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今日で1月も終わり。早い。アッという間に一年が過ぎていく。屋久島もまた寒くなった。日本全国寒くなったようだ。山は雪が降っているだろう。2月を迎えるにあたって、かなり気合いが入っている。2月は食事の量を通常の三分の二にする。三日で三合炊いていた玄米を二合にする。3月になれば一合になる。2月はそれを完璧にキープする。もう甘えは許されないのだ。思考は必要以上に動く。しかもネガティブに動く。ほぼ自動的に。それは恐怖に支配されているということだ。潜在意識下の恐怖に突き動かされ、思考は自動的にネガティブに動く。つまり、そこには真の意味での自由は存在しない。人は潜在的に恐怖に縛られているのだ。人を突き動かしている大きなファクターは、恐怖である。恐怖があるが故に、人は安定を求める。身の安全を欲する。人の一生は、ある意味、恐怖に突き動かされる一生と言っても過言ではない。それほど恐怖の人生に占める割合は大きい。この恐怖の問題を根本的に解決しない限り、人は真の意味で自由ではないのだ。死の恐怖に始まって、プライドを傷つけられる恐怖、経済的に行き詰まる恐怖、失敗する恐怖、周りからバカにされる恐怖、仲間外れにされる恐怖・・・数え上げたらきりがない。様々な恐怖をつくりあげているものは何だろう?もちろん、記憶をベースとした思考に他ならない。過去の恐怖体験を元に、あれこれ考えるから、恐怖が増幅されるのである。そして、恐怖が増幅されればされるほど、心身はフリーズしてしまう。身動きがつかなくなる。自由は奪われる。健全な思慮は働かなくなる。恐怖が増す時、人はなぜフリーズするのか?それは恐怖の本質と深く関わる。恐怖とは、元々危険を察知する能力ではないだろうか。だから、察知した時点で、すべてを一時的にストップさせる。それ以上動いたら危ないのだ。そういう意味では、フリーズは正しい。しかし、いつまでも凍りついたままでは、かえって危険である。冷静に次の行動に移る必要がある。つまり、危険をキャッチしたならば、冷静に行動する必要があるのだ。それがすべての要点だ。いろいろ恐怖のシュミレーションをするのもいい。しかし、それだけで終わってはいけない。恐怖に負けないで、冷静に行動しなければならないのだ。恐怖に押しつぶされてはならない。ネガティブ思考のままではいけないのだ。危険性を踏まえて、冷静に判断しなければならないのだ。恐怖のドツボにはまってはいけない。ネガティブ思考の渦に飲み込まれてはいけない。最後まで冷静でなければならないのだ。思考に使われてはいけない。思考の奴隷になってはいけない。思考は使うもの。使う主体性を確立する必要があるのだ。恐怖やネガティブ思考に飲み込まれそうになったら、どうしたらいいか?「幽霊の正体見たり枯れ尾花」恐怖は必要以上に思い巡らすことによって生じる。事実ではなく、幻想によって生まれるのだ。恐怖の実体はない。恐怖の実体は幻想である。自分がつくり出した仮想のものを恐れているのである。事実ではない。そこに答えがある。恐怖やネガティブ思考に飲み込まれそうになったら、事実を見ることだ。事実に基づいて生きることである。幻想をベースに生きないこと。事実の基に生きること。事実をよく直視すれば、単なる枯れた花に過ぎない。しかし、暗いところで、あれこれ想像すれば、それが幽霊に思えてしまう。昼間ならば、絶対に恐れることはあり得ないのに、暗い故に不必要な想像をしてしまうのだ。事実に基づかない想像である。その想像が恐怖をもたらす。つまり、幻想を恐れているだけである。だから、事実に基づいて生きることなのだ。恐怖のシュミレーションは、まだ許される。しかし、それに飲み込まれて自分を見失ってはならない。あくまでも冷静に、次の行動を取る必要があるのだ。自分がややもすると恐怖に駆られ、ネガティブ思考に走り、そのまま恐怖の海の中で溺れてしまう傾向があることを、よーく自覚しておいた方がいいだろう。そして、もしそのような状況になったら、あくまでも冷静に、しっかりと踏みとどまらなければならない。恐怖に押し流されてはいけないのだ。これまでの条件づけのままに流されていたら、いつまでたっても同じことの繰り返しだ。踏みとどまって、冷静に行動するしかない。それが新しい生き方だ。これまでとは違う生き方なのだ。もう新しい自由な生き方をしてもいい時期だ。恐怖から解放されてもいい時期なのだ。
2005.01.31
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明日から、また寒くなるようだ。でも、隣のおじさんは「三寒四温だからね」とのこと。もう春が近いということ?屋久島は、さすがに早いね。ここのところ、また食料のもらい物が増え、今日はとうとうお呼ばれに行くことに。美味しい御馳走を食べてきた。ハー、これでよいのか?まあ、1月いっぱいはいいか。2月からは真面目にやろうね。ポジティブという言葉にも二種類の意味がある。一つは相対的なポジティブ。もう一つは絶対的なポジティブ。人は常に前向きに生きるしかない。過去の教訓を生かして、前を向いて生きるしかないのだ。それは絶対的なポジティブ。他に選択肢はない。それが本来の生きる道だ。だから、絶対的なポジティブ。人の生き方としての道。もう一つの相対的なポジティブは、功利的なポジティブ。便宜的というか、自分に都合がいいから、自分にとってプラスになるから、ポジティブに考える。もしネガティブに考えた方が自分にとって得であれば、きっとそうするであろう日和見主義的なポジティブ。あなたにとって得だから、リッチになれるし欲望は何でもかなうから、ポジティブに考えましょう、というポジティブシンキング。それはネガティブに考えると、自分にとって不利になるから、ポジティブに考えましょうという、極めて功利的な考え方。自己中心的というか、自分の利益を第一に考えた生き方。それはネガティブあってのポジティブ。ネガティブではだめだから、ポジティブに考えましょうという相対的なポジティブ。そういう意味でのポジティブシンキングには、かなり無理がある。自分にとっては悲劇としか思えない現実を、無理してポジティブに考える必要がある。ポジティブに考えることによって自分の未来がバラ色になるならと、ギブ・アンド・テイクみたいな、取引関係のポジティブ。それは本当の意味でのポジティブではない。絶対的なポジティブではない。揺れ動くポジティブ。「これでいいのだろうか」「本当にこれで大丈夫だろうか」常に不安がつきまとう。故に、なかなか真のポジティブになりきれない。常に疑問を伴い、完全なポジティブにはほど遠い。それ故、思ったような結果が出ない。一抹の疑念でもあれば、想いは現実化しない。逆に、疑念の方が強ければ、疑念の方が現実化してしまう。これがポジティブシンキングの陥りやすい落とし穴。多くの人がここのところで行き詰まってしまう。ポジティブシンキングで成功する人は少ない。最後まで全うできないのだ。途中で疑念の方が大きく心を占めてしまう。それではネガティブシンキングだ。相対的なポジティブシンキングは、その裏にネガティブシンキングを隠し持っている。ポジティブとネガティブは表裏一体なのだ。一歩間違えば、すぐにネガティブにひっくり返るのが相対的なポジティブである。相対的なポジティブは、ネガティブの否定の上に成り立っている以上、常にネガティブをはらんでいるのだ。つまり、ネガティブあってのポジティブなのだ。ポジティブだけでは存在できないのだ。それが相対的なポジティブシンキングの限界である。ある時はポジティブであり、別の時はネガティブに反転する。相対的なポジティブの宿命である。一方、絶対的なポジティブというのも存在する。それはネガティブを前提としないポジティブである。故に、絶対的なポジティブなのだ。不動のポジティブ。揺らぐことのないポジティブ。ネガティブに反転することのないポジティブ。それは理解から生まれる。人生の理解から生まれる。深い人生の洞察から生まれるのだ。前向きに生きるしかない。他に選択の余地はない。それが真に理解された時、人は絶対的なポジティブになる。後退はない。前進あるのみ。それが人生だ。前を向いて生きるしかない。後退はあり得ない。無限の未来に向かって進むのみ。実際は、前も後ろもない。ただ、今を生きるのみ。生きる姿勢なのだ。真剣に生きることだ。前とか後ろというのは喩え。生きる姿勢だ。エネルギーのほとばしりだ。萎縮していないということ。静かに活性化しているということ。絶対的なポジティブ。消えることのない炎。煌めき続ける光。
2005.01.30
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昨夜は日記を書こうと思ったら、12時を過ぎてしまった。ので、書くのをやめたのです。夜の12時までしか、その日の日記は書けないみたいだから。ただそれだけの理由で、特に変わったことが起きたわけではありません。今日はHPのカウンターが異常に多いので、きっと心配されて「屋久島ナチュラルヒーリング」の方まで訪ねられた方が多かったのでしょう。まだまだ食事の量はさほど減っていませんので、まったく普段と変わりません。2月いっぱいは、まあまあの食事の量なので、ご心配はご無用でしょう。3月もわずかとはいえ、まだ食べているので大丈夫でしょう。4月以降がどうなるでしょうね。本当の勝負でしょう。1月はかなりだれてしまった感じなので、2月からはもう一度気を引き締めて頑張ろうと思っています。まあ、いろいろ波がありながらも、無色透明に向かって徐々に進んでいます。特に精神の方はかなり変わった気がします。肉体の方はまだまだという感じですが、精神の方はスタートした1月2日に比べると、かなり変化していると思います。とても精神が安定しています。元々精神不安定な方ではありませんが、それでも更に安定し、落ち着いてきています。クリアー度も更に深まっています。但し、最近、少し甘いものが入ったので、多少鈍っていますが。砂糖が入ると、てきめんにクリアーさが落ちます。これは肉体条件が精神状態にかなり影響を与えるということですね。やはり肉体の中に入っている以上、肉体も無視できないということです。かなり肉体の状態が精神に影響を及ぼしているようです。だからこそ、無食という肉体面からトライしようとしているわけですけど。無食でも多食でも精神状態に変わりがなければ、無食をやる意味はないでしょう。食事の量、質、肉体のコンディションが、おおいに精神状態に影響を与えます。その実験をしているわけです。甘いものがクリアーさを妨げるというのは事実ですね。頭がボンヤリします。クリアーではなくなる。クリアーでありたかったら、できるだけ砂糖系は避けた方がいいでしょう。まあ、これは正食とか食事療法の世界では常識みたいなことですが。でも、自分ではっきり体験するといいですね。ここのところ、心はとても安定しています。心が安定するポイントというのがあるのです。心の位置というか、意識の中心のある場所によって、心はいろいろ変わります。やはり、安定している時というのは、意識の中心が後ろの方にあります。胸側ではなくて、背中側に。ハートが感動している時は、当然、ハートの中心に意識はありますが、心が安らいでいる時は、全体的に背中側にあるんですね。背骨全体にあるというか、きっちりとハートの中心にもありながら、背中全体にもある。とても安定したポイントがあるんですよ。不動のポイント。心が揺れ動かないポイント。心が静かに満たされているポイント。心が穏やかに波立たないポイントが。それは自分で実際に体感するしかないんですが、そんなに難しいことではありません。心静かに自分の全体であればいい。楽に、ゆったりと、でも、だらしなくではなく、一本芯が入った状態で・・・ここのところ、ずーっと心は安定してる。心は波立っていない。落ち着いている。それが28日目の心境です。
