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長州力が新日本プロレスに復帰し、天龍が阿修羅原が革命を起こし「天龍同盟」を結成した1987年の激動の1年を締めくくる事になった'87世界最強タッグ決定リーグ戦は史上最多の12チームが参加した大規模の大会となった。新日本に引き抜かれたブッチャー、ブロディが全日にカムバックし、さらに当初カーネル・デビアーズと発表されていたブロディのパートナーが開幕前日に、これまた全日復帰のスヌーカに変更。ブッチャーはTNT(サビオ・ベガ)と組み、ハンセンはWWEに移籍したデビアスに代わり新たにテリー・ゴディと組んだ。NWAからは7回目の出場となるザ・ファンクス、トム・ジンク&ザ・ターミネーター、プエルトリコのWWCからはザ・ヤングブラッズが参戦。全日本から天龍&原組が「龍原砲」として5年ぶりに参加、鶴龍コンビを解消した鶴田はジャパンプロレスで宙に浮いていた谷津と「五輪コンビ」を結成。そして元横綱の輪島が馬場と組み初参戦を果たしザ・グレート・カブキ&ジョン・テンタ、タイガーマスク&仲野信市といった新体制によるチームが編成されラッシャー木村&鶴見五郎の国際血盟軍も参加。ここで注目するのは開幕第2戦の後楽園ホール。かつてミラクルパワーコンビで無敗を誇っていたハンセンとブロディが日本における最初で最後の両者の対戦が実現。また、ブッチャー復帰には“ブッチャーコール”が起こり再・ブッチャーブームが巻き起り第10回記念に相応しく話題満載の大会となった。この大物が揃った大会は5チームによる優勝争いとなり、最終戦の日本武道館大会で龍原砲とハンセン組が両軍リングアウトで脱落。ブロディ組を下した五輪コンビが優勝を飾った。このシリーズ期間中にバイ・プレイヤーとして活躍したハル薗田が南アフリカ航空295便墜落事故の犠牲となり、最終戦で追悼のテンカウントゴングが行われた。【送料無料】 くるめっ娘ラーメン4人前 1000円ポッキリ お試し とんこつ ラーメン 半生麺 豚骨 福岡 クリックポスト
2018.08.23
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かつて存在した日本のプロレス団体UWFインターナショナルは第2次UWF解散により高田延彦が設立したプロレス団体である。第2次UWFから分かれたプロフェッショナル藤原組とリングスを比較するとUインターはプロレス回帰の姿勢を打ち出した。その代表的な例としてルー・テーズの最高顧問への就任、U系の団体としては実質初めての王座となるプロレスリング世界ヘビー級王座の設定とタッグマッチの採用が挙げられる。第2次UWFでは前田日明に次ぐポジションであった高田を絶対エースに据えて「プロレスこそ最強」を標榜してゲーリー・オブライトの発掘と躍進する。元WBCヘビー級王者のトレバー・バービックとの異種格闘技戦、元横綱の北尾光司の参戦は話題を呼び、また、他団体に対して常に挑発的なスタンスで、メジャー5団体のエースの橋本真也、三沢光晴、天龍源一郎、前田日明、船木誠勝に参加を呼びかけた「1億円トーナメント」の開催を発表し、これに対し前田がリングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが宮戸、安生らと舌戦となり、泥沼化している。また、ヒクソン・グレイシーを挑発する為に安生は道場破りに行きヒクソンに挑戦。非公式試合ながら多くのヒクソンの弟子たちが見守る中、なすすべなく倒されパウンドを浴び、チョークスリーパーで失神させられた。これらの事件は支持を得ると同時にUインターへの反感も高め一連の出来事は1995年から始まった新日本プロレス対Uインタの全面戦争の起点となった。この全面戦争を機に、全日本、WAR、東京と様々な対抗戦を生み、人気を博していた。しかし、大きい試合会場での興行に拘った為の経費増大コンセプトを打ち出して舵を握っていた宮戸優光と次世代のエースと期待された田村潔司の退団。最強路線を支持していたファンの失望により低迷し、1996年12月27日、後楽園ホール大会を最後に解散する。アイコス ケース【細川忠興 九曜紋 夜明けの荒波に家紋】iQOS カバー タバコ たばこ 煙草 電子タバコ 禁煙 喫煙 カラビナ フック 戦国 武家 武将 家紋 和柄 印刷 プリント 革 皮 レザー PUレザー ギフト 2.4プラス 2.4Plus対応 メール便送料無料 受注生産
2018.08.16
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大激動となった2000~2002年の全日本プロレス。その時代のチャンピオンカーニバルは今までにない、感覚となった大会であった。2000年大会では1975年大会以来のトーナメントで行われた。1回戦で秋山を7秒でフォールした大森が勢いに乗って決勝に進出したが小橋の牙城は崩せず、小橋は前年準優勝の悔しさを晴らし悲願の初優勝を飾った。しかし、2001年大会では三沢、小橋、田上ら同年旗揚げしたプロレスリング・ノア勢が大量離脱して苦難となった大会となった。天龍の電撃復帰や藤原喜明ら新顔の登場で、顔触れは一変し、再びリーグ戦形式で行われたも、川田は最終戦でウィリアムスに敗れ、天龍とケアに逆転を許してしまう。1か月前の三冠戦の再戦となった優勝戦は天龍が再びケアに勝利し、初優勝を飾り初参戦から19年目で悲願達成となった。2002年大会は新日本の武藤敬司が全日本に入団し新時代となった全日本を象徴する大会となった。前のシリーズで武藤を破り三冠王座に返り咲いた川田だったが、1試合を戦ったところで負傷によりリタイヤ、三冠王座も返上した。Aブロックからは小島とバートンが無敗で優勝決定トーナメントに進出。Bブロックは天龍が全勝と抜け出し、武藤は膝を痛め2敗を喫する苦しい展開になるも何とか抜け出した。優勝決定トーナメントでは武藤が小島とバートンに勝利し、全日入団後の最初のシリーズを初優勝で飾った。29年産 千葉県産 ミルキークイーン 玄米 30kg
2018.08.09
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不滅のヒーローといえば、特撮に登場する超人たちであるが、プロレスマット界でも特撮の枠から駆け抜けレスラーとして活躍した者がいた。1975年、メキシコのEMLLで登場したマスクマン「ウルトラマン」は円谷プロ非公認であるがゴングと同時にスペシウム光線のポーズを取り特撮ドラマを意識したレスラーである。新日本プロレスに初参戦した際は、円谷プロ公式見解では「未公認」となっているものの藤波辰巳との対戦では、試合前に本物のウルトラマンが花束贈呈をしている。これは、当時円谷プロが製作した「アステカイザー」に新日本プロレスが協力していたからと思われる。このウルトラマンが人気だった事から、全日本プロレスでも特撮ヒーローをモデルにした覆面レスラーを登場させようと高杉正彦がジャイアント馬場に売り込んで、覆面レスラーのウルトラセブンとして全日マットに登場する事になった。その他にはアミーゴ・ウルトラ、ウルトラタローがFMWに登場している。1993年には、仮面ライダー的マスクを被ったホッパーキングが登場。仮面ライダーの著作権を持つ東映からの抗議を受けて本社に謝罪を行って改めて仮面ライダーへの愛を伝えて命名使用の許可を申請して1996年12月、許可をもらいリングネームを仮面シューター・スーパーライダーに改名した。戦隊ものからは1993年、FMWより戦隊シリーズを意識した全身コスチュームの超電戦士バトレンジャーが登場。1995年5月5日の大仁田引退試合の川崎球場ではアミーゴ・ウルトラ&ウルトラ・タローvsパトレンジャー&マッハ隼人という「子供の日」対決が実現し、少年たちを大いに喜ばせた。【送料無料】半袖 tシャツ プリント 3柄 tシャツ メンズ 半袖 Uネック ティーシャツ 黒 ブラック クルーネック タイト スリム ストリート カットソー アメカジ 丸首 トレンド カジュアル メンズファッション ベロアプリント 綿 夏 K300417-05 SPCD
2018.08.02
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全日本プロレス、年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦その、1986年大会は参加選手の半数以上が日本人という事態となった大会であった。参加チームはジャンボ鶴田&天龍源一郎「鶴龍コンビ」ジャイアント馬場&タイガーマスク組の全日本正規軍ジャパンプロレスから長州力&谷津嘉章組AWAからリック・マーテル&トム・ジンクの「ザ・カンナム・コネクション」とNWAから移籍したスタン・ハンセン&テッド・デビアスの「ビッグテキサンコンビ」が参加NWAからはドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクの「ザ・ファンクス」が4年ぶりに復活し参戦。テキサス州ダラスのエリック王国よりテリー・ゴディ&キラー・カーン組「国際血盟軍」のラッシャー木村&鶴見五郎組そして新日本で一世を風靡したマシン軍団のスーパー・ストロング・マシーンが阿修羅・原と組み最強タッグ初参戦で話題を呼んだ。最終戦、まず鶴龍コンビとハンセン組が両軍リングアウトに終わり、ファンクス対長州組の勝った方が優勝という状況になるが、これまた両軍リングアウトに終わり両軍は脱落。再度、鶴龍とハンセン組の同点決勝となり、リングアウトで鶴龍が勝ち2年ぶりに優勝するが、その後コンビは発展的解消した。5分袖パーカ ラグランスリーブ プルオーバーパーカー ミニ裏毛 カラー切替 英字ロゴ スウェットパーカー メンズ カジュアル ストリート系 ビッグシルエット R300713-01
2018.07.26
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ハルクホーガン、ジェシー・ベンチュラ、ランディ・サベージを代表とするボディビルダー系レスラー。その原点が1970年代を代表する文字通りのスーパースター、ビリー・グラハムである。怪力と反則を駆使したスタイルでテクニックには乏しかったが、観客とのやり取りやマイクパフォーマンスには抜群の才能を発揮し、ヒールでありながら脅威的な人気を誇った。饒舌で知られるリック・フレアーも、元々はグラハムの話術をコピーしたと告白している。1974年、ビル・ロビンソンを破りIWA世界ヘビー級王座を獲得し王者として国際プロレスに初来日。同じボディビル出身のアニマル浜口とのベンチプレス対決など数々の話題を残し、9月15日の後楽園ホール大会では、入場曲として「ジーザス・クライスト・スーパースター」が流されこれは日本プロレス界で使用された入場テーマ曲の草分けである。1977年4月30日、ブルーノ・サンマルチノを破りWWE世界ヘビー級王座を獲得、第7代王者となる。王座戴冠後は「悪党チャンピオン」として、ミル・マスカラス、ダスティ・ローデス、ピーター・メイビア、ロッキー・ジョンソン、イワン・プトスキー、ヘイスタック・カルホーンなどのベビーフェイス勢を相手に防衛戦を行い、1978年2月20日にマディソン・スクエア・ガーデンでボブ・バックランドに敗れるまで10ヵ月間王座を保持。当時のWWEでヒールの王者がこれだけの長期政権を築いたのは極めて異例のことであり、MSGの定期戦を毎月ソールドアウトにするなど、彼の悪役人気の高さが窺い知れる。なお、王座陥落直前の1978年2月には新日本プロレスに再来日し、2月8日に日本武道館にて坂口征二とタイトルマッチを行い、リングアウト勝ちで防衛に成功している。また、フロリダ州マイアミのマイアミ・オレンジボウルにて開催された「スーパーボウル・オブ・レスリング」において、当時のNWA世界ヘビー級王者ハーリー・レイスとの史上初のダブルタイトルマッチも行われた。1986年にベビーフェイスのレスラー兼カラー・コメンテーターとしてハーキュリーズやブッチ・リードとの抗争を経て、1987年11月に現役を引退した。2004年にはWWE殿堂に迎えられ、特別ゲストとしてWWEのテレビ放送に時折登場している。2015年11月にはWWEとのレジェンド契約が結ばれた。さばきたて馬刺し お試し食べ比べセット 2種4人前200g(赤身×2、霜降り×2) フードマスター菱江隆推奨 お試し おすそわけ村 最上級 お土産 ギフト 馬肉 馬刺 刺身 お取り寄せ お歳暮 おつまみ ビール 焼酎 日本酒 ワイン お酒に合う ヘルシー赤身 さばきたて 卸 送料無料
2018.07.19
