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昨日亡くなられた中村光毅さんのご冥福をお祈りします。 美術監督として、ガッチャマン、ガンダム、ナウシカなどのお仕事もすばらしい上に、子供の頃よく見ていた、タツノコプロのアニメのメカデザインを多く手がけられていました。自分の深層心理のメカデザインのベースではないだろうか。特に、あの「マッハGoGoGo」のマッハ号なんて、原色でありつつ、流れるようなデザイン、そのほかにも、フレンダー、メカブトン、など。あのわくわくするデザイン、好きでした。 ちょっとアメリカナイズされている子供心にわくわくするデザインでしたよね。中村光毅
2011年05月17日
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本日、お亡くなりなったそうな。77才。合掌。 つい最近もテレビや5分ほどのミニコーナーなどに出ていたのに。確かに最近ずいぶんやせていらっしゃいましたね・・・。 俳優としてのお仕事は存じ上げませんか、あの落ち着いた語り口や、ABC「アタック・チャンス」の司会は忘れられません。 最近は「ワーズ・ハウスへようこそ」の5分ミニ番組も良かったですね。児玉 清
2011年05月16日
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大阪の言葉で子供達の声や、心を伝えてくれる、すばらしい詩人さんだと思います。「世界の国からこんにちは」を作詞してた、って、知らんかったわ~。詩人・島田陽子さん死去 大阪万博の歌を作詞 産経新聞 4月21日(木)18時1分配信 大阪万博のテーマソング「世界の国からこんにちは」の作詞で知られる詩人の島田陽子(しまだ・ようこ)さんが18日午後2時53分、膵臓(すいぞう)がんのため大阪府豊中市の病院で死去した。81歳。葬儀・告別式は近親者で済ませた。後日、お別れ会が開かれる予定。喪主は夫、滋(しげる)さん。 東京に生まれ、11歳から大阪に住んだ。大阪万博のテーマソングのほか現代詩や少年少女詩、大阪弁による創作詩などで活躍した。詩集に「大阪ことばあそびうた」「帯に恨みは」など。童謡集に「ほんまにほんま」などがある。 平成5年10月から7年8月まで大阪本社発行夕刊文化面に掲載した「大阪純情詩集」の主要作者として、大阪をテーマにした詩を発表した。
2011年04月22日
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今日もすばらしい方が世を去った。 すばらしい人形作家であり、美しい造詣を作られている方でした。私にとっては子供のころの、NHK人形劇「三国志」は思い出の作品です。合掌。人形美術家の川本喜八郎氏死去 8月27日12時8分配信 時事通信 川本 喜八郎氏(かわもと・きはちろう=人形美術家、人形アニメ作家)23日、肺炎のため死去、85歳。東京都出身。葬儀は近親者で済ませた。後日、しのぶ会を開く。 東宝撮影所美術部勤務を経てフリーの人形美術家に。53年に日本初の人形アニメ「ほろにが君の魔術師」を制作。日本伝統の様式美を用いた「道成寺」などの人形アニメで内外の高い評価を獲得。NHK人形劇「三国志」「平家物語」の人形制作も手掛けた。88年に紫綬褒章受章。
2010年08月27日
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続き しかし、多くの不義理は仕方ないと諦めるにせよ、私がどうしても気に病んで仕方なかったことがある。 両親とマッドハウス丸山さんだ。 今 敏の本当の親と、アニメ監督の親。 遅くなったとはいえ、洗いざらい本当のことを告げる以外にない。 許しを乞いたいような気持ちだった。 自宅に見舞いに来てくれた丸山さんの顔を見た途端、流れ出る涙と情けない気持ちが止めどなかった。 「すいません、こんな姿になってしまいました…」 丸山さんは何も言わず、顔を振り両手を握ってくれた。 感謝の気持ちでいっぱいになった。 怒涛のように、この人と仕事が出来たことへの感謝なんて言葉ではいえないほどの歓喜が押し寄せた。大袈裟な表現に聞こえるかもしれないが、そうとしか言いようがない。 勝手かもしれないが一挙に赦された思いがした。 一番の心残りは映画「夢みる機械」のことだ。 映画そのものも勿論、参加してくれているスタッフのことも気がかりで仕方ない。だって、下手をすればこれまでに血道をあげて描いて来たカットたちが誰の目にも触れない可能性が十分以上にあるのだ。 何せ今 敏が原作、脚本、キャラクターと世界観設定、絵コンテ、音楽イメージ…ありとあらゆるイメージソースを抱え込んでいるのだ。 もちろん、作画監督、美術監督はじめ、多くのスタッフと共有していることもたくさんあるが、基本的には今 敏でなければ分からない、作れないことばかりの内容だ。 そう仕向けたのは私の責任と言われればそれまでだが、私の方から世界観を共有するために少なからぬ努力はして来たつもりだ。だが、こうとなっては不徳のいたすところだけが骨に響いて軋んだ痛みを上げる。 スタッフのみんなにはまことに申し訳ないと思う。 けれど少しは理解もしてやって欲しい。 だって、今 敏って「そういうやつ」で、だからこそ多少なりとも他とはちょっと違うヘンナモノを凝縮したアニメを作り得てきたとも言えるんだから。 かなり傲慢な物言いかもしれないが、ガンに免じて許してやってくれ。 私も漫然と死を待っていたわけでなく、今 敏亡き後も何とか作品が存続するべく、ない頭を捻って来た。しかしそれも浅知恵。 丸山さんに「夢みる機械」の懸念を伝えると、 「大丈夫。なんとでもするから心配ない」 とのこと。 泣けた。 もう号泣。 これまでの映画制作においても予算においても不義理ばかり重ねて来て、でも結局はいつだって丸山さんに何とかしてもらって来た。 今回も同じだ。私も進歩がない。 丸山さんとはたっぷり話をする時間が持てた。おかげで、今 敏の才能や技術がいまの業界においてかなり貴重なものであることを少しだけ実感させてもらった。 才能が惜しい。何とかおいていってもらいたい。 何しろザ・マッドハウス丸山さんが仰るのだから多少の自信を土産に冥途に行けるというものだ。 確かに他人に言われるまでもなく、変な発想や細かい描写の技術がこのまま失われるのは単純に勿体ないと思うが、いた仕方ない。 それらを世間に出す機会を与えてくれた丸山さんには心から感謝している。本当ににありがとうございました。 今 敏はアニメーション監督としても幸せ者でした。 両親に告げるのは本当に切なかった。 本当なら、まだ身体の自由がきくうちに札幌に住む両親にガンの報告に行くつもりだったが、病気の進行は悔しいほど韋駄天で、結局、死に一番近づいた病室から唐突極まりない電話をすることになってしまった。 「オレ、膵臓ガン末期でもうすぐ死ぬから。お父さんとお母さんの子供に生まれて来て本当に良かった。ありがとう」 突然聞かされた方は溜まったものではないだろうが、何せその時はもう死ぬという予感に包まれていたのだ。 