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とある大型フォトコミュニティサイトに登録して画像を載せていましたが、そこはなんと無料会員は50枚だけしか登録できないとのこと。かなりガッカリ・・・・・・・・なんでこれを登録する前に、そのことに気づかなかったんだろう、私のバカ。で、この上の画像はそのサイトに掲載していたら、とあるカメラマンさんにお褒めを頂いたものです。嬉しいので、載せちゃいました。
2011.01.17
モーツァルトとサリエリを描いた映画『アマデウス』で、モーツァルトがウィーンの宮廷で、ヨーゼフ二世に面会する場面がありました。確か、サリエリが作曲した歓迎の曲を、皇帝自身が弾いて出迎えた、というシーンだったと思いますが、あの皇帝がその見かけのせいか、子供心にかなり怖かった、という記憶があります。その場面の動画はこちら Mozart Vs Salieri ちょっとサリエリが気の毒になる場面なんですけども、この皇帝、やはりすごく怖そうに見えません??(予断ですが、皇帝の後ろに立ってる家来3人組のひとりのメガネをかけた人が、知り合いのピアノの先生(←女性!)に似てたので、当時これを見たとき爆笑してたり・・・・) ここで質問。 この怖そうな顔の皇帝が、自分の奥方に顔を合わしたくないばっかりに、窓の外をあの顔とあの格好でコソ泥のように這って、 別の部屋に移動するって想像つきます?? マリア・テレジアの長男(マリーアントワネットの兄)、 神聖ローマ皇帝 ヨーゼフ二世 この皇帝に生涯に2度結婚していますが、最初の妻はパルマ公女のイザベラでした。もちろん政略結婚ですが(ハプスブルク家は婚姻関係で領土を広げるのが政策のようなので、あまり他の王家のような血みどろなイメージはない)、結婚前に父、フランツ1世から夫婦の営みについて聞かされたときはショックを受け、親しかった家臣に、「夫婦のその義務を果たすほうが、戦場に出向くよりもよっぽど怖い」とか、「そのことを考えれば考えるほど、吐き気を催しそうだ」 などと、その恐怖を打ち明けています。ところが。オーストリアに嫁いできたこのイザベラ王女にヨーゼフは、会った瞬間から一目ぼれをしてしまいます。あれほど怖がっていた夫婦の営み云々も、フタをあけてみればかえってその虜になってしまい、そのあまりの熱心さにイザベラ妃が家臣の聖職者に、「大公が狩や乗馬のほうで体力を使って、アチラのほうに体力が残らないようにしていただけたらよいのですが」 などと打ち明ける始末。 イザベラ妃 残念なことに彼女は、夫ヨーゼフよりもその妹、マリア・クリスティーネのほうに興味があったらしく、この2人が一日に数回以上交わした手紙は、友情以上の内容になってしまう、殆ど恋文ともとられるような内容になっているため、彼女らをレズビアンだった、ととらえる歴史家もいるようです。(もちろん、それを否定する歴史家もいますがここでは割愛します)ともかく、夫の熱愛を受けた彼女は天然痘で22歳という若さでなくなってしまいます。ヨーゼフのショックはかなりひどく、傍目にも気の毒になるほどやつれこんだ息子を心配した母、マリア・テレジアは、息子がイザベラ妃との間に女子1人しかもうけてないこともあり、跡継ぎの男子をもうけるという義務のため、彼の意思に逆らい再婚を図ります。 紆余曲折の末、選ばれたのがバイエルンのマリア・ヨゼファ皇女です。 嫁ぎ先で『ブス』と言われ夫から全く愛されなかったヨゼファ妃 先の妃のイザベラはかなりの美貌の持ち主で、マリア・テレジアは自分の息子の嫁が誇らしかったといいますが、2番目のこのヨゼファを婚姻後初めて目にした彼女は、ヨゼファの醜女ぶりに腰を抜かし、息子に同情したとか。ヨーゼフはもともと、再婚する気なかったのに無理やり母帝に政略結婚させられたこともあって、容赦なくこの妻を冷たくあしらい、自分から遠ざけようとします。 テューダー朝のヘンリー8世などは、自分の4番目の妻、Anna Von Kleveが、会ってみたら肖像画(彼はそれまで妻に会ったことなかった)とあまりにもかけ離れて、『ブス』で自分のタイプでないので、即、離婚しようとして結局彼女を追放したのですが、邪魔になったら追放されたり(1&4番目の妃)、処刑されたりした(2&5番目の妃)ヘンリー8世の妃達よりはちょっとだけ、マシ・・・なのでしょうか。いずれにせよ、哀れです。 ヨゼファはそのうち、ウィーンの宮廷でのお笑い者になってしまいます。あまりにも夫や宮廷人から敬遠、侮蔑されるヨゼファが気の毒になって、マリア・テレジアは息子を諭しますが、効果は無し。それどころか、この話がバイエルン選帝侯の耳に入り、ウィーンとミュンヘンの間が気まずくなってきてもお構いなし、大嫌いな妻を見ないですむように、とウィーン不在にしてしまう有様。政略結婚の犠牲なのは、ヨーゼフだけではなく妻のヨゼファも同じこと。それなのに自分のことばっかり考えるのはあまりにも自己中心のような・・・・・。ヨゼファはヨーゼフの親戚筋にあたり、当時からハンサムと評判のよかった自分の又従兄(だったかな?)と結婚の申し込みをうけ、喜んで承諾してウィーンに来た結果がこれ。冒頭の質問にあった話、本当なんですね。 あの怖そうな皇帝が、宮殿の外の壁にヤモリのようにへばりついて 移動するなんて。それも自分の妻の顔を見たくないばかりに。 この話を知ってからあのアマデウスのシーンを見ると、なぜか私笑っちゃうんですよね。あの格好と顔で壁にへばりついてる姿をどうしても想像してしまうので。 ちなみにヨゼファは姑マリア・テレジアや 小姑のマリア・クリスティーネとともに、天然痘にかかってしまいます。マリア・テレジアとマリア・クリスティーネは症状が軽かったのか、回復してしますが、長年の冷たい夫や宮廷人からの仕打ちでヨゼファは精神的にかなり弱ってたのでしょう、病気に立ち向かう体力などなく、2年半の不幸な結婚生活から28歳の若さで、去っていきます。 誰からもかえりみられることなく。彼女の死後、ヨーゼフは生前彼女に冷たくあたったことを後悔しているという内容のことを近臣の打ち明けているのですが・・・・・・・・。本当にブスかどうか事実はおいて、醜女と言われたヨゼファですが、では、可愛らしかったら夫から愛されるのか?というとそうではないケースもあります。プロイセン王、フリードリッヒ大王の妃、エリザベート・クリスティーネがその例です。彼女の話も読んでて、あまりの仕打ちに腹が立つやら気の毒になるやら・・・・なのですが、この話はまた次回に。
2010.12.19
