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民主党議員が暴言詳しくは上記を参照していただくとして、つまりはTVのお笑い番組に出演した民主党の議員が、少年法の議論の際に、「少年(たち)に息子を面白半分に殺された」母親に対して、「加害者の少年(たち)にもいろいろ事情があったんだから、ただ厳罰に処すればいいというものではない」とぬかしたわけで、さらに「事情って何ですか」と叫ぶ母親に対して「じゃあ加害者の少年(たち)がどうなればいいんですか?」と追い打ちをかけたということである。この事件そのものについては被害者の少年には落ち度は全くなく、加害者の少年(たち)はただ「むかついたから殺した」のである。「事情」とはよく言ったもので、被害者の少年が殺されなければならない「事情」とはなんだったのか、「生い立ちだとか社会的な環境だとか」とこの議員は言ったらしいが、さて、われわれ一般市民は「加害者の少年(たち)に生い立ちだとか社会的な環境だとかの事情」があったら、殺されてもやむをえないのだろうか。ということを踏まえて以下が本題だが、TVという場で、こういうことを喋ってしまうことについての、ここまで馬鹿かというのが本題である。この議員にも少年法についての理解やら信念はそれはそれなりにあるだろう。厳罰にすべきではないという意見を持つことは良い。また、それを言うことも良い。しかし、目の前に「少年(たち)に息子を面白半分に殺された」母親がいたら、嘘でもいいから涙のひとつもこぼすくらいの芸のひとつも身につけておらんのか、おまえは。そんな馬鹿がなぜ国会議員をやっているのか。涙のひとつもこぼす、そこまではせんでも沈痛な面持ちを見せて、その上で、「お母さんの気持ちは痛いほどわかります。しかし、あえて、申し上げれば、厳罰に処することだけがいいのかどうか、更生させるということもわたしたちの社会の責任のひとつとして」云々と語れば多少は理解もされたのではないか。それを相手を論破することしか考えていないからこのように馬鹿を天下にさらすことになる。「議論に勝つと、たいがい損をする」のは社会の常識であって、そんな常識も持ち合わせていない人間が議員にいることを憂う。
2007年07月03日
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素晴らしき日曜日監督:黒澤明出演者:沼崎勲、 中北千枝子、 菅井一郎、 有山緑収録時間:108分レンタル開始日:2004-04-09Story敗戦直後の風俗を背景に、恋人たちのささやかな日常を描いた恋愛映画。わずか35円を握りしめてデートする恋人たちの日曜日を追う。主人公の昌子が、映画館の観客に向かって呼びかける、クライマックスが印象的。 (詳細はこちら)いま現在観る価値はといえば星5つ。当時の生活、風景、世情を見事に描いていて興味はつきない。浮浪児はオーラがでていた。しかし当時の観客だったらと仮定してみると、疑問も多い。大衆のため云々は時代だから仕方ないとしても、貧しい恋人たちのためにと直訴されても、そんなに貧しい二人がなんで音楽会やら喫茶店やらでなけなしの金を散財するのか。二人で1200円の給料なのに、二人分で20円のコーヒーセットを飲もうという料簡がわからない。そもそも外に出るから金がかかるのであって、男の下宿で一日中トランプでもしてシンネコしていればいいではないか。金はかからん。つまり共感できない部分があるということで、分不相応な浪費をしておきながら貧しい私たちに同情してといわれても、できません、ということだ。とまあ、文句を書いたのだが、当時の物価が興味深かった。若い二人の給料が合わせて1200円。とてつもなくボロい六畳のアパートの家賃が月600円。饅頭 1コ5円。コーヒー 1杯5円。ミルクをたらすとミルクコーヒーで1杯10円。つけあわせの菓子が1皿5円。音楽会の入場料がA席25円。B席10円。15坪の文化住宅が10万円。二人の今日の所持金は(たったの)35円。浮浪児がおにぎり代(1コ)に払おうとしたお金が10円。で、200倍で考えてみると若い二人の給料が合わせて24万円。とてつもなくボロい六畳のアパートの家賃が月12万円。饅頭 1コ1000円。コーヒー 1杯1000円。ミルクをたらすとミルクコーヒーで1杯2000円。つけあわせの菓子が1皿1000円。音楽会の入場料がA席5000円。B席2000円。15坪の文化住宅が2000万円。二人の今日の所持金は(たったの)7000円。浮浪児がおにぎり代(1コ)に払おうとしたお金が2000円。二人分の給料が24万は安いが「貧しい」という設定だからいいとしても、そうなると、ミルクコーヒーの1杯2000円、饅頭 1コ1000円は高いわね。饅頭はいまでも1コ10円で売っているところがあるくらいで、それは極端としてもせいぜい100円くらいのもの。音楽会の入場料はいいとしても、おにぎり代も論外。アパートはいまなら1万円でも住まないようなところだが、都内ということで60000円なら許容範囲か。それで100倍にしてみると、若い二人の給料が合わせて12万円。とてつもなくボロい六畳のアパートの家賃が月6万円。饅頭 1コ500円。コーヒー 1杯500円。ミルクをたらすとミルクコーヒーで1杯1000円。つけあわせの菓子が1皿500円。音楽会の入場料がA席2500円。B席1000円。15坪の文化住宅が1000万円。二人の今日の所持金は(たったの)3500円。浮浪児がおにぎり代(1コ)に払おうとしたお金が1000円。こうなると、饅頭とミルクコーヒーが高すぎるが、ほかはバランスはとれてきて、ただし、給料は絶望的に安い。なるほどこれなら貧しい恋人たちというのもわかる気がする。が、だからこそ、贅沢するなと言いたいのだ。
2007年06月22日
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天空の城ラピュタ監督:宮崎駿出演者:田中真弓、 横沢啓子、 初井言榮、 寺田農収録時間:124分レンタル開始日:2003-01-16Story『風の谷のナウシカ』から『千と千尋の神隠し』まで、幅広い世代から支持を集めるスタジオジブリが手掛けた冒険ファンタジー。空中の浮島・ラピュタ帝国に秘められた財宝の謎を巡り、少年・パズーと少女・シータの活躍を描く。(C)二馬力・徳間書店 (詳細はこちら)何度観てもTV放映のたびにまた観てしまう映画といえばこのラピュタとナウシカか。まさに永遠の名作。個人的には1がこのラピュタで2がナウシカです。冒険活劇とはかくあるべき傑作。で、あるときこの物語をときほぐしてみたことがあって、その結果へえ~と思ったことがあるのだけれど、このお話は、実はたった三日間の出来事だったんですね。なんて濃い三日間なのだろうと長嘆息した次第。もうひとつ、DVDだと英語版もあって、あのラストのバルス!の場面が好対称なので感心した。日本語版だと、バズーとシータが小声で話し合って、そして最後に声を張って「バルス!」ところが英語版だと小声で話し合う場面がまるで愁嘆場。おお、ロメオ! あなたはなぜロメオなの!と同じような調子でオペラふうにふたりが声を張り上げる。なんだこりゃ? と思っていたが、ところが、二人が正面を向くと、一転して、つぶやくように「バルス……」ほお~と感心してしまった。盛り上げ方が真逆で、そしてそれはそれでアリなのよね。演出って幅広いなと思った。
2007年06月15日
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さよなら、僕らの夏監督:ヤコブ・アーロン・エステス出演者:ローリー・カルキン、 トレヴァー・モーガン、 スコット・ミシュロウィック、 カーリー・シュローダー収録時間:90分レンタル開始日:2006-11-23Storyヤコブ・アーロン・エステス監督が、10代の少年少女が経験する“ひと夏の出来事”を通し、思春期特有の繊細さと残酷さを描いた青春映画。『ダウン・イン・ザ・バレー』のローリー・カルキン、『ファイヤーウォール』のカーリー・シュローダーらが共演。 (詳細はこちら)まず邦題がよろしくない。“Mean Creek”は直訳すると『中間の入り江』となるが、この場合のCreekは川を指すのかな。それとも中洲のことなのか。いずれにせよ『さよなら、僕らの夏』では内容にあっていなくて、『悪い夏』とかではどうだろうか。いじめっ子のデブがほんとに可愛げなくて、そういう設定とはいえ、ここまで不快感を観る者に与えるのはどうなんだろうか。それで星2つか3つかと悩みながら見たが、「事件」のあとが良かったので星3つ。男の子が女の子に最後に言うセリフ一発が見事で、これぞ映画の決めゼリフと感心した。 で、以下はネタバレであるが、この可愛げのないデブがボートから落ちて死んでしまう。事故のようなものなのだが、突き落したことも確かで、不良の兄ちゃんのゴリオシで埋めてごまかそうということになり、みんなで死体を埋めてしまう。兄ちゃんはそのあともいろいろと隠蔽工作をする。でもほかの遊び仲間は当然悩むわけで、主人公の10歳くらいの少年が少女のところに行って言うセリフというのが、「ぼくが大きくなって学校を出て、いつか医者や弁護士になったら、そのときぼくはどう思うかな?」そのときぼくはどう思うのだろう?少年にしか言えないセリフで、少年の特権ですな。
2007年06月10日