それが自宅に帰り、肺炎の危篤を何とか越えて来た頃。 一大決心をして親に会うことにした。 両親だって会いたがっていた。 しかし会えば辛いし、会う気力もなかったのだが、どうしても一目親の顔を見たくなった。直接、この世に産んでもらった感謝を伝えたかった。 私は本当に幸せだった。 ちょっと他の人より生き急いでしまったのは、妻にも両親にも、私が好きな人たちみんなに申し訳ないけれど。 私のわがままにすぐ対応してくれて、翌日には札幌から両親が自宅についた。 寝たきりとなった私を一目見るなり母が言った言葉が忘れられない。 「ごめんねぇ!丈夫に産んでやれなくて!」 何も言えなかった。 両親とは短い間しか過ごさなかったが、それで十分だった。 顔を見れば、それですべてわかるような気がしたし、実際そうだった。 ありがとう、お父さん、お母さん。 二人の間の子供としてこの世に生を受けたことが何よりの幸せでした。 数えきれないほどの思い出と感謝で胸がいっぱいになります。 幸せそのものも大事だけれど、幸せを感じる力を育ててもらったことに感謝してもしきれません。 本当にありがとうございました。 親に先立つのはあまりに親不孝だが、この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている。 特にこの十数年、他人の何倍かの密度で生きていたように思うし、両親も私の胸のうちを分かってくれていたことだろう。 両親と丸山さんに直接話が出来たことで、肩の荷が下りたように思う。 最後に、誰よりも気がかりで、けれど最後まで頼りになってくれた妻へ。 あの余命宣告以来何度も二人で涙にくれた。お互い、身体的にも精神的にも過酷な毎日だった。言葉にすることなんて出来ないくらい。 でも、そんなしんどくも切ない日々を何とか越えて来られたのは、あの宣告後すぐに言ってくれた力強い言葉のおかげだと私は思っている。 「私、最後までちゃんと伴走するからね」 その言葉の通り、私の心配など追い越すかのように、怒濤のごとく押し寄せるあちらこちらからの要求や請求を交通整理し、亭主の介護を見よう見まねですぐに覚え、テキパキとこなす姿に私は感動を覚えた。 「私の妻はすごいぞ」 今さらながら言うな?って。いやいや、今まで思っていた以上なんだと実感した次第だ。 私が死んだ後も、きっと上手いこと今 敏を送り出してくれると信じている。 思い起こせば、結婚以来「仕事仕事」の毎日で、自宅でゆっくり出来る時間が出来たと思えばガンだった、ではあんまりだ。 けれど、仕事に没頭する人であること、そこに才能があることを間近にいてよく理解してくれていたね。私は幸せだったよ、本当に。 生きることについても死を迎えるにあたっても、どれほど感謝してもしきれない。ありがとう。 気がかりなことはもちろんまだまだあるが、数え上げればキリがない。物事にも終わりが必要だ。 最後に、今どきはなかなか受け入れてもらいにくいであろう、自宅での終末ケアを引き受けてくれた主治医のH先生、そしてその奥様で看護師のKさんに深い感謝の気持ちをお伝えしたい。 自宅という医療には不便きわまりない状況のなか、ガンの疼痛をあれやこれやの方法で粘り強く取り除いていただき、死というゴールまでの間を少しでも快適に過ごせるようご尽力いただき、どれほど助けられたことでしょう。 しかも、ただでさえ面倒くさく図体と態度の大きな患者に、単なる仕事の枠組みをはるかに越え、何より人間的に接していただいたことにどれほど私たち夫婦が支えられ、救われたか分かりません。先生方御夫婦のお人柄にも励まされることも多々ありました。 深く深く感謝いたしております。 そして、いよいよ最後になりますが、5月半ばに余命宣告を受けてすぐの頃から、公私に渡って尋常ではないほどの協力と尽力、精神的な支えにもなってくれた二人の友人。 株式会社KON’STONEのメンバーでもある高校時代からの友人Tと、プロデューサーHに心からの感謝を送ります。 本当にありがとう。私の貧相なボキャブラリーから、適切な感謝の言葉を探すのも難しいほど、夫婦揃って世話になった。 2人がいなければ死はもっとつらい形で私や、そばで看取る家内を呑み込んでいたことでしょう。 何から何まで、本当に世話になった。 で。世話になりついでですまんのだが、死んだあとの送り出しまで、家内に協力してやってくれぬか。 そうすりゃ、私も安心してフライトに乗れる。 心から頼む。 さて、ここまで長々とこの文章におつき合いしてくれた皆さん、どうもありがとう。 世界中に存する善きものすべてに感謝したい気持ちと共に、筆をおくことにしよう。 じゃ、お先に。 今 敏 惜しい。…これを読んでただただ号泣。笑う人がいると思うが、赤塚富士夫へのタモリの弔辞以来に、澄んだ文章。…ここでも誰かに読んでもらいたい、そう思いました。 私たちは、この世に何を残していけるだろう。 自分のじいちゃん、ばぁちゃんが死んだときのお経、「死ぬ間際にじたばたせず、時に身を任せよう」という趣旨の部分を思い出す。
2010年08月26日
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続き さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。 ところが。 肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。 ありゃ? ある意味、こう思った。 「死にそびれたか(笑)」 その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。 不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。 妻を始め、見舞いに来て気力を分け与えてくれた方々、応援してくれた友人、医師や看護師、ケアマネージャなど携わってくれている人すべてのおかげだと思う。本当に素直に心の底から。 生きる気力が再起動したからには、ぼんやりしているわけにはいかない。 エクストラで与えられたような命だと肝に命じて、大事に使わねばならない。 そこで現世に残した不義理を一つでも減らしたいと思った。 実はガンのことはごくごく身の回りの人間にしか伝えていなかった。両親にも知らせていなかったくらいだ。特に仕事上においては色々なしがらみがあり、言うに言えなかった。 インターネット上でガンの宣言をして、残りの人生を日々報告したい気持ちもあったのだが、今 敏の死が予定されることは、小さいとはいえ諸々影響が懸念されると思えたし、それがゆえに身近な知り合いにも不義理を重ねてしまっていた。まことに申し訳ない。 死ぬ前にせめて一度会って、一言でも挨拶したい人はたくさんいる。 家族や親戚、古くは小中学校からの友人や高校の同級生、大学で知り合った仲間、漫画の世界で出会い多くの刺激を交換した人たち、アニメの世界で机を並べ、一緒に酒を飲み、同じ作品で腕前を刺激しあい、楽しみも苦しみも分け合った多くの仲間たち、 監督という立場のおかげで知り会えた数知れないほどたくさんの人びと、日本のみならず世界各地でファンだといってくれる人たちにも出会うことが出来た。