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秋田市金足にある日本庭園・水心苑です。 小泉潟公園の奥まった一角にあります。 昨年訪れた時は熊が出没したとして入園禁止となっていましたが、今回は大丈夫でした。 苑内に入ってすぐ大きな池があり、錦鯉が泳いでいました。 自動販売機で鯉の餌を求めてばらまいたら、寄ってくること、寄ってくること。 水心苑は昭和54年(1979年)に開園した回遊式の日本庭園です。 来年には創設40周年を迎えることとなりますが、一緒に行った友人は2人共、初めて訪れたといったのでびっくりしました。 あまり県民には馴染みが薄いんでしょうか。水心苑 | まるまる秋田
2018/07/15
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高遠城址公園は上伊那地方随一の桜の名所沙石集にもある「おしどり物語」 鎌倉時代中期に編纂された仏教説話集・沙石集にも「おしどり物語」がある。 「鴛之夢見事」と題されたその内容は次の通り。 『下野の国の阿曽沼という所に、常に殺生を好む鷹使いの男がいた。あるとき、鷹狩りして帰るとき、おしどりの雄を一羽獲って餌袋に入れて帰った。 その夜のこと、夢に装束が尋常でない女が、恨み深い気色でさめざめと泣き、「私の夫は殺されてしまった。今日召し獲られたのがそれです。」といいながら、 日暮れればさそいしものを あそぬまの 真菰がくれの ひとり寝ぞうき と詠んだ。よく見れば、おしどりの雌だった。 驚き、哀れに思いながら朝見ると、おしどりの雄の嘴を食い合わせて雌が死んでいた。 これを見て発心し、出家して、やがて遁世の門に入ったのだった、と語り伝えられる。 漢土(中国)に似た出来事があり、男は弓矢を捨て、髪を切って仏の道に入った、と法華の教えに伝わる。』(筆者意訳) 古今著聞集のおしどり物語と酷似した内容である。 ただ、鷹を使う馬允は単に男で、あかぬま(赤沼)があそぬま(阿曽沼・阿蘇沼)になっている。宇都宮を通る日光街道と桜並木関東各地に伝わる「阿曽沼のおしどり物語」 下野国阿蘇郡は栃木県にあった地で、現在の佐野市がその中心的存在。 安蘇沼は、佐野市浅沼町付近とされ、阿曽沼広綱が鎌倉時代の初めに築いた下野阿曽沼城の旧跡がある。 城内の一角に浅沼八幡宮があり、おしどり塚の歌碑が設置されている。 広綱は鎌倉政権と奥州藤原氏とが戦った奥州合戦にも参戦しており、その功績で遠野を領した。 宇都宮市一番町にも史跡「おしどり塚」がある。 同所の説明板には、出典を沙石集とし、求食(あさり)川に伝わる猟師とおしどりの話として記している。 千葉県八千代市に正覚院は、寺号を鴛鴦寺といい、おしどり(鴛鴦)伝説で知られる。 鷹狩の男は平入道真円という名に代わり、おしどりの情愛に打たれて出家した話は同じである。 真円が池のほとりに草庵を建て「池証山鴨鴛寺」と号したのが正覚院の始まりという。おしどり寺縁起の語る時代に詳しい。 長野県伊那市富県貝沼に真菰ヶ池の伝説として、「おしどり物語」が伝わっている。古今著聞集の「赤沼」、沙石集「阿曽沼」が、ここでは「貝沼」になっている。 その物語は上伊那歴史散策 ~真菰ヶ池の伝説~に詳しい。 上伊那地方は桜の名所が多いが、その中でも高遠城址公園は突出した名所である。薄紅色に染まる小彼岸桜が小高い城跡を埋め尽くす様は絶景で、シーズンには凄い人出で賑わう。 昨年、中央自動車道で名古屋から甲府に向かう途中、なにげなく下りて寄ったら、折よく満開で、その見事さに酔いしれたのだった。(写真1枚目)沙石集「鴛之夢見事」(国立国会図書館近代デジタルライブラリー・著作権保護期間満了資料)
2017/02/26
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開聞岳と菜の花 カレンダー入りの壁紙をDLする_渡れそうにない「折橋(おりはし)」と残酷な「耳取」 どちらも、地名にしてはちょっと怖い。 新潟県柏崎市に折橋という橋がある。 そうとう古くから存在していた橋のようで、市の図書館が発行したソフィアたより204号に由来が載っている。 『(橋)の工事をしていた村人に弘法大師が渡ら せて欲しいと頼んだが、断られたうえ「お前が渡 るとこの橋は折れるぞ」と悪態をつかれた。橋は 大師が渡り終えた途端に真ん中から折れた。それ で折橋と言うようになった』 まことしやかな説話である。 折には曲折、屈折のように「おれる、まがる」や折半の「分ける」の意味合いがある。 しかし、折が地名に現れた場合は、もっと別な意味をもつことも多い。 地名用字用語辞典によると『おり[下、織、折、居、遠里]①オリ(下、降)で「坂道、下り道。傾斜地のこと」。(以下略)』とある。 立山の主峰の一つに富士ノ折立(ふじのおりたて、標高2,999 m)という傾斜の急な山がある。 折橋という地名は全国に存在する。 茨城県常陸太田市折橋町には、菅原道真を祭神とする天満宮がある。 愛知県東郷町にも折橋があり、同町のホームページでそのの由来を『地形からみて、削り落とされた崖地であると思わる。』と記している。 折橋は、折端(崖地のはし)が転じて折橋となったという説が有力である。 そういえば、当地の折橋は南西面が急に下がった低地になっていて、崖地の端にある地といえなくもない。 折の付く地名は他にも、折尾、折壁、折爪、折戸、折浜、折原、折渡などたくさんある。 横手市大雄には折橋の南に連接して耳取がある。 耳をちょん切るイメージのある耳取は、少々不気味な地名だ。 耳取には、坂上田村麻呂の陣屋跡といわれる将軍邸という字名がある。 平安時代後期の後三年合戦でも戦場になった可能性が高い地でもある。 横手市雄物川町に首塚神社があり、横手市のホームページでは『征夷大将軍「坂上田村麻呂」が、東夷征討の際に戦死者の首級1千を埋葬したことから首塚と名づけられたといわれています。』と紹介している。 耳塚(みみづか)や鼻塚(はなづか)もあり、wikipediaの耳塚に京都市の耳塚として、『豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役1592年~1598年)のうち、慶長の役で戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚。』と記している。 耳取も同じように耳を切って葬った地ともいえそうだが、果たしてそうなのか。 耳取地名は東北地方を中心に数多く存在する。 鏡味明克氏の人体の部位名称に由来する日本語地名の分類では耳に関して次のように記されている。 『【耳】東北地方各地から新潟県にかけて、耳取(みみとり)という地名がある。この地名については、実際に耳を切り取った話とか耳塚などの伝説地もあるが、多くは地形語で、台地や山麓などの端を「耳 」と捉え、その先端部を切り取って耕地を開いた所をいう。図 2(省略)は新潟県見附市の耳取で、直線的に山を切り取った地形がうかがわれる。また耳取峠(鹿児島県など)は、寒風で耳がちぎれるような峠の意といわれる。』 なるほど、パンの耳というように、耳には端の意味合いがある。 わが地の耳取を見ると、確かに折橋に繋がる北部を除いた三方は低地となっていて水田が広がっている。 先人たちは崖地を切り開いて平らにならし、耕地を拡大したのであろう。 耳取には大規模経営の農家が多いのも頷ける。 崖地名の折橋と耳取がここに並立するのは、いたって自然な成り行きだったといえようか。 余談だが、鹿児島県さつま市の耳取峠は開聞岳眺望の絶景ポイントだという。
2017/02/05