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あいくるしい 1出演者:市原隼人、 綾瀬はるか、 神木隆之介、 松本梨菜収録時間:59分レンタル開始日:2005-10-07Story4月から6月にかけてTBS系で放映、野島伸司脚本によるTVヒューマンドラマシリーズの第1弾。大自然の下で暮らす7人の家族。母親が入院したことによって団結し、力を合わせて生きていく真柴家の姿を微笑ましく描く。第1話「はじめて流した涙」を収録。(C)TBS (詳細はこちら)予備知識なしに観たあとに検索してみると「初回視聴率は17.3%と好調だったが2回目の放送では11.9%」以後は10~11%で推移し「最終回では8.8%」だったとか。むべなるかな、である。初回がこれでは二回目以降を観る気は萎える。話の大筋が母の病気ということで先が見えて、なおかつ重苦しい予感がぷんぷん。やたら家族が泣いたりわめいたりするのがウザイ。特に妹の泣き声が生理的に受け付けられない、聞いているだけで苦痛。各人が人間観を語るのがなんだか偉そう、説教ききたいわけじゃありません。話にところどころ無理があって、神木くんの万引きヌレギヌはなぜ晴れなかったのか、またなぜ体罰を素直に受けるのか、納得できない。話全体に作り物臭さがにおいすぎ。もっと上手にだましてくれといいたくなる。風景とかはすごくいい映像があったんだけど、視聴率って正直だなと思った次第。ところでお父さん役を演じた竹中直人はラジオ番組でこの作品の低視聴率ぶりをぐちったとか。以下は推測だが、こういう良質の作品が受け入れられないようでは云々という思いがあったのではないだろうか。そしてそんな世の中が悪い、視聴者が悪い、という気持が。あくまでも推測ですけど。で、この作品を駄目にしている大きな原因のひとつが竹中直人の暑苦しい演技にあるのだが、たぶんわかっていないんだろうね。もっと柔らかい演技をする人が父親役であったらずいぶん違った作品になったと思う。もうひとつ大きく考えさせられたのが「時代」ということで、2005年の作品なのだが、これが1980年頃だったら、受け入れられたのではとも思えた。しかしその二十数年のあいだに視聴者はこの手のものは「見てしまった」のだ。見飽きたとまではいわないが「見てしまった」のだ。「見てしまった」者たちへ差し出すにはなにかが必要であり、しかしそもそもそれに気づいていないのだから、何の工夫もされるはずもなかった。「時代とずれる」とはかくのごときものも一例である。
2007年06月08日
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HINOKIO ヒノキオ監督:秋山貴彦出演者:中村雅俊、 本郷奏多、 多部未華子、 村上雄太収録時間:111分レンタル開始日:2005-11-26Story心を閉ざした少年がロボットを通して人々の温かさに目覚めていく感動ファンタジー。事故で母親を失い心を閉ざしてしまった少年・サトルに、技術者の父親は開発したロボットを与える。遠隔操作により、サトルはロボットを代わりに学校へ通わせ始める。 (詳細はこちら)子役たちはみな可愛くて芸達者で、それだけが取り柄の映画だった。大体、心の傷を負ってどうしたなんて子供は、横っ面をひっぱたけばいいだけのことであって、それを大層なもののように描き過ぎるから全てが空回りしてしまった。仕掛けも詰め込み過ぎ。ゲームの話なんぞいらん。それというのも製作者が作品世界に入り込みすぎて、足を取られているからであって、ありきたりでクソ長いラストシーンの挙句の果てのエンディング画面には呆れた。自らの作品世界を突き放して見る目が少しでもあればこんな無残な出来上がりにはならなかっただろう。子役たちが気の毒だ。で、役の上では小学生なのだが、近頃の小学生は発育いいなあと思っていたら、みな実年齢は14~5歳だったのね。納得といえば納得なんだが、やはり無理があるといえばあるような。
2007年06月01日
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金子光伸さんの逝去を知り、諸行無常の響きを感じて、そう言えばと、子役またはアイドルのその後を調べたら、ますます沙羅双樹の花の色を眺めることとなった。なんだか、苦労しているというか、道を踏み外している人が多いんだよね。何をもって道を踏み外すというのかは諸論あるところだろうけれど、単純に見ても「逮捕」の多いこと。窃盗、覚醒剤、詐欺、と来て、殺人まである。幼い頃、または若い頃に華やかな生活を知ってしまうと、地味な生活にはもうできなくて、でも現実はそんなに甘くはなくて、それでいろいろあーなったりこーなったりしちゃうんだろうか。もちろんそうでない人のほうが圧倒的に多くて、そういう人はなにもないから記録にも出てこないということは分かっているけどね。で、そういうなかでひときわ感慨深かったのが豊川誕。この名前をジョウと読める人は当時を知っている人でしょう。ジャニーズから派手にデビューしたと思ったらあっという間に消えたという印象しかなかったんだけどね、たしか施設出身とかだったよなあと検索したら、う~むと唸ってしまった。3歳のころ捨て子にされて施設で育つ。中学卒業後、住み込み、一人暮らしなどをしているときにスカウトされてデビュー。施設出身を売り物にする事務所とケンカ別れ。以降、いろいろバンド組んだり芸能事務所を立ち上げたりする。覚醒剤で3回、偽造クレジットカードで1回、警官を負傷させて1回、計5回逮捕される。(以上、ウィキペディアより抜粋)なんかもう絵に描いたような話。なんだけど、話はこれで終わらなくて、某掲示板に本人がいま現在書き込みしているんだわ、これが。ファンとのやりとりだから他人が口はさむものでもないんだけどね、その本人の書き込み内容を読んだらさらにう~むと唸ってしまった。ひと様の人生にあれこれ言うような身分ではないし、本人ももう芸能人とは言えず一般人なのだから、これ以上はコメントを差し控えますけどね、まあ、そういうことです。
2007年05月31日
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悪魔くん VOL.1監督:小林恒夫、山田稔出演者:金子光伸、 吉田義夫、 潮健児、 三遊亭圓歌収録時間:175分レンタル開始日:2004-10-08Story水木しげるの原作を実写化した怪奇冒険活劇第1弾。“悪魔くん”こと天才少年・山田真吾はファウスト博士の意思を継ぎ、悪魔・メフィストの協力を受けて、妖怪を退治していく。第1話「妖怪ガンマー」から第7話「魔の谷」までを収録する。 (詳細はこちら)主人公の少年を演じた金子光伸さんが1997年に40歳(くらい)で亡くなったと知って借りてみた。オープニングの呪文とメロディだけでもこれはもう永久保存版だわね。金子光伸くん(と呼ぼう)の表情も歴史に残るショットだろう。同じ水木しげる作品でも『墓場の鬼太郎』は『ゲゲゲの鬼太郎』としていまもリメイクされているのに対して『悪魔くん』は不遇の作品のようにも思うが、金子光伸さんの夭折を知ったあとでは感慨深いものがある。 と、ぽすれんのレビューに書いたが、追記すると、金子光伸さんが役者をしていたのは子役の2年間ほどだけで、他に出演作は『ジャイアントロボ』など。日本の正統派の美少年という感じで、豊かに垂らした前髪は坊主髪か坊ちゃん刈りがスタンダードだった当時ではお洒落でカッコよかった。半ズボン姿とかを見ると日本人の美意識の源流を作ったようにも思う。たどたどしい話し方で演技は上手いとは言えないだろうが、その存在感、いまふうに言えばオーラの強さは圧倒的で、つまりは天才子役だったということなのだろう。
2007年05月30日
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JSA監督:パク・チャヌク出演者:ソン・ガンホ、 イ・ビョンホン、 イ・ヨンエ、 キム・テウ収録時間:151分レンタル開始日:2001-12-21Story韓国で『シュリ』の記録を塗り替え大ヒットした、ヒューマンサスペンス感動作。中立国監督委員会から責任捜査官として派遣された韓国系スイス人である女性将校が、南北朝鮮の共同警備区域(JSA)で起こった謎の射殺事件の真相に迫る。 (詳細はこちら)事件の真相を究明してゆくサスペンスで、緊張感があってなかなか重厚な作りでいいじゃないかと思っていたら「兄貴って呼んでもいいですか?」でのけぞった。そういう映画ではなかったけれど。南北分断についてきちんと描かれているし、どちらか一方を単純に悪役にしているわけでもない。娯楽作品ではないが、教科書程度の知識があればわかるように作られている。重いテーマだが作りは軽くて、気楽に観られて、そこがいい。「中立」に関する皮肉は強烈。邦題はなにか考えつかなかったのかね。『板門店』とかのほうがわかりやすいと思うけど。理屈抜きで楽しめた。
2007年05月29日
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午前3時 寝る午前8時 起きる 午前11時 寝る午後1時 起きる 午後4時 寝る午後6時 起きる 午前3時 寝るなんでこんな細切れに寝るかというと、午前3時 寝る午前8時 起きる 酒飲む 眠くなる 午前11時 寝る午後1時 起きる 酒飲む 眠くなる 午後4時 寝る午後6時 起きるという生活をしているから。廃人である。
