丹波焼の土管

丹波土管

丹波焼の土管


 自分が丹波立杭にいた頃のこと、あるとき師匠の近くの家の軒下で雨樋の水を受けているこれを見つけました。最初は何だかわからなかったのですが、師に話せばこれは土管の継ぎ手の部分だろうとのこと。おもいがけない不思議なやきもの。それ以来毎日のようにこれを見て過ごしました。あんまり好きなので、あれこれ考えて自分で写しを作って枕元に置いていたことさえあるのです。

 やがて時が来て自分が師の下を出ることになった日にその家にもご挨拶に伺い、この土管の話をしました。いったいこれは何時からここにあるのでしょうか、他にはもう無いのですかと尋ねるのですが、詳しいことはなにもわかりません。こんなものにこころを留めておられないのか「ずっと前からここにある」とおっしゃるばかりです。よく見せてくださいとお願いしてその時初めて手に取って見ることが出来たのです。
 離れて見ていたときはわからなかったのですが、手に取って土や釉薬、焼き上がりを見ると、これは割合古い明治から大正頃のもののようです。丹波独特のあの伝統的な窯で焼かれたに違いありません。この家も陶家ですからここで焼かれたものかもしれません。そして強すぎた炎に大きく焼け歪んだために出荷されることなく家に残ったひとつがこれなのではないでしょうか。もとより美や鑑賞などは少しも期待しないで生まれてきたやきものです。上手く出来た他の仲間たちはそれぞれ何処かで地中深く埋められてその姿を隠してしまったのでしょうが、どういう運命かこればかりは軒先で樋受けとして働いてきたわけです。
 御主人が笑いながら「どうぞ餞別に差し上げます、そんなにお好きならお持ちなさい」と言ってくださった時の嬉しかったことをよく覚えています。妙なものを欲しがる、と想われたにちがいありませんが、この思いも寄らないお志を大喜びで大事に抱えて帰ったことは言うまでもありません。

 さてこの土管の作り方ですが、轆轤で筒状にひきあげ、口をぐっと締めてここがジョイント部分になります。これが普通の土管なら、この継ぎ手の部分はそれが半乾きの頃合いを見計らって斜めにすぱっと切り、半周まわしたところで再びくっつけるわけです。これは非常に土の生理に即した方法です。そしてこれに用いられている釉薬は灰に少々の泥を混ぜただけの粗末なもののようです。釉掛けも柄杓でざっと済ませているのです。そしてこれをあの丹波式の数十メートルもある登り窯で焼き上げているわけです。土には炎の流れた跡があかく染まり、釉薬の上からさらに燃料の薪の灰が降りかかり複雑な景色となっています。
 つまりこれは伝統的な丹波焼そのままの工芸的な技術で取り組んだ土管なのですが、このような荒っぽい方法でそれなりの精度が要求される工業的な仕事をいったいどのくらいこなすことが出来たのだろうと思えば心細くもなります。コントロールの効かないあの窯でちょっと炎が過ぎれば簡単にこのように歪んでしまうのは目に見えているのです。壺、甕、すり鉢や徳利などをもっぱら作ってきたやきものの村が時代の需要に応えて取り組んだ仕事がこの土管です。
 この頃を境に丹波にも近代的な窯業技術が取り入れられて、この土地固有の仕事から、より工業的な生産へと徐々に合理化していったのは時代の流れとして致し方ないことでしょうが、このようなまさに「最後の丹波の仕事」と言うべき品物を見れば失ったものもまた大きいと想わないではおれません。

高さ16センチ、明治頃の丹波焼。(03.1.29)

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