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アニメの主人公を、そのままレスラーとして出現させ人気を得たプロレスラーが存在する。まず、1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会でテレビアニメ「タイガーマスク二世」とのタイアップ企画でデビューした初代タイガーマスク。イギリス遠征中だった新日本プロレスの佐山聡が、新日本の意向を受けて極秘帰国し、タイガーマスクに扮した。1981年4月23日、新日本プロレス蔵前国技館大会で、ダイナマイト・キッドを相手にデビュー。空中殺法が人気を博し、一大プロレスブームを巻き起こした。原作者である梶原一騎からは、このギミックを現実のプロレスに取り入れる際、コーナーポスト最上段に軽々と飛び乗れるプロレスラーを起用する事を提示している。次に登場したのが1989年4月24日、東京ドームでアニメ「獣神ライガー」とのタイアップ企画で獣神ライガーが小林邦昭戦でデビュー。ライガースープレックスで勝利を収めると、翌月の5月25日には馳浩を破り、IWGPジュニアヘビー級王座を獲得し第9代王者となった。モチーフとなったのは永井豪原作の漫画で、当時放映されていたアニメにシンクロして獣神ライガー→ファイヤーライガー→獣神サンダー・ライガーへと変化している。そして全日本女子プロレスとのタイアップにより、漫画作品「ブリザードYuki」を同名の覆面レスラーで実際に活動してメディアミックス展開されたのがブリザードYukiである。複数の候補者の中から長身で空手の経験を持つ長谷川咲恵に白羽の矢が立つ。1994年に東京ドーム大会の対吉田万里子戦でデビューする。しかし、入場の際の演出においてスタントマンが負傷、自身もリングインの際に失敗した事から調子を崩し、不本意な試合となり試合後もコメントなしとなった。その後、長谷川咲恵はブリザードYukiというキャラクターを演じる事ができず、引退となった。〓玄米〓新潟魚沼の中の 旧塩沢町産コシヒカリにこだわっています。 【塩沢産】魚沼コシヒカリ 棚田米 5kg
2018.07.05
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1998年1月4日 革命戦士・長州力が東京ドーム大会で引退した。長州力は新日本プロレスの新間寿にスカウトされ、1974年に新日本プロレスへ入団。デビューは1974年8月8日、日大講堂でのエル・グレコ戦。サソリ固めで勝利を飾る。リングネームは故郷・山口の旧名である長州と力道山から長州力と改名。坂口征二と共にNWA北米タッグ王座を保持していたが単なる脇役という印象は拭い去れずにいた。1982年に入るとメキシコ武者修行から帰国、「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない」という発言でブレイクし藤波と「名勝負数え唄」といわれる連戦を展開した。その後ジャパンプロレスを旗揚げし、維新軍に所属するレスラーを率いて全日本のリングへ上がる。全日本流の「受けのプロレス」に触れた事で、長州のファイトスタイルは攻め一辺倒から脱し、相手の技を受ける場面も多く見られるようになった。長州自身も、「馬場さんから、いろんな部分で受けてるね。まず、プロレスの見方が変わった」と回顧している。1987年、長州の師であり維新軍でも頭目格であったマサ斎藤と猪木との抗争が始まる。斉藤がKO負けした直後は周囲に押さえられて未遂に終わるも、長州はリングに駆け上がらんばかりであった。これを契機に、ついに長州は新日復帰を果たす。1988年7月にアントニオ猪木から念願のフォール勝ちを奪い、名実共に新日本マットの中心となった。そして現場監督として猪木が一線を退いた後の団体を取り仕切り、因縁浅からぬUWFインターナショナルとの抗争を主導した。引退試合は藤田和之、吉江豊、高岩竜一、飯塚高史、獣神サンダー・ライガーの5人掛けであった。藤田、吉江、高岩、ライガーに勝利。飯塚に敗北。引退後、長州力のリングネームは愛弟子の佐々木健介が襲名するという話が持ち上がるも実現しなかった。一頭まるごと楽しめる一頭盛り 20種 60g×20種(7〜8人前) 【冷凍】【最高級】【タレ付き】【国産A4、A5等級】【一頭買い】【和牛】【極上雌牛】【A4、A5】【バーベキュー】【BBQ】
2018.06.28
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1992年6月、SWS崩壊後、所属していた選手がWARとNOWに分かれた際、NOWに移籍したジョージ高野と高野拳磁が団体内の問題から旗揚げ後に退団してすぐに設立たのがプロレス十字軍・PWCである。事務所と道場を東京都東大和市に構えて1993年2月13日、東海市民体育館で旗揚げ戦を開催したがSWS崩壊及び分裂に際してスポンサーであったメガネスーパーはWARとNOWに資金援助の約束が遂行されたがNOWを退団した高野兄弟には資金援助が無かった為に旗揚げ当初から経営地盤が弱かった。加えて代表である高野拳磁の経営の杜撰さにより、すぐに資金難となり、まず高木功が退団し、高野兄弟に対抗出来得る勢力が一気に手薄となってしまう。加えて資金を捻出していたとされるジョージ高野が退団して、さらに道場に置いてあったリングも盗難に遭うなど苦難が続き、さらに所属選手の退団も起きて、最終的には拳磁の個人プロダクション的な団体となってしまった。その後、将軍KYワカマツが「宇宙パワー軍」を率いて参戦。宇宙パワー軍との闘いに敗れた後のマイクアピールで、「リングは盗まれ事務所も閉鎖、みっともなくて情けねえよ。だがよ、俺は飼い犬にはならねえ!!」と絶叫した事により高野拳磁は「野良犬」と呼ばれるようになる。この、高野拳磁のキザなパフォーマンスでファンの心を掴み、カリスマ性を持った事で支持され高野拳磁個人の人気で経営は回復する。奇天烈な試合内容とファンの「野良犬」のコールのなか拳磁が手錠をかけられワカマツに街中を引きずり回されるなどのハチャメチャなパフォーマンスで一部マニアを惹きつけたが、所属選手が一斉に退団。これが決定打となってしまい団体は消滅した。【しじみ生姜煮】 しじみ 生姜煮 佃煮 つくだに 魚庵 うおあん
2018.06.21
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全日本が誇るチャンピオンカーニバルの97、98年度大会は、出場者が三沢光晴、川田利明、小橋健太、田上明、秋山準、大森隆男、スタン・ハンセン、スティーブ・ウィリアムス、ゲーリー・オブライト、ジョニー・エース、ジャイアント・キマラと、まったく同じでマンネリ化した感のある淋しい大会と評された。しかし、97年大会は川田、小橋、三沢の3人が19点で並び、史上初の巴戦での優勝決定戦となり、話題となった。第1試合は三沢と小橋が引き分け。第2試合は疲労が残る三沢を川田が下し、川田は小橋との第3試合も勝利。川田は初のシングルでの三沢越えを果たすと共に、2度目の優勝を達成し、最後のインタビューで「本当の三沢越えはこれからです」「これが全日本です」の名言を残し会場から“ゼンニッポン”コールが起こった。98年大会は秋山がハンセンを破るなどの活躍で優勝戦に進出し、三沢も三冠王者の貫禄を見せるなど優勝戦に駒を進めた。優勝戦では三沢が得意のエルボーで秋山に勝利し、王道スタイルの名に相応しい試合内容で2度目の優勝を果たしたが、ファンから「いつもと同じ」「もう見飽きた」と悪評に繋がってしまった。99年大会はWWEよりベイダー、Uインターより高山善廣、みちのくプロレスより新崎人生が参加し久しぶりのチャンピオンカーニバルらしい豪華な顔ぶれとなった。小橋は三沢にフォール勝ちを収めるなど1位でリーグ戦を終える。初参加のベイダーは三沢に敗れたものの、それ以外は無敗で2位となり優勝戦に進出した。優勝戦はベイダーアタックでベイダーが小橋に勝利し、初出場で初優勝を達成した。かまぼこ屋さんのお魚カツ3枚入り 【3袋セット】 | カネテツ カネテツデリカフーズ 弁当 カツ フライ ボリューム 惣菜 そうざい お弁当 おかず 魚介 シーフード 食品 通販 練り製品 冷凍 冷凍食品 セット
2018.06.14
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全日本の総決算とも言える「世界最強タッグ決定リーグ戦」の1985年大会は、長州率いる第4のメジャー団体ジャパンプロレス、ハンセン、レイス、ドリーらのNWAニック、パーフェクトのAWAブリティッシュ・ブルドッグスのWWEの世界3大メジャーそして第3のメジャー団体だった国際プロレスの残党が参加するというまさに「世界最強」の名に相応しいビック大会となった。今大会の目玉は長州率いるジャパンプロレスが全日に参戦し長州力&谷津嘉章のジャパンプロレス軍で参加。ブロディの新日転出でハンセンは新パートナーにテッド・デビアスを指名。前年の覇者・ジャンボ鶴田&天龍源一郎の鶴龍コンビジャイアント馬場は2年ぶりにドリー・ファンク・ジュニアとチームを結成。前年はチームを結成して参加したレイスとニックはそれぞれ新鋭を帯同し参加。前年度で馬場を裏切ったラッシャー木村、天龍を裏切った阿修羅・原は国際血盟軍として参加した。全公式戦中9試合が時間切れ引き分けという大混戦となり、鶴龍コンビが国際血盟軍にリングアウト負け、長州組がブルドッグスとレイス組に連日の反則負けと星を落とす中、着実に白星を重ねたハンセン組が最終戦で長州組と引き分け初優勝を果たした。【保存料無添加】鳥取県 名物 とうふちくわ蒸し【鳥取県産大豆100%】【自家製 手作り 豆腐使用】鳥取市内の工場から直送!【おでん お鍋 おつまみ】【日本酒 ビール】低カロリー 高タンパク 不飽和脂肪酸 EPA DHA【saita】【NHK】とうふ ちくわ 豆腐 竹輪
2018.06.07
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ジャイアント馬場の弟子・大仁田厚が大企業・全日本を脱退し、独立後FMWを旗揚げ。町場の会社とも言えるインディー団体を設立。この結果、メジャー団体の全日本、新日本は志のある会社=団体。インディー団体は心意気の会社=団体の定義を築き上げた。そんな中で1995年11月19日、プロフェッショナルレスリング藤原組でスポンサーから所属選手の大幅なリストラを提示されて反発した藤原喜明を除く所属選手が退団。石川雄規を中心に設立したのが格闘探偵団バトラーツである。あくまでスポンサーに対して反発したのみで藤原との確執は無くプレ旗揚げ戦の際に藤原が来場して1996年、小田原市川東タウンセンターマロニエホールで「わが息子達を宜しくお願いします」とリングで挨拶しバトラーツは旗揚げ戦を開催した。UWF、PRAIDEが目指した総合格闘技にプロレスの醍醐味をミックスしたテイストで“バチバチファイト”と唱えた独自のプロレスを作り上げる。スター不在と言われながらも選手の個性が最大限に発揮されアントニオ猪木イズムを継承した石川雄規と馬場==王道イズムを学んだ池田大輔の姿勢が支持を得ていき、アレクサンダー大塚のPRIDEでの活躍もあって知名度も高まり、1998年には格闘技の殿堂:両国国技館で開催するまでに成長した。しかし、2001年9月、橋本真也のZERO-ONEで開催される「火祭り」に協賛して所属選手を送りリーグ戦の一部をバトラーツの興行で実施する事を発表したが石川雄規が尊敬するアントニオ猪木の助言でキャンセル。PRIDEと関係していた猪木とPRIDE参戦選手と無断で交渉を行ったZERO-ONE代表の橋本真也の対立が背景にあるとされている。バトラーツ公式サイトで発表時は「ビッグマッチに向けて猪木軍入りして異種格闘技戦の開催を計画している。猪木と橋本間のトラブルであり両者間の和解が無い場合どちらかを選択する必要があり今回は猪木軍を選んだ」・・・と理由を述べた。しかし猪木からの利益を最優先する為、発表済みカードを消滅させた点などからファンの批判や所属選手の離反を招く事になる。また「バトラーツのリングは火祭りのリーグ戦開催以前から火祭りだったと自負している」と無意味な開き直りも公式サイトに記載した為、批判はより強まった。猪木は「迷惑な話だ」と自身は関わっていない姿勢を見せた。この猪木の発言に対し、ノアの三沢光晴は「筋が通ってない」、「自分の尻も拭けないのか」等とバトラーツの会社的責任と社会的姿勢を批判。その追い風が強すぎてバトラーツは10月26日に活動停止。2002年6月9日、活動再開して一部の元所属選手が集結して桂スタジオを中心に興行を開催。2010年12月26日、桂スタジオの閉鎖などもあり2011年11月5日、新宿FACE大会を最後に解散した。【メール便選択で送料無料】楽天Edyリーダー(USB型)電子マネー楽天Edyの残高確認、クレジットカードチャージ、ネットショッピング等ができる!
