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●土曜ドラマスペシャル「蝶々さん」放送:2011/11/19 21:00~22:13 NHK総合 前編放送:2011/11/26 21:00~22:13 NHK総合 後編原作・脚本:市川森一音楽:村松崇継出演:宮崎あおい/伊藤淳史/イーサン・ランドリー/ 戸田恵子/ともさかりえ/岩松了/高橋由美子/ 風間トオル/パトリック・ハーラン/川平慈英/ 余貴美子/池脇千鶴/本田博太郎/伊武雅刀/ 野田秀樹/藤村志保/西田敏行こちらもどうぞミュージカル「蝶々さん」を観てから夢中になり、ドラマや映画にしてほしいと切望していた「蝶々さん」もっと蝶々さんを知りたくて、関連資料をあさりましたが、意外となかったのです。観劇後の4月は原作の小説を読んで、毎日のようにブログに書いたくらい夢中になりました。オペラでは、誤ったイメージで伝えられている彼女の実像。島田歌穂さんと剣幸さんで映画やドラマにしてほしかったけれどNHKで、あおいちゃんなら、間違いないと思います!と、まー。テンション高いわ、ワタシ。では、出勤してまいります。蝶、いえ超おススメ!「蝶々さん」関連の今までの日記は下に続いてます。
November 12, 2011
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島田歌穂さんの「ミュージカル 蝶々さん」を観て以来、蝶々さんはどんな女性だったのか、気になりました。オペラの「蝶々夫人」のせいで蝶々さんが実際とは違った形で伝わってしまったと述懐(後悔)するコレル夫人。(夫人が弟(新聞記者)に話したことが記事となり、評判になったことでオペラ「蝶々夫人」が作られたのですが、「男の人のお人形さん」のように描かれたことを悔いていました。武士の娘として毅然としている蝶を好ましく思っていただけに、夫人は、自分が弟に話さなけば良かった、蝶に申し訳ない、と自分を責めていたのです。)コレル夫人を演じる剣さんの熱演が印象にが強くて。オペラの「蝶々夫人」とどう違うのかが、蝶々さんについてアレコレ調べていたわけですが…蝶々さんを調べていると必ず出てくる名前が「三浦環」どんな人だったのかしら、と気になって図書館で借りてきた本が「日本人の足跡 二」【中古】 日本人の足跡(2) 世紀を超えた「絆」求めて /産経新聞「日本人の足跡」取材班(著者) 海外に飛び出し、偉大なる足跡を残した日本人を集めた本三浦環1884年、30歳の時にロンドンでデビューし、翌年「蝶々夫人」初出演後、世界の名だたるオペラハウスを20年に渡って湧かせ、海外において2000回公演という前人未到の記録を打ち立てている。作曲者のプッチーニが「私の夢を実現してくれた」と称賛した環の蝶々夫人。その所作は幼い頃習った日舞の賜物。早くから才能を表していた彼女。歌を教えてくれた先生は、上野の音楽学校への入学を強く勧めるが、「女に教育は不要」との時代ゆえ、父から猛反対される。「養子を取るなら、進学してもよい」という父とのかけひきにより東京音楽学校への入学を果たす。後に、その東京音楽学校で教鞭を取ることになるから彼女の選択は間違っていなかったということになる。市川森一さんの著書「蝶々さん」でも蝶は進学を希望し、そのために貸座敷の養女になるから、二人の強い想いにはどこか通ずるものがある。ただ、ちがうのは蝶は義理の親までも亡くし進学を断念せざるを得ないが、環は一念を貫いた。専業主婦を望む最初の夫と離婚してまでも、歌うことを選ぶ。当時珍しかった自転車通学をし、たくさんの見物人が集まり「自転車美人」という言葉さえ生まれたそう。後輩の山田耕作などは、(気になる女の子に意地悪するのは世の常(⌒∇⌒))通せんぼをしたというエピソードもある。華やかな存在の環。