全51件 (51件中 1-50件目)
年が変わった。今年は巳年だ。小生にはもひとつどうも巳の正体がわからない。蛇に対する幼い頃からのトラウマがあってなにかしらん 不信 疑惑 災難のイメージがつきまとう。年の初めから屁っ放り腰 怖じ気づいてしまう。なんとかならないか。
2013.01.02
コメント(1)
わが身内が死んだとき 私はただただ静かだった。泣いたりわめいたり悔しがったりしたところでなにも追えってこないからだ。そんな私だから わが身内が死んだとき だれの悔やみもうけつけなかった。さりながら最近 おのが「保護者」とか言う人の死に遭遇して それもとっくの昔に覚悟を決めねばならなかったはずの死に遭遇して 身も世もあらず嘆き悲しんでいる人がいるのに驚いている。私の身内が死んだときには気づいていながら 一輪の雑草も 一かけの粗菓も 哀悼の辞も 手向けなかった人が まさにこの世の終わりとばかりに 身も世もあらず 動揺して 嘆き悲しんでいる。気の毒だが そのあまりにも大げさな 破天荒の振る舞いに あるいは 言辞に まさか それは嘘でしょうと言いたくなる。私はもう傘寿 身内の死には 五指 十指にあまるほど遭遇している。その葬儀に弔問に来て 身も世もあらず 大声上げて 滂沱と涙を流して 泣き叫ぶ人 それがすべて 虚偽 偽善 猿芝居だと言うことを見飽きるほど 見尽くしている。胸くそが悪くなるばかりなので もう弔問はやめた。そのひととは 今後一切 交信をしたくない。
2012.10.27
コメント(0)
Re[1]:忘れ物/11日(11/11) >ひげまろさん >昨夜は平城宮跡 今夜はバンコックの洪水(笑)。ずばらしい写真集です。私の家は平城宮跡 車で1時間ほどの所にあるのですが、こんな夜景は眺めたことがなかった。 >ところで 昨夜2011年11月11日11時11分11秒 夜空を見上げると、雨は小休止 早い雲の流れの中 満月 天心 ほんとこの世のものとは思えない絶景でした。 ひげまろさん、いつも書き込みありがとうございます。 平城京跡はここ数年で驚く変わりようですね。むかしの、のんびりとした 感じが好きやったんで、私なんかはほんまに\(◎o◎)/!してるんですが イベントがあると聞くとやっぱし写真を撮りに行きたくなってしまうこの頃です。 昨夜の満月綺麗やったですか?私は気がつきませんでしたが、今夜は 名塩から宝塚のあいだぐらいやったと思うのですが、綺麗にお月さまが 見えてました。残念ながらその時間に見えてるハズのおうし座の アルデバランは見えませんでしたが、なかなかに良いお月さまでしたよ。 (2011年11月13日 01時19分53秒)
2012.10.15
コメント(0)
いかにして年の瀬雑踏くぐり抜けん龍の尻尾にすがるすべもが 新しい年が来たって何の希望も持てそうにない昨今の状況ですが へこたれず 何とかして 躍進の尻尾にすがりつこうと…。 書き込みありがとうございます。 私は新しい年が来ると思うだけで、少しわくわくした気持ちになります。 健康で充実した日を過ごせるように頑張りたいと思っています。 ひげまろさんもどうぞマイペースで♪ (2011年12月09日 09時58分37秒) 永久の別れか(02/17) 思いがけず永久の別れにならんとす黒き予感を払い切れずに 哀れ哀れ別れは唐突呼び戻すすべ何もなしただ祈るのみ 五十肩の保護者とは誰ひょつとして睦び語らうよき人ならずや 介護しつつ歌詠み詩を書きしたる日々我が身には二昔三昔 介護した後の別れを歌に詠み悲しき遺書とし八十路が迫る わが書きし介護の歌は千首二千首ホームページに一覧を乞う 介護の歌響きあいなば相聞の歌かとも見え深まる思い どんな歌も今の私には詠めそうにありませんm(__)m (2012年02月22日 12時23分10秒) 初詣(01/17) 二度三度初詣する渋滞に阻まれ鳥居を潜れず帰る なぜかくも人と車の押し寄せて幸せねだるふと鳥肌が 我もまた傘寿間近く煩悩の炎の消えぬ初詣かな 四度目にたどり着きたる社殿にて引いた御籤はなんと大凶 今年また飛翔はなしとうなだれて社殿の辰の絵馬に柏手 今年また深き悲しみ胸に抱き三六五日生きねばならぬ 私は小吉でした(=^・^=)そういえば、昔「凶」を3回続けてひいた 時がありましたよ(苦笑)もう絶対近々死ぬって思ってましたが、 それから今日まで無事に過ごしているので・・・まぁ大丈夫なもんだと 思ったりしています(^^ゞひげまろさん、今年の元気でお過ごし下さいね♪ (2012年01月20日 10時01分34秒) あ、あ~12月/8日(12/08) 駆け寄れど我が目の前で閉まるドア年の瀬列車あとはもうない とっても長い期間放置状態になり、大変失礼致しましたm(__)m 年末年始といつもよりもさらにあわただしい日を過ごしてしまいましたが 何とか無事に?(でもないけど)お正月も終わりました。 本年もよろしくお願いします。 (2012年01月16日 17時08分27秒) Re[1]:インフルエンザの予防接種/30日(11/30) いかにして年の瀬雑踏くぐり抜けん龍の尻尾にすがるすべもが 新しい年が来たって何の希望も持てそうにない昨今の状況ですが へこたれず 何とかして 躍進の尻尾にすがりつこうと…。 充実した日を過ごせるように頑張りたいと思っています。 ひげまろさんもどうぞマイペースで♪ (2011年12月09日 09時58分37秒) /31日(10/31) 霜月や頭に白髪雪積もり心もいてて嘆く悲しみ ひげまろさんお久しぶりです。書き込みありがとうございます(^-^) 霜月になっても、まだ暫くは暑さも続くようですね。日本の美しいハズの 季節が遠のく気がするこの頃です。 (2011年11月01日 12時49分58秒)
2012.10.14
コメント(0)
先日 ある人のところに弔問に行って、哀悼の意を述べ、私の歌集「介護に生きて」紹介して一顧の栄誉を乞いました。ところが その手順か何か 私のふるまいになにかかんに障るものがあったらしく激しく拒否され 罵詈雑言をあひせられました。無念残念。長い長い短歌のやりとりだったが 結局 双方 気持ちの上で 接点がなかったのだ。理由はわからない。私がおっチョコチョイだから 何かの齟齬で逆鱗に触れたのかも知れぬ。決別。もともとご縁がなかったのだと考えよう。こちらから 罵詈雑言 浴びせかけたいこと山々だが 未練がましい。すべてなかったことにしよう。
2012.10.13
コメント(0)
長いこと閉鎖されていた萠野さんの部屋を久し振りに訪れておどろいた。「保護者」なるひとの病状が悪化 詳しいことはわからないがどうやら危篤状態らしい。歌集「介護に生きて」を出版したことを知らせたかったのだが、それどころではなく茫然自失 あたふたと帰ってきた。何ともはや…。
2012.10.05
コメント(0)
思いがけず永久の別れにならんとす黒き予感を払い切れずに 哀れ哀れ別れは唐突呼び戻すすべ何もなしただ祈るのみ 五十肩の保護者とは誰ひょつとして睦び語らうよき人ならずや 介護しつつ歌詠み詩を書きしたる日々我が身には二昔三昔 介護した後の別れを歌に詠み悲しき遺書とし八十路が迫る わが書きし介護の歌は千首二千首ホームページに一覧を乞う 介護の歌響きあいなば相聞の歌かとも見え深まる思い(2012年02月22日 10時02分24秒)
2012.02.22
コメント(3)

雨に風に振り回されて暮らす日々厄除け祈願阻む大雪恵方へと向かおうとするドライブを阻む渋滞車犇めき龍は居らずただまやかしの黒雲に虚しい霊気祈りを託す祈っても祈らなくても世の中はなるようにしかならないものかあきらめてあきらめきれず一つ覚え未練の愚痴をまた繰り返す
2012.01.31
コメント(0)
今年恵方西にはあらず北にあり生駒尻目に男山に向かう 京都へと行こうとすれば今日は午後激しい雪とテレビの予報 北は雪西は夕焼け淡路島恵方でなくても行きたいと思う 寒さ風雨また雪に阻まれて厄落としする社は雲隠れ 外出をしようとすれば胸騒ぎ募る不安負けて引きこもり
2012.01.25
コメント(3)
二度三度初詣する渋滞に阻まれ鳥居を潜れず帰る なぜかくも人と車の押し寄せて幸せねだるふと鳥肌が 我もまた傘寿間近く煩悩の炎の消えぬ初詣かな 四度目にたどり着きたる社殿にて引いた御籤はなんと大凶 今年また飛翔はなしとうなだれて社殿の辰の絵馬に柏手 今年また深き悲しみ胸に抱き三六五日生きねばならぬ
2012.01.19
コメント(0)
ここも留守かしこも留守の年の瀬をいかに訪れ挨拶もがな雨降ると聞けば傘さし征くものを雨にはあらず雪の降り来て雪降ると思えばにわか明るみて射しくる冬日なま温かし顔の似た司会者が出てあれこと我がこと話す悪夢よ悪夢眠り浅く真夜中に覚めトイレへと向かう足取りよたよたとしてこれでまあ生きているかと思うこと胸苦しさに悪夢より覚め白昼夢夜は悪夢ぞ病床に寝ても覚めても胸騒ぎいて生きようと思いながらも混濁の意識はひそか死を求めてる元気かと聞かれ元気と応えつつうしろめたさにとまどう心本心はどこにあるかとまさぐれば本心はみな仮面をまとう
2011.12.09
コメント(0)
2011.08.15
コメント(0)
涼しい菓子をみつけた。京都 鞍馬口の幸楽屋の冷菓 涼菓。たどり来て京都鞍馬の幸楽屋涼しき風に金魚鉢愛づ
2011.08.13
コメント(0)
