アレックス・ロドリゲス編

「更なる高みへ ~スーパースター列伝 A・ロドリゲス編~」  

本名アレックス・エマニュエル・ロドリゲス。通称A-ROD。今年のトレード市場を最も賑わせた男である。

 1975年7月27日ニューヨークで生まれ、マイアミで育つ。アマチュア時代のA-RODの成績は「すごい」の一言に尽きる。ウェストミンスター高校時代は3年間で100試合に出場し、打率419、ホームラン17本、打点70、盗塁90の成績を残した。そして、チームを86勝13敗1分の成績に導いた。2年生の時には33試合に出場し、打率505、ホームラン9本、打点36、盗塁35(35回試みて全て成功)の成績を残しオール・アメリカのファーストチームに選ばれた。

 他にも、USAベースボール・ジュニアプレイヤー・オブ・ジ・イヤー、ゴールデン・スパイク賞に高校生として唯一最終候補に残るなど数々の栄光を手にした。時にはファンが活躍をねたむのか、サンアントニオで開かれたUSオリンピックフェステバルでは、何者かに頬を殴られたこともある。A-RODは高校ではバスケットボール、フットボールもプレイしたマルチアスリートだった。

 1993年にシアトルにドラフトのイの一番で指名される。この時ロドリゲスは、マイアミ大学への進学が決まっていた。しかし、シアトルの代表者が土壇場でのオファーを出し入団にこぎつけた。(詳細は知らない)

 A-RODはハリケーンズ(マイアミ大の野球チーム名、フットボールもこの名前である)でプレイしなかったが、2002年に球場の改築費と奨学金の設立目的で約4億5千万円をマイアミ大に寄付した。だから、マイアミ大学の野球場の名称はA-RODの名前に由来している。このことをA-RODはルーキー年の17試合しか出場していない1994年のシーズンに成し遂げた。

 A-RODは18歳11ヶ月の若さでショートしてメジャー・リーグにデビューした。大型ショートして期待されていたが、3.3打席に一回の割合で三振する荒削りな部分があった。才能が開花し始めたのはシアトルでの3年目のシーズンからである。146試合に出場し、打率358、ホームラン36本、打点123の成績を残し、史上3番目の若さで首位打者を獲得した。(それより若いのはT・カッブとA・カリンのみ)三振率も5.7打席に1回と減り、パンチ力に加え確実性を身に着けたA-RODはスター街道をまい進していく。

 翌97年は少々成績が落ちるが悲観するほどではなかった。98年は161試合に出場し、打率310、ホームラン45本、盗塁46の成績を残した。99、2000年も素晴らしい成績を残す。そして、2001年にA-RODの転機が訪れる。

 2001年にテキサス・レンジャースと10年255億円(推定)の超大型契約を結ぶ。それと同時にA-RODの成績もワンランク上に到達した。移籍したその年に52本のホームランを打ち、史上6番目の若さで50ホーマーに到達した。(他はW・メイズ、J・フォックス、R・カイナー、M・マントル、B・ルースとそうそうたる面々)。同時に201本のヒットを放ちシーズンに50本のホームラン、200本のヒットを打った史上4人目のプレイヤーにもなった。135打点はショートとしては5番目に多い数字だ。2002,2003年に57本、47本とホームランを打ち3年連続でホームラン王を獲得している。2003年には史上初めて地区最下位のチームからMVPに選ばれた。

 今シーズンはボストンとのトレード騒動の後キャプテンに任命された。MVP受賞パーティーでは「テキサスがとても居心地がいい」とA-RODは言っていた。しかし、3年連続地区最下位のテキサスに嫌気がさし、移籍を熱望していたのも事実だ。

 ニューヨークで生まれたA-RODはメッツのファンであった。しかし、メッツは2000年のシーズン後「クラブハウスで24時間+1時間をかける“管理されたアスリート”のラベルが張ってあるA-RODに球団は興味ない」と彼の獲得を否定した。

 今年からは同じニューヨークに本拠を置くヤンキースでプレイするかもしれない。10年間の通算成績は1275試合に出場し、打率308、ホームラン345本、打点990、盗塁177、長打率581を記録している。オールスターには7回出場している(1回は怪我で欠場)。しかし、まだチャンピオンリングには縁がない。今年ヤンキースに移籍しチャンピオンリングを獲得した時、A-RODは今より更に高みに登るだろう。




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