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八幡平の峡谷に落ちる曽利滝・雪国ならではの「轌(そり)」と「雪舟(そり)」 かつて、「橇(そり)」は雪国にはなくてはならない冬場の運搬用具だった。 その橇が地名に登場している。 秋田県男鹿市北浦西水口橇坂(そりざか) 宮城県岩沼市南長谷橇(そり) 岩手県奥州市水沢区佐倉河橇町(そりまち) 「そり」は雪の上を滑らせて人や物を運ぶ乗り物だから、「轌(そり)」という国字が誕生した。 「雪車」を「そり」と読ませる地もある。 代表例として秋田県由利本荘市雪車町(そりまち)があるが、昔、街道を「馬ぞり」が行き来して、このあたりで一服していたことが地名の由来といわれる。(参考・地名の由来) 秋田県仙北郡美郷町飯詰轌町(そりまち) 秋田県由利本荘市葛法轌田(そりた) 秋田県能代市機織轌ノ目(そりのめ) 秋田県由利本荘市雪車町(そりまち) 福島県伊達市雪車町(そりまち) 「そり」を実際に道具として使ったと思われる地名があった。 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根橇曳沢(そりひきざわ) 秋田県北秋田市七日市字轌引沢(そりひきざわ) 雪舟といえば、室町時代に活躍した著名な墨画家を連想してしまうが、雪の舟に見立てた「雪舟(そり)」地名もある。 福島県福島市飯坂町雪舟町(そりまち) 福島県福島市立子山雪舟田(そりだ) 福島県須賀川市今泉雪舟田(そりだ) 福島県須賀川市梅田雪舟田(そりだ) 山形県西置賜郡白鷹町高玉雪舟町(そりまつ)・「ソリ」には別の意味があった 「ソリ地名」の「橇」「轌」「雪舟」は果たして運搬用具なのだろうか。 轌田、雪舟田、橇町、雪車町に見られるように、ソリの語尾に田や町の字が付く地名が多い。 田や町が、直ちに運搬用具と結びつくとは思えない。 本来田は、穀物を栽培するために区画された農地をいうが、それが次第に稲田に限定して使用されるようになった経緯がある。(参考・「田」) 漢字・漢和辞典によると、「田」という漢字は「区画された狩猟地・耕地」の象形文字であるという。 このことから、「田」には区画の意味が込められている。 では「町」はどうか。 和語としての「まち」は、宮中や邸宅などの区画を意味する古語で、漢字としての「町」は、本来は、農地などの境界を意味していた。市街の意味の「まち」は国訓とされる。(参考・「町 - Wikipedia」) 「町」もやはり、区画の意味合いを有する。 これらのことから、「ソリ田」、「ソリ町」は「ソリ区画」と置き換えると理解しやすい。 次は肝心の「ソリ」について考察を深めてみたい。 運搬用具には結びつかず、「ソリ」の当て字と思われる「曽利(そり)」地名がある。 秋田県湯沢市小野曽利田(そりた) 兵庫県宝塚市下佐曽利谷(さそりたに) 福島県いわき市遠野町滝曾利田(そりだ) 宮城県宮城郡利府町春日曽利町(そりまち) 日本地名ルーツ辞典(池田光則著)によると『ソリはゾリ、ソレ、ゾレで、当て字は曽利・雪車・橇・轌・鼠入(そいり)・草里(そり)・反(そり)などがある。これから焼畑や切替畑をウソリ、山地や急傾斜地をいうソレ、ゾレがある。』とある。 また、「焼き畑」の地名には、『「そり」とは「焼き畑」を意味した。柳田邦男の「地名の研究」によると、「そり」「そうり」は焼き畑を林に戻した所の意味。』とある。 「ソリ」は焼畑に深い関わりがある訳である。・「ソリ」のルーツは焼き畑休耕地にあり 地名の社会学(今尾恵介)に「ソリ」地名の由来が詳しいので、概略を次に記す。 『ソレ、ソリの付く地名は焼き畑にちなむ地名とされている。 熊本地名研究会の高浜幸敏氏は、日本「歴史地名」総覧(新人物往来社)で開拓地名のひとつとしてソリ・アラシの地名を挙げ、「ソリ・アラシは焼畑をいうとともに焼畑後地ならびに山の急斜面または崩壊地をも意味する。」と解説している。 ソレ・ソリには、他にも次のようなさまざまな漢字を当てられた例がある。 【ソレ】林添(はやしぞれ・愛知県豊田市)、大ケ蔵連(おおがぞれ・愛知県豊田市)、無双連山(むそれやま・静岡県大井川上流部の山名)、柿其(かきぞれ・長野県南木曽町) 【ソリ】木野反(きのそり・福島県塙町)、下反田(しもそりだ・山形市)、曲畑(そりはた・栃木県那須烏山市)、雪車町(そりまち・秋田県由利本荘市)、反町(そりまち) 「角川日本地名大辞典」にある反町という地名のうち、「たんまち」と読むのは横浜だけで、他の栃木県二宮町・群馬県太田市・長野県松本市、そして明治まで存在した旧地名の山形県庄内町の反町もすべて「そりまち」と読む。 そもそも、反という漢字は「元へ戻す」といった意味があるから、何十年という焼き畑のローテーションの中で休耕して森に戻すべき所を指すにはぴったりの字といえるのではないだろうか。 ここで注意すべきは、「ソリ」だけでなく「ソリマチ」が焼き畑を意味するということである。』 このことから、「ソリ」は焼き畑や焼畑後地を指すと共に、傾斜地でもあることが分かった。 八幡平の曽利滝は、国道341号線から急斜面をロープを使いながら降りる深い谷にあり、傾斜地名そのものである。(写真) 古沢典夫氏が、社団法人・東北地域環境計画研究会の第44回研究懇話会で述べた「壮大!働き盛り三代で一巡する焼畑輪」は、焼き畑と「ソリ」をよく理解できて興味深い。 以下はその懇話会の記録要旨である。 『かつて北上山系で行われていた資源循環に基づく焼畑は次のようなものだった。 この焼畑は「ソリ」と呼ばれ、県内各地に残る、草里、曽利田、橇、鼠入などの地名は、焼畑放棄地「草荒(そうり)」と考えられる。 軽米町周辺では80年という長いサイクルの中で焼畑が行われていた。 初めに雑木林を炭焼きのために利用し、伐り取った跡地を焼畑に起こして利用した。 1年目は大豆、2年目はアワを作り、これを3回輪作した後、ソバを3年ほど連作。この後は「ソリ」と呼ばれる耕作放棄地となり、植生は自然状態を回復していく。 初期はススキからアカマツ林の時代(45年)、アカマツの伐採後は、雑木林の時代(25年)へ戻っていく。 焼き畑とその跡地からは飼料、草肥、資材などが供給され、それらの有機物は馬などの家畜と共に有機的に循環していった。 有機物は焼き畑をしない常畑に投入され、多くの作物を育てる役目を担った。 こうした超長期の輪作体型は非常に効率的な土地資源の活用ばかりでなく、病害虫や連作障害にも強く、地力維持に効率的な仕組みであることが、現代の科学から明らかになっている。』・傾斜地に多い「反(そり)」地名 弓なりに反るの「反」を含む「ソリ地名」も多い。「反(そり)」は傾斜地をよく反映している。 運搬用具としての「橇」は、スキー板のように先端部が反り返っているので、「反り」が語源となったのであろうか。 「反町(そりまち)」が訛ったのか、「反松(そりまつ)」地名もある。いや、耕作放棄中に自然が復活して松が育った可能性もある。 秋田県横手市平鹿町浅舞反見(そりみ) 山形県山形市反町(そりまち) 群馬県太田市新田反町町(そりまちちょう) 栃木県真岡市反町(そりまち) 宮城県気仙沼市反松(そりまつ) 兵庫県宝塚市上佐曽利松田(そりまつだ) 宮城県大崎市古川沢田反田(そりた) 福島県二本松市反田(そりた)・数々の「ソリ地名」 「ソリ地名」漢字はまだまだある。 宮城県大崎市岩出山南沢曲田(そりた) 宮城県白石市斎川楚利田(そりだ) 宮城県栗原市高清水新剃田(そりだ) 愛知県豊田市阿蔵町曽理(そり) 石川県輪島市尊利地町(そりぢまち) 石川県白山市河内町下折(そそり) 次も「ソリ地名」と考えられる。 岩手県下閉伊郡岩泉町鼠入(そいり) 福島県伊達市保原町富沢鼠入(ねずみいり) 山梨県南巨摩郡身延町椿草里(ぞうり) 宮城県宮城郡松島町幡谷惣利田(そうりだ) 群馬県みどり市東町沢入(そうり) 福岡県春日市惣利(そうり) 静岡県賀茂郡西伊豆町大沢里(おおそうり) 地名の由来ネットに珍しいと思われる「鼠入(そいり)」の由来が載っていた。 『鼠入(そいり) 岩手県下閉伊郡岩泉町鼠入。「南部方言集」によれば、荒地のことを「ソランバタケ」という。「ソラス」は休田の意味で「ソリ」は休んでいる土地のことをいう。安家(あつか)地方では、焼畑の休耕地を「ソウリ」といい、翌春これを焼くことを「ソウリヤク」という。 地名の由来は、このことから、谷深い渓流の鼠入川中流域の当地で焼畑を荒れ地にしていたことから、「ソウリ」が変化して「ソイリ」になったと考えられている。【角川日本地名大辞典】』(参考・地名の由来ネット-「鼠」の地名) 鼠入を「ねずみいり」と本来の読みの地名もあるが、その由来が「鼠入(そいり)」と同じかは不明である。 横手のかまくらの右下に置かれた箱ぞりは子どもの乗り物だった
2017/03/15