オペラ歌手として稀有であり、目立つことで噂が独り歩きした環。離婚後は、プロポーズが殺到したという魅力的な彼女は、彼女の才能を理解してくれた男性と再婚し、海外へ。そして第一人者である指揮者サー・ヘンリー・ウッドに対面が叶った。彼女の歌を聞いたウッドはこう言った。「あなたは完全な美しい素質と音楽の技術を持っています。私にはあなたのようなほとんど完成した声楽家に歌を教える力はありません」「蝶々夫人」を演じる機会を得た彼女は公演まで1ヶ月しかないにもかかわらず、362ページにもわたる楽譜を覚え、空襲のさなかのロンドンで熱演し、真のアーティストとして称賛された。彼女の活躍ぶりを読んでいて同じ日本人として誇らしくなる。たとえばシカゴでは彼女のオペラを聴き終り、感極まった婦人から「ピンカートンのような男はアメリカの男性のうち例外です。多くのアメリカ男性はあんな悪いことはいたしませんから誤解しないでください」と涙を拭き拭き、謝られました。などというエピソードも。そして、環は36歳の時にプッチーニから生涯忘れられない言葉を聞く。「イタリアはもちろん、世界のプリマドンナが大勢毎晩のように日傘を持ってステージを歩き、歌いますが、みんな私の理想とする蝶々夫人はやってくれませんでした。プリマドンナは、みんな自尊心を持って自分の歌だけ聴かせようとして一向に私の蝶々さんの『ほんとうの気持ち』を理解してはくれませんでした。だがマダム三浦、あなたの蝶々さんは一幕では15歳の子どもらしい蝶々さん第二幕第一場では母の愛と夫の帰りを待つ若い妻の愛情を、二場では子どもと別れて自殺する日本人夫人の貞淑の悲劇を驚嘆するばかりにドラマティックに演りました。私が心に描く幻のバタフライが舞台に現れたと思いました」プッチーニが生み出した多くの作品のヒロインのうち、ことのほか蝶々夫人をお気にいりだったそうだから、環とプッチーニにとってこんな幸福なめぐり合わせはなかっただろう。それほど評判をとった「蝶々夫人」だが、戦争が激しくなり帰国。あれほど海外では受け入れられていたのに当時の日本では、「日本人女性が、外国人に弄ばれて自殺するとは国辱」という理由で上演が許されなくなった。「歌うことが使命」と晩年まで歌い続けた彼女には、素敵なエピソードが多い。2001回目の公演の場所が歌舞伎座。戦争中、慰問に行った際、軍歌を歌わないことを憲兵隊にとがめられても「オペラ歌手ですから」と毅然としたした態度を変えなかったこと。(淡谷のりこさんも、モンペを嫌がり、 きちんと化粧して歌ったという逸話が 残っていましたね。確か…)5時起きして、必ず発声練習をしていた環。病に伏した時、見まいに来たテノール歌手の藤原義江に「天国で歌えるように、ドビュッシーを練習しているのよ」と環が言ったこと(藤原は涙が止まらなかったそう)そして、死後、病理解剖に立ち会った教授の所見「光沢といい色彩、形態共に実によく整っていて十分発達した若い人の咽喉像そのものである」咽喉年齢は18歳。自堕落な生活をしていたら、決して保てない美しい咽喉だそうだ。残された写真は小柄で可愛らしい人。この人のどこに、これほどの強い意志があったのだろう。天真爛漫で奔放な性格のため、日本ではスキャンダラスな印象がありほんとうに気の毒だったけれど(らしいけれど)真実の三浦環の偉大さを知らずにいたなんて、もったいないことだ。会いたい人!叶うことなら。(この本にはクーデンホーフ光子さんのことも書いてあった。 残念ながらゲランの香水「ミツコ」は 彼女をイメージしたものではないらしい。 ミツコの人生もまたドラマティックであり、 周囲に日本人がいない中での彼女の苦労ははかりしれない)環もミツコも壮絶な人生なのに、試練を超えるたびに輝きが増している。その姿は私達に希望を与えてくれる。願わくば、遠い日の彼女の力になりたい。 友として、あるいは母や姉として、そばで支えたい。 もちろん、その気持ちを彼女達に届ける術(すべ)はないけれど。だから、私達も次へバトンを渡さないといけないわけだ。と、いつもながら取りとめもなく…三浦環(みうら たまき 1884年(明治17年)2月22日 - 1946年(昭和21年)5月26日 癌のため、終戦の翌年没)