ウェブを通じて知り合った友人もいる。 出来れば一目会いたい人はたくさんいるが(会いたくないのもいるけれど)、会えば「この人ともう会えなくなるんだな」という思いばかりが溜まっていきそうで、上手く死を迎えられなくなってしまいそうな気がした。 回復されたとはいえ私に残る気力はわずかで、会うにはよほどの覚悟がいる。会いたい人ほど会うのがつらい。皮肉な話だ。 それに、骨への転移への影響で下半身が麻痺してほぼ寝たきりになり、痩せ細った姿を見られたくもなかった。多くの知り合いの中で元気な頃の今 敏を覚えていて欲しいと思った。 病状を知らせなかった親戚、あらゆる友人、すべての知人の皆さん、この場を借りて不義理をお詫びします。でも、今 敏のわがままも理解してやっていただきたい。 だって、「そういうやつ」だったでしょ、今 敏って。 顔を思い出せば、いい思い出と笑顔が思い起こされます。 みんな、本当にいい思い出をたくさんありがとう。 自分の生きた世界を愛している。 そう思えることそのものが幸せだ。 私の人生で出会った少なからぬ人たちは、肯定的否定的どちらであっても、やっぱり今 敏という人間の形成にはどこか必要だっただろうし、全ての出会いに感謝している。 その結果が四十代半ばの早い死であったとしても、これはこれとして他ならぬ私の運命と受け止めている。いい思いだって随分させてもらったのだ。 いま死について思うのはこういうこと。 「残念としかいいようがないな」 本当に。さらに続く
2010年08月26日
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今敏監督が亡くなった。 以下、単なるコピペですが、きっと他の場所でも残っているだろうけど、この文章は残しておかなければならない気がして。 人は死ぬ間際、準備できたとして、これだけ落ち着いていられるだろうか。愛すべき人々へ、お礼の言葉を言えるだろうか。 これを読んで、涙が止まらない。アニメ監督『今敏』が最後に書いた日記 2010年8月25日(水曜日) さようなら 忘れもしない今年の5月18日。 武蔵野赤十字病院、循環器科の医師から次のような宣告を受けた。 「膵臓ガン末期、骨の随所に転移あり。余命長くて半年」 妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった。 普段から心底思ってはいた。 「いつ死んでも仕方ない」 とはいえあまりに突然だった。 確かに兆候はあったと言えるかもしれない。その2~3ヶ月前から背中の各所、脚の付け根などに強い痛みを感じ、右脚には力が入らなくなり、歩行にも大きく困難を生じ、鍼灸師やカイロプラクティックなどに通っていたのだが、 改善されることはなく、MRIやPET-CTなどの精密機器で検査した結果、いきなりの余命宣告となった次第である。 気がつけば死がすぐ背後にいたようなもので、私にはどうにも手の打ちようもなかったのだ。 宣告の後、生き延びるための方法を妻と模索してきた。それこそ必死だ。 頼もしい友人や強力この上ない方の支援も得てきた。抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。 どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。医療についてだって同じだ。現代医療の主流派の裏にどんなカラクリがあるのかもあれこれ思い知った。 「自分の選んだ世界観で生き延びてやろうじゃないか!」 しかし。気力だけではままならないのは作品制作とご同様。 病状は確実に進行する日々だった。 一方私だって一社会人として世間一般の世界観も、半分くらいは受け入れて生きている。ちゃんと税金だって払ってるんだから。立派には縁遠いが歴とした日本社会のフルメンバーの1人だ。 だから生き延びるための私的世界観の準備とは別に、 「ちゃんと死ぬための用意」 にも手を回してきたつもりだ。全然ちゃんと出来なかったけど。 その一つが、信頼のおける二人の友人に協力してもらい、今 敏の持つ儚いとはいえ著作権などの管理を任せる会社を作ること。 もう一つは、たくさんはないが財産を円滑に家内に譲り渡せるように遺言書を作ることだった。 無論遺産争いがこじれるようなことはないが、この世に残る妻の不安を一つでも取り除いてやりたいし、それがちょいと向こうに旅立つ私の安心に繋がるというもの。 手続きにまつわる、私や家内の苦手な事務処理や、下調べなどは素晴らしき友人の手によってスピーディに進めてもらった。 後日、肺炎による危篤状態の中で、朦朧としつつ遺言書に最後のサインをしたときは、とりあえず、これで死ぬのも仕方ないと思ったくらいだった。 「はぁ…やっと死ねる」 なにしろ、その二日前に救急で武蔵野赤十字に運ばれ、一日おいてまた救急で同じ病院へ運ばれた。さすがにここで入院して細かい検査となったわけだ。結果は肺炎の併発、胸水も相当溜まっている。 医師にはっきり聞いたところ、答えは大変事務的で、ある意味ありがたかった。 「持って…一日二日……これを越えても今月いっぱいくらいでしょう」 聞きながら「天気予報みたいだな」と思ったが事態は切迫していた。 それが7月7日のこと。なかなか過酷な七夕だったことだよ。 ということで早速腹はきまった。 私は自宅で死にたい。 周囲の人間に対して最後の大迷惑になるかもしれないが、なんとしてでも自宅へ脱出する方法をあたってもらった。 妻の頑張りと、病院のあきらめたかのような態度でありつつも実は実に助かる協力、外部医院の甚大な支援、そして多くの天恵としか思えぬ偶然の数々。 あんなに上手く偶然や必然が隙間なくはまった様が現実にあるとは信じられないくらいだ。「東京ゴッドファーザーズ」じゃあるまいし。 妻が脱出の段取りに走り回る一方、私はと言えば、医師に対して「半日でも一日でも家にいられればまだ出来ることがあるんです!」と訴えた後は、陰気な病室で一人死を待ち受けていた。 寂しくはあったが考えていたのはこんなこと。 「死ぬってのも悪くないかもな」 理由が特にあるわけもなく、そうとでも思わないといられなかったのかもしれないが、気持ちは自分でもびっくりするほど穏やかだった。 ただ、一つだけどうしても気に入らない。 「この場所で死ぬのだけは嫌だなぁ…」 と、見ると壁のカレンダーから何か動き出して部屋に広がり始めるし。 「やれやれ…カレンダーから行列とはな。私の幻覚はちっとも個性的じゃないなぁ」 こんな時だって職業意識が働くものだと微笑ましく感じたが、全くこの時が一番死の世界に近寄っていたのかもしれない。本当に死を間近に感じた。 死の世界とシーツにくるまれながら、多くの人の尽力のおかげで奇跡的に武蔵野赤十字を脱出して、自宅に辿り付いた。 死ぬのもツライよ。 断っておくが、別に武蔵野赤十字への批判や嫌悪はないので、誤解なきよう。 ただ、私は自分の家に帰りたかっただけなのだ。 私が暮らしているあの家へ。 少しばかり驚いたのは、自宅の茶の間に運びこまれるとき、臨死体験でおなじみの「高所から自分が部屋に運ばれる姿を見る」なんていうオマケがついたことだった。 自分と自分を含む風景を、地上数メートルくらいからだろうか、ワイド気味のレンズで真俯瞰で見ていた。部屋中央のベッドの四角がやけに大きく印象的で、シーツにくるまれた自分がその四角に下ろされる。あんまり丁寧な感じじゃなかったが、文句は言うまい。続く