2018.05.31
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全日本冬の祭典「世界最強タッグ決定リーグ戦」その1984年大会は参加メンバーの豪華さもさることながら、内外ともに非常に話題の豊富な大会となった。参加選手はジャンボ鶴田&天龍源一郎「鶴龍コンビ」前年度の覇者であるスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディドリーのパートナーはテリーが現役に復帰しザ・ファンクスが復活し、レイスとニックの元世界王者・リアル帝王コンビも誕生。新日本のMSGタッグ・リーグ戦に参加するため来日したWWEのブリティッシュ・ブルドッグスが空港で全日への移籍を電撃発表し初参加。また、開幕戦当日までミステリアス・パートナーとして伏せられていた馬場のパートナーは、UWFを離脱したばかりのラッシャー木村であった。悪役チームとしてタイガー・ジェット・シン&マイク・ショー。ワンマン・ギャングのパートナーであったバズ・ソイヤーがパスポートを紛失し来日不能となり、急遽、鶴見五郎にパートナーを変更した。以上の豪華な顔ぶれとなり、この年から公式戦が45分1本勝負から30分1本勝負に変更。また、大会のテーマ曲としてセルジオ・メンデスの「オリンピア」を初使用し、以後、現在まで入場式や表彰式などで継続して使用されている。しかし、最強タッグ大一番となった名古屋大会で事件は起こる。馬場のパートナーであった木村の造反により戦線離脱、木村は鶴見、剛竜馬、菅原伸義と「国際血盟軍」を結成。また、メイン終了後に新日本プロレスの長州力率いるジャパンプロレス勢がリングに上がり、全日本プロレスは新しい闘いに突入した。そして、決勝戦は鶴龍コンビと超獣コンビの戦いとなり、天龍がハンセンのラリアットを食らってKOされ鶴田が孤軍奮闘する展開になったが、ハンセンのレフェリー暴行による反則負けで鶴龍コンビが初優勝した。【100%ピュア/高品質 ヒマラヤ岩塩 バスソルト 浄化力 クリスタル50g 入浴剤】 マユナバスソルト 【ポイント10倍】濃密なミネラル発汗浴でストレスボディリセット / ギフト プレゼント 誕生日 父の日 お中元 ブライダル
2018.05.24
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大仁田厚が作り上げたインディー団体。テレビ局も付かず、定期的な中継を持たない為安定した高額収入が得られず、資金繰りで多忙を極めるもその影響で幾多のインディーが誕生していった。その中でもインディーの中の超どインディーとまで言われたのが1995年に誕生した「レッスル夢ファクトリー」である。キャッチフレーズは「プロレスの夢を次々と製造する工場の様な団体」であり、、SPWFで事務局長を務めていた高田龍が退社したのと、ほぼ同時に退団した茂木正淑、三浦博文、神風、覆面太郎、アジャ浩司、レフェリーのジャッジ金子らが設立。団体の命名者及び初期の代表は高田龍であり、北関東で飲食店、不動産業などを手広く展開していた人物がオーナーとしてついた為、設立当初から埼玉県熊谷市に道場を開く事ができてミスター・ヒトがコーチに就任。元・新日本プロレスの仲野信市が入団して「夢ファクトリーの道場に新日本イズムを植えつける」と道場論も掲げられた。しかし、低レベルのプロレスファイトに観客は罵声だけでなく、受け狙いのヤジを掛けるなど最低なマナーでの観戦をしていた。1996年、福田雅一が将来のエースとして期待されるもオーナーの経営する企業の業績が悪化した為レッスル夢へのバックアップが中止となり一気に運営が悪化しての規模も縮小された。しかし、超どインディーの夢ファクにも希望の光がありメジャー団体、新日本主催の「ジュニア8冠王座」にNWAジュニアヘビー王者の茂木正淑が参戦し1998年には老舗・全日本プロレスに三沢、川田と同じ足利工業大学附属高等学校レスリング部出身の神風が特別に参戦を許され、三沢、川田が注目するというメジャー団体も手を救う事になった。2000年、円谷エンターテインメントが製作した「仮面天使ロゼッタ」のキャラクターを起用する事の承認を得る事に成功して仮面天使ロゼッタ(現:矢樹広弓)と神仮面ファラオン(現:篠眞一)がプロレスラーとして登場。レッスル夢で独自のストーリーを作り上げるも2001年、解散する。【化粧箱入】調味商事 よこすか海軍カレー ネイビーブルー レトルトカレー 中辛 180g×2食入×4箱入(8食入) 1個
2018.05.17
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全日本春の祭典・チャンピオンカーニバルは1994~1996年は新時代を築く四天王を中心に新たなる戦いの火蓋が切って落とされたリーグ戦となった。1994年大会は2年連続準優勝の三沢が2戦戦った後欠場するというアクシデントが発生。WWEからザ・バーザーカーが参戦するもリーグ戦は三沢を除くプロレス四天王とハンセン、ウィリアムスの優勝争いとなったが、ハンセンは小橋と田上に連敗し脱落。川田とウィリアムスがハンセン以外に全勝し優勝決定戦に進出。17年ぶりに日本武道館で行われた優勝戦は川田がパワーボム3連発で勝利し、超世代で初の優勝者となった。1995年大会は全日本常連外人レスラーに四天王というマンネリ化が浮上してしまい、ファンに飽きられるという最悪の事態を招いだリーグ戦となってしまう。前年準優勝のウィリアムスが開幕直前に来日をキャンセル。三沢は全勝で勝ち進んでいったものの、川田戦で左眼窩骨折という事態になる。去年に引き続きリタイアかと心配されたが、その後も出場し、7勝3分で優勝戦に進出。田上も順調に勝ち点を重ねていき、優勝戦はプロレス四天王同士の対決となった。三沢がタイガー・スープレックスで田上を下し、怪我を乗り越えての初優勝を果たした。1996年大会はUインターよりゲーリー・オブライトが参加。マンネリを防ぐ為、「毎日が武道館級の試合」と触れ込みこれは日本武道館で行われている三冠戦と同じカードを地方興行で行うという画期的なものだったが、結果、大会は成功するもレスラーの身が持たない状態となってしまう。また、田上がハンセンに勝利するなど確実にポイントを稼ぎ2大会ぶり参戦のスティーブ・ウィリアムスも三沢や川田を倒し優勝戦に進出。優勝戦で田上はノド輪落としで勝利し、前回準優勝の雪辱を果たし初優勝した。【ぶっかけうどん】 冷凍 18人前【冷凍 手軽 具なし ギフト 取り寄せ 】
2018.05.03
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米国WWEによるエンターテイメントプロレスは現在のマット界で大人気を博しているブックとなっている。しかし、1981年に既にエンターテイメントは存在しWWEの原点となったのがテキサスの鉄の爪フリッツ・フォン・エリックが設立したWCCW(World Class Championship Wrestling)である。創設者のフリッツは、1982年6月4日のキングコング・バンディ戦を最後に現役を引退し以降はプロモート業に注力し、WCCWのボスとして黄金時代を築く。自身の息子たちのケビン、デビッド、ケリーをエースに、フェイスターンしたブルーザー・ブロディが彼らの助っ人を務め、英国からやって来たフォン・エリック兄弟の友人としてクリス・アダムスが参戦。キャラクターレスラーの原点ともいえるロックンローラー・ギミックのバック・ズモフはトレードマークのラジカセを持ち込み派手な入場でWCCWを盛り上げた。ヒール陣営ではNWAミッドアメリカ地区から転戦したファビュラス・フリーバーズが参戦しヘイズが、それまでになかったマイク・パフォーマンスを披露し絶大なヒール人気を獲得。フォン・エリック兄弟とフリーバーズの抗争アングルは、アメリカのプロレス業界誌「レスリング・オブザーバー」の "Feud of the Year" に、1983年と1984年の2年連続で選ばれたほどのドル箱カードとなった。初の女性マネージャーを帯同したジミー・ガービンは従妹のサンシャインことバレリー・フレンチを帯同し、3月にデビッドからNWAテキサス・ヘビー級王座、7月25日にはケビンからNWAアメリカン・ヘビー級王座を奪取し抗争相手のクリス・アダムスにサンシャインを奪われると、今度は妻のパティ・ウィリアムスをプレシャスと名乗らせて新しいマネージャーに起用、アダムス&サンシャイン対ガービン&プレシャスのミックスド・タッグマッチも行われた。怪奇派ヒールとして顔面に緑色のペイントを施し、前頭部と後頭部の一部分のみを残して髪を剃り上げた、ミッシング・リンクやウガンダの未開部族をモチーフとした、キマラが参戦しフレアー・タイプの色悪系ヒールのジノ・ヘルナンデスはダラス地区のフラッグシップ・タイトルだったNWAテキサス・ヘビー級王座を巡り、デビッド・フォン・エリックとの抗争を展開した。そしてマネージャー兼ブッカーのゲーリー・ハートのアイデアで、歌舞伎役者をモチーフにしたオリエンタル・ギミックのペイントレスラー、ザ・グレート・カブキが登場。般若の面を付けた連獅子姿や鎖帷子に日本刀を携えた忍者スタイルなどをコスチュームに、ヌンチャクを操り毒霧を吹く東洋の怪奇派ヒールとして異色の悪党人気を博した。また、NWA世界ヘビー級王者のハーリー・レイスやリック・フレアー、アンドレ・ザ・ジャイアントも招聘して北米有数の繁栄テリトリーとなった。◎長袖キャストブルゾン (88002) 88002 DAIRIKI ダイリキ 【作業服・作業着・春夏用】
2018.04.26
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アイドルとは、偶像、崇拝される人や物、あこがれの的、熱狂的なファンをもつ人を意味する英語である。1981年8月、サマーアクションシリーズⅡに代わる形で全日本が1回のみ開催したサーキットが「スーパーアイドルシリーズ」である。参加外人レスラーは、夏休みのプレゼントとして毎年8月に来日していたミルマスカラスに加え弟・ドスカラスのマスカラスブラザーズが揃っての参加。81年のニュースーパースターとして人気を博した“南海の黒豹”リッキー・スティムボート崩壊した国際プロレスの常連外人レスラージプシー・ジョーも全日本初来日を果たし、NWAインタージュニア王者のチャボ・ゲレロ、メキシコのメジャー団体・CMLLからアニバル、ドクトル・ワグナーの大物ライト級選手が参加しテキサスのエリック王国の新鋭で前インタージュニア王者であり、元祖・ハートブレイク・キッドの異名を取っていたジノ・ヘルナンデスが再来日という豪華なメンバーであった。このシリーズはメンバーだけでなくサーキット中にトーナメント、王座戦と多数、盛り込まれており、これは米国のWWEでも不可能な事を全日本は、その偉業を成し遂げている。まず、夢のカードとして実現したのがミルマスカラスvsリッキー・スティムボートの試合でこれは、米国、メキシコでも実現不可能だったドリームマッチで、これを実現させた全日本に、米国紙でも大きく取り上げられた。続いて、世界最強タッグ決定リーグ戦とは別に夏の甲子園的な企画としてPWF杯争奪タッグ・トーナメントを開催。これは、現在では当たり前のように乱立されているリーグ戦多発を最初に用いたのが、全日本である。また、選手権試合でUN選手権ジャンボ鶴田vsジプシー・ジョーIWA世界ヘビー級選手権ミル・マスカラスvsチャボ・ゲレロインターナショナル・ジュニア・ヘビー級選手権チャボ・ゲレロvsドス・カラスIWA世界ヘビー級選手権ミル・マスカラスvsジプシー・ジョーと地方興行でもタイトルマッチを行い日本全国=どこの地域でも主戦場という図式は馬場・全日本の素晴らしさが際立った事となった。防犯砂利 10kgセキュリティ ガーデニング 音 エクステリア 石 安全 園芸 砕石 足音 庭作り 対策 防犯 石材 予防 防草 ジャリ 10L 鉢 底 敷き 砂利
2018.04.19
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プロレスブームの真っ只中であった1994年、W★INGが崩壊した事によりビクター・キニョネスが新たに創設したのが、IWA・JAPANである。設立時は荒谷望誉をエースにW★INGから移籍した金村キンタローが対抗して、それにキニョネスがブッキングした外国人選手が絡むと言う図式で興行を開催。その後、金村がFMWに荒谷がWARに移籍して両エースが離脱する事態に直面するが中牧昭二と小野浩志が画鋲デスマッチなどの過激なデスマッチを展開。それに加えてキニョネスのブッキングでテリー・ファンク、カクタス・ジャック、ダン・スバーン等の大物選手を招聘。加えて当時のライバル団体であったFMWを退団したターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原の真FMWなども参戦。1995年、川崎球場で興行を開催する程の隆盛を得る。また新日本プロレスが脱退したばかりのNWAにも加盟して団体内でNWA世界タッグ・リーグ戦を開催した他にNWA世界ヘビー級選手権試合も組まれた事があった。しかし、1996年、代表のキニョネスが経営陣から撤退して全日本、FMWへ手駒の外国人選手を率いて参戦。これに中牧も呼応する形でFMWへ参戦するなど苦境が続いたが真FMW軍との抗争をメインに興行活動を維持する事が出来た。1997年にはWWE極東地区担当マネージャーだった佐藤昭雄を専務取締役として招聘し、ECWと業務提携を結んでレイヴェン、トミー・ドリーマー、スティービー・リチャーズなどのECWの精鋭が興行に参加するなど全盛期の勢いを取り戻すものと思われた。しかし、プロレスリング統一機構・FFFの設立に佐藤、真FMW軍が撤退し、存続の最大の危機を迎えた。この時は若手選手の山田圭介が代表に就任してザ・グレート・カブキを所属選手として三顧の礼で迎え入れてファンの支えにより何とか持続する事が出来た。1999年、選手兼代表の山田が退団。それと前後して当時後援者でもあった浅野起州が代表取締役に就任。上記の通り何度も存続の危機に見舞われるが、その都度危機を乗り越えてネームバリューのある外国人選手の招聘やプロレスリング・ノアを始めとする他団体との交流を行っている。主なストーリーラインは謎の集団「UMA軍団」を中心とした「新宿二丁目劇場」と銘打ったコミカルなアングル。小規模会場をメインとしながら継続的な興行を開催していた。だが、2014年10月13日、新宿FACE大会を最後に代表の浅野が引退のため活動休止した。最新 Bluetooth イヤホン 高音質【QCY QY8 正規販売店】メーカー1年保証 / ワイヤレスイヤホン 両耳 Bluetooth 4.1 ランニング bluetooth イヤホン 防水防汗 ワイヤレス イヤホン ブルートゥースイヤホン
2018.04.12