本当にお久しぶりでございます。本来ならこのブログは画像許容量の問題で、一旦終了でしたが、記事更新リクエストのメッセージを送ってくださったりの、ブログ続行のご希望がけっこうありましたので、過去の画像を大幅に削除して、出来る範囲でボチボチ書いていくことにしました。あと、実家の母も以前からの読者でして(汗)、彼女はこのブログ読むのが楽しみだったようなので、ブログを続けてくれ、というメールがよく来てたんですね。まあこれで親孝行のひとつになるなら、ということでこれも理由のひとつです。このブログにはスポーツのことは書きませんから、スポーツ記事に関しては従来のとおりです。ということで・・・・・・・・・・・ さて、Martin Schongauer(マルティン・ショーンガウアー 1445/50 -1491)という画家をご存知の方はいらっしゃるでしょうか。私はドイツに来るまで全く知らなかったんですが、この人は私が以前住んでた南ドイツの隣り合わせのColmarというフランスの街に生まれた中世の画家です。彼の絵はミュンヘンのアルテ・ピナコテーク、ウィーンの美術史博物館、ドレスデンの国立博物館などに展示されていまして、その殆どが宗教をモチーフにした絵になっています。私も今までたくさん宗教画は見てきましたが、たくさん見すぎてもう、どれがどれで誰の絵だか区別つかなくなってしまいましたなのでここに挙げる絵も、ミュンヘンのアルテ・ピナコテークに展示されてる絵なんですが、私はそこへ行ったにもかかわらず、実はこの絵を見たという覚えがない・・・という有様で。(デューラーの絵はハッキリと覚えてますが、アーメン系の絵はどれもこれも似たようだったので記憶になし) Heilige Familie (München, Alte Pinakothek) Martin SchongauerなぜいきなりSchongauerの話が出てきたかといいますと、私この画家の絵は以前にみたことあった、というだけですっかり忘れていたんですね。で、先月以前住んでた南ドイツの町に遊びに行った折、ついでにフランスのアルザス地方の町、このColmarまで日帰りで訪ねたんです。Colmarも過去に何度も行った街でしたが、 そのとき初めて通った路にあるアパートを見つけました。 そして玄関のところの文章をよ~~く読むと・・・・ Martin Schongauerが1477年から1490年まで住んでた家、とあるじゃないですか! あれだけColmarには来てたのに、この家の存在はこの日偶然にここを通るまで、全く知りませんでした しっかり記念撮影をしてから、市内の中心へ歩いていきました。 アルザス地方の街は私は何度来ても本当に好きな街です。 クリスマスデコレーションのしてある典型的なアルザスの木組みレストラン この日はすっごく寒い日でして、それでもせっかくなのでかの有名なPetite Venice(小ヴェニス)と呼ばれてる地区に凍えながら歩いていきました。 ここがその、よく絵葉書になってる橋の上からの景色なんですが、あの絵葉書用にはどうも夏に撮影したらしく、冬の寒い日に撮影するとなんとも・・・・・ 夏にもここを通ったことあるんですが、やっぱり夏の晩のほうが全然綺麗でしたね。 Colmarは小さい街なので、徒歩で十分見て回れます。 どのお店もクリスマス用に飾りつけをしてありました。 さすがフランス、チョコレートなどのお菓子やさんはどこも大繁盛 私はよくドイツに来たばっかりの日本人の方に、 「ドイツや、もしくはヨーロッパで美味しいお菓子は何ですか?」 と聞かれるのですが、残念ながら私はケーキやチョコなどの、甘いものはめったに食べないので、一度もその質問された方に満足のいく回答が出せたことないのが申し訳ないのですが、もし質問の内容が、 「ドイツの美味しいワインは何ですか?」 と聞かれるなら、いくらでもお答えできます というわけで今回の記事はここでおしまいです。(次回はいつになるやら・・・・・・) では皆様ごきげんよう~~~
2010.12.13
こんばんは、お久しぶりです。ブログをまだお休みする予定でいましたが、ちょっと記念に載せたい写真がありますので、ぐ~たらな自分をけしかけて載せてみます。 前回、『バラ無しのバラ園』という記事を書きましたあのときはドイツ最大だと言われているバラ園に行ったものの、時期が早すぎてバラは殆ど咲いていない状態でした。有名なバラの名前の札だけ見たもので、かなり悔しかったわけですが、先週末のすごい猛暑の日だったんですが、今度はバラが咲いてるバラ園へもう一度行くことができました。かなりの量の写真を撮りましたが、ここにその全てを紹介することは不可能なので、ほんの一部だけ、特大サイズでお届けいたします。 バラの画像を撮りまくっている怪しい人とバラ園の風景 さて、いかがでしたでしょうか? 本当にたくさんの綺麗なバラが咲いていましたよ。この綺麗なバラ達の画像と引き換えに私は、まことにみっともない日焼けを手に入れたのでしたいちおう、帽子だの日焼けクリームだのしてたんですが、あの強烈な日差しにあっては、全く意味無しでした・・・・とほほ
2010.07.02
お久しぶりです私は写真はあまり撮らないほうなんですが、この間外出してたときに街角で見かけた、可愛いものを記念(?)に撮ってみましたので、それをここに紹介いたします。 ワンちゃん模様のカーテンのようです。これのネコ版があったら迷わず私は買っていたことでしょう・・・・・・・ こういう内装は私好みです将来住む家(マンションかも??)は、こういうインテリアで揃えていく予定です。今のところも、なるべく白で統一させてありますが何分、狭いので・・・・・ 民族衣装をきた可愛いお人形 ドイツ、そしてフランス・アルザス地方独特の木組みの家のミニチュアこれ一軒だけでは、けっこうショボイと思うのでこういうのはセットでいろいろ揃えていくのがいいと思います。 ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだお菓子の家はこの生地でした家の形だけではなく、クマさん、ハートなど、いろいろあります。 お次は、アルザス&南西ドイツの料理に欠かせない台所用品中央上のお鍋、これでオーブン料理を作ります。 その右下にある丸い型、これはケーキ用。このケーキの型とお鍋ですが、私も持っています・・・・・・・・・でも今のアパートはどういうわけか、オーブンがついてないので次引っ越すときまでお預けですさて、いかがでしたでしょう? ・・・・・・・というわけで、今回はこれでさようなら~皆様ごきげんよう
2010.05.30
今日、午前中にラントレする予定でいましたが、あいにくの大雨となってしまいました。 こちらは梅雨か、と思えるほどこのごろ雨ばかりです、しかも寒い梅雨、ときたらこの一首 五月雨に物思ひをれば時鳥夜深く鳴きていづちゆくらむ (紀友則) 五月雨の中にぼ~っと物思いにふけっていると時鳥の泣き声が聞こえた、一体深夜にどこへ飛んでいくのだろう 当時の貴族は、ホトトギスの鳴き声を聞くために、徹夜したそう。・・・・・ということは、泣き声を聞こうと待ちかまえていたわけで、そこを「ぼ~~っと物思いにふけっていたら・・・・・」と書くあたり、ナントモ。とはいえ、「徹夜して踏ん張ったらやっと聞こえたホトトギス」なんて書くと、叙情性も何もあったもんじゃないですね。ホトトギスの鳴き声は、恋心をかきたてるのだそうですよ。私、カッコウの鳴き声ならよくラントレ中に聞きますけど、ホトトギスは聞いたことないです。どんな声なのかしらねぇ、興味あります。私には、ホトトギス=正岡子規 というイメージがなぜかこびりついているのですけども。 ところでもうひとつ、ホトトギスといえば戦国の三武将の性格をよくあらわしてる、といわれる歌あるでしょ?どれが誰のことを歌っているのか、皆様ご存知だとは思います。 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス 3番目の方には、鳴かぬなら 鳴くのを探そう ホトトギス のような面もあると思いますが、どうでしょうか。
