瀬戸無地石皿

瀬戸石皿

瀬戸無地石皿

 今回紹介するのは瀬戸の大皿です。石皿とも、煮〆皿とも呼ばれるこの手の皿は、詳しい歴史は知りませんが、おそらくは江戸前期以来瀬戸の洞周辺を中心にかなり大量に焼き続けられてきました。
 長い間焼き続けられた瀬戸の石皿には時代とともになだらかな変化が見て取れます。今回紹介する皿などは少し骨董などをかじった人にとっては瀬戸の石皿としてはむしろ並以下の駄品とさえ言われるかもしれません。
 江戸期のものにはほとんど全て呉洲の藍と鉄の茶色でおおらかな絵が描かれています。ありていに見てもっともうつくしい石皿はこの時期のものです。陶工の手で無数に繰り返されて単純化された紋様、それだけに手慣れていきいきした線で描かれた柳や鶴などはこの時代のどの画家からも決して表されることのなかった独自の陶画です。絵ばかりではなく、ろくろの冴えも、釉薬の調子も後の石皿とは明らかに違った格調を保っているのです。しかしこの石皿をうつくしくしているもっとも特徴的な絵については、あまりに荒れたものや十分にこなれていないものが多く見受けられるのもまた事実です。
 やがて明治頃になると石皿から絵が失われ、また土も変わったのか、分厚く緩い造形のものが増えてきます。これとともに釉薬も黄色く濁ったものへと変化してきます。ここで紹介する石皿もこの時代のもの、あるいは底の高台削りさえも省略されてべた底であることからすると、最末期の作かとも思われます。削っていないため大きな底から直線的に開いて、ぐっと折り曲げた縁づくりも大変たくましく、また持ち運びやすい優れたかたちです。
 しかしこの皿でまず目に付くのはなんといっても内側にまかれた砂粒です。これは皿を窯のなかでたくさん積み重ねて焼くために、くっつかないように撒かれた砂の跡です。瀬戸の石皿の場合小さくまるめた土団子を5,6個高台の下に挟むのを通例としますが、ここでは高台を削らないべた底のためか、乱暴なことに指でつまんで何カ所かにバラバラと砂を撒いています。しかしなんの功徳かこの跡が無心で描かれた抽象紋になったのです。このような仕事の手順の必然から生まれた一種の傷とさえいえる砂の跡ですが、これは前代の優れた絵付けにも勝るとも劣らない大した紋様ではないかと思われます。あのうつくしい石皿の歴史の最後にこのような花が咲いたことは何とも幸せなことのような気がします。
 直径37.5センチ。瀬戸の産、大正~昭和前期か。

                      (02.8.17)

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