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全日本・春の祭典「チャンピオンカーニバル」1992年、1993年大会は脱退した天龍の抜けた穴を三沢光晴を筆頭にした超世代軍が奮起したもののジャンボ鶴田、スタンハンセンなど残った大物が怪物ぶりを見せつけた大会となった。92年は前年同様、Aブロック、Bブロックに分かれ初参加としてスティーブ・ウィリアムス、テリー・ゴディ、ジャイアント・キマラ2に加え渕正信、菊地毅、小川良成などジュニアヘビー級の選手や中堅外国人選手が大量にエントリーされた。実力差の大きい主力選手との試合では秒殺決着が相次ぎ三つ巴の激戦となったAブロックでは、昨年の覇者・鶴田が無敗にもかかわらず、2回の時間切れ引き分けによる失点2でリーグ戦で敗退。決勝ではハンセンが徹底的に左腕を攻撃する三沢を逆転のラリアットて3カウントを奪い、リーグ戦含めて文句なしの全勝優勝を果たした。93年は11年ぶりに再び1リーグ形式に戻り、WWEから脱退したデイビーボーイ・スミスが参加し崩壊したAWAからパトリオットが参加した。注目されたのが、デイビーボーイ・スミスがWWEのIC王者になっていた事から全日本選手とWWE選手のレベルを比較された事であり結果として四天王、ハンセンらに敗退し、全日本格上と見なされた。更に上位の選手がお互いに星を潰しあい大混戦となり、その中でハンセンと三沢がトップで並び優勝戦に進出した。2年連続の組み合わせとなった優勝戦はハンセンがパワーボムで三沢を返り討ちにし、カーニバル2連覇を達成した。☆話題の花粉対策☆ 花粉 花粉対策 マイクロカレント 微弱電流 持ち運び 送料無料 名入れ無料 30日間返品保証 ギフト お誕生日 母の日 父の日花粉対策スティック 微電 なごみ
2018.04.05
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現在でも継続している全日本の年末の祭典世界最強タッグ決定リーグ戦1983年大会は、テリーが8月31日に引退した為ファンクスはコンビを解消、ドリーは馬場と新たにコンビを結成。馬場のパートナーだったジャンボ鶴田は新たに天龍と組み「鶴龍コンビ」を誕生させた。参加チームは、前年で優勝を逃したスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビ。新日本のMSGタッグ・リーグ戦に参加経験のあるタイガー・ジェット・シン&上田馬之助が2度目の参加。79年大会以来、4年ぶりの参加となるミル・マスカラス&ドス・カラスのマスカラス・ブラザーズまだ見ぬ強豪の一人で、次期NWA世界ヘビー級王者候補のバリー・ウインダムが新鋭のロン・フラーとタッグ。アジアタッグ王者の阿修羅・原&マイティ井上鶴見五郎はテキサス・エリック王国のザ・モンゴリアンをパートナーに迎え全8チームによる大接戦となった。開幕戦で初来日のバリー・ウインダムは公式戦で対決したハンセン&ブロディの両者は、父・ブラックジャック・マリガンのライバルでもありリッキー・スティムボート以来の初来日選手に対するコールが起こった。優勝争いは予想通り超獣コンビと鶴龍、馬場&ドリー組の争いとなり、最終戦で馬場&ドリー組はシン&上田組と両軍リングアウトに終わり脱落。鶴龍コンビと超獣コンビの直接対決はハンセンが天龍をラリアットに沈め、超獣コンビが堂々の初優勝を果たした。防水バッグ 防水 ウエストバッグ pirarucu (ピラルク) ボディバッグ 防水 防水バッグ メンズ イエロー/レッド/ブラック/ホワイト/シルバー ウエストポーチ 旅行 ツーリング アウトドア スポーツ観戦 自転車 ジム 登山 バイク あす楽 【GP-005】
2018.03.29
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会社の資金を横領し、競馬、競輪などのギャンブルに2千万~4千万円を流用し、日本最大の団体・日本プロレスを追放された豊登は、新間寿に接触して新団体を旗揚げする意向を表明。豊登には日プロから数百万円の退職金が発生していたが、ギャンブルに全て使ってしまって金が無く、渋谷の連れ込み宿での旗揚げを表明した。これが伝説の東京プロレスの誕生である。豊登の新団体旗揚げ表明を受けて、日本プロレスから田中忠治、ラッシャー木村、マサ斎藤、北沢幹之が離脱して豊登の新団体に参加する事となった。手薄な選手層であった為、豊登は新団体の目玉としてアントニオ猪木の引き抜きを画策した。アメリカに遠征していた猪木は、ワールド・リーグ戦へ凱旋参加する為、合同トレーニングへ向けてハワイへ移動。常に猪木の先を走っていた馬場の人気が沸騰していた事もあって、日本プロレスの対応にますます不安感を持った猪木を、豊登がハワイ入りして口説く形となった。猪木は1966年4月23日に豊登と共に帰国東京プロレス入団となった。1966年10月12日、蔵前国技館にて東京プロレスは旗揚げし、9千人の観衆を集め、猪木対ジョニー・バレンタインとの一騎討ちがメインとなり、猪木が勝利。アメリカ修行の成果をアピールする形となった。華々しいスタートとは裏腹に、テレビ中継、スポンサーなど有力な興行基盤を持たない東京プロレスは早々に経営が悪化する形となった。興行収益の無さや豊登による公金の私的流用も相まって窮乏する悪いムードの中、東京プロレスにとって致命的とも言える事件が発生した。東京都板橋区の元都電板橋駅前広場大会が、寒い11月の野外の試合で、観客が集まらなかった為突然大会の中止が集まった観客に告げられた。長く待たされた挙句に何の説明もなく突然の中止を告げられた事で観衆は激怒。リングを破壊した上に寒さへの反動から放火する事態となり、この暴動を収拾するために警官隊が多数動員されて鎮圧された。これが世に言われる「板橋事件」であり、この不祥事は一般紙の社会面にも掲載された事で、東京プロレスは社会的信用を失墜する形となった。12月14日から再び地方シリーズを強行しながらも興行的に惨敗し、資金難の中でも豊登は依然として公金横領、ギャンブルへの流用を止めない無責任極まりない行動を取り年内最終戦となった12月19日の東京体育館大会も主催者発表で1000人以下の惨敗に終わり、旗揚げから僅か2ヶ月で東京プロレスは事実上崩壊となった。猪木、斎藤永源、高崎山三吉、柴田勝久が日本プロレスへ復帰する事となり、木村、寺西勇、仙台強、マンモス鈴木、大磯武、竹下民夫らは日本プロレスへの復帰は叶わず、国際プロレスへ移籍する事となった。手作り 濃厚黒ダレ 【冷蔵】 焼肉のたれ 焼肉店のたれ タレ
2018.03.22
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大仁田は引退後、社長を退任しFMWと無関係になった。新たに運営会社が設立され、社長には旗揚げ当時リングアナウンサーで、関連子会社「FMWクリエイティブ」の取締役広報部長だった荒井昌一氏が就任した。大仁田の引退後もFMWは持ちこたえ、1995年5月28日、駒沢オリンピック公園体育館大会を皮切りにハヤブサを中心に金村キンタロー、田中将斗、工藤めぐみ、ザ・グラジエーターらの若い力がリングに活力を蘇らせて大仁田体制の胡散臭さや怪しさを押し出したスタイルとは異なる後にハードコアスタイルと呼ばれる激しい戦いが高い支持を得た。1996年5月5日、ハヤブサ&田中組対テリー・ファンク&ポーゴ組をメインイベントに川崎球場大会のビッグマッチを成功。しかし、もう1度スポットライトを浴びたいと願う大仁田はポーゴを引退させてポーゴの最後の願いとして大仁田とのタッグ結成をファンに乞うというアングルで1996年12月11日、駒沢オリンピック公園体育館大会で強引に復帰。この頃からハヤブサ、金村、田中ら若い世代へ期待する路線と創始者の大仁田への回帰路線という2つの方向性がリング上に生まれてFMWは混乱し始めた。この頃、WARを退団した冬木弘道、邪道、外道が参戦して金村、雁之助らとユニット「チーム・ノーリスペクト」を結成してFMWの歴史上でも最も存在感の大きなヒール軍になった。また、日本に進出を図ったディレクTVがFMWと契約しテレビ放映を手にしたFMWは最大のインディー団体と言われた。契約を結んだFMWは制作費の提供を受けてグレードアップしたエンターテイメント路線を走り始めた。1999年5月、アクの強いエンターテイメント路線にシフトチェンジを行ってドッグフードマッチや、おばけ屋敷マッチなど、これまでの日本では考えられなかったショー要素の強いプロレスを展開。さらにAVのチョコボール向井や若菜瀬奈、演歌歌手の谷本知美などのプロレス経験がない素人までを試合に参加させてファンの話題と反発を呼んだ。好調であるかに見えたが1999年11月23日、横浜アリーナで開催した旗揚げ10周年記念大会にはWWEのショーン・マイケルズ、ECWのレイヴェンなどの大物選手を招聘して内容面ではこの上ない最高の試合になったにも拘わらず興行的には失敗してFMWの経営状態は一気に悪化していった。ハヤブサが後楽園ホール大会での試合中の事故により頸椎を損傷して長期欠場を余儀なくされ、ミスター雁之助も負傷して長期欠場になった。看板選手の欠場は経営基盤の弱いFMWには致命傷になった。2002年2月14日と15日、FMWは2日連続で不渡りを出して事実上倒産。13年の幕を閉じた。A4、A5ランクの国産和牛を使用した超贅沢牛丼の素 焼肉乙ちゃんの和牛丼の素 150g x 10パック 【冷凍】【牛丼】【最高級】【国産A4、A5等級】【一頭買い】【和牛】【極上雌牛】【A4、A5】
2018.03.15
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1989年7月、ここに伝説と呼ばれるインディペンデント系プロレス団体が誕生した。元全日本プロレス所属選手の大仁田厚がわずか5万円の資金で設立。日本におけるインディー団体の草分け的存在で日本で初めてミックスファイトと女子選手による単独興行も手がける男女混合プロレス団体で世界のハードコアの先駆的存在となったFMWである。1989年7月2日、「格闘技の祭典」で遺恨が勃発した大仁田厚と空手家の青柳政司との抗争を軸に元全日本プロレス所属選手のターザン後藤や元新日本プロレスの栗栖正伸も参加。初期におけるFMWは、その団体名が示す通り柔道、キックボクシング、テコンドーなどプロレス以外の格闘家が参加しており異種格闘技戦的な要素が強かった。「総合格闘技オープン・トーナメント」と銘打たれた大会で栗栖がイス攻撃を駆使して優勝したりボクシングの元世界チャンピオン、柔道メダリスト、空手家、プロレスラーなどの「タッグチーム」が競う「世界最強総合格闘技タッグリーグ戦」を開催。そして、FMWの看板と位置付けて行ったのがデスマッチとストリートファイトマッチなどである。資金難を始め様々な面で既存メジャー団体に劣っていたFMWが選んだのは「何でもあり」をキーワードにしてのアイデアで勝負する道だった。有刺鉄線デスマッチを皮切りに数々の「日本初」を敢行。1990年8月4日、レール・シティ汐留大会で開催した大仁田と後藤の「究極のデスマッチ」、ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで団体の浮沈をも賭けた。その思惑は当たりFMWは一躍注目を浴びるようになった。多様な格闘家、奇抜な試合形式、男女混合、怪奇派レスラーなどが行われ団体色は一大センセーションを呼びUWFを除けば当時のメジャー団体だった新日本と全日本に匹敵する第3勢力になった。後にライバルのミスター・ポーゴの退団などもあったもののザ・シーク、タイガー・ジェット・シンといった新たなヒール選手も獲得して1991年には川崎球場で興行を開催。1992年には横浜スタジアム、1993年には阪急西宮球場で興行を開催して経営規模は順調に拡大していった。その一方で全国各地の駐車場や空き地での小さな興行も欠かさず行い、津々浦々にファンを増やしていった。1994年5月5日、川崎球場大会で自らの土俵である電流爆破マッチに持ち込みながらも天龍源一郎に敗れた大仁田は引退を決意。1年間の引退シリーズを経て1995年5月5日、川崎球場大会で引退試合を行った。【楽天スーパーSALE 10%OFF】 ざらめカステラ 1箱 長崎かすてら 卒業祝い 退職祝い ギフト 割引アイテム スーパーセール
2018.03.08
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WWEのサバイバーシリーズをはじめとする軍団対抗の生き残り戦、エリミネーション・マッチ。通常はフォールやギブアップなどが決まった時点で勝負は決するが、そこで勝負を決せず、負けとなった選手のみを退場として試合を続行する試合形式の事である。この試合形式では、勝負が決するのは相手のタッグチームを0人にした時点で勝利となる。またトップロープを超えて場外に落ちたオーバー・ザ・トップロープで退場とする事も多い。1980年代の米国マットでは流行したドル箱マッチであるが日本で初めて行われたのが1984年の全日本プロレスで「84グランド・チャンピオン・カーニバルII」の最終戦馬場&鶴田&天龍&トンガvsシン&上田&鶴見五郎&バズ・タイラーで日本組が馬場の1人残りで勝利している。1986年には新日本プロレスが新日本対UWFの5対5エリミネーションマッチを行い、猪木&藤波&木村&星野&上田馬之助vs前田&藤原&木戸&高田&山崎と、軍団抗争決着戦を繰り広げた。1987年にはWWEがサバイバー・シリーズとして開かれWWE主催の興行の中で、レッスルマニアに次ぐ歴史がある。【送料無料】 ダイエット スムージー 新発売 りんご味 健康食品 グラパラリーフ コラーゲン グリーンスムージー 葉酸 カルシウム マグネシウム ミネラルたっぷり
2018.02.22
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UWF活動停止後に社長の浦田昇は新日本プロレスと全日本プロレスとの本格的な提携交渉を開始。全日本との交渉は長州力らのジャパンプロレスやラッシャー木村らの旧国際プロレスが上がっており馬場が必要としたのは前田と高田だけだったので所属選手全員を受け入れる余力はなかった事から決裂して新日本との交渉に望みをかけた。新日本との交渉は当初は難航したが1985年12月6日、新日本との業務提携を結んだ事を発表。前田日明、高田延彦、山崎一夫、藤原喜明、木戸修が古巣である新日本に電撃復帰。年が明けた2月6日に両国国技館で開催した猪木vs藤原戦で藤原が敗れた後にリングに乱入した前田が猪木の顎に不意打ちのハイキックを入れて猪木をダウンさせた。遂に新日本プロレスとUWFの戦いが始まり、長州が新日本に復帰した事から前田の間で確執ができ、維新軍対UWFの6人タッグマッチにおいて前田が長州を防御の出来ない背後から顔面をモロに蹴るという俗に言う「前田顔面蹴撃事件」を起こした。長州は右前頭洞底骨折の全治1か月の重傷を負いその行為を問題視されて前田は無期限出場停止処分となった。前田は1988年、新たに第2次UWFを設立。所属選手6名のみでの再出発となったが前田日明は挨拶で「選ばれし者の恍惚と不安2つ我あり」と心境を述べた。旗揚げ当初から興行もシリーズ巡業形式ではなく月1回の単発形式に絞って各地の主要な会場を回るビッグマッチ形式を採用して連戦による選手の著しいコンディション低下を予防。ルールも試合は全てシングルマッチ1本勝負。勝敗はKOもしくはギブアップのみでピンフォールなし。5度のダウンでTKO負けと新しい格闘スタイルを樹立。これらの試みは所属選手のクオリティーの高い試合を生み出す要因となり、またファンにも「いち早くUWFを観たければ会場に行くしかない」という飢餓感を刺激して大成功を収める。有明コロシアムでシュートボクシングとの合同興行「真夏の格闘技戦」でメインイベントに前田vsジェラルド・ゴルドー戦をおいて成功させると以降も大会を開く度にチケット完売記録が続いていき1989年、新日本を退団した藤原喜明、船木誠勝、鈴木木みのるが入団して駒が揃ったところで11月29日に東京ドームで「U-COSMOS」を開催。順風満帆かと思われていたがスポンサーでもあったメガネスーパーのプロレス界参入によりSWSとの業務提携話が発生した為、フロントと選手間に不協和音が流れ始める。さらに社長の神真慈と一部フロントの会社経理における不正疑惑が発覚して、それを糾弾した前田が会社への背任行為として5ヶ月間の出場停止処分を受けた。1990年12月1日、松本運動公園体育館で船木の呼びかけにより欠場中の前田を含む全選手がリングに勢揃いして万歳三唱、選手の一致団結をアピールし新団体設立を印象付けたが最終的には社長の神が所属選手全員を解雇して、これをもってUWFは解散した。牛肉たっぷりメンチカツ 100g×10個【メンチ 業務用 冷凍 惣菜】
