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年末に娘がベルリンから帰ってきた。オランダの日本食レストランを予約していたが、ロックダウンになり、だめになった。クリスマスイブ、家での食事は寂しいので、多くのオランダ人がしているようにベルギーまで出かけることにした。車を飛ばしていけば、1時間半位で着く。車の運転は好きなので、全く問題ない。オランダで生活しているメリットは車でヨーロッパ内の各国を回れることだ。2020年の夏はスイス、フランスの南の旅に出た。2021年の夏は車でのスペイン周遊だった。久しぶりのアントワープの街。街の名の由来となる像(Handwerpen(Hand手+Werpen投げる))がある市庁舎前広場は多くの人で賑わっていた。レストランは日本食。ベルギーで活躍している日本人サッカー選手がよく来るようだ。
Jan 10, 2022
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オランダはロックダウンが続く。隣の国のドイツ、ベルギーもオランダと同じほどのコロナ感染者数だが、オランダ政府とは違い、経済を止めることはしない。そんなことで、お城好きな俺はドイツのワルデック城Schloss Waldeckに宿泊。ホテルをお城にしているところは多いが、ここも雰囲気、眺めは最高だった。
Jan 9, 2022
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年末、アムステルダムの街中に住む友人宅でカラオケ忘年会。久しぶりのアムステルダムで心も弾む。友人宅への道すがら、このロックダウン最中にコーヒーショップがオープンしていた。オランダのコーヒーショップとはソフトドラッグ(マリフアナ等)の店だ。バー、レストランが閉鎖し、スーパー等の生活必需品を販売している店だけがオープンしている。ある人たちにとっては必要品なのだろう。
Jan 9, 2022
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https://plaza.rakuten.co.jp/kaznyams/diary/201801080000/
Jan 9, 2022
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大学時代の友人からメール。悲しい出来事だった。大学時代の遊び仲間のひとりが亡くなったとの連絡が入った。大学時代、勉強はそこそこで、アルバイト、遊びに精を出していた仲間のひとりだ。カリフオルニア・バークレー大のミニ留学も一緒に行った。懐かしい楽しかったメモリーのひとときだった。そのときの写真を見つけて、そのときの日本とはかけ離れたあこがれのカリフオルニアのひとときの生活を思い出した。赤いレンターカーを飛ばして、しばしばサンフランシスコの街にバークレーからベイブリッジを渡って出かけて行った。彼が運転していた時、高速道路をジグザクに走って警察官に停められたことがあった。ヨセミテ国立公園、タホ湖、リノの街にもレンタカーで遊びに行った。リノの街で車のキーを中に入れてドアを閉めてしまってみんなで悪戦苦闘したこともあった。大変なこともあったけど、いい思い出ばかりだ。そんな楽しい時を一緒に過ごした彼がこの世から早過ぎて消えた。最後に彼と会ったのは俺が日本一時帰国の際、吉祥寺の居酒屋で仲間たちと会った7年前のことだった。月日はあっという間に過ぎた。大学時代遊びとアルバイトに精を出した彼は都市銀行の専務取締役、地方銀行の頭取まで勤めた男だった。
Nov 28, 2015
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いよいよブダペストだ。今回の旅の主な目的は、ブダペストハーフマラソン出場だった。しかし、いっこうに足の痛みがとれる見込みはない、いまだにびっこをひいている状態だった。自分は走れなかったが、走っているランナーたちを見るのは感動で楽しかった。まあ、一度も訪づれたことがなかった街で温泉があるというので、走れなくても楽しみだった。ホテルはレース会場、スタート・ゴールがある公園のそばにとった。ブダペストはヨーロッパでも最も美しい街の一つだ。ヨーロッパの街はどこも素晴らしいが、中東欧の街はどこも中世の街並みを残している素敵な街だ。ブダペストの名はドナウ川を挟んだブダとペスト、2つの町の名を組み合わせて誕生した。大きなドナウ川が流れ、ブダ側は高台にブダ城があり、ペスト側に街並みが広がる。ペスト側の大きなアンドラーシ通りを行くと、英雄広場に突き当たる。ホテルはそのそばだった。アンドラーシ通りの地下には、ロンドン地下鉄に次いで世界で2番目に古い地下鉄があった。今回何度もお世話になった地下鉄だった。
Nov 8, 2015
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ウイーンから次に向かったところはザルツブルグだ。この街に来たのも初めてだった。宿泊先は街の郊外にとり、バスで街の中心に行き、主な見どころを回った。この街の中心をザルツァッハ川が流れ、ツェントルムと呼ばれる旧市街と、川の東側に位置する新市街とに分かれる。新市街には1606年に建てられたミラベル宮殿と庭園。映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台となった場所だ。その他、州立劇場、聖アンドレ寺院等がある。マカルト小橋かシュターツ橋を渡って旧市街へ入ると、モーツァルトの生家、中世のままの雰囲気の街並みが楽しめる。旧市街にはレジデンツ(ザルツブルクを支配していた大司教の住居)、レジデンツの東には2つの塔を持つドーム(大聖堂)がある。レジデンツ広場、さらにモーツァルト広場と続く。ドームの南側には、大きなサンクト・ペーター寺院、高台にはホーエンザルツブルク城がある。ケーブルカーに乗り、この城へ行くと、素晴らしい眺望が広がっている。遠くには頭を雪でかぶったウンタースベルク山が綺麗に見渡せる。このザルツブルク旧市街のはユネスコ世界遺産だ。
Oct 28, 2015
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せっかく治した右かかと痛み、10月18日のアムステルダムハーフマラソンの後無理した練習のせいか、また以前の痛みが再発してしまった。歩くのもしんどく、びっこをひいた状態だ。全く情けない。前回は9月に痛めた。9月13日にブダペストハーフマラソンを走ることを半年前から決め、ホテル等準備し、楽しみにいた。ブダペストに行く途中と帰りに訪づれたことのない場所に寄って行こうと思った車の旅だ。出発の前の日曜日に日本人コミュニテイのテニス大会で頑張りすぎ、足を痛めてしまった。当日は大丈夫だったのだが、翌日から右足かかとの痛みがひどく、満足に歩けない状態になった。そんな状態でも旅とブダペストハーフマラソンを諦めるわけにはいかない。自宅出発の朝、ホームドクターに立ち寄り、処方箋をもらって薬を購入しておいた。愛車で一気にウイーンまで進んだ。874kmの行程だった。ドイツ高速道路では相変わらず、ドイツ車が飛ばしている。ウイーンは何度も通過したことがあるが、宿泊は初めてだ。翌日午前中はマリエン広場、新市庁舎、レジデンツ宮殿等を見学。次の行先はここも初めてのザルツブルクだ。
Oct 26, 2015
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2011年のあの奇妙な事故。やっぱり、おかしかった。仙台育英高・トヨタ自動車九州で育ち、北京オリンピック男子マラソンで優勝したサムエル・ワンジル選手。自宅2階のバルコニーから転落死したあの不思議な死亡事故の件だ。あのときから何かあったと思っていた。やっぱりそうだったのだろう。以下は日刊スポーツ(2015年2月11日)の記事。ワンジル選手 鈍器で頭部を殴られ死亡か亡くなったサムエル・ワンジル氏(写真は2008年11月28日)亡くなったサムエル・ワンジル氏(写真は2008年11月28日) 2011年5月に母国ケニアの自宅で死亡した男子マラソンの08年北京五輪覇者、サムエル・ワンジル選手について同国政府の病理医が10日、自殺ではなく鈍器で頭部を殴られた後に亡くなったとの見解を明らかにした。AP通信が報じた。宮城・仙台育英高に留学して日本にも縁が深かったワンジル選手は当時、地元警察の話として自宅で女性と一緒にいるところを妻に見つかり、口論の後にバルコニーから飛び降りて転落死したなどと伝えられていた。病理医は転落だけでは死因となった頭の傷は負わないと主張し、何者かに地面に落とされた後に殴られた可能性が高いと指摘した。
Feb 13, 2015