2005.01.29
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屋久島は今日も一日雨だった。今年は本当に雨が多い。晴れたのは数えるくらいだ。まあ、今はシーズン・オフだからいいけど、山のシーズンになったら、ほどほどに晴れてくださいませ。今日は、とびきり冷静だ。そして、理性的。ということは、クリアー。極めてクリアー。何も問題なし。クリアーであれば何も問題なし。問題は自分がつくるもの。客観的な問題など、どこにも存在しない。ある人にとっては問題でも、別の人にとっては問題ではない。問題は、すべて主観的。だから、極めて個人的。つまり、問題だと思うから問題なだけだ。ただ、冷静に対応すればいいだけ。それしかない。冷静に、クリアーに、一つ一つやっていくしかない。落ち着いて、ゆったりとした気分でやれば、問題はない。焦れば、問題のないところにも問題が生まれる。落ち着いて、ゆったりと、冷静に・・・しっかりと自分自身にグランディングして。常に自分自身であること。自分を見失わないこと。そうすれば、何が起きても冷静に対応できる。冷静であれば、解決できない問題はない。たとえ解決できなくても、それは問題ではない。冷静であれば、問題はないのだ。問題そのものが存在しないのだ。問題は心の乱れ。心が乱れたところに問題は生じる。心がクリアーならば、問題そのものが存在しない。クリアーとは、何もないこと。空っぽ。だから、問題も存在しない。何も存在しない。日本晴れのように、果てしなくクリアー。冷静に、落ち着いて、ゆったりと、対応する。それでOK。何も問題はない。日々、白紙であれば、何も問題はない。心がクリアーであれば、何も問題はないのだ。
2005.01.27
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屋久島は、ずっと暖かい。もう真冬の寒さはない。このまま春か?遙か先でもなさそう・・・この日記サイトのアクセス数というのは不思議なんだよ。最高で一日に250ぐらい、最低で100弱なんだけど、こちらのエネルギー状態に比例するんだよ。こちらのエネルギーが落ちてくるとアクセス数も少なくなり、こちらのエネルギーがアップしてくるとアクセス数も増えるんだよ。ホント不思議なんだけど、注意して見ていると本当に正比例しているんだよ。こちらのエネルギー状態を、みんなキャッチしているのかな?まだまだ序の口だから、これからエネルギーが上がってきたら、ものすごい数になる?どうだろう?どこまでエネルギーが上がるかな・・・カルマというのは、よく考えたら、タイムラグなんだね。原因があって、しばらくしてから結果が出る。それがカルマと呼ばれるものだよね。原因・結果の世界。ところが、もし原因の直後に結果が出たら、カルマの働く余地はないよね。ところが幸いなことに、この三次元・物質世界は、すぐには結果が出ないんだね。しばらくしないと結果が見えてこない。だから、カルマが働く余地がある。もっと波動が上がってきたら、原因と結果のタイムラグがより少なくなるだろう。すぐに結果が出るようになる。そうなると、あまりカルマを恐れる必要もなくなるかもね。まあ、基本的な原理がわかっていれば、単なるタイムラグだと思っていれば、それほど恐れることもないけどね。カルマというのは、基本的には、心理的な目に見えないものが、見えるような形に現れてきただけなんだね。よりわかりやすい姿になっただけ。自分でつくったものだよ。自分でつくったものを、自分で確認しているだけ。誰か他の人がつくったものではない。自作自演だ。「みずから播いた種は、みずから刈り取る」それがカルマの法則だ。この世はすべからく自作自演。共同共作といってもいいけど。昔、共同幻想といった人もいたけどね。いずれにしても、自作自演には違いない。だから、何も恐れる必要はないんだね。自分の心の中が現実化しただけだから。自分の心の中をわかりやすく物質化して見ているだけ。なんのことはないよね。自分の姿を自分が見ているだけだ。神様と同じことをしているのだよ。宇宙の元の元の神様、唯一絶対神と同じことをしている。大神様も自分の姿を見ているだけだものね。自分がつくった宇宙を自分で見ている。つまり、自作自演だ。それ以外の何ものでもないよね。私達は大元の神様と同じことをしている。当たり前だ、みんな神の子だから。まったく同じだ。自分の姿を自分で見ているだけ。宇宙絶対神のミニチュア版。何のことはない、すべて自分だ。自分がつくり出す自分の人生なのですよ。自作自演だから、もちろん自分が主人公。だから、好きなドラマを、ダイナミックな活劇を、思いっきり演じるといいよね。何でも可能なんだから。何の制限もない。人殺しだって、戦争だって、許されてる。ありとあらゆることが設定可能。ドラマを盛り上げるためなら、何でも可能なんだよ。無食透明なんてドラマをやろうとしている物好きな人もいる。人それぞれだ。一人一人のドラマ。すばらしいドラマだ。宇宙で一つのドラマだよ。悲しみや喜びや憎しみや感動、愛やロマンスなど、ストーリーはお好みしだい。それぞれの人がそれぞれのドラマを演じている。楽しく、おおらかに演じられるといいね。何でもいいんだ。自分の好きなドラマを演じるといい。思いっきり、悔いのないように。瞬間・瞬間の永遠のドラマ。この宇宙が続く限り、神と一緒に演じるドラマだ。神様もやってること。何も恐れることはない。みんなやってることだ。宇宙全体が一斉にやっているんだよ。この宇宙の始まりから、この宇宙の終わりまで。始まりも終わりもないかな?それとも、あるかな?どうだろうね・・・
2005.01.26
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今日も屋久島は暖かい。もう春が近いのだろうか、とさえ思ってしまう。楽で助かる。でも、数日前に縄文杉の数キロ先で凍死した人が見つかったそうだ。一週間ほど行方不明で警察が捜していた。31歳の東京の人らしい。屋久島は毎年、遭難がある。特に冬場は危ない。雪で道がわかりにくいうえに、天気が崩れたら、まったく方向がわからなくなるのだ。屋久島の山は深い。危なくて、とても山に行く気にはなれない。(本音は、寒くて行く気にならない?)世界中でたくさんの人が毎日、亡くなっている。しかし、同じくらいたくさんの赤ちゃんも生まれている。人が亡くなると悲しみ、人が生まれると喜ぶ。愛別離苦。愛するものと別れる苦しみ。いつまでも愛する人と一緒にいたいんだね。それは人として、よくわかるよね。でも、いつかは別れの時が来る。その苦しみ。一緒にいたい気持ちがあるところに、別れる苦しみがある。瞬間瞬間のものを持続させようとするところに、無理があるんだね。この世は無常。一瞬として変わらざるものなし。最近、よく映画を見る。そうすると、どんなSFものでも、たいてい男女のラブロマンスが秘められている。男女の愛は甘い。それは幸せな気分にさせてくれる。でも、それは依存なのだ。相互依存。だから、別れる苦しみが生じる。家族も同じ。執着すればどんな人であっても同じ。執着というより、愛着だよね。人間としては当たり前の感情かもしれない。しかし、それが苦しみを生む。執着するところに苦しみがある。この世は無常。いかなるものも固定することはできない。つまり、自分の思うようにはならない。いつまでも可愛い息子や娘であってほしい。けれども、やがて子供は自立していく。離れていく。瞬間瞬間のものと思い定めるしかない。それが事実なのだから。今この瞬間を大切に生きるしかないのだ。次の瞬間は何の保証もない。自分が生きている保証さえない。まして愛する人がいつまでもそのままで存在する保証なんて、どこにあるだろうか。ありはしないよね。常に存在は変わっている。変わっていることのみが、変わらないこと。意識は無色透明。即座に無色透明。無色透明であれば、苦しみはない。人としての感情を味わいながらも、苦しみはない。喜怒哀楽を味わいながらも、喜怒哀楽にあらず。喜怒哀楽そのものに成りきって自分を見失わないということ。喜怒哀楽を体験しながらも、体験していることを自覚している。その体験をよーく噛みしめて味わう。人間を味わう。それが人を生きるということ。万感の愛を持って・・・意識は深化している。だから、書くことはたくさんある。でも、今日はこのくらいにしておこう。ちょうどきりがいいから。肉体よりも意識の方が遙かに進んでいる。既に意識は無色透明。肉体は、まだ無食にさえなっていない。ハイ、道は遠いです。しかし、意識のように肉体はなるのです。意識先行、肉体従属。意識が必ず肉体を導きます。
2005.01.25
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屋久島は今日も暖かい日が続いています。ここ数日、気がゆるんでいたけど、また引き締まってきました。意識状態も波があるね。本来の人の意識は、即、無色透明な気がする。生まれたての赤ちゃんのように。今この瞬間、無色透明だ。過去もなく未来もない。今この瞬間は何もない。まさに空みたいな感じだね。意識は空っぽ。空っぽの状態で周りを見渡すと、すべてがとても鮮明なんだね。今瞬間の意識は時間を超えているんだね。常に時間の外にある。本当は今しかないわけだから、時間はないんだよね。実際にあるのは今だけだから。時間の領域は過去か未来だものね。現実領域というのは非時間の領域なんですよ、常に。だって、時計がなければ時間なんてないものね。どこにもありはしない。ただ比較によって、記憶によって時間が生まれるだけだ。だから、この瞬間は常に非時間領域。だから、本当は過去にも影響される必要はないんだよ。本当の本当は、常に、一瞬一瞬、即、自由なんだ。カルマなんてありはしない。本当はないんだよ。本当の意識領域にはカルマはない。カルマがあるのは思考空間かな。時間の領域にあるものだよね。原因・結果の世界。そこは不自由な世界なんだ。因果律に縛られた世界。まあ、三次元・物質宇宙もそうなっているよね。でも、意識の領域はそうではないんだよ。今、即、完全に自由の領域があるんだね。それも、目の前に。ここに。この場に。この瞬間。本来は、人は完全な自由の状態なんだよ。それが、遅い波動領域にフォーカスしているために、いろいろ不自由なんだね。だって、肉体は鍛えたからって、今日・明日には強くならないものね。この次元は時間がかかるんだ。そういう次元に意識が埋没していると、意識の自由はないんだね。完璧にカルマに左右されてしまう。しかし、本当はカルマに左右される必要はないんだよ。それには意識のスピードを上げる必要があるよね。意識を精妙にする必要があるかな。本来、今すぐでも空っぽで自由なんだけど、長い間遅い波動に合わせてきたので、すぐには本来の状態に戻れなくなってしまったんだね。でも、真実は、今、即、フリーなんだ。気づけば、完全な自由なんだよ。何も難しいことはない。どんな修行もいらない。ただ、今、即、空っぽだ。意識は空っぽだ。空っぽの純粋な意識が、肉体感覚や感情や思考を楽しんでいるのさ。この三次元の物質世界を楽しんでいるんだよ。色即是空の空。意識は空っぽだ。空っぽの中に、すべての色があるんだね。空っぽであれば、いろんなことが体験できる。そして、また即、ゼロにリセットすることもできる。何でも可能だ。意識は、即、自由。完璧な自由。それが23日目の意識状態です。
2005.01.24