久しく無沙汰の日記だが、これはやはりしっかりと書いておかなければなるまい。去年 日記に孫の東大未受験と書いた。1浪、今年ようやく共通一次の成績が良く受験した。結果、嬉しいことに見事、合格。発表の翌日、親(私の娘)子(私の孫)で入学の手続きに行き、遅くなったが、2時過ぎ、食事でもして帰ろうと、駒場のあたりのレストランに行き、済ませたところで激震である。2011年(平成23年)3月11日午後2時42分 東北関東大震災の発生である。合格の喜びよりも、激震の驚天動地にすっかりど肝を抜かれてしまった。さまざまな大混乱と紆余曲折の始まりである。東大は毎年4月12日に東京武道館で入学式を行うがそれが中止になる。地震と津波の災害のため福島原発に事故が発生し、放射能の被曝の恐怖、電力不足、停電 ライフラインの壊滅等々、さまざまに想定外の不安、無秩序が蔓延し始めた。(この項未了)
2011.04.03
コメント(0)
奈良氷室神社の枝垂れ桜が満開になりました。この桜は奈良の一番桜の呼ばれていまして、奈良では一番最小に咲き乱れ爛漫の春を告げます。どちらかというと昼間よりもライトアップされた夜桜の方が見事です。またこの時期、氷室神社では、3月1日、15日、21日、4月1日に氷献灯が行われます。氷献灯というのは氷の中に蝋燭を立てずらりと参道の両側に並べるのです。そして5月1日、献氷祭です。
2011.03.30
コメント(0)
長いこと留守にしていた。2011年が明け、はや一年が過ぎた。日本列島 今やもみくちゃにされている。天にも、地にも、人にも、時にも利なく、孤軍奮闘いや、奮闘どころかたたかう気力さえ失われている。自民党の小泉が、党と日本を引っかき回し、自滅させ 自爆させ、民主党が政権を取るチャンスをつくった。国民は何一つ真相がわからないから、さきの選挙で民主党が政権を奪取するチャンスを与えてしまった。さらにさきに社会党に裏切られ、今回はまた民主党に裏切られた。自民党がいいというのではない。小泉がブッシュに媚び、経団連にすり寄り、郵便局をつぶし、社会保険庁をずたずたにして、日本の官僚を骨抜きにして、つまりは日本を四分五裂させてからはなにひとつ希望の灯が見えなくなった。そして現れた幻のうたかたの民主党政権……なにが民主主義なものか。強欲なゾンビ、ふるいふるい社会主義の時代遅れのドラキュラみたいな、まやかし政権。なんの未来があるものか。
2011.02.01
コメント(0)
まもなく ほんとに後期高齢者。しかし ふと気がついて まわりを見回すと 21世紀初頭 インパク開幕以来の知己 だあれもいない。派遣切りで 浮浪者になったように みずからを浮浪猫などと称し 雲散霧消している。絶句。
2009.08.14
コメント(2)
舛添要一厚生労働相が政権末期の中、後期高齢者医療制度の見直しを表明したのは、制度の抜本改革を掲げ、次期衆院選を与党に有利に導く狙いがあるとみられる。ただ、舛添氏が言う「各制度をうまく組み合わせた改正」は難しい。構想を自民党総裁選で優勢な麻生太郎幹事長に持ち込んだことには「猟官運動」(厚労省幹部)との批判も出ている。【吉田啓志】 舛添氏は20日朝、記者団に「どんなにいい制度でも国民の支持が得られないと長続きしない」と表明。(1)年齢のみで対象者を区分しない(2)年金からの保険料天引きを強制しない(3)世代間の反目を助長させない--の3原則に基づき、次期政権で見直し案を議論する考えを強調した。 具体的には、高齢化率が高く財政が苦しい市町村の国民健康保険を現役世代が多く比較的豊かな大企業の健康保険組合などが支援する「リスク構造調整方式」と、定年後も従来の健保に加入して後輩が支える「突き抜け方式」などの利点を取り入れるという。 しかし、両方式を融合した旧制度が破綻(はたん)寸前だったからこそ後期高齢者医療制度は考案された。高齢者医療費にあえぐ健保の解散が相次ぐ中、リスク構造調整方式なら現役の負担がさらに増え「世代間の反目」を助長しかねない。一方、突き抜け方式は正規職員が自分たちのOBを支えるだけにとどまり、国保の社会的弱者は対象外。理念の異なる両方式の「いいとこ取り」は難しい。 舛添氏は後期高齢者医療制度を再三称賛してきたが、福田康夫首相や町村信孝官房長官に相談せず、見直しを麻生氏に進言した。舛添氏の変心は、批判の矢面に立ちながら制度の浸透に苦心してきた与党議員や厚労省職員には「敵前逃亡」に映る。公明党の山口那津男政調会長は20日のテレビ番組で「いい制度と大臣が勧めるから、皆大臣を支えて国民に説明してきた」と不快感を示した。
2008.09.21
コメント(0)
福田首相が1日夜に行った辞任会見の主な内容は次の通り。 昨年、私は安倍前首相からバトンを引き継ぎ、9月26日に首相就任以来、1年たった。その間、参院選で与党が過半数割れをする状況の中、困難を承知でお引き受けを、ということだった。 正直申しまして、最初から政治資金の問題、年金記録問題、C型肝炎問題、防衛省の不祥事等々、次から次へと積年の問題が顕在化してきた。こういうことに遭遇し、その処理に忙殺された。その中で将来を見据えながら、目立たなかったかもしれないが、誰も手を付けなかったような国民目線での改革に着手した。 例えば、道路特定財源の一般財源化、消費者庁設置法のとりまとめ、国民会議を通じて社会保障制度の抜本見直し。最終決着はしていないが、方向性は打ち出せた。 さらに今年に入ってからは経済・景気問題が大きな課題として浮上。ガソリンや食糧などの物価高騰に国民や農林漁業、中小企業、零細企業の皆さんが苦しむ中、何とかして強力な対策を作らなければいけないと思ったが、その態勢を整えることを目的に8月に改造を断行した。強力な布陣の下、先週金曜日に総合的な対策をとりまとめた。 先の国会では民主党が重要案件の対応に応じず、国会の駆け引きで審議引き延ばしや審議拒否を行った。その結果、決めるべきことがなかなか決まらない。そういう事態が生じ、何を決めるにも時間がかかったということは事実だ。 今、日本経済、国民生活を考えた場合、今度開かれる国会でこのようなことは決して起こってはならない。そのためにも体制を整えた上で国会に臨むべきであると考えた。国民生活のことを第一に考えるなら、今、政治の駆け引きで政治的な空白を生じる、政策実施の歩みを止めることがあってはならない。この際、新しい布陣の下に政策の実現を図ってまいらなければいけないと判断し、本日、辞任をすることを決意しました。 まだ、経済対策や消費者庁設置法案のとりまとめ、国会の実質審議入りには時間があるこのタイミングを狙い、国民にも大きな迷惑はかからないというように考え、この時期を選んだ。次の自民党総裁の下により強力な態勢を敷いてもらい、国家国民のための政策実現に向け、邁進(まいしん)してもらうことを期待をしている。 ――いつの段階で辞任を決断したか。安倍前首相も唐突に政権を投げ出したが、政治、政権に対する不信が巻き起こるのではないか。 安倍前首相のケースとは違うと思っている。安倍前首相は健康の問題があったが、私は目が見えにくかったということ以外、特別な問題はない。これは私がこれからの政治を考え、どうあるべきか、ということを考えた上で決断した。先週末に最終的な決断をした。 ――新しい体制になれば、どのような点で今の事態を打開できると考えるのか。 自民党のことを申し上げて恐縮だが、総裁選をすることになると思う。そして新総裁が総理大臣の指名を受けるプロセスになると思っている。私が続けていくのと新しい人がやるのと、これは間違いなく違うと考えた。 ――消費者庁、道路の成果は道半ば。(首相を)辞めること自体が政治的な空白を招くのではないか。 消費者庁は大体、法案がまとまった。次期首相がこのことを重要に考え、まとめてくださると期待している。私が続けて国会が順調にいけばいい。そういうことはさせないと野党が言っている限り、私の場合は内閣支持率の問題もあるかもしれないし、大変困難を伴うのではないかと思う。政治空白を作らないためには今が一番いい時期だ。新しい人に託した方がよりよいという判断をした。 ――1日夕、(自民党の)麻生太郎幹事長と何を話したのか。麻生氏を総裁選で支援していくのか。 今日は麻生幹事長、町村官房長官に来ていただき、説明を申し上げた。自民党総裁選の日取りを決めていただきたいと麻生氏にお願いした。 ――ねじれ国会で政策遂行が難航した。民主党の小沢代表におっしゃりたいことは。 ねじれ国会で大変苦労させられた。話し合いを受け付けてもらえなかったことが何回もあった。重要法案に限って聞く耳持たずということが何回もあった。小沢氏には「国のために、胸襟を開いて話しあいをする機会を持ちたかった」と申し上げたい。 ――総理は1カ月前に自身の手で内閣を改造したばかり。臨時国会も迎えないうちに自ら辞職という形をとったことへの見解は。 (内閣改造後の)いろいろな状況、政治の状況がある。そういうことを勘案し、この臨時国会が少しでも順調にいくようにと考え、私自身でやるより、他の方にやっていただいた方がよりよくいくのではないか。国会に一番迷惑をかけない時期に私が表明することが一番いいのではないかと考え、この時期を選んだ。 ――「首相の会見がひとごとに聞こえる」という話があった。政権への影響は。 順調にいけばいいですよ。それに越したことはない。しかし、私の先を見通すこの目の中には、決して順調ではない可能性がある。その状況で不測の事態に陥ってはいけない。「ひとごとのように」とおっしゃったが、私は自分自身を客観的に見ることができる。あなたと違う。そういうことです。
2008.09.01
コメント(0)