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今日は最低の日だった。ナイメーヘン7つの丘15kmレースの日だ。この大会には毎年名城大女子選手が出場し、好成績を収めている。オランダでも人気の大会で参加者はどんどん増えている。雨天の冴えない天気だったが、走り始めれば問題ない。最初からいい調子では進んだが、最初の登りで足を使ってしまい、4km地点で疲れた。なさけないことに棄権したくなった。しかし、同じ道をゼッケンはずして戻るのもしゃくなので、そのまま惰性で走り続け、最後は下りが主なので、気持ちよく走り終えることができた。最低の一つ目は家からライデン駅方面の道が通行止めだった。何とか行こうとするが、やはり行き止まり。高速道路を何とデン・ハーグ方面まで行かざるを得なくなり、そして折り返して来る。結局20km近く多く走る羽目になった。そして、不運にも高速道路をライデン方面に戻るとき、石がフロントガラスにあたり、大きな音が。まずいと思ってみると、やはりフロントガラスにひびが入っていた。ひびはどんどん拡大してくる。二つ目は今回ラッキーなことにナイメーヘンのレース会場のすぐそばに駐車できたのだ。いつもは、100m位離れたところだ。ところが、着替え後荷物を車に置きに行くと、隣に車を停めた人が俺に近づいてきて、12時から18時まで有料ではないかと言う。俺が自分でもチエックすると、やはり有料だった。結局13ユーロ程払う羽目になった。最後は打ち上げが終わり帰ろうと、側道から出て車を走らせると、どうもパトカーが後ろに着いているようだ。何があったのかと車を停めると、ものすごい怖い顔した警察官が近づいてきて信号無視だと言い、免許証を出せと言う。最近こんな時はいつも不思議なことに落ち着いている。冷静にカードを出すと、もう一度免許証を出せと言う。どうもどうも滞在許可証を出してしまったようだ。2つのカードは同じような色をしていて、暗い中では見分けがつかない。警察官はじっとカードを見て、どこに行くのだと聞く。ライデンの方だと言うと、気をつけてくださいと。ラッキーなことにどうも見逃してくれたようだ。Uターンをしようとすると、ここは一方通行だと言い、帰り道を親切に教えてくれた。最低の日だったが、最後に福が来た。どうも完走メダルを首にかけていたのが功を制したようだ。
Nov 16, 2014
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前の会社で大変お世話になった先輩がオランダにやってきた。先輩は会社を定年で退社し、優雅な生活を送っている。合唱団に所属し、日本だけではなく、ヨーロッパ・アメリカ遠征を行い、歌を楽しんでいる。そういえば、先輩に仕事後、カラオケにしばしば連れて行ってもらった。カラオケで鍛えたのどが役にたっているようだ。今回はイタリアのバチカン市国で歌を歌い、その後気の合う人たちとオランダに寄ってくれた。4日間のオランダ旅行だ。さすがに、最近多忙な俺はすべて休暇をとって一緒に行動することができなかったので、友人にツアーガイドを頼んだ。デルフト、デン・ハーグツアーに付き合った。何度も行っている小さな街だが、落ち着いたとても素敵な街だ。夜の食事はほぼ毎日一緒にとった。先輩一行は今回の旅を喜んでくれた。うれしいことだった。
Nov 3, 2014
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だいぶ、ご無沙汰してしまった。不思議なもので、ブログをまめにアップしているときは、少しでも間を空けると気になったものだが、アップしなくなると、別にどうも思わなくなる。最近はフエイスブックの方が、写真を載せて簡単なコメントを書くだけだから手軽なので、そっちにどうしても行ってしまった。でもまた何となくブログが恋しくなった。そしてまた戻ってきた。さて、昨日は特別なデイナー・晩だった。前に俺が勤めていた会社がオーガナイズした。3コースデイナーなのだが、スターター・メインデイッシュ・デザートをすべて別々のレストランでとる。デイナーの梯子というやつだ。しかもレストラン間の移動は船だ。アムステルダムの運河クルーズだ。こんなしゃれたことを考えるのは、やっぱりオランダ人だ。ボートからの久しぶりのアムステルダム街中の夜景を楽しんだ。
Oct 18, 2014
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緑美しい街並みの中を進む。ドイツの北部に位置し、エルベ川河口から約100kmほど入った港湾都市、ハンブルグで行われたマラソンに3年前のリベンジとして参加した。3年前スキーで肋骨を痛め、痛みがとれないまま参加した。案の定、途中苦しみがやってきて、20km地点で走るのを止めた。アルスター湖のほとりを走り、そこから住宅地に入ったところだった。ロッテルダムマラソンの完走の3週間後。何とか完走したかった。ゆっくり、ゆっくり足を進める。歓楽街として有名なレーバーバーン、観光客で賑わう貿易湾の横を通過し、アルスター湖を回る。コースの多くが緑豊かな高級住宅地だった。30kmを過ぎて、足が重くなり、昔痛めた左足首の痛みが若干出てきた。でも足は強かった。何とかゴール近くまでやってきた。ゴール間際の多くの人たちの応援はうれしかった。そして、若干スピードを上げてゴールした。今回もまた「マラソンは感動だった」。
May 11, 2014
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「頑張らない、無理しない、でも続ける」これが、俺のモットーだ。今回のロッテルダムマラソンはこれを地で行った。記録は昔を考えると決して良くなかったが、でも満足のマラソン完走だった。最初からゆっくり入った。ほぼイーブンペースで進んだ。給水でドリンクを飲んだとき以外は走り続けた。とっても気持ち良い春のマラソン完走だった。そんな満足なマラソンだったが、レース前の健康状態は最悪だった。レース2週間ほど前に、クレージーな、でもとっても楽しい会社スキーツアーに参加した。壮大な雪山を見たかったことと、年に1度は爽快なスキーを楽しみたかったからだ。また、年に1度もスキーをしていないと今後2度とスキーをできなくなると心配だったからだ。いつものように車中2泊、ホテル3泊だ。バスに乗るなり、オランダ人はがんがんとビール、ワインを飲んでいる。行き先は過去にも行ったことがあるイタリアのドレミテだった。現地では昼はスキーをがんがんと滑り、夜は宴会で盛りあがる。俺も負けずと、5km以上をノンストップスキーだ。いくつものゲレンデを通過する。エンドシーズンでゲレンデはすいていて、最高のスキー環境だ。ただ、朝はアイスイー、午後遅くは雪がソフトになり滑りにくい。5km以上をノンストップですべり続け、だんだん膝が笑い、腿がしんどくなってくる。そんなとき、無理にスキー板をくっつけようとし続け、ソフトな雪にひっかかり、体が吹っ飛んだ。またやってしまった。肋骨を多少痛めた瞬間だ。そして、スキーツアーから戻り腹を壊していた。他の多くの人も体調を崩していたので、何か悪い食べ物でもあったのだろうか。車中2泊、不十分な睡眠で疲労困憊だったので、容易に菌は俺の体を痛み続けたのだろう。ほぼ丸2日ベッドで過ごし、満足な食事がとれなかった。ロッテルダムマラソンの1週間前には何とか回復したが、練習も満足にできず、最悪な状態だったのだ。そんな状態でのレース。俺にとって、この完走は本当に満足できるものだったのだ。
Apr 18, 2014
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多忙な3月下旬に、オランダのデン・ハーグで核安全保障サミットNuclear Security Summitが開かれた。オランダにとって、何事もなく無事終えることが絶対的な任務だった。セキュリテイは物々しかった。スキポール空港からのデン・ハーグへの高速道路は閉鎖と一部通行制限。高速道路脇の木々は切り倒され、セキュリテイを考慮し、見晴らしが良くなっている。そんなことで、オランダ人から該当日は自宅待機し自宅で仕事するようアドバイスを受けた。1日はそれを守り、もう1日はどうしても外出せざるを得ず、会社訪問後は遠回りして会社へ出勤。会社が終わり自宅へ戻ろうとすると、案の定、厳戒態勢。なかなか高速道路に乗れず、一般道路を走ると、要所要所に戦車が停留し軍隊が乗り辺りを見張っている。そんな中、米国オバマ大統領は会議当日の朝、専用飛行機でオランダにやってきた。スキポール空港に着くやいなや、ヘリコプターでアムステルダム国立美術館があるミュージアム広場に着陸。着陸すると、ヘリコプターに横づけされた車に乗り、たった2~3百メートル離れた国立美術館へ。オランダのルッテ首相が国立美術館で出迎え。スキポール空港では外相が出迎え、オバマ大統領から「I love your country」と言われ、早速の自分のFacebookで紹介。オランダにとって、米国はやっぱり特別な存在なのだ。本番の会議ではオバマ大統領と日本の安部首相は隣同士だった。ところで、余談として、オバマ大統領を守る大統領警護隊(シークレットサービス)の隊員3人が大統領が現地入りする前日にアムステルダムで泥酔し、ホテル内で酔いつぶれ、帰国と休職を命じられた。警護隊は2012年4月にもコロンビアで買春スキャンダルを起こしていた。
