補 その1


 ぼくたちは明確に同棲しているという意識を持たずに、一緒に暮らしていた。薔薇ハウスで合宿をやるよと言って始まった二人の生活は、そのまま、二人だけの合宿のようだった。だから、ぼくは終わりを考えざるを得なかった。意識に上らせないようにしても、この生活はずっと続くものではないと、どこかで考えていた。かのじょもそうだったろう。そういえば、なぜかのじょの名前が、怪獣姫ゴンなのか書いたかな。以前にも書いたように、かのじょはぼくのことを王子と呼んだ。ぼくのどこが王子なのかさっぱりわからないけど。呼ばれているうちにぼくもその気になった。それで、かのじょを、その前なんて呼んでいたのか忘れたけど、王子の連れ合いなのだから、きみは姫だ、でも、その前に、きみは人間じゃないよ、姫は姫でも、怪獣の姫だよ、だって、きみのほっぺはぷくんとペコちゃんのようにふくれているし、下あごが出ているし、人間のぼくはすぐに疲れるのに、寝る間も惜しんでフラメンコを踊ったり、パンを売ったり、勉強してるきみは人間の女の子には見えないよ、政略結婚なんだよ、わかる、姫?、これは政略結婚なんだよ、ぼくの王国がきみの怪獣王国に襲われないようにするために、ぼくは哀れにも怪獣姫をめとらされるんだ。姫ゴンはその物語を喜んだ。それでかのじょの名前は怪獣姫ゴンになった。
 いつだったか、ぼくはおもしろいことを考えた。大学を辞めた先輩にいい話を聞いたんだ。彼はあまりにも変わっていて、変わった人が多い早稲田の文学部でさえ浮いていた。現代音楽やなにか過激な音楽(よくわからないけど、その筋では有名らしいバンド)が好きで、写真が好きだった。こんな説明だけでは、彼はちっとも変わった人物ではないね。上に浮いていたと書いたけど、正確に言えば、彼は群れが嫌いだったんだ。大学という群れが。大学でも何でもいいけど、群れが嫌いなんだ。きっと、たぶん。本人に聞いた訳じゃないからわからないけど。ぼくは彼とNHKホールで初めて話した。ぼくは新入生だった。あるサークルで、N響のコンサートを聴きに来たのだった。ブラームスだったかな。休憩時間、彼は話しかけてきた。眼光が鋭く、というのは、ああいうのを言うんだろう、彼は人の心をのぞき込むかのように、人の目を見て、視線を動かさずに、話した。厚いめがねをしていたので、目が大きく見え、しかもやせこけているのでさらに際だち、目だけで生きているかのようだった。彼は第一声、きみはニーチェを読む、と聞いた。いきなりそんなことを言われてとまどった。ぼくは好きですと答えた。ぼくは変わり者の彼のことが好きになった。彼に誘われてぼくも写真をはじめた。彼の写真はよくわからなかった。彼に教えを請うても彼はなにも教えてくれなかった。教えるものなんてない、好きなように撮ればいいと言っていた。みんなで借りたぼろアパートで現像をした。ぼろアパートの窓にに黒いカーテンをしてさらにガムテープで光をふさいで暗室にしてあった。いろいろな機材が置いてあった。ひととおり現像の仕方を教わったけど、いまは忘れた。彼の好きな写真家の本を見せてもらった。やはりぼくにはなんのことかわからなかった。彼は当時写真家になりたかった。それで大学を辞めたのかと思ったら、そうではなかったらしい。辞めたあと聞いたら、このところ写真は撮っていないと言っていた。彼は結婚した。教育学部教育心理学科の女性と。彼女も大学を辞めた。大きなバイクで調布から学校に通っていた。彼女はそのバイクを自分でペンキで緑色に塗った。それがよほど気に入ったらしく誇らしげにぼくに見せた。刷毛の跡が残っていた。彼女は日活ロマンポルノが好きだった。彼と彼女とぼくとぼくの友達4人で、池袋の昔の文芸座に日活ロマンポルノのオールナイトを見に行った。彼女はぼくのことが少し好きだった。ぼくと彼とが一緒に出ていた授業に、そのバイクでわざわざ来た。その授業が聞きたいという名目で。そのあと、喫茶店に行った。二人は仲良しだったけど、まだ付き合っていなかった。たぶん。彼女がぼくに好意を示すので、彼はやきもちを焼いた。彼にそういう面があって、ぼくはうれしかった。彼は少し感情にかけるところがあるように見えたから。ぼくは二人のことが大好きだった。そのあといつからか二人は同棲を始めた。そして結婚した。その知らせを聞いたときぼくはとてもうれしかった。
 話を元に戻すと、要町のマンションに住んでいた二人は、都営団地に引っ越した。あゆみブックスでたまたま会った彼に聞いた。学校を辞めたのに、なぜ早稲田にいるのか不思議に思って、どこに住んでいるんですか、と尋ねた。早稲田の近くの都営住宅にいるとのことだった。家賃を聞いてびっくりした。家賃は収入で決まるのだそうだ。ちょっと高いラブホテル一泊分くらいの金額だった。そのことを帰ってすぐにぼくは姫ゴンに話した。ぼくたちも都営住宅に住もう、インターネットで調べたけど、東京都のページにはたいしたことが書いていなかった。それでぼくは都庁に行くことにした。ついでに都庁の見学をした。近くに住んでいるのに、一回も来たことがなかった。展望フロアーまで通された。人の波にくっついていったらいつの間にか展望フロアーにいたという感じだった。あいにく天気はあまりよくなかった。それでも、あちこち、二人の知っている場所を、探してみたりして、おもしろかった。姫ゴンはこれで都庁に来た目的を達した風にぼくに思わせたかった。都営住宅課に行くなんてかのじょには恐ろしいことだった。都営住宅に住むということはその前提として結婚しなければならなかったからだ。でも、ぼくは行こうとして、案内係の人に、都営住宅について聞くにはどこに行けばいいのか聞いた。都庁は大きく、その場所は遠かった。途中何回も彼女は行くのをやめようよといった。なんで?なんで、そんなにびくびくしてるの、行くよ。かのじょは身の置き場がないように恥ずかしがり、かわいかった。たぶんかのじょはぼくたちの行為が、白日の下のものになるような気がして、恥ずかしがっていたんだ。かのじょはぼくたちの合宿が、遊びでなくなるのが怖かったのか。都の職員はぼくたちの身分を聞いて、びっくりしていた。あなたは来年卒業なさると思いますが、就職先などお決まりですか、と聞かれた。いえ、ぼくは卒業しません、いつ卒業できるか、わかりません、もちろん就職先など決まっていません、ぼくたちは学生結婚するんです。もう姫ゴンはてんてこ舞いになっていた。恥ずかしくてどうしようもない風だった。職員は、ちょっとお待ちください、と奥に行った。上司かなにかと話していた。学生で住めないという決まりはないようです、応募できますよ、と、しばらく後に帰ってきて言った。ただ残念なことに今年の応募は先週で終わりました。今年の要項を差し上げますから、検討して、また来年いらしてください。郵送でも申し込めますが。
 もうちょっと早く知っていたら、ぼくは間違いなく応募していただろう。姫ゴンは一安心したようだが、ぼくは悔しくってどうしようもなかった。それで来年どこに応募するか一所懸命研究した。どこに応募するかで倍率が全く違う。当然都心に来れば来るほど倍率は高い。麻布だか青山だかは、宝くじのような数字だった。



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