7.「李承晩ライン」の設定 1952(昭和27)年4月、連合国総司令部は「マッカーサー・ライン」を撤廃し、その直後には「サンフランシスコ平和条約」が発効しました。しかし、これに先立つ同年1月、李承晩韓国大統領は「海洋主権宣言」を行って、いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し、そのライン内に竹島を取り込みました。 韓国側の措置は、公海上における違法な線引きであり、また、竹島の領有権に関する我が国の立場と相容れません。これ以降、我が国としては、竹島が日本の領土であることを裏付ける根拠等を提示しつつ、機会あるごとに韓国政府に対して抗議を重ねています。8.米軍爆撃演習場としての竹島 1952(昭和27)年7月、日米安全保障条約の実施のために設立された日米合同委員会は、日米行政協定(当時)に基づき、在日米軍の使用する海上演習及び訓練区域の1つとして竹島を指定しました。この合同委員会の協議の対象となるのは「日本国内の施設又は区域」と規定されていたことからしても、竹島が「日本国内の」施設又は区域として扱われていたことが理解できます。詳細へ 9.韓国による竹島占拠 1953(昭和28)年3月、日米合同委員会で竹島の演習区域からの解除が決定しました。これにより、竹島での漁業が再び行われることとなりましたが、韓国人も竹島やその周辺で漁業に従事していることが確認されました。同年7月には、不法漁業に従事している韓国漁民に対し竹島から撤去するよう要求した海上保安庁巡視船が、韓国漁民を援護していた韓国官憲によって銃撃されるという事件も発生しました。 翌1954(昭和29)年6月、韓国内務部は「韓国沿岸警備隊は、竹島を日本の侵略から守るため、駐留部隊を同島に急派した。」と発表しました。なお、同年8月には、竹島周辺を航行中の海上保安庁巡視船が同島から銃撃され、これにより韓国の警備隊が竹島に駐留していることが確認されました。また、この際、韓国側により竹島に灯台が建設されていることを確認しました。10.国際司法裁判所への提訴の提案 韓国による「李承晩ライン」の設定以降、韓国側が行う竹島の領有権の主張、漁業従事、巡視船に対する射撃、構築物の設置等につき、我が国は累次にわたり抗議を積み重ねました。そして、この問題の平和的手段による解決を図るべく、1954(昭和29)年9月、我が国は韓国側に対してこの紛争を国際司法裁判所に付託することにつき提案しました。しかし、同年10月、韓国側はこの提案を拒否しました。また、1962(昭和37)年3月の日韓外相会談の際にも、我が国としては同様の提案を行いましたが、韓国側からは前向きな反応が得られませんでした。詳細へ 11.竹島の近況 韓国側は、引き続き警備隊員を常駐させるとともに、宿舎や監視所、灯台、接岸施設等を構築しています。このような行為は、何ら法的な正当性を有しない不法な占拠であり、竹島の領有権を巡る我が国の立場に照らして決して容認できるものではありません。我が国としては、竹島をめぐり韓国側が何らかの措置等を行う毎に厳重な抗議を重ねるとともに、その撤回を求めてきています。
2008.08.12
コメント(0)
サンフランシスコ平和条約における竹島の扱い1.概説 1952年1月、韓国は「海洋主権宣言」を行い、いわゆる「李承晩ライン」を公海上に線引きして、国際法に反して同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに、竹島をそのライン内に取込みました。韓国はその後、SCAPIN677やSCAPIN1033を根拠に、連合国もまた竹島を韓国領土であると認めていたとの主張をしています。しかし、李承晩ラインの設定に先立つ「日本国との平和条約」(サンフランシスコ平和条約)の草案起草過程において、日本が放棄すべき地域の1つに竹島を明記するよう要求した韓国政府に対し、米国は、竹島は「朝鮮の一部として取り扱われたことがなく」、「かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」として、明確に韓国側の主張を否定しています。2.経緯(1)1951(昭和26)年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約は、日本による朝鮮の独立承認を規定するとともに、日本が放棄すべき地域として「済州島、巨文島及び鬱陵島を含む朝鮮」と規定しました。(2)この部分に関する米英両国による草案内容を承知した韓国は、同年7月、梁(ヤン)駐米韓国大使からアチソン米国務長官宛の書簡を提出しました。その内容は、「我が政府は、第2条a項の『放棄する』という語を『(日本国が)朝鮮並びに済州島、巨文島、鬱陵島、独島及びパラン島を含む日本による朝鮮の併合前に朝鮮の一部であった島々に対するすべての権利、権原及び請求権を1945年8月9日に放棄したことを確認する。』に置き換えることを要望する。」というものでした。(3)この韓国側の意見書に対し、米国は、同年8月、ラスク極東担当国務次官補から梁大使への書簡をもって以下のとおり回答しました。 「・・・合衆国政府は、1945年8月9日の日本によるポツダム宣言受諾が同宣言で取り扱われた地域に対する日本の正式ないし最終的な主権放棄を構成するという理論を(サンフランシスコ平和)条約がとるべきだとは思わない。ドク島、または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は、我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島は、かつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない。・・・・」 これらのやり取りを踏まえれば、竹島は我が国の領土であるということが肯定されていることは明らかです。
2008.08.09
コメント(0)
第二次大戦直後の竹島【第二次大戦直後の連合国による竹島の扱い】1.概説 連合国は占領下の日本に対し、政治上または行政上の権力の行使を停止すべき地域、また、漁業及び捕鯨を行ってはならない地域を指令し、この中に竹島を含めました。しかし、これらの連合国による規定には、いずれもこれは領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない旨が明記されています。2.連合国総司令部覚書(SCAPIN)(1)SCAPIN第677号(イ)1946(昭和21)年1月、連合国はSCAPIN第677号をもって、一部の地域に対し、日本国政府が政治上または行政上の権力を行使すること及び行使しようと企てることを暫定的に停止するよう指令しました。(ロ)その第3項には、「この指令において、日本とは、日本四大島(北海道、本州、九州及び四国)及び約一千の隣接諸小島を含むものと規定される。右隣接諸小島は、対馬及び北緯30度以北の琉球(南西)諸島(口ノ島を除く)を含み、また次の諸島を含まない」とし、日本が政治上・行政上の権力を行使しうる地域に「含まない」地域として鬱陵島や済州島、あるいは伊豆、小笠原群島等に並び竹島も列挙しました。(ハ)しかし、同第6項には、「この指令中のいかなる規定も、ポツダム宣言の第8項に述べられている諸小島の最終的決定に関する連合国の政策を示すものと解釈されてはならない」(ポツダム宣言第8項:「日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国竝ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ」)と明記されています。(2)SCAPIN第1033号(イ)1946(昭和21)年6月、連合国は、いわゆる「マッカーサー・ライン」を規定するSCAPIN第1033号をもって、日本の漁業及び捕鯨許可区域を定めました。(ロ)その第3項には、「日本船舶又はその乗組員は竹島から12マイル以内に近づいてはならず、またこの島との一切の接触は許されない。」と記されました。(ハ)しかし、同第5項には、「この許可は、当該区域又はその他のいかなる区域に関しても、国家統治権、国境線又は漁業権についての最終的決定に関する連合国の政策の表明ではない。」と明記されています。3.SCAPINの効果 「マッカーサー・ライン」は、1952(昭和27)年4月に廃止が指令され、またその3日後の4月28日には平和条約の発効により、行政権停止の指令等も必然的に効力を失うこととなりました。 韓国側は、上記SCAPINをもって、連合国は竹島を日本の領土と認めていなかったとし、韓国による竹島の領有権の根拠の1つとしています。しかし、いずれのSCAPINにおいても領土帰属の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならないことが明示されており、そのような指摘が全く当たらないことは明らかです。 なお、我が国の領土を確定したのは、その後に発効したサンフランシスコ平和条約です。このことからも、同条約が発効する以前の竹島の扱いにより、竹島の帰属の問題が影響を受けるということがないことは明らかです。
2008.08.06
コメント(0)