2018.02.15
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1984年、新日本のアントニオ猪木が起こした事業「アントン・ハイセル」の失敗により猪木が莫大な負債を抱えて、その補填をする為に新間寿と反猪木派社員が反目。反猪木派はジャパンプロレスを設立し全日本と契約を結び、新日本を離れる事になりそして新間が猪木の新たな受け皿として用意したのがユニバーサル・レスリング連盟(UWF)である。設立前には猪木を含めた新日本所属選手の参加が噂されて旗揚げ戦のポスターにも当時の新日本主力選手や主力外国人選手の写真が載せられたが結果としては前田を始めセミファイナル級の選手が旗揚げに参加し、移籍する事になった。外国人選手に関してはジャイアント馬場のルートでテリー・ファンクが窓口となり選手を斡旋している。これは旗揚げ前に新間から馬場に「猪木とUWFを作るがそれが切っ掛けで外人引き抜き戦争が再燃しないように外人ルートで協力してくれ」と依頼があった為で、マーク・ルーインやカリプス・ハリケーンといった全日本プロレスへの来日経験者がUWFに登場した。1984年4月11日、大宮スケートセンターで旗揚げ戦を開催。旗揚げシリーズは路線も定まらない状態だったが前田の師匠格である藤原喜明が高田延彦を引き連れ参加したあたりから方向性が定まり始め道場で行われるスパーリングのような関節を取り合う攻防を中心としたレスリングに転換していく。引退していた佐山聡がザ・タイガーとして新日本を退団後に設立したスーパータイガージムでインストラクターを務めていた山崎一夫を引き連れて参戦し、後に新日本を退団した木戸修も加わる事になり基本となる陣容はこれで固まった。彼らはカール・ゴッチの門下生であった事からゴッチの娘婿である空中正三も選手兼レフェリーとして参加。ゴッチ自身も外国人選手のブッキング及び若手選手の指導を協力。ここにUWFの目指す「レスリング=ゴッチ流ストロングスタイル」という一応のラインができあがる。従来のプロレスのショー的要素を廃して「キックが急所にまともに入ったら、まともに立っていられない」「関節技はポイントがガッチリ決まれば絶対に逃げられない」とする格闘技色の強いレスリングを展開して従来のプロレスに飽き足らなくなっていたファンはUWFの標榜する路線を支持して熱狂的なファンを生み出した。佐山以外の所属選手は徐々にフラストレーションを募らせていき、前田が佐山に喧嘩マッチを仕掛けた事で、遂に不協和音が表に噴出してしまう。佐山は前田の蹴りが自分の下腹部に当たったとしてレフェリーに反則を主張し、前田の反則負けとなるる。その後、前田は欠場。この事件は暗い影を落として後楽園ホール大会を最後に活動停止したがリングでの解散宣言は行われなかった。牛肉たっぷりメンチカツ 100g×10個【メンチ 業務用 冷凍 惣菜】
2018.02.08
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長州率いる第3のメジャー団体・ジャパンプロレス。ジャパン所属選手は、それぞれ全日本プロレスと専属選手契約を締結しており事実上全日本プロレス所属と言っても過言ではなかった。幾度か自主興行のシリーズも行ったが全日本所属選手とスタッフが全面協力して「全日本プロレス中継」で放送されるなど、全日本の通常興行と変わりはなく、当時の全日本は2チャンネル運営だったとも言える。主にジャパンプロレスのサーキット興業は全日本のシリーズが終了した直後に開幕しており全日本の大会数は、このジャパンのシリーズを含めると年間200以上であった。全日本に参戦した長州らジャパン勢はアメリカンスタイルと言われた「受けて勝つ」全日本のプロレススタイルに大きな影響を与えたと言われ、どちらかと言うとさっさと蹴散らしてしまう、いわゆる「ハイスパートレスリング」を身につけていた長州らのプロレスは、その後、天龍源一郎ら全日本の主力、中堅選手にも影響を与えている。1985年6月、長州が大塚に代わりジャパン社長に就任。長州の社長就任以降、ジャパンは上昇ムードになったが、その一方では新日本からスーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二を引き抜いてユニット「カルガリー・ハリケーンズ」として参戦させたり1984年ロサンゼルスオリンピックグレコローマン90kg級代表の馳浩を獲得した。ジャパンの上昇ムードに水を差す形となったのがジャパンの経営を巡る内部対立で、選手側と経営陣側に亀裂が生じつつあった。1987年2月、長州は「'87エキサイト・シリーズ」を開幕戦から欠場。3月23日、長州はジャパンプロレスで記者会見を行い全日本との契約を解除して独立する方針を表明。この会見は所属選手や社員の総意ではなく長州の一方的な会見であったため全日本の馬場は激怒。最終的には長州のジャパンからの追放を発表して崩壊。追放された長州は新日本に出戻り、他の選手も全日本に残留する者、新日本に再び戻る者に分裂した。また浜口、カーンらはいずれにも加わらず、これを切っ掛けに引退する事になった。裏切りで始まり裏切りで終わった形になってしまったジャパンはマスコミを中心に非難された。\20%ポイントバック&送料無料/レイヤードフレグランス 洗濯用洗剤&柔軟剤セット
2018.02.01
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日本は、昭和29年にテレビの発展と共に力道山がプロレスの夜明けとして日本プロレスを設立した。世界でも通用するメジャー団体として君臨した日本プロレスだが、時代は変わり馬場の全日本、猪木の新日本、TBSの国際が3大メジャー団体として築き上げた。しかし、国際プロレスが崩壊した後、後継となる、新しい第3のメジャー団体が発足した。それが、長州力を代表としたジャパンプロレスである。1983年、新日本プロレスはアントニオ猪木を筆頭に初代タイガーマスク、藤波辰巳、長州力など多くの選手を揃えて「新日本ブーム」とも言える好調な観客動員を続けていた。その反面、新日本の経営体制に不満を持った山本小鉄、藤波、当時の営業部長であった大塚直樹らは放漫経営の原因となっていた社長の猪木、営業本部長の新間寿らを排除した形での団体を目指しクーデターを画策。大塚は新日本を退社して「新日本プロレス興行」として再出発を切る形となった。1984年、全日本プロレス会長であったジャイアント馬場が新日本プロレス興行へ接触して興行の請負を打診。これを受けて8月26日、田園コロシアム大会を皮切りに全日本と新日本プロレス興行の業務提携へと発展する。それに親交のあった長州、小林邦昭、寺西勇、キラー・カーンのユニット「維新軍」が加わり、後には期待のホープであった谷津嘉章が新日本プロレス興行へ移籍する事が発表された。、また3日後には栗栖正伸、永源遙、保永昇男、新倉史祐、仲野信市が更に合流し、最終的には13人の選手が集結した。10月9日、長州の個人事務所「リキプロダクション」と合併する形でジャパンプロレスに改称。ジャパンは全日本プロレスと業務提携を結んで全日本を主戦場とする事になった。長州小力vsアントニオ小猪木〜お笑いど真ん中〜in西口プロレス【DVD/エンタテイメント(TV番組、バラエティーショー、舞台)】
2018.01.25
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鶴藤長天とは、力道山の次にプロレス界のリーダーになったアントニオ猪木とジャイアント馬場の後継者と目される次世代の4人であるジャンボ鶴田、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎をニューリーダー呼び、それぞれの名前から1文字ずつとって格闘頂点(鶴藤長天)をもじったかたちで週刊ゴングの記者が1987年に命名。 まず、鶴藤長天で最初に接点っがあったのはジャンボ鶴田と藤波辰爾で、鶴田26歳、藤波24歳の時に別冊ゴングで行われた対談では「プロレスラーは怖いオジサン達の集まり、というイメージを僕らで変えていきたい」という考えで藤波と意気投合し、1979年のプロレス夢のオールスター戦では鶴田&藤波&ミル・マスカラスのタッグが実現している。但し、シングル、ダッグ共に対戦をした事がなく、1987年には「今年は藤波選手と闘って最高試合賞を取りたい」1990年に「今年の夢は藤波選手と闘う事です」と発言し、それを受けて藤波は度々対戦要求を出してきたが、新日本サイドの交渉は一切なかった。実際、それぞれと戦っているのが長州、天龍で、長州は「藤波、俺はお前のかませ犬じゃない」という発言より藤波との名勝負数え歌で接戦を繰り広げ全日本マット参戦時には鶴田との60分フルタイムの激闘を展開した。この試合については1998年の引退時のインタビューにて「あの試合はしんどかったね」「結果的に60分ドローだったけど、明らかに俺の方がバテてたよね」と、自分の方が不利であった事を認めている。そして、全日本の天龍源一郎は長州にライバル意識をムキ出しにした事で注目され独立後のWAR代表として長州、藤波から勝利し全日本時代も鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ鶴田から三冠ヘビー級王座を獲得、天龍は鶴田、藤波、長州からフォールを奪った唯一の同世代レスラーであった。しかい、この鶴藤長天、長州力が全日本プロレスを離脱して新日本プロレスに復帰した事で4人が一堂に会する事が難しくなり、このような呼ばれ方をする事は少なくなっていった。結局、リングで4人が揃う事はなかったが1997年8月、長州の引退試合で藤波、長州、天龍のタッグが実現して週刊ゴングの表紙は闘頂点(藤長天)と明記された。【年始のご挨拶に】【ギフト】【手土産】クグロフ プレミアム ギフト プレゼント 贈答 贈り物 ご進物 土産 引き出物 祝い 結婚式 ウエディング 誕生日 パーティー ティー コーヒー カヌレ バウム パウンドケーキ 甘さ控えめ しっとり 女子会 焼き菓子 フランス菓子
2018.01.11
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現在、正月のプロレスビッグイベントといえば新日本プロレスの「1.4 東京ドーム大会」であるがその中でも、新日本が劣勢となった歴史的大会があった。1993年1月4日「FANTASTIC STORY in 闘強導夢」である。観衆は63,500人を記録し、当時流行だったプロレス団体対抗戦を開催。新日本が相手としたのが天龍率いるWAR、米国メジャー団体のWCWであり、同団体内で紛争が起こっていた反選手会同盟、レイジング・スタッフとの五つ巴戦と、大激戦となった大会である。1.新日本プロレス対WARオープニングバトル 野上彰&飯塚高史&エル・サムライvs 平井伸和&折原昌夫&北原光輝2.反選手会同盟vsレイジング・スタッフの8人タッグでは 斎藤彰俊&青柳政司&ザ・グレート・カブキ&越中詩郎vs 保永昇男&後藤達俊&ヒロ斎藤&スーパー・ストロング・マシン3.IWGPジュニア・ヘビー級選手権試合(新日本vsWAR) ウルティモ・ドラゴンvs獣神サンダー・ライガー4.ロン・シモンズvsトニー・ホーム5.新日本vsWCW 馳 浩vsスティング6.新日本vsWCW 橋本真也&マサ斎藤vsダスティ・ローデスJr.&スコット・ノートン7.NWA世界&IWGP両ヘビー級選手権試合・60分1本勝負 NWA世界王者・蝶野正vsIWGP王者・グレート・ムタ8.IWGPタッグ選手権試合・60分1本勝負 パワー・ウォリアー&ホーク・ウォリアーvs スタイナー・ブラザーズ9.新日本vsWAR 藤波辰爾vs石川敬士10.新日本vsWAR 長州力vs天龍源一郎豪華となった大会であったが、最後は天龍が勝利し新日本勢が負け越したような形となった。期間限定 Tシャツ メンズ トップス 新日本プロレス シンニホンプロレス 大きいサイズ ロス インゴベルナブレス デ ハポン 半袖 メンズファッション ※fu
2018.01.04
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正月のプロレスと言えば、全日本プロレスの「新春ジャイアントシリーズ」であり、1月2日から後楽園ホールで毎年開幕していた。ドン・レオ・ジョナサン、ウイルバー・スナイダー、ミル・マスカラス、マーク・ルーインら当時のNWAを代表するレスラーが参戦し1979年新春ジャイアントシリーズではフリッツ・フォン・エリックの斡旋によりブルーザー・ブロディが初来日。ジャイアント馬場に反則負けした以外、負けなしの好成績を残す。そして、新春男として毎年の正月に参戦していたキング・イヤウケアは、大声を張り上げて客席を蹴散らしながら入場するパフォーマンスで人気を博しリングのロープを止める金具を緩める撹乱行為を得意とし馬場、鶴田、大韓プロレスの大木、ドクを苦しめた。早めに来日してレフェリー兼外国人係のジョー樋口の家で御節料理を食べるのを楽しみにしていたという。そして1979年より、新春恒例となった100万円争奪スーパーヘビー級バトルロイヤルこちらも30年以上続いている正月の名物である。【Aromeni】3袋まとめ買い
2018.01.03
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国際プロレス時代は“金網の鬼”新日本~UWF時代は“吠える闘将”全日本~NOAH時代は“マイクの鬼”と呼ばれたラッシャー木村は、幅広いライバルを持ったレスラーであった。国際プロレス時代は金網デスマッチで不敗を誇りオックス・ベーカー、カーティス・イヤウケア、バロン・シクルナ、バロン・フォン・ラシク、マッドドッグ・バション、キラー・トーア・カマタ、ジプシー・ジョー、イワン・コロフ、アレックス・スミルノフ、モンゴリアン・ストンパーなど、怪奇派レスラーが多く日本人レスラーではストロング小林に挑戦状を突きつけ、1973年に小林VS木村の同門対決となるIWA世界ヘビー級王座戦が実現、これは、1954年12月22日の力道山VS木村政彦戦以来となる大物日本人選手同士のタイトルマッチとなった。国際プロレスの解散に伴い残党のアニマル浜口、寺西勇と共に新日本プロレスに参戦し、アントニオ猪木との抗争を開始。人気絶頂のアントニオ猪木に対する悪役ユニット「国際軍団」のリーダーとしてヒールを演じた。1984年に全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦でジャイアント馬場にタッグパートナーとして抜擢されたが、愛知県体育館での試合中に謀反。剛竜馬と鶴見五郎、アポロ菅原、高杉正彦と「国際血盟軍」を結成する。試合後に馬場を挑発するマイクパフォーマンスが次第に注目を集めたが、フェイスターンし、馬場との「義兄弟コンビ」を復活させ、馬場の事を「アニキ!」と呼び、後に百田光雄を加えて「ファミリー軍団」を結成、悪役商会の永源遙、大熊元司、渕正信らを相手にユーモラスな前座試合を展開した。【倉敷うどん ぶっかけ】 ファミリーセット半生 大(24人前)【常温 半生 ギフト 取り寄せ 】