2007年05月25日
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2007年5月17日、鉄道高速化計画の目玉として登場した弾丸列車が走行を開始して1か月、定期点検のため河南省鄭州市の鉄道局検査場に戻ってきた。約100人の技術者が車体を検査したところ、無残なほどボロボロにされていることがわかった。 ボロボロになった原因は乗客による備品の持ち去り。被害が最も多かったのは手洗い場のセンサー式蛇口。 多数取り外されてなくなっていた。さらに緊急脱出用のハンマー。また密室であるトイレも被害が大きかった。便座の温度調節つまみやペーパーホルダーの軸さえ取りはずされ消え失せている実態には、ただもうむなしさが募るばかりだと技術者たちはこぼす。つまり、中国の新幹線が運行開始したが、車両内の備品が盗られ放題だったと。中国の民度の低さにはあきれるしかないが、それよりも、私たちの(日本の)常識って通用しないのだなあという思いのほうが強い。昔、読んだ次のような記事を思い出した。ある国では手紙を出しても相手に届く保証はない。もし無事届いたら幸運だったと思え。なぜ、手紙が届かないのか?内戦とかで治安が悪いから? 郵便網が未発達だから? 交通の便が悪い? 流通の問題?それとも国家権力による検閲とか、押収とか?私が考えたのはそんなことだった。しかし、その理由は……郵便ポストから手紙を収集する郵便局員が貼られてある切手を剥がしてネコババするから。もちろん手紙はポイ。日本の常識では測れないことってあるものだとつくづく思った次第である。
2007年05月20日
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ここ2、3日のニュース。高校生が母親を殺し首を持参して警察に自首した。1歳の子供をバイクのヘルメット入れに入れていたら死亡したから遺体を捨てた。ステーキ屋の店長が客を拉致監禁強姦。赤ちゃんポスト初日に3歳児が入れられる。いやね、三面記事なんぞにいちいち反応していちゃいけないとはわかっていますけどね。世の中広いんだし、この情報社会だし。知らんでもいい事件も知ってしまうし。1憶2千万分の1の人が起こした事件で全体を語るなんてのは、評論商売人にやらせておけばいいことで。でもね、さすがに、というか、あんまりというか、「社会面今年の十大ニュース」クラスがさ、こうもまとめて出てくると、いよいよヤバイんじゃないかと思ったりもする。昨日も書いたステーキ屋の店長の強姦もさ、今回は運よく被害者は自力で逃げられたけど、もし逃げられなかったら、どうなっていたか?犯人の身元は丸わかりなんだよね、ペッパーランチの店長だって。ということは、ふつうに考えれば生かして帰すわけがない。かつ、貸しガレージまで借りていたということは、今回1回だけの犯行とも思えない。つまり過去にさんざんやっていて、その被害者はいまはもう……という予想は容易につく。で、そういう鬼畜がいけしゃあしゃあとステーキ屋の店長でございと町中にいたということが怖ろしい。厭な世の中だ。
2007年05月18日
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ステーキ店「ペッパーランチ」店長ら女性客を拉致、乱暴 大阪・ミナミのステーキチェーン店「ペッパーランチ」心斎橋で、食事中の20歳代の女性客を拉致して乱暴したとして、強盗強姦と逮捕監禁致傷の疑いで、同店店長と店員の2容疑者を逮捕。2人は「スタンガンや睡眠薬を購入し、店に来る女性客を物色していた」と供述している。 2人は9日午前1時過ぎ、同店で閉店作業を装って入り口シャッターを閉め、1人で食事中だった女性客に「逃げたら殺す」とスタンガンで脅迫。無理に睡眠薬を飲ませ、泉佐野市内の貸しガレージまで車で連れ去り乱暴した上、現金約5万5000円入りの財布を奪った。店内にはほかに客はいなかった。2人は制服姿のまま犯行に及んでいた。 女性はその後もガレージ内の車の中で手足を縛られ監禁されていたが、 同日午前9時過ぎ、自力で脱出した。全国チェーンのお手軽なレストランで食事をしていたら、その店の店長と店員に拉致監禁され強姦される。どこの国の話なんだ?呆れた。しかもこの会社は逮捕翌日に店舗を閉鎖して看板も外した。ただ閉めただけじゃなくて工事をしていた。そのあとぬけぬけと決算発表をして、事件を公表したのはその翌日だった。事件公表後はHPも閉鎖して、知らぬ顔。これで上場企業だとさ。中国企業のほうがまだまともではあるまいか。ほんとに、どこの国の話なんだ?呆れた。しかもストップ安にならずに寄ったよ。買うやつがいるんだ?みたび呆れた。
2007年05月17日
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本日(5/15)開催4日目の浜松オートで、3R出場の高橋義弘選手と8R出場の高橋義徳選手が欠車(出場取り止め)となった。ふつう欠車は身体故障(ケガ)か車体不良(バイクこわれた)くらいしか理由がないが、今日の理由は「番組編成に問題があったため」。どういうことかというと、高橋義弘選手と高橋義徳選手は昨日ともに6Rに出場して、高橋義弘選手は3着、高橋義徳選手は6着だった。オートは毎日の結果による勝ち上がり制で翌日出場する(できる)レースが決まる。今回は3着の高橋義弘選手は一般戦A(8R)にまわり、6着の高橋義徳選手は一般戦B(3R)にまわる結果だった。もちろん一般戦AとBでは賞金も違う。相手(の強さ)も違う。が、なんと高橋義弘選手を3Rに、高橋義徳選手を8Rに組んだ番組を作ってしまった。理由は、はい、おわかりですね、義弘と義徳を間違えたのです。名前が似ているから。阿呆ですね。で、実を言えば、そのままレースをさせてもファンには実害は全くない。しかし、「おれが車券を外したのは番組が間違っていたからだ。3Rに出てくるようだから不調だと思っちまったじゃないか」とかクレームを言われたら困るということは予想される。なので、二人には一着賞金を補償して(くれてやって)、欠車という処置にしたのだろう。さてしかし、開催はまだあと一日ある。最終日(5日目)の番組も4日目の結果により勝ち上がりで決まる。二人は欠車だから本来なら一般戦B(いちばん安いレース)まわりとなるが、それでは理屈は通るまい。賞金は別に補償するとしても、それでは勝っても負けても賞金が貰えるわけで、それで「公正なレース」といえるかどうか。で、どうするんだろと思っていたら、なるほど、明日は二人とも不出走(参加解除)になっていた。たぶん明日の分も一着賞金を補償したのだろうね。でも当然二人の選手のファンにしてみれば二人の走りが見られないわけで、なのに、いま現在何のインフォメーションもないとはなんだろうか。出走表の印刷ミスで開催中止したばかりだというのに、名前を取り違えて間違った番組作っちゃったとは。大丈夫かね、と思うと同時に、ひと昔前なら「あれ、間違えちった。あとで選手に謝っとくか」くらいで済んだことだと思う。いまはそういうわけには行かない時代なのだということなのだろうけど、厭な時代だとも思うんだよね。
2007年05月15日
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以前にネットカフェ難民と称される満喫乞食について書いたが、とうとう「マック難民」が現れたらしい。雑誌「群像」の雨宮処凛のエッセイで、つまりネットカフェで夜を明かすのには千数百円かかるが、その金もないので、マクドナルドで1杯100円のコーヒーを頼み、夜を明かすのだという。そういえば最近マクドナルドは24時間営業店舗を拡大しているとは新聞で読んだ。なるほどこういう弊害もあるのだなと思ったが、雨宮処凛の文章の趣旨は全く違って、最後は「100円でマクドナルドを24時間占拠せよ」というアジテーションで終わっている。どういう理屈かというと、若者がワーキングプアとなっているのは彼らを低賃金で搾取する大企業が悪いからであり、マクドナルドはその悪玉企業の筆頭だから、という理屈らしい。彼女の主張には全く賛成できない。マック・ジョブという言葉もあることは知っているが(低賃金で昇給の見込みもなく技術の習得もできない労働のこと)、そもそもマクドナルドのバイトの仕事は高校生や大学生の小遣い稼ぎだったのであり、小遣い稼ぎの目的が半分と彼氏・彼女作りの目的が半分という仕事だった。それを、それで生活を支えようなどというのがそもそも間違いであり、文句があるなら他で働けばいいだけだ。でも、彼女の文章自体には頷くところが多くて、なかでも「平和を望む者は持てる者で、持たざる者たちは戦争を望む」話には蒙を啓かれた。だから「平和を叫ぶ者は傲慢」なのである。
2007年05月14日