竹島の島根県編入1.概説 1905(明治38年)1月、政府は閣議決定により竹島を領有する意思を再確認した上で、これを「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、その名称を「竹島」と命名しました。2.経緯(1)今日の竹島において、あしかの捕獲が本格的に行われるようになったのは、1900年代初期のことでした。しかし、間もなくあしかは過当競争の状態となったことから、島根県隠岐島民の中井養三郎は、その事業の安定を図るため、1904(明治37)年9月、内務・外務・農商務三大臣に対して「りやんこ島」(注:竹島の洋名「リアンクール島」の俗称)の領土編入及び10年間の貸し下げを願い出ました。(2)中井の出願を受けた政府は、島根県の意見を聴取の上、竹島を隠岐島庁の所管として差し支えないこと、「竹島」の名称が適当であることを確認しました。これをもって、1905(明治38)年1月、閣議決定によって同島を「隠岐島司ノ所管」と定めるとともに、「竹島」と命名し、この旨を内務大臣から島根県知事に伝えました。(3)島根県知事は、この閣議決定及び内務大臣の訓令に基づき、1905(明治38)年2月、竹島が「竹島」と命名され隠岐島司の所管となった旨を告示するとともに、隠岐島庁に対してもこれを伝えました。なお、これらは当時の新聞にも掲載され広く一般に伝えられました。(4)また、島根県知事は、竹島が「島根県所属隠岐島司ノ所管」と定められたことを受け、竹島を官有地台帳に登録するとともに、あしかの捕獲を許可制としました。あしかの捕獲は、その後、1941(昭和16)年まで続けられました。(5)なお、朝鮮では、1900年の「大韓帝国勅令41号」により、鬱陵島を鬱島と改称するとともに島監を郡守とする旨公布した記録があるとされています。そして、この勅令の中で、鬱陵郡が管轄する地域を「鬱陵全島と竹島、石島」と規定しており、この「竹島」は鬱陵島の近傍にある「竹嶼」という小島であるものの、「石島」はまさに現在の「独島」を指すと指摘する研究者もいます。その理由は、韓国の方言で「トル(石)」は「トク」とも発音され、これを発音どおりに漢字に直せば「独島(トクド)」につながるためというものです。(6)しかし、「石島」が今日の竹島(「独島」)であるならば、なぜ勅令で「独島」が使われなかったのか、また、韓国側が竹島の旧名称であると主張する「于山島」等の名称が使われなかったのかという疑問が生じます。 いずれにせよ、仮にこの疑問が解消された場合であっても、同勅令の公布前後に、朝鮮が竹島を実効的に支配してきたという事実はなく、韓国による竹島の領有権は確立していなかったと考えられます。
2008.08.05
コメント(0)
鬱陵島への渡海禁止【竹島一件】1.いわゆる「竹島一件」(1)幕府より鬱陵島への渡海を公認された米子の大谷・村川両家は、約70年にわたり、他から妨げられることなく独占的に事業を行っていました。(2)1692年、村川家が鬱陵島におもむくと、多数の朝鮮人が鬱陵島において漁採に従事しているのに遭遇しました。また、翌年には、今度は大谷家が同じく多数の朝鮮人と遭遇したことから、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。なお、この頃の朝鮮王朝は、同国民の鬱陵島への渡航を禁じていました。(3)状況を承知した幕府の命を受けた対馬藩は、安と朴の両名を朝鮮に送還するとともに、朝鮮に対し、同国漁民の鬱陵島への渡海禁制を要求する交渉を開始しました。しかし、この交渉は、鬱陵島の帰属をめぐって意見が対立し合意を得るにいたりませんでした。(4)対馬藩より交渉決裂の報告を受けた幕府は、1696年1月、「鬱陵島には我が国の人間が定住しているわけでもなく、同島までの距離から見ても朝鮮領であると判断される。無用の小島をめぐって隣国との好を失うのは得策ではない。鬱陵島を奪ったわけではないので、ただ渡海を禁じればよい」と鬱陵島への渡海を禁止することを決定し、これを朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。 この鬱陵島の帰属をめぐる交渉の経緯は、一般に「竹島一件」と称されています。(5)なお、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後、安龍福は再び我が国に渡来しました。この後、再び朝鮮に送還された安龍福は、鬱陵島への渡航の禁制を犯した者として朝鮮の役人に取り調べを受けますが、この際の安の供述は、現在の韓国による竹島の領有権の主張の根拠の1つとして引用されることになります。2.安龍福の供述とその疑問点(1)韓国側の文献によれば、安龍福は、来日した際、鬱陵島及び竹島を朝鮮領とする旨の書契を江戸幕府から得たものの、対馬の藩主がその書契を奪い取ったと供述したとされています。しかし、日本側の文献によれば、安龍福が1693年と1696年に来日した等の記録はありますが、韓国側が主張するような書契を安龍福に与えたという記録はありません。(2)さらに、韓国側の文献によれば、安龍福は、1696年の来日の際に鬱陵島に多数の日本人がいた旨述べたとされています。しかし、この来日は、幕府が鬱陵島への渡航を禁じる決定をした後のことであり、当時、大谷・村川両家はいずれも同島に渡航していませんでした。(3)安龍福に関する韓国側文献の記述は、同人が、国禁を犯して国外に渡航し、その帰国後に取調を受けた際の供述によったものです。その供述には、上記に限らず事実に見合わないものが数多く見られますが、それらが、韓国側により竹島の領有権の根拠の1つとして引用されてきています。
2008.07.30
コメント(0)
竹島の領有【鬱陵島への渡海免許】1.概説 日本人による竹島に関する知見は、鬱陵島の開発の歴史と不可分の関係にあります。鳥取藩の町人が幕府より鬱陵島への渡海免許を受け、その公認のもとに同島の開発に乗り出すことになった17世紀前半以降、同島への途次にあたる竹島もまた、漁業等に利用されるようになりました。2.鬱陵島への渡海免許と竹島の利用(1)1618年、鳥取藩伯耆国米子の町人大谷甚吉、村川市兵衛は、同藩主を通じて幕府から鬱陵島(当時の「竹島」)への渡海免許を受けました。これ以降、両家は交替で毎年年1回鬱陵島に渡航し、あわびの採取、あしかの捕獲、竹などの樹木の伐採等に従事しました。(2)両家は、将軍家の葵の紋を打ち出した船印をたてて鬱陵島で漁猟に従事し、採取したあわびについては将軍家等に献上するのを常としており、いわば同島の独占的経営を幕府公認で行っていました。(3)この間、隠岐から鬱陵島への道筋にある竹島は、航行の目標として、途中の船がかりとして、また、あしかやあわびの漁獲の好地として自然に利用されるようになりました。(4)なお、当時、幕府が鬱陵島や竹島を外国領であると認識していたのであれば、鎖国令を発して日本人の海外への渡航を禁止した1635年には、これらの島に対する渡海を禁じていたはずですが、そのような措置はなされませんでした。渡海免許(PDF)
2008.07.29
コメント(0)
【韓国における竹島の認知】1.概説 韓国側は、朝鮮の古文献に出てくる「于山島」等の島が今日の竹島であると主張しています。しかし、この「于山島」等が今日の竹島に該当していることを確かに裏付ける根拠を見いだすことはできません。2.韓国側の主張(1)韓国側は、朝鮮の古文献「世宗実録地理誌」(1454年)や「新増東国輿地勝覧」(1531年)などの記述をもとに、「鬱陵島」と「于山島」という二つの島を古くから認知していたのであり、その「于山島」こそ今日の竹島であると主張しています。(2)しかし、この「新増東国輿地勝覧」ですら、「于山島」と「鬱陵島」の二島説をとりつつ、一島二名の可能性を示唆する文言を含んでいます。また、その他の朝鮮の古文献には、「于山島」は鬱陵島の別名であり、そもそも同一の島を指しているとするものもあります。(3)さらに、朝鮮の古文献中にある「于山島」の記述には、その島には多数の人々が住み、大きな竹を産する等、竹島の実状に見合わないものがあり、むしろ、鬱陵島を想起させられるものとなっています。(4)なお、「新増東国輿地勝覧」に添付された地図には、鬱陵島と「于山島」が別個の2つの島として記述されています。もし、韓国側が主張するように「于山島」が竹島を示すのであれば、この島は、鬱陵島の東方に、鬱陵島よりもはるかに小さな島として描かれるはずです。しかし、この地図における「于山島」は、鬱陵島とほぼ同じ大きさで描かれ、さらには朝鮮半島と鬱陵島の間(鬱陵島の西側)に位置している等、全く実在しない島であることがわかります。
2008.07.20
コメント(0)
外務省の見解竹島の領有権に関する我が国の一貫した立場1 竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土です。 2 韓国による竹島の占拠は、国際法上何ら根拠がないまま行われている不法占拠であり、韓国がこのような不法占拠に基づいて竹島に対して行ういかなる措置も法的な正当性を有するものではありません。 ※韓国側からは、我が国が竹島を実効的に支配し、領有権を確立した以前に、韓国が同島を実効的に支配していたことを示す明確な根拠は提示されていません。【日本における竹島の認知】1.概説 現在の竹島は、かつて「松島」と呼ばれ、逆に鬱陵島が「竹島」や「磯竹島」と呼ばれていました。この後、ヨーロッパの探検家等による鬱陵島の測位の誤りにより島名が混乱することになりますが、1880(明治13)年、日本政府は鬱陵島の現地調査を行って島名の整合性を確認するとともに、1905年に「松島」(現在の竹島)を島根県に編入する際、その混乱を防ぐ観点から、現在の竹島を「竹島」と正式に命名しました。 竹島や鬱陵島の名称については、一時的な混乱があったものの、我が国が「竹島」と「松島」の存在を古くから承知していたことは各種の文献からも確認できます。2.ヨーロッパ探検家等による測位の誤り(1)1787年、フランスの航海家ラ・ペルーズが鬱陵島に至り、これを「ダジュレー(Dagelet)島」と命名しました。続いて、1789年には、イギリスの探検家コルネットも鬱陵島を発見しましたが、彼はこの島を「アルゴノート(Argonaut)島」と名付けました。