パリ編



パリでコメディー・フランセーズの『ドン・ジョアン』(モリエール作)を観た。コメディー・フランセーズとはフランス古典劇を中心に上演するルイ王朝時代から続く国立の劇団。モリエールはいわば、「フランスのシェイクスピア」で『ドン・ジョアン』はその代表作。
僕は20年以上昔に日本語で戯曲を読んで話をぼんやり知っている程度だったが、フランス語がわからないことなど、ほとんど気にならなかった(もちろん解れば5倍楽しめただろうけど)。それどころか、「喜劇」としてぼんやり認識していたこの作品の真価を思い知らされた。
あらすじはごく簡単なもの。好色な貴族ドン・ジョアンが召し使いスガナレルをひきつれて次から次ぎに女をものにして行く。捨てられた女の一人が自分を犠牲にして悔い改めるよう薦めるがが、自分の生き方を貫くとして拒絶。結局、罰があたって、彼が殺した彼女の父親の亡霊にのしわざで、雷に打たれて死んでしまう、というもの。
この濃密なドラマは「生命=愛欲、過剰な愛欲=破滅?」という図式を語る。それにしてもドン・ジョアンは官能と生命力に満ちていてなんと魅力的に描かれているのだろう。女達は、時に彼を憎みながらもその魅力に抗えなかった。
舞台装置は簡単な小道具以外はほとんどなく、板張りの床と壁、それに、幕があり、それに巧みに演出された無色の照明が陰影をつけているだけもの。あとは鍛えぬかれた役者たちの声・肉体がすべてを表現する。
 声がすばらしい。泣いたり笑ったり、うめいたり、囁いたり、叫んだり、どれだけ感情が込められているときにも、韻を踏んだ台詞は少しも損なわれてなく、まるで詩を朗読するように語られていて、劇場の隅々まで完全に届いている。というより直接脳味噌まで響いてくる。
古典劇といっても動きは自然なもの、道化役などはある形をつかっていたが(それがまた心憎いくらいに巧くて面白い)。
やはり、その土地で「本場物」を観たり聴いたりするのは旅行の大きな楽しみだ。
ハンガリーではバルトークを聴いたのは前に書いた通り。ウィーンでは実はオペレッタも含め5回もコンサートに行った。ウィーンフィルを本拠地のムジーク・フェライン(楽友会ホール)で聴いた(たった約3500円)。それも15年ぶりのベートーベン交響曲全曲録音のための弾き込みを兼ねた演奏会なので凄い演奏で、日本で高い金を払って1度聴いたときの演奏より確かに数段よかった。やはり本拠地での演奏は高い集中力とそのホールの響きを熟知しているという点で最高なのだと思う。ベートーベンの音楽というより、「ウィーンフィルの音」の凄さをまざまざと味わった。それから、ウィーン出身の現在世界最高の弦楽四重奏団、アルバン・ベルクカルテットの演奏も聴いたし(たった約1200円)、又、これぞ古き良きウィーンの作曲家ヨハン・シュトラウスの「こうもり」を、フォルクス・オーパーで地元出身の歌手・(俳優)のウィーンなまりのドイツ語で楽しんだし・・・・
これ以上書くと、自慢話で嫌みになるので止めるけど・・・・でもロンドンでは絶対シェイクスピアの芝居を見るぞ。

パリでは、昼間は朝9時から夕方6時まで美術館に篭りっきり。夜は街を歩き回ったり、芝居に行ったり、同室の人と飲んだりとへとへとになるまで遊んでいた。
ちょっと疲れたので、昨日はパリから汽車で40分位のところにあるフォンテンブローの森を自転車で散歩してリラックスした。(といっても5時間位地図を見ながら自転車を漕ぎっぱなしだったけど)。

 さっきまで、ルーブル(3回目)からの戻り、セーヌのほとりを歩きながら、10年前に来たときのことを思い出していた。
パリは変わったかな・・・少し。新しくなった。
僕は変わったかな・・・年はとったけどほとんど変わってないな。

最後に、ありきたりだけどアポリネールの詩を(うろ覚えだけど)・・・

 ミラーボー橋の下をセーヌが流れ
 僕らの恋が流れる。

 私は思い出す、
 喜びはいつも痛みのあとに来た。

 夜になり、鐘がなり、
 月日は流れて、私は残る。

 手と手を取り、顔と顔を向け合おう。
 こうしていると、僕らの腕の橋の下を
 疲れた顔した無窮の時が流れる。

 夜になり、鐘がなり、
 月日は流れて、私は残る。

 流れる水のように、恋も死んでゆく。
 恋もまた死んでゆく。
 命の歩みは遅く、希望ばかりが激しく大きい。

 夜になり、鐘がなり、
 月日は流れて、私は残る。

 日は去り、月は流れ、過ぎた日は二度と帰らない。

 ミラーボー橋の下をセーヌが流れ・・・・

 夜になり、鐘がなり、
 月日は流れて、私は残る。


今夜、夜行でアムステルダムに向かう。
では。


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