2010年08月26日
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今日の夕刊を何気なく見ていて、驚きました。HPに壮絶“遺言”世界的アニメ映画監督の今敏さん死去 今敏さん(写真提供 産経新聞社) 2006年のベネチア国際映画祭に出品された「パプリカ」や「千年女優」などで知られるアニメーション映画監督の今敏(こん・さとし)さんが、24日午前6時20分、すい臓がんのため急死した。46歳。北海道釧路市出身。葬儀・告別式は親族のみで行う。喪主は妻、京子(きょうこ)さん。 公式サイトは25日、訃報と「さようなら」と題した今さんの“遺言”を掲載した。「妻と二人で聞いた。二人の腕だけでは受け止められないほど、唐突で理不尽な運命だった」と、今年5月に突然、すい臓がんで余命半年と宣告を受けてからの闘病と生活ぶりが、映像作家らしい丁寧な描写でつづられている。 7月7日ごろには肺炎で一両日中しか持たないと宣告され、上空から寝ている自分を眺めた「臨死体験」をしたとも。「この十数年の間、アニメーション監督として自分の好きに腕を振るい、目標を達成し、評価もそれなりに得た。あまり売れなかったのはちょいと残念だが、分相応だと思っている」と振り返り、「じゃ、お先に」と、しめくくられている。 武蔵野美術大在学中の1984年に漫画家デビュー、97年の初監督作「パーフェクト・ブルー」がベルリン映画祭に招かれた。筒井康隆原作の「パプリカ」は、夢の世界に侵入するという女探偵を描いた幻想的な内容で話題に。新作「夢みる機械」の製作途中だった。 夕刊フジより 「千年女優」「パプリカ」など芸術的な作風で知られ、海外の評価も高いアニメーション映画監督の今敏(こん・さとし)さんが、24日午前6時20分、すい臓がんのため死去した。46歳だった。葬儀は近親者のみで行う。 1985年、武蔵野美大在学中に「虜―とりこ―」でちばてつや賞を受け、マンガ家としてデビュー。アニメにも進出し、97年に「パーフェクトブルー」でアニメ映画を初監督した。 第2作の「千年女優」(02年)が、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の大賞を受賞して注目を集めた。同作は、米国の配給会社ドリームワークスによって世界配給された。「東京ゴッドファーザーズ」(03年)に次いで製作された06年の「パプリカ」は、筒井康隆の小説が原作。ベネチア国際映画祭のコンペ部門に出品された。 現実と虚構の関係を主なテーマにし、細密な画風と叙情的な物語が特徴で、宮崎駿や押井守の次世代を担う日本アニメ界の気鋭として期待されていた。新作「夢みる機械」を準備中だった。 朝日新聞より あの中毒になりそうな、筒井康隆の小説を具現化した独特な映像表現と、平沢進の音楽がすばらしい映像をかもし出す、大人のアニメ映像作家でした。 次世代のアニメ監督だっただけに、残念。まだまだ奇抜な映像と物語を楽しみにしていたのに…。次回作を準備中だったらしいが。 もっと語りたい言葉や文章が思い浮かぶはずなのに、今はただ、合掌。過去にはこちらで語っています・・・。↓http://plaza.rakuten.co.jp/kanwa/diary/200612040002/
2010年08月25日
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や~、26日朝、マイケル・ジャクソン逝去の第一報、驚きましたわ。【追加】家のエアチェック・ビデオから、ジャクソンズの頃のマイケルの写真を。無邪気でカワイイ笑顔ですよね。(T_T)
2009年06月25日
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新聞を読んでいたら、またまた訃報が。 子供の頃に、一度は読んだことがあるでしょうし、切り絵作品も大変素晴らしい作品を残した方でした。・・・皆さんも何処かで見たことがあるのでは・・・?切り絵作家・版画家 滝平二郎さん死去 【朝日・2009/05/19】 懐かしい農村風景や庶民の暮らしを詩情豊かに描いた、切り絵作家で版画家の滝平二郎(たきだいら・じろう)さんが16日、がんのため千葉県流山市の病院で死去した。88歳だった。葬儀は親族で行った。後日、お別れの会を開く。喪主は妻普美子(ふみこ)さん。連絡先は東京都千代田区三崎町3の2の13の秋和ビル4階「滝平きりえ版権事務所」。 < 写真=亡くなった切り絵作家の滝平二郎さん 茨城県に生まれ、独学で絵を勉強した。太平洋戦争で沖縄戦に従軍・復員後に、木版画家として独立。60年代後半から切り絵を手がけた。67年、児童文学作家の故・斎藤隆介さんと組んだ絵本「ベロ出しチョンマ」の切り絵挿画で注目され、「八郎」「花さき山」「モチモチの木」など多くのロングセラーを生み出した。朝日新聞日曜版のフロント面で70~78年、挿画を連載し人気を博した。 写真=きりえ画集から「梅」 > 「花さき山」で70年、講談社出版文化賞(ブックデザイン賞)、一連の切り絵作品で74年度モービル児童文化賞を受賞した。 < ベロ出しチョンマ 「ベロ出しチョンマ」は子供心におもしろい題名で手にとっては見たものの、怖かった、思い出が残ります。・・・今読むと、切ない、悲しい物語なのですが。時代的な背景と絶望的な状況の中で、妹を思いやる主人公・長松の優しさが切ないですね。 < 八郎 「八郎」は秋田県の八郎潟の由来となった、民話です。これまた、最後は切ない、悲しい物語です。 しかし、「ベロ出しチョンマ」では、暖かみのある絵でありながら、悲しい物語が、また、「八郎」では、切り絵の力強さの中にも、その対比として、それぞれに悲しい物語があり、しかし、ともに、自分が正しいと信じたことを実行する、また、何事にも負けないで欲しいという、子供達に伝えたい、その心があります。 < 花さき山 中の切り絵が大変美しい作品です。 墨の黒の中に、美しい花が咲きます。 < モチモチの木 どちらかというと、この2作品の方が有名かも知れませんが、どちらも切り絵のきれいな絵本でした。 「モチモチの木」は、勇気を出すことの大切さ、人を思いやる気持ちを学んだ、そんな気がします。 何はともあれ、素晴らしい作品を残してくれた、滝平さんのご冥福をお祈りしたいと思います。
2009年05月19日