2010.05.17
ヨーロッパでは毎年さまざまな都市をその年の(←語呂合わせみたいになっちゃいました)、Kultur Hauptstadt(文化メイン都市?)に選び、その選ばれた都市はさまざまなイベント、コンサートを開催してたくさん観光客を集めようとします。ま、一種の村おこしといいますか、そんな感じですね。今年はドイツのルール工業地帯の都市が選ばれています。そんなわけで去年からいろいろ駅の改装工事をしたり、イベント会場を作ったりしてそれなりに燃えてたようですしかしルール地方はロマンチック街道でもなく、アルプスでもなく、メルヘン街道でもなく、何があるかというと、つまるところ炭鉱と工業地帯ですよ。それを売り物(?)にしているわけです。つまり閉山された炭鉱を博物館にしたり(ってこれは前からありましたが)、廃止された大きな化学工場にコンサート会場設けたり、いろいろけなげに頑張ってるんですね。ルール工業地帯めぐり、というパンフレットまでもあったりします。 スタンプリレー式になっていたりね。 しかし工業地帯めぐりに興味持ってる人なんてそんなにいるわけ?って思うのですが・・・・・・・。せいぜい、大学で自然科学系統を専攻してました~~って人くらいなんではないか、と。で、このパンフの中にですね、Chemiepark(化学パーク)というのがありまして、相棒は化学やってるし、私も自然科学は大好きだしってことで、以前から行きたいな~って思ってまして、昨日やっと行ってきました。「化学のことなら何でも説明してあげるからね~」としつこくいばる相棒を隣に、電車&バスに揺られてやっとこさ着いてみると、なんだかそこって100%、現役の工場なんですよ。 普通の工場のようです 「あの、これって入っていいのでしょうか~~~~」なんて恐る恐る守衛さんに尋ねると、「ああ、お客さんはそこ300m行ったところの右にあるインフォメーションセンターに行ってください」とのこと。 途端にガッカリ顔になった相棒、「だって、あっち、煙突も何もないじゃんか。ひょっとして、化学パークって名前だけで、ワンちゃんが走り回ってるだけの普通の公園なんじゃないだろうね、そうだったら僕スネルよ」 などと、横でかなりしょんぼりしてましたが・・・・。ま、あれだけ威張ってた後だから、余計ガッカリしたんでしょ言われたとおりにインフォメーションに入っていくと、おじさんが一人ポツンと受けつけに座っていました。ガイドさん無しでは入れないので、ガイドツアー式になっていること、そしてそのガイドさんはドイツ語でしか説明しないこと(可哀相な相棒)、そしてそのガイドさんからは、インフォメーションの建物内に展示してあるものは自由に撮影していいけども、工場の敷地内に入ったら携帯も撮影も一切禁止だと言われました。なぜってそこは現役の化学工場なので、やはり産業スパイを懸念してのことが理由なんだそうです。 ガイドツアー始まるまで時間あるので展示物を見ることにしました。そこにはこの化学工場パークの歴史、 ここで生産されてるものなどが展示されていました。 1980年にここで製造されたパラフィン 以前使用されていた化学の実験装置 私はエチルベンゾールだのパラフィンだのアクリル酸だのと聞いても 「どっかで聞いたことありますねぇ」程度なんですが、さすがに相棒はよく理解できるようです。ま、そうでしょ、相棒だって 「ルバートだ、リタルダンドだ、マズルカだ」、と言われても何のことやら分からないのと一緒。(音楽用語です)ところでガイドツアーが始まるまであと少しだ、というのに私達二人しかいないんですよ。どうするの~?なんて思ってたら一人、賢そうなメガネさんがやってきました。 メガネさんは、ボン大学の医学生なのだそうで、ボンからわざわざここまで見学しに来たとのこと。結局、この3名だけでガイドツアーが開始されました。 この化学工場、周囲はなんと16kmもあります。そしてこの工場はもともと1938年に創業された小さな化学工場だったのですが、ヒットラーがナチス時代に、軍用車などのタイヤを製造するためのゴム工場として巨大なゴム工場施設にした、といいます。 上空からみた化学パーク(画像はHPより引用) この工場施設はうまく連合国軍の爆撃をまぬがれ、ほぼ無傷なまま敗戦を迎えました。その後、この巨大な施設が連合国軍の手に渡るのをおそれたドイツ軍により破壊されそうになりましたが結局破壊はされず、また工場としての機能を取り戻すことになりました。ただし、ドイツの国力があがるのを恐れた連合国軍の命により、以前のようにゴムを生産することは禁じられ、その代わりとして今現在のように、香料、洗剤など石油から他の原材料(ポリマー)を精製する工場に変わっていった、ということだそうですが、私は化学のことはさっぱりなんで、間違ったことを書く前にこのへんでやめておきます で今は30ほどドイツ国内外の企業がこの施設に入っている、ということだそうです。工場見学は、中型の綺麗なバスに乗ってそのバスの中からしましたが、たった3名の客のためにあんな大きなバスを使うなんて、ちょっともったいない。しかし工場内は大きかったですね。至る所にめぐらされたパイプライン、まるで迷路のようです。・・・・・というより迷路です。 内部は撮影禁止のためこれもHPから引用 ガイドさんは化学専門用語をぶっつづけで、いろいろ説明してくれます。ふんふん頷きながら聞けてたのは、相棒と医学生だけだったんじゃないかしら、この私はまったくさっぱりこ・・・・・・・・でも相棒が親切にいろいろ解説してくれるので、たくさん知らなかったことが新たに発見できました。 ちなみにこの工場は環境についても真剣に取り組んでいるそうで、感心することにまったく臭いがしないのです。ちょっとだけ硫黄の臭いがした場所がありますが、あとは全くと言っていいほど無臭。ガイドさんはこの周辺の出身なんだそうですが、彼が子供のころは工場の煙突から緑やら黄色やらの煙が出て、そしてヒジョウに臭かったそうなんですが、最近は国も環境保護にうるさいので気をつけた結果、このような綺麗な工場に・・・・・・。2時間ほどの工場見学は、ここの施設内に医学研究所も入ってるそうなので、 ガイドさんが医学生君に 「ここで働かないかね?」などと言ってるシーンで終了しました。これ以上書くと長くなるので、このへんで私も終わりにしますが、本当にいい勉強になりました。しかし、お客さんは3人だったんだな・・・・・・。ちなみにその前の日、土曜にはたったの一人しかお客さん来なかったそうで・・・・・・・。皆様、化学の知識なぞなくっても十分楽しめます。実際、私にはあっという間に過ぎて行った2時間でした。ですから是非、こちらにお越しの際はこの化学パークを見学しましょうと、宣伝して今日のブログはおしまい。最後までお読みくださって有難うございました~