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小岩井農場の桜並木と岩手山です。 国道46号線からまきば園へ向かって進むと、その手前にきれいな桜並木が見えてきます。 ここも、奥に岩手山を配して撮影できる絶景ポイントです。 この日(10日)は雲一つない晴天で桜も満開、絶好の撮影日和でした。 車の通りが激しいので、それを排して撮影するには、車の流れが途絶えるまで辛抱強く待つしかありません。 しかしその間、隣のカメラマンとの会話が弾み、それもまた楽しいものでした。壁紙をDLする カレンダー入りの壁紙をDLするこの写真入りで印刷用のカレンダーを作成する 2Lサイズ A4サイズ撮影地地図 小岩井農場の一本桜です。 岩手山を背景に撮るのが一般的ですが、その位置より東側にずっと寄って撮ってみました。 左の山が犬倉山で、右の山が黒倉山ではないかと思うのですが、定かではありません。 清々しい雄大な風景です。 桜の根元が見えないのが少し気になりますが、このロケーションもなかなかのものです。壁紙をDLする カレンダー入りの壁紙をDLするこの写真入りで印刷用のカレンダーを作成する 2Lサイズ A4サイズ撮影地地図小岩井農場←もっと壁紙を探すなら
2010/05/13
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★六曜とは? 2016年のカレンダーも2月に入っています。 カレンダーを除くとき、なんとなく「大安」はいつだ?、と六曜が気になったりします。 家庭内にお祝い事を控えているようなときなどは、なおさらです。 六曜とは大安、赤口、先勝、友引、先負、仏滅の6種で、通常はこの順序で巡ってきます。 しかし旧暦の月が新しくなると、六曜の起点が変わります。 例えば旧暦の1月は先勝から、2月は友引から、3月先負からと、それぞれ初日の六曜が順に繰り上がるのです。 月と日を足した数を6で割った余りが0なら大安、1なら赤口、2なら先勝という風になります。 大安から始まる月を調べてみると、(5+1)/6=0となる、余りが0の5月です。 随分単純な決め方ですが、新暦の日付上に表記されると、月の途中で突如大安、大安と続いたりすることに不思議な力を感じたりする訳です。 実際、旧暦を使用していた時代は、六曜はたいして気にされなかったようでしたが、新暦上に表記されるようになって、重要視されるようになりました。 ★2017年のカレンダーは2種存在 2017年のカレンダーが2種あることをご存じですか。 まずは、次の2種のカレンダーをご覧ください。 どちらもWEB上に公開されているものです。 出典HP:日めくりカレンダー.com 出典HP:便利コム 上のカレンダーで2月の六曜を見ると、26日は赤口、27日は友引、28日は先負となっています。 しかし下のカレンダーの2月の六曜は、26日は友引、27日は先負、28日は仏滅です。 こうした違いは、3月27日まで続きます。 どちらを信じたらいいのか、これでは人々が困惑してしまいます。 どうしてカレンダーによって六曜に違いが生じているのでしょうか。 その原因は、旧暦2月1日がカレンダーによってずれているからです。 旧暦2月1日を、上のカレンダーは2月27日としているのに対し、下のカレンダーでは2月26日としているのです。 ★どちらを使うべきか 結論からすると、現在は下のカレンダーが主流となっていて、そちらを使うべきです。 私の提供する印刷用カレンダー作成サイト「カレンダー工房」では、これまで上のカレンダー方式に従っていましたが、プログラムを修正して下のカレンダー方式に基づいた六曜表記に変更しました。 2017年のカレンダーが発売される頃には下のカレンダー方式に統一されていくものと思います。 しかし、WEB上で公開されている2017年のカレンダーを使う場合は注意が必要でしょう。 来年のカレンダー作成を考えている方は、安心して「カレンダー工房」をご利用ください。 なお、カレンダー工房の旧暦計算は、フリーのqreki.plを基に算出し、誤差を修正するプログラムを独自に追加して六曜を表示しています。 ★なぜそうなのか 旧暦では朔(新月)になった日を新しい月の初日としています。 国立天文台の暦計算室によると、2017年2月26日 23時59分に朔(月齢0.0)となります。 私もこのサイトで確かめてみました。 翌日のわずか1分前ですが、朔になった2月26日を旧暦の2月1日とすべきが妥当といえます。 月の満ち欠け、つまり月齢は一定ではなく、ブレがあるため、正確に予測するのはとても難しいことなのだそうです。 このため、5年も10年も先の月例を計算すると誤差が増幅し、六曜などの決め方に影響が生じてしまう、というわけです。 従って、できるだけ新しい計算方法に基づいたカレンダーを使うべき、ということになります。 参考文献:国立天文台の暦計算室・暦Wiki
2016/02/05
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ツルウメモドキをいっぱいに飾った大きな竹籠です。 わが家の田んぼの脇の排水路端に灌木が生い茂り、藪になってしまったので、切り払い作業をしています。 そしたら、ツルウメモドキがからみつき、たくさん実を付けていた藪がありました。 もったいないので、実を付けていた枝をていねいに切り取り、家に持ち帰ったら、さっそく家内が活けてくれました。↑携帯の待受用にどうぞ。壁紙をDLする カレンダー入りの壁紙をDLするこの写真入りで印刷用のカレンダーを作成する 2Lサイズ A4サイズ←もっと壁紙を探すなら
2011/10/17
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笹子峠から仰ぐ鳥海山落陽笹子(じねご)は笹の実か 「笹子(じねご)」という難読地名がある。 秋田県由利本荘市鳥海町上笹子 秋田県由利本荘市鳥海町下笹子 「笹子」がなぜ「じねご」なのかというと、コトバンクがヒントを与えてくれた。 同サイトの「笹の実」検索結果。 『・ササの実。じねんご。凶作の年には食料とした。(大辞林 第三版) ・ 竹の実。自然粳(じねんご)。2 酒の粕(かす)をいう女房詞。(デジタル大辞泉)』 「じねんご」が訛って「じねご」。そして笹の実だから「笹子」で、「笹子(じねご)」の由来が理解できる。由来が様々の「次年子(じねんご)」 「次年子(じねんご)」という地がある。 山形県北村山郡大石田町次年子 大石田町立次年子小学校のHPにその由来が載っている。(概略を記載) 『1.冬は雪深く、冬季に出生した子供は翌春に出生届を出したので、次年子となった。 2・開村が大同二年(807)で、この二年から二年子といい、二が次に改められた。 3・じねんごは竹の実のことで、山地の次年子は数十年ごとに竹の実がなることが知られていた。』 など、由来は様々であるが、「じねんご」の語が先にあって、それに「次年子」を当てたとするほうが自然な気がする。 大石田町次年子はそばの産地として知られている。 じねんご地名は他にもある。 福島県伊達市霊山町石田自根子(じねご) 愛知県愛知郡東郷町和合ジ子ンゴ(じねんご) 愛知県みよし市福谷町上地念古(ぢねんご)俳句の季語になった「笹子(ささこ)」 「笹子(ささこ・ささご)」という地名もある。 愛知県蒲郡市大塚町笹子 青森県八戸市南郷大字市野沢笹子 福島県伊達郡川俣町山木屋ササコ平山 この「笹子」も笹の実を地名の由来としているのだろうと考えたが、目からウロコの地名由来は次のように記している。 『笹子 ・山梨県大月市の笹子は、甲州街道の難所笹子峠の麓、笹子川に沿った狭い谷の集落が続く。その名の通り「さ・さ・こ」で、小さい狭い谷を意味する地名だ。「さこ」や「せこ」の仲間の地名で、細(ささめ)や佐々木(ささき)も同類だ。 ・秋田県由利本庄市上笹子(じねご)は「しね・こ」からきており、よじれたようなに鄙(ひな)びた土地の意味だ。 ・島根県松江市笹子は、島根半島にある海岸のささやかな緩斜面にある集落だ。』 しかし、この説では2番目の「じねご」はいいとしても、「じねんご」のように「ん」が入る他の地名は説明できていないように思える。 他の「笹子」地名が、すべてここに掲げた由来に属するかは調査していない。 コトバンクで「笹子(ささこ)」を調べると、 『《「ささご」とも》まだ整わない鳴き方をしている冬のウグイス。