しかし、ラ・ペルーズとコルネットが測定した鬱陵島の経緯度にはズレがあったことから、その後にヨーロッパで作成された地図には、鬱陵島があたかも別の2島であるかのように記載されることとなりました。(2)1840年、長崎出島の医師シーボルトは「日本図」を作成しました。彼は、隠岐島と朝鮮半島の間には西から「竹島」(現在の鬱陵島)、「松島」(現在の竹島)という2つの島があることを日本の諸文献や地図により知っていました。その一方、ヨーロッパの地図には、西から「アルゴノート島」「ダジュレー島」という2つの名称が並んでいることも知っていました。このため、彼の地図では「アルゴノート島」が「タカシマ」、「ダジュレー島」が「マツシマ」と記載されることになりました。これにより、それまで一貫して「竹島」又は「磯竹島」と呼ばれてきた鬱陵島が、「松島」とも呼ばれる混乱を招くこととなりました。(3)このように、我が国内では、古来の「竹島」、「松島」に関する知識と、その後に欧米から伝えられた島名が混在していましたが、その最中に「松島」を望見したとする日本人が、同島の開拓を政府に願い出ました。政府は、島名の関係を明らかにするため1880(明治13)年に現地調査を行い、同請願で「松島」と称されている島が鬱陵島であることを確認しました。(4)以上の経緯をふまえ、鬱陵島は「松島」と称されることとなったため、現在の竹島の名称をいかにするかが問題となりました。このため、政府は島根県の意見も聴取しつつ、1905(明治38)年、これまでの名称を入れ替える形で現在の竹島を正式に「竹島」と命名しました。
2008.07.19
コメント(0)
昨日 日記に「図1 過去150年間の海面上昇の推移」と書きながら その図1を載せるのを失念していた。 ここにお詫びして訂正する。
2008.07.16
コメント(0)
(7)「同じく、アル・ゴアの言うように、ツバルは地球温暖化の犠牲者なのか」 IPCCの第四次報告書によれば(図1)、過去50年間での海面上昇は、10cm程度である。ざっと毎年2~3mm上昇といったところだと思えばよい。 図1 過去150年間の海面上昇の推移 この10cmの上昇が原因で、大潮の際にツバルが水没するようになったのか。完全に否定するのは難しいが、「別の要因が無いと、あのような形での水没は起きないだろう」、と推測するのが妥当なように思える。 別の要因としては、生活排水や砂の過剰採取によるサンゴ礁の防波堤としての効果の減少などの可能性が高いのではないだろうか。 そこで結論は、「ツバルが地球温暖化の犠牲者だと断定するのは、かなり無理がある」。海岸線の浸食で倒れたヤシの木が散乱する(ツバル・フナフチ島) さて、全体としての結論である。環境問題のウソを主題とする本では、「地球温暖化に対して防止策を取るのは有効ではなく、むしろ、対応策を考えるべきだ。すなわち食糧自給率のアップを考えれば十分」といった結論らしいのだが、それが正しいと言えるだろうか。上述のような状況まで理解した上で、「地球温暖化に対して対策を行うことは無駄」と言えるのか。 地球温暖化の最大の影響だが、実は、山岳氷河の溶解による農業用水の不足という問題が最初に発生するとされている。特に、アンデス山脈の地域などにおいてである。先進国の二酸化炭素の排出によって、途上国が被害を受ける。こんな状況を無視して、日本は食糧自給率を高めればよい、という身勝手で安易な結論を導くことは正しいのだろうか。 安倍内閣の影響を受けたのだろうか、どうも、国際貢献に対する反対派が最近とみに増加しているように思える。そして、そのようなメンタリティーの人々が、この本の主張に同調しているように思える。このところ自信を失っている日本だが、かつての自信を取り戻すには、積極的に国際貢献を行う以外に方法は無いのだ。■未来を予測するのは難しいが、温暖化対策は必要 物理的な環境問題に関するウソには、対処が比較的容易である。それでも、明確な結論を出すのは難しい場合が多い。なぜならば、地球温暖化は未来の予測に関わる問題だからである。 一方、「政策は、科学的な未来予測に対して、十分な対応を取る」必要がある。これが、予防原則というものに対する国際的な合意である。すなわち、温暖化防止策を世界的な規模で実施することは必須である。過去、経済的に世界のトップにまで上り詰めた、言い換えれば、地球資源をかなり独占的に使った経歴を有する日本という先進国が、温暖化防止策を先導的に実施し、寄与することが求められている。確かに、1990年という年を基準年に決められたことは日本にとって不利だった。日本の外交が強力でないことは事実である。しかし、あえて言えば、外交が強力でなくても生きられる条件をもった国であることを幸せに思うべきかもしれない。いずれにしても政策に関する判断では単純な二元論は全く有効ではない。 ただし、だからといって、旧ソ連圏などの国から排出権を無条件に買い込むことには、個人的に大反対である。これをやったからといって、温暖化防止に効果がある訳ではなく、単なる免罪符という紙切れに大枚をはたくことを意味するからである。
2008.07.15
コメント(0)
(3)「温暖化によって北極の氷は溶ける。これでは海面上昇はしない。したがって南極の氷の量が変化を受けないなら、海面は上昇しない」 これは、北極と南極以外に氷が無いのならば正しいが、実際には、グリーンランドがある。さらに、様々な山岳氷河がある。しかも、海面上昇の最大の理由は、海水の温度上昇による熱膨張である。したがって、この問題は、不十分な前提に基づく議論である、したがって、「論理が不十分なための誤り」が結論になる。(4)「温暖化によってグリーンランドの氷は溶け、海面は上昇する」 グリーンランドの氷がすでに溶け始めていることは事実である。IPCCが今年発表した報告書によれば、93年~03年の海面上昇の要因として、海水の膨張が年間1.6ミリ、氷河の融解が0.77ミリ、グリーンランド氷床0.21ミリ、南極氷床0.21ミリと分析し、海面は2100年までに、18~59センチ上昇するとした。 年間2.8ミリという予測で100年分とすれば28センチである。59センチという予測は、溶解速度が速くなる可能性があることを意味している。 結論として、「正しいが、定量的に正確な予測はむずかしい」。(5)「温暖化によって山岳氷河が溶け、海面は上昇する」 米国コロラド大学は、体積では1%しかない山岳氷河や万年雪に着目し、今後100年間での融解量を推測した。その結果、海面上昇への寄与率は、山岳氷河の融解が60%、グリーンランドが28%、南極が12%とした。そして、山岳氷河の融解だけによる海面上昇量が、2100年までに10~25センチと予測した。これは、IPCCによる山岳評価の融解の寄与予測である8センチよりも大きい。 結論的には、「この現象は、世界各地で進行中である。したがって正しいが、定量的な評価に関しては、不確実性がまだある」。(6)「アル・ゴアの言うような、6mもの海面上昇が起きるのか」 これは、難しい問題である。2100年まで約100年間での海面上昇を50cmだと仮定し、その後も、同じ速度で上昇したとすると、6m上昇するためには、1200年かかることになる。人類が化石燃料を使いつくすに要する時間は300年ぐらいなものだろうから、多少の慣性はあったとして500年後には地球の寒冷化が始まることだろう。寒冷化が始まったとしても、海が影響を受けるにはさらに時間が掛かるものの、6mもの海面上昇は起きない可能性が高い。それでも、温暖化防止策が不十分だと、2500年までに、3m程度の海面上昇が起きることは覚悟しておいた方が良いかもしれない。 100年で50cmといった上昇速度が急増する可能性はないのだろうか。これはなんとも言いがたい。北極海が極度に温暖化し、グリーンランドの氷の融解が急速に進むことはないと断言できないからである。そもそも、地球の揺らぎは非常に大きいので、超長期を見たとき、何が起きるか、予測はほとんど不可能である。 そこで、この問いに対しては、「起きない可能性が高いが、なんとも言えない。世界的な温暖化防止策が不成功に終わると、3mぐらいの海面上昇を覚悟しておくべきだろう」。
2008.07.14
コメント(0)
■「温暖化で海面が上昇する」の7つのウソと正解氷上で餌を食べるホッキョクグマ(米・魚類野生生物局提供)〔共同〕 今回は、環境問題の物理的な現象におけるウソと正解から始めよう。例として、地球温暖化による海面上昇の問題を取り上げてみる。(1)「温暖化によって北極の氷が溶けて海面が上昇する」 温暖化で北極海の氷が融解することは、まぎれもない事実である。そのため海面が上昇するといった主張が一部メディアにあったようだが、これが間違いであることは科学的な真実と言える。すなわち、温暖化で北極海の氷が溶けることは確実であるが、海に浮かんでいる氷が溶けたからといって海面が上昇することはない。そこで、この表現の評価は、「絶対的間違い」。いまさら、ウソだというまでもない単なる無知に過ぎない。(2)「温暖化によって南極の氷が溶けて海面が上昇する」 この問題は、北が南に変わっただけなのに、いきなり難しくなる。温暖化によって、南極の棚氷が溶けたのは事実である。2002年に「ラーセンB」と呼ばれる埼玉県にも匹敵する面積の棚氷が崩壊した。「これで海面は上昇したのか」と言われるとNoである。この棚氷は海に浮かんでいたものなので、北極海の氷と同様に、海面上昇にはつながらない。しかし、この棚氷が失われたことによって、南極大陸に暖かい風が入り込む可能性が増えるだろう。となると、大陸の氷の融解が誘発される可能性があり、となると、間接的ではあるが、海面上昇につながることも否定できない。 しかし、南極大陸の中心部分の気温は依然として零下である。そのため、地球温暖化が進行して海水からの水の蒸発が増えれば、南極大陸への降雪が増えて結果的に氷が増える可能性がある。 しかし、南極大陸周辺の海水温度が高くなるかどうか、それは分からない。地球温暖化によって上昇する気温は場所の影響が大きい。北半球の温度が上昇すると、逆に南半球の温度が低下するという可能性も無いとは言えない。 結局、温暖化によって南極の氷が溶けることは、「一部正解」。しかし氷の総量は、このところは減少傾向のようだが、増える可能性もある。海面が上昇するかどうかは、したがって、「よく分からない」。