Apr 8, 2014
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3月はソポトでの国際室内陸上の後は、公私共に多忙だった。そんな3月はバレエ、コンサート、サーカスを仲間と楽しんだ。バレエは「真夏の夜の夢と火の鳥」、コンサートはアムステルダムのコンサルトヘボウで映画音楽コンサート。シンドラーズリスト、スターウーズ、ゴッドフアーザー等々の名曲が次々と演奏される。演奏はランニング仲間の友人バイオリニストが属するオーケストラが担当。サーカスは日本でも有名なシルクド・ソレイユCirqe du Soleil。アヤックス・サッカー場近くの巨大駐車場にテントをはって開催。今回の演目は「コーザKooza」。次々とミラクルな技で観衆を感動させてくれる。
Apr 6, 2014
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先日の世界室内陸上開催地、ソポトSopot。バルト海のリゾート地として、夏は多くの観光客がポーランドだけではなく、ヨーロッパ各地からやってくる。ヨーロッパ最大規模の「ソポト国際音楽フェスティバル」が夏に開催される。ヨーロッパで最大かつ最長の木造ピア、Moloがあり、世界室内陸上期間中、ポーランド人に案内してもらった。当日は天気も良く多くのひとたちで賑わっていた。そして、街中には曲がった家Krzywy Domekがあった。朝ジョギングの途中で寄ってこの建物の中のカフエで休憩。ソポトの東は、ポーランド最大の港湾都市クダンスクKdanskがあり、ソポトから電車に乗って訪問した。古い街並みが残る都市だ。ドウガ通りにはハンザ同盟で栄えた裕福な商人たちの家が並ぶ。市庁舎Ratusz Głównego Miastaもあった。現在は歴史博物館だ。ドウギ通りには、緑の門Zielona Bramaがあった。昔このそばに緑がかった色の橋があったことからこの名がつく。現在は自然博物館だ。マリア小路mariacka。ドウギ通りを一本中に入った、グダンスクの小町通り。バルト海名産の琥珀を扱う店が沢山並んでいた。
Mar 24, 2014
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今年3月はポーランド・ソポトで開催された世界室内陸上を観戦。昨年8月のモスクワ世界陸上の後、情報を知り、チケット・飛行機・ホテルを早々と手配していた。ソポトはバルト海のリゾート地。白い砂の美しいビーチが続き、夏には多くのリゾート客で賑わい、ヨーロッパ最大の歌謡音楽祭も開かれる。ポーランドのスポーツ選手育成の拠点でもある。早々と手配したホテルは、選手村のひとつだった。ブラジル・ニュージーランド・ウクライナ・南アフリカ等のチームの選手・コーチが宿泊していた。毎日の朝食はトップ選手・コーチたちと一緒。エレベータでトップ選手と一緒になり知り合いにもなった。夜のホテルのバーでは金メダルをとった選手を祝しチームで乾杯していた。そんなホテルに宿泊し世界室内陸上を観戦した。競技は、俺の注目、今年室内で1500m・3000m・2マイルと立て続けに世界新を打ち立てたエチオピアのゲンゼベ・デイババ選手が女子3000mでうれしい優勝。もう本物の超一流選手だ。女子5種目競技ではびっくりしたことに、オランダのナデイーン・ブローセンNadineBroersen選手が得意の走高飛びで1m93cmを跳び、優勝。昨年の世界陸上女子7種目競技で銅メダルのオランダのダフ・シッパーズ選手は60mに出場していた。室内陸上はトップ選手を間近で見ることができ、大いに楽んだ。
Mar 16, 2014
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やったぜ、ゲンゼベ・デイババ選手、おめでとう。いよいよ本物だ。2月1日、ドイツ・カールスルーエKarlsruheで行われた国際室内陸上女子1500mで、あの数々の戦績を持つテイルネッシュ・デイババ選手の妹、ゲンゼベ・デイババ選手が世界新達成。記録は何と屋外世界記録を上回る3分55秒17。ペースメーカーにぴったりとつき、ペースメーカーが抜けた後は一人旅。2位以下の後続に半周の差をつけてゴール(室内陸上は1周200m)。2年前から室内陸上で好成績を残しながら、2012年ロンドンオリンピック、2013年モスクワ世界陸上はまさかの惨敗だった。これで、世界の名だたるトップ選手の仲間入りだ。この素晴らしいレースを生で観戦し、写真を沢山撮ったのだが、残念なことに家に帰ってみると、多くの写真が消えていた。原因不明。この大会は、国際陸上連盟認定の国際室内陸上競技会で、以前から観戦したかったものだ。そして、やっと実現した。多くのトップ選手が参加した。女子3000mは、昨年11月にオランダ国籍をとった若干20歳のハッサンSifan Hassan選手(元はエチオピア)が8分45秒32で優勝(今年度室内最高)。ハッサン選手は俺も観戦した年末のブリュッセルクロスカントリー6km、そしてその前のBelgradeで行われたヨーロッパクロスカントリー選手権ジュニアの部でも優勝している伸び盛りの選手だ。今後の世界大会でも活躍することは間違いない。将来、5千m等でのゲンゼベ・デイババ選手(22歳)との争いが見ものだ。もうひとりのオランダの若きアスリートDafne Schippers(21歳)は60mダッシュに出場し予選2組トップ通過だったが、決勝は4位だった。2013年モスクワ世界陸上女子7種競技で銅メダルをとった伸び盛り、特に200mが強く、彼女もオランダの期待の星だ。
Feb 3, 2014
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今年も恒例のマラソン温泉合宿を開催した。場所はオランダ南、マーストリヒトの東フアルケンブルグValkenburgだ。合宿趣旨はいつも通り。・楽しく走る喜びを感じ・一杯飲んで食べて・サウナ、プール、ジャグジーをエンジョイし・メンバーの友好・懇親をさらに深め・健全な美しい肉体・精神をつくる。金曜日午後、土曜日午前・午後、日曜日午前の計4回の練習。土曜日はテルメ温泉を拠点に練習。トレイルラン練習も頻繁に。金曜日土曜日の夜は宴会。そして、ラン談義も。今回もとっても楽しい合宿だった。
Jan 31, 2014
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クリスマス前の週末は国際陸連認定のクロスカントリー大会がブリュッセルで行われることを知り、観戦を計画した。現在、家内は日本、娘はまだアメリカで(もうすぐオランダに帰ってくるが)、暇なので、クルスカントりー観戦前はどこかへ週末旅行をしたくなった。シュトウトガルトStuttgartのクリスマスマーケットを思い出し、近場ということでケルンKolnに行ってみた。ローマに支配された街だ。考えて見ると、ケルンへは、旅の途中で寄ったり、マラソンを走ったことはあったが、ゆっくりと街を歩いたことがなかった。街を散策してみると、高さ157mの尖塔をもつ大聖堂はやはり立派だった。クリスマスマーケットは、規模はシュトウトガルトより小さいが、大勢の人で賑わい、大聖堂を背景にカラフルで美しかった。グルーワインを飲みながらのクリスマスマーケット見学は楽しかった。ケルンマラソンのスタートは大聖堂側から橋を渡って、向こう岸からのスタートだったことを思い出した。翌日は、お気に入りのフアルケンブルグValkenburgだ。フアルケンブルグは洞窟のクリスマスマーケットとスパが人気で、街も人で賑わっていた。ケルンへ行く途中で立ち寄ったルーモンドのアウトレットで買ったトレイル用ランニングシューズを試すため、フアルケンブルグの丘をジョギングした。来年1月下旬の日系ランニングコミュニイテイのマラソン温泉合宿のために買っておいた。気温が10度近くあり、丘の一部コースはウエットなところがあり走りにくかったが、2時間20分強ほど、丘のアップダウンコースを気持ちよく気ままに走り回った。いつものお城、清流、湖にも行ってみた。やっぱり美しかった。そして、ブリュッセルで開催の本命クロスカントリー大会観戦。ジュニアの年齢別レースから、国際陸連公認シニアレース、マスターのレースと次々に行われていく。後半のシニア、マスターのレースの頃はコース上はぬかるみ。選手にとってはタフなレースとなった。シニア優勝者の賞金は2500ユーロだ。ケニア、エチオピアの選手たちも参加。そんな中、女子シニア6kmは11月のオランダ国籍をとったばかりの元エチオピアのシフアン・ハッセンSifan Hassan選手(若干20歳、一番最後の写真の一番右)が2週間前のU23ヨーロッパクロスカントリー選手権優勝に続き、ラスト200mで他選手を引き離し今大会も制した。彼女の夢は2016年リオでの1500m、5000mのダブルタイトル獲得。オランダ国籍で参加予定だ。