冬うぐいす。(出典:デジタル大辞泉)』などとあり、なんと俳句の季語となっている。飢饉を救った笹の実 笹の実は、かつて飢饉の際の救荒食として利用されていた歴史がある。 胆江地区(岩手県奥州市)の飢饉の歴史によると、 『第1期・初期段階 豊作の年の備蓄などで食いのばしができる状況 第2期・中期段階 草の根、笹の実などの自然の食物を主に食べる状況 第3期・末期段階 食べられるものなら何でも食べる状況』などとあり、笹の実は飢饉の糧になっている。笹子にまつわる悲劇 また、戦時中、笹の実を食べたことによる集団流産事件が発生した。 昭和18年、岩手県の山間部で笹の実が特異に結実し、大豊作となった。 食糧不足時代でもあり、さっそく学徒動員で大量に収穫され、食糧営団手でパンに加工して各戸に配給となった。 はからずも、これを食べた妊婦の多くが翌日から流産、早産の中毒症にかかるという事件に発展した。 原因は、笹の実に有毒な「麦角(ばっかく)菌」が寄生したためだったが、国策から極秘事項として真相は公表されなかったという。 (参考HP・戦時下の盛岡中学) 女工哀史で知られる 1979年の映画「あゝ野麦峠」の野麦は笹の実であるという。 Wikipedia「クマザサ」によると、『旧飛騨国(現岐阜県北部)では隈笹の実が野麦(のむぎ)と呼ばれ、野麦峠という地名もある。凶作の年にはその実を食べて飢えをしのいだという。』とある。 近年では、2012年12月2日に中央自動車道上り線の笹子トンネル天井板落下事故はまだ記憶に生々しい。 「笹の実(じねんご)」には悲しい歴史が秘められている。 過去に当サイト「山並みが赤く染まる浅春風景」でも「笹子」に触れている。
2017/03/01
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ヒノキ並木柴田監物と柏木の森 「柏木(かしわぎ)」という地名がある。 全国各地に点在するが、東北地や北海道には特に多い。 次の地名は横手市の一例である。 秋田県横手市雄物川町柏木 秋田県横手市大雄柏木 秋田県横手市大雄柏木南 大雄柏木南の北部、現在、横手市の実験農場がある辺り、江戸時代には広大な柏木の森があった。 田村の開祖、柴田監物が守り育てていたもので、柏木の数は10万本を超すといわれた。 柴田監物は山形城主最上義光(もがみよしあき)の家臣だった人で、故あって田村の地に来て根を下ろし、開拓により秋田藩から辛労免100石を許された郷士だった。 その柏木森が藩主の目に留まり、6代目監物茂昆(しげひで)の代に、「大切にせよ」との趣旨で藩から「制札」を給わった。 制札は「田村の内、柏木野林に立て置く間、下草であっても刈り取ってなならない。正徳三年(1713年)五月日 渋江右衛門(現代文に要約)」との内容が書かれてあり、平成の初期までは柴田家に保管されていたことをこの目で確かめている。 その後、制札の存在は確認していない。 ただし、その柏木の森は、残念ながら現代に引き継がれてはいない。(参考・菅江真澄著「雪の出羽路」)広葉樹と針葉樹に「柏」 一般に柏というと、柏餅などに使われる幅広の葉を持つ広葉樹をイメージする。 柏の葉は古くには食器として用いられ、葉守の神が宿るとされた。 柏木(かしわぎ)は、源氏物語に登場し、王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称であるという。(参考・柏木・(源氏物語) ここでいう柏は柏、栢、槲などとも表記されるブナ科の落葉低木のことを指している。 しかし、針葉樹にも柏の木がある。 Wikipedia-柏によると、 『柏(かしわ・はく) ・ブナ科の木。カシワ。 ・「かしわ(かしは)」または「かへ」とも読み、ひのき・このてがしわ・いぶき・さわらなどヒノキ科の植物を指すことば。』などとあり、広葉樹、針葉樹双方に「柏」がある。 また、マピオン「かやのき」で検索すると、次のような地名が見られる。 岩手県一関市花泉町永井新栢の木 福島県郡山市榧ノ木 愛知県東海市大田町柏ノ木 福島県白河市双石柏ノ木 山口県宇部市奥万倉柏ノ木 カヤ(榧)は、イチイ科カヤ属の常緑針葉樹だが、「柏ノ木」や「栢の木」を当てている。 また、植物のヒノキのことを扁柏(へんぱく)という。(参考・コトバンク・扁柏) 一般に、ヒノキは福島県東南部以南の本州、四国、九州に分布し、杉に次いで造林面積が広く、高級木材として知られる。 木曽ヒノキは特に有名で、神社・仏閣を建てるための木材として古くから使われて来た。(参考・「国産材一覧 Weblio辞書-扁柏」) だが、東北北部にヒノキの自生地はない。 代わって多いのがアスナロである。 アスナロの変種であるヒノキアスナロを青森ひばと呼び、青森県特産の木材として珍重されてきた。 東北森林管理局/青森ひばにその由来が記されている。 『ヒバ(アスナロ、ヒノキアスナロ)由来 北方系のヒバ(ヒノキアスナロ)は、古くから社寺仏閣などの建築材料として珍重された。 津軽藩や南部藩の古文書では、「青森ヒバ」は「檜」と記され、木曽のものは「上方檜」として区別していた。』(概要記載) 「新木偏百樹・ひば」によると、 『アスナロの語源を「明日はヒノキになろう」に由来するというのは誤りで、古くはアテヒといわれ、高貴なヒノキという意味であった。 「明日はヒノキになろう」の 最初のきっかけは、清少納言の「枕草子」である。 有名な青森ヒバは神社仏閣などの建築用材として用いられ、岩手県平泉の中尊寺金色堂、青森県岩木町の岩木山神社楼門数多く残されている。』などとある。 枕草子第40段「花の木ならぬは」『あすは檜の木、この世に近くもみえきこえず。御獄にまうでて帰りたる人などの持て来める、枝さしなどは、いと手触れにくげに荒くましけれど、なにの心ありて、あすは檜の木とつけけむ。あぢきなきかねごとなりや。誰に頼めたるにかと思ふに、聞かまほしくをかし。』(参考・アスナロ) 中国から常緑樹たる「柏」が伝わったとき、日本では落葉樹の「カシワ」と混用してしまったとする説がある。 しかし、木に詳しい専門家の間では「柏」をヒノキ類と認識していたらしい。 「柏(ハク)」と「カシハ」にみる中日文化に非常に詳しい。 「桧山(ひやま)」や「檜山(ひやま)」という地名も東北地方北部や北海道に多い。 桧山はたいてい、ヒノキアスナロがたくさん生育する山がその由来となっている。わが家のヒノキ 「柏木」は、「ヒノキ」地名と見ることが妥当かも知れない。 広葉樹の「カシワ」は木材としての需要は少なく、針葉樹の「カシワ」は木材として有用で、需要も圧倒的に多い。 建築用材としての「柏木」が森や林として守り育てられ、それが地名の由来である可能性が高い。 わが家は柴田監物から分かれた分家である。 江戸時代は大工を業としていたようで、巨大な鋸や大小さまざまな鋸、鳶口(とびぐち)が今に残されている。 柴田家の敷地内には江戸時代後期に建てられた郷倉があり、昭和の中頃まで存在していた。 郷倉の所有者はわが家の先祖で、管理役も担っていた。 そのことから、田村郷の郷倉はわが家の先祖が建てた建物に間違いないと思う。 柴田家との密接な関係から、もしかしたら江戸時代、わが家は柏木の森を管理する役目を担っていたのではないかと推測している。 高級木材のヒノキたる「柏木」を活用し、神社仏閣の建築を業としていたかも知れない。 わが家にヒノキの一種である「サワラ」が、県道に面して並木状に20数本植えられている。(写真) 幹の途中から伐られて2、3本の株立ちになっているものが多いが、太いものは目の高さの幹回りが3m近いものもある。樹齢は200年近いのではないかと推測している。 また、わが家の庭にはアスナロ(ヒノキアスナロかも知れない)も昔から植えられている。 柴田家との関連を考えれば、わが家にこうした木が昔からある理由が分かる気がする。 わが家は柴田姓ではなく、木に関した名字を名乗っていて、家紋は丸に三柏である。 つい最近、わが家のヒノキ並木に若者が運転する乗用車が追突し、4本の木に傷がついた。 幸い、若者は無事だったが、車はかなり壊れた。 江戸時代から生きてきて、初めての事故に遭い、木もびっくりしたに違いない。【追記】柴田監物は江戸時代、頭領(棟梁)だった可能性がある。周囲に柴田氏を名乗る家が数戸あり、すべて大工を業としているからである。