2008.07.13
コメント(0)
■善悪二元論では片付かない環境問題 一般論だが、「単純な二分法」、言い換えれば、一見切れ味が良く見えるが知的検討が不十分な方法論で書かれた本が売れることが、このところ多いようだ。これは、実に憂うべき状況である。善悪二元論しか理解できない市民層が増えている証拠だからである。 政治の世界もそうだった。「郵政民営化、○か×か」という選挙が「分かりやすい」と評価され、小泉劇場や小泉チルドレンなどの現象が起きた。 テレビというメディアは、情報を十分に伝達する時間的な余裕が無いもので、結論も単純なものにならざるを得ない。それに対し、本来、深遠かつ複雑な議論をすべきメディアである単行本までが、テレビ的なメディアに成り下がっているという可能性が高い。 今回は、環境問題の「ウソ」と「正解」について、そのあたりの事情を考察してみたいと思う。あえて、「真実」という言葉は使わない。「正解」というやや弱い表現に留めておく。 その本だが、実のところ、意図的に買っていない。そのため、何が書かれているか詳細は把握していない。なぜ買わないのか。「買う価値が無い本は買わない」、というのが一義的な理由。加えて、もともと単純な二元論に基づくご本人の主張は、以前の著書とホームページから推察することが可能だからだ。
2008.07.11
コメント(0)
安井至(やすい・いたる)科学技術振興機構 シニア・フェロー、東京大学名誉教授。1945年東京都生まれ。東大工学部卒。環境科学(環境負荷総合評価、ライフサイクルアセスメント、環境材料、グリーンケミストリー評価尺度)を専門分野とし、日本LCA学会副会長などを務める。 最近、「環境問題のウソ」を取り扱っている本が売れているようだ。とうとう「その2」も発行されたらしい。この本を読んだ人の何割かは、「環境問題はウソばかり」という著者の指摘に素直に驚き、政府や自治体は何をやっているのだ、という感想をもったようだ。このような人はかなり多いことがアマゾンなどに投稿された本の感想を読むと分かる。さらに、「環境派的優等生」に同調できないタイプの読者から、この著者への感情的な賛同があることが読み取れる。 環境問題には、比較的単純な物理的現象の場合でも、(1)科学的真実と言える、(2)かなり真実に近い推定と思われる、(3)かなり疑わしい、(4)絶対的な間違いといった4ジャンルぐらいに分けないと議論が難しい。その理由は、多様な要素を考慮しなければならないからである。 さらに、政府や自治体による「環境政策の場合」には、(1)ほぼ賛成、(2)まあ許容できる、(3)賛同するのは難しい、(4)改善が必要、といった4分類をするのがせいぜいである。その理由は、一つの軸のみで環境政策を評価し、これは○だ、×だ、と断定すること自体が間違っているからである。複数軸での評価を行うとなると本質的に、重み付けをどのように行うか、という問題に直面し、総合的な判断、言い換えれば、いささか切れ味の悪い解が求められるからである。 すなわち、ある問題に対して、例えば温暖化防止策に対して、「すぐにでもやめるべきだ」という結論を出すことは、ものごとを二分法で見ているゆえに得られる単純な結論にすぎない。
2008.07.10
コメント(0)
サミット2日目(7月8日) G8は世界の温室効果ガス排出量について、2050年までの半減をすべての国の共通目標として求めることで合意した。これについて、日本は2050年までに半減することが可能なのか気になるところだが、西岡秀二さん(国立環境研究所・前理事)が「温室効果ガス70%削減の可能性・コスト・分野」というタイトルで次のような指摘をしている。■CO2排出量70%削減はエネルギー需要の40~50%削減とエネルギー供給の低炭素化によって可能となる ■需要側のエネルギー削減は、一部の部門でエネルギー需要増があるものの、人口減や合理的なエネルギー利用によるエネルギー需要減、需要側でのエネルギー効率改善で可能となる。 ■各部門におけるエネルギー需要量の削減率(2000年比)は次のように見積もられる。 産業部門:20~40% 構造転換と省エネルギー技術導入など 運輸旅客部門:80% 適切な国土利用、エネルギー効率、炭素強度改善 運輸貨物部門:60~70% 物流の高度管理、自動車エネルギーの効率改善 家庭部門:50% 建て替えにあわせた高断熱住宅の普及と省エネ機器利用 業務部門:40% 高断熱建造物への作り替え・建て直しと省エネ機器導入 ■エネルギー供給側では、低炭素エネルギー源の適切な選択(炭素隔離貯留も一部考慮)とエネルギー効率の改善の組み合わせで、低炭素化が図られる。としている。しかし 2050年といえば われわれ後期高齢者は ほとんどすべてが死に絶えている。人口減 つまりわれわれ後期高齢者のほとんどすべてが死に絶えることでエネルギー需要減が実現する 需要減の一翼を担えるというのは何ともはや心寒くなる話だ。
2008.07.09
コメント(0)
社会的入院を余儀なくされている高齢者のほとんどは、周辺の特養ホームに入所申込をしており、その順番が回ってくることを待っているのですが、財政上の問題から、これ以上特養ホームや老人保健施設などの施設サービスが増えることはありません。要介護高齢者の住宅需要は、要介護高齢者自然増という要因だけではなく、制度変更の影響も重なり、一気に拡大するという一面も持っているのです。ひとつ実話を紹介して置こう。ご近所の90歳を優に超える高齢者のご夫婦 2年も3年も特別養護老人ホームへの入院を希望し 待機しておられたのだが なかなか順番が回ってこず この年の始め まず奥様が 市内の有料老人ホーム グループホームに入居された。続いて6月 ひっそりとご主人が入居された。有料だから 月々の経費 奥様だけで 27万円とか…。とても年金だけではまかなえない。
2008.07.08
コメント(0)
そのために介護保険の導入と合せて、この社会的入院は完全に消滅させる施索がとられるようになってきました。その方策の1つは、2001年に施行された医療法改正の「病床の分離」が挙げられます。これまでは精神病床や結核病床を除く大部分の病床が「その他病床」と分類されていましたが、平成15年8月までに長期療養が必要な患者のための「療養病床」か、急性期の「一般病床」のどちらかに色分けすることが義務付けられました。 一般病床を選択した場合は、平均在院日数(全入院患者の平均の入院日数)をさらに短くしたり、他の医療機関からの紹介率を上げたりと、早く病気を治し、早く退院させるという機能が求められるようになっています。実際に、平均在院日数が60日の病院を将来的に20日にしようとすれば、3倍の入院患者が必要になります。しかし、それに対応できないと、全体の診療報酬は大きく下げられ、閉院・廃院に追い込まれることになるのです。実際に、一般病床は92万床(16年1月現在)から、60~70万床になるだろうと予測されています。 また、療養病床は、医療保険対応の医療療養病床(25万床)と介護保険対応の介護療養病床(13万床)に分かれていますが、その違いが曖昧なことや常時医療が必要でない高齢者が多く、社会的入院の温床になっているという指摘がされており、2012年を目処に介護療養病床は廃止され、医療療養病床も10万床が削減される予定です。ですから一般病床と合わせると、将来的には計40万~50万床という病院が無くなってしまいます。その減少する部分のベッド数は、これまで長期入院・社会的入院の高齢者が占めていたのです。
2008.07.07
コメント(0)
医療機関への入院は、生活する場所ではなく病気やケガを早く治して社会に戻ることがその基本的な役割ですから、医療機関に対しては長期入院を減らし、平均在院日数を短くする等の努力が病院に求められてきました。しかし、これまでの制度では、転院(病院を変わる)すればその制限から免れることができたため、入院期間が3ヶ月を超えると転院を余儀なくされ、老人病院を転々とさせられる『たらいまわし』と呼ばれる状況が発生していました。自由が少なく規制や制限の多い療養環境の場で生活しなければならないことは、高齢者にとっても非常に窮屈で耐えがたいことですが、それに加え、その環境にさえ適応させることを許さず、転院を繰り返させるという、高齢者や家族にとっては最悪のシステムでした。この社会的入院の解消が叫ばれ始めたのは、残念ながら要介護高齢者の生活改善のためではありません。医療保険財政の問題です。この要介護高齢者の住宅問題を作為的に医療に振り替えてきた結果、国民健康保険や政府管掌保険などの公的な医療保険の財政は破綻の直前まで悪化しており、健康保険組合を解散させる企業が増えるなど、医療保険の制度そのものの存続が危ぶまれる事態となってきました。老人ホームへの入所と医療機関に入院をするのとを比較すると、病院での入院は医師や看護師等の人件費、治療費等の必要な費用がかさみますから、その必要経費は特別養護老人ホームと比較すると2倍程度になるのではないかと言われています。日本経済が発展し、医療保険財政が潤っている時は良かったのですが、景気が低迷し医療保険財政が赤字に転じると、この社会的入院がその元凶だとされて長期入院は大幅に制限されるようになってきたのです。
