縣から立候補し、当選し、現在自由党の幹事だと思います。一覽表には倉石に私から二十万円渡したように書いてあり、その備考に昨年來立替金百万円のうち八十万円を返済を受けた残金と記しておきましたが、その経緯につきここに説明を加えておきます。倉石は鳩山の輩下で、終戰後は台湾から引揚げてまいり、昨年四月の総選挙にも長野縣から立候補しましたが、落選し、その後私方にも出入りするようになりました。それらの際本年四月の選挙には援助しようと申しておいたことがあるのです。倉石は京橋木挽町の緑産業株式会社(資本金二百万円)の会長をしており、私と話をしているうちに賠償物資撤去関係の仕事をやつてみたいというので、当時の緑産業の社長吉田彦太郎を呼び、右の仕事を倉石とやつたらどうかと勧め、その結果倉石が右会社に関係するようになつたわけです。この会社は現在賠償物資関係の仕事は未だ全然やつていないようです。ところで、倉石が私方に出入するうち、昨年五月ころから本年四月までの間私に対し倉石の交際費、選挙費用等、いわゆる政治資金を私に出してくれとの依頼がありましたので、二、三十回にわたり合計金百万円くらいを私方で同人に渡しており、そのうち本年三月末ころと四月初めころの二回に十万円ずつ合計二十万円を政治資金として倉石に渡しているのです。もつとも右百万円くらいの出金に際し、あとで倉石から五十万円と三十万円、合計八十万円を本年二月か三月初めころ私に戻してきたので、これを受取つております。
 右のような事情で、中曽根から受取つた金の行方の関係は二十万円が相当だと思い、その旨を記載しておいたわけです。」
 こういうふうに申しておりますけれども、大体においてこの通りですか。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%89%E7%9F%B3%E5%BF%A0%E9%9B%84

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
倉石 忠雄(くらいし ただお、1900年7月2日 - 1986年11月8日)は、日本の政治家。元労働大臣・農林大臣・法務大臣。
[編集] 来歴・人物
長野県更級郡稲荷山町(現・千曲市)に、製糸用繭問屋を経営していた倉石万平の子として生まれる。少年時代の友人に漫画家の近藤日出造がいる。長野中学(現・長野県長野高等学校)を経て、1925年に法政大学法科を卒業。法大在学中は弁論部で活躍、森恪の知遇を得て、立憲政友会の院外団にも参加する。この活動で同じく院外団メンバーだった大野伴睦と知り合う。大学卒業後は婦人雑誌を発行していた「婦女界社」に入社する。同社社長の都河竜に目をかけられ二女と結婚、また都河の援助でロンドン大学に留学、社会政策を学ぶ。帰国後は婦女界社常務を務める。戦時中は台湾に渡り、日曹コンツェルン系の南日本化学工業専務、台湾製塩監査役等を歴任。





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最終更新日  2010年09月22日 22時22分22秒
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