2017/03/03
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鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)・「鶴巻(つるまき)」、「鶴田(つるた)」地名 「鶴巻田(つるまきだ)」や「鶴巻(つるまき)」、「鶴田(つるた)」など、「鶴」の付く地名を全国津々浦々に見ることができる。 秋田県横手市大雄鶴巻田(つるまきだ) 秋田県横手市黒川鶴巻田(つるまきた) 山形県尾花沢市鶴巻田(つるまきた) 宮城県白石市越河五賀鶴巻田(つるまきだ) 福島県伊達郡国見町内谷鶴巻田(つるまきだ) 青森県三戸郡五戸町浅水鶴巻田(つるまきた) 秋田県横手市睦成鶴巻(つるまき) 秋田県秋田市河辺神内鶴巻(つるまき) 福島県伊達市鶴巻(つるまき) 山形県鶴岡市藤島鶴巻(つるまき) 東京都新宿区早稲田鶴巻町(つるまきちょう) 長野県小諸市鶴巻(つるまき) 秋田県横手市静町鶴田(つるた) 青森県北津軽郡鶴田町(つるたまち) 宮城県大崎市松山千石鶴田(つるた) 福島県伊達市鶴田(つるた) 栃木県宇都宮市鶴田町(つるたまち) 兵庫県伊丹市岩屋鶴田(つるた) 熊本県人吉市鶴田町(つるだまち) 鹿児島県薩摩郡さつま町鶴田(つるだ) 山形県天童市田鶴町(たづるちょう) 岡山県岡山市北区建部町鶴田(たづた) 岐阜県海津市南濃町田鶴(たづる)・「鶴」と「水流」に見る類似性 とちぎん付近の地名の由来サイトで栃木県宇都宮市の「鶴田(つるた)」を見ると、この開拓地には鶴がよく飛来し、鶴が舞う年は豊作だったということから、「鶴」と開拓の「田」をとって「鶴田」と呼ぶようになった、という。 また、地形から来た説もあり、鶴の首や植物の弦(つる)のように、細長く曲がった地形だったことが由来になっている、ともある。 東京都の早稲田鶴巻町は、元禄年間、小石川村の田で鶴の放し飼いをしていて、それが早稲田村にも飛来したため、その地に鶴番人を置いたことが由来と伝わっている。 しかし、「鶴」は本来「水流」であるとし、かつて当地を流れていた蟹川と結び付ける説もある、という。(参考・wikipedia-早稲田鶴巻町) "すむいえ情報館"の早稲田鶴巻町の由来サイトでは、次のようの「水流」節を強調している。 『鶴巻は早稲田村の小名で、いわれは小日向村に放し飼いにされていた鶴が飛来するので鶴番を置いたことによる(新編武蔵風土記)というが、それでは「鶴舞」か「舞鶴」になったろう。蟹川の流域なので湧水(水流巻き)が由来だろう。 「水流」は「つる」と読み、湧水が渦巻いている状態をいう。「早稲田茗荷」が採れるほどの清流があった。早稲田鶴巻も各地の「鶴巻・弦巻」の由来と同じで、こんこんと沸き出ずる湧水があったことによると思われる。』 さらに、江戸川小の歴史散歩サイトでは、早稲田鶴巻町の由来説を次のように展開している。 『鶴巻町は高田八幡下を北流する蟹川(金川)と牛込柳町を北流するカニ沢(加二川)の間にあり、この川の間に東西の柵を作ると牛を囲う牧場ができる。「巻」は「牧」である。 鶴巻は古くは弦巻といい、世田谷などの弦巻と同じで、源義家が奥州遠征の時、川で弓の弦を清めたという伝説があるが、史実よりも後生に作られた伝説と思われる。 「ツル」は朝鮮語の荒れ地や原野、あるいは水路のある低地という意味があり、「ツルマキ」とは、水路のある原野の牧場ということになる。』 「巻」は水流が渦巻く説と、牧場の「牧」という説があるようだ。 さて、「水流」と書いて「みずながれ」の他、「つる」と読む地名があることに注目しなければならない。 宮崎県宮崎市大塚町水流(つる) 宮崎県えびの市水流(つる) 宮崎県都城市上水流町(みづるちょう) 宮崎県西都市水流崎町(つるさきちょう) 鹿児島県出水市高尾野町上水流(みずる) 青森県上北郡東北町水流(みずながれ) 山形県飽海郡遊佐町野沢清水流(みずながれ) 岩手県一関市千厩町磐清水流川(みずながれかわ) 鹿児島県薩摩郡さつま町にある「鶴田(つるだ)」について、鶴地名市町村集サイトで「鶴」と「水流」の関係から、地名のおこりを知ることができる。 『大昔の鶴田は湿地が多く、多くの川がくねくねと巡っていた。水の流れに従って川ができるため、湿地帯が多かった。そのような地形を「水流(つる)」と呼んだことから、「水流田(つるだ)」から「鶴田(つるだ)」になった。』ということである。 早稲田鶴巻と同じように湧き水が「出流(いずる)」から「水流(つる)」に、そして「鶴(つる)」に変化したといえよう。 「出流(いずる)」も地名に見られる。 栃木県佐野市出流原町(いずるはらちょう) 岩手県二戸郡一戸町出ル町(いずるまち)・各種の「つるまき」地名 「つるまき」には次のような変化地名もある。 福島県大沼郡会津美里町八木沢鶴ケ巻(つるがまき) 福島県田村郡三春町鶴蒔田(つるまきた) 東京都多摩市鶴牧(つるまき) 東京都世田谷区弦巻(つるまき) 佐賀県唐津市肥前町鶴牧(つるまき)・「津留」、「都留」も「ツル地名」 九州地方に多い「津留(つる)」も、これまで示した「鶴」地名と同じ由来とする見方がある。 熊本県玉名市津留(つる) 大分県大分市今津留(いまづる) 佐賀県伊万里市波多津町津留(つる) 福岡県みやま市瀬高町東津留(ひがしつる) 三重県多気郡多気町津留(つる) 地名考サイトによれば、津留(つる)は、『山あいの平地で川や水流のある場所の地名に多く使われる。九重連山の内懐にある湿地「坊がつる」も、やはり中央を鳴子川が流れている。山梨県の「都留(つる)」も「津留」の一種かも知れない。「水流」と書いて「つる」と読ませることもある。「山の名前で読み解く日本史」(谷有二著 青春出版社)によると、韓国・朝鮮語では平野を「トゥル」と呼ぶ。なお、同書は、山梨県の都留に昔、百済人が大勢住んだとの伝承に触れている。』などとある。 一方、山梨県都留市(つるし)について、wikipedia-都留市には、『「都留」は都留市の位置する桂川(相模川)流域の地域が富士山の裾野を蔓のように延びており、その様子から「連葛」、「豆留」(いずれも「つる」)とよばれていたことに由来するとされている。』とある。 「ツル」の朝鮮語由来については、先に記したものとは若干ニュアンスに相違がある。・「鶴岡」、「鶴見」の歴史をたどる 神奈川県の海岸部一帯には「鶴」の付く地名が多い。代表的なのは鶴見(横浜市鶴見区)で、他に鶴が丘(横須賀市)、鶴が台(茅ヶ崎市)、鶴巻(藤沢市・秦野市)などがある。 建物で著名なものは、鎌倉の鶴岡八幡宮であろうか。(冒頭の写真) 鎌倉八幡宮とも呼ばれ、親しまれている。 神奈川県民も知らない地名の謎(日本地名の会)に「鶴岡」の起源が紹介されている。 『若宮大路を抜けると、鎌倉観光のメインともいえる鶴岡八幡宮にたどり着く。 鶴岡八幡宮のはじまりは、鎌倉幕府を開いた源頼朝が治承4年(1180年)に現在の地に八幡宮を据えたことに起源を持つが、実はその前から鎌倉には「八幡宮」はあった。 神奈川県の海沿いには「鶴」の字を付けられたものは少なくない。(中略) 鳥の鶴との相関関係は定かでないが、地名学で考えると、「ツル」は「水流(つる)」につながるとも考えられる。 つまり、水の流れる場所が「ツル」といわれることが多く、時代を経るにつれて「鶴」の字が当てられることによって、現在見られるような地名になった。』 神奈川県横浜市鶴見区の「鶴見(つるみ)」の由来については二つの説があるという。 鎌倉時代に源頼朝がここで鶴を放ったのが由来という説と、「ツル」は、水路や河川の周辺地をいい、「ミ」は、周りや巡りという意味を持つので、「鶴見」という名前がついたという説である。 (参考・神奈川県横浜市鶴見区「鶴見区」の由来) 山形県鶴岡市の「鶴岡(つるおか)」は、鶴ヶ岡城をその地名の由来としている。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、上杉氏に代わって山形城を本城とする最上義光が庄内地方を支配することとなった。これにより義光は24万石から57万石を領有する大大名となった。 義光は庄内地方の拠点として大宝寺城などの拡張整備に努め、酒田浜に大亀が上がったことを祝して東禅寺城を亀ヶ崎城と改称した。 