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笙野頼子の『愛別外猫雑記』をほぼ読了。『徹底抗戦!文士の森』をひろい読みで半分ほど読了。しかし凄い人だね、この人。『愛別外猫雑記』は猫好きと猫嫌いの壮絶な戦いの記録で、白猫を飼っている身としては「身につまされながら」読んだが、しかしさて、この膨大な文章は何なのか。ふつうに言えばエッセイなのだろうが、事実を読者にわかりやすく整理して伝えようなどという気持ちはかけらもなく、時系列も事実説明も渾沌としていて、小説としてみればどえらいパワーなのだが、すべては事実となれば小説というのも躊躇する。伝わるのはとんでもない書くエネルギーと周りに対する破壊力で、それにはただただ圧倒されるしかない。『徹底抗戦!文士の森』も同様というか、初出時の誤植を直した部分までひとつひとつ注を入れるほどの細かさにもかかわらず、全体像は靄がかかったように不明確で、伝わるのは作者の怒りのエネルギーのもの凄さだ。両書に共通して感じるのが「ネット風」ということで、それぞれ文芸誌に発表された文章にもかかわらず、むしろ2chの書き込みのような感がある。それは「カキコする」だのという用語だけの問題ではなくて、まあ、ひとことで言えば「電波文」の香りがするのだ。飼い猫を隣人に捕獲されて捨てられた人のブログをネットで見たことがあるが、「隣人宅に突撃して私も死んでやる」というテンションで、『愛別外猫雑記』はその人が書いたのかとも思うくらいに実は似ていた。ところで本職のほうの『三冠小説集』のほうなのだが、こちらがなんとも読みづらいというか、肌が合わないというか、読み進めるのが苦痛で、まだ読めていない。困ったもんだ。
2007年05月13日
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スーパーと言っても、食品スーパーではなく、衣料品とかも扱っている総合スーパーである。店舗は2階建てだが、敷地は広い。そのスーパーはいちど経営破綻したのをどこぞやらかの支援を受けて経営再建中だった。だいぶ前の話である。私は衣料品を結構な量まとめ買いしてレジに行った。そのレジは四角なカウンターで向うとこちらとにレジが1台ずつある。パートらしい女性とバイトらしい若い男の二人がいた。客はいない。私が商品を出すと、女性がレジを打ち、会計した。その間に次の客が私のうしろに並んだ。会計済の品物は横に立つバイト君に送られて、私はバイト君の前に移動した。女性は私の次の客の会計を始めた。ここまでは何の問題もない。3番目の客が反対側のレジのまえに来た。レジの女性はその客とアイコンタクトを取り、2番目の客の会計を続けた。バイト君は私の品物を折りたたんでいる。と、そこに正社員の若い男が通りかかった。いきなりその男はバイト君に「ほら、お客さまがお待ちだよ」と指示した。バイト君は言われるままに私の包装を途中でやめて、向うの客へ移動した。私は1番目であるのに、会計も済んでいるのに、品物も渡されずに放置される形になった。レジを打っている女性は困った顔で正社員の若い男を横目で見た。つまり、正社員の若い男の判断ミス、指示ミスである。彼も状況を正しく把握していればあんな指示は出さなかっただろう。しかし彼はミスには気づいていない。それどころか正しい指示を出したと得意顔でもあった。おそらくあとになってパート・バイトから言われてミスに気づくというようなこともないだろう。そういうことが言える職場風土なら、また耳を傾ける正社員なら、あんなミスはそもそも発生しない。私もなにも言わなかった。言ってあげる義理もない。なるほど経営破綻するような会社の正社員だなあと思っただけだ。野村克也監督曰く、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」敗戦には敗因が必ずあるのだ。
2007年05月10日
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『徹底抗戦!文士の森』(笙野頼子)を読みたくなって、本屋にないのはわかったので、ネットで探した。新刊はあって、2800円だが、オークションのようなサイトにもあって、古本の1980円が最安値はいいとしても最高値が4800円っちゃあなんだい?新刊で2800円で売っているものに4800円の値をつけるとはいい度胸だ。で、古本屋のサイトを探したら1400円てのがあった。多少汚れていようがこちらは読めればいいのでこれを注文した。しかしつくづく思うのは本とは買えるときに買っておかないと買えなくなるものなのだなということだ。倉橋由美子の本なんか、本屋にもブックオフにもほとんどない。三枝和子に至っては言うもさらなり。しかし本屋の棚はあふれている。なにであふれているんだろうかね。
2007年05月09日
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笙野頼子の本を二冊買った。『笙野頼子三冠小説集』と『愛別外猫雑記』と。ブックオフになかったから正規の本屋で購入となったわけだが、『三冠小説集』のあとがきによると著者の本は古本さえも入手困難で、一時は定価の10倍の値がついたとか。厭な時代である。
2007年05月08日
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定期的な用事のため車で出かけるのだが、その帰り道に大きなブックオフの店があって、ついでに寄ることになる。笙野頼子の本がないかと思っていたが、なくて、例によって105円本を漁った。『帰れぬ人びと』(鷺沢萠)単行本105円『長崎乱楽坂』(吉田修一)単行本105円『小説のゆくえ』(筒井康隆)単行本950円上二冊は105円だから買った。筒井の本はぱらぱらとめくったら価値ありと判断できたので、つまり105円本の9倍の価値はあると思われたので買った。
2007年05月07日
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『無情の世界』(阿部和重)。短編集の三篇のうち、表題になっている「無情の世界」を電車の中で読んだ。なんだこりゃ?なんだこりゃ? という書き出しを我慢して読み進んだら、それなりにリズムが合ってきて、なるほどこういう小説かと頷きつつあったのに、結末、はあ? なんだこりゃ?この結末はぶちこわしだろう。結末の一節はすべて削除すべきであって、こんな結末を書くこと自体が頭の悪さの証明である。こんな馬鹿な作家だったのかと唖然とした。
2007年05月06日
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『インストール』では「へえ~と感心した」のだが、さてこの『蹴りたい背中』はというと、ううむ、と唸ってしまった。駄目とかつまらないとか言うのではなく、すぐには読後感(結論)が出てこないという感じでの、ううむだ。つまりは良い小説ということなのだろうが。出だしから文章がすんなりと入ってこなくて読みにくい。しかしそれが欠点かというとそうとも言い切れなくて保坂和志の小説論のなかにも「書き出しはわざとゴツゴツさせる」旨が書かれていた。つまり冒頭は読者が二、三度読み返さなければならないくらいが丁度いいということで、その意味ではそうなのだろうか。に、しても悪文だとは思うが。どう読んでも作者の間違いと思える部分もあって、「あのさ、この前塚本に唾本って言っちゃってごめん」「いいよ、いいよ、気にしなくても。“唾本うるさい”っていうの、今うちらの中で流行ってるよ」しかし「塚本に唾本って言」ったのはその日の出来事のはずなのだ。「この前」はなかろう。数日が経過したものと作者が間違えているようにしか思えない。それは措いておくとしても、学校で孤立している主人公の悩みだか愚痴の一人語りにも共感できなくて(自分で望んで孤立しているんでしょ?)、試食コーナーで朝食を済ませる場面も不快で(店の迷惑を考えないのか?)とか、つまりは本当に厭な主人公なのだが、こういう厭な人間を主人公かつ視点人物にすること自体が、考えてみれば凄いことなのかもしれない、などなどと考え込んでしまって、ううむなのだった。
2007年05月05日
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『蛇にピアス』(金原ひとみ)を読了。出だしはカンベンしてくれって感じで、これで芥川賞かい? と頭をひねったが、読み進むうちに、いまどきのメールのようなスカスカの文章も、むしろ簡潔・的確な描写のように思えてきて、読み終ったときには、たしかに良い小説を読んだという満足感を感じていた。道具立ては派手だが、むしろ古風な小説の印象が強いのは若い書き手特有のピュアな部分が立ち昇っているということなのだろう。感心したのは「チンコ」「マンコ」という表現で、ふつうは(まして若い女の書き手なら)ペニスとかヴァギナとか、あるいはディックだのプッシーだのと書くところで、それをチンコ・マンコとすらっと書くのはもちろん考えなしにはできないことで、文章というものに対する強い意志と鋭敏な感性がなくてはこうは書けない。そうなると「キャッチする」などという表現も、ふつうならカンベンしてくれなのだが、この文体の中では輝いて見えた。
2007年05月04日