Dec 23, 2013
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スキポール空港から南西に30キロのオランダの北海の街、ワセナーWassenaar。俺が何度も住もうとトライしたあこがれの街。しかし、結局住めなかった。俺の娘が通ったアメリカンスクールがあり、アメリカを含め各国の駐在員が多く住み、本社は住居に多大な家賃補助をいとわない。そんなことで、このワセナーの住居の家賃は他地区と比較して、大した家ではないのに、隣町の家賃相場よりかなり高いのだ。俺は何軒かの家を見たが、結局あきらめ、近隣の町に住んでいるのだ。街の中心から北海方面に向かうと緑豊かな中に邸宅が並ぶ。現オランダ国王、ウィレム=アレクサンダーが皇太子時代、家族と住んでいた宮殿もある。その街の砂丘地帯で、クロスカントリーレースが行われた。会場はオランダでも有名なアミューズメント施設のDuinrellの中だった。そのレースに日系ランニングコミュニイテイの友人が参加した。レースが続いている俺は応援で参加した。しかし、応援してる間に俺も走りたくなった。そして、たった2ユーロの参加費をけちって、一部レースに参加した。
Dec 15, 2013
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何を間違ったのか、血迷ったのか、最近、ランニングレース出場が続いている。10月は、6日のブリュッセルハーフマラソンを皮切りに、20日のアムステルダムハーフマラソン、27日のフランクフルトマラソンだ。フランクフルトマラソンは久しぶりのうれしいフル完走だった。11月は、10日に自宅の隣町ズータミアーZoetermeerのローカルレース15km、17日にデイババ選手が参加し優勝した、また日本からも恒例の名城大学選手が参加した7つの丘SevenHills15km、24日はアイントフオーヘンの東、ヘルドロップGerdropのハーフ(無料の大会)。7つの丘レース前は名城大学監督とも話をする機会があった。12月は、1日のモンテフアーランド・ランMonterferlandRun15km。スタート、ゴールは美しいお城のそばだった。まあ15kmレースが多いのでダメージもなく、楽しんで走っている。昔痛めた左足首ももっているようで、問題なし、少しづつ、記録も昔ほどではないが、良くなっている。モンテフアーランド・ランは、レース前にベルリンマラソンで世界記録を出した、ウイルソン・キプサング選手と話をする機会があり、写真も一緒に撮ってもらった。何と、彼は2~3の日本語の単語を話したのだ。そしてとっても気さくで日本びいきだ。ブリュッセルの時もそうだったが、ケニア選手にとって、日本は特別な、あこがれの国のようだ。日本の実業団チームに加入して、活躍することがあこがれの選手も多いようだ。とにかく、「頑張らない、無理しない、でも続ける」をモットーにして楽しく走っている。
Dec 2, 2013
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やっぱり、マラソンは楽しかった。アムステルダムは午前中に11km地点の給水ボランテイアの後、午後ハーフマラソンを走っていたが、その1週間後、久しぶりのフルマラソン。俺はフランクフルトマラソンを完走した。左足首のけが以来、不調でフルマラソンを走る気力はなかった。たまに参加しても無理をしないで途中棄権をした。マラソン完走は2年前のイスタンブールマラソン以来だろう。フランクフルトはリベンジマラソンだ。3年前に申し込んで参加する予定が、家内のアキレス腱切断で急遽取りやめになった。あのドーム内のゴールの瞬間の感動・素晴らしい気分をいつかは味わいたかった。そして、この前の日曜日完走した。今の俺には記録は関係ない。大事なことはやり遂げることだ。今回もマラソン練習は完全ではなかった。最高で25km位しか走っていなかった。完走できるかの不安はあった。しかし、深くは考えなかった。とにかく参加することだ。ゆっくり走り始め、周りのランナーたちの人間模様を観察しながら、足を進めた。飛んでいるようなフオームの人、すり足で前へひたひたと進んでいる人。フオームは様々だった。さっき勢いよく俺を抜いて行った人が、10キロも進むと、疲れたのだろうか、足取りが重くなり、俺の目の前に見えてくる。フオームもペースも息遣いもばらばらだ。順調に走っていた人が重い足取りで歩いている。そうかと思うと、スムーズな足取りで元気に俺を抜くランナー。俺は無理はしない、マイペースで足を進めて着実に。色々なランナーたちだ。そんな俺の回りのランナーたちを眺めながら、ペースが遅くなっても手と足を動かし前へ進む。最初と最後は街中のジグザグコース。よくこんな曲がりくねったコースを設定したのかと驚き。そしてヨーロッパ特有の石畳。走りにくいの一言。終盤はものすごい強風。2時間6分台で優勝したケニア選手も最後はかなり記録を落としていた。そして、最後は感動のドーム内ゴール。少しはスピードを上げ、最後は若干手を横に広げ、感動のゴール。久しぶりのフルマラソン完走、目頭が熱くなった。記録は良くないが、満足のいくレースだった。今回、お忍びで行ったフランクフルトだったが、レース前にオランダ日本人ランニングコミュニテイの仲間とばったり会う。彼は転勤でフランクフルトに移っていた。レース後はイングリッシュパブでビールで乾杯。やっぱり、マラソンっていいなあーと思うもうひとつの瞬間だ。翌日はフランクフルト観光後、デユッセルドルフでラーメン食べて、オランダに戻った。
Oct 31, 2013
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先日の週末は会社の有志が企画したブリュッセルマラソンツアーに参加。アムステルダムオフイス、ロッテルダムオフイスへ集合し、バスで出発。ブリュッセルは何度も行っているところだったが、マラソンとなると、初めてだった。ブリュッセルは坂が多く、とてもマラソンコースには向いていなく、走る気にはなれなかったからだ。オランダ人のベルギーツアーと言えば、絶対かかせないのが、ビール工場見学。ローカルビール工場(今は博物館になっている)を見学し、変った味のビールを楽しんだ。レース前の食事はと言えば、金曜日はホテルそばのイタリアンレストランでパスタ、土曜日はグラン・パそばのシーフードレストランでパエリアと、満足。気温も割と高く、街中はどこも人で一杯だった。そして、パワーをとろうと、お馴染ワッフル。フリータイムはブリュッセル初めてというオランダ人と行動を共にしたため、俺も初めてブリュッセルで2階だて市内観光バスに乗った。席の前にあった案内説明(イヤホンを接続する)に日本語があると思いきや、聞いてみると、何と中国語。かっての日本語が中国語に乗っ取られたのだろう。マラソンの方は、俺は軟弱にもハーフマラソンに参加。最近はフルを走る気力も失せ、スピードはともかく、とにかく楽しんで走ることをモットーにしている。ゴール地点はフルもハーフも何とベルギー人のこだわりか、グランパLa Grand Placeという最高の演出。アップダウンと石畳の多さにうんざりだったが、観衆の応援、周りの景色の素晴らしさに感激。ゴール付近はものすごい人だかりだった。スタート地点のホテルに宿泊したが、フルの優勝者サムソン・キプトウ・ブンゲイSamson KIPTOO BUNGEI選手とペースメーカー(皆ケニア人)もそこに宿泊していて、彼らと話す機会も持った。日本にかって住み、オリンピック、世界陸上で活躍したワンジル、ワキオリ選手はもちろん、川内選手のことも知っていた。とても充実した楽しい週末だった。
Oct 8, 2013