この時に「鶴亀」の縁起を担いで、亀ヶ崎城に対し大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称した。 最上氏がお家騒動で改易された後、庄内地方には信濃国松代城より酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定めて近世城郭へと大改修し、亀ヶ崎城を支城とした。 以来、鶴岡は庄内地方統治の中心となった。・数々ある「鶴」の温泉地 「鶴」の字の付く温泉地も数多く存在するが、真実性はともかく、多くは鶴が傷を癒すため温泉を利用したことが由来となっている。 鶴名温泉集サイトから幾つかを由来とともに紹介する。 鶴居温泉(北海道阿寒郡鶴居村)・タンチョウが生息する酪農地帯として知られる鶴居村にある。 鶴の湯温泉(北海道勇払郡安平町)・病んだ鶴が沢地に舞い降りて行き、冷泉に湯浴みして病気を治し飛び去っていくのを見たことにヒントを得て、ケガをした人や家畜をこの泉に浴させたら効能があったので、ツルの温泉と名付けられ、それが「鶴の湯温泉」となった。 鶴の湯温泉(秋田県仙北市)・地元の猟師勘助が、傷ついた鶴が湯で傷を癒すのを見つけたことが、そのまま鶴の湯の名に残った。乳頭温泉郷の中で最も古い歴史を持ち、秋田藩主の湯治場だった由緒ある温泉。 呼鶴温泉(山口県周南市大字安田)・八代の鶴にちなんで、縁起もので呼鶴という名前をつけたようである。 蘇鶴温泉(高知県吾川郡いの町)・昔、平城天皇の第三皇子高岡親王が大内に滞在の時、一羽の矢傷を負った白鶴が飛んできて温泉に浸ったが、数日で傷が治って飛び去っていったので、親王が薬泉であることを知り、名付けた。 鶴木山温泉(熊本県葦北郡芦北町鶴木山)・地域の地名から名付けられたと思われる。 湯の鶴温泉(熊本県水俣市)・平家の落人が、傷ついた鶴が湯あみするのを見て湯の存在を知り、「湯の鶴温泉」と名付けられた。 秘湯で知られる鶴の湯温泉(秋田県仙北市)は、若い女性にも人気が高い・鶴の民話の里 鶴は民話にも数々登場する。(参考・鶴の民話) 山形県南陽市の織機(おりはた)川のそばに、古くから民話「鶴の恩返し」を開山縁起として伝承している鶴布山珍蔵寺がある。 地域に伝わる多くの民話を伝承するために、「夕鶴の里」資料館が建てられている。 鶴に関する地名はまだまだ数え切れないほど存在するが、他は割愛させていただく。
2017/03/16
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耕しているだけのわが家の畑に野生動物がたくさんやってくるようで、あちこちに足跡が付いています。 これはたぶん、キツネです。 数年前、隣接の小さな森に熊が現れたと騒ぎになったことがあります。 ここは横手盆地のど真ん中で、山のない所ですがネ。
2021/08/22
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桂瀬の四十八滝(秋田県北秋田市)大仙市の「四十八(しじゅうはち)」は清水の里 「四十八」地名を集めてみた。 秋田県大仙市上野田四十八(しじゅうはち) 愛知県豊橋市山田町四十八(よつや) 広島県廿日市市大野四十八坂(じゅうはっさか) 愛知県知多市日長四十八田(しじゅうはちだ) 菅江真澄は月の出羽路・上野田邑(こうずけたむら)の項で、『四十八村 この村に四十八個所の寒泉あり。そもそも、四十八清水邑といっていたが、長くて呼びにくいので清水を省き、しじゅうはちむらというようになった。(筆者。現代語訳)』と記している。 岩手県下閉伊郡山田町に四十八坂があるが、曲がりくねった坂がいくつも続いた難所で、この名前が付けられた。 愛知県豊橋市の四十八は「よつや」と、珍しい読み方をする。 浄土宗の教えに「四十八願 (しじゅうはちがん)」があり、法蔵菩薩 が仏になるために立てた48の願のことを指す。 また名字にも「四十八願(よいなら)」があり、佐野市や足利市など栃木県に見られる。浄土宗の「四十八願」に由来するという。(参考・名字由来net|四十八願) 全国各地に「四十八滝」がある。 四十八滝 秋田県北秋田市桂瀬 鳳鳴四十八滝 宮城県仙台市青葉区作並 赤目四十八滝 三重県名張市赤目町長坂 宇津江四十八滝 岐阜県高山市国府町 住田四十八滝 岩手県気仙郡住田町 寺沢川四十八滝 遠野市宮守町宮守 この中で最も知られているのは「赤目四十八滝」だろうか。 「日本の滝100選」にも選ばれ、ハイキングの名所となっている。 北秋田市桂瀬にある今木神社の四十八滝は、国道105号線から阿仁川を渡って程ない所にある。(写真上) 周辺にたくさんの滝があるわけではなく、いわれや歴史などを知る人は少ないという。 日光いろは坂は、「い」「ろ」「は」...と続く「48」ものヘアピンカーブが続く坂として知られる観光名所である。 四十八手は相撲の決まり手数の俗称。 花札の一組は48枚。 無くて七癖あって四十八癖ということわざがある。 なぜか、「48」のつくものは多岐にわたり、多々あることの代名詞にも使われているようだ。「四十九院」は「しじゅうくいん」とも「つるしいん」とも 「四十九」の付く地名も見られる。 三重県伊賀市四十九町(しじゅくちょう) 滋賀県犬上郡豊郷町四十九院(しじゅうくいん) 石川県加賀市山中温泉四十九院町(しじゅうくいんまち) 角川日本地名大辞典によれば、石川県加賀市と滋賀県豊郷町の「四十九院」は、行基菩薩が49か寺を建立したという伝説に由来するという。 また、「四十九院」を「つるしいん」とする名字もある。(参考・四十九院」の名字の由来) 字地には見当たらないが、福島県伊達市保原町に「四十九院」という地があり、飴買い幽霊話が伝わる。いろいろある「五十」地名 「五十」の付く地名はバラエティに富み、読みも様々だ。 まず、「五十」を素直に「ごじゅう」と読む地名を列挙する。 秋田県横手市平鹿町上吉田五十田東(ごじゅうでんひがし) 福島県南会津郡南会津町宮沢五十苅(ごじゅうがり) 岩手県一関市五十人町(ごじゅうにんまち) 愛知県稲沢市矢合町五十歩(ごじゅうぶ) 千葉県南房総市和田町五十蔵(ごじゅうくら) 福島県須賀川市小倉五十目(ごじゅうめ) 「五十」の語尾を詰めて読む。 秋田県秋田市上新城五十丁(ごじっちょう) 福島県耶麻郡猪苗代町三ツ和五十軒(ごじゅっけん) 宮崎県都城市五十町(ごじっちょう) 福岡県福岡市南区五十川(ごじっかわ) 「五十」を「ごと」と読む。 愛知県豊田市西丹波町三五十(さんごと) 福島県耶麻郡猪苗代町長田西五十滝(ごとおたき) 「五十」を「いか・いが」と読む。 秋田県由利本荘市五十土五十土(いかづち) 山形県長井市五十川(いかがわ) 新潟県佐渡市北五十里(いかり) 新潟県上越市頸城区五十嵐(いがらし) 新潟県東蒲原郡阿賀町五十島(いがしま) 埼玉県本庄市五十子(いかっこ) 富山県高岡市五十辺(いからべ) 富山県高岡市五十里(いかり) 静岡県藤枝市五十海(いかるみ) 愛媛県今治市五十嵐(いかなし) 「五十嵐(いがらし)」はよく知られた名字でもある。 民俗学の広場に「五十嵐」の名字の由来が詳しい。 『・新潟県中部に五十嵐川(いがらしがわ)や五十嵐浜(いがらしはま)がある。 ・五十嵐川は古くから氾濫の多い川といわれていたが、「イカラシ」=「イカリ」で、溢れるという意味を持つ。 ・新潟市の五十嵐浜がルーツという説もある。「五十」は「いそ」と読み、「磯」のこと。「いそあらし」が訛って「いそらし」「いからし」となった。 ・語源は、アイヌ語の「物見台地」「吹き荒れる荒地」など諸説ある。第十一代垂仁天皇の皇子の五十足彦命(いかたらしひこ)がこの地を開拓したことによる。 ・五十嵐は、古くは伊加良志と書き、アイヌ語で「見晴らしのきくところ」という意味。』 「五十鈴」は「いすず」。 山形県山形市五十鈴(いすず) 三重県松阪市五十鈴町(いすずちょう) よく知られた三重県の「五十鈴川(いすずがわ)」は、伊勢神宮の聖地を流れる。 五十鈴神社『宮司の社務日誌』によると、『清らかな美しい響き、という「濯(すす)ぎ」を語源とした説』が有力であるという。伊勢神宮を流れる五十鈴川の御手洗場 その他種々の読みもいろいろ。 山形県鶴岡市五十川(いらがわ) 「五十川」の地名の由来は、五十は数の多いことを指し、「沢山の流れを集めて流れる川」の意味でもある、としている。 山形県村山市五十沢(いさざわ) 福島県福島市立子山五十保内(いさぼうち) 新潟県新発田市五十公野(いじみの) 石川県輪島市門前町五十洲(いぎす) 栃木県足利市五十部町(よべちょう) 「五十部」の名字の由来を見ると、『伊与部・五百部とも書き、「いよべ」とも読んだ。地名の由来は、古代の余部郷にちなむという。』などとある。
