『和』の家

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ドイツW杯



1.現在のドイツについて
首都;ベルリン 人口8210万人 通貨単位;ユーロ
ドイツの国土:35万7000平方km(日本は37.7平方km)  
外交
21世紀を迎え、ドイツは世界各地で平和の確保と人権擁護、テロの撲滅のために積極的に活動している。ドイツは国連の場においてグローバルな協調による安全保障体制を支えている。そして、ドイツ外交の重要な柱として大西洋の対岸との関係が挙げられる。
対ロシア政策においては、欧州統合をより進めること、そして世界の安定と平和を協調によって確保するために貢献している。また、開発援助はドイツの対外関係の中核をなすものであり、平和とパートナーシップに基づく協調を目指す連邦政府の政策の一部である。

開発援助;ODA(政府開発援助)に58億8000万ユーロ(2002年)
2006年までに国内総生産に占めるODA比率を0.33%とすることを目標にしている。
ちなみに、2002年は0.27%。将来的には0.7%をめざしている。開発援助の主な手段としては、財政支援と人的貢献が挙げられる。そして、『貧困削減のための2015年行動計画』で貧困撲滅を謳っている。
ドイツの歴史年表
1918~33  ドイツ共和国
1933    ヒトラー内閣(ゲシュタポによる恐怖政治)
1936    ベルリンオリンピック開催
1936    ヒトラー率いるドイツ軍、ポーランド侵攻
(第二次世界大戦開戦のきっかけとされる)
1945、4  ドイツ無条件降伏(4ヵ月後に日本も降伏)
1949    西側:ドイツ連邦共和国  東側:ドイツ民主共和国 設立
1961    東ドイツ、ベルリンの壁を構築
1970    ミュンヘンオリンピック開催
1974    西ドイツにてサッカーW杯開催(西ドイツの優勝)
1989    ベルリンの壁崩壊
1990,3  (マルタ会談によってアメリカ対ソ連の冷戦が
実上終結)
7  ドイツ統一
2006    ドイツにてサッカーW杯開催


☆EU中心となりつつあるドイツにおいてサッカーの祭典W杯が開催される。統一ドイツにおいてW杯が開催される意義について東西分裂から統一の流れからみていきたい。

2 東西ドイツから統一ドイツまで
 第二次世界大戦が終戦してまもなく敗戦国であるドイツは西と東に分断された。西はアメリカ、イギリス、フランスが治め、民主主義の国として復興。東は旧ソ連が治め、共産主義の国として復興のみちを歩み始めた。そんな東西ドイツは共産世界と資本主義世界の対立やアメリカと旧ソ連の戦後の冷戦構造を象徴しているようであった。ここで当時の東西ドイツの国内を見てみよう。

西ドイツの議会は連邦議会制と連邦参議院制の二院制であった。西ドイツに11個ある州はそれぞれの法、議会、政策をもち、地方分権的色彩が強かった。労働人口の半数が工業に従事し、石炭・鉄鋼・自動車・電子・科学など、量的にも質的にも、世界の最先端を行く生産と技術を誇り、ヨーロッパ諸国を主要対象国とする貿易も盛んだった。西ドイツのGNPは1950年から40年間のあいだに32倍も拡大した(就労人口が1/3、物価が3倍になった)。社会における女性の就労率は90年までの37.1%であり、戦後においても伝統的な家族観、女性観が存在していた。

東ドイツは一院制の人民議会であった。東ドイツはマルクス=レーニン主義の党の指導による社会主義実現をめざしていたので、事実上はSED(社会主義統一党)が実権を握っていた。そのためか地方地区の権限は弱く、中央集権的色彩が強かった。
そして、東ドイツでは旧ソ連が賠償の確保のために農地改革を断行し生産設備の回収と主要産業の国営化が行われた。そして物不足のために東における消費生活は低迷していった。女性の社会進出は女性労働力の需要が高かったために高く。50年で44%であったのが89年で80%を超えていた。
そんな東ドイツの中央集権制と計画経済は資源の枯渇や生産性の減退を招き、SED政権の公約の先延ばしや西側への巨額な借金を行わずにはならなくなった。国民の間では、自己決定権、共同決定権、とりわけ個人の自由と消費財の量と質の向上を要求する動きが高まっていた。

3ベルリンの壁崩壊から統一へ
東のSED政権は旧ソ連が打ち出したペレストロイカを容認しなかった。それが国民の政権に対する幻滅を生み出していた。そんな体制の批判とともに、ライプツィヒなどの主要都市ではデモが展開され市民の出国の流れが加速した。しかし、SED政権は依然として守旧的な対応をしていた。そして、11月9日に「われわれが人民である」というスローガンを掲げたデモにベルリンの壁が開放された。そののち5月の国家条約と8月の統一条約によりドイツ統一がなされた。