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多忙な週末だった。金曜日は会社の同僚たちと久しぶりに風車横のアムステルダム街中のバー、レストランでドリンク、食事。まだまだオランダも夜は肌寒くなったが、良い天気が続く。バーには大勢のオランダ人がビールを片手に談笑し、我々も。土曜日は日本人ランニングコミュニテイの仲間がワセナーWassenaarビーチ・砂丘で行われたアクアスロン(スイムとラン)に参加するというので、ラン練習会も兼ねて応援に行った。さすがに夏も終わり、砂浜に人はそれほど多くはなかったが、最後の夏の砂浜を楽しむ家族づれもいた。まずは、ワセナービーチ北海1kmスイム、そして素晴らしい景色の中のワセナー砂丘10kmラン。我々練習会もランコースをジョギング。このコースはかってカットワイクKatwijk、フアルケンブルグValkenburgに住んでいたときに、ときどきジョグしたところだ。オランダでも俺の好きな場所のひとつなのだ。レース、練習会後はワセナービーチ高台のカフエで北海の海を眺めながらの打ち上げ、食事。その後、アムステルダム・ミュージアムプレインでフリーコンサートがあり、バイオリン奏者のランニング仲間が属するオーケストラによるオランダポピュラー音楽のコンサートだった。オランダ有名歌手が次々と登場。オランダ人は一緒に歌を歌うが、我々にはさっぱり。日曜日午後はワセナーのテニスクラブでテニス。いつもこの時間が空いているのに、当日ジュニアのトーナメントがあり、10面以上あるコートが一杯。しかたなく、終わるまで砂丘地帯へジョギング。土曜日と同じコースを気持ち良くジョグ。そして、トーナメントが終わって空いたテニスコートでテニス。その後は、デン・ハーグのあの美味しい中華でデイナー。多忙だけど、久しぶりにとっても充実した楽しい週末だった。
Sep 1, 2013
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何から書いていいか整理がつかず、俺の頭の中はあのときの思い出、出来事がぐるぐると回っている。7月の上旬に弟からメールが入った。入院している父の様態が悪いとのこと。父は6月に自転車に乗ろうとして転倒し、臀部の骨をおり入院していた。入院する前に電話で話をしたときはとっても元気で、俺が日本へ一時帰国を予定していた8月下旬に、田舎に連れて行ってくれと言っていった。そんな父に、3年ほど前にかかったがんが暴れ出したようだ。医者からは8月までは持たないかも知れないとのことだった。相馬にいる父の妹もかけつけた。電話で父の妹と話をすると、父は俺の名前を何度も呼んでいたというのだ。病院にも電話して、何とか父の病状を聞き出そうとするが、病院は電話では教えてくれない。オランダからだと言って何とか聞き出すと、やはり8月は厳しいとのこと。そんな訳で俺は決断した。日本への一時帰国を急遽早めた。実は7月下旬にキプロス島のリゾートホテル宿泊を手配し、お金も払っていたが、それをキャンセルした。日本の実家に着いてからは、毎日病院へ通い、できるだけ父と接触した。しかし、簡単な会話を交わすだけだ。父がどこまで内容を理解しているかわからない。また、モルヒネをうっているせいか、言っていることは支離滅裂でわけのわからないことが多かった。母の誕生日を自分の誕生日だと言ったり、仕事場に行って、同僚たちに行けない理由を説明しなければいけないとか。でももう定年に近いので、あまり気にしなくていいかとか。しかし、看護婦には自分のふるさとは津波でやられたとまともなことを言っていた。どうも、父は旅行に出て転んでけがをして、どこかに入れられていると思っていた。そして、何度も早くここを出たいと。ある時は早く杖を持って来いと。オランダを出発する前は、父と昔の思い出を一杯、話そうと思っていたのだが、それは叶わなかった。病んでいた後がない父だったが、昔のように父の威厳を持って俺を叱った。「遊んでばかりいるな」、「オランダに行ったらケチになったな」、「もっと堂々としろ。ぺこぺこするな」と。最初は食欲が全くなかったが、俺が行って少したってから、病院食の7~8割は食べられるようになった。そして一見元気になっていったようにみえた。リンゴジュースをたまに飲ませてあげた。そのリンゴジュースをとっても好きだった酒と思ったのか、「うまい酒だな」と言ったことがあった。俺が父を見舞っていると、父の目がうるむことがときどきあった。俺たちには言わなかったが、看護婦には「もうだめだ」と言っていた。自分が長くないことをわかっていたようだ。そして、26日の朝、病院から夜中に「父が2回吐いた、早く見舞いに来てほしい」との連絡があった。朝から見舞いに行くと、父は血圧等々の測定機と酸素吸入器をつけられていた。医師と看護婦からは「何が起こってもおかしくありません」と言われた。急遽、オランダへ戻る飛行機便を変更し、父をまた見舞った。もう話すこともできず、目をうつろに開き上を向き、ただ酸素吸入器で酸素を取り込んでいるだけだった。だんだん酸素の取り込みがが弱くなり、そして午後3時35分、ついに止まった。隣にいた医師が父の状態を調べ「ご臨終様と」一言。父がお棺にに入れられ葬儀屋の車で病院を後にするとき、担当医師・看護婦10名以上が整列し、車が見えなくなる見送ってくれた。毎年夏の日本へ一時帰国で父母と一緒に過ごすことが、今の俺の最高の贅沢だった。この暑い夏に、俺の贅沢が半分になった。
Aug 23, 2013
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7月、急遽日本へ一時帰国。気持ちの整理がつかないまま、現実を把握できないまま、オランダに戻った。そして、悲しみも忘れ、昨年早々と手配していたモスクワ世界陸上の観戦のためモスクワへ行った。楽しみだった女子マラソン、男女1万m、男子100m決勝等を観戦。ロシアは初めてだった。英語はホテル以外は全く通じず。地下鉄の駅名も読めず、レストランも観光客が多いところ以外は英語は全くだめ。そんな不便さも世界陸上観戦で吹き飛ばした。競技は、女子マラソンはうれしいことに、福士選手が銅メダル。木崎選手が4位入賞。感動のレースだった。野口選手は残念ながら、熱中症で途中棄権だった。注目の女子1万mはティルネッシュ・ディババ選手が最後を圧巻の走りで優勝。男子1万mは昨年のロンドン・オリンピクで英国中を興奮させたイギリスのフアラー選手がこれまた最後のスパートで他選手を振り切って優勝。ふたりとも横綱レースだった。男子100mはものすごい人気のウサイン・ボルト選手が予想通り優勝。場内は大歓声でつつまれた。日本選手は言えば、女子マラソン以外にも、女子1万mで新谷選手が5位入賞、男子棒高跳びで山本選手が6位入賞、男子ハンマー投げの室伏選手が6位入賞、男子20km競歩で西塔選手が6位入賞した。特に新谷選手はエチオピア・ケニア選手を残り1周手前まで先頭でひっぱったことは高く評価できる。素晴らしいレース展開だった。
Aug 17, 2013
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Jun 14, 2013
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感動だった。連続フルマラソン完走は5年前に日本人楠田さんが52日連続フルマラソン完走でギネス世界記録を達成した。その記録をベルギー人、シュテフアン・エンゲルスさんが3年前に連続365日まで伸ばした。雨の日も雪の日も強風の日も嵐の日も。彼が本年「Be a Hero One Day」プロジエクト(毎日誰かがウオータスポーツバーンでフルマラソンを走り、365日間連続維持するチエーンマラソン)を実施している。エンゲルスさんは1回目の挑戦では19日間で挫折したようだ。楠田さんを尊敬し、今回の招待につながった。楠田さんの世話役の人が我々オランダ在住日本人ランニングコミュニテイの存在を知り、接触し今回我々もサポート役で参加することになった。1周5kmのコースを8周し、最後、2.195kmを走る。我々日本人ランニングコミュニテイから10人参加、楠田さんの回りを囲んで走った。ボートコースで単調、風が強くまともに当る。しかも一部コースの路面はタイル、日本からやってきた楠田さんにとっては厳しいコースだ。楠田さんはせっかくということで、最初から快調に飛ばす。しかし、厳しいコース、終盤落ち込み、かなりしんどい様子だった。それでも必死に手足を動かし、感動のゴール、そして表彰式。この日のイベントはベルギーのテレビ放送で放映、新聞に掲載され、我々もベルギーで少し有名になった。その後は、ゲント旧市街へ行き、中世の街並みを見ながら乾杯。波乱万丈の人生を送っている楠田さんは涙ぐみながら、我々へ感謝の気持ち伝えてくれた。箱根駅伝も走った百戦錬磨の楠田さんでも、今日ほどしんどいマラソンはなかったと言う。途中何度もやめようと。我々ランニングコミュニテイの人がいなかったら、途中棄権していたと言う。70歳になった今でも自分の責任ではない借金を背負い、奥さんと海外マラソン旅行に出かけて行きたいこともできず、まだガソリンスタンドで働いている。本当はこの招待旅行にくっつけ、奥さんと自分の前の世界記録保持者のイタリア人を訪ね、イタリア旅行をしたかったようだが、金銭的に無理で諦めたようだ。来年、日本で今大会のチエーンマラソン最長期間更新を目指すイベントを計画しているようだ。実は我々が楠田さんから感動をもらって、オランダへの帰途に着いたのだった。