2017/03/06
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成瀬川と真人山 カレンダー入りの壁紙をDLする掵の古文書1.「掵」地名は秋田県南に特化 掵(はば)という珍しい字が付く地名が秋田県内に点在している。 そのすべてが横手盆地に存在するもので、それも南部に集中している。 マピオンで住所検索すると、次の32件が見つかった。そのいずれもが秋田県内である。 秋田県湯沢市二井田二ノ掵 秋田県湯沢市二井田掵上 秋田県横手市増田町亀田掵 秋田県湯沢市三梨町犬掵 秋田県横手市十文字町腕越上掵 秋田県横手市十文字町上鍋倉上掵 秋田県横手市平鹿町下鍋倉上掵 秋田県横手市平鹿町下鍋倉下掵 秋田県横手市平鹿町下鍋倉中掵 秋田県横手市増田町亀田上掵 秋田県湯沢市駒形町大門掵 秋田県湯沢市駒形町東福寺掵 秋田県仙北市角館町白岩下掵 秋田県雄勝郡東成瀬村田子内上掵 秋田県仙北市角館町白岩新下掵 秋田県横手市十文字町上鍋倉掵大道西 秋田県横手市平鹿町醍醐掵下 秋田県横手市増田町荻袋掵上 秋田県横手市増田町荻袋掵下 秋田県横手市増田町熊渕掵上 秋田県横手市増田町熊渕掵下 秋田県湯沢市川連町掵下 秋田県横手市増田町荻袋菅生掵下 秋田県湯沢市三梨町飯田掵下 秋田県湯沢市川連町大掵下 秋田県湯沢市川連町高掵下 秋田県湯沢市駒形町大門掵下 秋田県雄勝郡羽後町貝沢掵ノ上 秋田県横手市増田町熊渕掵堂ノ下 秋田県横手市十文字町上鍋倉掵下清水田 秋田県横手市十文字町上鍋倉掵下中道添 秋田県横手市十文字町上鍋倉掵下屋布後 町村別に見ると、横手市(18件)と湯沢市(10件)で大半を占め、それに隣接する東成瀬村と羽後町に各1件ずつで、他は仙北市角館町に2件存在するのみである。それらを地図上で見ると、仙北市を除いてはみな、雄物川とその支流である皆瀬川や成瀬川に沿った地域にある。つまり、河川の両域に広がる河岸段丘に位置しているのである。 このことから、河岸段丘に開かれた地を掵と呼ぶのであろうと類推できる。 2.「掵」は秋田県南で誕生した国字 漢字辞典オンラインで「掵」の意味を調べると『人名や地名に用いられる字。「掵上(はばうえ)」は秋田県の地名。』とあり、さらに種別は国字となっている。 秋田県以外に掵の字が地名に存在する可能性はゼロではないが、秋田県南特有の文字といって差し支えないだろう。 この地域限定の国字はJIS第2水準の漢字に収録されている。そのため幸いなことに、この字はほとんど知られていないにも関わらず、パソコンなどの電子機器で苦労なく表示することが可能になっているのだ。3.「ハバ」という地名は他にもある 掵のほかに、羽場(はば)という地名もたくさん存在する。再びマピオンで住所検索すると、74件が見つかった。県別では岩手県 (22件)、宮城県 (19件)、秋田県 (18件)、長野県 (7件)、福島県 (3件)、石川県 (3件)である。 秋田県の詳細は次の通りである。 秋田県湯沢市皆瀬羽場 秋田県大仙市下鴬野羽場 秋田県湯沢市皆瀬下羽場 秋田県湯沢市皆瀬中羽場 秋田県湯沢市森熊ノ堂上羽場 秋田県横手市十文字町植田羽場 秋田県横手市増田町戸波羽場 秋田県横手市増田町三又羽場 秋田県仙北郡美郷町浪花羽場 秋田県横手市増田町三又羽場下 秋田県横手市十文字町植田上羽場 秋田県横手市十文字町植田下羽場 秋田県横手市十文字町鼎下羽場 秋田県横手市増田町戸波下羽場 秋田県横手市増田町三又五輪羽場 秋田県湯沢市駒形町戸波上羽場山 秋田県湯沢市駒形町三又上羽場 秋田県横手市十文字町梨木羽場下 羽場もやはりすべてが横手盆地に存在し、大半がやはり南部に集中していて、河岸段丘領域に属しているのは掵と変わりない。 横方向の広がりの度合を指すのが幅であるが、大字典(講談社)によるとフチやヘリという意味もあるので、地名では傾斜地に使われていると類推できる。 幅と巾も地名に存在する。 マピオンで調べると、幅地名は全国に64件存在する。そのうち秋田県は次の6件である。 秋田県湯沢市小野幅 秋田県大仙市太田町川口幅 秋田県由利本荘市西目町西目上幅 秋田県湯沢市秋ノ宮幅ノ上 秋田県湯沢市秋ノ宮下幅 秋田県由利本荘市東由利宿幅野 秋田県にはないが、幅と同義で使われる巾も地名に使われており、マピオンで検索すると全国に19件見つかった。4.「掵」には横方向の広がりの意味もある 資料として掲げた古文書を見ていただきたい。 この中に「堰口掵壱尺」の記述があり、掵は横方向の広がりを示す幅と同義に扱われている。 この文書は、横手市のある村々が水を取り込むための水路口の幅を取り決めした文書の一部である。明和元年(1764年)、水路の幅を巡って4か村にいざこざが発生したため、宝永2年(1705年)に取り決めした文書を探し出して再確認し、藩の役人に差し出した内容となっている。 稲作中心のこの地域では、田圃へ引く水を確保することは死活問題であった。掵に命が含まれていることに、ある重要な意味が隠されているような気がする。5.木偏の「椧」もある 掵ではなく、「椧」の字の付く地名が唯一秋田県にある。 秋田県大仙市四ツ屋字椧田 「椧田」は「ばばだ」と読む。 ただしgoogleの地図検索では「椧田」を「ばば田」と表示している。椧はJIS第1、第2水準漢字に登載されていないからである。 掵で代用している地図も見受けられる。 中国サイト新華字典で椧を検索すると、韓国漢字で寺名として表示され、意味はガーターつまり溝となっている。 実際、韓国サイトで、椧は地名として多数出てくる。 椧谷里(명곡리 ミョンゴッリ)・大邱広域市 椧溪(명계 ミョンギェ)・慶尚北道慶州市 椧洞(명동 ミョンドン)・慶尚南道梁山市 こうして見ると、韓国では椧が南部の地名に多い。 慶尚南道は倭が支配したとされる任那日本府と重なり、日本との交流が深かった地でもある。 稲作の歴史は中国長江流域から始まり、朝鮮半島を通じて日本にもたらされという説が有力である。6.木偏と手偏の紛らわしさ 結論から先にすると、韓国で作られた「椧」の字が、朝鮮半島の渡来人から日本の秋田に持ち込まれて同様の意味を持つ崖地名のハバに充てられ、その多くが「掵」に変化したのではないかと私は考えている。 それを示すために木偏と手偏の関係を調べてみる。 実は、木偏と手偏は古くから混用されてきた歴史がある。 実際、掲載した古文書の掵を見ても、偏は扌(てへん)にも、木(きへん)にも読み取れる。 『西方指南抄』、『三帖和讃』における親鸞聖人の漢字字体の特徴について(鎌倉時代語研究第17巻 藤田夏紀著)によると、書写体においては木偏の字が手偏に書かれることはよくあることしている。また『干禄字書』には、正字が木偏、異体字が手偏の漢字(枉、横、様)が3組記され、その逆の正字が手偏、異体字が木偏の漢字が(札、杞、栓、枉、桓、棒、棧、櫛、構、檢、櫓、椳、楓、樻、梯、横、極、様など)24組記されているとある。 さらに、木偏に関してみれば、『打聞集』では71%、『法華百座聞書抄』では26%、『三宝絵詞』で43%に、『宝物集』では84%の字が手偏で書かれているのに対し、『三帖和讃』は手偏で書かれるものは一例もなく、すべて木偏で統一されているとしている。 一方、手偏に関しては、「權、極、樣、構、模」は全用例が手偏で統一されている資料が多いが、『三帖和讃』、『西方指南抄』はこれに反し木偏で書かれる用例が多いとしている。 さがみ【相模/相摸】やもほう【模倣/摸倣】のように木偏、手偏双方が使われている例もある。 このように考えると、椧が掵に、つまり木偏が手偏に変化したのは自然の成り行きと考えることができる。崩し字では「オ」の形状が木偏とも手偏とも紛らわしいからである。 写真は成瀬川橋(横手市増田町)から望む景色である。この周辺には「掵」や「羽場」の付く地名がたくさんある。【追記 2017/03/12】 難語地名辞典(東京出版)に「掵」の例として、『「掵上(はばうえ) 秋田県湯沢市二井田」。「掵田(ばばだ) 秋田県大曲市(現大仙市)四ツ屋」』とあるが、「掵田(ばばだ)」は「椧田(ばばだ)」が正しいので、これは誤記である。