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今日の屋久島は暖かかった。まるで春先のようだった。このまま春になってくれるといいのに・・・久しぶりに室温が20度を越えていた。ここまで来ると、本当に寒くない。でも、本格的に暖かくなるのは3月から。3月になれば、山も楽しめるようになる。本土に比べると早い春だけど、もうしばらくの辛抱かな。昨日、今日と暖かかったので、どういうわけか、食べ過ぎ気味。別にお天気とは関係ないだろうけど、ちょっと気がゆるんでいます。食べ過ぎると、意識はクリアーでなくなる。極めて現金。2月から三分の二という、わかりやすい指標があるので、今はちょっと一休みという感じ。2月からは少し気合いを入れましょう。ここのところ連日、衛星放送で映画を見ている。今日も見たけど、「マトリックス」は最初の作品から見ないと、何がなんだかよくわからなかった。そのため、「ロード・オブ・ザ・リング」も今日のは見ないことにして、最初から見ることに。冬の間は映画鑑賞かな。意識は常に今に存在しながら、過去へ行ったり、未来へ行ったり、自由自在だ。過去を思い出し、未来を想像する。意識は自由自在。常にクリアーな意識を持ち、いろんなことを体験するといい。しっかりと自分の中心を持って、様々なことを冷静に見つめられる目があるといい。自分を見失うのが最悪。自分の人生経験ではなくなるから。主体性を持って人生を体験する必要があるのだ。内容は何でもいいんだけど、しっかりと目を見開いて、今の人生を生きる必要がある。意識がしっかりしてさえいれば、中身は問題ではない。自分が今関心のあることをやればいいだけだ。自分の意識をしっかりとキープする、それが、いついかなる時でも、最も大切なことではないのだろうか。はっきりと、明確に自分の人生を体験していれば、中身は何でもいいような気がする。意識が眠っていてはダメなのだ。しっかりと目を覚まして、はっきりと人生を体験しよう。自分の人生を明確に体験することが一番貴重なことではないだろうか。
2005.01.23
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今日は久しぶりに暖かかった。ので、スカイ・パーフェクトTV用のCSアンテナを取り付けた。手続きをしたら、すぐにスクランブルが解除され、二週間無料で視聴できることになった。ものすごい量の情報。映画も見きれないほどある。たまたまやっていた五木寛之原作の「青春の門」を見た。もう30年ぐらい前の作品。以前に一度見たことがある。ある程度は覚えていた。しかし、出てくる俳優さんの、なんと若いこと。まさにタイムトリップ。田中健や大竹しのぶ、いしだあゆみに関根恵子、昔々の物語。こういうのを見ていると、なにかヘンな気分になる。何が現実だか、何が夢だかわからなくなる。確かに、このような時代があった。子供の頃の記憶。今では記憶でしかない。でも、体験したのは確かだ。今となっては夢のようだけれども・・・今日は一日、夢の中にいるような気分だった。不思議な気分。膨大な量の映画フイルムが保存されている。まるでアカシックレコードのように。過去が記録されている。まあ、よく考えると、昔の映画に限らず、すべての映画が過去のものなんだけど。今の映画なんてあり得ない。すべて過去に撮られたもの。それを今見ている。しかし、それはこの日記だってそうだ。書いている時に見ることのできる人はいない。書いている本人を除いて。みんな書かれた後で読んでいる。そういう意味では過去のものだ。映画も本も過去のものだ。ただ、実況中継だけが、今のものだろうか。どこが違うのか?確定していないというところが違う。過去のものは確定しているけれども、今進行中のものは不確定。可変的である。人生も可変的だ。常に可変的である。確定しているのは過去だけ。今この瞬間は常に可変的である。人は今この瞬間のみにしか生きていないとすれば、人は常に可変的なところで生きている。確定しているものなどない。確定しているものは、すべて過去だ。それは今の人生ではない。だから、そういう意味では人生はどうにでもなる。可能性に充ち満ちている。何でも可能。可能性としては可能。実現できるかどうかはわからないけど、可能性としては可能だ。少なくとも、絶対不可能とは言えない。未来は不確定なのだから。だから、過去に縛られないで、自由に生きればいい。一切の過去は今ではない。今あるのは無限の可能性だけ。そう考えると、人生は楽しくなる。過去は終わったこと。人生は常に今。今は、常に無限の可能性に満ちている。
2005.01.22
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食事の量が減る。自然に呼吸が深くなる。同時に、あくびがたくさん出る。体内の空気が入れ替わる。意識はますます冴えてくる。新しい意識が奥から表へ出てこようとしている。冷静な、極めてクリアーな意識。もちろん、新しくはない。時々は顔を出したりしていた。しかし、それが全面的に出てこようとしている。それは明らかに思考を超えた意識。ダイレクトにわかる意識。考えてわかるのではない、そのままストレートにわかってしまう。理解するということは、本当は考えることとは違う。考えて理解に至る。考えることと理解することは、異なる。考えなくても理解することは、できる。見た瞬間、わかる。そういう意識もある。それは理屈を超えている。直観といってもいいかもしれない。なにしろ思考を超えた意識である。宇宙は愛に満ちている。それは思考ではわからない。いくら考えても、そんなことわかるはずがない。思考は過去のデータを組み合わせて考える。比較し、様々な可能性を検討する。しかし、過去にデータがないものについては、比較のしようがない。故に、考えることができない。まったく想像の外である。しかし、それでも宇宙は愛に満ちている。愛によって成り立っている。愛がすべてを結びつけている。愛がなければ宇宙は空中分解してしまう。愛がすべてをつないでいる。それは思考を超えている。そういう世界が開けつつある。新しい意識だ。あなたも無食をする気になった?まあ、急がなくても、遅かれ早かれ、そういう意識は芽生えてくる。お急ぎでない方は、もうしばらく人間らしい意識でいればいい。遅い、ゆったりとした意識。まったくクリアーではない意識。たとえていえば、田舎ののんびりした意識だ。大正時代?いや、江戸時代だろうか?意識のクオリティが違う。密度とスピード。直観。ダイレクトにわかってしまう。無食も、やっぱ、いいことあるね。冷静でクリアーな意識は、どこまで深まるだろうか。意識は冴え冴えとしている。冷静だ。そして、静かだ。これが20日目の感想。
2005.01.21
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屋久島は今日も雨が降ったり、時々、日が照ったりの不思議な天気だった。おかげで、また虹が出た。今年五回目の虹。今日の虹はものすごく幅が広くて、色が濃かった。写真を撮ろうとして、準備して表に出たら、なんと、消えていた。カッパを着ないで、カメラだけ持って、とりあえず撮ればよかった。少し雨が降っていたので、ちょっと欲張ってしまった。歩きながら何枚か撮ろうと・・・うーん、今年は虹の写真が撮れないな。不思議だね。去年はあんなに撮れたのに。今年は虹が出ているのに撮れない。まあ、本人の撮りたいという情熱も昨年に比べたら格段に低い。昨年は「虹のカメラマン」と張り切っていたけれども、今年は、なにかあまり乗らない。なぜだろう?今年は「虹のカメラマン」ではないんだね。今年のテーマは「無食透明」なのだ。虹のカメラマンではなく、光の人になることなのだ。さて、さて、いかが相成りますことやら・・・昨日、カイラス山ツアーの案内が届いた。聖地の中の聖地だ。チベット人もインド人も一生に一度は行きたいと憧れるところ。しかし、26日間で75万円。時間もお金もない。こうなったら、最後の手段、テレポテーションで行くしかない。これだったら時間もお金もいらない。日帰りで行って来れる。これしかない。本気で取り組むしかなさそう。一昔前、合気道の創始者の植芝盛平翁は、数人が一斉に飛びかかった時、一瞬にして姿を消し、次の瞬間、別のところに姿を現したらしい。それを伝え聞いた人が、もう一度見せてほしいと頼んだところ、「俺を殺す気か」と怒られたとか。つまり、彼はテレポテーションができたのである。しかし、それは相当のエネルギーを要することのようだ。ラマ僧がテレポテーションできるという話はよく聞くが、日本人でもできる人がいたのである。ぜひ、自分もそうなりたいと思う。なんたって便利だものね。飛行機代はいらないし、あんなに長く座っている必要もないし。好きなところへ、どこへでもノービザで行ける。とりあえずは地球上だけでいいから、自由に行き来したい。そのうちUFOにも乗せてほしい。宇宙から地球を見てみたい。肉眼でなければ見たような気もするけど・・・定かではない。今日はあまり書くことがないな。今日は難しいことはお休み。たまには息抜きが必要でしょう。毎日毎日、前向き、前向きとか言われると、疲れちゃうものね。たまには、ゆっくり一休みすることも必要だよね。じっくり地球の暮らしを味わえばいい。焦ることはない。せっかく生まれてきた地球、三次元の物質世界だ。ここでしか味わえないことを思う存分体験するがいい。ひとたび物質次元から離れたら、また戻ってくるのは大変なんだから。もう二度と戻って来れないと言った方が正確かもしれない。また地球に生まれてきた時は、もう今の自分ではない。今の「私」として地球に存在するのは、今だけなのだ。今度生まれ変わった時は、別の「私」だ。総体としては同じ魂かもしれないけど、個別の意識としては異なる。だから、厳密に言えば、今生限りとも言えるのだ。肉体意識の側から見れば、生まれ変わりはないとも言える。魂サイドから見れば、生まれ変わるとも言えるんだけど・・・視点によって、いろいろ変わるんだね。まあ、いずれにしても、ゆっくり、じっくり美しい地球を味わいましょう。
2005.01.20
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今日は気がゆるんでいます。昨日、食料の買い物を解禁したら、今日も買っちゃった。そして、玄米以外のものを食べたら、ハー、お腹の具合がいまいち。玄米みたいに、しゃきっとしまらない。しようがないね。ま、たまには反動もあるわけで。昨日、今日と、コメントや掲示板で、盛んに、逃げないことや恐怖について書いている。これはとても重要なことなんだ。今の人類にとって一番重要なことかもしれない。人は恐怖によって地獄を見る。実際の地獄ではなく、想像の地獄である。事実としての地獄ではなく、自分がつくり出した幻の地獄である。それは現実よりも、遙かに力強い。恐怖は人をして身動きできないようにしてしまう。事実ではなく、そうなるかもしれないことが人を縛る。事実よりも遙かに強く人を束縛する。人は怖がる。過去の再現を恐れる。あのような目に二度と遭いたくないと思う。そして、そうなったらどうしようと悩む。人は想う。人は想像する。それが人の自由を奪う。なぜ人はそのような想像をするのだろうか。人はなぜ過去の傷を思い出すのだろうか。それは明らかだ。再び二度と傷つかないために。二度と同じ過ちを繰り返さないために、人はあれこれ考えることができる。それは前向きな思考だ。ただ恐怖におののくためのものではない。対策であり、対応である。何を恐れる必要があるだろう。冷静に対策を練ることだ。そのために思考力があるのだから。思考力を無駄に使ってはいけない。恐怖のための恐怖で終わらせては、思考力が死んでしまう。思考力は、過去の痛みを二度と味あわないように、ポジティブに使おう。ネガティブに使うのは、間違った使い方だ。間違った使い方をすれば、自分の尻尾を追いかける犬のようになる。エンドレスにその場にとどまるだけだ。前進はない。思考力を使いこなさなくてはならない。思考力に振り回されてはならない。