May 8, 2011
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講談社文庫 い126-1送料無料/蝶々さん 上/市川森一この可愛い表紙は先日まで真剣に読んでいた「蝶々さん」伊東家の家紋が「あげは蝶」だったこともあって蝶と名付けられた蝶々さん 図書館で借りた本を汚さないように持ち運びそうです。私の読書タイムは通勤の乗り物の中もしくは劇場への電車の中座れなくても苦じゃないくらい夢中にさせてくれる本時の経つのも忘れ、(時々、乗り越して泣いているが)大切な合棒です。だけど、文庫本以外はサイズがまばらそこで活躍するのが、カレンダーだったのですが月が終わってしまっても捨てるのが惜しい画は最適!そこへ、最近加わったのが、舞台のチラシ。もらうのはいいけど、捨てるのは申し訳なくたまる一方のチラシ!デザインのいいチラシ、十分の厚さがあるから丈夫だし、言うことなし!そして、ちゃんと劇場の宣伝にも貢献していて一石二鳥でしょ♪
April 26, 2011
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下巻嫌だな。自害して終わるのは知っている。ピンカートンが、蝶々さんを弄んで去ると知っている。それを読むのが憂鬱だった。【送料無料】蝶々さん(下)さて、舞妓になった蝶々さん。仲良しの愛八の明るさに助けられ、周りにも優しくされて、幸福な時間が戻ったよう。愛八は土俵入りの真似、蝶は笛を披露と特技を生かして、いっしょに御座敷に呼ばれ楽しい時間が過ぎていくがここでもコレラの流行。蝶を学校に行かせようと約束してくれた置屋のおかみさん達が亡くなる。ユリは奉公に出た長崎で、アメリカ人の養女になりアメリカに渡った。迫害され、極貧にあえいでいたユリが、本人の想像もしなかった道をゆくことになったのに、蝶の夢は羽を閉じたまま。ユリからクリスマスカードが届く度、いつか自分もアメリカに渡るんだと誓う蝶。そして、蝶はコレル夫人と出会う。最初に「蝶々さん」の小説を書いたロングの姉であり、やがては蝶の良き理解者となる夫人に英語を教わる、お礼は夫人に笛を教えること。ミュージカル「蝶々さん」はここから始まったんだ。コレル夫人のもとで働こうとするのも一緒で、いったんは手が足りていると夫人から断られるのも、日本人のお手伝いさんから「あの娘は丸山へ行く」と聞き丸山の意味がわかった夫人が蝶々さんの後を追うのも一緒。すぐに後を追うが、間に合わず。ここで、コレル夫人がお蝶を雇っていたらマダム・バタフライはない。分厚い本の頁が半分過ぎたころから、フランクリン少尉が登場する。オペラのピンカートン、やがて蝶々さんの夫になる男性。長崎。船の修理が終わるまでの間の滞在。つかの間のアバンチュール「長崎式結婚」芸者「お菊さん」と「ロチ」の日本に居る間だけの結婚ゴッコ。フランスの作家「ロチ」の描く世界に憧れていた彼が、墨絵の背景に洋館の並ぶ夢の街のような長崎に着いて小説の通りだと感動していた。アメリカ独立記念日に領事館主催の宴に愛八と蝶も呼ばれ、そこでフランクリンと出会ってしまう。救いは、蝶々さんがフランクリンにほんとうに恋をして自分の意思で結婚を選んだことだ。お金のために買われたのではなく。悲しいのは、蝶々さんがフランクリンをほんとうに恋して正式な結婚だと信じ切っていたことだ。