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・・・いえ、驚きましたよ。突然の訃報です。完全復活だと思っていたばかりに、大変悲しいです。やはり、それぞれに大きな影響を与えるパワーを持っていた方の訃報はツライです。80歳になっても、ヤっていそうな方だったので、まだまだ何かを生み出しそうな方が亡くなって、残念です。・・・日テレ系でも映像が出てこないので、私のデータベースからちょっと、追悼ブログを。うらんかんろさんのネタにちなんで、2005年12月28日のブログでも紹介したのですが、ちょっと「Merry Xmas Show」から。忌野清志郎さん死去 58歳 「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」 【5月3日配信 産経新聞】忌野清志郎さん死去 58歳 「雨あがりの夜空に」「トランジスタ・ラジオ」喉頭がんを克服した直後の平成20年2月10日、2年2カ月ぶりの単独公演を行い、ファンに元気な姿を見せた忌野さん =日本武道館(財満朝則撮影)(写真:産経新聞) >> がんと闘病しながら、音楽活動を続けていたロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんが2日、がん性リンパ管症のため死去した。58歳。密葬を近親者のみで行う。葬儀と一般の弔問を受け付ける告別式は9日正午、東京都港区南青山2の33の20、青山葬儀所で。喪主は妻、栗原景子(くりはら・けいこ)さん。 昭和26年、東京都生まれ。45年にRCサクセションのボーカル担当として、シングル「宝くじは買わない」でデビュー。「雨あがりの夜空に」「ぼくの好きな先生」「トランジスタ・ラジオ」などをヒットさせた。 「日本語ロック」というジャンルを確立するともに、毛先を立てた奇抜なヘアスタイルや派手なメークが人気を呼んだ。一方で、過激なパフォーマンスや言動が話題を呼び63年、アルバム「COVERS」の原発問題を扱う歌詞が物議をかもし発売中止になった。 自転車愛好家としても知られた。 平成3年、RCサクセションの無期限活動停止に伴い、ソロ活動。18年7月に喉頭(こうとう)がんであることを発表。治療を経て19年12月8日、日本武道館での「ジョン・レノン スーパーライブ」で活動を再開したが、20年7月にはがんが左腸骨に転移したことが判明し、予定されていた公演が中止となった。 ■「またいつか会いましょう。夢を忘れずに」 「ごきげんだぜベイビー」。活動を再開した一昨年12月のライブでこう叫んでいた忌野清志郎さん。その後、がんが再発しても、ホームページで「すぐ帰ってくるから」と復活を宣言していたが、ステージに戻ってくることはなかった。 「愛し合っているかい」。ライブステージのたびに、必ずこう叫んで“ロック小僧”を沸かせた忌野さん。激しいロックやラブソング、リズムアンドブルースなど、さまざまな曲で魅了する一方、過激な行動で物議を醸した。 「COVERS」事件のほかにも、ザ・タイマーズという覆面バンドを結成した際には、テレビ番組で、ラジオ局を放送禁止用語で批判。君が代のロックバージョンを発売し、議論を呼んだこともあった。 平成18年7月にがんで入院する直前には「新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います。またいつか会いましょう。夢を忘れずに!」と直筆コメントを公開した。一度は、復活を果たしながら再び活動を中止した去年7月には「全然へこんでいないから。ブルースはまだまだ続いているというわけだ。すぐ帰ってくるから」と掲載していた。 ここからは手持ちのデータから。忌野清志郎さんとの出会いは、「雨上がりの夜空に」から。そして、教授との「い・け・な・いルージュマジック」、そして、今に至る・・・。 ・・・時は1987年12月24日。日テレ系列から「Merry Xmas Show」が放送された。曲目リストは2005年12月28日のブログを参照してもらうとして、この時、清志郎はみんなに2曲のプレゼント。 自宅のビデオからなので、画像が悪いのはご容赦を。 1曲目は、フリーになったばかりの古館アナを実況に、プロレスリングにて、桑田佳祐とセッションをしました。 ここから、桑田vs.忌野(セコンド・泉谷)の遺恨セッションが始まります。 作詞作曲・桑田佳祐、アレンジャーにはそうそうたるメンツが。・・・続く。
2009年05月03日
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あまりにも小さい記事だったので、危うく見逃すところでした。日経新聞の訃報欄で気づきました・・・。その偉大な軌跡に、今夜は献杯。米著名ワインメーカーのR・モンダヴィ氏が死去、94歳 < 5月16日、米著名ワインメーカーのロバート・モンダヴィ氏が死去したことが明らかに。写真は昨年12月撮影(2008年 ロイター/Kimberly White) [サンフランシスコ 16日 ロイター] 米カリフォルニア州の有名ワインメーカー、ロバート・モンダヴィ氏が同州ナパバレーの自宅で死去したことが分かった。94歳だった。 モンダヴィ氏は、カリフォルニアワインの品質を欧州の一流ワインと肩を並べるまでに高めたとして知られる。 同氏が経営するワイナリーのスポークスマンによると、モンダヴィ氏が死去したのは16日の朝。死因などは明かされていない。 あまりにも静かな、その死。・・・騒がれず、静かに眠りたかったのでしょうか・・・。【先行販売】【初出し特価】オーパス・ワン[2004](赤ワイン)
2008年05月18日
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ネットを見ていたら、驚きの訃報が目に飛び込んできた。私にとっての最初の出会いは、某国営放送の「キャプテン・フィーチャー」、でした。それは、子供心に、かっこいいヒーローだったのですが、ムーミンの「スノーク」や、ヤマトの「古代守」、宮崎駿監督の「名探偵ホームズ」など、様々な場所で活躍されている、楽しい、そしてカッコイイ声優さんでした。その後、007を始めとしたカッコイイ役からおもしろおかしい吹き替え、テレビのナレーションなどでその存在感は大きかったように思えます。そんな広川先生の訃報に接するとは。ご冥福をお祈りいたします。広川さんを知らない方はこちらへ。広川太一郎データベース「吹き替えといてくれ」-------------------------------- このまま終わるのも、いろいろなジョークや言い回しをしていた彼らしくないので、追悼の意味でもネット上での、広川太一郎変換フィルタ「変換しちゃったりして」を使って、送り出したいと思う、なんて、思ったりなんかしちゃったりもして、なんだかもーな、なんてな、思うわけさ。(^_^;上の文書が、こんなになっちゃうわけさ、おけさ。ネットを見ていたら、あんれまって言っちゃうぐらいの訃報が目に飛び込んできた、なんて、コノコノコノォ! 私にとっての最初の出会いは、某国営放送の「キャプテン・フィーチャー」、でした、なんちゃって! それは、子供心に、かっこいいヒーローだったのですが、ムーミンの「スノーク」や、ヤマトの「古代守」、宮崎駿監督のホームズなど、様々な場所で活躍されている、楽しい、そしてカッコイイ声優さんでした、とか言っちゃってみたりするんだなぁ、この、幸せモノぉ! その後、007を始めとしたカッコイイ役からおもしろおかしい吹き替え、テレビのナレーションなどでその存在感は大きかったように思えます、なんてさ! そんな広川先生の訃報に接するとは、とか言っちゃってみたりするんだなぁ、この、幸せモノぉ! ご冥福をお祈りいたします、なんてさ! こんな口調、若い人は知らんだろーな、かろーら。