Jun 11, 2013
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土曜日は毎年恒例のIAAFワールド・チャレンジ、ヘンゲロ国際陸上が行われた。長距離種目を中心に超一流選手が毎年出場している。元マラソン、1万m世界記録保持者ハイレ・ゲブレセラシェHaile Gebrselassie選手が毎年出場し、ミスター・ヘンゲロと言われ、ヘンゲロの英雄だった。今年もケネニサ・ベケレKenenisa Bekele選手が出場するということで、ヘンゲロに出かけて行った。注目はもちろんベケレ選手が出場した男子5千m。来年フルマラソン転向を予定しているベケレ選手、2010年にふくらはぎ故障後は、昔の絶対的強さが見られなくなっていた。中盤過ぎでトップ集団から少しづつ遅れ、残り千m以上を残して、棄権してしまった。若干19歳のエチオピアのムクタ・エドリスMuktarEdris選手が優勝した。女子5千mも若手エチオピア、ケニア選手が3位まで独占。優勝はエチオピアのAlmazAyana選手だった(14分52秒42)。注目のエチオピアのゲレテ・ブルカGeleteBuruka選手は4位に終わった。次から次と若手が出てくるエチオピア、ケニアは恐ろしい。男女200mはオランダ選手が注目だった。ロンドンオリンピック100m6位、200m5位のチュランディ・マルティナChurandy Martina選手が優勝した。ベスト記録は100m9秒91、200mは19秒85だ。女子は100m11秒19、200m22秒69のベスト記録を持つダフン・シッパーDafneSchippers選手は22秒84の3位だった。
Jun 11, 2013
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娘からメールが入った。「今、やっと着いて落ち着いたところ。何も、問題はなかった。こっち、死にそうに暑い。オランダの寒さの方がいい。」この前の日曜日、娘は今年の夏休みもマンハッタンで働くということで(インターンシップ)、オランダを飛び立っていった。ロンドンでの授業、インターンシップを終え、オランダに一時的に戻っていた。スコットランド、北イングランド旅行も一緒だった。旅行中もホテルで働きたい会社数社とオンラインで面接をし、オランダに戻ってからその結果を待っていた。そして、自分のやりたい仕事ができる会社からOKの連絡が着た。あわてて、飛行機、ゲストハウスの予約をとった。娘がオランダを去った後のオランダは、毎日最高気温22~25度の素晴らしい快晴が続く。そんなこの週末は、俺は多忙だ。土曜日はオランダ・ヘンゲロで行われるIAAFチャレンジ陸上が開催される。エチオピアのベケレ選手が5千mに出場予定だ。日曜日はベルギー・ゲントでベルギー・日本マラソンマンが対面するビッグ・イベントがある。52日間連続フルマラソン完走のギネス世界記録を達成した日本人楠田選手が、その記録をはるかに破る365日間連続完走ギネス世界記録を達成したベルギー人、シュテフアン・エンゲルス氏主催のマラソンに招待され、我々日本人ランニングコミュニテイの連中もそのサポートで参加するのだ。とっても楽しみなイベントなのだ。
Jun 8, 2013
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旅から戻り、案の定、仕事は多忙を極めた。おまけにスキーで痛めた肩の痛みがとれない中、先週の土曜日はゴルフ、そして日曜日はランニング仲間とライデンマラソンに参加した。といっても、俺はハーフマラソンを走り、その後仲間たちのフルマラソンを応援した。一生懸命走っている人を見ると、思わず大きく手をたたいて応援してしまう。何度も、走っているオランダ人からお礼を言われる。とってもうれしいひと時だ。従来はハーフマラソンコースを2周していたフルマラソンが今年から1周の新設コースに代わったため、参加者も多くなったようだ。レセプションや会合も沢山続く。それにしても、今回の旅では勉強することが多かった。フエリーでニューカッセルに着くと、娘がハドリアヌスの長城(Hadrian's Wall)を見学したいと急に言いだした。予定には入っていなかったし、俺はそんな壁がイギリスの中にあることは全く知らなかった。娘は高校時代に学んだことを思い出したらしい。イングランド北部とスコットランドの境界線近くにあるローマ帝国時代の城壁跡だ。拡大路線をとっていたローマ帝国が1世紀半ばにイギリスの領土も拡大させたが、ケルト人の侵入に悩まされ、さらなる拡大よりも現状の領土を守ろうと、皇帝ハドリアヌスが長城の建設を決めた。122年に工事が開始され、完成には10年の歳月がかかった。ニューカッスル・アポン・タインからカーライルまでの118kmに及ぶ長い壁だ。約1.5kmの間隔で監視所が設置され、6km間隔で要塞も建築された。その要塞の一つを見学した。ひとつの要塞には大きいところで、千人程のローマ人が配備されていたようだ。
May 31, 2013
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スコットランド、北イングランドへのフエリー・車の旅は、天候が目まぐるしく変わる毎日だった。朝晴れていたかと思うと、あっという間に雲がやってきて、雨が降り出す。そして、少したつと雨がやみ、晴れ間が広がってくる。オランダ以上の本当に不思議な天気だった。そんな初めてのスコットランド、北イングランドの旅のスケジュールはこんなものだった。車走行距離は約1860kmだった(フエリー除く)。1日目自宅から車で約40分ほどの北海に面した港、アイマウデンIjmuden(オランダ)へ行き、そこからフエリーに乗り、北イングランドのニューキャッセルNewcastleへ向かった。出航は午後5時半だ。昔船長さんだった知人(もう日本へ帰国したが)、その彼のお勧めがこのルートのフエリーの旅だった。数年前に聞き、いつかその旅を実現したかった。車はびっしりだ。クラシックカーやマツダMX5のオープンカー、オートバイに乗ったドイツ軍団が目立った存在だった。フエリーは巨大で中にはレストラン・バー・カジノ・映画館・ショップ等があった。デイナーは食べ放題バフエで魚介類を中心に満腹。国際色豊かで多くの人たちはデイナー後ライブミュージックで楽しんでいた。2日目 翌朝9時頃、ニューキャッスルNewcastle港へ到着。宿泊地のエデインバラEdinburghへ向かう途中、歴史的なハドリアヌスの長城Hadrian's Wallを見学。ローマ帝国が築いた壁だ。そして、エデインバラへ。エデインバラの街を夜散策。3日目エデインバラ城Edinburgh Castle等、旧市街を中心に見学。夜はデイナー後、ゴーストツアーMurder Mistery Tourに参加。4日目エデインバラからこの日の宿泊地インバネスInvernessへ向かう。その途中、パースParth、コーダー城Cawder Castle、カローデン古戦場跡Cullodenへ立ち寄り、見学。インバネスで滞在したホテルの目の前に丘に建つインバネス城が。5日目ネス湖Loch Nessへは当然、ネッシーを探しに。ネス湖エクスビションセンター見学後は、荒涼としたハイランド西部West Highlandへ、そしてアイリーン・ドナン城Eilean Dona Castleを見学。6日目 インバネスを後にし、フオート・オーガスタスFort August、フオート・ウイリアムFortWilliam、グレンコーGlencoeに立ち寄り、素晴らしい景色を堪能し、スターリングStirlingへ。7日目 スターリング旧市街、歴史的なスターリング城Stirling Castle見学。ここでもスコットランドの歴史を大いに学ぶ。その後、グラスゴGlasgowの町を探索。そこでデイナー後、スターリングへ戻る。8日目スターリングを離れ、ピーター・ラビットを生んだ湖水地方へ向かう。美しい渓谷、林、草原。途中、カーライルCarlisleに立ち寄り、素晴らしい景色を見ながら、湖水地方Lake Districtの宿泊地ウインドミア・ボウネスWindermere Bownessの町へ。9日目湖水地方見学。美しい村を訪ね、湖水地方の景色を楽しむ。いつまでも滞在していたいところだ。ボウネスBownessから、ニア・ソリーNear Sawrey、ヒルトップHill Top、ホークスヘッドHawkshead、Tarn Hows,Coniston,Elter Water,アンブルサイドAmbleside,グラスミアGrasmereを訪ね、ボウネスへ戻る。 10日目 ボウネスから北上し、ハドリアヌスの長城沿いを走って、ニューキャッセルへ向かう。途中、北方面へ寄り道。アニックAlnwick城を見学し、海外線を走ってニューキャッセルへ。 11日目 ニューキャッセルからフエリーへ乗船。12日目 アイマウデン(オランダ)へ到着。自宅に戻る。 天気はともかく、今回も素晴らしい旅だった。
