マケドニア、ユーゴスラビア、ハンガリー編




-通っただけのマケドニア、ユーゴスラビア-

 ギリシャのアテネから北上して、マケドニアを経由し、ユーゴスラビアの首都ベオグラードに着き、そこで乗りかえてハンガリーのブダペストに入った。約30時間の汽車の旅。  
 マケドニアというとギリシャ時代のアレクサンダー大王で有名なので、ギリシャと文化的に近いのかと思っていたが、近年は社会主義時代の旧ユーゴスラビアの一部だったそうで、言葉も、マケドニア語は、ユーゴのセルビア語に近く、ギリシャ語とはまったく違うそうだ。
このことは、マケドニア通過中に同じコンパートメントに乗り込んできたマケドニア人の父、母、息子の家族連れに聞いた話。お姉さんがユーゴの人と結婚していて、家族連れで向こうに遊びに行く所らしい。昔は必要なかったパスポート持参で。いかにも「庶民」という言葉がぴったりの素朴で親切な人たちだった。国境通過時の入出国審査の時に、(実際は何の問題もないのだけど)、高校生の息子が、「何か問題があったら、すぐ俺に言うんだよ」と気づかってくれた。
 英語をやっと話せるのは高校生の息子だけで、父と母は彼の通訳を通して、笑ったり静かに頷いたりしていた。息子はユーゴと英語のポップスを再生専用のポータブルラジカセのヘッドホーンで聴きながら、「母さんはこれ、うるさいって言って、嫌いなんだよね」と言って、母と顔を見合わせながら笑っていた。
 お父さんは、大変優しそうな目をしているが、ちょっと疲れた感じの人で、サッカーの大ファン。僕が、「今度のW杯では、アルゼンチンとフランスが優勝候補だと思う」、というと、「いや、わたしはブラジルだと思うよ」、と言っていろいろかれの持論を話していた。
 今、マケドニアは、経済的に大変らしく、「社会主義時代と比べて生活はどっちがいいと思う」と聞くと、ためらわず「昔の方がよかった」と言っていた。「アメリカが社会主義を壊しちゃったからねえ。戦争(アルバニアとの内戦)もあったしねえ・・・」、と溜息まじりに話した。
 因みに、隣のハンガリーでは、総選挙で、旧共産党系の社会主義寄りの党が勝利をする見込みらしい。
 自由主義(「自由」優先)と社会主義(「平等」優先)は相互バランス関係にあるべきで、政権がこの二つの間を緩やかに行ったり来たりするのは大変健全なことだと思う。

 「マケドニアの食べ物、食べるかい?」と息子が言い、彼らの夜食を僕に分けてくれた。大きな硬いパンをナイフで切り分け、それに太くて固いソーセージをはさんで、チューブ入りのケチャップをかけて食べる。空腹ではなかったし、ギトギトの油の詰まった硬い冷たいソーセージは決して旨くなかったが、彼らの親切心を「ありがとう」と言って受けて、少し無理して食べた。長旅で疲れてはいたけど、うれしかった。
 あの夜行列車の、薄暗いコンパートメントの中で、たまたま一緒になった名も無い人たちと、当たり障りのないことを静かに語らい、決して旨くない硬く冷たいソーセージを貰って食べたあの時のことが、今でも妙に心に残っている。
名前さえ知らず、二度と会うことのない人々と過ごしたあのひと時。
それは、ひた走る汽車の外に広がる夜闇に包まれていて、今でも僕の心の中に静かに蘇る。

―ベオグラード駅―

 ユーゴスラビアの首都、ベオグラードに7時30分に着き、8時のブダペスト行きに乗りかえるまでの間だけ、駅とその周辺を歩いてみたが、人気が少なくプラットホームに汽車の行先表示もない、まるで貨物列車のホームのような殺風景な駅だった。一応、国際駅なのに両替所も閉まっている。相次ぐ内戦とコソボ関連の国連軍の攻撃と経済制裁で、国が荒れているのだろうか。
 路上両替屋が近づいて来たので、飲み物を買って、有料トイレを使うだけの分で「1ユーロ(120円)だけで」、と言うと少なすぎて断られた。でもブダペスト行きの汽車はどれかを聞くと、「NO、1だ」と教えてくれた。