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高校野球の特待生制度とやらで違反が376校にのぼったとか。とかいうニュースを見ていて、なんだか、デ・ジャ・ヴ。で、思い出した。必修科目の未履修問題とやらだった。あれもたしか最初は数校で、最初の数校はいろいろ言われていたが、あとから出るわ出るわで、あとから申告した高校はもうその他大勢で、どこがそうだったのか、高校名も覚えちゃいない。それで、そういえば、結局どうなったんだろうかね、あれは?今回も北なんとか高校はずいぶん報道されたが、376校ともなると、もう校名を伝える意味もなくなった。どこでもやっていて、暗黙の秘密というか了解だったのに、下手にほじくり返したら大事になったというのも同じ。昔、ある国文学者は、毎朝図書館へ出かけて行って、70年以上前の、明治時代のその日の新聞を読むのを日課としていたとやら。新聞なんて同じようなことしか書いていないから、それで用が足りるのだという。むべなるかな。
2007年05月03日
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従軍慰安婦という言葉は戦後でっち上げられた言葉であって、慰安婦という言葉はあっても従軍慰安婦という言葉はなかった。というようなことは明々白々たる事実であるのだが、明々白々たる事実さえもいちいち念を押さないと話が進められないのは情けない。アメリカ議会が「従軍慰安婦」いや「強制的に連行された性的奴隷」について非難決議をするとかいう話が話題になって、まだ収まっていないらしい。細かなことはここでは書かない。以下の挿話が心に残っているので、それについてだけ書く。 *私(司令補佐・27歳)が慰安所の裏口を通りかかると翌日出撃する特攻隊長(22歳)が立っていて、私に気づき「静かに」という。そして手真似で言われるままに中を覗くと、5、6人の特攻隊員(18、9歳)と、同数の慰安婦たちがトランプ遊びの真っ最中だった。慰安婦は台湾出身の美人揃いで、特攻隊員たちと同年輩だった。それがわあわあ言いながらトランプ遊びに夢中になって興じている。かれらは明日の朝死ぬのである。慰安婦たちももちろんそれを承知である。その姿には一幅の名画を見るような神々しさがあった。私が隊長に「隊長も一緒に入ったらいいでしょう」と言うと、かれらと大して年の違わぬ隊長は静かに頭を振り「私が行くとやつらが遠慮しますから」と言った。隊長も明日の朝死ぬのである。私は胸がつかえた。 *明日死ぬとなれば、ましてや18、9歳の若者が慰安所に行ったのなら、やってやってやりまくり、というのは凡庸な頭の考えることであって、もちろんそういう場合もあっただろうが、実際は「わあわあ言いながらトランプ遊び」をすることのほうが貴重な体験だったのだ。そして「特攻隊員たちと同年輩の慰安婦たち」の姿もまた胸を衝たれる。映画『月光の夏』を観ていたらそんなことを思い出した。
2007年05月02日
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『文学部唯野教授』(筒井康隆)と『インストール』(綿谷りさ)を読了。『文学部唯野教授』は措いて、『インストール』は映画のほうを先に観ていた。そのとき私は以下のようなレビューを書いた。 *原作が純文学の、それも若い作家の、しかも女の、ということで、いやな予感はあったが、いやいやどうして、あの手この手で工夫をしているので、最悪の事態はまぬがれている。可愛い上戸彩ちゃんともっと可愛い神木隆之介くんの2人を持ってきたところがミソで、逆をいえば、陰気で暗くブサイクな女と可愛げのないクソガキだったら、見られたものではないということだ。若い娘っ子の「私って何?」などという甘ったれた悩みなんぞに付き合ってはいられない、そう思わせるところが作品力の弱さだ。 *もちろん原作の小説と映画なんてのは別物として見るべきであって、小説として優れているところがあるとしたら映画にはならない部分だ。ということで映画がスカである分、却って小説には期待できるということもある。それで、どうだったかというと、へえ~と感心してしまった。17歳の幼さを幼さのままに破綻なく表現できていて、やっぱ凄いわ。『イッツ・オンリー・トーク』(絲山秋子)が20代半ばの作品だが、妙に背伸びしているところが目について、幼さを悪い意味で感じさせているのとは好対照だった。
2007年05月01日
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本日は優勝戦。最終日だった。いやあ、凄い客の入りだった。ガクトファンも目立ったけど、家族づれも多かった。小学生のポケバイレースもあったから、それの関係かも。そのポケバイレースが面白かった!本物より面白えんじゃねえ? の声しきり。是非、継続していただきたい企画である。しかし、……実は昨日飲み過ぎて二日酔い&寝不足。頭は痛いわ、気持は悪いわ、それでいて日差しが強くて、暑くて、くらくらして、ひとが多いから坐るところもなくて、立ちっぱなしで……。と、最悪のコンディションで、とてもじゃないが、車券のことなどに集中できなかった。腹がやたらに下って、レースごとにトイレだし。今日は早めに寝よう。
2007年04月30日
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本日のオールスター準決勝戦10R。1着と2着が明日の優勝戦に進出。そして1着入線は永井、以下2着は片平、3着金子、4着有吉。すなわち永井と片平が優勝戦進出かと思いきや、両者ともに反則失格となり、金子と有吉が繰り上がって優勝戦進出となった。と言ってもオートに関心のない方にはなんのことやらだろうが、以下勝手に書く。片平巧とはどういう選手か。SGタイトル15冠。つまりSGレースで優勝15回である。これがどれだけ凄いかというと、現役選手でSGを1回でも取ったことのある選手は23名しかいない。その内訳は、1回 7名2回 5名3回 4名4回 1名5回 1名7回 1名10回 1名13回 1名そして片平巧の15回 1名である。如何に片平が凄い選手であるか、この数字からでもわかるだろうが、片平の強さはこの数字以上のものがあった。ある時は、優勝戦の他7名が0ハンデで片平ひとりが10mハンデのときがあった。つまり片平ひとりだけが10m後ろから走るのである。それでも7人を抜いて優勝した。同じ条件で勝つのではない。ハンデがあってもなお勝つのである。さて、しかし、そのように強い片平であるが、最後のSG優勝はというと、2001年の全日本選抜とスーパースター王座決定戦を最後とする。つまり、かくも強い選手ではあるが、それも5年前までの話となってしまっていたのだ。もう終わった。もう片平の時代ではない。いまのスピードレースでは片平の技は通じない。そう思われていた。「強い」選手とは書いたが、実のところ片平は全盛期でも「強い」というイメージではなかった。「上手い」選手だった。絶対に入れないようなところに切り込んで、ハラまずにきれいに回るテクニックは芸術品とも言われた。しかしそれも5年前までの話だ。それが今回のオールスターで片平は復活した。そして準決勝戦2着となり、優勝戦進出を果たした。あの片平がSG優勝戦に帰ってきた。涙が出た。男の生きざまを感じた。それが、失格。しかもその失格判定場面は、まさしく片平の芸術的なインさばきが現前したものだった。抜かれる相手が下手だからスッ飛んだのである。あれが失格なら追い抜きなどはできない。安全運転だけでレースしろとでもいうのか。いや、判定自体にはあれこれ言うまい。しかし、片平が出る優勝戦を見たかった。優勝は無理だろうと思いつつも車券は買っただろう。オグリキャップの最後のレースのときの競馬ファンの気持ちに近いと言えばおわかりいただけるだろうか。しかも馬は数年の付き合いだが、片平とは20年以上の付き合いなのだ。すべては無常とこれ観ずるか。ネットの掲示板には「片平信者」の悲嘆があふれている。私もその一人である。
2007年04月29日
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オールスター二日目である。実は昨日はマイナス(負け)だったが、今日は堂々のプラスだった。やっぱりプラスはいい。気持の張りが違う。明日、明後日は所用で行けないので、最終日優勝戦に参戦の予定。ポケバイレース(模擬レース)もあって、楽しみだ。
2007年04月27日
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SGオールスターの初日である。なんだ? という方もいるでしょうが、競馬で言えば天皇賞とか菊花賞とか、ああいう大きなレースなのです。平日だというのに結構お客さんが入っていて、盛り上がっていた。が、午後、突然の雨。雷も鳴った。そしてすぐに止んでこんどは太陽が燦々と。オートではこういうのが一番困るんだよね。オートは公営競技のなかで最も天候に左右されるレースで、だから予想紙には通常の予想のほかに「雨予想」の欄があるくらい。180°レースが変ってしまう。それでもどしゃぶりの雨なら雨で予想するのだが、今日みたいに走路が完全に濡れているのかそれとも乾くのかわからないというのではどっちで予想していいか困るのだ。車券を買ったときには濡れていてもいざレース本番のときは乾いていたなんてのもよくあることで。今日がまさにそれ。だから走路が完全に乾くまで3レースほど「見(ケン)」しました。ま、楽しかったけど。
2007年04月26日