May 17, 2013
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「わざわざ天気の悪い、寒いところに行かなくても良かったのに」とは、後の祭り。スコットランドはやっぱり天気が悪かった。8日水曜日にオランダ・アイマウデンIjmuidenからフエリーに乗り、イギリスのニューキャッセルNewcastleへ。そこから車でエデインバラEdinburghへやってきた。そして、雨。今回はスコットランドScotland、北イングランドNorthEnglandへのフエリー・車の12日間の旅だ。スコットランドは初めてなので、楽しみだった。お城見学、ゴーストツアー参加、ネス湖、湖水地方等を楽しんで来よう。
May 10, 2013
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郷に入れば郷に従えか。また、サッカー観戦。先日のアド・デンハーグADO DenHaag対フエンロVVV Venlo戦のサッカーに続いて、今度はアムステルダム・アヤックス対ウイレムII戦だ。アヤックスが勝てば優勝という試合。観衆は最初から盛り上がっていた。そして、5対0で余裕の勝利、1部リーグで3季連続32度目の優勝を決めた。優勝決定戦の観戦。俺はラッキーだった。試合後は1部優勝セレモニー。アヤックスフアンはいつまでも大騒ぎだった。
May 6, 2013
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オランダ中が29日夜から30日は盛り上がった。ベアトリックス女王が退位し、皇太子のウィレム・アレクサンダーが国王になった。オランダ国営放送は1日中、この模様を放映している。29日アムステルダムの国立博物館開かれた、ベアトリックス女王主催の晩餐会に日本の皇太子も出席。アムステルダム・ダム広場の王宮横の教会で行われたウィレム・アレクサンダー国王の即位式に皇太子と皇太子妃雅子さまが出席。テレビで見る限り、雅子さまは元気そうだ。昨日、スキポール空港を通過した時、日の丸の飛行機がちらっと見えたが、専用機で来たのだろう。そんな中、俺はジョギング。公園を通ると、羊の大群が。そして、川沿いを走ると、オランダらしい景色が。ライデンの街の中は大勢のひとたちで賑わっていた。
Apr 30, 2013
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先日の桜祭りでは、桜はさっぱり。過去のオランダ在住経験を思い出しても、この時期になって、こんな状態は初めてだ。とんだ年になったもんだ。でもようやく少しづつ暖かくなってきた。そんなことで、桜がどうなったか、見に行きたくなった。桜の木があるアムステルダムボス公園へ。7分咲きか。その後、久しぶりのアムステルダムボス公園でのクラブ練習でラン。そして練習後は好きなレストランで、久しぶりのスペアーリブ。いつもこれとムール貝だが、残念ながらシーズンオフでスペアリブのみ。
Apr 24, 2013
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日本では気温0.4度、雪という最悪のコンデイションの長野マラソンで川内選手が当大会初の日本人優勝。従来の常識をぶっ壊す型破りなすごい人間だ。今の日本には、かっては多くいたこんな人間が必要なのだ。ロンドンマラソンでは晴天の中、世界記録保持者、オリンピック・世界陸上メダリストたち等、そうそうたるメンバーが出場。男子は北京オリンピック銅メダルで経験豊かなエチオオピアのケベデ選手が、女子はロンドンオリンピック銀メダルのケニアのジェプトゥー選手が優勝。2時間23分台でモスクワ世界陸上出場を目指した赤羽選手は惜しくも、2時間24分43秒で3位だった。記録は24分台とは言え、多くの強豪ケニア・エチオピア選手たちを破っての堂々の3位。これだけの強豪選手の中での3位に入ったことはすごい。決まりとはいえ、モスクワ世界陸上出場を逃したことは大変残念だ。ちなみに2時間30分台で9位に入ったイギリス女子選手はモスクワ世界陸上出場を決めた。そんな中、オランダにもやっと春が来たようだ。アムステルダムの街、家の庭・近所にも新緑が、そして花が咲き始めた。これからがうれしい季節だ。
Apr 22, 2013
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日曜日はロッテルダムマラソンだった。俺の日本人ランニングコミュニテイの仲間たち、10人以上がフルマラソンを走った。初マラソンの連中が5人もいた。俺は今年も悲しいかな、10kmを走った後、27km、40km過ぎの地点の2カ所で仲間たちを応援した。数えて見ると、俺は既に24回フルマラソンを完走していた。そのときどきにドラマがあった。練習をあまりしないで走ったことが多かったので、後半はいつも苦しかったが、終わってみると、いつも楽しく、爽快感があった。俺の初マラソンは懐かしのニューヨークシテイマラソンだった。いつもドラマがあり、感動があった。仲間たちも、ドラマを作り、感動を持った。そして、俺もそれをもらった。
Apr 13, 2013
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毎年恒例の桜祭りが10日アムステルダムボス公園の南で開かれた。日本人が多く住むアムステルフエーンAmstelveen市、アムステルダムAmsterdam市、アルミーアAlmere市、日本大使館、日本商工会議所、オランダ日本協会、ジャパン・ウーマンズ・クラブ等が主催。関係者が多数集まった。昔、アムステルダムボス公園の一角にジャパン・ウーマンズ・クラブが植えた桜が育った。そこに大きなテントをはって、その中で開かれた。市長、大使等のスピーチの後は、日本からやってきた太鼓のパフーマンス。来年3月にオランダでのツアーが計画されている。こんな賑わった盛り上がった桜祭りだったけど、肝心の桜は。さっぱりだった。
Apr 11, 2013
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先月のことだが、ロンドン滞在中、最近日本人に人気のコッツウオルズCotswolds1日観光に参加した。ロンドンから西へ約200km、美しい丘陵地帯に美しい村・街が点在する。茅葺屋根の家々、蜂蜜色の街、チッピング・カムデンChipping Camden。昔のマーケットホールが中世のまま残る。セント・ピーター教会等中世の面影を残すウインチクームWinchombe。ヌードリー城の門。村の真ん中を幅が広い道が通る村、ブロードウエイBroadway。 通り沿いにはお土産屋等が並ぶ。どこへ行っても色合いが綺麗だ。そして、コッツウオルズのシンボル、ブロードウエイタワーBroadway Tower。この日は生憎悪天候。いつもは眺めの良い美しい丘陵地帯の景色も台無しで残念。最後はイギリス人自慢のフイシュ・アンド・チップス。日本人の我々にとっては油が多過ぎて、腹壊しそうだった。
Apr 6, 2013
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3月31日からサマータイムになった。何年も経験していることだが、すっかり忘れてしまうことが度々だ。今年も危なかった。29日(金)からイースター休暇に入り、サマータイムがいつからなんて、誰も教えてくれない。そんな31日の日曜日は日本人ランニングコミュニテイの仲間とLSD(ロング・スロー・デイスタンス)だった。3月は風邪、旅行等で月間走行距離は28日の木曜日までで、たったの46kmだった。これはいかんと金曜日にバレエを見に行く前にひとりで21km走ったのだが、それでも、まだ合計67km。何とも情けない。そして、3月最終日に走行距離を稼ごうと仲間とのLSDに参加した。その前日深夜近く、何気なくメールをチエックしていたら、このLSDを企画した仲間から、サマータイムになるとのメッセージが入った。これで焦った。1時間睡眠が少なくなる。あわてて目覚まし時計の時間を1時間進め、ベッドに入り、ことなきを得た。助かった。ラン用バッグを背負い、その中にエナジーゼリー、ドリンクを入れて、参加。ドリンクはチューブで吸うので、飲みやすい。ライデンをスタートし、いつもの湖の横を通り、高級住宅地ワセナーの森を通過し、またライデンに帰ってくるコースだ。途中、湖畔のボートショップ、ワセナーの街中のカフエでトイレ休憩。最後はライデンの、オランダ独立戦争でスペイン軍と戦った歴史的場所、ブリュヒト要塞に登って、ゴール。ラン後は当然、宴会。ランで失ったエナジーを取るべく、ラーメン、お好み焼き等で大満足だった。