4ベルリン<時代を語る都市>
現在のベルリンはドイツの首都である。そして、2006年のサッカーW杯開催の時に決勝戦の舞台として使われるスタジアム「オリンピア・シュタディオン」(元ベルリンオリンピックスタジアム)がある都市でもある。
冷戦時、ベルリンは東側の領地に存在した。そのためアメリカのマーシャルプランによる通貨改革に、旧ソ連が対抗した際に行ったベルリン封鎖のときには、ベルリンは陸の孤島と化した(このときアメリカは空輸によって西ベルリンに物資を運んだ)。そして、東の市民の流出を防ぐ目的で造られたベルリンの壁がこの都市には構築された。最初の壁は鉄条網だった、しかし後にコンクリートで強化された。この壁を越えるものは射殺された。ベルリンにおいて多くの血が流れ、家族も分断された。
それまではベルリンは東から西へ人々が流出できる唯一のルートであったが、それ以後1990年までベルリンは世界が二分されていることを示す象徴都市となった。
そして、ベルリンの壁が崩壊したとき世界が共存の時代に突入したこと示した。

5 そんな現在のベルリンを少し紹介する。
ブランデンブルク門:ベルリンの壁のそばにたたずむ歴史の証人ベルリン入城の際のナポレオンやプロイセン軍の凱旋行進、東西統一東と西をつなぐ役割など。数多くの人を通してきた。ベルリンの象徴である。
六月十七日通り  :東西を走る大通り。名前の由来は1953年の6月17日のノルマ強化に対する東ドイツ市民のデモの蜂起を記念してつけられた。
ティアガルテン公園:ドイツ史の綺羅星の象が点在する広大な市民の憩いの公園

6 そして、W杯へ
ドイツ全体では74年にW杯のホストを経験している。しかし、それはドイツが西ドイツと東ドイツに分断されていたときのことであった。その時、西と東は互いに異なるチームでW杯に参加していた<対戦もしていた(西0-1東)>。そして現在、東西ドイツは統一され同じピッチの上でW杯という統一後初であろう世界大会をつくりあげようとしている。
☆そこで、ドイツにおいての開催意義
冷戦終結を示してくれたドイツにおいてW杯が開催される。第二次世界大戦後から世界の動向の象徴としてシンボル化されてきたドイツはその役目を世界の中心となることで、変えようとしてきている。この大会は統一ドイツ国内の連携を世界に示すいい機会ととらえることができるのではないか。サッカーは世界の共通スポーツである。サッカーをするときは互いに称え合い対等な立場で一つのボールを追っていく、普段の争いもスタジアムの外まで、ピッチの上ではビールのおつまみとなってしまう。日本と韓国がW杯共催という形で互いに歩み寄ったように、かつて世界を震撼させたドイツは、サッカーを通して世界と歩み寄り、ベルリンの都市などの統一ドイツを世界に知らしめることによって、今、平和の文化を訴えている。


7ドイツ代表
1908年ドイツ代表は初めて国際試合を行った。初のW杯の参加は1934年のイタリア大会から(3位)。ナチスのプロパガンダ としても利用された。第二次世界大戦後復帰したドイツは4年後のスイス大会にて奇跡の優勝を果たす。次のW杯は1966年のイングランド大会だった。しかし、決勝にてイングランドの疑惑のゴールによって負ける(イングランドとの確執の始まり)そして、70年メキシコ大会においてイタリアとの死闘を演じる(延長4-3で敗退)(3位)そして1974年の自国開催のW杯皇帝
ベッケンバウアー率いるドイツは二度目の優勝をはたす。82年86年のW杯とも準優勝をはたした。90年東西ドイツ統一初めてのW杯で優勝するもそれ以降弱体化の道を行く。2002年W杯において準優勝。2006年自国開催の切符を手に入れる。

8ドイツの名選手達
フランツ・ベッケンバウアー(皇帝)
「バイエルン・ミュンヘンの黄金時代を支えた一人。1972年の欧州選手権においてリベロとしてバロンドール賞(欧州最優秀選手)獲得、皇帝の異名を持つ。1977年アメリカにおいてサッカーの王様ペレとともにプレーする。現在はバイエルンの会長、ドイツサッカー協会副会長、2006年W杯大会実行委員長をしている。

オリバー・カーン
ドイツが誇る世界最高のゴールキーパー尽きることのない旺盛な闘争心でチームを盛り上げ、気迫溢れるスーパーセーブを繰 り出す。2002年のW杯ではゴールキーパー初の大会MVPを獲得した











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