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たくさん日本・世界の支援してくれている方々 自衛隊・消防の方々 ボランティアの方々 ありがとうございます。 3月12日 朝6時 辺りが明るくなりました。救助のヘリが飛び始めた。 前の日に降った雪がうっすらと白く積もっていた。 ライフラインはまったく使えず・・・。ガスだけ使える事を確認。 まだまだ余震が続いてる。 同じような津波がこない事を祈る。 外は。まだ重油と火災の匂い。 一晩中、鳴りっぱなしの車のクラクションと踏み切りの遮断機の音。 煙が青空を埋め尽くす。 海が見える駐車場に行き・・。 下を見ると・・・。 ものすごい数のガレキと化した家と車とそして海水。 言葉がでなかった。 涙だけが流れた。 怖くて主人の手を握っていた。 何も言わずに握り返してくれた。 6年前息子が産まれてまもなく、今の高台の家に引っ越しました。 以前住んでいた家は、海の近くで地盤沈下してる場所。 そして母と姉が避難している中央公民館がすぐ目の前。 「宮城県沖地震」を想定して何度も避難の練習などしていました。 でもそれは、全部昼間に宮城県沖地震が発生し、津波の高さは5m。 私は、もし地震が夜中だったら、目覚めの悪い主人は当てにできないので、 子ども2人を抱えての避難は無理だと考えたためでした。 昔住んでいた家は、跡形もなくなっていた・・。 周りの家も何もかも・・・。線路がめくれ上がっていた。 母と姉がいる避難所が見えた。建物は無事だが・・。大丈夫だろうか。 9時過ぎ 中学校・市民会館に避難していた父と母とはるかを自宅に帰ってきました。 情報収集に小学校・中学校・市民会館へ歩いていると知り合いに会う。 そのたび抱き合い、泣きながらお互いの無事を喜びました。 途中知人から、 「県合同庁舎と中央公民館に避難した人をヘリで救助して、気仙沼小学校校庭と ケーウェーブ(総合体育館 ここから車で15分)に輸送する。 どちらに運ばれるかはその時のヘリによって違うらしい。」と聞き急いで 気仙沼小学校校庭へ。 どんどんヘリで救助さてくる中、私の姿を見つけた知人が泣きながら 「家も車も流されてしまった・・。死ぬかと思った。 火がついたガレキに囲まれて怖かった。」 「頑張ったね。怖かったね。助かったんだから!大丈夫だよ。」と抱きしめました。 ヘリから降りてくる人中に母と姉の姿がなくて・・。 もしかしてケーウェーブなのか??? ヘリがくるまでの間、息子の保育園に通う家族が避難している小学校の音楽室へ。 まだ家族が迎えにきていない子もいるみたい。 先生が、「子供達に、絶対お父さんやお母さんが迎えにきてくれるから。って話したら、 誰も泣かないで待ってくれたんです。真っ暗な部屋で、年長さんが年少さんの手を離さずにお世話してくれてて・・。」先生が涙で声をつまらせ、私も大泣きしてしまいました。 こんなに小さな子達が頑張って我慢している姿が、かわいそうでした。 昨晩は、ビスケット一人一枚。お水も紙コップで半分。しか食べてないと聞いて 急いで家に帰り、ゆで卵とおせんべいを差し入れしました。 気仙沼中学校体育館にもヘリで救助された人の名簿があると聞き、行ってみました。 昨日は夜だったので、気づかなかったけど・・。 卒業式の為の 紅白の幕とステージに飾ってある「祝卒業」とたくさんのお花。 本当だったら今日、卒業式なのに。 どんな事にでも一生懸命頑張ってきた3年生。 どうして???どうして???こんなめにあわなきゃいけないの?? 悔しくて、悲しくて涙が溢れてしまう。 中学校に避難している知人に会いに行きました。 自宅が津波で流されてしまったのに、自宅がある私におにぎりをくれました。 「家に帰れば、ご飯があるからいらないよ。」と断ると、 「かなたが、おなかすかせていたらかわいそうだ。」って持たされました。 私より自分達の方が大変なのに・・。うちの息子の心配をしてくれて。 申し訳ない気持ちでいっぱいでした。 「避難所の毛布が人数分がなくて、もらえず寒かった。」と聞き 自宅に帰って、知人に毛布を渡しました。 気仙沼中学校にいる役所の人に、「市役所に避難所ごとの名簿があります。 電気も道路も寸断されているので、役所の人の手書き・そしてリアルタイムの情報ではないんですが。」と教えてもらったので、行って見ました。 徒歩10分の坂道。主人の歩く早さに追いつくのが大変。 停電の暗い市役所中で、たくさんの人達が何冊もある避難所別の名簿を食い入る様に見ていた。 その様子を見て恐怖心を覚えました。 震災の時にテレビで見た映像と同じ。 みんな必死に家族を探している・・。私もその中にいる。 現実なのか夢なのか? そこにはケーウェーブの名簿はなかった。 午後にも4箇所回ったけど、手がかりになる物はありませんでした。 この2日間 涙が止まらない。 被災した人が全員抱いている感情かな・・。(言葉に表せませんが。) でも私達には自宅が残っている。会社も車もあります。 何もかも流されてしまった人に、なんだか申し訳ないような気がして・・・。 そんな後ろめたい気持ちで心が潰れそうでした。