「日本にいる時だけの仲、後はバイバイにきまっているじゃないか」の、ノーテンキなヤンキー(オペラのピンカートン)と違うのはフランクリンは途中で、蝶々さんは自分の想像していたお人形のような女性ではないと気づいて後悔する。蝶々さんは契約と知らず、本気で自分を愛し、尽くしてくれていたと知り、愕然とする。小説の「お菊さん」がお金のために日本人妻になったように、蝶々さんも割り切っているものだと思い込んでいたのだ。蝶々さんが不憫だからほんとうのことを告げたいとコレル夫人は何度も思った。結婚する前、そして、アメリカに戻った彼を待ち続ける時夫であるコレル牧師は「事実を知るより、信じること、希望を持ちつづけること」が大事と、そのたびに止めた。蝶々さんは信じつづけ、彼が去った後に生まれた子どもを大切に育てその帰りをひたすら待ち続けた。オペラでスズキにあたる役がお絹さん。元は丸山でも有名な売れっ子芸者で、激しい恋をし、そのために苦労を強いられるけれど、じっと耐える女性。蝶のそばでずっと助けてくれた姉のような人。蝶々さんの人生は苦しいことが多いけれどお絹さんとその夫のドラマティックな恋の話がハラハラもドキドキもさせてくれて良かった~。そして同じ置き屋で仲良しの愛八や書生の木原君やユリの兄と過ごす時間。お年頃のみんなが集まった時のはしゃいだ様子、お蝶さんの青春がちゃんとあって良かった~どうにか蝶々さんの夢をかなえてやろうとする大人たち、当時の長崎の人達が堅実に生きて行く姿も胸を打った。だまされて嘆いて死んでいく女の人生は空しい!男を待つだけ、お金をもらって、家を与えられただ、ただ頼るだけなんて…と、オペラのストーリーの印象がぬぐえなかったんだけどフランクリンの妻が、子どもを引き取ると現れた時も蝶々さんは極めて冷静だった。子どものためと、引き際が良かった。愛するわが子を自分が愛した男性の妻へ託し、命を絶つ「ミス・サイゴン」のキム。「蝶々夫人」がベースの有名なミュージカルですが子どもがいなくては生きる張り合いがないと自棄になって死ぬのではないと思う。生みの母を忘れられず、なつかないことでその子が可愛がってもらえなくなることのないよう。そんな配慮ではないかしら。「この子の母は私ではない。あなたなんですよ。ですから、どうかずっと大切に育ててください」の想いがあるのではないかと。蝶々さんは英語が堪能だったのに、「彼女は、聞きとりにくい英語だった」とフランクリンの妻はわざわざ付け加えている。嫉妬を感じます。彼女にしては憎い相手ですから無理からぬこと。そして、自害する蝶々さんのその理由は「私が誰の玩具でもなかったという証明だけはしなければならない」「夫のフランクリンはあなたを可愛い玩具のようだと手紙に書いてきた。いっそ玩具だったら、一緒に連れて帰れるのに」とフランクリンの妻の言葉は優しそうだけど、残酷です。蝶々さんはその昔、祖母から譲られた懐剣で立派に自害して果てた。誇りを守るためにと死を選んだ彼女はわずか21歳。「蝶々さん」、上下2巻を読んで感じたことは蝶々さんの一生を書いたこの本は死んだ女の哀れな話ではなく武士の娘として精いっぱい生きた女の確かな足跡だった。アメリカへ渡りたかった夢を息子に託して、蝶々さんは少しの間、羽を休めたのだ。「蝶は往く 霧立つ海に 花ありと」死んだのち、蝶に化身し、理想を求めて海を渡っていくという辞世の句にもそれは現れている。死ぬのは敗北とコレル夫人は長年、お蝶の死を理解できずにいた。けれど、83歳の時、来日した彼女は「美しく生きることに命がけになった」蝶のことをわかりかけてきたと語っている。そして蝶々さんを誇りに思って下さいとも。プッチーニが残した美しい曲、オペラに文句つけるわけじゃなく(当時は、歴史の浅いアメリカに対しての軽視があったのでノーテンキでデリカシーのないピンカートンになっているらしい。日本に関してはほとんど知られていなかったから無理もない)蝶々さんが自分の意思で生きて愛した人だった!それがわかって良かった!