2010.04.26
Otto Dix " An die Schönheit" (1922) 昨日は近郊のW市にある美術館に行ってきました。その町自体があまり大した町ではないので、そういう町の美術館だからということで期待はしてなかったのですが(←ヒドイ??)、これが行ってみてビックリの巨匠の作品だらけでした。 ムンク、カンディンスキー、クレー、マティス、ピカソ、セザンヌ、ダリ、ゴーギャン、ココシュカ、ワーホール などなど・・・・ パンフレットには他にも、ルノワール、シャガール、ゴッホ、コロ、マネ,等の作品が出てたけど、どこにも展示してなかったような気がするような・・・・ 19世紀風の建物の2階(日本式の3階)のみが展示室という、小規模な美術館のわりにこの堂々たる作品群。本当にビックリ致しました。いろいろ気に入った作品はありましたが(けっこう他の画家の作品のほうが私には気に入りました)、その中で特に気に入ったのは、上に上げた作品です。ドイツのNeue Sachlichkeit(ノイエ・ザッハリヒカイト)を代表する画家の作品。第一次世界大に従軍した経験をもち、その印象を戦争という題の一連の作品にしあげていますが、これも展示されていました。・・・・・・・・・・・・けっこう、グロテスクな作品でございました 今日の音楽 A.Schönberg " Sechs kleine Klavierstücke op.19-2 Arnold Schönberg - 6 kleine Klavierstücke op-19 II
2010.04.05
ミスマッチは・・・・・・ 雪の中のラクダかなあ ゆっきの~~砂漠をぉ~~~ はぁる~~~ばるとぉ~~~ あの、寒くないですかねぇ??? え? 何て言った??? ・・・・・・・・・ど~でもいいけどこの日はホント、寒かった~~~
2010.02.21
↑ 画像 エアランゲン大学のサイトより引用 いつも白い手袋をはめ、アリアを口ずさみながら手を指揮者のように動かしながら、人の生と死の判断をつけたナチスの医師。アウシュヴィッツの収容所では、人体実験に使うためにモルモットと呼んでいた囚人の子供達からは、「Onkel(オジサン)」と呼ばれた男。バラック小屋のまとめ役だった女囚が厳しくこのモルモットたちに当たると、「僕達にそんなことをするとオジサンに言いつけてやるんだから」と。『オジサン』を好きだったモルモットたちは、点呼のときにオジサンに自分達の望みなどを言ってみる。オジサンは手にしたメモに何やら書きつけ、そのオジサンに欲しいものをいった子供達は全員、姿が消えてしまった。生体実験に使われたのだった・・・・・・。オジサンは双子に異常に興味を示し、囚人達を乗せたワゴンがアウシュヴィッツに着くと、「双子、双子はいないか!」と大声で探し回る。(以下、生き残りの人たちによる証言。参考にしたのは、BBCドキュメント、ドイツ国営放送ドキュメント、アウシュヴィッツに関する書簡から。訳は私) 私達姉妹の姿をみて母にメンゲレは「この子達は双子だな」と訊ねたんです。母は顔色真っ青で無言のままでした。傍にいた父に同じようなことを聞くと父は「・・・・・・・はい、この子達は双子です」と答えました、それで母も仕方なく、「ええ、そうです・・・・」と。私達はすぐさま母から引き離されてしまいました。 私は今だに後悔しています、なぜあの時、母のところへ走りよってせめてお別れの挨拶をしなかったか、と。私が母を見たのは、あれが最後だったんです・・・・・私には毎日、何本もの注射が実験のために打たれました。そのうち自分が弱っていくのが分かりました。もう体はフラフラで、今にも死ぬのじゃないかって。でも私がここで死んだら、双子の姉が殺されてしまいます。 それをおもって、「死んじゃ駄目、頑張って生き抜くのよ!」って自分に言い聞かせました。 たくさんの血が私の前にいた双子から抜かれていました。そのうち、そのこは気絶してしまって、床に崩れ落ちました。するとそのこは役立たずだということで、その場で殺されてしまいました。 残虐非道の限りをつくしたこの若い医師は敗戦後、連合国軍に捕らえられるのを恐れ、南アメリカに巧みな逃亡を企てる。モサッド(イスラエル諜報特務局)は、いつもギリギリのところでメンゲレに逃げられている。メンゲレは1979年にブラジルの海岸で海水浴中に心臓発作を起こし死亡、67歳であった。2000年になってからブラジルで公開された彼の書簡集や手帳からは過去の自分の行いを悔いている様子は一切なかった、という。子供、特に双子の子供を用いて医学的に無意味で、しかも残虐限り実験をし数多くの子供達の命を奪った男、この男の好きだった曲は、皮肉にもシューマンのトロイメライ(子供の情景から)だという。 ・・・・・・・・・・・私はこの曲が弾けなくなってしまった。
2010.02.11
お久しぶりでございます温かいメッセージをいただきまして、有り難うございます。体調のほうはほぼよくなりまして、早速今日からラントレを開始してみました。12月はなんだか忙しく、1月は大雪&体調不調でこの2ヶ月全く走っておりませんでした。気はあせっていても、なかなか走れる環境になっておりませんでしたので。天敵君兄(と言っても新しくこのブログ読んでくださってる方には、誰それ?だとおもいますが)は、ベルリンの工科大学で光分子物理化学(と言うのかな?)をやっていますが、私の彼氏の研究所でその専門分野の人を探してる、ということなので、この間から天敵兄に、「こっちへ来ないかい?」作戦を開始しておりますこちらの研究所に興味ありそうなものの、天敵兄は次自分が行って働きたいのはアメリカだそうで、あと「悪いけどそっちのほうは住みたくないよ~、ごめん。」って。うん、それ分かります。私だって、以前住んでた町のほうがここよりいいとおもうし。しかし、残念だったな~。ところで、他のところに載せた記事ではありますが、面白いのでこちらでも紹介させていただきます。翻訳サイトってありますでしょ?あれ、なかなかお茶目なことをしでかしますよね。私、Googleの翻訳サイトにドイツ語原文のハイネの詩を訳させてみたんです。そしたら、とんでもないことになりました。では、どうぞ お別れハインリッヒハイネペリカンのように持っていたあなたは自分の血で、服を着たそして、今私に感謝する必要がありますガル'とベルモットeingeschenket。悪、その意味ではなかったとので、明るいまま汗;残念ながら、物忘れと記入あなたの脳です。まあ、別れ - あなたはほとんど、それに気づくこと私は涙を流しておきます。神は、ばかを保持するたいと生きる喜び!