2008.07.06
コメント(0)
要介護高齢者数の急増と同時に、高齢者住宅問題に大きく関わってくるのが、社会的入院の廃止です。これまで、行き場のない高齢者の受け皿となっていた老人病院は、診療報酬改定で、大きく減少します。『たらしまわし』がなくなることは良いことですが、その受け皿の整備は進んでいません。 日本社会の高齢化による高齢者の自然増加とともに、要介護高齢者の量的増加の問題でもう一つ避けて通れない課題があります。それは社会的入院の解消による病院倒産・廃止により現在病院に長期入院している高齢者の行き場所がなくなるという問題です。社会的入院は、病気やケガが治っても、介護者がいないことや、また帰る家そのものがない等の『社会的な事情』で入院している状態のことで、そのほとんどは高齢者です。これは特養ホーム等の要介護高齢者を対象にした住宅供給が整備されていなかったことから、病気やケガで入院して治療が終わっても、在宅での生活が困難な高齢者の多くは、医療保険を使って病院に入院していたということが最も大きな原因であり、また家族も福祉施設入所に対するスティグマ(恥の意識)から、老人ホームに入所させると体面が悪いので、病院に入院させていたという背景があります。
2008.07.05
コメント(0)
今日は 六月の大祓 夏越しの大祓の日 橿原神宮関係の方のブログ・ピュアハート(http://ledagaia.exblog.jp/)で 大祓祝詞の祝詞の現代語訳を拝見することができたのでそれをそのまま引用させていただく。高天原に集まった神様たち。皇祖が、「うちの孫が豊芦原の瑞穂国を治めるべきだ」と言い出し、孫を地上に降ろしました。その際荒ぶる地上の神様たちは、あるものは説得され、またあるものは追っ払われてしまいました。そしてそれまで喋っていた木や草も、喋らなくなってしまったのです。こうして地上に降りた天孫は、御殿を建て日本を治めることになりました。さて天孫が治めるようになった日本国(四方の国中と大倭日高見国)に、人々が現れ出しました。その人々が犯す罪事は、「天つ罪(スサノオが天界で大暴れしたときのような罪)」「国つ罪」のような罪ごとがありました。このような罪事が出たときは、天津金木(あまつかなぎ)を切って台に置き、天津菅麻(あまつすがそ)を細かく裂いて、この祝詞(大祓祝詞)を唱えなさい。そうすれば聞き届けてくれます。これを唱えると、天つ神は天の磐門(いわと)を押し開いて、天に重なる雲を取っ払って聞いてくれます。国つ神は、山の上に登り藪を掻き分けて聞いてくれます。風が雲を吹き放つように、霧を風が払うように、船の縄を解いて海に押し放つように、木を鎌で打ち払うように罪を祓ってくれます。残る罪もないようにとお願いすると、川瀬にいるセオリツヒメと言う神が、海に運んでくれます。海に行くと、ハヤアキツヒメと言う神が飲み込んでくれます。このように飲み込むと、イブキドヌシと言う神が根の国に吹き放ってくれます。吹き放たれた根の国では、ハヤサスラヒメと言う神がその罪をなくしてくれます。このようにすれば罪事はすべてなくなると、祓い清めていただきたく、天神地祇全ての神にお願い申し上げます。
2008.06.30
コメント(0)
昨日 土曜日 「政府公報|厚生労働省(政府公報オンライン)」の名で 新聞にこんな広告が出た。 長寿医療制度について、 改めてご説明させて下さい。 「舛添大臣、なぜ長寿医療制度が必要なのですか?」 大臣>世界一の長寿国、日本の医療費は今後ますます増大していきます。 これまでの制度が限界になる中で、 将来にわたり世界に誇る国民皆保険制度を守り、 高齢者が安心して医療を受け続けられるようにするために 長年にわたる議論を積み重ね、導入されました。 「なぜ75歳で区切る制度なのですか?」 大臣>75歳以上の方々は、病院にかかる機会が多く、医療費も多くなりがちです。 これまでの制度も75歳以上の方が対象でしたが、 現役世代より軽い負担で、 きめこまかな医療を受け続けられるようにするためには、 より公平で安定的な制度が必要です。 そこで、75歳以上の方々の医療については、 税金で5割をカバーし、現役世代と高齢者の分担ルールを明確にし、 しっかりと支える仕組みとしたのです。 「受けられる医療や保険料の負担が不安です。」 大臣>受けることができる医療は、これまでと変わりません。 むしろ、在宅医療、高齢者担当医など、より良いサービスが受けられます。 これまでは保険料をご負担いただく高齢者とご負担いただかない方とがおり 地域によって保険料に5倍もの格差がありました。 長寿医療制度の保険料は、すべての高齢者に公平にご負担いただいており、 地域格差も2倍程度になります。 高齢者の負担を減らす改善策も実施していきます。 国民皆保険をすべての国民で支えていけるよう、ご理解をお願いします。慇懃無礼 背筋が寒くなるような広告だった。冒頭の「…ご説明させて下さい…」という言い回しも変だ。日本人として 日本語・敬語の言い回しも、日本人なら従来自然に身に付けていた惻隠の情 敬老精神 そうしたものを 最近の政治家は いい年をして 何一つ持ち合わせていないのだろうか。経団連のための政治か 真に国民のための政治か まずその点をはっきりさせろと言いたい。
2008.06.29
コメント(0)
この日記は先日の蓬莱峡の写真に並べて 荒砥沢ダム北側の崩壊現場の詳細を検討する意味で書いている。写真の掲載が主目的だが 蛇足かと案じつつ ついでに関連ニュースの引用もしておく。 岩手・宮城内陸地震で湛水(たんすい)部北側で大規模な土砂崩れが起きた荒砥沢(あらとざわ)ダム(栗原市)に流れ込んだ土砂の量は、約240年かけて自然に堆積(たいせき)する土砂の量に匹敵することが分かった。利水や治水に影響する「堆砂(たいさ)容量」を超えているが、復旧方針を決めるには時間がかかりそうだ。【小林祥晃】 ダムには上流や周囲から一定量の土砂が流れ込む。地質などによって流入量は異なるが、同ダムの場合は1年間に約6200立方メートルと算出している。一方、堆砂容量はダムが完成して100年間に流入が見込まれる土砂量。流入量がこの範囲を超えると、その分、有効貯水量が減り、かんがいや治水に影響する恐れがある。 同ダムの場合、総貯水量は約1413万立方メートルで、このうち62万立方メートルが堆砂容量。学会の現地調査では、同ダム北側で崩落した土砂総量は東京ドーム約60杯分の約7000万立方メートルと推定された。県によると、水位の上昇から算出すると、これらの崩落土砂のうち、ダムに流入したのは約150万立方メートルとみられる。自然流入した場合の約240年分、堆砂容量の2・4倍にあたる。 都道府県などに技術支援している「ダム技術センター」(東京都)によると、災害などで堆砂容量を超えた場合、復旧方法として、しゅんせつ船で湖底の土砂を掘削したり、トンネルを掘って土砂を流し出す方法などがあるという。 県栗原地方ダム総合事務所は「しゅんせつしても新たに流入するおそれもあり、地震後の地形などを正確に測量しないと、どんな対策が有効か判断できない。すべて今後の検討課題だ」としている。
2008.06.25
コメント(0)
昨日から悪戦苦闘している。写真の載せ方がわからない。分かっているつもりで設定してもそれが旨く行かない。どうすればいいのだろう。何度も何度も同じことの繰り返し…。困った、困った。内容的には他愛もない。先日、栗原の荒砥沢ダム北側の崩落現場と西宮の蓬莱峡のたたずまいとがよく似ていると書いたが 一方は一瞬の地震で出現したもの、もう一方は何万年もの風雪による寝食で出現したといわれているもの。研究の対象としてまず目でその共通点 相違点を確かめてほしいとおもうのだ。まずは蓬莱峡の写真から…。どうやら写真は2枚同時には掲載できないらしい。
2008.06.24
コメント(0)
山がまるまるなくなって陥没してしまったといわれている宮城県栗原市の荒砥沢ダムの北側の絶望的な光景 そのそらからの写真をテレビや新聞で 何度も見たが その光景 以前にどこかで見たという悪夢のような記憶 なんだろうと思ったら それは なんのことはない 私が少年期を過ごした阪神間 六甲山の裏? 蓬莱峡の光景であった。蓬莱峡は、六甲山の裏側(北側)を有馬高槻構造線に沿って西から東へまっすぐ流れる大多田川の上流部、支流の座頭谷川との合流地点より上流(西側)にある。風化した花崗岩が鋸歯状の鋭い岩峰の稜線を見せる峡谷である。断層破砕帯にあたり、地質学では「バッドランド(悪地)」と呼ばれる地形であるが、これほど険しい地形は世界でも特異とされる。殺伐とした白い無数の剣山があまりにも非現実的な風景であることから、映画やテレビドラマのロケ地としてしばしば採用された場所であったが、現在は六甲山地への代表的な登山ルートの一つとして広く知られる存在である。知るべ岩 - 豊臣秀吉による石標。大多田川の古道の証 座頭谷 小屏風岩・大屏風岩などの見所がある。江戸時代の儒学者貝原益軒か著した「有馬山温泉記」(1711年)では「剣岩」・「大剣」・「小剣」と記されている。また黒澤明監督「隠し砦の三悪人」(1958年)の主な撮影地にもなった。今は景勝地であり、あれてはいるが、ハイキング・コースにもなっている。この地を 阪神淡路大震災よりも はるか以前に 今の岩手・宮城内陸激震のような断層破砕が生じたのであろうか。とすれば それは何時?