April 17, 2011
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「蝶々さん」のつづき亡くなった父鼎之介は、出版されたばかりの「学問のすすめ」を愛読していた。それは、彼が斬られた時の血痕も含め、大切な遺品の一つとして蝶とやえ親子に残された。それから毎朝、それを母が読み、蝶が暗誦するのが日課だった。伊東蝶、蝶々さんはまだまだ、人々の中に階級の意識が残る時代に学校へ通い、士族も、平民も、厭われている隠れキリシタンの子も差別をせず、学ぶことの大切さと人として成長することを熱く説く先生に出会う。隠れキリシタンのユリとは並びたくない!という生徒とその親からの苦情に対し、一存で決めるのではなく、生徒の自主性にまかせようと思いたち、「誰か席を変わってくれる人はいないか」との先生の問いにお蝶は極めて自然に手をあげる。素直で潔いお蝶ばかりでなく、ユリのことも差別せず愛情を注いだ先生。石板を買うお金もない貧しいユリのために、石板を使わない授業=全員で海へ行き、砂の上で手習いをしたこともあったし、「ご褒美」の形を取って、石板を与えたりもした。ユリとの出会いが、蝶々さんにまた新しい頁を開かせる。この少女時代。新しい時代にまっすぐに向かっていく清々しさが心地よくて、しばしオペラのことを忘れてしまうくらい。読んでいるのが楽しい。【送料無料】蝶々さん(上)二人の祖母と母、先生、みんなの愛情に包まれてスクスクと成長していく蝶。三人の女たちの想いはひとつ。自分達は粗末でも蝶には教育を受けさせる。英語も習って、これからの世の中のためになるようにと。それは蝶の父の遺志だったのだから。小さなお蝶を坂の上の教会まで連れて行った母の「やえ」。まだそのころは、学校の名前さえも決まっていない女学校へ、『入学の予約』をするくらい一人娘の将来に対し、熱心だった。ご飯はいつもふかしたお芋の生活でも、蝶のおかげで明るい家族に暗雲が立ち込めるのがコレラの流行。 「やえ」と蝶の祖母の「みわ」は、野菜を売りに行った島で伝染。治らない病と悟った二人は、蝶の顔を見に帰って蝶や村の人に伝染してはならないと命の限り、患者の介抱にあたりその島で最期を迎える。母方の祖母である「しま」と二人だけで残された蝶。笛の名手で、キリッと厳格な「しま」だったけれど娘の「やえ」を失ったショックもあり、だんだんと痴呆が進む。それをいいことに祖母の弟(蝶の叔父)が蝶を、丸山の貸座敷の養女へ売り飛ばしてしまう。養母に言われるまま華美な着物を着せかえられる人形のような蝶。実家とはまるでかけ離れた養家で蝶は戸惑い、悩み、苦しむが一筋の光は、女学校へやってもらえるという約束。それも養母の死と共に結局は反故にされ、女中扱いへと急転直下。その後も、悲しい話はつきないが…そののち、長崎一、二の名妓と謳われた愛八、愛八の置屋のおかみさん、姉さん芸者、髪結さん。蝶々さんにかかわる長崎の女たちがこぞって蝶々さんを大切に想い、女学校へ通えるようにと尽力する。けれど、皮肉なものでいつも、運命の女神様は蝶々さんの夢を目の前まで近づけては、あと一歩のところで、スルリとかわすように遠ざける。蝶々さんの周囲の男性も志は高く、心は寛く、よか男ばかり。手を差し伸べてくれるけれど、病気や事業や諸々の理由に阻まれる。歯がゆい、蝶々さんの夢を叶えてやりたい。
April 16, 2011
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さて、原作ですが龍馬達が新しい日本をめざした頃、蝶々夫人のモデル伊東蝶の父鼎之介も新しい日本のためになるんだと希望に燃えて、その夢をかなえるため奔走しているところから物語は始まります。お蝶はいつ出てくるんだ!と逸る気持ちを抑え、読み進める。寄り道して焼き餅なんぞ、茶屋で食べてる場合か!とせかしたくなる。ところが、目的を半ばにして鼎之介は命を落とすが、その時の縁でこの茶屋の娘タキが、蝶の母の親友になったり、やがては蝶の婚礼に参列する一人となるのだから小説とは言え、人生の機微を思わずにはいられない。