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『文学部唯野教授』(筒井康隆)を読んでいる。面白い。105円はお買い得だった。ところで、作中に文芸批評の講義の場面が章ごとにあって、そのなかに哲学に関する話が多い。当方は哲学には縁なき身なのだが、先日の『小説の自由』『小説の誕生』に続いて、図らずも哲学話を読むこととなった。これを偶然と見るのか、必然と見るのか、これも哲学の考察になるかもしれない。もっとも『小説の自由』『小説の誕生』で繰り返し語られていたことは、哲学は(文学もそうなのだが)考察している時間の中にしか存在せず、その考察の結論だけを聞いただけでは屁のつっぱりにもならないとのこと。音楽は聴いている時間のなかにしか存在せず、料理は食べている時間のなかにしか存在しない。そう言われればなるほどと思う。美味い料理を食べて美味いと思うのは食べているあいだ(時間)であり、食べ終わってからあれこれ言っても、あるいは美味しかったと思い出しても、それは料理そのものではない。だから料理は食べている時間にしか存在しない。もちろん食べる前の料理もまた料理そのものではない。哲学も文学もしかりで、哲学は考えている時間にしか存在しないし、小説は読んでいる時間にしか存在しない。目の前に本があっても、それは楽譜のようなもので、楽譜が音楽そのものではないように、本は小説そのものではない。
2007年04月25日
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『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆)と『あらゆる場所で花束が……』(中原昌也)を読了。『巨船ベラス・レトラス』(筒井康隆)は『大いなる助走』以来27年ぶりの「文壇物」という触れ込みでもあったが、さて『大いなる助走』を愛読した身としては、考えることが多い。『巨船ベラス・レトラス』はメタフィクション構造を取っているが、筒井康隆なら意外でも奇妙でもなく、むしろ古典的な形式にさえ見えてしまう。そのあたりがどうなんだろか?素直な形式の(といっても工夫はもちろんあるのだが)『大いなる助走』のほうが内容の濃さでは優っているように見えてしまう。早い話が『大いなる助走』の登場人物は生身の人間のようにひとりひとりの顔が見えたが、『巨船ベラス・レトラス』のほうでは揃って作者のあやつり人形のような存在感しかないのだ。『あらゆる場所で花束が……』は果して読み通せるものか自信がなかった。わずか200枚の作品だが、とてもじゃないがまともに読める文章ではない。パラパラと開いたが読む気が起こらない。三島賞の選考の場で高樹のぶ子と宮本輝が「全否定」したのもよくわかる。しかし義務のように覚悟を決めて読み出したら、あら、読めてしまった。それでずっと思い浮かんでいたのが「ある種の映画」で、どういう映画かというと、観客の評価が「途中で観るのをやめた」と「面白かった」に二分される映画である。観客を置き去りにして、意図もよくわからない映像が断続的に流れて、観客に意味を探すことを強要する映画。たとえば、『マグノリア』(1999年)とか。そう思って読むと作文以前のような安手の文章も映像のイメージをダイレクトに伝えるもののように思われてきて、これでいいのかと納得したりもした。だからいい小説だとは言わないが。今日はブックオフで5冊購入。単行本『文学部唯野教授』(筒井康隆)105円単行本『日蝕』(平野啓一郎)105円単行本『蹴りたい背中』(綿谷りさ)105円文庫本『イッツ・オンリー・トーク』(絲山秋子)250円文庫本『無情の世界』(阿倍和重)250円綿谷りさは『インストール』も未読なのだが、105円だから買った。筒井康隆以外は初読の作家ばかりである。
2007年04月24日
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さて選挙の結果は、と言っても、ほんとにどうでもいいのだが、各地の結果を見るとなかなか面白いものがあって、たとえば、これ。1票差で落ちてますねえ。こういうのを見ると1票の重みをしみじみと感じます。これは新聞で見たのだけれど、日本一有権者数の少ない選挙だったそうで、トップが38票、落選が27票。ちなみに有権者は303名で棄権したのは入院中の2名だけだったそうです。 これは私個人がちらちらと見た範囲での話ですが、最下位の8票というのは全国最少得票ではないかと。親戚だけでももう少し入るような気はするのだが、なんで立候補したんだろう、この人。と書いたところで、鹿児島県の三島村に5票という人がいた。でもここはトップが45票だから、得票率で言えば上記の8票がやっぱりダントツのドベのよう。と、まあ、そんなことを考えながら見ると結構面白いです。
2007年04月23日
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昔、子供のころ、開票速報を見るのが好きだった。「開票率は60%。1位の田中さんと2位の斉藤さんの差は800票あまりですね。あ、いま新しい情報が入りました。田中さんが5825票、斉藤さんが5481票。また縮まりました」「斉藤さんの地盤の山田町の票が開くのはこれからですからねえ。逆転も十分ありえますねえ」とかなんとか。わくわくしながら見ていた。それがいつからつまらくなってしまったのかというと、各局が当確をとにかく早く打つようになってからである。開票率0%で当確は当り前。8時の投票終了と同時に議席数を発表したりする。はらはらどきどきもあったもんじゃない。大体、投票終了と同時に当確ということは、ぎりぎりの時間に投票しても無駄ということではないか。投票率の下落がどうしたとマスコミは言うが、その原因を作っているのはマスコミだろうが。あなたの一票は無駄ですよと宣伝しているのだ。開票率80%までは当確を出さないとかの取り決めを作ったらどうかね。
2007年04月22日
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『小説の自由』と『小説の誕生』をようやく読了。理解できて共感できたのが半分。理解は出来るが共感できないのが1/4、そもそも理解できないのが1/4。そんなところか。この本は著者も言うとおりに引用が多くて、かつ哲学関係の引用が多く、そのあたりで理解できない部分が多かった。アウグスティヌス、ハイデッガー、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなど、そのあたり。それでつくづく思うのだが、哲学の文章の原文はほんとうにこんなに読みづらいものなのか? ということだ。つまり翻訳がおかしいのではないのかね?たとえばこういう文章。人格的摂理――生のある高い一点がある。われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。つまり、そのときこそ人格神の摂理という思想が心ゆすぶる威力をもってわれわれに迫り、事実上の証明という最善の弁護者を味方につけ、自分の遭遇する何から何までが、たえず最善なことになるということを、われわれがまざまざと経験するからである。単語自体は難解ではないのにすこぶる読みにくい。原文が英語かドイツ語かラテン語か知らぬが、早い話が直訳で、英語(かドイツ語かラテン語)の複文構造そのままに語順通りに訳しているから日本語になっていないのではないか?われわれがそれに到達すると、われわれがどれほどの自由を持っているにせよ、また生存の美しい混沌のなかには、いかなる配慮的な理性も善意も存在していないと日頃考えてきたにもかかわらず、われわれはそのときふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面し、われわれの最も困難な試練に耐えなければならぬ。これで一文にすること自体が日本語に翻訳する意思の放棄だと思う。ちなみに戯れに重訳してみると、私たちはそれに到達したときに、ふたたび精神的な自由を喪失する最大の危険に直面する。そして最も困難な試練に耐えなければならない。どれほどの自由を持っているにせよだ。また、日頃、生存の美しい混沌のなかにはいかなる配慮的な理性も善意も存在していないと考えてきたにもかかわらずである。これでもわかりづらいが、読みながらこんなふうに頭の中で重訳しつつ読まなければならないので、つまり、疲れた。良い本ではあったけれど。
2007年04月21日
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昨日の浜松オートの開催が中止になった。その理由が、『前日に印刷配布した出走表の一部に過去のレース番組を記載する事態が生じ』たため。つまり、その間違った出走表を見て、電話投票をする人がいないとは言えず、それでどうしてくれるんだ? ゴルァ! となったら、対処のしようがないからということだろう。実際に、前日配布の出走表【だけ】を見て投票する人が果して何人いるものかというと、さてさて日本全国で10人いるだろうかね? 特にオートレースはレース前に「試走」があって、その試走タイムが判断の重要ポイントだから、そういう人はほとんどいないように思う。しかし、絶対にいないとは言えないのは確か。で、その日は浜松本場だけではなくて、川口と伊勢崎でも場外発売の日だった。開催中止ということは車券の売上がパーになるだけではない。浜松、川口、伊勢崎の従業員の給与、売店・食堂の売上、そして予想紙の売上、更には予想屋さんの儲け、と考えるだに恐ろしいほどの影響がある。実際に川口では仕込んだ食べ物を10円で売っていたとか。もちろん客もいい迷惑で、はるばる出かけて行って「中止です、理由は印刷ミス」では納得できまい。交通費出せとも言いたくなる。それでその原因は「印刷ミスに気づかずに配布した」から。誤発注で何百憶だかの損失を出した例の事件を思い出した。あれも原因は「クリックしたから」、つまりはそれだけだものね。恐ろしい時代である。