思考力の性質を理解し、使いこなさなければならないのだ。私達は、もうそういう時期に来ている。人類は、これまで感覚と感情と思考が合体した「私」という自我をベースに生きてきた。しかし、今、感覚と感情と思考から少し離れて、自我である「私」を見る視点が必要なのだ。感覚や感情や思考に振り回されるのではなく、それらを理解し、それらと共に生きる必要があるのだ。自我である「私」とも一緒に生きる。自我「私」そのものとしてではなく、自我「私」も含めた、更に大きな意識として生きる必要があるのだ。感覚を理解し、感情を理解し、思考を理解して、自我である「私」も理解し、それらを否定することなく、それらを包含した大きな意識で生きる必要があるのだ。感覚や感情や思考、自我や「私」に負けてはならない。それらのものの言うがままに引きずられてはならない。それらのものに振り回されて自分を見失ってはいけないのだ。そうかといって、感覚や感情や思考、自我や「私」を抑圧してもいけない。抑圧すれば、いつか爆発するだけだ。抑えつけないで、感覚や感情や思考を目一杯伸ばし、かつ、それらに振り回されない。しっかりした自分自身を築く必要があるのだ。三次元から五次元へアセンションするとは、そういうことなのだ。このままの意識でアセンションなんかできるわけがない。自我がアセンションして何になるのだろう。五次元が三次元になるだけだ。五次元がエゴの世界になってしまう。そうではなくて、三次元にいる私達の意識が変わる時、自然に次元も変わるのだ。自我「私」から、次の意識へ。それが命題だ。それには恐怖に打ち勝つ必要があるのだ。恐怖の本質を理解し、恐怖に負けないエネルギーをもつ。そうでなければアセンションはできない。恐怖は人を引き下げる力だ。三次元に縛りつけ、身動きできないようにする。自縄自縛、まさにそれが恐怖の本質なのである。思考がつくり出すカラクリ。思考に縛られてはいけない。思考に支配されてはいけない。思考は使うものだ。思考は道具だ。思考の虜から脱却しなければならない。それが急務なのだ。今日は「いけない」とか「ならない」とかが多いね。読んでて疲れるかもね。すみませんね。なんだかお説教みたいで。要は、理解してください、と言いたいだけです。感覚や感情や思考に振り回されないで、主体性をもって生きてくださいと言いたいだけなのです。私達は、ややもすると、感覚や感情や思考の虜になって、いつの間にか自分を見失ってしまうのです。自分でつくった網の中に囚われてしまうのです。もっと自由に生きていいのです。もっと自由に生きれる時代になってきているのです。そういうことを言いたいのです。感覚や感情や思考の奴隷になってはいけないと。いけない!また、いけないを使ってしまった。いけないと言ってはいけない、こりゃいけない。(ハイ、遊んでます)まあ、自分を見失わないように。自分が自分の感覚や感情や思考に振り回されて、どうするんですか。感覚や感情や思考も、思いっきり使って、思いっきり楽しんで、なおかつ、それらに振り回されないようにしましょう。しっかり、注意深く自分自身を見つめて、自分の中の感覚や感情や思考の奴隷にならないようにしましょう。それらのものを使って、思う存分人生を謳歌しましょう。それらのものは、使うものであって、使われるものではないのです。人生の主人公はあなた自身であって、感覚や感情や思考などのあなたの一部ではないのです。それらのものはあくまで一部であって、あなたのトータルではないのです。あなたはトータルなのです。それが五次元へ導くキーワードなのです。その意識に目覚めた時、アセンションは自然に起きるのです。
2005.01.19
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今日の屋久島は久しぶりに暖かかった。これが本来の屋久島だ。それでも、時々雨が降ったりして、今年四度目の虹が出た。朝、無農薬の大根と人参をもらった。そのため、1月は食費ゼロの予定を変更。大根を生で食べるためにドレッシングを買うことに。ついでに、昆布とか少し買ってきた。買ってしまったら、すごく気が楽に。まあ、食べ過ぎないぶんにはいいか。今年初めて生協に行ったら、世の中は節分とバレンタインデーでもちきりだった。ほとんど家に引きこもっていたので、今日来た人に色が白くなったねと言われた。また、別の人には、少し痩せましたねとも言われた。確かに少し痩せている。顔が少しだけほっそりしたかな。まだ、たいしてダイエットしてないのに・・・最近は、お腹が空くと自然に深呼吸している。プラナを取り入れようとしているのだろうか。食べものの代わりにプラナが入ってくれば、心身はどんどん軽くなるだろう。食べるものが減ると、体は自然にプラナを取り入れようとするようだ。これから心身は軽くなり、どんどん光に近づく。そう思うと明るい。ところが、もう美味しいものは食べられない、あれも美味しかったな、これも美味しかったな、とか考え出したら、重たくなってしまう。前向きに考えるか、後ろ向きに捉えるかで、まるで天と地ほどの違いが生じてくる。何事もポジティブに捉えることだ。ネガティブに捉えたら、その瞬間、すべては滞ってしまう。流れが止まってしまう。どのようなことが起きても、何があっても、ポジティブに、前向きに捉えるしかないのだ。後ろ向きに捉えれば、そこですべてが止まってしまう。エネルギーの流れがストップしてしまうのだ。もう前へは進めない。過去のことを後悔しても、なくしたものをいつまでも悲しんでいても、何も始まらない。ただただ暗く沈むばかりだ。いついかなる時も、前を向いて歩くしかない。前を向いて歩けば、失敗は存在しない。失敗に見えるものも、すべては学びとなる。前を向いて進みさえすれば、自然に成長していく。単純に、シンプルに、余計なことは考えないで、前進あるのみ。心身ともに更にクリアーになってきている。真っ直ぐに前を向いて進もう。
2005.01.18
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食事の全体量は徐々に減っている。そのため、意識はクリアーになりつつある。心身共に軽くなってきている。しかし、である。食べ物の誘惑は強烈。昨日のお好み焼きのコメントを読んだだけで、食べたくなってしまう。テレビを見ても、美味しそうなものが次から次へと出てくる。新聞を開くと、今にも食べ頃のチラシが入っていたりする。この世は食べ物の誘惑に満ちている。食べるということは、予想以上に生活の多くの部分を占めている。単なる肉体的な満足だけでなく、精神的に満たされるために食べる部分も大きい。食べ物の写真を見ただけで、いや、名前を聞いただけで、記憶は自動的にフィードバックされる。単なる記憶である、されど記憶なのだ。それは精神的なトラウマと似ていなくもない。精神的なトラウマなんか、思い出したい人はいないだろう。ところが、それと似たようなことが起きると、自動的に甦ってくるのだ。食べ物の記憶もそれに似ている。思い出す必要がなくても、刺激されると自動的に反応してしまう。それは肉体的な傷についても同じことが言える。以前、危険な目にあったところは覚えている。だから、その場に近づくと自然に警戒してしまう。警戒しなかったら、また痛い目に遭う可能性があるからだ。学習しているのである。ところが、痛い目に遭う可能性はまったくないのに、人は心のトラウマで悩んだりする。また同じようなことが起きたらどうしよう?と。そう考えることによって、悩み、苦しむ。学習し、もう二度と同じ過ちを犯さないための機能であることに気づいていない。起きてもいないことについて悩む。システムを理解することなのだ。過去の痛みの再発を恐れないで、再発しないように注意深く生きるしかない。過去の痛みに負けてはいけない。あくまで学びなのだから。経験を踏まえて前向きに生きていくしかないのだ。食べ物の記憶も、美味しかったもの、安全なものを記憶して、身の安全を守ろうとする機能だろう。逆であれば、注意するはずだ。ところが、美味しかった記憶に押しつぶされそうになる。また食べたくなってしまう。まあ、それも悪くはないけど・・・でも、それは記憶であることを深ーく認識する必要があるだろう。自己保存のための記憶なのだ。ところが現実は、お腹が空いてもいないのに、見ると、あるいは聞くと、食べたくなってしまう。肉体の欲求ではなく、精神の欲求である。過去の満足が、再体験を求める。快を求め、不快を避けようとする。お腹が空いていないにもかかわらず、食べたくなってしまう。快を求める・・・目先の快を求める。舌先三寸の快を求める。食べ過ぎれば不快になるとわかっているのに、食べ過ぎてしまう。快を求める気持ちは、不快を避ける気持ちよりも強い。もっとも、最近は拒食症というのもあるけれども・・・太るという不快を恐れる気持ちが、食べるという快よりも勝っている。恐れは快に勝る?恐れの方が快・不快という感情よりも強いのだろうか。いずれにしても、事実ではなく、想像(イメージ)に負けているのだけれども。過去の記憶が襲いかかってくる。美味しかった食べ物の記憶。先日、知人の買い物に付き合ったら、美味しそうなものがたーくさんあった。今月は食料は買わないと決めているので、なおさら強く心に飛び込んできた。お隣に行っても、美味しそうなチョコレートが置いてあった。目の毒だ。しかし、そんなことを言っていたら、これから四年半生きていけない。誘惑される気持ちと、それでも食べないでいようという気持ち。たぶん動揺するのは半年ぐらいだと思う。半年も過ぎれば、もう食べないのが当たり前になり、食べることにそれほど魅力を感じなくなるだろう。なぜなら、食べない方が心身共にさわやかに決まっているからだ。ただ、その途中が苦しい。過去の美味しかった記憶が襲ってくる。単なる記憶に過ぎないのだけれども、それがなかなか強烈なのだ。食べるということは、人類にとって有史以来の条件づけなのだから。DNAレベルから植え付けられているわけで、それを覆すのは並大抵のことではない。誘惑は大きい。食欲、性欲、睡眠欲。三大欲の筆頭である。しばらくは、美味しかった記憶と戦う日々が続くのかもしれない。甘い誘惑が日々襲ってくる・・・
2005.01.17
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屋久島は不思議な天気が続いている。晴れ間が出たかと思うと豪雨になり、挙げ句の果ては霰(アラレ)まで降ってきた。山々は今年二度目の雪化粧で美しくなっている。今日もまた虹が出た。今年三度目の虹。虹が出るということは、天気雨ということでもある。虹は美しいけど、天気は荒れている。風は強く、波は高く、フェリーは欠航。おかげで新聞が飛行機便となり、早く届いた。今日はWOWOWで「ヒトラー」という映画を見た。どういうわけか英語だった。今の時点になれば、誰もヒトラーに従う人はいないだろうが、あの時点ではドイツの大衆は彼に救いを求めた。今の視点では、愚かとしか言いようがないが、その時に、そのように看破した人はどれだけいただろうか。人類は性懲りもなく、まだ戦争を続けている。あまり学習していないかのようだ。人は、殺し、殺され、いじめ、いじめられ、ある時は加害者になり、ある時は被害者になり、様々な体験を積み重ねている。何のために?何のためでもなく、ただ体験したいがために。いろいろな体験をしたいために、としか言いようがない。その経験を通し、学び、成長し、進歩していく・・・そういう体験をしたいようだ。どれだけの文明が進歩し、そして滅んだことか。何度も何度も同じようなことを繰り返してきた。ムーもアトランティスも、最終的には人間のエゴのために沈んだと言われている。同じようなことを六回も、いや八回も繰り返していると言われているのだ。今回が七回目とか、九回目とか、いずれにしても最後のチャンスであると言われている。たぶんそのとおりだろう。そして、今回は成功するだろう。それは間違いない。なぜだかわからないが成功するものと確信している。それは既定の事実であるように思っている。そのことについては、まだ学校に上がる前から、新しいすばらしい時代が来る、という確信があった。理由はわからないけれども、そう思っていた。今も変わらない。それは信念というレベルではなく、未来の記憶に近いだろう。人類は、幾多の経験を消化し、やっと物質・肉体次元を卒業しようとしている。まだ物質や肉体に執着している人も多くいる。そういう人は、まだ物質・肉体次元を思う存分堪能するがいい。別に何の問題もない。そうではなくて、もう十分に体験した人は、次のステップへ進む。それが自然な流れなのだ。人類の自然な流れなのだ。しかし、まだ多くの人は眠っている。まだ長い眠りから覚めていない。そういう人たちを目覚めさせるために、これから急テンポにいろんなアクシデントが起きるだろう。そうでもしなければ目覚めないからだ。眠っていたままでは、アセンションはできない。もう目覚めてもいい時期に来ているのだ。だから、起こすために体を揺する必要があるのだ。揺すられた方は、不機嫌かもしれない。心地よく眠っていたのだから。でも、本当は、起こしてほしいと頼んでいたことを忘れているだけなのだ。もう夜明けは近い。そして、夜明けの前が一番暗い。でも、光は目の前にある。肉眼では見えないけれども、はっきりとある。光を感じ、光の方に歩むがいい・・・