「モンティ・パイソン」「Mr.Boo!」の声優、広川太一郎氏が死去 [3/10、eiga.com 映画ニュース] 人気声優の広川太一郎(本名・*次郎、しんじろう)氏が3月3日、ガンのため東京都渋谷区の病院で死去した。68歳。葬儀は近親者で済ませたという。(*はゴンベンに甚)最後の仕事は、先月末の英国のコメディ映画「モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル」(5月21日DVD発売)のナレーションの仕事だったという。関係者の証言によると、体調が思わしくないにも関わらず、広川氏は60年代から務め上げた声優の仕事を最後までやり遂げた。1963年日本大学芸術学部演劇学科を卒業と同時に声優となり、「007/私を愛したスパイ」などの“3代目ジェームズ・ボンド”ロジャー・ムーア、「大統領の陰謀」のロバート・レッドフォード、「お熱いのがお好き」のトニー・カーティスといった二枚目俳優の吹き替えを担当。一方で、ひょうきんなキャラクターも得意とし、ジャッキー・チェン映画予告編をはじめ、「モンティ・パイソン」シリーズのエリック・アイドル、「Mr.Boo!」シリーズのマイケル・ホイなどの吹き替えも担当。「あらららら」「何ともはや!」「とか何とか言っちゃったりして」「そんなバナナ!」「恥ずらかしい」といった台本を脱線したアドリブやダジャレは“広川節”として親しまれた。アニメでは、「宇宙戦艦ヤマト」の古代守、「あしたのジョー」のカーロス・リベラ、「ムーミン」のスノークといったキャラクターを演じた。あー、読みにくくて、ゴメンして。
2008年03月10日
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あまりご存じないかも知れませんが、また、しぶい芸所の方がお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。 写真は落語芸術協会・HPより → 最近見たのは、数年前の「細野晴臣 イエローマジックショー」とか、寄席とか、渋いところで出ていましたね。朗らかで、明るい芸風で、大変和む、そんな方でした。まだまだ若かったのに・・・。(T_T)歌謡漫談グループ「東京ボーイズ」リーダーの旭五郎さん死去 【9日・時事通信】 旭 五郎さん(あさひ・ごろう、本名大内重昭=おおうち・しげあき=東京ボーイズリーダー)8日午後9時28分、原発不明がんのため東京都港区の病院で死去、63歳。福島県相馬市出身。葬儀・告別式は14日午前11時から大田区東海1の3の1の臨海斎場で。喪主は栄子(えいこ)さん。 歌謡漫談グループの東京ボーイズのリーダーとして活躍、ボーイズバラエティ協会副会長も務めた。 ← 真ん中が故・旭五郎さんです。 写真はボーイズバラエティ協会・HPより♪天気がよければ晴れだろう!天気が悪けりゃ雨だろう!雨が降ろうと、風が吹こうと、東京ボーイズ、ほがらかに~ !♪ ♪謎かけ問答で解くならば~♪ あの節回し、頭から離れないなぁ。木梨憲武さんとか、細野晴臣さんはあの芸風に異様にはまっていましたね。
2007年10月09日
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今日、帰宅したらこのニュース。突然だっただけに驚きました。でもよく考えると、時々、調子悪そうでしたね。時々、とんでもなく、悪い日があったわけですよ。 イタリア・ワインでも飲み過ぎ?ていたのでしょうか。 お悔やみ申し上げます。パバロッティさん:世界的テノール歌手 伊の自宅で死去 【6日・毎日】 「世界3大テノール」の一人として著名なイタリアの世界的歌手、ルチアーノ・パバロッティさん(71)が6日午前5時(日本時間同日正午)、膵臓(すいぞう)がんのため同国北部モデナの自宅で死去した。 イタリア・メディアによると、3大テノールの一人でスペイン人のプラシド・ドミンゴさんは「彼の神々しい声には常に感嘆した。ホセ・カレーラスとの3人で何度か一緒に歌った際は、あまりにも楽しく、観客の存在すら忘れるほどだった」と話した。 1935年、モデナのパン屋の長男として生まれた。61年、レッジョ・エミーリアの声楽コンクールで1位となり、同市立劇場でプッチーニ「ラ・ボエーム」のロドルフォ役でデビュー。65年には早くもミラノ・スカラ座でベルディ「リゴレット」のマントバ公爵役を務め、世界各地の主要歌劇場に次々と出演した。 高音が続くドニゼッティ「連隊の娘」のアリアを格調高く歌い上げるなど「キング・オブ・ハイC」と呼ばれる高音、明るい声質を誇り、「20世紀イタリアの最高のテノール」と称賛された。他にベルリーニ、ベルディ、プッチーニなどを得意とし聴衆を魅了した。 オペラファン拡大のため、野外やアリーナなど大規模公演に積極的に取り組んだ。サッカー・ワールドカップ・イタリア大会のあった90年、ローマで「3大テノール公演」を開催。96年の日本公演の際には東京・国立競技場に約6万人を集め、最高7万5000円という高額チケットも話題を集めた。 度重なる公演キャンセルや脱税疑惑、30歳以上年の離れた女性との再婚など、ステージの外でも常に注目の的に。過度の肥満で声が出なくなると報道されたこともあった。昨年2月のトリノ五輪開会式では「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」を高らかに歌い上げたが、その後、手術を受け静養していた。 【ローマ/海保真人、梅津時比古】 偉大なる名歌手たち~ルチアーノ・パヴァロッティ ↑「誰も寝てはならぬ」収録 誰も寝てはならぬ(1)↑現在、第6巻まで発売中。東京育ちの、大阪テイスト、コテコテです。
2007年09月06日
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衝撃的なニュースが入ってきた。日テレ大杉君枝アナ転落死 自殺か 【2日・スポーツ報知】 日本テレビのアナウンサー大杉君枝さん(43)が2日早朝、東京都渋谷区内の自宅マンションから転落し死亡した。遺書らしいものが残されており、警視庁渋谷署は自殺とみて調べている。 渋谷署などによると、大杉さんは午前6時半ごろ転落、搬送先の病院で死亡が確認された。 日テレによると大杉さんは昨年出産し、育児休業中。出産後に体調を崩し、悩んでいたという。 大杉さんは旧姓鈴木。1987年、日テレに入社し「所さんの目がテン!」「ルンルン朝6生情報」などに出演した。 日本テレビ総合広報部は「突然の悲報に驚いております。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしている。 ものすごく明るく、いい人そうだったので、突然の訃報に驚きました。こんなに明るい人でも、その裏に見せない辛いところもあったんだろうな。 昔、立川談志師匠にアナウンサーであるにもかかわらず、「いい芸人になりなさいよ。」と言われて、感動したという素晴らしい話があったことが思い出されるが。 悲しいです。せめて、どんなに辛くても、この人には自殺であって欲しくない。お悔やみ申し上げます。
