ベガルタ仙台 0
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2011年4月7日。この夜に震度6強の余震が起きました。この時、私はすでに寝ており、この地震が起きた時にとっさにそばにある大きな本棚を抑えていました。そして1階に行き、仏壇の片づけなどをしました。その後また寝ることになるのですが、しばらくの間は小さな余震が立て続けに起きてあまり眠るという気分にはなりませんでしたが、なんとか眠ることはできました。大きな余震が起きた直後に停電が発生しましたが、あくる日の午後2時ごろに復旧しました。水道は余震が発生したあとでも問題なく出ていましたが、午後4時ごろに断水しました。おそらく点検のためでしょう。朝起きた時に私の部屋の惨状を携帯電話で撮影したので紹介します。私が寝ているそばにある本棚です。よく見ると、右側の本棚が右にずれています。本棚の一番上に置いた物が落ちました。ただし、手前にあるバッグと本は、余震が発生する前からあらかじめおかれていたものです。百科事典が収納されている本棚です。これは先日の本震の時にも同じように倒れていました。また、その左側には賞状が落ちています。テレビのある部分です。テレビ自体は特に問題はなく、その隣にある本棚から本が飛び出してしまいました。ベランダです。ここにある網戸は本震の時には外れてなかったのですが、今回の余震でものの見事に外れてしまいました。私がいつもかけているメガネです。本震の時を教訓として、その隣にあるストーブに置くようにしたのですが、大きな揺れでこのようなダメージを受けました。耳に掛ける部分が根元の部分から曲がり、鼻かけの部分も曲がってしまいました。ちなみに、このメガネは、その日のうちに眼鏡屋に行って修理しましたが、その眼鏡屋も震災のダメージを受けて片づけをしている最中でした。
2011.04.08
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またもや地震が来ました。震度6強です。家は大丈夫でしたが、今度はメガネが歪みました。またもや細かい余震が立て続けに起きて寝れません。明日仕事ができるのかはわかりません。本震の時は、働き始めて1週間もたたないうちに自宅待機の憂き目に遭いました。そして今回もわずか2日働いた後にこの地震が起きてしまいました。どれだけ試練を喰らわなければならないのか。とにかく、仕事させてください。また停電しましたので、しばらく更新ができなくなります。電気がとおったらまた更新します。P.S.このような大きな地震が起きたにもかかわらず、来週以降も通常に業務ができるようになりました。ひと安心です。
2011.04.08
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高城川です。津波の影響か、水が若干河口から逆流してきます。一見すると何事もないように見えますが・・・反対側から見たところです。よく見ると、仙石線の鉄橋と道路用の橋との間から、何かが川に漂流しているのを見ることができます。我が家のお墓です。上の黒い部分がその下の部分と一緒にずれています。我が家のお墓の隣のお墓です。上の長い部分がずれており、花を飾る部分もずれています。他のところにあるお墓です。このようになっているものが多数見受けられました。中には長い部分が見事に倒れているところもあります。私がかつて住んでいた近くの部分です。かなり激しい土砂崩れが起きています。ちなみに、ここは1978年に発生した宮城県沖地震でもかなり激しい土砂崩れが発生しました。土砂崩れが起きたところを近くから取ったところです。ここにはかつて親戚が住んでいて、小さなころに遊びにいった覚えがあります。宮城県沖地震の時に土砂崩れによりこの家が潰れてしまいました。仙石線の高城町(たかぎまち)駅から仙台方向に向かう地点です。架線を支える電柱は斜めになっており、線路はよく見ると地盤が盛り上がってしまい、走行できなくなっている状態です。陸前富山(りくぜんとみやま)駅近辺です。仙石線はここから松島湾に面して走行し、風光明媚な風景を楽しむことができます。防波堤は地震によってずたずたにされ、山を切り開いて線路が引かれている地点はがけ崩れが生じて線路を寸断しています。陸前富山駅を入口から見たところです。漁をするときに使う網が引っかかってしまったりと、駅らしい雰囲気はまったくありません。
2011.03.21