2017/02/12
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蛭藻沼から眺める冬の落陽です。 撮影は2017年12月23日。二十四節気の一つ「冬至」の翌日でした。 冬至は一年で昼が最も短い日です。 できるならその日に撮りたかったのですが、あいにく太陽は出ずじまいで、仕方なく晴れた翌日に訪れたのでした。 太陽が最も南下する日が冬至ですが、その頃蛭藻沼の裏山から望むと、ちょうど鳥海山の真上に陽が沈むのです。 ダイヤモンド鳥海を撮影できるという訳。 最も、それは運がよければの話です。 西高東低の気圧配置がはびこり荒天が常態のわが方の冬場にあっては、極めて望み薄の計画なんです。 この日も晴れてはいましたが、上空は霧が覆っていたため、最後まで鳥海山は姿を見せてくれませんでした。 うーーん残念! この場所は、広域農道から山に入ったリンゴ園を俯瞰する高台にあります。 展望地点は下の藪を刈りはらって見通しが利くようになっています。 雪がなければそこまで車で登れるのですが、あいにく道は30センチほどの積雪で閉ざされていました。 「しまった、スノーシューを持ってくるべきだった」というのは後の祭り。 農道脇に車を停め、やむなく雪にずぼずぼと長靴をくぐらしながら登り続けたのでした。 直線距離なら100mほどですが、道路は曲がりくねっているため200m以上あるでしょう。 私はその長丁場が嫌でショートカットし、直登することに決めました。 怪我で片手が不自由な身にとっては藪漕ぎしながらの登攀はなかなか大変でしたが、なんとかクリアしました。 これで鳥海山がばっちり見えたら文句なしでしたがねー.... ここ10年ほど毎年蛭藻沼からのダイヤモンド鳥海を狙っていますが、撮影に成功したのはたった一度きりです。
2018/01/11
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昨日に引き続いて蔵王から紅葉便りです。 刈田岳登山リフト乗り場の駐車場から望む紅葉風景です。壁紙をDLするカレンダー入りの壁紙をDLする 刈田岳山頂のレストハウス付近ではナナカマドの実が赤く色づいていました。 奥の山は熊野岳です。 登山リフトを降りてお釜を目指す人の群れが見えます。壁紙をDLするカレンダー入りの壁紙をDLする
2007/10/18
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ダイヤモンドダストが輝く森吉山のブナ林です。 雲間がわずかに開いて陽光が漏れ出し、冬のブナ林を照らし出したその時、空中にキラキラと光るものが舞い始めました。 空気中の小さな氷の粒が太陽の光を受けて光るダイヤモンドダストです。 写真ではその美しさを伝えきれないのが残念ですが、微小な宝石がキラキラ光って舞い落ちる、そんな感じなのです。画像全画面表示(フルスクリーン表示で迫力ある画像をお楽しみください)壁紙をDLする カレンダー入りの壁紙をDLする印刷用のカレンダーを作成する 2Lサイズ A4サイズ 阿仁スキー場のゲレンデに沿って続く冠雪のブナ林です。 ゴンドラを降りたあたりは標高が高く、ブナの木々は雪に覆われています。 スキーで滑降する合間に、わずかに見えた青空を入れて撮ることができました。 このすぐ上が樹氷原ですが、この日はスキーを楽しみながら、ゲレンデ周囲のブナ林だけを巡って帰りました。画像全画面表示(フルスクリーン表示で迫力ある画像をお楽しみください)壁紙をDLする カレンダー入りの壁紙をDLする印刷用のカレンダーを作成する 2Lサイズ A4サイズ撮影地地図←もっと壁紙を探すなら
2010/01/11
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_横手市に「傾城塚(けいせいづか)」という地がある。 マピオン-傾城塚で検索して表示された地名は次の2個所。 秋田県横手市大雄傾城塚 秋田県横手市大雄傾城塚南 この傾城塚は当サイト、地名こぼれ話3・渡れそうにない「折橋」と残酷な「耳取」に出てくる耳取とは街道を挟んだ西側の地である。 菅江真澄-Wikipedia「雪の出羽路」によると、傾城塚は『傾城を生ケながら埋し塚とも、また大森ノ城ありつるころの一里堆(ツカ)なンど、そのとゆえよし定かならず。』と記している。 傾城塚には寿松木(すずき)重胤が明治10年に建立した「名妓碑」があり、大雄村史に、地元に伝わる物語として次のように記されている。 『昔、大森の殿様が京から傾城を連れてきたが、田舎暮らしになじまず返すことになった。殿様は金銀を与え家来に送らせたが、家来たちはここまで来て財宝を奪い、傾城を生き埋めにして帰った。』 横手市内に傾城塚は他にもある。 菅江真澄「雪の出羽路」によると『浅舞に五塚、五沼とてあり。其五塚といへるは、「傾城塚」。此の傾城塚は田村の耳取野にもあり。そは傾城を生ケなから埋しとも、又野に倒れふしたる傾城の屍を埋て供養せし処とも、其由来さだかならず。』とある。 その地は吉田城に近く、今、横手市営傾城塚墓園となっている。 大森城、吉田城とも戦国時代、小野寺氏の本拠となった横手城の支城であり、定かでないとしながら、傾城塚の由来が似通っているのは単なる偶然とはいえない気がする。 静岡県磐田市に「傾城塚」と呼ぶ墓所がある。 磐田市観光協会/千手の前からその由来を要約した。 『千手は、長者の娘として静岡市手越で生まれた。平重衡との恋物語は「平家物語」などに登場し、能や歌などに語り継がれている。重衡が処刑された後に尼となり、白拍子村で24年の生涯を閉じるまで重衡の菩提を弔ったということである。千手の墓は「傾城塚」と呼ばれ、地域の人たちに大切に守られている。』 絶世の美女のたとえに傾城傾国、一顧傾城という語がある。 その美しさ故に人心を惑わし、やがて国や城が傾いて滅びてしまうことを表している。 絶世の美人の代名詞だった「傾城」は、いつからか「遊女」を指す語になった。 山形県新庄市二枚橋に「傾城壇(けいせいだん)のスギ」がある。 『京都から恋仲の若者を追って想い適わず死をとげた傾城をここに弔ったと言われている。成仏せぬ女の魂のためなのか、スギの枝は、今もなお秋田の方を向いて伸び、反対側は枯れている。』最上地域観光協議会・巨木の里探訪から引用。 東三河の伝説に傾城塚があり、次はその概要だ。 『その昔、竹腰三信が新田を開発しようとしたが、堤防の締切りに失敗続きで困っていた時、一人の遊女が通りかかり、「堤防を締切るには人柱を入れるとよい」と言って自ら人柱になることを望んだ。三信は遊女の気持ちを受けて人柱にしたところ、たちまちにして堤防締切りに成功したという。三信は塚を築いて遊女を丁重に弔った。』 長崎市のHPわがまちの自慢120選に「傾城塚・ピントコ坂」が次のように紹介されている。 『唐商何旻徳(カ・ピントク)が国禁を犯した疑いで処刑された際、馴染みの遊女で阿登倭(オトワ)が後を追い、自ら命を絶ちました。このとき里人たちが哀れみ碑を建て、この地は傾城塚と呼ばれるようになり、以後近くの坂を旻徳にちなんでピントコ坂と呼ぶようになりました。(以下略)』 このように「傾城」にまつわる伝説は全国各地に伝わるが、そのほとんどが遊女の悲哀物語である。見立吉原五十三対・傾城道中双六 国立国会図書館デジタルコレクション・インターネット公開(保護期間満了)
2017/02/14
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富山県高岡市の雨晴海岸から望む日本海と北アルプスの大絶景です。今回、初めて訪れました。海を隔てて3,000M級の高峰を拝めるなんて、世界的にも珍しい稀有な景色でしょう。右手に一際高く聳えるのは剣岳です。魔の山と恐れられる岩峰ですが、2015年に登頂したので、感激もひとしおでした。
2019/04/19
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