2005.01.16
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今日は朝から大きな虹が出た。しかもきれいな二重の虹。こんな鮮やかな虹は久しぶり。寒い時は自分の内面を見つめるのに向いている。暖かい時期は、どうしても外に出る機会が多くなる。逆に寒くなると、内に引きこもりがちになる。今年の屋久島は、正月からほとんど晴れ間を見た記憶がない。雨が多いため、ほとんど外に出ていない。この日記をつけだしたこともあるけど、自分自身を振り返る時間が多くなった。今日は自分の年表を作成した。生まれてから消えていくまでの59年7ヶ月の記録。なかなかの人生だった。なんだかんだ言っても、この人生しか経験していないわけで・・・大きく分けて三つの時期に分けられた。最初は、熊本にいた18年3ヶ月。まだ精神的にも経済的にも親の庇護の下にあった時期。次は東京で過ごした35年間。大学生となり、地方公務員となり、クリシュナムルティを研究し、精神世界のセミナーをやった時期。最後は屋久島の6年4ヶ月。最初の2年間はガイド、これから光の人になる予定。高校生までは、今生で生きるための準備期間という感じ。東京で一人暮らしを始めた大学時代から、本当の自分の人生が始まったような気がする。東京での35年間が、今生のメインストリート。人間として生き、様々な体験をした時期。人間としては、この時期が一番充実していただろう。屋久島での第三期は、人生のメインが終わって、その総括というか、総決算というか、静かに振り返って、今生の恩返しをする時期のようだ。もう人間として新しい体験をする時期ではない。人間としての盛りは終わった。これからは、あちらへ戻る準備と、今生の恩返しだ。今生で学んだことをベースに、何らかの役にたつことをするだろう。たぶん、それがこれからのメインテーマになると思う。ドロドロとした人間ドラマはもう終わり。これからは人間ドラマの総括をして、光の飛翔に備える。まだまだ今生の癖が抜けない。たーくさん、たーくさん、癖をつくってしまった。これらのとらわれやこだわりをクリアーにする必要がある。根本のところは外れているけれども、まだいろいろある。もう、気がついてみると人生の第四コーナーだった。これから最後のムチが入って、ラストスパートになるところ。かなり自分の人生の全体像が見えてきた。たぶん、あまたの過去世でも、こんなにはっきりと人生の全体像を把握したことはないのではないだろうか。四年半というのは、かなり余裕がある。たぶん、最後の2年間は八面六臂の活動になると思うけど、まだ今は余裕がある。人間としての基本的な活動は終わった。これからは人間ではなくて、はっきりと別のスタンスで生きていくことだろう。これまではスピリチュアルなことを言うのをかなり遠慮していた。この世に対して遠慮していた。三次元の物質次元に気を遣っていたと言ってもいい。でも、もうそういう時期は終わった。もうはっきりとスピリチュアルを全面に出して生きる時が来ている。何の遠慮も、何の配慮もすることなく、堂々と真っ正面からスピリチュアルなことを言う時が来たようだ。たぶん、これからよりストレートに発言するようになるだろう。ある意味では、そのために生まれてきたとも言える。そのために営々と55年間いろんな人生経験を積んできた。最後の四年間のために。たぶん・・・これからが本当の意味での勝負なのだ。今生で光として生きれるか。本当はそれをやりたかったのだと思う。肉体を持ったまま、光の存在として生きれるか。それをこれからやろうとしている。正確に言うと、光で生きる公開実験ではなくて、光として生きる公開実験なのかもしれない・・・
2005.01.15
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今日は朝からBSアンテナを設置した。その後、二本ぐらい映画を見てしまった。アメリカと韓国の映画。久しぶりに見たら、おもしろかった。特にBSは英語の放送が多いので喜んでいる。いくらテレポテーションできても、行った先で何かしゃべれないと話にならない。文字通り話にならないのだ。とりあえず英語がしゃべれれば、ある程度は何とかなるだろう。あと四年半しかこの世にいないのに、いまさら英語という感じもしないではないが、どこへ行っても役にたつのも英語なのだ。しばらくは映画を見ながら、英語のお勉強かな。食事は、まあまあ順調に減っている。でも、まだ普段の五分の四ぐらいの量はあるので、特段、さしたる変化はない。昨日、光になってテレポテーションして・・・等々書いて気がついたのだが、光の存在で生きるより肉体を持って生きる方が遙かに大変だなと思った。光の存在になれば、それなりのパワーもあれば、会った人も光を感じて、それなりの対応をしてくれるだろう。そうではなくて普通の人だと、やはり大変だよね。地道に自分で努力しなければならない。当たり前のことだけど、でも、先が見えないのに、真面目に、地道に努力するというのは、なかなかすごいことなのですよ。いかに自分自身に誠実に生きるか。どこまで自分の本心に忠実に生きるか。それが一番大切なことのように思う。それだけが唯一価値があるといってもいいぐらい。アルファでありオメガであるだろう。他にどんな価値があるというのだろうか。誰か偉い人が言ったから、そのとおりにするとか、お釈迦様やイエス・キリストの教えだからとか、悟った人がそうせよと言ったからとか・・・そんなことをしても何の意味もないだろう。ただただ、己が本心に添って生きることだけが、人の本来の生き方ではないだろうか。周りに影響されないで、あくまで自分自身に忠実に生き切る。それはすごいことだと思う。それだけが価値があるように思う。今日はそんな感じが強くする。地道に、コツコツと、自分の道を生きるのがいい。未来が見えないところで、自分に誠実に生きることが、どれほどすばらしいことか。それは本当に感動するくらいすばらしいのだ。ふてくされたり、人のせいにしたり、社会のせいにしても何の意味もない。そういう自己保存や自己正当化のための隠れ蓑を取り払って、裸の自分で正直に生きれたら、すばらしいね。正直に、素直に、真っ直ぐに生きることの、なんとすばらしいことだろう。今はそういう価値が見失われ、斜に構えたような生き方がもてはやされているけれども、やがて世の中は変わるだろう。やはり、真っ直ぐに生きることが見直されるだろう。世間体や見てくれはどうでもいい。そういうものではなくて、自分自身に正直に生きることだ。それだけが本当に唯一価値のあることなのだから。光になって肉体の人間を見た時に、心からそう思った。
2005.01.14
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昨夜、やちよさんから書き込みがあったけど、「どんどん若返って120歳になっても三次元に目に見える形で登場するんじゃないんだ?」そうではないみたいだね。自分でも驚いているんだけど、早めにこの世から消えるみたい。今の感じだと、2009年の7月上旬という感じなんだよ。ちょっと早いよね。でも、そういう感じなんだから、しょうがない。あと四年半。7月から無食になるので、ちょうど四年間、光の人をやることになります。光の四年間だ。何をしようかなぁー?光の人になって、早くテレポテーションできるようになるといいな。そうしたら、いろんなところに日帰りできるものね。知り合いに電話して、「これから行くよ」って言って、すぐに目の前に現れる。しばらく一緒にいて、「じゃ、またね」と言って、次の瞬間は自宅にいる。そういうのがいいな。それが可能になったら、日本全国、世界中、好きなところへ行けるものね。暑かったら、ちょっとヒマラヤに行って涼んでくるとか、寒かったら、南半球で泳いでくるとか。悩んで困っている人がいたら、すぐ目の前に現れて、話を聞いてあげるよ。そしたら、きっとすぐに解決すると思うんだけどな。どうして解決するか?その人も光に満たされるからさ。正確に言うと、光に触発されるからかな。触発されて、その人の内なる光も再び輝き始める。それっていいでしょう。そういうことを光の四年間はやってみたいね。昼間はナチュラルガイド、夜はスピリチュアルガイドかな。あまり眠る必要もなさそうなので、夜のアルバイトも始めナイト。あと四年半。ちょうど59歳7ヶ月で、この世から消えることになります。まあ、ほぼ還暦だね。この世を一循したということ。そのころには、どこまで若返っているだろうね。今でも40代で通用するもの。少なくとも30代にはなっているでしょう。20代は無理か?ま、男盛りの30代ということで・・・でも、そのうち波動が上がりすぎて、だんだん見ずらくなるんだよね。やがて肉眼では見えなくなってしまう。ちょっと寂しいよね。波動を落とせば見えるけど・・・たぶん、どんどん上げていくと思う。そちらの方が楽しそうだから。でも、時々は波動を下げて、地球の状態を見に来たいな。特にアセンションする時は見逃したくない。みんなをサポートするからね。まあ、そんなところで、だいぶ先が見えてきました。この日記を書き始めてから、思わぬ展開になっています。自分の意志を少し超えてるね。少しだけだけど・・・これからどうなっていくのか、自分でも楽しみです。意外な展開が待っていたりして・・・
2005.01.13