2010.02.08
兄弟、ひとつだけ俺の願いを聞いてくれ俺が死んだらな、亡骸を一緒にフランスまで持ってってくれないかどうぞこの俺をフランスの土へ埋めてくれないか 紅いリボンのついた十字勲章をなこの胸につけて手には銃を持たせてくれそれから腰には剣もつるしてくれ やがていつかは砲声がきこえいななく馬の速駈けの音が聞こえるまでおれは墓のなかに寝てじっと見張りをしていたい すると必ず俺の皇帝が騎馬で墓の上をお通りになる時期が来てあまたの剣が鳴り響き、鋭い光を放つだろうそのとき俺は武装して墓の中から出てくるんだ あの皇帝を あの皇帝を護るため!!! Heinrich Heine "Die Grenadiere"
2010.02.04
君達が僕の墓を訪れて涙を流し灰と変わり果てた僕を見て悲しむならばおお友よ、僕は君達の前に現れ天国の風を君達に送ろう 君もひとしずくの涙を僕への贈り物としすみれを摘んで僕の墓においておくれそして君の心のこもったまなざしで優しく僕を見下ろしてくれ そしてああ!恥ずかしがらずに一滴の涙を僕にささげておくれおお その涙は僕を飾るものの中でいちばん美しい真珠になるだろう モーツアルト作曲 『夕べの想い』K523から 画像 第一次世界大戦イープル戦で命を落としたフランス軍兵士の墓標
2010.02.02
こんばんは今日も外は雪がつるっつるに凍ってて、ラントレ不可能な模様でした、残念昨日の引き続きで、また旅先で出会ったネコの写真をお載せいたします。この子は全く人懐っこくなく、近寄ると逃げる気配をみせるので遠くからパチリ とある港町に観光に行ったときに出会ったネコです。かなり迫力あるネコです。 外はすごく寒く、凍えながら私は歩いていましたが、このネコは自宅(?)の前の青いベンチの上にずっとうずくまっていました。その場を立ち去っても、ず~~~~っとうずくまっていました。
2010.01.27
私は自分が今、猫を飼えないので、近所の猫やら旅先で見かけた猫やらをいじりまわすことで、鬱憤を晴らしています。この間旅行に行ったときも、猫がいないものか~ときょろきょろしておりました・・・・・ら、いた!!!窓辺の暖房の上にベットを作ってもらって、そこでくつろいでいた猫を発見。窓越しにちょっかいを出していたら、毛並みのお手入れを中断してお座りし、じっとこっちを見つめていました。・・・・・猫、欲しい
2010.01.25
冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ(巻第六 冬歌 清原深養父) こんばんは今日は大分暖かい日でした。今日こそやっとラントレが出来そうなところですが、若干フラフラ感がまだあるので、念のために止めておきました。最近、といっても大分前からですが私が興味もって一生懸命覚えようとしているものに、古今和歌集があります。これを覚えられたら(←いつになることやら)、次は新古今、と勝手に目標を決めつけ、用事の合間、料理の合間に本を片手にいつも読んでいます。何度も何度も読んでれば、そのうちなんとか覚えるだろうと思ったのですが、なかなかですね~高校のときに、百人一首大会で優勝しましたが・・・・・・・とはいえ、なんてことはない、みんな和歌なんかより他校の男の子のほうに興味あったので、百人一首なんてどうでもよろし!という集団の中にいたから勝てた・・・というのが理由なんですけどもしたがって、全く自慢できることでも何でもない、というのが真相です。ま、それはともかく、この冒頭の和歌の感覚は素晴らしいものがあると思います。雪を花びらにたとえてその雲の上を春とみたて、雲の下は冬、雲の上は春と考える発想はさすがですね~。そしてそれを言葉に表せる、というところが素晴らしいです。私は頭に浮かんだことや情景を言葉に、全くあらわすことはできない人です。ちなみに、この清原深養父は清少納言の曽祖父にあたり、父、清原元輔も有名な歌人、学者であったので、その父の名前、ひいては歌人の家系の血を引くということは自分には重い、と清少納言は枕草子で打ち明けています。
2010.01.21
こんばんは。前回のアンネ・フランクの記事を読んでくださった皆様、本当にどうも有り難うございます。出来ることなら、アンネの家の中の写真を載せながら書きたかったのですが、あいにく撮影禁止でして残念ながらお載せすることは不可能だったのが心残りです。でも皆様、けっこうアンネの日記を読んでいらっしゃるんですね。そういうわけで、もう少しこの隠れ家について書くことにいたしました。画像は、アンネ・フランク記念博物館のHPから引用いたしましたことを申し上げておきます。 アンネ・フランク(1941年)、隠れ家に移る前の自宅で 彼女の日記を読まれた方はご存知だと思いますが、私は「ユダヤ人はユダヤ人特徴の顔をしているので、すぐに分かってしまいます」と日記に書いてあったと鮮明に記憶しております。私はこの博物館で彼女の姉のマルゴットの写真を見ましたが、眼鏡をかけているということ以外は、アンネに全くそっくりであったのでビックリいたしました。彼女の隠れ家の画像は前回の記事に外装の写真を載せております。実際、隠れ家のあったところというのは、父オットー氏の会社のあった建物の裏側にあるわけで、下の青い部分の右の建物の部分が隠れ家のあったところになります。彼女は隠れ家に移るその日のことを以下のように記しています ・・・・というわけで、パパとママと私は降りしきる雨の中を歩いて行きました。手にはそれぞれ通学カバンだのショッピングバックだのを下げていて、それにはありとあらゆるものが手当たりしだいにあふれるほど詰め込んでいます。通りかかる出勤の人々は気の毒そうな目で私達を見ています。その表情を見れば、乗せて行ってあげようといえないためにつらい思いをしてるのが分かります。いやでも目につくどきつい黄色の星、それがおのずから事情を物語っているのです。 このくだりを読むと、私が以前ピアノを教えていたおばあ様で前大戦中、チェコのズデーテン地方(前ドイツ領)にお住まいで敗戦後、捕えられてしまった彼女が私に語った次の言葉を思い出します。 ねえ、想像できます?いきなり入ってきて、さあ、今から5分間だけ時間をあたえるから荷物を詰めろっていうのよ。5分間だけで今までの自分の人生を手荷物ひとつに詰めるなんて、あなた想像できます???出来ないでしょ、でもその出来ないことをやらなければいけなかったのよ・・・・・・どうしようもないわね倉庫、事務所のあった部屋は現在、展示品などを並べてあり当時の面影は殆ど残っておりません。ただ、壁のところどころに父オットー氏の会社の宣伝ポスターが当時のまま貼ってありました。(どうもジャム製造に必要な材料を売っていたようで、ジャムを作るのならオペクタを、という内容の張り紙でした)その倉庫や事務所のある階を通ると、いよいよあの回転ドアのところに来ます 回転する本棚のドア この本棚を過ぎると急な木の階段があり、そこを昇るとアンネの両親と姉のマルゴットが寝起きしていた部屋に出ます。その隣はアンネとぺフェッファー氏(匿名、デュッセル氏)の部屋、それを抜けると洗面所、その横にまた急な階段があってファン・ペルス夫妻(匿名、ファン・ダーン夫妻)の部屋兼隠れ家の台所、その隣にペーターの部屋がありました。 アンネの日記 この日記は博物館にオリジナルが展示されていました。いかにも少女の好みそうなデザインなのが心を打ちます。私が今まで知ってた彼女の筆跡は、大人のような斜体の筆記体だったのですが、この博物館で公開されたひらげられてたページはブロック体だったんです。で、そのブロック体はいかにもまだ子供を思わせる書体で、それ以前に知ってた大人のような筆記体とのギャップに驚きました。この日記は彼女達が捕まった後、床に荒々しく投げ出されていたのを、隠れ家の協力人でオットー氏の従業人であったミープが彼女の事務机に保管し、唯一生き残って帰ってきたオットー氏に戦後渡したものだといいます。父オットー氏のインタヴューが博物館内のヴィデオでこう流れていました(ちょっと私の記憶がうろ覚えの記憶なのが申し訳ないですが・・・・)。 