生まれた時に、既に父はなかった蝶だが、貧しいながらも武家の誇りを大切にする母と母方、父方の二人の祖母に多くのことを学びながら育っていく過程が数々のエピソードと共に綴られている。無念だったろう父の遺志を受け継いだように蝶は聡明にのびやかに育っていく。時代小説をあまり読まないので詳しくないから貧しい武家のイメージは、映画の「蝉しぐれ」だったり「武士の一分」だったり。「お金をかけられない分、心はかけた」と我が母が言っていたのを思い出す。「女手一つだから出来ることは限られているけれど」と。私が結婚して、娘が生まれる頃に、自分の子育て時代を振り返った時に言っていた。確かに、いえ十分すぎるくらいハートはもらったし、母の周囲の人達にもね。そんな人達の想い出が、蝶の「ばば様」達とオーバーラップする。養蚕は伊東家の生計をたてる大事な仕事。その蚕が病気になり、全滅した時、蝶の父方のばば様、みわは形見の大・小を売ることを決意する。支え合って生きていた女たちには、他に方法がなかったから。武家なのにと、それをとがめられた時に、手入れをする男子を失った伊東家ではサビさせてしまうのがオチ、それよりも大事なのは武士の「魂」を持ち続けること。潔く売り払い、蚕の借金を返し、蝶の学費を全納した。まだまだ学校へ行く子は稀だった頃、世の中の役に立つ人間になるよう蝶に教育を受けさせることが母と祖母たちの願いだった。刀を売ったお金は50円、そのうち40円でみわは蝶のために懐剣を作らせた。それを与える時に母のやえは、蝶に「武士の自害とは自らを罰することでも敗北でもなく、人として守るべきものを守り通したという証」と教える。【送料無料】蝶々さん(上)11歳の娘を前に母みわは、「蝶が実際に使うことはないだろう」とも言い添える。「大切にします」緊張と誇らしさでいっぱいの蝶の様子を読みながら、すでに結末を知っている私は蝶というより、母と祖母の気持ちになってしまうので胸がいっぱいになって、頁を繰ることが出来なくなる。このささやかな幸福のままで時を止めてしまいたい。そんな思いにかられて、先へ進まない。
April 15, 2011
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オペラの「蝶々夫人」は実在の蝶々さんとは違うってどう違うんだろう。ということでオペラのDVDを借りてきました!島田歌穂さんのミュージカル→市川森一さんの原作「お蝶さん」にすっかり夢中の私の興味はオペラの「蝶々夫人」へ。作曲‥‥‥ジャコモ・プッチーニ 、イタリアオペラの大家。「トゥーランドット」も「RENT」のもとになった「ラ・ボエーム」もプッチーニ。他にもたくさんの作品を残している。蝶々さんを書いた小説が戯曲になり、それを目にしたプッチーニがオペラ化を切望し、「マダム・バタフライ」を書きあげた。日本大使夫人の大山久子さんの協力をもとに「さくら さくら」や「宮さん 宮さん」など日本の曲もおりまぜて。ところがミラノ、スカラ座での初演は失敗に終わる。理由はいろいろ挙げられたけれど、プッチーニさんは不屈。書きなおされたオペラは大評判を取り、上演回数を誇る人気のオペラに。そう言えば有名なアリアの「ある晴れた日に」、オペラっていうとソプラノで「あーる晴れたひー」と真似していたような気がする。そして、ちょいと前まで外国人の描いた日本人のイメージ、チョンマゲを結っていると思われていたり、ゲイシャガール!と外国の方がヘンな日本語を知っているのは、外国の人がこの有名なオペラから抱いたんだ、「蝶々夫人」の影響だったんだと改めて気づく。アメリカ人の海軍士官、ピンカートンが蝶々さんと住む家を物珍しく見て回るシーンから始まる。いわゆる「ウサギ小屋」だと言いたいわけ。なんか日本の木造家屋をバカにしている感じ、家と女性を斡旋する日本人、ゴローに札びらを切り、アメリカ人の素晴らしさを讃える歌を歌うノーテンキなアメリカ人のピンカートン。この人が夫かと思うと蝶々さんが気の毒。ピンカートン。快晴のことをピーカンというけれど、語源は彼らしい。やけに納得!当時、海軍士官は遊郭への出入りは禁止されていたので、船が港にある間だけ、女性を囲っていた。長崎式結婚と言う、その習慣をピンカートンは本で知っていた。ロチという作家が書いた「お菊さん」。