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犬と散歩しながら、松島の現状を携帯電話で撮ってみました。まずは自宅付近の周辺から行きましょう。自宅付近です。左右に大きな地割れがあるのですが、そこを結ぶかのように亀裂が生じています。また、私が撮影している地点と画面奥の地点にも亀裂が生じています。道路に地割れができています。撮影した後ろ側も同様に派手な地割れができています。このようにブロック塀が倒れているところがたくさんあります。家の近くにある貯水池です。よく見ると、池の周りが崩落しています。池のすぐそばにある家です。崩落により家の敷地がなくなってしまい、このままでは住めない状態になっています。家の反対側です。道路に亀裂ができてます。亀裂を近くで撮ってみました。同じ場所の亀裂です。かなり深いです。道路側の亀裂です。画面奥には地震による亀裂ができていますが、このような亀裂が何か所もあります。何の変哲もない堀なのですが、この付近から水がわき出ていてこの堀に流れ込んできています。飲むことはできないのですが、トイレ用としてこの水を汲みに来る人が多数訪れてきます。なお、この堀はだんだんグレードアップしてきて、現在では立派な足場がつけられています。家の近くにあるドブ川です。近くの家から雨樋がはりめぐられており、雨や雪が降るとそこから水が出てきます。これを利用してトイレ用の水を工面しています。
2011.03.21
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松島町に到達すると、いつも時報メロディを流すサイレンから避難勧告の放送が流れていました。この放送は終日ひっきりなしに流れていました。高城川沿岸を走行していても、津波の気配は全く感じられませんでした。ましてや、自宅近辺に近づいていても、なおさら感じることはありませんでした。自宅に到着はしたものの、津波を受けた気配は全くありません。ましてや、地震で倒壊した、というわけでもありません。外からわかることは、停電している、ということだけです。自宅の中に入ってみて、家族から話を聞くと、さすがに惨憺たる出来事が起きていました。茶の間にある茶箪笥が地震によって暴れ馬のように動き出し、父親が必死になって抑えていた。ただし、スライド式の扉があったために落下して壊れる、ということはありませんでした。台所にある食器置き場は、引き戸式になっていたため、大半の食器が落下してしまい、半分ほどは割れて使い物にならなくなりました。仏壇に関しては、位牌や花瓶が倒れてしまって畳にぶちまけられた状態になってました。パール柑という果物が備えられていましたが、なんと縁側近くまで転がってしまいました。以上に関しては家族の人間が地震発生直後に片付けました。問題は私の部屋です。入り口付近に大きな本棚が2つ置かれています。その近くにコタツが置かれており、そのコタツの上にはノートPCが置いています。ノートPCは開いた状態にしており、キーボード部分にマウスをのせていました。地震発生後、この部屋はどんなことになったか、というと・・・。言うまでもなく、このようなネタ的にお約束な状況になっていました。奥側にある本棚の下にコタツがあり、その上にノートPCがのっかっています。写真のように本棚が倒れてしまったため、本棚に載っている本が直接ノートPCのモニタ部分に降りかかってしまい、以下のような状況になりました。私のPCはGatewayです。このメーカーは購入時に牛柄模様の箱に入っていることで有名になっています。だから画面も牛柄模様になってかっこよくなっtうつんねぇYo!(TДT)幸いにも、本体部分にはダメージがなかったので、後日このPCを購入したケーズデンキが再開したら相談しに行きたいと思っています。本棚はこのように悲惨な状況になったものの、画面中央奥にあるテレビや本棚はたいしたことがありませんでした。画面左側のスミが北、右端の見えない部分にあるスミが南になります。大きな本棚は北西から南東にかけて大きく動いて倒れたため、この時の地震はその方向に揺れた、ということが言えるでしょう。ちなみに、国土地理院のホームページによると、北西から南東にかけて最大で5メートル以上地形が移動し、挙句の果てには地面がなんと1メートル以上も下がってしまったそうです。あなおそろしや。http://www.gsi.go.jp/chibankansi/chikakukansi_tohoku2.html結局、次の日の朝に私一人で泣く泣く片付けました。食事は、ろうそくを灯して、東北放送ラジオを聴きながら、石油ストーブで沸かしたお湯を使ったカップラーメンを食べました。ラジオを聴くための乾電池を買おうとして、近くのコンビニに行ったのですが、さすがに閉店していました。コンビニに行く途中、今までに見たこともない綺麗な夜空を見ることができました。見事な北斗七星を見ることができましたが、対局となるカシオペア座を見ることができませんでした。残念でした。結局、停電は13日の午後まで続きました。それまでの間、16時ごろには夕食を食べ、日没になる18時前には寝てしまいました。次の日は4時前には起きていました。しかし、夜中に頻繁に余震が起きて、ぐっすりと安心して眠れた、ということはありませんでした。
2011.03.16