私は・・・・・・・・この日記を読んで初めて自分の娘を知りました。彼女は普段、私達にいろんなことを話して聞かせていました・・・・・・でも、自分の感情や気持ちについては一切語らなかったんですよ・・・(ここでうつむく)、あの子が何をどう考え、感じていたなんかなんて全く知らなかったんです。そんなことは一切、話さなかったですから・・・・・・・・ オットー氏はこの日記を出版するように、周りの人から再三勧められますがその気は当初全くなかったようでした。が、アンネが生前、将来作家になりたいといっていたことなどから、この本を出版することに同意しました。その後、映画化、舞台化されましたがオットー氏はそのプレミエには来られなかったようです。 私にとってこの劇は人生の一部であり、自分だけでなく妻や子供達が舞台で演じられていると思っただけで心が痛みます、ですからとても見に行くことは出来ません。 アンネの生涯だけがこのように注目されるのはおかしいと思われる方もたくさんいらっしゃるようです。アンネはその他大勢の大量虐殺されたユダヤ人の一人に過ぎないわけで、彼女と同じような運命をたどられた方は多かったことでしょう。このことについてアウシュヴィッツから生還したイタリア人作家の以下の言葉をもってこの記事は終わります。 この一人のアンネ・フランクは他のおびただしい数の名も知れぬ犠牲者達の全てをあわせたよりも私達の心を揺さぶる。それはそれでよいのかもしれない。もし、その一人ひとりの苦しみを私達が分かち合うことが出来、実際に分かち合わなければならないとしたら、私達は生き続けることが出来なくなるだろう。
2009.12.17
皆様は、アムステルダムというと何をまず最初に連想されますか?私にとっては、アンネの家になります。 私が小学校3年生くらいのころ母が買ってきた本、それが悲劇の少女アンネという本でした。 それまでドイツといえばバッハやベートーヴェンだと思ってた私にとってこの本の内容はかなりショッキングでした。その本を読んで以来、いつかこの家を見てみたいな~でも無理だろうな~とずっと思っておりましたが、それがとうとう叶いました。行ってきましたよ、アンネの家。アムステルダムは運河が網の目のように廻らされてる街で、その運河ひとつひとつに名前がついています。アンネの家のある運河はPrinsengracht(プリンセン運河)でそこのプリンセン運河通りにアンネの家はあります。建物はアイゼナッハのバッハハウスと同じく、外見も中身もかなり近代化されています。 アンネ達の隠れ家があったのは、この建物(左側)の裏側でした。アムステルダムの古い家は建物が細長く奥行きが深いのです。(京都の建物もそのような造りだと読んだことありますが) この建物はアンネの父、オットーの会社のあったところで、アンネ一家はナチスからのユダヤ人狩から逃れるべく、このオットーの会社(倉庫と事務所が一緒になっている)の裏の建物のところに身を潜めていました。 アンネの家(現在博物館になっている)の入り口 アンネの日記を読まれた方には、日記にでてくる同じ隠れ家の住人の、ファン・ダーン一家、そしてデュッセル氏はご存知だと思いますが、これは日記内での匿名で本当は、ファン・ペルス一家、そしてプフェファー氏というのが本名なのだそうです(私はそれをこの日まで知らなかった)。博物館内は一切カメラ撮影禁止でしたので、残念ながらここで隠れ家内の写真を公開することは出来ません。 でも子供のころから何度も何度も読んでいるため、隠れ家内を歩いてるとアンネの日記の中の記述が頭の中に浮かんできます。以前倉庫と事務所であったところは展示品があり、そこを抜けていよいよ例の回転式ドアのある部屋に出ます。このドアをくぐるとき、すごく興奮しました。彼女達が捕らえられた時、このドアを荒々しく開けてゲシュタポが入り込んできた・・・・・その回転ドアがこれなんだって。ドアの後は、急な階段が続き、そして隠れ家の部屋に出ます。ビックリすることに、この隠れ家の部屋、どこも空っぽなんです。初めは訪れる見学者のためにのけてあり、どこかに保存してるのかと思っていましたが、実はアンネたちが捕らえられた数日後、隠れ家内の家具は全て持ち去られたため、そのまま空っぽ状態になっているのだそうです。以前のように再現してみてはどうか?という話もあったそうですが、オットー氏が空っぽの状態がオリジナル状態であるということで反対し、そのままになっています。 ただ、アンネが自分に部屋の壁に飾ってあった雑誌の切り抜きはところどころ、そのまま保管されてありました。こんな窮屈なところで、8人のユダヤ人がひっそりと音を立てないように暮らしていたのです。窓も全部外から見えないように隠して。そう思うと気の毒で気の毒でたまりませんでした。 隠れ家内を歩いてる間中、日記内のシーンがいろいろ頭に浮かんできます。ときどきケンカがあった居間、思慕していたペーターの部屋へはこの階段を上っていった・・・・・・・・・などなど。 隠れ家の前の運河の景色 アンネがよく聞いていた隠れ家のすぐ傍の西教会の鐘。彼女は自分達が捕らえられた日、最後にこの鐘の音を背にしてこの2年間隠れ住んだ家を去ったのでしょうか・・・・・・・・・・・・・(時間的には合います) この教会は今も昔も変わることなくここに立っているんですね。 彼女が2度と戻ってくることの無かったプリンセン通りの景色 多分、自分は一生見られないだろうな~と思っていたのに、思いがけなく見学できることになったアンネの家。他にもいろんな見所がアムステルダムにはあったのですが、私にとってはこのアンネの家を見学できたことが一番感激でした。 このサイトではアンネの隠れ家をビジュアルに訪ねることが出来ます http://www.annefrank.org/content.asp?PID=908&LID=3 アンネを初め、ユダヤ人たちの第2次世界大戦中の運命については、私の過去ブログをご参照くださいフランス・アルザスのナッツヴィラー強制収容所http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200808240000/ベルリン郊外のザクセンハウゼン強制収容所http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200906120000/
2009.12.15
こんばんは今日、昨日と週末は水泳のお仕事が入っておりました。それにしてもいっつも週末つぶれるのは泣きたくなります。 クリスマスも働かされそうだったんで、これはうまく逃げておきました週末も無し、クリスマス休暇も無し、というのはいくらなんでも勘弁してくださいよ、お代官様。 大体、ピアノもそろそろもっと練習量増やさなければいけないというに、水泳ばっかりにはかまっておれませんて ところで、最近写真ブログ化しておりますが、 この間ハノーヴァーの王宮公園で撮った並木通りの写真をブログに載せたところ、私と小学校時代からのお友達で、ときどきこのブログを読んでくれるねこきち君が、「あの写真をPCの壁紙にするにも縦では合わないから横のをくれ~」というコメント書いてくれてて、でもあの写真、縦でしか構図的に撮れなかったんですよね~。 それで横というと、ベンチ無しのこの下の写真になりますが、いかがでしょう~。
2009.12.07
そういえば飼い主に孝行するため 長靴はくのが一時期はやってたね ・・・・・・・・・え? なんで私はいてないのって?? 人間に対して一生懸命になっても 裏切られるし 私達は決して裏切らないのに・・・・・・・ だから私はここで 他の動物達と仲良く暮らしてるの 私達の間では裏切りは ないよ・・・・・・・・・
2009.12.05
・・・・・・・・・・・・ そんな花が私の墓に咲いていたそして私のなきがら上に身をかがめて私の手に、額に、眼に接吻した悲しげに 無言にあたかも、女心の嘆きのように ・・・・・・・・・・・・・ 私の眼は閉じていたけれど魂はあなたの顔を見守っていたそしてあなたも私を見つめていたその心は悦びにふるえつつ姿は月の光のため精霊のようにほのぼの照って ・・・・・・・・・・・・ ハインリッヒ ・ハイネ 『ムーシュのために 』より、抜粋