ロチが日本滞在中のことを書いたこの小説。異国情緒あふれる長崎、つつましやかでお人形のような可愛らしい日本女性との契約結婚。歌舞伎でもよく出てくる遊女の身請けと一緒です。ただ、日本を去る時にはサヨナラだから、もっとドライかな。とにかく、ピンカートンはその世界に憧れていた。そして没落した士族の娘で、今は芸者に身をやつした蝶々さんが相手に選ばれ、親族を伴い現れる。彼女達は外国の人の目にどう映るんだろう。歌舞伎の白塗りはどうなのよ、と言われてしまいそうだけどイタリア人かな?ヨーロッパの女性が顔だけ真っ白けのメイク。怪しい日本髪に怪しい着付けの蝶々夫人が登場。「たとえ貧しい家の出でも、名家のフリをするものだけど私は正真正銘、名家の出です。」という名乗りでガッカリしちゃう。ミュージカルや原作の蝶々さんは決してそんなはしたないこと言わない!外国人との結婚や、夫に合わせてキリスト教に改宗したことに反対する親戚などのゴタゴタがあり、お金持ちの妻になれたことで見返すことが出来たと喜ぶシーンあり、(お蝶さんと別人だわ、別人!(T ^ T))そんなこんなはあるけれど、(とにもかくにも)二人はシアワセな結婚生活を始める。船の修理が終わり、ピンカートンは長崎を去ることに。「コマドリが巣を作る頃に必ず帰るからね」と蝶々さんに約束して。3年が経ち、ピンカートンが残していったお金も底をついてくると女中のスズキが「本当に帰ってくるんでしょうか」と不安を訴える。「ある晴れた日に、海の彼方にひとすじの煙が上がるのが見えるでしょう。やがて船が姿を見せます。その真っ白い船は港に入り、礼砲を轟かせます。」有名なアリア。(桃屋のお陰で、ある世代以上の日本人はほとんど知ってる)そう歌う蝶々さんは、きっぱり「あなたは心配してなさい、私は信じるわ」蝶々さんはピンカートンとの間に生まれた息子と共にひたすら帰りを待つけれど、彼には会えず、帰国後、ピンカートンと正式に結婚した妻ケイトが蝶々さんの息子を引き取りに現れ心乱れながらも、蝶々さんは息子の将来を考えたうえでケイトに委ね、自害するのです。ミュージカルの「ミス・サイゴン」のキムと同じ。(もとい、マダムバタフライのほうが原案でした。)その理由が、もはや芸者にもどり、親戚からも指を指されながら恥をさらし生きて行くのは耐えられないから死を選ぶと。(ちがうってば!)そして、喉に短刀を当てるも死にきれず、屏風の陰から姿を現し、子どもを抱こうとする。(そんなこと、しませんから!)蝶々夫人を呼ぶピンカートンの声が響く中、息絶える。(そんな当てつけのようなこと、しませんったら!)母親なら我が子の前でそんなショッキングなことしない!お蝶さんと違う、けれど舞台の演出はドラマティックは必須?プッチーニは数々のオペラを手掛けたけれど、中でも蝶々夫人はお気に入りだったそう。お金で買った女性なのに、心から尽くしてくれて、命がけで自分への愛を貫いてくれる従順な女性は、男性の理想なのかな。それにしても、蝶々さんに求婚するお金持ちの「ヤマドリ」さんの乗り物。四隅を男たちに担がせているけれど、これは籠や輿でなく、戸板のよう。大井川を渡る時なら、いざ知らず。しかも、ルックスは幽霊みたい。爽やかでも頼もしくもなく、恋敵にしては物足りない。召使いのスズキは、大きな簪を左右対称につけ、白い柔らかい着物を着ていて、とても女中には見えない。大奥のようにたくさん召し抱えているならまだしも、たった一人のお手伝いさんだから、短めの地味な着物を着ておさんどんをするはずなのに。オペラだから、こんなものなのかな~と思いながらも歌舞伎を見慣れていると残念なところばかり目につく。歌舞伎は鬘ひとつにしてもこだわりがあるんだぞ!と思うと泣きたくなるくらいの違和感。日本人のイメージってこんなものなの?背景として、ヨーロッパでは歴史の浅いアメリカをバカにしていた時代で日本についてはベールに包まれていた頃だから、仕方ないかもね。考証にしても、瞬時に情報を集められる現代と比べてはいけないかも。ヤナヤツ!と思いながらも人懐っこい笑顔でいい声じゃん、とピンカートン役の歌手の名前を見ればドミンゴだった。ドミンゴの名前くらいはさすがの私も知ってる。