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勤務を終了して、帰宅をせざるを得なくなったのですが、10メートルクラスの大津波がやってくる、というショッキングな情報を聞いていたので、松島にある自宅に直接帰宅しようとは思えませんでした。パニックになって自宅に戻ろうとしたばっかりに、自分までも津波の被害に巻き込まれてしまうのではないか、と思えたためです。これは、消防隊員が建物の中に人がいるからと言って、燃え盛る炎の中に無謀にも入ってしまうのと同じことだと思えました。まずは自分が所属している会社のある大崎市古川に立ち寄って、会社の人間に安否を報告するとともに、そこから家に連絡をかけたいと思いました。いかんせん携帯電話が一切通じず、家に連絡することができないための苦肉の策でした。いざ車に乗って移動しようとしても、渋滞が激しくてうんともすんとも動きません。しかも停電によって信号が全て動いていません。ちょっとの判断ミスが事故につながります。さらに雪も降ってきていました。最悪の状況は立て続けに起きています。それでもカーナビによって迂回路を探し当て、大崎市古川に到達しました。この近辺は震度7を記録していたらしく、建物が全壊・半壊したものが多数見受けられました。これは2003年夏に起きた大地震と全く同じものです。なんとか四苦八苦して会社に到達していたものの、会社には誰一人もおらず、シャッターが閉められてしまいました。トイレにでも行こうかと思いつつ、古川駅に向かいました。中里口と呼ばれる入口から入ったのですが、改札口エリアに行くことはできませんでした。仕方なく中里口を通り越して、海側にある道路用の陸橋を渡って、トイレのあるエリアに向かいました。そのエリアにも人は誰一人もおらず、ひっそりとしていました。駅員に「トイレに行きたい」旨を伝えてトイレに入りました。水は一切出なかったものの、何とか使うことができました。古川から自宅のある松島へ帰ることにしました。古川から松島までは約30分で到達できます。混雑が激しいものの、するすると動いていますので、何とか帰ることができるのではないか、と思いました。ところが・・・県道32号線・古川松山線という道路を走行していたのですが、そこにかかっている志田橋が地震によって通れなくなってしまいました。そこさえ通り越しさえすれば、早く家に到達することができたのです。仕方がないので、県道152号線・涌谷三本木線を経由して美郷町小牛田(こごた)・大崎市松山を経由することにしました。相変わらず信号が動いていないものの、渋滞に巻き込まれることなく帰宅することができました。しかし、道路には段差ができており、より慎重に運転しないと大変な目に合うことになります。こうして、18時30分ごろに自宅に到着することができました。
2011.03.16
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2011年3月11日。私はこの時宮城県仙台市泉区にある工業団地にて勤務をしていました。このとき、製造装置にとりつける枠を作る作業が完了し、そこに取り付ける大きなボルトのネジ部分にグリスをぬりつける作業をしていました。15時になると午後の休憩タイムに入るので、それまでは頑張って作業しよう、と黙々と作業をしていました。そして、運命の14時46分。最初はいつもの感じの揺れでした。しかし、しばらくしてもその揺れががまったく収まる気配ことはありません。次第にその揺れはだんだん大きくなっていきます。さながら飛行機が止まった状態から離陸を開始するために加速し始める状態のような感じで揺れがはじまりました。私はとっさに作業していた机の下に隠れました。さらにしばらくしても収まる気配がありません。揺れている瞬間、「この地震はただじゃすまない」と直感的に感じました。結局は4分ほどの長時間にわたり強い揺れが続きました。揺れが収まってからすぐに外へ避難しました。職場から持ち出したラジオが置かれ、職場の人間は車からテレビ機能付きのカーナビを持ち出してみています。私も携帯電話のワンセグテレビ機能で情報を見ていました。ラジオからは、「6メートルの大津波がやってくる」という情報がやってきます。職場の人たちは全員凍り付いていました。職場の人には塩釜や七ヶ浜からやってきている、という人もおり、ただ事ではありません。その間にも余震は頻繁に起きます。時には弱く、時には強く・・・。道路を挟んで向かい側にある会社では、なにやら白い煙がモクモクと立ち込めていました。火事じゃないか、と騒然していましたが、いつまでたっても白い煙ばかりが立ち込めていました。どうやらダクトが壊れて煙が漏れていただけのようです。ちなみに、その模様を携帯電話で撮影していた時、「戦場カメラマンみたいだ」と言われたのは内緒です。結局、職場の中は非常に危険な状況になっており、これ以上は仕事にならないため、退社するように指示されました。
2011.03.16
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