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通夜の準備は、すでに大半が整えられていた。 家の中には数人の親族と、近隣の住人と思しき人間が集まっていたが、どこか奇妙な静けさがあった。通常、この手の場には抑制されたざわめきが伴うものだが、ここではそれすら希薄だった。話し声はあるにはあるが、音量が極端に低く、壁や天井に吸い込まれるように消えていく。 敏昌が靴を脱いで上がると、すぐに母が現れた。 以前よりも痩せた印象を受ける。頬の肉が落ち、笑みを浮かべているにもかかわらず、その口元は妙に引きつって見えた。目元には深い皺が刻まれているが、その奥の瞳には光が乏しい。 「来たのね」 声はかすれていた。疲労のせいとも取れるが、それだけではない違和感が残る。感情の抑揚が、不自然に削ぎ落とされているように感じられた。 「急で悪かったわね。向こう、案内するから」 母に促され、敏昌は奥の座敷へと通された。そこには白木の棺が据えられ、祖父が横たわっている。 顔には白布がかけられていたが、輪郭からしてかなり痩せ細っていたことがわかる。線香の煙がゆらゆらと立ち上り、室内に重たい匂いを充満させていた。 親族の一人が軽く会釈をする。敏昌も同様に応じたが、それ以上の会話は続かなかった。 やがて、視線が妙に集まっていることに気づく。 親族だけではない。手伝いに来ているはずの近隣住民たちも、何かを測るような目でこちらを見ていた。視線が合うと、彼らは一様にゆっくりと目を逸らす。その動きが、どこか機械的で揃いすぎている。 違和感の正体は掴めないまま、時間だけが経過していった。 日が落ちるにつれ、さらに人が集まってくる。しかし不思議なことに、増えた人数に比例して音は増えない。むしろ逆に、空間全体が沈み込むように静まり返っていく。 外が暗くなり始めた頃だった。 ふと、誰かが立ち上がる気配がした。 見ると、近隣の老人らしき男が、無言で玄関の方へ向かっている。背は低く、腰は大きく曲がっている。着ている作務衣は色褪せ、ところどころ擦り切れていた。 その顔を見たとき、敏昌は思わず目を止めた。 皮膚は乾ききっており、深い皺が幾重にも刻まれている。その皺の隙間に、まるで影のような黒ずみが溜まっていた。口はわずかに開き、黄色く濁った歯が何本か覗いている。唇は乾いてひび割れ、そこから微かに湿った音が漏れていた。 だが最も異様だったのは、目だった。 白濁した眼球の奥に、妙に濡れた光沢がある。焦点が合っていないようでいて、確かに何かを見据えている。その視線が、一瞬だけ敏昌に向けられた。 見られた、という感覚が遅れてやってくる。 老人は何も言わず、ただ口角をわずかに引き上げた。それが笑みであると理解するまでに、数秒を要した。 そしてそのまま、音もなく外へ出ていった。 「……あの人は?」 思わず母に尋ねる。 母は一瞬だけ言葉を探すように視線を泳がせ、それから小さく答えた。 「近所の人よ。……夜になると、みんな早く帰るの」 「まだそんな時間じゃないだろ」 窓の外を見やる。確かに暗くはなっているが、完全な夜というには早い。都市部であれば、まだ活動している時間帯だ。 しかし、母はそれ以上何も言わなかった。 それどころか、周囲の人間たちも同様に、どこか落ち着きを失い始めているように見えた。手元の作業は続けているが、意識がそちらに向いていない。耳を澄ませているような、何かを待っているような気配がある。 やがて、一人、また一人と席を立ち始めた。 誰も挨拶をしない。ただ、互いに視線を交わすだけで、静かに家を出ていく。その動きは先ほどの老人と同じく、どこか統制されているようだった。 気づけば、室内に残っているのは親族だけになっていた。 「……妙だな」 思わず口に出す。 すると、隣に座っていた中年の女性――叔母にあたる人物が、ぎこちなく笑った。 「ここはね、そういうところなのよ」 「そういうって?」 問い返すと、叔母は一瞬だけ口を閉ざした。唇が小刻みに震えている。 