蝶々夫人はミレッラ・フレーニというイタリアの著名なオペラ歌手。きっかけとなったのがラジオ局の主催したコンクール。10歳の彼女は『ある晴れた日に』を歌い優勝していると言うから彼女にとっても思い入れのある役だろう。なので、画面を見ないで歌だけ聴くとゴキゲン。このDVDは35年も前。今ならヘアメイクもちゃんとしてるのかな。そう考えていくと、「マダムバタフライ」を演じた日本人、三浦環さん。名前しか知らないその人の「蝶々夫人」が気になる。三浦環さんの蝶々夫人が観たいな(聴きたいな)出演蝶々夫人‥‥‥ミレッラ・フレーニピンカートン(アメリカ海軍士官)‥‥‥プラシド・ドミンゴ指揮‥‥‥ヘルベルト・フォン・カラヤン演奏‥‥‥ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団1974年制作/ドイツ映画/2時間25分楽天で探したら、中古のCDがありました。相手役はドミンゴのはなくて、パヴァロッティだけどね。【中古】 プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」全曲 /ヘルベルト・フォン・カラヤン(cond),ミレッラ・フレーニ(S),ルチアーノ・パヴァロッティ(T),クリスタ・ルート 【中古】afb
April 14, 2011
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3月4日、「ミュージカル蝶々さん」を観た。ミュージカル蝶々さん冒頭、他にはだれもいない舞台、一人の女性にスポットがあたり、この物語のヒロインについて語り始めた。当時、神父の夫について来日し、蝶々さんとも親交があったコレル夫人、その彼女の回想と言う形で展開していく。最初に蝶々さんについて小説を発表したアメリカ人弁護士ロング。その姉であるコレル夫人を演じるのは剣幸(ツルギミユキ)さん。自分が話したことがきっかけで、自分の知る蝶々さんとはあまりにもかけ離れた姿が伝わったことを悔い、いわば加害者となったことを蝶々さんに詫びるのですがオペラを観てない私にはピンとこなかった。自分のもとを去った夫を待つ女性で「ある晴れた日に」というアリアを歌う。それくらいの知識しかない。ミュージカルを見たら「蝶々夫人」とはなんぞや、がわかると気楽に出かけたのが大間違い。一説によるとグラバ―邸が残っていることでも、「龍馬伝」を観た人は龍馬や岩崎弥太郎との関係でも御存じの方の多い、トーマスグラバーの奥さんのツルさんがモデルでは、の説もある中市川森一さんが長崎、深掘出身の伊東蝶という実在した娘が「マダム・バタフライ」で海外に名を馳せた蝶々さんその人として彼女が生を受けるところから、短い一生を終えるまでを書いた本があるので(これは2008年、長崎新聞に掲載されていたそうです)この原作を読みたいと思いました蝶々さん(上)【電子書籍】[ 市川森一 ]上巻の最初、江藤新平へ面会を切望して、彼をたずねる若者、蝶の父23歳。愛しい許嫁との祝言さえも後回しにして、今こそ立ち上がるべきと逸る気持ちを押さえられずに、江藤の行方をたずねては入れ違いになってしまう。結局は許嫁のやえのもとに戻り、祝言をあげたものの今度は、皮肉にも江藤からの密使として諫早へやられ、そのために討たれてしまう。やえは、実母と夫の母のふたりに助けられながら、一人娘を育てる。最後に夫といた時に観た迷蝶と、伊東家の家紋がアゲハ蝶であることから「蝶」と名付けて。【中古】 蝶々さん(上) 講談社文庫/市川森一【著】 【中古】afbオペラでもミュージカルでも、蝶々夫人は愛するわが子を自分を残して行った人の正妻へ託して自らは死を選びます「ミス・サイゴンみたいね」と一緒にミュージカルを見ていた染子の言う通りで、「ミス・サイゴン」の着想のもとらしいです。予約していたカラヤン指揮、ミレッラ・フレーニ主演のDVD取り置きの通知メールがきたので読む前にオペラを観ることになりました。つづく【中古】 蝶々さん(下) 講談社文庫/市川森一【著】 【中古】afb
April 13, 2011
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