扇子を渡す
北朝鮮旅行記５日目扇子を渡す
空港へ向ふ。
車中で、「持つてきて、余つたものなのですが、良かつたら使つていただけますか？」と袋をキムさんに
渡した。
中身はポケットティッシュ、ライター、電池、懐中電灯、ボールペン（お土産のつもりで10本セットを２つ
持つてきてゐたが渡す機会がなかつた）、未使用のノートなど。
例によつて「ああ、さう」といふ感じでキムさんが受け取る。
ここで実は昨夜から考へてゐたことを実行した。
李さんに扇子を差し出した。
この扇子は黒字に金色の文字で般若心経がびつしりと書かれてあり、平仮名がすべて振られてある男物。
「これは私が日本から持つてきて使つてゐた扇子なのですが、よろしければ受け取つて貰へますか？」
「ああ、はい」と李さん。
「日本の観光地で買つたものです。お経が書いてあります。般若心経なのですが、かういふものは問題
ではありませんか」
「何の問題もないですよ」とキムさん。
「そこの観光地は外国人が多く訪れるので、かういふ漢字が書かれたものが珍しがられて買はれるんですね」
さて、次だ。
「それで、ここでちよつと意地悪な質問をしますが、この扇子を買つた、外国人も多く訪れる、お土産屋の
ある観光地とは、どこだと思ひますか？」
李さんもキムさんも無言。
「実は、靖国神社で買つた扇子なのです。
どうでせう？ 問題はありますか？」
微妙な空気。
「靖国神社のことが何か書かれてゐますか？」と李さん。
「いえいえ。ひと言も書かれてはゐません。お経が書かれてゐるだけです」
「書いてあつても、問題はないですよ」とキムさん。
「どうですか？ 私はこの扇子を靖国神社のお土産屋で買つたのですが、靖国神社がお土産屋があるやうな
ところとは、思つてゐましたか？」
「百聞は一見に如かず、ですよ。靖国神社がどういふところなのか、実際に見ることも大事ですよ」
実はこの「百聞は一見に如かず」は初日に李さんから言はれた言葉だつた。
「日本では朝鮮のこと悪く言はれてゐますが、実際によく見て行つてください。”百聞は一見に如かず”
ですね」
キムさんも李さんも複雑な表情で答へはなし。
扇子のお経を眺めてゐた李さんが「ちよつと、会社で聞いてみます」。
キムさんが「これは以前に聞いたのですが、神社には本来、シャリがあるのに、靖国神社だけにはないと聞
きましたが」
シャリ？ ああ、舎利か、と思ひ当る。
私が子供の頃、近くに仏舎利塔があつた。それで遠足のときなどに、舎利とは骨のことでお釈迦様の骨を納
めてゐるので仏舎利塔といふと教はつた。それまでは子供の私にとつてはその建物はただのブッシャリトー
だつた。意味はなかつた。
それで舎利とは遺骨のことだと思ひ当つたが、話し言葉でシャリと言はれても大概の日本人には分らないだ
らう。
キムさんの日本語は学んだものだけに、時折、かういふ言葉が出てきます。鍾乳洞のときの石筍とかね。
これも秋吉台で説明を聞いてゐたから分つたやうなものの、いきなりセキジュンとか言はれてはふつうは
分りませんよね。
「それは、靖国神社だけではなく、神社といふところにはホネはありません。ホネはお寺にあります。神社
は魂を祀るところなのです。ホネはお寺のお墓にあつて、お参りします」
さう説明したものの、不足してゐたなとあとで悔やんだ。
「神社は神様を祀るところです。神様は死んだ人間とは限りません。死んだ人間を神様にしてゐる神社もあ
りますが、さうでない神社のはうが多いのです。山や川や木、さういふものを神様として祀つてゐるところ
が大半です。山そのものを神様として拝むのです」
そんなふうに説明したかつた。
空港に着いた。
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