2011年04月25日
コメント(2)
たくさんの方が心配してくれていて、本当に感謝しています。みなさんありがとうございます。 精神的に辛い毎日です。 今でも震災が夢ではないか? 寝て目が覚めたら、もとの気仙沼市に 戻っているのでは?と思う毎日です。 毎日 空を見上げ 応援してくれる人の 声を聴いています。 頑張れる!!心に誓う。 生きている事の幸せ 家族がいる幸せ。 被災しても自分に今何ができるのか・・。 考える毎日です。 私が体験した事を残しておきたくて 少しずつですが、更新していきたいと思います。 3月11日 14時46分 取引会社へ書類を届けに行って、会社の中に入った瞬間・・・。 今までに体験したことのないすごい揺れ。 立っているのも大変なくらい。急いでパソコンのモニターを押えました。 ブーン?ゴー?っと、うなりながら6分ぐらい?は揺れていたかな? すぐに防災無線のサイレンが鳴り響き 「当地方に大津波警報が発令されました。」 大津波警報? 会社のテレビをつけたけど。地震のせいでアンテナが壊れたのか 画像がよく見えない。音声だけは聞こえてきた。 「15時に10mの津波が到着する予定です。」 会社は、海から離れている山の上 映りの悪いテレビを見ていると、 気仙沼市の様子が放送されているみたい。 エースポート(大島への船の発着所)のすぐそばに建っている 市営駐車場(3階建て)が2階まで海水に浸かっていた。 そんなに大きな津波?? 私達夫婦は同じ会社(建設業)で働いています。 主人は、川の近くの小学校の現場に行っていましたが、 会社の無線で高台へ逃げたと連絡が入った。 自宅は徒歩3分の気仙沼市民会館や気仙沼中学校の近くの高台なのですが、 同居する私の父と母の事が心配になりました。 そして息子が通う保育園は、自宅から坂を下った徒歩5分の場所ですが、 あの映像を見る限り津波がきている可能性が高い。 娘の中学校は避難所になっているから大丈夫。 でも次の日(12日)は卒業式だから早く帰っているかも・・・。 主人の母と姉・・。 主人の実家は、海と川の側。姉の職場は、自宅から5分の川沿い。 15時14分 姉から「母と中央公民館に避難しました。」とメールが届く。 ず~っと防災無線のサイレンが鳴り続いたまま。 社長が戻ってきて、市内は渋滞して動けない。と そのうち携帯が圏外になってしまい。誰とも連絡がとれなくなってしまいました。 16時過ぎ。 私の車(ニ駆)で、会社の先輩(家が近所)と強引に帰ることにしました。 市内へ向うと、交通規制がされてなかなか自宅に辿り着けない。 川沿いの道路へ向ってビックリ。 船が流されてきていた。ガレキの山になっている川。 その川沿いしか自宅へ帰る道が無くて・・・。 無我夢中で、ヘドロで滑りながら道路を突っ走りました。 (その後、その道は四駆の車のみ通行と規制されました。) 避難所になっている小学校・中学校までしか通行できず、中学校の裏に車を停めて 先輩と別れ家族を探しに走りました。 まず中学校へ向うと、息子の保育園の先生と出会い 「かなた君はおじいちゃんが迎えに来て家にいるはずです。おねーちゃんも中学校にいますよ。」と教えて頂き、すぐに娘の無事を確認できました。 自宅にいる父と母と息子を探しに走りました。 避難所の市民会館を過ぎたあたりで、自治会で仲良くしている家のガレージに避難していました。そこに近所の2家族と一緒にいる3人の無事を確認できて一安心。 18時近くになりどんどん雪が降り始めて・・・。 寒くなったってきて築40年以上の自宅があの揺れに耐えられたかどうか・・。 損壊しているかも解らないので市民会館へ避難しました。 娘(はるか)は、中学校に避難していたので、何度も様子を見に市民会館と中学校を行ったり来たり。18時過ぎ?市民会館の上の方が真っ黒になっていた。ふと見ると海が真っ赤に燃えていた。まるで戦争でも始まったかのような風景。 商港岸壁の石油タンクが爆発炎上したらしく、海一面重油だらけ。津波で破壊された家屋の廃材に引火。それが何度も押し寄せる津波に乗って湾内へ。 停泊していた船にも引火していました。 もう地獄のようでした。全てが燃えていました。 外は、重油と焦げた匂いで充満していました。 こんな惨劇に涙が止まらなかった。見ているしかできない。 この火の海の中に主人の母と姉が避難した中央公民館があり 心配で、心配で、胸が痛くなりました。 自宅が心配になり戻ると、主人がいた。 津波がおさまってから急いで帰ってきたみたい。 避難する途中に、川から津波が上がってきて、橋を渡るときすぐ目の前まで 津波がきていて焦った。と・・。 自宅の下の方からも火災が発生していて、自宅も焼けるかもしれないと思い、 貴重品やアルバム、息子の新入学用品を持って中学校に停めてある車に何度も運びました。 娘は中学校、父と母が市民会館、主人と私と息子は自宅で一晩過ごしました。 夜中に余震や火災によるカスボンベが爆発する音で、ほとんど眠る事ができませんでした
2011年04月10日
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