2017.12.21
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燃える闘魂・アントニオ猪木のライバルと言えばプロレスラーではなく、ボクサー、格闘家と多彩であった。最初のライバルは当時、NWA世界王者であったドリー・ファンク・ジュニアであり、今や伝説となった60分フルタイム引き分けというレスリングの攻防戦が有名である。新日本プロレス設立後は元国際プロレスのエースストロング小林との大物日本人対決、日本プロレス時代の先輩である大木金太郎との遺恨試合、ビル・ロビンソンとの実力世界一決定戦と、他団体のエースと戦った。そして、生涯のライバルと言えばタイガー・ジェット・シンで平日の夕刻、大勢の帰宅客で賑わっていた新宿伊勢丹前でアントニオ猪木を襲撃し猪木はリング上で制裁を加えると公言、猪木対シンの試合は「因縁の闘い」として世間の注目を集める事となった。双方の攻防は、いずれも一歩間違えればレスラー生命に関わる激しいものであり、シンの右腕に狙いを定めると鉄柱攻撃やアームブリーカーなどで集中的に攻め続け最後はシンの右腕を骨折させている。「プロレスこそ全ての格闘技の頂点である」を標榜し、猪木は自身の最強を証明するためプロボクシング統一世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリとの一戦を交え、更にパキスタンの英雄アクラム・ペールワン、熊殺しの異名をとる極真空手のウィリー・ウィリアムスとの対戦など、異種格闘技路線への挑戦を続けジャンルを超えたライバルと戦った。そして猪木の史上最大のライバルが大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントであり、初対決は猪木がダウンしたところでジャイアント・プレスを食らい、フォール負けを喫した。以降の対戦では、猪木が掛けたキーロックをアンドレが軽々と持ち上げ、アンドレが掛けたカナディアン・バックブリーカーを猪木がロープを蹴って返しリバース・スープレックスで投げるという見せ場が定着した。1986年6月17日、アントニオ猪木は腕固めでアンドレから世界初のギブアップ勝ちを収めた。シルバーピアス シルバーアクセサリー メキシコ 格闘技 プロレスラー 格闘家 チカーノ ルチャリブレ マスクマン メキシカン メンズ メキシコ マスク スペイン シルバーピアス シルバーアクセサリー
2017.12.14
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ライバル、好敵手、宿敵・・・それは、何らかの競争関係において、好ましい状態変化を促す存在であると解される。日本スポーツ界、初のメジャーリーガージャイアント馬場は、日本人のライバル選手より世界の強豪プロレスラーがライバルというレベルの高いレスラーであった。まず、最初にライバルに出くわしたのがWWEで世界王者だったブルーノ・サンマルチノで海外武者修行でWWEマットに上がっていたジャイアント馬場を相手にMSGでWWE世界ヘビー級王座の防衛戦を行い、バックブリーカーで勝利を収められている。その結果、若手時代から友人関係になり出世を誓い合った最大のライバルの一人であった。その後、両者ともに出世し、お互いに世界王者の立場でPWF、WWEのダブルタイトルマッチが実現している。そして当時、ブックをすぐに破りガチンコで相手をフルボッコにしてしまい刑務所行きになってしまう喧嘩レスラーディック・ザ・ブルーザーが力道山の死後、空位となっていたインターナショナル王座を狙いジャイアント馬場と争った。喧嘩嫌いな馬場は死を恐れ、危険な技であった脳天唐竹割りをブルーザー相手に初披露した。そして、馬場が一番恐れていたテキサスの鉄の爪フリッツ・フォン・エリック、世界王座を争ったジン・キニスキー、血の抗争を繰り広げたアブドーラ・ザ・ブッチャーなど馬場は世界の強豪がライバルというスケールの大きいレスラーであった。シルバーイヤーカフ イヤーカーフ 純銀 シルバー925 イヤリング イヤーカフス イヤークリップ メンズ 男性用 フープ シルバーピアス ボディピアス 宝石 タトゥー 刺青 ゴシック 重厚 牙 アラベスク 唐草 トライバル シルバーアクセサリー 1月 11月 2月の誕生石
2017.11.30
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今では当然となったプロ野球選手の米国メジャー進出。だが、それを一番最初に実現させたのはプロレスで、1952年に修行と発展の為、力道山がNWA、WWAマットに上がる。当時、米国では4大メジャーが存在しNWA、AWA、WWE、WWAが世界に顔を広めており、既にWWAで活躍していたグレート東郷が日本プロレスとアメリカにおける窓口としてあっせんしていた。そして力道山は、4大メジャーとパイプを繋ぐ為、東郷を介して米国マットに派遣したのがジャイアント馬場である。馬場はWWEでババ・ザ・ジャイアントの名でWWE世界王座に挑戦し、NWA、WWAではショーヘイ・ビッグ・ババの名で、NWA世界王座、WWA世界王座挑戦と短期間で3つのメジャー団体でメインエベンターに成長し、世界タイトルに挑戦した。これは世界の強豪レスラーの誰しも果たせなかった破天荒な大金字塔的偉業であり、当時の馬場のレスラーとしての実力がいかに卓越していたかを示す証明である。後に馬場は全日本プロレスでAWAと提携しミネアポリスのマットに上がり、世界4大メジャーを制しただけでなく4大世界タイトルにも挑戦した実績から馬場の世界的名声の基盤を形成した。アントニオ猪木は力道山没後の1964年にアメリカ武者修行でNWA、WWAマットに上がり、NWA世界タッグ王座を奪取し海外で初の世界タイトル奪取に成功している。後に猪木は新日本でWWEと提携しニューヨークのマットに上がっている。1980年代では、ジャンボ鶴田、三沢光晴が世界3大メジャーを制し1990年代になると、NWAはWCWと改名し消滅したAWA、WWAに代わりにECWが設立された。そして2000年代、WCW、ECWは消滅し、NWA-TNA、ROHが設立し、これらの団体に上がったのは三沢光晴となり、彼が事実上、5大メジャー団体を制した男となる。新潟精機 プロマート ALA 2mシルバー ALA0820S
2017.11.23
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王道継承者:三沢光晴闘魂継承者:武藤敬司二人は現役選手だけではなく、社長業としても同じ道を歩む事になる。1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて全日本プロレスの社長に就任した。三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語った。しかし、全日本プロレスの株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、馬場の運営方針を100%受け継ぐ事が求められ、新たな試みを行う事は一切禁じられた。後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとする事が、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本プロレス退団を決意する。一方の武藤敬司も1999年は1年間王者に君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれているが、新日本プロレスが格闘技路線に重心を移し、武藤自身のアメリカでの実績、新日本での実績が潰される事になると不安を抱え、身を聞く事を決意する。三沢は、2000年6月16日に記者会見を開いて新団体「プロレスリング・ノア」設立を宣言した。三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本プロレスを退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼり、三沢の人望が高い事が証明された。そして、武藤は三沢が抜けた全日本に協力する形で新日本代表として参戦し、定期的に全日本に参戦する事になる。団体の垣根を超えた超党派ユニット「BATT」を結成し、新必殺技シャイニング・ウィザードを引っ提げ、史上初の六冠王者となった。武藤は弟分の小島聡、ケンドー・カシンおよび新日本プロレスのフロントスタッフの5名と共に不満のあった新日本プロレスを突如退団し、全日本に入団。馬場元子社長から全日本プロレスの株式を譲り受け、オーナー兼社長となった。三沢と武藤は同じ社長という立場となり、多忙の毎日を過ごし体調は共に常に悪くなってしまい、三沢は頸椎に骨棘ができて下を向く事が困難になり、武藤は変形性膝関節症により、右膝関節内遊離体除去の手術を行う。この二人が。リングで遭遇したのが2004年7月10日に行われたNOAH東京ドーム大会で三沢&小川良成vs 武藤&太陽ケア戦。この試合では敗れたが「夢の続き、見ませんか?」と三沢にメッセージを送り、これが切っ掛けで三沢は古巣である全日本プロレスへの参戦を果たした。10月31日、両国国技館での武藤敬司デビュー20周年記念興行において武藤は三沢とドリームタッグを結成。馳浩・佐々木健介組と対戦して勝利を収めた。【銀河家具】パソコンチェア オフィスチェア オットマン付き ガス圧昇降 360度回転式 ロッキング機能付き キャスター付き 社長椅子 選べる2タイプPUメッシュ パソコンチェアー オフィスチェアー OAチェア デスクチェア ワークチェア チェア キャスター イス
2017.11.09
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2003年、韓国ドラマ「冬のソナタ」の放送が切っ掛けで映画、音楽、アイドル、料理、言語、文学など、様々な方面に流行が見られ影響が及んだ韓流ブーム。2005年公開の「パッチギ!」では毎日映画コンクール、日本アカデミー賞、キネマ旬報ベスト・テン、ブルーリボン賞など賞を総なめにし、タイトルの「パッチギ」は韓国語で「頭突き」の意味である。この頭突きの原点が、韓国の猛虎の異名を取り、ジャイアント馬場とアントニオ猪木と並び「若手三羽烏」と称された大木金太郎である。1958年、力道山に憧れて漁船で日本に密入国したが、入管法違反で逮捕されてしまい、その後、」力道山が身元引受人となり、釈放。日本プロレスに入門しプロレスデビューを果たす。1963年にアメリカ武者修行に旅立ち、WWA世界タッグ王座を獲得するなど活躍したが、同年12月に力道山が刺され死亡した事で、木は居場所がなくなり、韓国へ一旦帰国した。韓国では「大韓プロレス」のエースとして、様々な企画を成功させ韓国プロレス界の発展に尽力したが豊登の「東京プロレス」を旗揚げにより、日本プロレスは大木を韓国から呼び戻す事になる。1967年、韓国のソウルでマーク・ルーインから世界4大メジャーのWWA世界ヘビー級王座を獲得。しかし、上田馬之助の密告事件を発端に猪木・馬場が次々に「日本プロレス」を退団し、それぞれが新団体を創立した事により、大木は遂に「日本プロレス」No.1の地位を獲得し、1972年12月にボボ・ブラジルとの「頭突き世界一決定戦」でインターナショナル・ヘビー級王座を獲得した。だが、馬場と猪木の抜けた穴は大きく「日本プロレス」の人気は急激に凋落。新日本プロレスとの合併を模索するが大木は「日本プロレスの灯を消すな!」と、これに猛反対して合併話を潰してしまい、結果として、日本プロレスは1973年4月に崩壊した。その後、新日本プロレスに参戦し、1974年、蔵前国技館にて猪木とのシングル戦を行い1975年に同じく蔵前国技館にてジャイアント馬場とのシングル戦を行う。馬場戦を機に、大木は全日本を主戦場とするようになり、キム・ドクと師弟タッグでインタータッグ王座獲得、大木&ドクの韓国師弟コンビと馬場&ジャンボ鶴田の日本師弟コンビの抗争は全日本のドル箱カードであった。1975年のオープン選手権及び力道山十三回忌追悼興行で「頭突き世界一決定戦」と題されたブッチャー戦で名勝負を繰り広げた。1977年、「世界オープンタッグ選手権」に参加し「世界最強タッグ決定リーグ戦」にも連続して参加。1979年に行われた国際プロレスの3大タイトルマッチへも参戦し日本では長く封印状態にあったインターヘビーを防衛。その後、全日本から「NWA認定のインター選手権を、NWAに加盟していない国際プロレスで実施したのは問題である」という勧告に応じてインターヘビーを返上。その、引き替えに1977年に馬場に奪取されてそのまま封印されていたアジアヘビー級王座が大木に返還されている。これを機会に再び全日本に参戦するようになったが、1982年の阿修羅・原戦を最後に、首の持病が悪化し事実上の引退となった。1995年4月2日に行われた週刊プロレス主催のオールスター戦「夢の懸け橋」東京ドーム大会で、それまでの功績を讃えて正式な「引退セレモニー」が行われた。車椅子姿で花道を入場してきたが、リング・インの際は気丈に立ち上がり、ルー・テーズと共にリング内に進むと四方へ頭を下げ、ファンの声援を受けると現役時代からであるが流暢な日本語で「感激で胸がいっぱいで声が出ません」と涙を流した。ファンへの感謝とお詫びの言葉、力道山との思い出などを語り、引退のテン・カウントを聞くと眼を閉じて号泣した。リングを降りる間際ニュートラル・コーナーへ歩み寄ると、鉄柱に頭を付け愛おしそうに撫で、リングをあとにした。2006年9月9日、韓国ソウルのソウル蚕室総合体育館で開かれた「世界プロレスリング協会(WWA)2006ソウル大会」に、数少なき後輩たちのファイトを見守るために姿を現した。しかし、2006年10月26日、ソウル乙支病院において慢性心不全と腎臓血管異常による心臓麻痺により死去した。たっぷり野菜を入れてつくるチャプチェ【68g×5袋/常温商品】(中華料理,中華,中華総菜,惣菜,チャプチェ,春雨,韓国風,韓国,夜食,おかず,ヘルシー,インスタント,即席麺,時短料理) ケンミン 健民 ギフト プレゼント
2017.11.02
