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「反骨の画家・北川民次。メキシコを漂流し、子どもたちに影響を受けた独自の作風。
目標は、絵画による社会変革。時事問題を描き、時代に抵抗した男がみた絵の可能性とは。
抑圧された民衆のための壁画運動にふれ衝撃を受ける。藤田嗣治の誘いで帰国し、「画壇のアウトサイダー」と呼ばれ独自の存在感を示した。
戦後も、絵で社会を変えるため、率先して社会問題を絵にしたり、子どもへの美術教育へも力をいれたりするなど活躍した。
晩年は自らをバッタにたとえた版画の制作に熱中。常に反骨の姿勢を貫いた創作活動に迫る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%B7%9D%E6%B0%91%E6%AC%A1
彼の名は、知ってはいたけどほとんど研究はしてこなかった。
私も似通った反骨精神を持っているが、そのレベルは彼には到底及ばないね^^。
まあ、生まれたステージが格段に違うから、仕方ないか><
北川は、静岡県の裕福な茶畑を保有する地主の家に生まれたという。
親の勧めで、商業学校に進むが、20の時ニューヨークへ、そして、美術学校に通うことに・・
生活が苦しかったので、劇場の背景画を描きながら絵を学んでいったという。
それでも、ニューヨークの空気になじめず、キューバを経てメキシコに・・そして、メキシコシティにたどり着く。
その頃、メキシコは革命が収まった頃で、メキシコ壁画運動(『メキシコの歴史』『宇宙を支配する人々』が有名)が起きていたころで、彼自身、「絵は社会を変えられる」と思い始め・・、民衆を描く画家を目指すようになっていった。
38歳の時、メキシコ タスコに移り住み、インディオの子らに絵を教え始める。
子供たちに、好きなものを自由に描かせることで、彼自身も触発され、自身の表現の可能性に驚いたという。
それが、自由に好きなものを描く・・、それが自由への闘争心を与えると感じていたようだ。
子供らは、大事なものを大きく描くことに感動を得て、それらが、その後の人生観、世界観を変えることに驚いたらしい。
その頃から、画家にとっての真実は何か・・を模索し始めていた。
その頃、藤田嗣治が、彼を訪ねている。
42歳で帰国し、二科会に入会、『タスコの祭り』『メキシコの三童女』(インディオの少女を描いた作品)を出品し、一躍時の人となる。
昭和11年、戦争に向かう国家体制に、絵『岩山に茂る』等で静かな抵抗をし始める。
1945年に終戦を迎え、新たな活動を開始する。
そう、日本でも、子供たちに自由に描かす、野外美術学校を開いたのだ。
創造美育運動の先頭に立ち、日本の管理教育に立ち向かった。
晩年、民治は84歳の時、二科会の会長に選出されるが。その会の政治闘争が嫌になり、7か月で職を辞す。
それからというもの、民治は版画に傾倒していく。
バッタをモチーフに何枚も版画を彫り、自分の自画像として、自分の姿を写した。
「バッタの哲学」として、一匹では弱い存在だが、何千何万と集まるとすごい力を発揮することを、その版画の中に描こうとした。
95歳で、反骨の生涯を閉じるのだが、アトリエに最後まで飾っていた絵がある。
フェルナンド・レエスという18歳の少年が描いた「祈りの少女」の絵・・
彼自身、「自分には描けない」と言い、純粋な精神で描いた少年の絵を、いつも手本としていたという。
彼は、「世界はこれでいいのか?」・・と、日本に、世界に問いかけていた。
今また、世界は不穏な空気に包みこまれだした。
今日の北川民治をテーマにしたのは、世界に問いたかったのか・・・
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