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屋久島は離島のため、年賀状もフェリーに乗ってやって来る。ので、まだまだ陸続と届いている。もう12日だというのに・・・一昔前だったら、15日まではいいかという気分だったけど、成人式が不定期になってから、なんかヘンな感じになってるよね。無色透明とは関係ないけど、成人式は昔のように15日がいいな。最近は他の祝日も変わるので、なんとなくしっくりしないけど、若い人はそうでもないのかな?やはり、これも条件づけの一種だろうか?年賀状の中には、こちらが生きているうちに会いに行きたいとか、仙人になってしまうの?とかが、相変わらず多い。自分のホームページでも書いたけど、別に仙人になるつもりはない。理由は、仙人界には、きれいな天女や天使がいそうにないから。お年寄りの仙人ばかりしかいないところには行きたくない。せっかく行くなら、きれいな天使や目も眩むばかりの天女に会ってみたいものだ。ぜひ、そちらの方に行きたいな。生きているうちに会いたいということは、こちらが早く死ぬと思っているんだよね。まあ、それほど的外れでもないけど・・・最近、自分はあとどのくらい生きるのだろうかと感じてみたら、4~5年という答えが出た。これには少し驚いた。「エッ、ホントかよォ~」というのが正直な気持ち。それでは地球がアセンションするまで生きてないじゃん?「エーッ、短いね・・・」まあ、本当のところはわからないけど、今の感じではそうだということ。もっとも、早く死ぬ死ぬと言う人に限って、なかなか死なないので、話半分でもいいんだけどね。でも、未来はすごく明るいので、何も心配はしていない。未来は光に満ちていた。ので、光の世界に行くのは間違いないだろう。だから、死ぬというのも正確な表現ではないよね。死ぬというより、移行するという感じかな。ホームグラウンドを移すということ。物質次元から別の次元へ。やがて光の心身になったら、きっとこの世とあの世を行ったり来たりするようになるだろう。そうなると、特段、死というものもなくなるわけで、ずーっと生き続けているわけで、どうということもないのですよ。まあ、三次元的には見えなくなるかもしれないけど。だから、三次元的には消えてしまうわけだけど、消える時には、みんな荷物を整理して、何もない状態にして、サヨナラしたいと思っている。だから、地上から姿がなくなっても、死亡診断書は出ないので、戸籍はそのままだね。永久に行く方知れず・・・ということで。この世にいてもあの世にいても、三次元にいても五次元にいても、さして変わりがあるとも思えない。もちろん波動はぜんぜん違う。スピードがまるで違うけど、自分自身は特に変わりはないんだね。自分は自分だ。どこにいても自分。物質の重たい肉衣をまとっているか、もっと軽い光の体になっているかの違いだよね。意識はさほど変わらない。もっとも、クリアーさはだいぶ違うけどね。肉体に入っていると、どうしても意識は重たい。肉体から出てみると、意識はものすごくクリアーだよ。それは肉体にいる時にはわからないんだね。それは肉体から出てみて始めてわかること。それは重力の重たい地球上にいるのと、無重力の宇宙空間にいるのとの差ぐらいだね。これは的確な例えだな。まさにそういう感じだから。そういうふうに言い切れるということは、書いている本人は肉体の外に出たことがあるということだよね。そうでなかったら、空想か妄想かフィクションということになるよね。悪くすると詐欺師だ。でも、詐欺師でも空想でも妄想でも、もちろんフィクションでもない。この人は、肉体の外に出たことがあるのです。それも数え切れないくらい。20代後半は、それが当たり前だった。毎晩、横になると肉体から抜け出て別の世界へ行っていた。どこへ行っていたか、もうあんまり覚えていない。30代、40代、50代になるにつれて回数は減ってきた。最近はほとんど出た記憶がない。無色透明になったら、また頻繁に出入りするようになるだろう。無食というのは、本来の光の自分自身へ還るプロセスなのだ。昨日、短歌ができた。「食を絶つ 無食の道は 本来の 光の自分へ 還るプロセス」肉体の重たい不自由な状態から、本来の光り輝く自由な状態に戻る。ただそれだけのこと。そして、しばらくの間、光の状態でこの世に存在して、いろいろやるべきことをやって、それで別の世界へ行く。そういう感じだね。やるべきことをやり尽くせば、特段、何の未練もないよね。さわやかに、軽やかに、サヨウナラだ。そこまでわかると、もう後戻りはできないんだね。もう時間がない。でも、光の心身になるのに失敗したら、もう少し長生きできるかも?ヘンな話だね。でも、それはカッコ悪いから、パス。スムーズに光の心身へ移行します。これが11日目の心境。
2005.01.12
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今日は「無色透明への道」の予定表をパソコンに入れて、プリントアウトした。これまではメモ書き程度だったので、もう少し明確にしてみた。そうすると、あと80日は普通食ができることがはっきりした。まだカウントダウンするのは早すぎるかな?最後の9日間は、一日0.1合の玄米である。これはかなり少ないね。三日分まとめて炊いても0.3合にしかならない。これで電気釜で炊けるの?今月いっぱいは食料は何も買わないとしても、もう少しは必要なものもある。でも、多くても一万円はかからないだろう。1月の食費はゼロ。2月も一万円以内だ。3月も限りなくゼロに近いだろう。4月以降は・・・3月で普通食を終わらせると、4月からは玄米を100時間以上炊いた特殊なものを食べる予定だ。いわゆる健康補助食品というやつ。一袋3グラムと10グラムの二種類あり、両方食べても13グラムだから、微々たるもの。何も食べなくなると、口寂しくなるかもしれないので、その時のための予備食みたいなものだ。基本的には4月から、もう食事ゼロでもいいのだ。ただ、もし食べたくなったらということで、予備日として三ヶ月取ってあるのだ。余裕というか、万一に備えてというか、かなり入念に準備してある。4月になると仕事もかなり多くなるわけで、何も食べないで山の中を歩けるか?歩けるとは思うけど、なにしろ初めてのことなので、あまり無理しないように余裕を持たせてある。今日も年賀状が来て、くれぐれも無理しないようにと書かれていた。私は無理だけど、応援しますというのも多い。天の促しを待たずして、魁(さきがけ)となる行動ですね、というのもあった。精神世界を長くやっている人は、今の時代状況がわかっているので、無色透明で何をやろうとしているのかよくわかってくれる。みんなそれぞれのペースで進んでいる。それぞれのやり方で・・・こちらは「無食」という方法で光に至ろうとしている。それは一つの方法に過ぎない。方便と言ってもいい。人それぞれ自分にあったやり方でやればいいだけだ。kimikimiの場合は、たまたま無食ということが、本格的な光への登竜門となっただけだ。これには長い長い準備期間があり、プロセスがあった。自然食を始めて30年近く、いつかは何も食べないで生きたいと思っていた。動物を食べるのはもちろん、植物を食べるのにも抵抗があった。自分でほんの少しだけ畑をやっていた時、できた野菜や果物を食べるのが忍びなかった。とても残酷なように思えた。何も食べないで生きれたら、そんな思いをすることもないだろう。もちろん、新鮮な野菜や果物は超美味しかった。他の食べ物だって、食べれば美味しい。美味しいから、目をつぶって食べ続けてもいいのかもしれない。でも、肉や魚は目をつぶることはできなかった。子供のころは肉も魚も食べていたけど、あまり食べたくはなかった。大学生になって自然食関係の本を読んで、食べなくても生きていけると知って、すぐにやめた。正確に言うと、即座に、とはいかなかった。もうそのころには肉を食べるのが癖になっていて、やめても、時々食べたくなるのだ。それで週に一度食べたり、月に一度、2~3ヶ月に一度と、だんだん間隔が遠のいていったんだけど、最終的に食べなくなるのに半年ぐらいはかかったと思う。習慣になってしまうと、そうそう簡単にはやめられないのだ。肉を食べたのは、せいぜい20年ぐらい。しかし、食事をしたのは55年間だ。これを完全にやめるのは、肉をやめるのより遙かにたいへんだろう。だから、半年という準備期間を設けた。時間はかかっても肉はやめられた。元々食べたくなかったのだから、最終的にはやめることができた。精神が肉体の癖に勝ったのだ。今回の無食も、元々食べたくないのだから、きっとうまくいくだろう。精神的には、そうしたいのだから。したいことは実現するに違いない。ただ、今回は肉よりも格段に強い習慣になっている。肉については、菜食主義者は世界中に珍しくない。しかし、何も食べないで生きている人は、ごくごく少数である。ハードルは遙かに高い。でも、不可能ではない。現実に何も食べないで生きている人が複数いるのだから。人にできて自分にできないことはないだろう。自然食を始めた時から計算すれば、長い長い時間をかけて準備してきたのだから。心の底から本当に願うものは、必ずかなうはずだ。ゆっくり、ゆっくり、一歩、一歩、無理をしないで着実に進もう。
2005.01.11
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今日はお茶がやってきた。お茶がきたらいいなぁーと思っていたら、本当にき茶った!それも無農薬の有機栽培茶。ご丁寧にお茶入りのうどんまで付いてきた。思うことはかなうとはいうが、一昨日思ったことが、すぐに現実になってしまった。それも、まったく予想もしないところからやってきた。(その人はパソコンを持っていないので、この日記は読んでいないはずだ)次は醤油がほしいかな。はたしてやってくるだろうか。とりあえずは、ほしいとアピールしておこう。食事の量はだんだん減っている。食料の在庫が減っているので、食べる物が少なくなってきているのだ。(昨日のお客さんに、里芋やポンカンを持たせたので、それらの在庫はゼロになった)できれば今月いっぱい何も買わないでいられたらいいなと思っている。そうすると必然的に食事の量は相当減るだろう。食料品を売っているところへ行かなければ、特段買いたいという気持ちは起こらない。現物を見ると、つい買いたくなってしまう。癖というか、条件反射に近いものがあるのかもしれない。目の前になければ、条件反射は起きない。テレビで見ても、それほどではない。美味しそうだなぁーとは思うけど・・・これまでどおり食べて生きる人生を選ぶか、それとも、食べないで軽やかに生きる人生を選ぶか。どちらを選ぶかと問われたら、躊躇することなく後者を選ぶ。采は投げられた。ルビコン川に半歩足を踏み入れた以上、後へは引けない。前へ進むしかない。行けるところまで行くしかないのだ。食事の量が減るにつれて、心身はクリアーになってきている。
2005.01.10
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植物は光を求めて上へ、上へ伸びていく。それは本能だよね。それが植物にとっては、生きること。動物も生きるために植物を食べたり、動物を食べたりしている。それは本能であり、とても自然なこと。生きるということは、そういうことかもしれない。では、人間はどうだろう?食べるために生きる?それもあるけど、それだけでもないよね。それ以外にも、いろんな文化があるものね。元々は、食べることから、生きることから発達したのかもしれない。より便利さを求めて進んできたのかもしれない。でも、それだけではないかもしれない。洞窟とかに描かれている太古の絵画は、食べることとは関係なさそうだもの。芸術?アートの始まり?昔の人は、星を見て感動したのだろうか?占星術が発達した頃の人類は、もちろん星を楽しんだだろう。それ以前の人類は?でも、元々そういう種がなかったら、芸術はここまで発達しないわけだから、人類の中に元々、食べること以外の何かがあったのではないかな。時代が進んで、人はもう食べなくても生きられるようになった?食べる文化から、食べないで精神的なものをベースに生きる時代へ到達した?はたして、どうだろう?人は食べなくても生きられるようになったのか?それが人類進化の方向なのか?人は肉体だけでないのは明らかだよね。肉体の意識もあるけど、それ以外の意識もある。インナーチャイルドと呼ばれる幼児期の意識もあれば、ハイアーセルフと呼ばれる高次の意識もある。その上には魂や神我と呼ばれる意識もありそうだ。意識は何層にもなっている。それは人体の七つのチャクラが、それぞれある次元の意識を象徴しているのと同じだ。肉体的な意識があり、感情的な意識があり、思考的な意識もある。普通はそれら三つの意識の総体が自我と呼ばれるもの、いわゆる「私」である。