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開催10周年を迎えた米国春の祭典1994年の「レッスルマニア10」今大会は、超世代軍、闘魂三銃士に匹敵するWWEジェネレーションが主役となった。オープニングではロックンロールの創始者であるリトル・リチャードが"美しきアメリカ"を独唱。セミファイナルはインターコンチネンタル王座であるショーン・マイケルズ対レイザー・ラモンは今なお語り継がれる伝説的な名勝負となり、プロレスリング・イラストレーテッドやレスリング・オブザーバーのプロレス両紙においても1994年の年間最高試合に選出されている。 また、この試合でショーン・マイケルズは業界内での評価を上げ、後の世界王座獲得のプッシュにも繋がったといわれている。この日はWWE世界戦が2度行われ、ヨコズナは、vsレックス・ルガー、vsブレット・ハートとダブルヘッダーを務める事になる。第7試合のヨコズナvsレックス・ルガーはヨコズナが辛うじて辛勝するもメインイベントは前年に続いてヨコズナ対ブレット・ハートのWWE王座戦となりレッスルマニアメイン戦において同じカードがメインを2度飾るのは史上初、2年連続としては唯一の記録である。最後はヨコズナのバンザイドロップを誤爆させ、ブレット・ハートがサソリ固めで勝利し新世代到来を完全にした戦いであった。IRIS 人感センサー付セラミックヒーター ホワイト JCH122TW 暖房用品 4905009986392
2017.10.26
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「週刊プロレス」「ゴング」などプロレス誌で取り上げられた米国の外国人レスラーがファンの間で評判となり、いつしか日本で見たいと希望や夢を持つようになった。その、ファンの夢を叶えるべく全日本プロレスのジャイアント馬場、新日本プロレスから新間寿がプロモーターとしての手腕を発揮。「まだ見ぬ強豪レスラー」の招へいに成功した。その第一歩と言われたのが南海に黒豹と呼ばれたリッキー・スティムボートであり、1980年の世界最強タッグ決定リーグ戦で初来日。同年にはオースチン・アイドルも初来日し、新日本はハルク・ホーガン、ポール・オーンドーフがWWEルートより、待望の初来日を果たす。しかし、全日本、新日本によるレスラー引き抜き合戦に突入し「まだ見ぬ強豪レスラー」の招へいは一旦中断となる。引き抜き合戦が落ち着くと、エリック王国であるテキサス州のWCCWと全日本の交流が盛んとなり、全日本は「まだ見ぬ強豪レスラー」ブームに突入する。1983年にケリー・フォン・エリック、テリー・ゴディ、NWAミズーリ地区からマニー・フェルナンデス、ハーキュリーズ・ヘルナンデスらが来日。1983年にはマイケル・ヘイズが待望の初来日を果たしゴディとのコンビでファビュラス・フリーバーズとしてアメリカンプロレスを全日本に輸入する形となりNWAテネシー地区からトミー・リッチ、NWAフロリダ地区バリー・ウインダムそしてメキシコからリスマルクも待望の初来日を果たし初来日選手に対するコールが起こった。新日本は負けじと、WWEルートから1982年にアドリアン・アドニス、1983年にオットー・ワンツを初来日させている。1985年にはAWAより「暴走戦士」ザ・ロードウォリアーズが初来日3分39秒という短時間で勝利し衝撃的なデビューを飾り、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章らを相手に激闘を展開。1986年にはNWA世界タッグ王者のザ・ラシアンズ、1988年にロックンロール・エクスプレスの初来日が実現した。そして、19990年の日米レスリングサミットでは、ランディ・サベージ、アルティメット・ウォリアーが初来日。1991年にはリック・ルードが初来日しシングルマッチでは田上明からフォール勝ちを収めている。2005年にはWWEよりババ・レイ&ディーボンの「チーム3D」が久々に「まだ見ぬ強豪レスラー」として初来日する。しかし、実現できなかった「まだ見ぬ強豪レスラー」がおり、次期NWA世界ヘビー級王者の有力候補といわれNWAミッドアトランティック地区で活躍していたマグナムTAが1986年10月に交通事故に見舞われ、引退を余儀なくされ、全日本への初来日が断たれてしまった。【メール便送料無料】 5.6oz プリントポケット Tシャツ 半袖|欧州サッカー強豪国のナショナルフラッグ(国旗)|XS~XLサイズ、メンズ・レディース、お揃い・ペアルック◎|グレイシャス グラウンド|【auktn】
2017.10.19
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タイガーマスクとして世界中から人気を得た三沢光晴ザ・グレート・ムタとして世界一有名になった武藤敬司境遇が似ているこの二人に転機が訪れる。1990年、天龍源一郎を中心に複数のレスラーが全日本プロレスを退団し、黄金カードを失う事になった全日本に三沢は試合中にタイガーマスクのマスクを脱ぎ、三沢光晴に戻ると同時にポスト天龍に名乗りを挙げた。三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成し全日の強さの象徴だったジャンボ鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。方や武藤敬司は1990年4月に凱旋帰国し、同時に赤、オレンジ色のショートタイツにコスチュームを変え、やがて人気・実力ともに絶頂期を迎える。長州力、前田日明ら当時の主力レスラーが集団離脱し新日本プロレス所属のレスラーが減少した際に武藤敬司は蝶野正洋、橋本真也と共同し闘魂三銃士を結成。藤波辰爾、長州力、木村健悟、越中詩郎と激戦を繰り広げ、1991年にはG1 CLIMAXで武藤は準優勝を成し遂げ、三銃士時代の到来となる。そして、三沢光晴は超世代軍から川田が離脱した事で区切りを迎えそれ以降は小橋・川田・田上明と共にプロレス四天王の一人として全日本プロレスの中心を担った。三沢は1992年から1999年にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得し、21度防衛を樹立。この頃の全日本は凶器攻撃、リングアウト、反則、ギブアップによる決着のない、3カウントによってのみ決着するプロレスを展開し大技を連発するプロレスは四天王プロレスと呼ばれた。中でも三沢は小橋健太と名勝負を繰り広げ「極限の力を見せることができる」戦いとして、両者の試合の激しさは両者が死の恐怖を感じるほどでありプロレス大賞「年間最高試合賞」を3度も受賞している。一方の武藤敬司は1995年、福岡ドームで橋本真也を破って第17代IWGPヘビー級王者となり、8月15日には同じく橋本真也を破り、IWGP王者としては初となるG1 CLIMAX優勝者となった。更に、10月9日東京ドームでのUWFインターとの全面戦で高田延彦と戦い、ドラゴンスクリューからの足4の字固めという古典的な技を復活させて勝利を収めた。1997年2月、蝶野正洋率いるnWo JAPANからTシャツを渡されWCWでのアメリカ遠征で正式にnWoに加入。1998年7月、膝の手術から復帰した後、ナチュラル・ボーン・マスター(生まれながらの天才)と呼ばれるようになり、IWGPヘビー級王座を1年間君臨した評価が認められ、プロレス大賞MVPに選ばれている。忘新年会にピッタリ!!本日のMVP(宴会)バラエティ 飲み会 Tシャツ おもしろtシャツ 誕生日プレゼント 女性 男性 女友達 おもしろ Tシャツ プレゼント ギフト GIFTEE
2017.10.12
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平成版・馬場と猪木と評された永遠のライバル・秋山と大森大森はノア退団後、新団体WJプロレスへの参戦を明らかにし天龍源一郎、長州力の二巨頭からシングルでピンフォールを奪う実績を作った。越中とのコンビでZERO-ONEに乗り込み、大谷晋二郎&田中将斗と対戦。NWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取する。ZERO1-MAXの旗揚げには所属選手として参加し、旗揚げ戦ではジャンボ鶴田とマサ斎藤に次ぐ日本人3人目のAWA世界ヘビー級王座を獲得した。また、全日本プロレスに移籍した武藤敬司とも2度戦い1戦目はゼロワンマット、2戦目は古巣・全日本へ復帰しチャンピオン・カーニバルで対戦している。そして、新日本マットに参戦し、中西学と越境タッグで蝶野&天山組を破り、第49代IWGPタッグ王者となる。これにより、大森は史上初の4大タッグ(世界タッグ・IWGPタッグ・GHCタッグ・NWAタッグ)制覇を達成。一方の秋山はグローバル・ハードコア・クラウンベルトを創設し2005年10月にはWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005に出場、2回戦でボブ・サップとの対戦が実現するが敗れる。GHCヘビー級選手権者・田上明を下し、3年9か月ぶりにGHCヘビー級選手権者へ返り咲いた。2009年には佐々木健介が保持していたGHCヘビー級王座に挑戦し、3度目の王座に返り咲いたそして、2011年8月27日に行われたALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレスに出場。大森は高山善廣とタッグを組みノーフィアーの再結成し対戦相手の秋山準と再会し、注目を集めた。秋山は2011年・春にチャンピオン・カーニバルに出場し11年ぶりの全日本の登場となり、全日本両国大会では諏訪魔を破り、全日本時代には獲得できなかった三冠ヘビー級王者となる。三冠ベルトは太陽ケア、大森隆男、武藤敬司ら全日本の挑戦者を退け、これで秋山は三沢、武藤越えを果たす。大森は2012年1月2日後楽園ホール大会にて観客ジャッジを行い、90%以上の支持率を集め入団に合格し、正式再入団する事が発表された。しかし、2013年、武藤らの脱退に伴う全日本プロレスの分裂に際し、大森は残留を表明し、秋山も小橋からバーニングを託されそのまま、全日本プロレスに正式入団を発表する。ここで、秋山、大森の運命の再コンビが復活する。2014年、秋山は代表取締役社長に就任しチャンピオン・カーニバルの優勝決定戦においては長年のライバルである大森と対戦。激闘の末、大森がスライディング式アックスボンバーで勝利。悲願のチャンピオンカーニバル初優勝を成し遂げ、更に6月15日に曙の王座返上によって行われた三冠ヘビー級王座決定戦で、秋山準を破り王座戴冠を果たした。大森は秋山と組んで諏訪魔、ジョー・ドーリング組の持つ世界タッグ王座に挑戦し、ドーリングを破り王座を奪取、これで三冠ヘビー級王座と合わせて五冠王となった。【数量限定】SR全日本プロレス ファンが選んだ人気レスラー+J馬場 /全7種セット
2017.09.28
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全日本プロレスのチャンピオンカーニバル戦日本プロレスのG1クライマックスNOAHのグローバル・リーグ戦と日本マット界ではシングルマッチによるリーグ戦が行われその創始者は日本マット界の祖・力道山であり、その原点となったのが、ワールドリーグ戦である。米国のWWEはアメリカ版ワールドリーグ戦を開催すべくWWEプロレストーナメントを1985年に開催した。それが「キング・オブ・ザ・リング」である。こちらはワンナイト・トーナメント方式で開催され1993年からPPV化、WWEの5大PPVの一つに数えられていた。第1回~第5回大会までは通常のテレビ中継で行われドン・ムラコ、ハーリー・レイス、ランディ・サベージ、テッド・デビアス、ティト・サンタナが優勝している。第6回にあたる今大会は1993年にオハイオ州で開催されブレット・ハート、レイザー・ラモン、カート・ヘニング、ミスター・ヒューズ、バンバン・ビガロ、ジム・ドゥガン、タタンカ、レックス・ルガーとセミ&メインクラスが参加。ハートvsヘニングといったシューティングスタイルの技巧派対決も実現し、これを機にレックス・ルガーがヒールから正統派に転向した。最終決戦はブレット・ハートvsバンバン・ビガロで元WWE世界王者の風格で、ブレット・ハートが優勝した。そして、WWE王座戦は王者・ハルク・ホーガンに全王者のヨコズナが対戦するリターンマッチ。試合はホーガンが優勢であったが、途中で謎のカメラマンが乱入しホーガン相手に火炎攻撃を加え、劣勢となったホーガンにヨコズナが逆転フォール勝ちを収め、ヨコズナが第27代WWE世界王者に君臨。これを最後にホーガン政権は幕を閉じ、WWEを去る事になる。これは、ライバル団体・WCWと提携していた新日本プロレスに現役WWE王者だったホーガンが契約を交わした為、WWEが見切りをつけた感じになっている。アメリカ ブリキ看板 ホットロッドガレージのスパナ型看板 U.S.ヘヴィースチールサイン ■ サインプレート ブリキ アメリカ看板 ティンサイン サインボード アメリカンブリキ看板 アメリカ雑貨 アメリカン雑貨
2017.09.14
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風雲昇り龍・天龍源一郎引退師匠・ジャイアント馬場より指導を受け全日本プロレスで王道イズムを学び、SWS、新日本プロレス、WAR、ノア、WJプロレス、ハッスルと戦場を駆け巡りジャンボ鶴田、長州力、藤波辰爾らと名勝負を繰り広げ、大仁田厚との電流爆破デスマッチ、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。2015年2月9日、記者会見を開き「2015年11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」事を表明。引退の理由として「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思い、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている。また「幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。ジャイアント馬場さんに感謝している」と語った。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて「天龍源一郎 引退~Revolution FINALTOUR」と題した引退カウントダウン大会を行っていく事も明らかにしている。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行する事を発表。天龍は「国技館で初土俵を踏み、最後は国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った。引退試合の相手に指名したのはオカダ・カズチカ。両国国技館は超満員御礼止めとなり、開場前からファンの熱気は最高潮に達し、グッズ売り場は最後まで人であふれかえった。試合は天龍チョップ、グーパンチ、サッカーボールキックなど得意技を何度も繰り出したが、17分27秒、オカダの必殺レインメーカーの前に敗れた。オカダは天龍の生き様に触れ熱くなったのか、試合後に最敬礼で応えた。試合後は「いやぁ~負けたぁ!」と絶叫。引退セレモニーでは激闘を繰り広げたスタン・ハンセン、テリー・ファンクが来場。最後はIWGP王者のオカダに敗れたものの「今となっては全てが思い出です」とか天龍らしい晴れやかな最後を飾った。[DVD] 天龍源一郎 引退—2015.11.15両国国技館 革命終焉—
2017.08.31