「夜は、外に出ないのが決まりなの」 「決まり?」 「昔から……そう決まってるの」 それだけ言うと、叔母はそれ以上の説明を拒むように俯いた。 室内に再び沈黙が落ちる。 そのときだった。 ――とん、と。 微かな音が、廊下の奥から響いた。 木を叩くような、乾いた音。 敏昌は反射的に顔を上げる。他の人間も同様だったが、誰一人として声を上げない。ただ、全員が同じ方向を見ている。 ――とん。 もう一度。 今度は、先ほどよりもわずかに近い位置から聞こえた。 廊下の先は、暗闇に沈んでいる。照明はついているはずだが、その光が届いていないかのように、そこだけが黒く塗りつぶされていた。 「……何だ?」 「気にしなくていいわ」 そう言いながら、母は廊下の方へ歩いていく。 止めるべきか、一瞬迷う。 しかし、身体が動かなかった。 母の背中が、暗闇に近づいていく。 そのとき―― 「……おいで」 かすかな声が、確かに聞こえた。 性別も年齢も判然としない、湿った声。 耳元で囁かれたように近い。 敏昌は思わず振り返るが、そこには誰もいない。 再び前を見ると、母の姿はすでに廊下の奥へと消えていた。 残された空間は、異様なほど静まり返っている。 外からは虫の音ひとつ聞こえない。 まるで、この村全体が呼吸を止めているかのようだった。
2026.04.22
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祖父の訃報を受け取ったのは、平日の夕刻であった。 業務を終えた直後、私用の端末に入った一本の連絡が、その日の予定をすべて無意味なものへと変えた。 差出人は母である。簡潔な文面だった。 「祖父が亡くなりました。通夜と葬儀の日程は追って連絡します。都合がつくなら帰ってきなさい」 それだけであった。 川平敏昌は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。 祖父――母方の父にあたる人物とは、幼少期に何度か顔を合わせた記憶がある程度で、近年はほとんど交流がなかった。だが、まったくの無関係とも言い切れない距離感が、かえって判断を鈍らせる。 帰るべきか否か。 逡巡は長く続かなかった。結論としては、帰る以外に選択肢はなかった。 もともと川平家は、佐賀県内の地方に根を持つ家系である。父は転勤の多い職に就いており、敏昌は幼少期から都市部で育った。一方、母は生家との繋がりを断たず、年に数度は帰省していたが、敏昌自身は成長とともにその機会を減らしていった。 結果として、故郷と呼べる場所はあっても、そこに生活の実感はほとんど残っていない。 翌日、必要最低限の荷物をまとめ、移動の手配を整えた。 有給の申請は簡単に通った。理由が理由である以上、職場も深入りはしない。 移動は鉄道とバスを乗り継ぐ形になる。 都市部から離れるにつれて、景色は次第に単調なものへと変わっていった。整備された道路、規則的に並ぶ建物は減り、代わりに山と田畑が視界を占めるようになる。 記憶の底にある風景と、大きくは違わない。 だが、どこか輪郭が曖昧に感じられた。 最寄りの停留所でバスを降りた時、周囲にはほとんど人影がなかった。 時刻はまだ夕方に差し掛かる程度であるにもかかわらず、生活音の類が極端に少ない。 舗装の荒い道を進む。 やがて、見覚えのある家屋が点在し始めた。 ここが、母の生まれ育った村である。 川平敏昌は立ち止まり、周囲を見渡した。 変わっていないはずの風景に、説明のつかない違和感が混じっている。 理由は判然としない。 ただ、何かが欠けているような感覚だけが残る。 しばらくして、母の実家にあたる家屋の前へと辿り着いた。 門は開いたままで、玄関先には白い布が掛けられている。すでに通夜の準備が進められていることがわかった。 戸口の向こうに、人の気配がある。 川平敏昌は一度だけ深く息を吸い、静かに足を踏み入れた。
2026.04.07
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