しかし、意識はそれだけにとどまらない。お釈迦様やイエス・キリストの意識は、自我を遙かに超えていただろう。慈悲や愛のかたまりだった。それでも、お釈迦様とイエス・キリストは同じではない。個性が違う。そういうパーソナルな部分もあったのだ。時代状況によって条件づけられた意識の部分は当然あったに違いない。それ以外に、普遍的な慈悲や愛の意識もあったということだ。それらが多層的・重層的に一つになって、お釈迦様やイエス・キリストという存在を形作っていた。意識は多層的なのだ。慈悲や愛の種子は誰の中にもある。なぜなら、人はすべからく神の子なのだから。神道的にいえば、神の分霊(わけみたま)。キリスト教的にいえば、神のひとり子。仏教的にいえば、みな仏弟子となる。ただ、それぞれの意識状態があって、どこまで意識が統合されているか、(ここでお客さんが来たので、続きは後で)はい、やっとお客さんは帰りました。少なくとも5~6時間はいたよね。入れ替わり立ち替わりで、みんな知り合いなので、最後は三人一緒にお帰りになりました。人が来ると、食べ物も一緒に付いてくる。今日もお菓子がやってきました。さすがに、何も食べてないところにお菓子は食べられないので遠慮してたら、二人でケーキを食べ始めた。よほど勧められたけど、静かにながめていた。これからこういう場面が多くなるだろうなぁーと思いながら・・・二人はそこそこお菓子も食べてたけど、こちらはお茶を飲んでいた。元々、午前中は食べないので、まったく誘惑されることはなかったけど、これが夕方だったら、ちょっと心が動いたかもしれない。まだ先のことなので、何とも言えないけど、誘惑は多そう。先程の話の続き、人はどこまで意識が統合されているかで、その人の精神状態が異なる。争いを好む動物的な人から、自分を顧みず人のために尽くす愛の人まで。様々な人が一緒に暮らしているのが三次元のこの世。でも、これからはその意識状態に応じて別々になるらしい。みんな一緒ではなくなるようだ。みんながみんな五次元へは行かないということだ。それぞれ自分の住みたいところで、自分のやりたいことをやるようになる。それが自然といえば自然だよね。今までが不自然だった。それぞれ波動を同じくする人たちと暮らす方が心穏やかに決まっている。でも、いろんな種類の人たちと一緒にいた方が、いろいろ揉まれて意識は進化するらしい。まあ、そのことを、この世は修行の場と言う人もいるけど。でも、修行の場より、いろんな体験をできる所と言った方が楽しそうだよね。ずーっと悟るまで修行するんじゃ、悟る前に疲れちゃうもの。それに、悟りたい、悟りたいと思っている間は、悟れないわけで。ありとあらゆる体験をして、それらの経験を深く理解して、もうこれで十分となった時に、初めて心は静まるのではないだろうか。もう何も求めない。自ら満たされている状態。成熟した悟りの境地。そんな気がするんだけどね。
2005.01.09
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まだ元旦から食料は何も買っていない。在庫処分が続いている。だんだん減ってはいるけれども、なかなか減らない。でも、減ってくると、当然、食べる物がなくなるので、自然に食べなくなる。食べたくても食べる物がない。なかなかいいよね。このまま一ヶ月ぐらい何も買わなかったら、そうとう食事の量が減るだろう。玄米だけはたくさんあるので、飢え死にすることはない。おかずは、漬物とか福神漬けがもう少しはある。ただ、お茶の葉がだいぶ少なくなってきた。自分一人だったら水でもいいけど、お客さんが来た時に水を出すわけにもいかない。夏場ならまだしも、この時期ではヒンシュクものだ。遠からず買い物には行かなければならないだろう。誰かお茶の葉を持ってきてくれないかな・・・食欲はあまりない。だから、本当は食べなくてもいいのかもしれない。ところが、食べてしまう。お腹が空いているからではなくて、口寂しいから食べてしまう。要は暇なのだね。めちゃくちゃ忙しかったら、食べることなんか忘れるもの。そうでもないから、なんとなく口に入れたくなる。ただそれだけ。それは癖。単なる癖だ。だから、癖を修正すればいいだけのこと。いずれ修正されるだろう。まだ、いいかな。もうしばらくは。食べない方が明らかにエネルギー状態はよい。食べると、そのぶんエネルギーは落ちる。食べる物の方が心身のエネルギーよりも低いので、それにつられて心身のエネルギーレベルも下がってしまう。多く食べれば食べるほど、そうなる。心身にものすごいエネルギーがあって、食べた物を瞬時に同化できれば、それほどエネルギーレベルは低下しないかもしれない。でも、食べ物が増えるのに正比例して、同化のスピードはダウンする。やがて、だんだんと老化していくのだ。心身の波動が、だんだんと遅くなり、物質化していく。墓場へと近づいていく。それが一般的なパターンだ。どんどん未消化のままに老廃物が体内に蓄積され、それが老化を促進する。食べ過ぎることによって老化は加速される。それは間違いのない事実なんだけど、それがわかっていても、なかなかやめられない。習慣というか、癖というか、それが世間一般のありのままの姿だ。その枠を超えられるか、それが問われている。食事を減らし、ゼロにして、物質的なエネルギー状態から、スピリチュアルなエネルギー状態になれるか。もちろん、スピリチュアルになるには、瞑想とか、ヨガとか、いろんな方法があるだろう。無食というのは、その一つの方法に過ぎない。物質的な物を入れないことによって、スピリチュアルなエネルギーが心身を満たす。それによって、心身が光に満たされ、光によって心身が維持される。物質に影響されない光の心身となる。理論的にはそうなるはずなのだが、はたして実際はどうか・・・結論が出るまでには、もうしばらく時間がかかる。
2005.01.08
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今日も朝から菓子パンが二個やってきた。昨夜は松前漬けが、はるばる東京から届いた。ここのところ、ずーっと食料支援が続いている。別に頼んだおぼえはないんだけど・・・最近は、お客さんも多い。今日も朝から知り合いが二人。人が来ると、何か持ってきてくれる。よほど貧乏と思われているのか?でも、屋久島の知り合いには、かなりリッチに見られているんだけど・・・(実は、まったくの誤解なんだけど)でも、いろいろもらうのは事実。ありがたいけど・・・昨日コメントに書いたこと、「無食の次は無呼吸」ということについて、夜、うつらうつら考えていた。食事なしで光で生きられるのなら、呼吸する必要もないだろうし、心臓が動いている必要もないのでは?心肺停止状態で、はたして生きているといえるのだろうか?脳波はどうなんだろう?意識は活動しているわけだから、脳波はありそうな気がする。食事をまったくしなくなったら、消化器官はどうなってしまうのだろう?冬眠状態?まったく必要ないよね。肉体レベルではそうなんだけど、スピリチュアルレベルではどうなのかな?何か他の役割を果たしているのかな?今の段階では、わからない。霊界とかでは、まだ人間の形を保っているよね。でも、更に上の界になると、もう人の形は保っていない。つまり、光になっている。光のバリエーション。必要な時だけ、人の形をとったりしている。人間にその存在を認知させるために、神様や天使の姿になって現れる。本当の姿は光そのもの。肉体というのは、本来的には消化器官が付いているわけだから、やはり食事をするようにできているのではないだろうか。赤ちゃんは本能的に母親のオッパイを求めるものね。それは動物も同じ。本能だよね。食欲は本能だ。それは自然な気がする。では、食事をしないということは不自然なのか?肉体、動物レベルでは、やはり不自然なのかもしれない。食事をする必要がなかったら、元々、消化器官はないだろう。というか、進化の過程で食事をするようになって、消化器官が発達したのかもしれない。生物は進化のどの段階から食べるということを始めるんだろう?虫さんは食べてるね。ミミズさんも食べてる。食べてない生き物というのはいないの?植物は食べてない?根や葉から吸収してるけど、それは食べてるというの?消化器官とかあるの?消化器官はありそうにないね。となると、植物は食べないのか?でも、食虫植物というのもいたりして・・・食べてるね。捕らえた虫を溶かして吸収してるものね。それは消化といえるよね。うーん、よくわからない。時代が進んだことによって、人は食べなくても生きられるようになるの?人体が光化していくの?そうであるなら、当然、呼吸も必要なくなるし、心臓が動いている必要もなくなる。それは消化器官が活動する必要がなくなるのと同じだよね。細胞に直接光エネルギーを送って、細胞自体が活性化するようにすれば、血液はいらないだろう。そうなると、当然、心臓もいらない。でも、神経とかはいりそう。脳も活動してくれないと、いろいろ支障が出るよね。脳軟化症では健全な意識活動はできないものね。いずれにしても、どんどん光化していって、本来の光に戻っていく感じだね。もう肉体から出入り自由になって、光であり肉体でありという感じなのかな。呼吸も、してもいいし、しなくてもいい。食事も同じだね。これまでの人間ではなくなる。やはり、光に至るプロセスなんだね。ここのタイトルは正しかった?「光で生きる公開実験」最初は「光で生きる人へのプロセス日記」というサブタイトルも付いていた。長ったらしいのでカットしたけど。基本的に方向性は間違っていなかったみたいだね。「光の人への日記」だ。かなり前に「光の手」という本が出てたけど、そのうち「光の人」という本が出るかな?もちろん、この実験が成功した暁の話だけど。さて、さて、おもしろくなってきたね。
2005.01.07
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今日でニンジンとタマネギがなくなった、と思った瞬間、フランスパンみたいなのをもらってしまった。その後、「真がにの塩辛」とかいう、ご飯のおかずみたいなのまで届いちゃった。なかなか食料の在庫が減らない。正確に言うと、減ってはいるんだけど、次々と別のが増えている。それでも、冷蔵庫の中は、だいぶ空間が目立ってきた。なんとなく寂しい気もするけど、同時に、どんどん減っていくのが嬉しくもある。ヘンな気分。本当はどっちなんだろう?どんどん減ってほしいのか、それとも減らないでほしいのか。ま、減らないでほしいということはない。ただ、いつもあるものがないのが寂しいだけだ。これから更に減るはずだ。はずなんだけど・・・どうかな?買うつもりはまったくない、けど、やって来るかも・・・なかなか誘惑が多い。前途多難?波高しだ。年賀状が続々と届いている。こちらのは元旦に届いているはずなので、それに対する返事が増えてきた。「無色透明」への反応は様々。kimikimiだったら成功するというのもあるし、とても心配してますというのも多い。自分はとても無理というのは更に多い。まだまだ美味しいものがたくさんあるよ、と誘惑してくれる親切な人もいる。無理しないでね、というのは共通している。いろいろな反応があっておもしろい。無食は自然にそうなるもので、挑戦するものではないというのもあった。確かに。そのとおりだけど、自然に挑戦してみようという気になったので・・・不自然とも言えなくて・・・そういう時期が来たという感じ。もう食べなくてもいいかな、という気分。でも、これまで生まれてからずーっと食べてきたわけで、食べないで生きた経験はないので、やはり挑戦なんだよね。まだ何も食べないで生きていけるのかどうか確信がもてないもの。生きていけるとは思うんだけど、まだやったことがないから自信はない。。やったことがないものは、やっぱり挑戦ではないのかな?自然に食べなくなる、食べないでも生きていける、それもいいと思う。結果的に食べなくなるという生き方。でも、意識的に「もういい」というのもあってもいいだろう。どちらでもいいのかな。自然に、静かに食べなくなる、というのも、なかなか魅力的だよね。こんな公開実験なんか、なんかヘンかもね?ちょっと派手すぎる?もっと静かに地味にやった方がいい?まあ、いろいろあるだろうね。でも、もうスターとしてしまった。してしまった以上、「しまった!」とはいかないのだ。もうしまえないのだ。なんとなく、今日はくだらないことを書いていますね。お読みになっている方、すみません。他に書くものがなくて。まだ特段、何の変化もないもので。それほど食事の量が減っていないということですね。でも、無色透明への道を始めてから、途端に食料が届くようになった気がする・・・気のせいかな?なんか不思議ですね。神は試練をお与えになっている?ハー、神様もたいへんだ。こんなところにまで目を配らなければならないなんて。(すみません、不敬な発言で)まあ、元気に五日目を迎えています。
