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タイは金曜日から4連休です。
(ポップの幼稚園は学期の中休みで13~19日までお休みですが。。。)
我が家は14日の夜からピサヌロークの義実家へ。
しかし、8時頃の出発で、途中だんなの用事で寄り道したものの到着はなんと午前2時半!
6時間半近く掛かった。。。(普段は5時間弱です)
明けて翌日、金曜日。
土曜日に義姉の実家に行くと聞いていた義兄2ファミリー(含、従兄妹たち)
なんと、金曜日の午前中に出発するということを聞かされました。
...だったら来なかったのに。
ポップと10日違いのプリンちゃんといっしょに誕生日を祝おうと、ポップとプリンちゃんの名前の入ったバースデーケーキもバンコクから持参していました。
出発前に急いでお祝い。
子供たちは喜んでくれたからいいけどさー。
それに従兄妹たちがいる間は、ポップはプローくんといっしょにゲームばっかり。
ピアは蚊に刺されまくりですごいことになってるし、本当に来なきゃよかったよ。
午後になって、家具屋さんに行く約束をしていたのに、急遽 お義父さんもいっしょに行くことになって、この時点で、私は家具屋を諦めました。
だって、お義父さんを待たせてゆっくり家具を見たりなんてできないよね。
お義父さんのベンツは狭いし(前の座席を思いっきり下げるもんだから、拷問のように狭かった)、結局、子供2人爆睡でお義父さんのお友達のところに行っただけで帰宅。
超フラストレーションがたまって、「もう、今日帰ろう」と行ったけど、それも叶わず。
翌日、さすがにまずいと思ったのかだんなが「山へ行こう!」とだんな。
目指すはプー・ヒン・ロン・クラ国立公園です。
...といっても、マイナーな場所なので知っている方は少ないですよね。一応、補足。
あ、長いので読まなくてもいいですよー。
1967年から1982年にかけてヒン・ロン・クラ山はタイ共産党(CPT)と戦術部隊であるタイ人民解放軍(PLAT)の戦略本部として使用されていた。この人里離れた防御しやすい頂上は反乱軍にとって申し分なかった。この本部はラオス国境から50kmしか離れていないというもう一つの利点があり、撤退線はラオスがパテート・ラーオの手に落ちた1975年以降固く守られていた。中国の雲南省ともほんの300kmしか離れておらず、タイ共産党の組織も革命的な戦術の訓練をここで受けた(これは1979年に中国とベトナムの共産党が袂を分かつまで続き、この時タイ共産党はベトナム側についた)。
20年近くにわたりヒン・ロン・クラ山周辺の地域はタイ軍と共産党の戦場となった。1972年には、タイ政府がタイ人民解放軍に対して大攻勢をかけ、山間部から敗走させようと試みたが不成功に終わった。1976年10月、学生と労働者の暴動が発生してタイ軍がバンコクで数百人の学生を殺害すると、ヒン・ロン・クラ山のタイ共産党キャンプは特に活性化した。事件後、多くの学生がここに逃げ込んでタイ共産党に加わり、病院と政治軍事戦術学校を設立した。1978年までにここのタイ人民解放軍兵は4000人に膨れ上がった。
1980年と1981年、タイ武装軍は再び攻撃を試み、タイ共産党の支配地域を一部奪還した。だが、タイ共産党への決定的な一撃は1982年、政府が1976年以降に共産党に加わった学生全員への特赦を宣言したことであった。当時学生の参加に強く依存していたため、学生の大部分が離脱すると活動の中枢がくじかれる形となった。1982年末の最後の軍事的攻撃の結果、タイ人民解放軍は降伏し、1984年ヒン・ロン・クラ山は国立公園として宣言された。
--以上、ロンリー・プラネット『タイ』より--
で、そこの国立公園の中にある、ヒン・テークっていう所を目指していたわけです。
が、まさかの迷子。たどり着けず。
カーナビ頼りにいったら、お隣の県(ペッチャブーン県)に突入。
景色はすっごい綺麗で(でも、森林伐採の後で丘が連なった状態、だんなは「きれいじゃない」といってました)、
土ぼこりあふれる村の中を2つぐらい通りすぎで、道が行き止まり。
本気でイサーン(東北地方)まで行きそうだったので、引き返すことにしました。
お腹がすいたので、いつものRain Forest Resortのカフェでランチ。

雑貨は全て購入できます。


西洋人の団体さんに写真を撮られまくっていたピア。
雰囲気は抜群だけど、お味はそこそこです(汗)
普段の土日では全然込んでいないカフェがこの日はタイ人+西洋人の団体さんでもの凄く混んでてすぐには座れませんでした。
ドライブ、楽しかったのでまぁ、いっか。
素朴な村はタイの原風景。
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