2007年04月20日
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室内飼いとなった白猫だが、あらためて「ぼん」と名付けられた。「ぼん!」または「ぼんちゃん」と呼ばれている。もっとも最近は「バカネコ!」と呼ばれることも多い。悪さばかりするし、ぎゅあおおうーーとか鳴きやがるし。それで「こら!」と怒ると、怒られていることは解っていて、そそそそとソファの裏へ逃げ込む。しかし本気で叱られはしないと高を括っていて、すぐにのそのそと近寄ってくる。それで先日は子供を押入れに入れるように物入れに押し込めたら、あら、静かなこと。あんまり静かなんで開けてみたら、中にある棚にまるまると収まっていて「なにか用ですか?」なんて顔をしてやがる。猫を狭い所に押し込めても喜ぶだけのようだ。ところで富士通の脱臭機を買ったことを以前に書いたが、本当に恐ろしいほど効果があるんだわ、これが。ネコ臭さがきれいに消えた。しかし近頃はこの脱臭機にバカネコが乗ることを覚えて、スイッチが上部にあるものだから、朝になると電源が切れていたり運転モードが変っていたりする。スイッチの位置は改良の余地がありますね。
2007年04月19日
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ネットカフェ難民がどうだから国としても実態を調査してなんたらするとかいう話が先週くらいのニュースにあった。ご苦労なことである。ネットカフェ難民により治安が悪化したとかいうのなら腰も上げて貰わねば困るが、そうではなくて、つまり一般市民を守るのではなくて、ネットカフェ難民自身をどうにかしてやろうという趣旨らしいから、早い話が大きなお世話だ。どこで寝ようがどこで働こうが個人の自由、というよりもその個人の生き方であって、そういう人生を送るのがいやならばそれなりに学ぶなり働くなりすればいいことである。少なくともおのれの全てをかけて努力したがネットカフェ難民にしかなれなかったというようなことはいまの日本ではありえない。どこかで甘えたか挫折したか家出したか変な交友をしたか馬鹿な恋愛をしたか(これを男または女にだまされたとかいうのは言葉のすりかえ)、何かがあったからそうなっているわけで、つまりは自分で選んだ人生なのである。その選択が間違っていたと後悔している人はもちろんいるだろうが、後悔だけなら猿にも出来る、ならばこそ人に数倍する苦労をして「復活」しなければなるまい。ところでネットカフェ難民とはずいぶんかっこいい言い方で、そのうち「おれ、ネットカフェ難民やってんだ」と自慢する馬鹿も出かねない。しかし別に漫喫乞食とも呼ばれているらしい。言い得て妙である。これなら成りたいというやつも出てこないだろう。良い名称だ。
2007年04月18日
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統一地方選挙とかでこないだは県議選、いまは市議選の真っ最中である。私は20歳で選挙権を得てこのかた棄権というものをしたことがない。ただし、国政選挙に限っての話である。ちなみにいままで投票したことのある政党は、自民党、民主党、共産党、社会党、自由党、新自由クラブ、日本新党、民社党、新生党、新進党、そのほか参院選のミニ政党、と、無党派というか、ひと昔まえは浮動票と言われた典型というか。これはいい加減ということではなくて、その時その時で考えているということであって、**党一本槍というほうがよほど不真面目であろうと思っている。しかし地方選挙ともなると、仕事で転勤転居の連続の根無し草だったから、ほとんど行ったことがない。選挙があること自体も知らなかったりした。だが、終の棲家に戻ったいまは別で、先日の県議選も投票した。でもね、と思うのだけれど、いま選挙カーがやかましいが、あの「凹山凸夫です、凹山凸夫です! よろしくお願いします!」の連呼は意味があるのかね。あれを聞いて「よし、凹山凸夫に投票しよう!」などと思う人間がこの世に一人でもいるとは思えないのだが。政策を演説するならともかくも。電話もかかってくる。「凹山凸夫です、厳しい戦いです、よろしくお願いします」とか何とか。これも効果あるんだろうか。訪問も多い。「近所の**です、凹山凸夫さんにひとつよろしく」云々。わかりましたと返事はするが絶対入れてやるものかと腹の中では思う。迷惑なんだよ。いきなり来やがって。で、何を基準に投票するのかというと、選挙公報。これだけ。選挙公報を丹念に読んでそれだけで判断する。仮にも選挙公報であるからには適当に原稿を作る候補もおるまい。全身全霊をかけて作った文章であるはずで、それだけを判断の材料にする。可能ならば全員の演説を聞いて判断したいところだが、50人を超える候補全員の話を聞くなどは現実に不可能なので、これが一番公平な方法だと思う。ことほどさように真面目に投票しているともいえるが、どうせ誰を選んでも同じだからこうしているとも言えるんだけどね。
2007年04月17日
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どけちに目覚めたのか、本来のどけちが覚醒したのか、いずれにせよ、どけち精神が緩むことはない。たとえば自動販売機の缶やらペットボトルに入った飲料は買わない。というか買う気が起こらない。缶コーヒーだとして、私が得られるものは体内に入るコーヒーの液体、それのみである。しかるに支払う対価はというと、容器の缶代、自動販売機の減価償却費、電気代、缶コーヒーの運送費、梱包の段ボール代、製造・梱包・運送に関わる人件費、そしてメーカー・問屋・小売(自動販売機の設置者)のマージン。ざっと考えてもこれだけある。缶コーヒーの広告宣伝費もあるか。すべて無駄である。120円のうち、純然たるコーヒーの液体代は10円くらいなものだろう。10円のものに対して120円を払う。そしてその110円は空き缶とともに捨てられる。もったいない。理屈に合わない。納得できない。だから自動販売機の缶やらペットボトルに入った飲料は買わない。しかしどけちとは自分のお金だけではなく他人のお金に対してもどけちでなければならない。でなければただの守銭奴だ。何かと話題のスーパーのレジ袋を私は10回に1回くらいしか貰わない。レジ袋を縦に細く折って結ぶとかさばらずにポケットに入る。それをいつも持参する。10回くらい使うと寿命がくるからゴミ袋へ回す。オートレースで車券購入にはマークシートを使う。上質の厚い紙だ。これをタダだからとごっそり持ってゆくおやじがいる。というか大概そうだ。座席に束にして置いて場所取りするやつも多い。私はこれが我慢できない。使う枚数しか取らない。余れば返す。以前に購読する漫画雑誌の数をしぼったと書いたのも同様で、十何本かある連載のうち三本しか読むに値しなければ、たとえば300円のうち225円を捨てているのと同じことである。もったいない。無駄だ。だからイブニングとモーニングだけにしたが、いまはイブニングも止めた。モーニングだけはなんとか半分くらいは読める漫画なので買い続けている。『小説の自由』を読了。『小説の誕生』を読み始めた。
2007年04月16日
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川口オートへ行ってきた。なんつーか遊びに行くあるいは勝負に行くというよりも様子を見に行くという気分が強い。つまりは気合いが入っていないということなのだが。儲けようというより損しないように遊んでいる。それが長く続けるコツとは思うけれども、淋しいことではある。『小説の自由』が読みかけなので持っていきたいところだが、如何せん厚過ぎて重すぎるので、文庫本の『物語が、始まる』(川上弘美)を持参。川上弘美の小説を読むのはこれが初めてで、短編4篇のうち一番短い『トカゲ』をレースの合間に読んだ。びっくらした。それで表題作の『物語が、始まる』も読みだして、帰りの電車のなかで読了。これもびっくらした。伊達や酔狂で現代を代表する作家ではないやね。ところでいままで川上弘美を読む気がしなかったのは、理由のひとつが名前だった。字画が少なくてスカスカなんだよね。川も上も弘も。なので、と言っても何がなのでなのかよくわからないが、いままで読む気がしなかった。食わず嫌いはよくないなと思った次第。試し食いしても駄目だったのが島田雅彦。『僕は模造人間』を刊行当初の買ったが、どうしても読み通せなくてぶん投げ。しかし一作だけで判断するのもと後年『君が壊れてしまう前に』を買ったがこれも駄目。どうにもこうにも文章に乗れない。読むのが苦痛なだけでぶん投げた。もう二度と手に取ることはないだろう。
2007年04月15日