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会社愛を貫いた王道の伝道師それが赤鬼・渕正信である。1974年、ジャイアント馬場に憧れ全日本プロレスに入門。入門わずか12日で大仁田厚戦でデビューし当時は大仁田とハル薗田と共に若手三羽烏の一人として頭角をあらわしていった。1980年に海外武者修行に出発、マサ・フチのリングネームで大仁田とのコンビでAWA南部タッグ王座を獲得。全日本プロレスのレスラーには珍しく、カール・ゴッチより指導を受けている。1983年にはチャボ・ゲレロの持つインター・ジュニア王座に挑戦を果たした後に凱旋帰国し、日本で8月31日に再度挑戦するも王座奪取ならず。1987年に小林邦昭から世界ジュニアヘビー級王座を初奪取、以降5度同王座を獲得し、全日ジュニアの地位を確立する。三沢光晴率いる超世代軍とジャンボ鶴田率いる鶴田軍との抗争では鶴田軍について戦う他、永源遙や大熊元司らと共に悪役商会の一員としてジャイアント馬場、ラッシャー木村らのファミリー軍団と抗争を繰り広げるなど、名バイプレイヤーとして分裂前の全日本を支えた。結婚経験がなく、週刊ゴングや週刊プロレスの読者コーナーに度々渕独身ネタが投稿され、ラッシャー木村からネタにされた事も多い。2000年に起こった大量離脱騒動で、中堅レスラーとして活躍していた渕はトップを張り新日本プロレスG1 CLIMAX大会において、渕はスーツ姿でリングに上がり「30年の長い間、全日本と新日本との間には、厚い壁がありました。今日、その壁をぶち破りに来ました。」と歴史に残るマイクアピールを行いった。その後、全日本に武藤敬司、小島聡らが移籍し、徐々に所属選手も増え団体として活気を徐々に取り戻してくると、再び中堅ベテランレスラーとしてガッチリ脇を固める。体力的な衰えは隠せず、菊タロー、荒谷と共にお笑いスタイルの第一試合で興行を暖める役に徹した。渕は和田京平レフェリーと共に、団体生え抜きの人物として全日本プロレスの看板を守り通す重鎮でもあったが、2009年より同社取締役を辞任し、フリーランスの立場で全日本プロレスに参戦。他団体からオファーも来ていたが、他団体には出場せず、全日本プロレスの興行にのみ出場している。「全日本プロレスが消滅したら、引退する」と公言もしているほど全日本愛は誰にも負けない。社長のおすすめセット 忽那醸造株式会社 愛媛県 高縄山系の豊かな水で仕込んだ老舗醸造所の味わい深い調味料セット
2017.08.17
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米国・WWEが1993年4月4日に開催した年間最大の興行「レッスルマニア9」は商業化、会社組織化を図った、お役所勤めの様なビンズ・マクマホン.jrとの確執から戦線を離脱したハルク・ホーガンの復帰戦となった曰くつきの大会である。開催地はラスベガスのシーザーズ・パレスでレッスルマニア初の屋外会場での開催となった。本大会はブレット・ハートとハルク・ホーガンを中心とした2つのストーリーを中心に構築され、まず、長期間リングから遠ざかっていたハルク・ホーガンの復帰戦がタッグマッチで実現し、対戦相手はWWEで長年ホーガンのライバルとして君臨しお互い手の内を知るテッド・デビアスが務め、WWEタッグ王座戦としてテッド・デビアス&マイク・ロトンドvsハルク・ホーガン&ブルータス・ビーフケーキのザ・メガマニアックスという、日本のプロレスファンが必見とした試合が行われた。そして、WWEタッグ王者、インターコンチネンタル王者と順調にサクセスストーリーを進み、遂にはリック・フレアーを破ってWWE王者になった米国の超世代戦士、ブレット・ハートに対し、ロイヤルランブルを圧倒的パワーで制したヨコヅナが挑戦するという一戦。ヨコズナはWWEデビューから約5ヶ月でレッスルマニアのメイン戦出場と、史上最速の記録達成であり、このまま、ヨコズナは勝利し、第25代・WWE世界王者となった。そのわずか数分後に乱入したハルク・ホーガンと即席タイトルマッチが決定し、ホーガンに敗れてベルトを失う。よって、ハルク・ホーガンが第26代・WWE世界王者になる。しかし、この時期、日本ではジャンボ鶴田、藤波辰巳、長州力の「俺たち世代」が三沢光晴、武藤敬司らの次世代戦士に追われ新しい時代を進めて行く中、WWEも日本の「俺たち世代」に慨するハルク・ホーガンとビンス・マクマホンとの仲に亀裂が生じていた為、ホーガンは1980年代からの政権期においては、これが最後のレッスルマニア出場となった。1枚ならメール便対応 2枚以上で宅配便対応Tシャツ / HULKMANIA GY ハルクマニア GY【メンズM】 ハルクホーガン メンズM USサイズ【 20P05Nov16 】
2017.08.03
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1990年代、「全日本プロレス中継」内にてプロレスニュースたるコーナーを設け次期シリーズ予告、マット界の近況など公開した。そんな中で福澤朗は、外国人レスラー宝庫である全日本プロレスに期待されている初来日のレスラーで話題だけが先行しているせいか、技、ストロング、ラフファイトにまったく強くなく何もできない3流レスラー相手にダメ出しをした一言が「とんだ一杯、食わせ者レスラー」である。この「とんだ一杯、食わせ者レスラー」の歴史を紐解けば1971年、WWEを戦場としていたギリシャ出身のスパイロス・アリオンがシリーズのエース格として期待され、日本プロレスに初来日し、シングルではジャイアント馬場のインターナショナル・ヘビー級王座に、タッグではマスカラスと組んで馬場&猪木のインターナショナル・タッグ王座に挑戦したものの、低調な試合ぶりで評判倒れとなった。次に、アブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本に引き抜かれ1981年7月17日にキラー・トーア・カマタの弟子という触れ込みで全日本に来日したグレート・マーシャルボーグは「全米マーシャル・アーツ王者だったが、対戦相手を死亡させマーシャル・アーツ界を追われた」というアングルで登場したが、プロレス史上でも一・二を争う「食わせ物選手」として名を残している。そして、1987年6月9日にジャイアント馬場と日本武道館にて異種格闘技戦に挑んだパキスタン出身の空手家ラジャ・ライオンが来日し、2R腕挫十字固めで呆気なく敗北。1990年の世界最強タッグ決定リーグ戦に来日したランド・オブ・ジャイアンツは公式戦にて馬場&アンドレ・ザ・ジャイアントと対戦し馬場が一番背が低いタッグマッチ(ランド・オブ・ジャイアンツは両者とも213cm)という珍現象が起こっている。しかし、丸め込まれると弱く、ファンクス戦ではスモールパッケージで、いとも簡単に負けてしまい馬場との対決も、呆気なく試合は終了している。【送料無料】ナールナッド ちょい炊き炊飯器III(1.5合) NM-9398(メーカー直送)
2017.07.20
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スポーツ社会は比較対象者が必ず存在する。プロレスマット界にも、それは存在した。全日本プロレスの三沢光晴と新日本プロレスの武藤敬司である。ふたりは全日本新日本と別の団体だったが同じような境遇、同じようなスタイル、同じような階段の昇り方で出世している。三沢光晴は高校卒業後の1981年、全日に入団。三沢は受け身を覚えるのが早く、またたく間に先輩レスラー達と同じレベルに達し、入門から5か月で史上最速デビューを飾った。1984年、三沢はメキシコへ遠征に出た。武藤敬司は紹介される形で1984年、21歳で新日本プロレスに入門する。鬼コーチである山本小鉄に逸材と見込まれ厳しい練習を何とか乗り越え、入門から6か月でデビューを飾った。1985年、米フロリダ地区に海外遠征に出発した。一方の三沢は1984年、馬場に帰国するよう命じられ、三沢は2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年に小林邦昭を破ってインタージュニア王座を獲得。同年10月にヘビー級に転向し、1986年にはアメリカに遠征し、NWAがニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント「Crockett Cup」に御大のジャイアント馬場と組んで参戦。翌20日にはAWAの「WrestleRock 86」に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収め、1988年には後楽園ホールにてカート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。1990年、WWE主催の「日米レスリングサミット」に参戦し三沢は米国3大メジャーのマットに上がる快挙を成す。かたや、武藤敬司は帰国後、スペース・ローンウルフで売り出され宇宙飛行士のヘルメットをかぶり、リングに入場する際はロープ間を跨ぐようなことはせず、鉄棒の前転をするような形でトップロープ上を宙返りしリングインする派手なパフォーマンスをしていた。早い時期から藤波辰巳とのシングルマッチを実現するなど特別な扱いを受けていた。1988年、二度目の海外遠征に出発。カルロス・コロンが主宰するプエルトリコのWWCではベビーフェイスのスーパー・ブラック・ニンジャとして活動し、ミゲル・ペレス・ジュニアからプエルトリコ・ヘビー級王座を奪取。WWCを離れフリッツ・フォン・エリックが主宰するダラスのWCCWに活動拠点を移す。そこでの活躍で、NWA(後のWCW)へスカウトされ、ギミック上はザ・グレート・カブキの息子という設定のグレート・ムタとして、ヒールのポジションで登場。当時のアメリカでの悪役人気は絶大で、スティングやリック・フレアーとの対決で活躍し米マットで大出世した。srv4799 三沢光晴 五冠王への軌跡 VOL.1 伝説の虎 1984.8.26〜1989.3.9【VHS】【中古】【ビデオです】
2017.07.06
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WWE冬の祭典「ロイヤルランブル'93」は次期世界王座挑戦権を掛けたバトルロイヤルとなった。インターコンチネンタル王座戦ではショーン・マイケルズvsマーティ・ジャネッティの元ザ・ロッカーズ同士の因縁の対決でWWE王座戦ではブレット・ハートvsレイザー・ラモンの新世代対決が実現した。そして、メインイベントのロイヤルランブル戦ではWWE所属選手だけでなく、世界の団体に呼び掛け史上最大の他団体対抗戦を図った。しかし、この呼びかけに答えたのはUSWAのジェリー・ローラー、WWCのカルロス・コロン、WARの天龍源一郎の3団体のみであった。WWEは全日本にもオファーを掛けていたがこの頃、ジャイアント馬場が鎖国制度を取っていた為実現は不可能となった。参加選手はリック・フレアー、ジ・アンダーテイカー、ボブ・バックランド、ランディ・サベージの元・WWE王者ティト・サンタナ、ミスター・パーフェクトの元・インターコンチネンタル王者テッド・デビアス、アーウィン・R・シャイスター、リック・マーテル、ブライアン・ノッブス、リポマン、ジェリー・サッグス、タイフーン、ジョン・テンタの元・WWE世界タッグ王者天龍源一郎、ジェリー・ローラー、カルロス・コロンの他団体からの大物レスラー参戦オーエン・ハート、スキナーの元・世界ジュニア王者その他にパパ・シャンゴ、バージル、マックス・ムーン、ココ・B・ウェア、サムゥ、ザ・バーザーカー、テリー・テイラー、タタンカ、ファトゥ、ヨコズナなど多彩な顔ぶれとなり、またインディ団体・IWFから移籍したダミアン・デメントも参戦し話題を呼んだ。試合は1時間以上におよび、結果はヨコズナが優勝し次回、レッスルマニア9のWWE世界王座に挑戦が決まった。◆◆天龍源一郎 引退記念特別号 上巻 / ベースボール・マガジン社
2017.06.22
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全日本プロレス3度目の崩壊危機。1度目の天龍らの大量離脱の時は三沢光晴、川田利明ら若手が奮起し超世代軍誕生と共に新たなるファンを確立しその危機を乗り越えた。2度目は三沢光晴ら大量選手離脱の時はバックアップとなっていた日本テレビに去られるも外人レスラー勢らが奮起し、天龍の復帰、更には新日本との連携で危機を乗り越えた。そして3度目は・・・2013年7月5日、全日本プロレスは新体制を発表してバーニングの5人を所属選手(秋山準と金丸義信は復帰)としてレフェリーの和田が名誉レフェリーという形で復帰した。秋山全日本は馬場からの継承をモットーとしており10月のサーキット名をジャイアントシリーズに戻し三冠タイトルの所有者であった馬場元子に変換し再び、馬場元子との接点を持つようになる。そして新たなる三冠王座のベルトは中央部分にPWFヘビー級王座、その左右にインターナショナルヘビー級王座、UNヘビー級王座のバックルのプレートが配置され、ベルト後部には初代三冠ヘビー級王座であるジャンボ鶴田の名前が刻印されている。そして、若手選手の育成に力を尽くし宮原健斗という20代前半のレスラーが三冠王者になっている。現在、若手スターがいるのにも拘らず新しいファンが定着せず、大会場でのイベントも行えず観客はガラガラとなってしまっている。今ではDDT、大日本とインディ団体に負けてしまいかつての全日本とは思えない経営となってしまっているがレスリングファイトは王道そのもので、大仁田厚の禁断の全日本復帰など話題は沸騰している。本来の全日本を取り戻す最後の切り札、秋山準の活躍が、楽しみである。【入手困難品】SR全日本プロレス リアルフィギュアコレクション パート3 全6種セット【ジャイアント馬場/天龍源一郎/川田利明/渕正信/太陽ケア/スティーブ・ウィリアムス】
2017.06.08
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全日本、新日本に次ぐ、あつて存在した第3のメジャー団体・国際プロレス。全日本がNWA、新日本がWWEと海外団体と業務提携を行っていた中、国際プロレスは日本プロレス界と縁の薄かったヨーロッパのマット界と米国のメジャー団体であったAWAと業務提携した。その結果、国際プロレスは特殊な外国人レスラーを日本に招く事に成功している。イギリスからは、ビル・ロビンソン、西ドイツのホースト・ホフマン、フランスのアンドレ・ザ・ジャイアント、スイスのジャック・デ・ラサルテスなど多くの強豪レスラーが、国際プロレスで初来日を果たした。そしてAWAからは世界ヘビー級王者のバーン・ガニア、ニック・ボックウィンクルが来日し、中でもAWAの悪役レスラーが大量に来日し、マッドドッグ・バション、バロン・フォン・ラシク、オックス・ベイカー、イワン・コロフ、キラー・トーア・カマタ、ジプシー・ジョー、モンゴリアン・ストンパー、アレックス・スミルノフなど怪奇派レスラーが集結した。中でも金網デスマッチを得意としたマッドドッグ・バション、ジプシー・ジョーはラッシャー木村のライバルでありチェーンデスマッチのオックス・ベイカーなど国際プロレスで名勝負を繰り広げていた。竹内宏介監修「伝説の国際プロレス」1969-1974DVD BOX 初回限定版 [DVD]
2017.05.25
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