2009.12.01
おはようございますまたもや日記の更新が滞っていまして、申し訳ないです。ローテンブルクの市庁舎地下の牢獄のお話を書きます、といっていたのでそれを書かなければ~って思ってたのですが、あれを書こうとするとけっこう時間がかかるんです(写真の編集などで)。それでのびのびになっておりました簡単なブログはすぐ書けるのですが、写真入れて説明入れて・・・となると途端に時間かかってしまうのが難点です。で、今日は牢獄の話を・・・・・・・ではなく、この間の週末に行きましたとあるお城のお話になります 歴史的な場所に足を踏む入れて立つ、というのはかなり興奮するものがあります。(←私の場合) 結局中は見れませんでしたが、ボツダムのチェチーリエ宮に行った時もそうでした。 そう、ご存知あのポツダム宣言の出された場所です。これは入ってみたかったですね~、でも外から見ただけ 連合国軍の・・・・・・・・・・と書いたところで、続けます。 霧の森を抜けたところにあるこのお城 その正面の橋の右側のここに・・・・・・・・ そうそう、ここなんですが・・・・・・この右角のとこ 「そこがどうしたのよ????」って????? 見てください、この場面 連合国軍の~~!!!!!!! ポツダムにいたこのお方、こんな田舎町の田舎城に来ていた!!! どのお方?ってその、中央右のコロコロちゃんだよ 感激!!!! ・・・・・・・・と私は一人でこの橋の前で勝手に興奮しておりました。 終わり
2009.11.17
こんにちは、お久しぶりでございます またもやご無沙汰しておりましたが水泳のほうでちょっといろいろありまして、そのストレスがたまっております水泳のほう、といっても選手やトレーニングのことではなく、全く事務的なことなんですけど余りにも最初と話しが違うので、かなり嫌気がさしている、ということなんですが。前のクラブではすんなり事が運んでたんですけどね、どういうわけか今のところは後から後から、「え?? そんな話じゃなかったでしょ?」 「え? そんなことは全く聞いてませんよ」という感じで物事が進み、気がつけば私は毎週土曜日を拘束されるということになってしまいました。おまけに・・・・・・・私の時給も間違っているし。それに関してちょっとした質問をしたら、ややこしいことになってしまうし・・・・・・・・。 ・・・・・・・・・・けっこうそういう今のクラブのいい加減さが嫌になっていますとはいえ、せっかく慣れてきた選手達は私にとって大切で可愛い存在なのには違いないのですけども。まあ、なんとかなるでしょう・・・・・・・・・多分。 ところで この間の日曜はまたお出かけをして参りました。最近、先ほど述べたようなことで憂鬱だったので、いい気分転換になりました。このお出かけについては、例の市庁舎下の牢獄の記事の続きを書いてから書きたいと思います。 下の写真はその一昨日の外出先で撮ったものです。 この世は欠点だらけだと君は言うのか?驚いて?気にせずに 生きてみたまえ!たいていな不運なんか放っといて・・・・・・。 ランボー 『黄金時代』 より抜粋
2009.11.10
最近、本当に不定期更新で申し訳ありません日記の更新率も30パーセント台を維持したままです。このままの調子でいけば、20パーセント台に突入するかも・・・・・・・・・皆様からせっかくいただいたコメントへの御返事も遅れるし、皆様のブログへの訪問も遅れるしで、何度かブログをやめようか思ったのですが、せっかく始めたことだし、文章を書くということは国語が大の苦手だった私にはいい練習になりますので、マイペースではありますが、続けていこうと思っています。私のブログには、義理、社交辞令でのコメントは要りませんから、何かコメントを書きたい、と思われたときのみ、ご自由にコメントをどうぞお書きください。読み逃げしてくださっても結構です。本当にお気楽にお付き合いくださいますよう、お願いいたします さて、前回からの続きになります。犯罪史博物館を見学したあと、市庁舎のほうへ向かいました。市庁舎は上の塔に登って景色を眺めることが出来ます。あと、地下に牢獄などが見学できるようです。上か下か、私達は迷いました。両方みる時間はありません。ということで、私は下に、彼氏は上に、それぞれ別行動をとることに。 ところでこのローテンブルク市には、ある有名な話があるようです。その話は、Meistertrunk(マイスタートルンク)といいまして、30年戦争の時代におこった伝説の話のようです。以下、パンフレットからの説明文になります。(訳・SNさん) その話は、1631年に、皇帝軍のティリー伯がこのローテンブルクに攻めてきたときのことです。ローテンブルクは1544年から新教(Evangelisch)で、ティリー伯の率いる皇帝軍の進入を拒んでいました。一生懸命抵抗して戦ったものの、圧倒的な強さを誇る皇帝軍には勝てませんでした。街の防衛軍は負け、市議会議員は全て捕らえられ処刑の宣告が出され、街内はいたるところで略奪が行われていました。伝えるところによると、この市議会議員たちは歓迎のしるしとして、軍隊に3と4分の3 リットルもある大きなワイングラスにワインをついで渡したそうですが、このときティリー伯は、「君達の中で、このワインを一気に飲み干せる勇気のある者がいたら、君達の罪を許そう」 といったそうです。そこで前市長のヌッシュが進み出て、このグラスを一気に飲み干し、市議会議員全員の命を救った、ということです。これを記念して、1881年から毎年、マイスタートルンク 祭りが行われています。 そのワイングラス 左にあるグラスと右の男性のもつグラスの大きさの差に注目 この牢獄は地下にあるのですが、その一階ではこのようにその30年戦争当時の人々の生活ぶりを再現してくれています。 当時の化学者が実験中 あと、いろいろ蝋人形で再現してありました。それらをひととおり見た後は、地下にいくせまくて急な階段を下りて牢獄に行きます・・・・・が、上のこの蝋人形を展示してる部屋にはたくさん人がいたのですが、この牢獄へは誰も行きません。で、そこへの通路、ろうそくのようなものを壁に灯してあるものの、けっこう暗いのです。当時の雰囲気を出そうとしてるのでしょうが、けっこう怖い。誰か、他に人こないかな~と思ったのですが来る気配ないので、仕方ないので一人で行くことに・・・・・・・・そのことについてはまた次回。 ローテンブルクの町並み
2009.10.31
おはようございます。今日でサマータイムは終わり、また日本との時差は8時間に戻りました。ちなみに今日で終わったのは時差だけではなく、水泳の選手クラスの秋休み強化トレーニング週間もです。この2週間、大変でしたよぉ~学校の先生の苦労、大変だろうな~ さて、前回の問題に対してまたもやたくさんのご回答有り難うございます。残念ながら今回は正解、または正解に近いものはありませんでした、あれはちょっと難しいですよね・・・・・・・・・・・と、ともに、多分そういうことで罰されるということが想像つかない内容なんです。あれは、なんと 下手糞な音楽家が見せしめに受ける罰 -----------なのでございました この時代の街音楽家といえば、吹奏楽などの俗にいうラッパ吹きが一般的だったようで、ヘタクソなラッパ吹きが受ける罰・・・・・・・・・・・・などといってたら、今の世、たくさんのブラスバンドがこの刑を受けることになるのでは? この私も鉄製のピアノ鍵盤に縛り付けられて、見せしめ???? ・・・・・・・・・・・・ えっと、話を進めましょう前々回の記事に、身持ちの悪い女性がうける罰もある、と書きましたがその罰に使われた道具はこれです。 これは藁製の三つ編みかつら(?)で、これをその女性の頭にかぶせ、花嫁衣裳を着せさせ街角に見せしめにさらされるわけです。意地悪な人々などはこの髪を引っ張ったりして、はやしたてます。 