―ハンガリーの印象―

 ベオグラードを出て2時間程で、ハンガリー領に入ったが、そこからブダペストに着くまでの約5時間の間ずっと窓の外に広がっていたのは、見渡すかぎりの平原だった。遠くに木立が並んでいたり、ごく低い丘があったりはしたが。その大平原にぽつぽつとあるのは茶色の瓦屋根と黄土色の平屋ばかりで、家のまわりには小さな庭があり、数本程度の木が植えられている。
 この景色が、延々と続き、「ビル」と言えるような建物がやっと現れたのは、ブダペストに着く、20分位前からだった。車もほとんど見かけなかったので、この家々はみんな農家なのだと思う。何を作っているのか、土地が肥えているのか痩せているのかも僕にはわからなかったが、「兎も角、こんな広い平らな土地があって、人がまばら(人口密度は日本の3分の1)な国なら、まじめに働ければちゃんと食っていけるだろうなあ」と言う、かなりいい加減な経済学を考えていた。
 このときに見た、大地と小さな家々の「茶色」のイメージが、強烈にずっと頭に残り、後でハンガリーのことを思ったときの基音となった。
 ブダペストは、華やかではないけれども、洗練された美しい街だ。聞いていたように、ウィーンに街の作りや建物は似ているがやはり全然違う。
 人々も親切で洗練されているが、ウィーンの人よりも性格に飾り気がない。顔つきも心なしかアジアの血が混じっている感じがする。マジャール人は元々は騎馬民族でアジアの方から移り住んだ人たちらしい。言葉についても、マジャール語は、日本語、朝鮮語、モンゴル語、フィンランド語と同様の文法構造を持ち、共通性を持っているそうだ。
 僕が知っているハンガリー人は、数学者で大道芸人、10カ国近くを自在に操る、日本のテレビでもなじみのあるピーター・フランクル。それから、コンピュータ化された最先端の金融工学理論を駆使して、国際金融市場で、マネーゲームを演じ、巨万の富を得、いっぽうではアジア金融危機を起こし、一国の金融経済を破壊するような猛威を振るった、いわゆるヘッジファンドの代表格、モメンタムファンドのジョージ・ソロス(末尾の注参照)。「マジャール人はすごく頭がいいんだぞ」と聞いたことがあるが、この二人はそれに当てはまる。
 ソ連時代も今も、「東欧の経済優等生」と言われていた国だが、確かに人々は勤勉そうに見えた。僕が泊まったユースホステルのレセプションをやっていたのは、20歳くらいの美人、というより可愛い感じの女の子だったが、正確な英語を早口で話す。大変親切でとても気が利くのだが、テキパキと仕事がとても早く、必要以上に笑わない。僕が、「ある旅行者がきみのことを、親切で有能で、しかもチャーミングだと言っていたよ」(僕の作り話)というと、さすがにニッコリと微笑んでいたけれど。
駅の旅行案内所の人も、親切だがテキパキとした人たちだった。ひとりは薬学部を終えた男、もう一人はコンピュ―タエンジニアの男だったが、卒業しても仕事がないのか、この仕事をやっていて「いろんな人に合えるからこの仕事が好き。ハンガリーで日本人は好かれているよ」と言っていた。
 ブダペストでは、プラハ、ウィーンと同様、一流のクラシック音楽が安く(良い席でも千円以下)聴けるので、2回コンサートに行ったが、やはり地元ハンガリー出身の作曲家、バルトークの曲(2曲)が一番良かった。というよりすごく感動し、この地を旅行して、肌で感じてみて彼の人と音楽をずっと良く理解したように思った。
 バルトークはハンガリー出身で後半生をアメリカで送った人で、20世紀音楽の始まりとなった、いわゆる「前衛」の音楽家だが、一方でハンガリーの田舎を自分で歩いて、各地の民謡を収集して、「ハンガリアンスケッチ」という作品を発表しているそうだ。
 それよりも、彼の最も前衛的(調性のない)な代表作を聴いても、ハンガリー民謡を連想させる音形やリズムが聴こえる、ということがもっと興味深い。亡命先ニューヨークでの晩年、その誠実、頑固で変わり者であった性格のため、彼の理解者からの経済的援助も頑なに拒んで、貧窮と孤独の内で病に倒れるまで、彼が最先端の音楽を創造する時に、つねに出発点となったのは、ハンガリーの「大地」だった。ウィーンの音楽家達の多くが、「大地」を離れて、精神の内奥に入っていったのに対して、彼は「大地」にこだわり続けた。ウルトラ・モダンな頭脳を持ちながら、「土着」を捨てなかった。

 前衛と土着のバルトークの音楽。車窓から見たあの茶色の大地のイメージ。ブダペストで会った、洗練されているが真面目な人たち。それから、ハンガリーの名物料理で、「グラーシュ」と言うパプリカで煮込んだボルシチのような茶色いスープ。
 ・・・これらが渾然一体となって、僕のハンガリー=マジャールの印象が出来上がった。



注:ジョージ・ソロスは、マジャール人ではなく、ハンガリー出身のユダヤ人であることが後でわかった。

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