2008.06.22
コメント(0)
第169通常国会は20日、衆参両院本会議で会期末処理を行い、21日の会期末を前に事実上閉幕した。 福田首相は7月7日から始まる北海道洞爺湖サミット(主要国首脳会議)の準備に全力を挙げる考えだ。 衆参本会議には参院での福田首相問責決議可決後、審議拒否していた民主、社民、国民新各党も出席した。 20日午前の参院本会議では、未成立の法案25本について継続審議の手続きを行わず、すべて廃案とした。 21日に憲法の衆院優越規定で自然承認となる日本と東南アジア諸国連合(ASEAN)の経済連携協定など条約2本が、形式上は参院で審議中のため、江田参院議長が会期末恒例の閉会あいさつを行わない異例の締めくくりとなった。 一方、20日午後の衆院本会議では、政府提出の政府管掌健康保険国庫補助特例法案や民主、共産、社民、国民新の野党4党が議員立法で提出した後期高齢者医療制度(長寿医療制度)廃止法案などを継続審議とした。 今国会は1月18日に召集された。政府・与党は新テロ対策特別措置法改正案などを審議するため、次期臨時国会を8月下旬にも召集する方針だ。(2008年6月20日13時27分 読売新聞)
2008.06.21
コメント(0)
今回の地震でテレビでは「栗原」がにわかにクローズアップされている。M7.2 その惨禍 被害状況は目を覆うばかりだ。ところが 私は 「栗原」の名前から あることを思い出した。有名人の栗原一登氏 その愛娘の栗原小巻さんの故郷がひょっとして この宮城県栗原市ではないかと思ったのだ。しかし調べてみると 違っていた。栗原一登略歴明治44年(1911)、福岡県八女郡矢部村に生まれる。故人。ご存命なら97歳。小倉師範学校に学び、教壇に立っていたが、文学の志捨てがたく、上京。創作活動のかたわら、日本大学芸術科を卒業、演出家、劇作家として活躍。社団法人日本児童演劇協会会長、アシテジ(国際児童青少年演劇協会)日本センター会長として、児童文学、児童演劇に力を注ぐ。編著書多数。特に編著書に光村図書の「光村国語」小中二五〇巻は、全国の小中学校の国語教科書として広く採用されている。また、作詩も多く、最近では、合唱組曲「横須賀」「北九州」「唐津」の三部作や「筑後川風土記」を作詩し、団伊久磨の作曲で世に出し、好評を博している。国際女優として円熟した演技で国内外で活躍している栗原小巻は、栗原一登の愛娘である。平成三年名誉村民第一号に推戴される。東京都杉並区在住。栗原小巻さんは1945年3月14日生まれ 吉永小百合とは誕生日が1日違い。サユリストに対してコマキストと呼ばれた。絶世の美女 原節子の生まれ変わりかと思われた。二人は まあ言ってみれば 私が若い頃のアイドルであった。ああ 時移り 星流れ うたた荒涼…。
2008.06.15
コメント(0)
後期高齢者の医療制度 どうなるのだろうと思って あれこれ検索していたら こんな記事にぶつかった。直接関係ないけれど 興味津々 引用させていただく。【政治家の隠れ家はここだ】「小泉元首相が女優と結婚」情報の発信源となった店2008.6.14 16:48 このニュースのトピックス:ウイークエンド「MSN産経ニュース」 赤坂の繁華街から横道にちょっと入った場所にある日本料理店。政治家や財界人をはじめとして、有名人の常連が多い。特に、政界では小泉純一郎元首相が通う店として知られている。料理のしめに出される鯛茶漬けの評判がいい。 5月27日夜、この店で会食したのは、民主党の鳩山由紀夫幹事長と高知県の橋本大二郎前知事。この2人は学習院初等科の同級生である。 橋本龍太郎元首相の弟である橋本大二郎氏はNHKキャスターとして活躍した後、平成3年から19年まで高知県知事を務めた。その後、次期衆院選で高知1区から出馬する意向を表明した。「既存の政党ではなく、有権者に新しい選択肢を示したい」として、無所属での出馬を目指しており、新党結成の可能性も取りざたされている。 会談では、5年の新党さきがけ結党や8年の旧民主党結党に参画した鳩山氏が、橋本氏の新党構想の相談にのった。鳩山氏は新党結成にかかる多額の費用などの苦労話を披露し、「新党は二度とやりたくない。お金がかかる」などと話し、橋本氏も新党結成は、そう簡単なことではないと認識したようだ。また、鳩山氏は、橋本氏が民主党推薦候補として出馬する気はないかと口説いたとも言われる。 ただ、民主党の高知1区にはすでに出馬予定の人物がおり、地元の民主党関係者の中には橋本氏に対する反発もある。このため、候補者調整は一筋縄ではいきそうにない。 ところで、常連の小泉氏は首相在任中の13年から18年までの約5年間で24回も「津やま」を訪問。家族や秘書官らとの食事のほか、当時の福田康夫官房長官、竹中平蔵金融・経済財政担当相ら閣僚のほか、山崎拓自民党幹事長、古賀誠元幹事長、与謝野馨政調会長、冬柴鉄三公明党幹事長ら与党幹部との会合にも、この店を使っている。 18年4月26日にも小泉氏は津やまを訪れた。首相就任5年目にあたる記念すべきこの夕食会で、小泉氏と同席したのは誰か? 一人はジェラルド・カーティス米コロンビア大学教授だが、もう一人は、女優の奥菜恵さんだ。 奥菜さんはドラマで、小泉氏の長男である俳優の孝太郎さんと共演した仲ということもあって、就任5周年記念に小泉氏に花束をプレゼントした。小泉氏はご機嫌な様子で、会食後に記者団に対して、「きょうはサプライズだな。奥菜さんとデート」とにやにや。だが、そう言った後に、「婚約発表じゃないからね」と付け加えて、記者団をずっこけさせた。 どうでもいいことだが、それから数カ月後、某紙が小泉氏と奥菜恵さんの結婚情報(!?)を報じた。(政治部 五嶋清)
2008.06.14
コメント(0)
やれやれ やっと方法が見つかった。ほかのサイトからのトラックバック 迷惑メールもどきに攻撃を繰り返されるので 不愉快な思いをしていたが 迷惑は こちらが身構えて防御しなければ…と思って 管理サイトで トラックバックは どちらさまからも受け付けません、すべて拒否 コメントは 楽天ブログのお方からのみ 受け付けます という設定にした。交流の輪を広げることはできないが やむを得ない。痛し痒し 虎穴に入らずんば虎児を得ずとも言うが 君子は危うきに近寄らず だれに共鳴してもらえなくてもいいのだ。辻説法と同じで こちらは老齢 どうせ認知症で 呂律はまともに回らないのだから お布施を期待すべきではなかろう。通りすがり ふと耳を傾けて下さる方があれば 有難い 傾聴感謝。
2008.06.10
コメント(1)
NHKニュースによると8日昼すぎ、買い物客でにぎわう東京・秋葉原で、男が通行人をトラックではねたあと、次々にサバイバルナイフで刺して男女7人が死亡、10人がけがをしました。静岡県の25歳の男が、現場近くで殺人未遂の疑いで逮捕され「世の中が嫌になり、人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と供述しているということで、警視庁は通り魔事件として動機などを詳しく調べています。8日午後0時半ごろ、東京・千代田区外神田のJR秋葉原駅近くの路上で、トラックが数人の通行人をはねました。さらに、運転していた男がトラックから降りて、大声を上げながら、歩行者天国などで次々に買い物客をサバイバルナイフで刺し、男女7人が死亡したほか、救護にあたっていた警察官ら10人が重軽傷を負いました。警視庁によりますと、今回の事件で亡くなったのは、▽東京・北区の武藤舞さん(21)、▽神奈川県厚木市の松井満さん(33)、▽東京・杉並区の中村勝彦さん(74)、▽東京・板橋区の小岩和弘さん(47)、▽埼玉県蕨市の宮本直樹さん(31)、▽埼玉県熊谷市の藤野和倫さん(19)、▽千葉県流山市の川口隆裕さん(19)の7人です。切りつけた男は現場近くで取り押さえられ、殺人未遂の疑いで逮捕され、警視庁は持っていたサバイバルナイフなど2本の刃物を押収しました。逮捕されたのは静岡県裾野市の加藤智大容疑者(25)で、調べに対し容疑を認め、「世の中が嫌になり、人を殺すために秋葉原に来た。誰でもよかった」と供述しているということです。現場は家電製品の量販店が立ち並ぶ秋葉原の電気街で、当時、大勢の買い物客でにぎわっていました。これまでの調べによりますと、トラックは静岡ナンバーのレンタカーで、警視庁は無差別に買い物客などを襲った通り魔事件として加藤容疑者を取り調べて、犯行の状況や動機を詳しく調べています。ということだが この中の 東京・杉並区の中村勝彦さん(74) ひょっとしてこれは私自身であったのかも知れないとおもった。
2008.06.08
コメント(0)
メールが来るので二、三日、何も書かずに過ごしたと反省する気持ちになる。しかし 急かされることはことはないのだ。何事もマイペース のんびりやろう。慌てたって なんの得にもなりはしない。つまらなくて 有害無益なトラックバック これに無用の書き込みがなくなるのがすばらしくいい。ちょっと書いて つまらない書き込みがあれば その百倍もの日数 何も書かずにいてやろうかと思う。とりわけ 他のサイトからのトラックバック ウイルスバスターが利いて そのアドレスへのアクセスはシャットアウト アクセスしても どうせ 有害 エロかギャンブル 老人のためには無用の長物 腹立たしい外敵 まして前途ある青少年のためには 憂慮すべき事態だ。殲滅するすべはないのか 蛆虫ども。
2008.06.08
コメント(0)
まだやはり なぜか居心地が悪い。昨日 早速 トラックバックへの書き込み三件。しかし、その内容は低劣な嫌がらせ。腹も立つし むかむかもする。
2008.06.05
コメント(0)
全51件 (51件中 1-50件目)