有限日記
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ソーシャルアパートメント(シェアハウスという名称が、今の生活形態に合っていないと個人的には思っているのでこっちの名称で呼ばせて頂く)の生活もはや3カ月目に突入し、住民とも知り合いになり、至極快適な生活を送っている。そんな中、4,5年前にセミナーに参加したコレクティブハウジング社のセミナー内容に非常に興味を惹かれたので、今日参加してきた。今回のセミナーの内容が、障害者と健常者(この言葉の使い方も私は好きではないが、お許し頂きたい)が共に生活している「ぱれっとの家、いこっと」だったからである。そんな家は聞いたことがない!というので、早速飛びついた。ここは特定非営利活動法人ぱれっと、が発起人となって実施している。この「ぱれっと」という団体は、障害をもった人への余暇でのイベント開催や、福祉作業所の運営、はては恵比寿で障害者・外国人・健常者が共に働くことのできるレストランまで運営しているのだ!今回初めて知ったが、なんとも驚いた。ただ今日も色々話していく中で、「何でも障害者だけで集まる」のはおかしい。と言われハッとした。自分の生活を見ても、確かに日々生活を送る中で障害者と接する機会はほとんどない。平日も休日も。学校にしてもそうだ。学生時代や教職実習中に福祉学校に行ったりはしたが、自分の学校には(私立ということもあるのかもしれないが。。)一人もいなかった。もちろん障害者と言っても、その状態は人様々で、日常の生活も自分でままならない重度の障害を持つ人は、施設などに入らざるをえないのかもしれないが、軽度の知的障害など、日常生活や仕事をこなす人であっても、やはり実家などに住む家は限られてしまうのが現状なのだそうだ。『障害を持つ人にはケアをしてくれる人が必要』という固定概念がある日本の福祉の在り方を変えようとアクションを起こされたのが、今回のぱれっとの家、いこっとだったらしい。米国では障害があっても一人暮らしができる環境があるという。障害があっても自立できるために補佐するサービスがあるから自立できる。そのサービスが日本には全くない。私の尊敬するジャーナリスト、千葉敦子さんはもう既に他界されているけれども、ガンの再発を抱えながら渡米したが、彼女も著書の中で、かなりガンが進行していても、NYでは自宅で暮らせる環境が整っている、と書いていた。しかもその私の愛読書は私が生まれた年に書かれたものだから、既に約30年前に!!である。死に近づく生活の中で、彼女が訴えた、病人であっても一人の人間であり、その「人間としての暮らし」が死ぬ時まで尊重されるアメリカ、その一方である程度病気が進行して、入院してしまえば、後は死を待つだけになりがちな日本、その根底にある問題というのは今なお、医療の問題でも、そしてこういった福祉の面でも結局そんなに成長していないのではあるまいか、と改めてぞっとした。今回の障害者が一人でも生きられる家、というのは一人の人としての「自立」を目指している。思い返せば、私も教員研修で2週間ほど養護学校に毎日通っていたが、日本の養護学校の場合、すべてが生徒一人一人の意思でなく、周りの判断で決まっている気がする。(もちろん普通の学校もある程度はそうかもしれないが)常に、次はあれ、その次はこれをやって、あっ○○ちゃん、これはやっちゃだめよ、と。常にケアしてくれる人がいる、ということが前提の障害者、という見方は、そう簡単には変わりにくい。そして何よりも、この自立を一番阻んでいるのが、悲しいかな親であったりもし、このいこっとを建てる際に、親から出てくる発言は最初、不安や心配ばかりだったという。「こういう場合はどうしたらいいのか」など。それが話し合いを重ねるうちに、主催のぱれっとのスタッフや住居人となる人たちとのお互いの信頼関係が築かれ、そのうち「一緒に考えていこう」という考え方にシフトしていったらしい。(ちなみにミーティングは全部合わせると20回以上)今の家に住むようになって、私自身も感じるようになったことだけれども、この「人との信頼」というのは大きい。相手をよく知らない状態で、自分が静かにしていたい時などに騒がれたりすると、非常にイラッとするが、相手を知っていると「ああ、また騒いでるな。何か面白いことでもあったのかな」と感じ方も変わってくるし、相当ひどければさっさと注意でもしに行こうとでも思うのがオチだ。こういった人間の壁、ことにいこっとでは障害を持つ人とそうでない人の垣根を取り払うべく作られている。実際、トラブルにおいて「障害があるからこういうトラブルが起こった」というのは聞いた限りではなく、結局は人なんじゃん、とちょっとそこで笑ってしまう。少し社会は物事を深刻に考えすぎではないか。石橋を叩いて渡る性質が根強いのと、そうであるのは決して悪いとは思わないが、もう少し頭を柔らかくしてみようよ、とも思ってしまう。今日の話を聞いて、同様に病人や老人が一人の人間として生きられる環境、というものをこういった居住の問題から解決できないだろうか。ひいてはそこに、都市圏ではなく地方圏の地域活性化の糸口を見つけられないか。現在、目下大学院の受験勉強中だが、都市工学を学んでいく上で、この集合住宅という切り口を、さらにうまく活用していけないものかと頭を悩ませる今日この頃なのである。
2010年06月12日