2005.01.06
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昨夜、インターネットで検索したら、「不食実験の会」というのが見つかりました。山田鷹夫さんの「不食」の本は、かなり話題になっているようです。「リヴィング・オン・ライト」の方は、書名が出てくるだけでした。この公開実験は、「不食」でも「リヴィング・オン・ライト」でもなく、独自の道を進みたいと思っています。それは「無色透明」という道です。「無食」は、もちろん何も食べないこと。「透明」は、何も食べないことによって、どんどん心身が光化し、だんだん透明になっていく・・・三次元的に見ると。そういう道です。誰かと同じことをしても、誰かの後を追いかけても、おもしろくもおかしくもありません。何もエキサイトするものがないのです。山で一番興奮するのは、道なき道を歩く時だもの。当然、危険は付きまとうけど、だからこそワクワクするわけで・・・このような冒険ができるのも、もうしばらくでしょう。あと10年もすれば、特段めずらしくもなくなるかもしれません。「最近はあの人も何も食べなくなったらしいわね」というような会話が普通に話されるようになるかもしれないのです。その時では、まったく新鮮味はありません。やはりTPOはあるわけで、今が天の時。少なくとも実験をやっている本人にとっては、そうなのです。今日から玄米の量を減らすことにしました。なんとなく、もう重たい物は食べたくないという感じなのです。光のような軽いものでいい、と内側では言っているような気がします。でも、一気にゼロにしたら、やはり体が保たないでしょう。ショック症状を呈さないかな?それも頭だけの先入観なのかな?でも、まあ、ここはちょっと抑えて・・・本日のところは、玄米0.75合に。一回で三日分の玄米を炊きます。初日は、温かいご飯。二日目は、チャーハン。三日目は、雑炊にして食べます。今年は元旦に三合炊きました。それを三日までに食べて、昨日は、二日の餅つきでもらってきたお餅とソバと野菜を鍋で煮て食べました。本日まで食料は何も買っていません。食料だけでなく、まったく支出はありません。しばらくは売り食いならぬ、ストック食いとなるでしょう。それもやがて底をつくでしょうが・・・昨日もらったポンカンと里芋とサツマイモは、少しだけいただいて、後は知り合いにあげることにしました。もうそんなに食べたくない心境なので。以外とスピーディに事が運んでいます。この感じだと予定が早まるかも。まあ、そういう時代ではありますね。チンタラやっている時代ではない。地球の波動はますますアップしている。すべてがスピードアップし、すべてが光化していく・・・思ったことが、即、実現する時代へ向かって、どんどん進化している。そういう時代ですね。
2005.01.05
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今日で3日目ですが、特段、変わりはありません。当たり前だ、まだ食事の量はほとんど変わってないもの。昨日なんか、普段より多かったぐらいだ。でも、今日はまだ何にも食べてない。昨日食べ過ぎたから?食べ過ぎたというほど食べてはいないけど。(普段から、ほとんど一食か一食半ぐらい)昨日でストックしてあったサツマイモが底をついた。もう買うのはよそうと思った途端、知り合いが、ポンカンと里芋と、ご丁寧にサツマイモまで持ってきてくれた。「もう何も食べてないの?」と聞かれて、「まだ食べてるよ」と返事したら、「じゃあ、食べる?」とか言って、目の前に出されたものだから、断るのも何だから、もらっちゃった。ハー、なかなか食料が減らないね。もう原則的には買わないつもりなんだけど、もらってたら同じか・・・。早いとこ「無食です」と言えるようにならないと、いつまでたっても食料が底をつかなかったりして?特に、これからタンカンの季節になるから、あちこちからやってきそうなんだよね。屋久島は貧しいけど、タンカンやポンカン、サツマイモだけは、たーくさんあるんだ。それらのものは痩せてる土地でもできるんだね。公開実験を始めた1月2日から、妙にハイテンションです。興奮してるのかもしれない?でも、それだけではないのかもしれない。というのは、夜、寝るために横になると、エネルギー状態がこれまでと違うもの。まず、光の感じが違う。寝る時はアイマスクをしているので、外の光は一切入ってこない。(パソコンで疲れた目を癒すために、冷凍庫に入れて冷やしたアイマスクを目の上に置く。中身は小豆? かなり重たいよ)だから、外の影響ではない。これまでより、光の量が明らかに多いように感じる。精神状態は、極めて落ち着いている。意識状態は、かなり高まっているね。それは、こちらのホームグラウンドである「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPの訪問者が急に増えたということと、この日記の訪問者も予想を遙かに超えて、とても多いので、それで多少はハイになっているところもあると思う。でも、それだけではないんだね。やはり何かが違う。自分の中で何かが活性化している。エネルギーが動いている感じ。まだぜんぜん減食してないにもかかわらず、何かが動き始めている。もちろん、意識的にもエネルギーだけで生きれるように、いろいろイメージしたりはしている。光だけで生きている状態を想像してみてる。それはとても心地よいこと。とても気持ちよい。そういう影響はあるでしょうね。やはり、何も食べないで生きる、と決めたからには、かなり気合いが入っています。それが興奮というかハイテンションをもたらしているのかもしれない。まだ、まったくめげていません。きわめてハイです。はい、これが3日目の心境でした。
2005.01.04
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今日は一応の予定を立てました。現在、一日に玄米一合ですが、当然、3月末にはゼロになるわけです。そのための日数は89日間。中間地点である2月15日には、半合になっている必要があります。計算上は、1月24日には0.75号、3月9日には0.25合となります。まあ、一応の目安ですけどね。ほとんど計画通りにはいかないでしょう。ロボットではないから、生身の体なわけで。でも、一応の見通しがないと、いまどの時点にいるかわからないので・・・一応の目安として。現在、体重は65キロ前後。30代までは53キロ前後で安定してたけど、40代になったら太りだして、現在は65キロ前後で安定してる。でも、見かけは普通だね。けっして太ってはいない。身が引き締まっているのだ。なんたって山のガイドなんだから。もっとも、軟弱コース専門だけど。(そういうお客さんが多いもので)(本人もゆっくり歩きたいし・・・)20代半ばから自然食をしている。だから、もうかれこれ30年ぐらいになるかな。大学生になって上京した時、自分で食事をしなければならなくなって、「人は何を食べて生きるのか」ということを研究したんだね。元々、あまり肉とか食べたくなかったんだけど、現代栄養学では絶対食べなければいけないみたいな感じだったので、けっこう食べてたのです。でも、一人になって、いざ自分で食事をしなければならなくなって、いろいろ研究したんですね。最初は現代栄養学でカロリー計算とかして食事していた時期もあり、その後、ヨーグルトだけ食べてた時期もあります。でも、最終的には玄米自然食がよさそうだということになり、数年かかって玄米菜食で生きるようになりました。肉を完全に終わらせるのに2~3年かかったかな。時々食べたくなるのですね。この経験があるから、今回の無食も無理しないで、慎重にトライしようと思っています。必ず揺り戻しがあるんですね。反作用が起きる。これは短期間の断食をしても同じですね。復食の時が一番難しいのです。反動で一気に食べ過ぎちゃう。断食も一週間を二回しました。断食道場とかには行かずに、自分一人でやった。確かに宿便は出たね。でも、けっこうハードだった。食べ物の誘惑というのは強烈。それしか考えられなくなる。でも、いつかは食事なしで、光で生きるようになりたいと思っていた。そういう時期が来たということだね。直接的なきっかけは、「不食」という山田鷹夫さんが書かれた本が出たこと。もうそういう時期になったのかと思ったね。それから「リヴィング・オン・ライト」という本も出た。これはタイトルの通り光で生きる人生。既に世界では、かなりの人が光だけで生きているらしいということを知った。日本にはまったく情報が流れていなかったけどね。いずれにしても、そういう時期になったというのを感じたね。それで自分もチャレンジしようということになったのです。せっかくだから、後に続く人の参考になるように、光で生きれるようになるまでのプロセスを記録しておこうかなと思ったわけ。それだけでなく、途中経過も公表して、同時進行というのが今の時代に合っているかなと。なにしろインターネットの時代だから。というわけで、このサイトが誕生したわけです。わりと昨日からハイテンションです。なにしろ新しい挑戦が始まったわけで・・・まだ食料のストックがたくさんあるので、変化はこれからだけどね。これからは食料はほとんど買う予定なし。1月一杯ぐらいで、玄米以外の食料は底をつくでしょう。それからが勝負だね。
2005.01.03
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今日からWeb日記をスタートさせます。しばらくは日記がうまくいくかどうか試行錯誤になるでしょう。そのうちに軌道に乗ると思います。この日記の目的は、”無食透明”になれるかどうかの公開実験の模様を中継することです。もっとわかりやすく言うと、何も食べないで生きることができるのかどうか、光で生きることが可能かどうか、の公開実験の進行状況を日記を通してお伝えすることです。食事を減らしていくプロセスで何が起きるのか、ゼロ食になる過程で起きる様々なことを詳しくレポートします。本日から徐々に減食をはじめ、3月末で一般食を絶ち、平成17年7月1日からは何も食べない予定です。後は光で生きるのみです。さて、さて、どうなることでしょう・・・今日は55歳の誕生日です。うまくいけば、これからどんどん若くなるはずですが・・・さあー、どうなるでしょうね。楽しいね、これからが。ま、当分はそれほど顕著な変化はないと思われますが、そのうちにはっきりとした何かが現れてくるでしょう。さあー、さあー、ご用とお急ぎでない方は、お立ち会い、お立ち会い!
2005.01.02
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