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筒井康隆の『巨船ベラス・レトラス』を買うべく本屋に行ったが生憎なくて、棚を眺めるうちに『小説の自由』(保坂和志・1700円)が目について手に取った。ぱらぱらとめくるうちに本物であると文章が語りかけてきて、続編である『小説の誕生』(1900円)と共に購入。読み始めると『小説の自由』は本当に本物の本で、巻末を見れば著者は『書きあぐねている人のための小説入門』(1400円)なる本も出しているらしい。これも読みたくなって、翌日、別の本屋へ『巨船ベラス・レトラス』(1143円)と共に買いに行き、両方あったが、金井美恵子の『目白雑録(ひびのあれこれ)』(1500円)も目について購入。『小説の自由』は読みかけのまま『書きあぐねている人のための小説入門』を読了。それでやはり川上弘美とかのいまどきの作家も読まねばならぬかと思い至って更に次の日ブック・オフへ。そこで買ったのが、文庫本『あらゆる場所に花束が』(中原昌也・250円)文庫本『物語が、始まる』(川上弘美・350円)単行本『蛇にピアス』(金原ひとみ・105円)単行本『インストール』(綿矢りさ・105円)単行本『天気の好い日は小説を書こう』(三田誠広・105円)ほかに絲山秋子の本(『沖で待つ』)とかもあったけど、105円じゃなくて650円とかしかなかったから買うのはやめた。眺めた感じでは、どこがいいんだか。105円なら買ったけど。もちろん、上記の105円の本も105円だから買ったのです。『天気の好い日は小説を書こう』を一日で読了。うん、これは105円ならお買い得の本だった。定価は1400円ですか。それだとビミョー。三田誠広は芥川賞を取った『僕って何』は昔読んだが、それだけ。この本は早稲田の文芸科での講義録のようなもので、自分でも「基本の基本の基本」と言っているけど、まあその通りの内容で、しかし何よりも作り物の小説の作り方の講義だね。そういう意味ではいい講義だけど、三田誠広という作家の底の浅さもなんだかなと長嘆息させられました。ということでいまは『小説の自由』を読んでいるところだが、『小説の誕生』と合わせて800頁を超える量で、かつ中身がとてつもなく濃いから、しばらくは他の本は読めそうにもない。でも実はこの著者・保坂和志の小説はまだ一冊も読んだことがない。なにせつまらなくて退屈なことでは定評があるらしいから。
2007年04月14日
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ということで、「株ひとりごと日記」を「オトキチ日記」に変更しました。「株」を掲げて、株以外のことを書くのは羊頭狗肉ではないかという忸怩たる思いがあったからで、そうなると今年は全く、ただの一回も取引していないので、書くことがなくなってしまった。それで新装開店というわけです。ほんとはHPの閉鎖も考えたのだけれど、北朝鮮旅行記もあるし、継続することにしました。しばらくは株はお休みすると思いますが、これもどうなるやら。それでいて映画のレビューのほうはひと月30本近く書いています。右のブックマークの「映画レビュー<オトキチ>」から入れますので、興味のある方はお越しください。
2007年04月13日
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2月2日 23:00頃、なにやら焦げくさい臭いが。ファンヒーターを見る、点いていない。タバコは? 大丈夫。気のせいかな? とパソコンに向かい続けていたら、突然電源が落ちた。パソコン本体を見ると、げっ! 煙がもくもく!なにが過熱したのかわからんが、もう電源も入らない。製造年月は2002年8月。4年半で火を吹くっちゃ、どういうこったい?たしかNECのHDDから出火というのは聞いた気がするが、これは富士通のFMV。しかしこうなればもう買い換えるしかない。修理に出したって数日で直るとは思えず、こちらは1日だってパソコンがなくてはお手上げなのだ。ということで、本日図らずもビスタ搭載のパソコンを買うこととなった。こんなもの買う気なかったのに。いまこれを打っているのがその新品。セッテイングに結局半日かかったぜよ。しかし問題は燃えたパソコンのなかの数々のファイルである。電源も入らないからコピーしようもない。過去の全てを失ったようなショックだ。もしかしたら富士通に文句垂れればなにかしてくれるかもしれない。でもね・・・大事な大事なファイルもあるけど、人に見られたら困るファイルもあるのよ、正味の話。メーカーなんぞに持ち込んで、それを見られるリスクを考えると、う~ん、やっぱりなあ。
2007年02月03日
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そういうことで、にゃんこは現在もリビング暮しである。トイレ・・・いまのところ問題なし。爪とぎ・・・爪とぎ板には目もくれず、主に座椅子の背でガリガリと。 しかしこれは座椅子のカバーを変えればいいだけのこと。抜け毛・・・予想以上。まあおかげで毎日掃除をするようになった。におい・・・これが一番の問題。やっぱりにおうわ。朝イチ、リビングに入ると覿面にわかる。ということで、ネットで調べて富士通の脱臭機を注文したところである。おそろしいくらいの効果があるそうだから、期待しよう。
2007年01月28日
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朝~午前中。元気、とにかく元気。ネズミのおもちゃを追いかけまくり。ソファの下にもぐって、裏から這い上がり、キャットタワーから椅子へと跳びまわり。ダダダっと走りこんでそのまま床をすべって壁に激突。やかましい。昼~夕方。お昼寝タイム。だいたいソファのうえで丸くなっている。夕方以降。のんびり甘えん坊。ミャアミャアいいながらスリスリ。おもちゃではあまり遊ばない。のて~としながら膝の上で身づくろい。いまのところリビングでの生活に満足しているようす。外へ出せとわめくこともない。なるほど、猫にとっては、安全な場所であることが第一なのだなと思った次第。
2007年01月16日
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さて、にゃんこの室内初日。最初はにゃんにゃん鳴いていたが、その後は、ソファの下にもぐりこんで、這いつくばっている。気配すらしない。まあ、初日だし、と、ほっておいて、トイレの砂に、おしっこをしていたあたりの庭の土をちょいと混ぜておいた。当分はリビングから一歩も出さない予定。翌日。どうなっているかと心配だったが、おお、ちゃんとトイレを使っているではないかいな。偉いぞ! にゃんこ!キャットタワーとネズミのおもちゃとノミとり首輪を購入。首輪については、これも迷った。昔、子供の頃飼っていたネコにリボンで首輪をしたことがあったが、夕方にはもうボロボロ。よっぽど厭だったらしい。なので、嫌がるようならやめようと思っていたが、あら、なんの抵抗もなく、付けたあとも嫌がるようすも全くない。ネコの個体差ってあるんだなあと感じいった次第。
2007年01月15日
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にゃんこが室内飼いとなってから実はまだ1週間である。そもそも室内飼いが猫にもいいとは頭では理解しても、踏み切れないでいた。なにせ生れたときからのノラちゃんである。のびのびと外で遊んでいる。下校時の小学生からは可愛い可愛いと毎日騒がれている。エサは私が与えている。それを家に閉じ込めるのがほんとに良いことなのか?飼う側の不安もあった。トイレを覚えてくれるものなのかどうか。外に出してくれ~と鳴きつづけられて耐えられるのか。そんなこんなでズルズルと。しかし事態が変わった。お向かいの奥さんから「座敷にあがりこんで困るからエサをやらないでくれ」と言われたのだ。その家は犬を飼っていて、そこのお婆さんはにゃんこにも「お出でお出で」と声をかけていた。なのでいささか言いたいこともあった。が、ご近所と気まずくなるのはまずいので、はい分りましたとニコヤカに。さて、これでエサをやらなくするか、室内飼いにするかしかなくなった。猫の幸せなんぞを考える余地はなくなったのだ。牢獄生活だろうと飢えるよりはましだろう。かくて、室内飼いと相成った次第である。
2007年01月14日
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以前に書いたとおり、黒猫の親から2匹の白猫が生れて、オスは金目、メスは青い目だった。白猫とはいいながら頭には一部黒い模様があった。が、いろいろ調べて見ると、ほうっ、なるほどと思うことばかりで、勉強になった。白猫の目は金目または青い目、まれに左右が金と青(金目銀目)。頭の黒い部分は、成長とともに真っ白になる。まれにほんとの真っ白で青い目だと聴覚障害の場合が多い。逆に言うと黒い部分があることは障害がない目安となる。そういう遺伝らしい。たしかに我が家のねこ様も頭の黒い模様はもうほとんどない。耳はよく聞えている。まずはよかった。
2007年01月13日
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昨年8月頃はこんなだったチビなのですが、 いまは、いろいろあって、こうなりました。ソファにどてんと。 キャットタワーの上にて。
2007年01月12日
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