2007年02月02日
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先日、お伝えした、ジェームス・ブラウンの話の続き。米歌手J・ブラウンさん追悼式、ファンが最後の別れ 【29日・ロイター/Eric Thayer】 12月28日、25日に亡くなった米歌手のジェームス・ブラウンさんの公開追悼式が米ニューヨーク州で営まれた。写真は、大勢のファンが見守る中、棺を乗せた馬車が会場のアポロシアターに到着したところ。 あのニューヨークの街並みに車を押しのけ、棺を載せた馬車が走り、悼む人々が集まる。本当にファンが多かった、親しまれていた、そんな雰囲気の伝わる写真です。 I Got You (I Feel Good) (1965)を楽しそうに歌う、ジェームス・ブラウンが大好きでした。初めて意識したのは、以前にもお伝えした、Merry Xmas Show!の中で、でした。 アポロシアターで「ソウルの帝王」に別れ 【29日・AP】 米ソウル歌手ジェームス・ブラウンさんに 別れを告げる催しが営まれた(AP) > 25日に死去した米ソウル歌手ジェームス・ブラウンさんに別れを告げる催しが28日、ニューヨーク・ハーレム地区のアポロシアターで営まれ、ファン数千人が「ソウルの帝王」の死を悼んだ。 アポロシアターは、ブラウンさんやマイケル・ジャクソンら多くの歌手を生み出した黒人音楽の殿堂。青いスーツ姿のブラウンさんの遺体は、亡くなったジョージア州から運ばれ、ひつぎに納められて安置された。 < 28日、数千人のファンが集まる中、ニューヨークのアポロシアターに到着したジェームス・ブラウンさんのひつぎ(AP=共同) アポロシアター前には早朝からファンが集まり始め、午後には数ブロック先まで列がのびた。大半が黒人で、露天商のリコ・ボスティックさん(46)は「ジェームス・ブラウンの音楽で育った。彼のメッセージは、われわれは黒人で、それに誇りを持とうということだったと思う」と話した。 ブラウンさんの遺体は再びジョージア州に戻され、29日以降、別の催しが営まれる。 ジェームス・ブラウン ソウルセッション1987 LIVE at Taboo Club ベスト・オブ・ジェームス・ブラウン ちなみに、再プレスも発売予定です。ジェームス・ブラウン“追悼版”日本限定企画を再プレス 【ZAKZAK 2006/12/28】 25日に死去した米ソウルミュージックの帝王、ジェームス・ブラウン(享年73) =写真、AP= 追悼として、代表作15枚が緊急再発売されることになった。平成15年に日本限定企画で“紙ジャケ化”されたデビュー作「プリーズ、プリーズ、プリーズ」など厳選15作が再プレスされるもので、来年1月17日発売。
2006年12月29日
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なんか、この前、もう少しで復帰できる、来年には復活をアピールで放送局で争奪戦、自宅療養に戻った、なんて記事があったのですが・・・。(T_T) 彼には頑張って戻ってきて欲しかった。ほぼ同年代がお亡くなりになるって事は、何となくツライです。カンニング 中島さん死去…急性リンパ球性白血病 【20日・スポーツ報知】 急性リンパ球性白血病のため闘病を続けていたお笑いコンビ「カンニング」の中島忠幸さんが20日午前11時46分、死去した。35歳だった。中島さんは、04年末に体調を崩して入院。06年夏ごろは骨髄移植の手術を行い、その後、一時は退院して自宅からの通院で治療を続けていた。中島とのコンビ復活を心底望んでいた相方・竹山隆範(35)の懸命なサポートも実らず、ついに帰らぬ人となった。 あの毒舌にもかかわらず、裏では一人で活動していても、ギャラを折半したり、彼の治療費に充てたりと、カンニング竹山も涙ぐましい努力と友情を見せていたのですが、2年間の治療も残念な結果に。 でも、私は彼の行為は決して無になってはいない、と思います。帰ってきて、同じ病気の人たちの希望になって欲しかったのですが、竹山君のやったことはとても尊いことだし、中島さんもきっとわかってくれていたと思うから。 なかなか白血病も難しい病気らしいですね。これを機会に何かの活動にも繋げて欲しいなぁ。 ご冥福をお祈りいたします。 さて、もう一人、才能のある方が。私はあの独特の、揺るぎない存在感が大好きでした。ムーミンの声をあてていたと知ったのは、ドラマの顔出し(傷だらけの天使)よりは後年になりますが。 様々なナレーションや朗読も、あの語り口が好きでした。 ご冥福をお祈りいたします。岸田今日子さん死去 「砂の女」、ムーミンの声 【20日・サンスポ】 映画「砂の女」や、アニメ「ムーミン」の声などで知られ、演劇でも活躍した個性派女優の岸田今日子(きしだ・きょうこ)さんが17日午後3時33分、脳腫瘍(しゅよう)による呼吸不全のため東京都内の病院で死去した。76歳。東京都出身。葬儀は近親者のみで行い、後日「お別れの会」を開く。喪主は長女の西条(さいじょう)まゆさん。 父は劇作家で文学座創立者の1人である故岸田国士。1950年に初舞台に立ち、文学座で「サロメ」などに出演した後脱退、劇団雲を経て演劇集団円の創立に参加した。 主な舞台に「今日子」「更地」「ブラインド・タッチ」など。「こどもステージ」をはじめ、劇作家別役実さんの作品に数多く出演。ミステリアスな雰囲気で喜劇からシリアスな役まで幅広く演じた。 安部公房原作、勅使河原宏監督「砂の女」(64年)で、昆虫採集に来た男を砂の世界へ引きずりこむ女の役を演じ、海外でも高い評価を受けた。映画「破戒」「八つ墓村」や、テレビドラマ「傷だらけの天使」でも独自の存在感を示した。 60年代から「ムーミン」の主人公の声や、ドラマ「大奥」のナレーションを務めるなど、独特の声質と語り口で人気を集めた。 著書「妄想の森」で98年、日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するなど執筆活動でも知られた。姉は詩人の岸田衿子さん。
2006年12月21日