Apr 1, 2013
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右肩痛めたが、4日間スキーを楽しんだ。まだ痛みは取れない。そんな中、とってもびっくりしたことが。町のはずれのケーブルカー乗り場からケーブルカーを乗りついで、テイトリス頂上へ。俺たちスキー客に交じって、多くの老若男女の中国人団体観光客もケーブルカーに乗って頂上へ。次から次と連日やってくる。頂上で写真を撮って、雄大な景色を楽しんでいる。建物の壁には高価な時計等の広告が貼られている。何と、ドイツ語・英語に交じって、中国語でも書かれている。モデルはもちろん中国人だ。そして頂上付近の建物内にはお土産やに交じって、高価な時計ショップがあった。そこに中国人が群がっている。ケーブルカーの中ではタイからの来た観光客とも会った。彼らは中国人と違い、こちらはオフイサーで10日間のヨーロッパの旅だった。中国人の凄さ、ここまですごいとは驚きだった。
Mar 29, 2013
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風邪が完全に治らない中、会社のスキーツアーに参加した。昨年、スキーをしていなかったので、あまり間が空くとスキーができなくなる恐れから、今年は参加したのだった。ホテル3泊、バス中2泊の学生並みツアーだ。場所はスイスのエンゲルベルグ、スイスのほぼ真ん中に位置する。ホテルは100年以上の歴史を持つ格調高いホテルだ。ただしそれは昔のことだが。霧で先が見えないこともあったが、久しぶりのスキーは楽しかった。3238mテイトリス山のほぼ頂上近くまで登り、そこから下る。しかし、最近地上では速く走れないので、スキーはと意気込み飛ばし過ぎた。狭いコースに立っている人を避けようとして、体が宙に浮き吹っ飛んだ。右肩を痛めた。またこれで走れない正当な理由ができてしまった。今日朝7時半にオフイスに到着。スキーに参加したオランダ人は休暇をとって自宅に帰った。しかし、俺はやっぱり日本人。俺だけ仕事をすることに。
Mar 28, 2013
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ルーマニア、トランシルバニア地方の旅の途中で入ったレストランのトイレ。俺は見栄っ張り。当然のごとく、右を使用した。
Mar 20, 2013
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ルーマニア、トランシルバニア地方の旅で、シギショアラの後は、シナイアを訪れた。町は17世紀にシナイア僧院が建てられたときに始まり、その後ブカレストの王侯貴族の別荘地として栄えた。そんな訳でルーマニアの他の町にはない豪華な貴族たちの立派な館、家々が立ち並ぶ。近くにはスキー場があり、冬はブカレストから来るスキー客で賑わっている。まず、当然、17世紀のシナイア僧院を見学。僧院入口のフレスコ画は当時のままで色は鮮やかで美しい。その横にはドイツから呼ばれてルーマニアの国王になったカロル1世が19世紀に建てた新しい僧院があった。そして、次はカロル1世が夏の避暑地として建てた宮殿、ペレシュ城があった。部屋数は150以上だ。ルネッサンス、バロック等様式を取り入れた建築物で、素晴らしいお城だ。内部には絵画、美術品、陶磁器、宝飾品、武器等々、カロル1世が収集したものが飾られている。とにかく、豪華絢爛なお城だった。
Mar 20, 2013
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情けないことに、また風邪をひいてしまった。金曜日の午後から寝込んでいる。兆候はあった。ルーマニアのガイドのひとりが風邪を引いていた。もうひとりのガイドにうつされたばかりだったようだ。プライベート旅行だったので、車中、3食とも常にガイドとは一緒だった。いやな予感はした。そして、娘がルーマニアからロンドンに戻ったとき風邪を引いた。その時は俺はまだ大丈夫だったが、寒い中のハイドパークのジョギング後、何となく具合が悪くなりそうだった。オランダに戻って、多忙だった。そして、少しずつ具合が悪くなったが、夜の会食が続いた。金曜日の昼、日本へ帰任する人の会食後、我慢ができず、オフイスへは戻らず、直接自宅へ帰りベッドに入った。結局、週末は大半をベッドで過ごす羽目になった。そんな体調の中、ルーマニア、シギショアラSighisoaraへの旅を思い出す。ブカレストから北西約300km、トランシルバニア地方の中心だ。12世紀、ハンガリー国王の命でドイツ人職人・商人たちが、ザクセン人の名として、辺境への定住と防御のため招聘された。このシギショアラの旧市街に入ると、中世に入り込んだような錯覚に陥る。15~16世紀にはギルドを持つ城塞都市だった。ホテルは広場の横にあり、そこからすぐそばにベラド・ドラクルの家Casa Lui Viad Dracul、現在はレストランがあった。ベラド・ドラクルが1431年から4年間、ハンガリー王に幽閉された家で、ドラキュラのモデルになった息子のベラド・ツエペシュの生家でもある。カフエ休憩だ。そこからすぐそばに町のシンボル、時計台Turnul cu Ceasがあった。14世紀に建てられた。時計台展望台からの眺望は素晴らしかった。木造の階段を登っていくと、そこには学校と山上教会Biserica din Dealがあった。
Mar 17, 2013
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いよいよ念願のドラキュラ城見学。予約したプライベートツアーの旅行会社のガイドさんが時間通り、ホテルまでに迎えに来た。こちらは3人だが、向こうは2人、ふたりとも運転手兼ガイドさんだ。ブカレストの町を出て、トランシルバニア地方へ向かう。最初はブラショフの町から南西約30kmの念願のブラン城Castelul Bran見学だ。「吸血鬼ドラキュラ」の居城のモデルとなった城だ。ブラン村の山上にたつ。最初は13世紀にドイツ騎士団に築かれ、その後ハンガリー国王の所有となり、ここを通過するものたちへの関税をかける場となった。15世紀、ドイツとハンガリーの皇帝であったジギスムントは、オスマン帝国からの侵略に対して同盟関係を結んでいたワラキア公ヴラド1世(ミルチャ公、Mircea the Elder)にブラン城の所有権を与えた。このミルチャが、ワラキュラ公ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)の祖父で、ヴラドは、実際にはこの城には住んでいなかったと言われている。坂を登り、城の中に入る。現在は、博物館として、陶器、家具、武器や甲冑のコレクションが展示されている。部屋が入り組んでいて、何となくドラキュラ城の面影はある。最上階からの眺めも素晴らしかった。
Mar 16, 2013
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まず最初はブカレスト見学。ブカレストは過去には「小パリ」とも言われた美しい街並みを持ったところだった。いまやその面影は旧市街の一部と凱旋門から市街へ行く大通りに残しているだけだ。共産党政権時代に古い教会や歴史的建造物はほとんどが破壊されてしまった。そんな訳でそれほど見どころはなかったが、あの独裁者だったチャウシエスカ元大統領の遺産が残る。巨大な宮殿、「国民の館Casa Poporului」だ。ただ、国民の館とは名ばかりで、チャウシエスカの私利私欲の建物だ。建物内部の天井・壁等には、ふんだんに金、大理石が使われている。定期的にガイドさんに連れられて中の豪華な部屋等を見学できる。部屋数は3000以上あるようだが、見学はごく一部。たった建物の6%を見学しただけだった。次は革命広場だ。広場の周りには大統領府として使われていた共和国宮殿、治安部隊が立てこもった大学図書館、旧共産党本部が残る。1989年末東ヨーロッパの民主化に遅れてルーマニアも学生・市民による民主化運動が始まった。革命広場や大通りで毎日デモが繰り広げられ、チャウシエスカ元大統領は群衆に説得を試みた。しかし、ブーイングで中断。12月22日群衆への最後の説得をしたが、不発。治安部隊は群衆へ発砲し、多くの死者がでた。最終的にチャウシエスカ元大統領夫妻は元共産党本部ビル屋上からヘリコプターで脱出を試みたが、近隣の村で捕まり、処刑されてしまう。そんな歴史的な場所だ。旧市街には、ドラキュラ伯爵のモデルとなった「ベラド・ツエペシュ」が15世紀に築いた砦の跡が残ってる。大半は地震・火災で破壊・焼失した。
Mar 15, 2013
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