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放送作家で、才能もあり、本人が出てもそれなりにおもしろい、そんな放送作家の第一人者だったのではないだろうか。大橋巨泉、永六輔、そして・・・。元東京都知事、青島幸男氏が死去 【20日・読売新聞】 元東京都知事の青島幸男氏が20日午前9時半ごろ、東京都内の病院で亡くなった。74歳だった。 青島氏は東京・日本橋生まれ。早稲田大商学部を卒業した後、脚本家としてデビュー。「スーダラ節」などの作詞で一躍流行作家となった。68年には参院選に出馬し、政見放送と選挙公報だけの選挙戦で当選した。その後は、小説家としても活躍、「人間万事塞翁が丙午」では直木賞も受賞した。 95年には、都知事選に出馬し、同じ選挙スタイルで当選。就任直後に、世界都市博覧会の中止を決断した。しかし、2期目の都知事選を前にして、突然不出馬を表明し、再びタレント活動を始めた。2004年の参院選では、二院クラブの代表として再び参院選に立候補したが、落選した。 そういえば、私がはじめて投票権を得て、投票したのは青島都知事と、「日本新党」でした。(^^ゞ 今にして思えば、若気の至り!? しかし、当時は旧勢力を押さえて、何かしてくれるかも知れない、との思いもありましたが。いろいろと退任直後は言われましたが、結局は支持率をバックに強気でいられなかったことも遠因かと。議会の強い抵抗に遭っていたようなので、何事も反対され、結果的に何もしなかった知事として名を残したような気がしないでもない。石原さんみたいに強いところがなかったモンなぁ。あれから、議会が民意の反映、選挙で選ばれたものの意志だ、という言葉は信用できなくなりました。 うまい具合に、青島さんと日本新党は骨抜きにされましたな。今の民主党も。 何はともあれ、近代日本の文化(良きにしろ悪きにしろ)をテレビという媒体を使って作り続けた青島氏の功績はそれなりにあると思います。何しろ異色の才能の持ち主でしたね。日テレのゴールデン帯番組「追跡」は好きでした。合掌。 下は追加。子供の頃、気がついたら、毎夕、テレビで流れていました。アニメといったら、「トムとジェリー」。クラシック音楽とコラボというか、シンクロした映像が、ディズニーの「ファンタジア」よりも好きでした。そういえば、アカデミーもその作品で取っていましたね。「トムとジェリー」バーベラ氏が死去(米アニメーション作家) 【19日・共同】 ジョゼフ・バーベラ氏(米アニメーション作家)AP通信などによると、18日、ロサンゼルス郊外の自宅で死去、95歳。老衰とみられるが、詳しい死因は不明。 1911年ニューヨーク生まれ。銀行勤務などを経て、アニメーション作家として30年代に映画会社MGMに採用された。故ウィリアム・ハンナ氏(2001年に死去)とコンビを組み「トムとジェリー」「スクービー・ドゥー」「フリントストーン」などのアニメーションを制作。「トムとジェリー」シリーズはアカデミー賞の短編アニメ部門を度々受賞した。
2006年12月20日
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昨晩は、夕方に突然の大雨と強風で始まった、遅番。だんだんと、冬らしさが出てきました。大阪地区はノロ・ウィルスとか、流行っているようですが、職場の方へもその感染者が現れた模様。完全に隔離ですね。(^_^; ちょっと腹の奥がころころしてくると、なんか、嫌な感じです。 さて、先日記した、実相寺監督の葬儀が行われたようです。なんか、故人をしのばせるような送り出し、っていいですよね。 このころの遊び心溢れる演出とか、かと思うと、忘れられないくらいの夕焼けの中、シルエットだけを映し出したり、音楽が凄く印象的だったり。 このころのスタッフの怪獣の着ぐるみとのスナップ写真は、なんとなしにほほえましいものがあります。 学生時代の住んでいた街は、円谷プロにも近く、昔からのいろいろな伝説や実話が溢れていました。「環八ゴジラの怪」なんて話もあったなぁ。(^_^;【葬送】 映画監督・実相寺昭雄氏 信じれば見える“ウルトラの星” 【3日・産経(寺西肇)】 抜けるような青空の下、「ペール・ギュント組曲」の「オーゼの死」が静かに流れていた。「ウルトラマン」をはじめ、テレビドラマや映画の監督、オペラの演出と幅広く活躍した実相寺さんの葬儀には、幼い子供や女子高生、さらに指揮者の小澤征爾さんの姿もあった。実相寺さんが旅立つ「ウルトラの星」は、こんな明るい空でも信じる者には見えるという。 焼香台の前に並べられたスナップ写真の中には、「ウルトラマン」に登場した怪獣ジャミラとのショットも。 友人で演出家の飯島敏宏さんは「彼はオーソドックスを否定しながらも奇をてらわず、クラシックを極めた。それは創作活動だけでなく、多彩な趣味にも通じていた」。俳優の寺田農さんは「『生きてるなんて、しょせん死ぬまでの暇つぶし』が口癖だったあなたには、死ぬのも、生きて戻るまでの暇つぶしかも」と遺影に語りかけた。 妻で女優の原知佐子さんは「“実相寺組”のイベントで、喪主という役を演じている気分」と漏らす。胃がんで入院中だったが、これほどの急逝は本人も予期していなかっただろう。来年も、オペラの演出や本の執筆などスケジュールでいっぱいだった。 奇(く)しくもこの日、都内のホールで、最後の演出作となったハイドンのオペラ「月の世界」が上演された。客を楽しませようというコミカルな演出。ウルトラの星への旅の途上、きっと本人もこの舞台を楽しんでいったに違いない。享年69。 ♪君にも~見え~る、ウルトラの星~
2006年12月03日
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「魔界転生」などの漫画家、石川賢さん死去 【朝日・16日】 石川 賢さん(いしかわ・けん=漫画家、本名・賢一=けんいち)が15日、急性心不全で死去、58歳。通夜、葬儀の日取りは未定。 69年に漫画家永井豪さんのダイナミックプロに入り、アシスタントを務めるかたわら「ゲッターロボ」(永井さんと共著)、「魔界転生」などを発表した。 子供の頃は、ゲッターロボ、よく見ていました。子供の頃は見分けが付かないから、全部永井豪さんだと思っていましたが。 中学生くらいになって、ヤングジャンプで初めて名前を認識したような。あまりにも早すぎる死に、合掌。俳優の仲谷昇さん死去 舞台や映画で幅広く活躍 【朝日・17日】 知的で渋みのある演技で幅広く活躍し、演劇集団円代表でもあった仲谷昇(なかや・のぼる、本名・昇流=のぼる)さんが16日午前7時22分、肺気腫による慢性閉塞(へいそく)性肺疾患のため死去した。77歳だった。葬儀は親族のみで営み、後日、劇団葬を行う。喪主は未定。連絡先は東京都台東区西浅草1の2の3、田原町センタービル5階、演劇集団円。 < 仲谷昇さん 東京生まれ。50年に文学座付属演劇研究所に入り、翌年、「武蔵野夫人」で初舞台、二枚目俳優として注目された。63年、文学座を脱退して芥川比呂志らと劇団雲を、75年には演劇集団円を作り、「リア王」をはじめとするシェークスピア劇や「白鯨」を舞台化した「モービィ・ディック」などで主演した。 映画では、中平康監督の「猟人日記」(64年)や「砂の上の植物群」(同)などに主演し、テレビドラマへの出演も多い。90年からのバラエティー番組「カノッサの屈辱」に学者役で登場した。 俳優岸田今日子さんと54年に結婚し、78年に離婚した。 多くの映画・ドラマに出ていましたが、大学入学で上京し、ハマッタ深夜番組で言うと、やはりJOCX TV Pluss+の枠、「カノッサの屈辱」でしょう。 ・ウィキペディア・「カノッサの屈辱」 (世界史項目) ・ホイチョイプロ企画のパロディはこちら。ウィキペディア・「カノッサの屈辱」 (TV番組項) ナレーターとしても、あの語り口が聞けなくなるのは残念。おくやみ申し上げます。
2006年11月17日
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