女遊びのひどい男性用というのは、 ありません!! おまけ・・・・・・・・・・・ ***帯 これを留守にする夫が女性に着用させ、鍵は男性が持っています。 ちなみにその逆、その男性用***は・・・・・・・ ありませんっ !!! 和泉式部も日本の平安の世に生まれててよかったことです。もし彼女が中世のヨーロッパにいたとしたら、和泉式部日記などという作品は生まれてこなかったことでしょう・・・。 そのほかの刑罰の道具 このように使用されます さて、皆様の中に三銃士を読まれた方いらっしゃると思いますが(アニメ、映画のほうではなく原作のほうです、私は原作のほうしか知らないので・・・)、一番最後のところに、ミラディという悪役女性、枢機卿の手先となってた女性が三銃士にとうとう捕まり、川のほとりで首を役人にはねられる場面があります。原作に描かれている役人の格好、このマスクを連想させるところがありますが、 これは実際に首切り役人がつけていたマスクなのだそうです。なぜこのようなマスクをつけて処刑するかというと、死者と目を合わせないため、死者の目から放たれるある種の魔力(と信じられてた)から守るためなのだそうです。恐怖心をあおるためではなかったようでした。(← 私はそうだと思っていました) 実際に処刑に使われた剣 この博物館はいろいろ興味深かったです。ドイツの中世の歴史、生活習慣を知る上でも参考になりました。もっとじっくり見たかったのですが時間がなかったのと、あと一緒にいた彼氏が退屈しては悪いと思い、さ~~~っと見るだけで終わってしまったのが残念でした。このあと市庁舎のほうへむかい、彼氏は景色をカメラに収めるために塔に登り、私はといえば市庁舎の地下にある牢獄見学をするために、それぞれここで別行動となりました。その地下牢獄の話は次回に・・・・。最近、話がダークですみません。
2009.10.25
こんばんは前回のクイズに対してたくさんのご回答、どうも有難うございます。「うそつき」という回答が一番多かったのですが、確かにあのマスクの顔はうそつきを連想させるところがありますね。正解にかなり近い答えを書いてくださったのは、ロマーナさんでした。あのマスクは、かなり悪意のある中傷、誹謗発言をした女性が罰にかぶされるマスクでした。まあ誹謗・中傷も結局ウソですから嘘つきというのは当たりでしょうね。 下の図の左側になります。この右に立っている女性は、「Der Hausdrache」という看板を付けさせられていますが、これはHaus=家、Drache=竜、ということで多分、想像つかれると思いますが・・・・・・・。今でもこの表現、使われていますよ~、例えば意地悪なお姑さんとかに。あとかなりのカカア天下の家庭では奥様に・・・・・・・。これをにかぶせたいと思ってる方、多いはず??? さて、男性のほうはというと、このようなマスクをつけさせられます。ブタマスク 実際の処罰の模様はこのようです。左側の男性は「詐欺師」右側は、「私はブタ野郎です」という看板をそれぞれ付けさせられています。 姦通罪では?という回答もありましたが、姦通罪はこの時代、女性にのみ通用しておりました。というのは、女性は男性の所有であり男性の権力の下におかれているので、女房に浮気をされた夫は女性を訴えることが出来るのであって、その処罰に暴力を夫が女性にふるったとしてもかまわなかったのだそうです。ちなみに男性は浮気してもよろしかったのだそうですよ。女性は駄目なんです。ここには載せませんが私の持ってるその本には、姦通罪で女性とその相手の男性が一緒に木の杭で打ち抜き殺される処罰の図ものっております。学校で覚えの悪い、または頭の悪い子供にも軽い刑罰はあったようです。ロバの頭のぬいぐるみを着せられ手に箒をもち木馬の上にまたがって、他の子供達の見世物になるわけなんです。なぜロバかというと、こちらではロバ=馬鹿という比喩になるからです。いや、本当この時代に生まれてなくてよかったですね。そういうことなら私は学校に通ってる間中、ロバのマスクをかぶってなければいけませんもの。それにしても今では考えられない刑罰の多かったこと。といったところで、またクイズなんですが・・・・・・・・・ これはどういう罰に使用されたでしょう? またいろんなご回答をお待ちしております
2009.10.21
こんばんは選手クラスの強化トレーニング週間の2週目に入りました。今日は午前の部は訳あって休んだのですが、午後のトレーニングにおチビさんたちに会ったら、「なんで今日の午前いなかったのよ~、明日の朝はちゃんと来てよね??」と攻撃を受けました~、いやはやさて、大分前から書こうと思ってましたがいつも延び延びになってたテーマ、中世の犯罪史博物館について書こうと思います。ロマンチック街道にあるローテンブルクという街は皆様ご存知だと思います。ここに写真でていますhttp://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200909080000/この街はその古きよきドイツの面影を残しており、観光ルートに必ず入っている街ですが、この街にとても貴重な博物館があります。中世犯罪史博物館です。私は法律や歴史の専門家ではないので、全く詳しく説明することは出来ません、ゴメンナサイ。一緒にこの旅に同行されてた*大学の教授は中国史の専門家の方でしたが、「ここに来てこの博物館を見なかったというと、仲間から馬鹿にされる」とおっしゃって、この博物館を見学されておりました。この博物館で売られていた本、 Justiz in alter Zeit(中世の法)という分厚い本には詳しく法律の専門家が説明を書いていますが、私はまだこの本を全部読んでないのでその内容もここに訳すことも出来ませんが、写真は撮ってきましたので写真を載せてかる~く紹介させていただこうと思っています。この日はとても暑い日でした。市内の目抜き通りを歩いてちょっとだけ横にそれた小路にこの博物館は建っています。ちなみにこの日は、日本からの団体さんとばったり出くわしました。あるお店では日本人のおばさんが「ね~~~~、おと~~~~さん、おと~~~~~~~さん~~~~~、これうちにも似たようなのあるでしょ~、ね~~~~~おと~~~~さ~~~~~~~ん~~どこにいるの~~~~~お~~~と~~~さ~~~~~~~~~~~~~~~~~ん~~~~~!!!」と、すごく大きい声でわめいておりました・・・・・・・・・・・それはさておき、博物館の外観です そして入り口にはすでにこのようなものが・・・・・・・・・・・ここは、中世時代に実際に使われていた処刑、処罰の道具を展示してあるところです。その処罰内容は今の現在からは全く想像もつかない、全く人権を無視されてものでもありました(例、魔女狩)。パン屋がパンの大きさを誤魔化したといっては罰をうけ、ほらを吹いたと言っては罰をうけ、男遊びに明け暮れてるといっては女性が罰をうけ(その逆がないのが不思議ですね~)、ともかく何かをしでかしたといっては罰を受ける仕組みになっていました。さて、ここでいきなりクイズです。この下にある仮面はあることをしでかしたものに対する『罰』でしたが、そのあること、またはその罰を受けたものはどういったことをやって、このような仮面をかぶされることになったのでしょう? どのようなものがこの仮面をかぶる刑を受けたか? 正解は次回の記事に一緒に書きます。皆様、どんどんアイデアをしぼってくださいね。
2009.10.19
久しぶりのお料理ネタです。この間あんな高級レストランへ行って美味しい料理を食べた翌日のお昼ごはんは、トルテリーニの海老とトマトの白ワインソースだったんですけど、「あ~あ、料理が庶民にもどった~って感じ」などと、相棒にのたまわれてしまいました。「キミもねえ、ああいう料理とか出来ないの?」← 何寝ぼけてんだ?とかも言ってのけてました。最近は夜は私はプールの仕事から帰ってくるのが遅いので、手の込んだ料理はしてないのですけど、昨日の日曜は時間あったので、久しぶりにやってみました。庶民も、頑張ってみましたよ出来上がりはこれ鶏肉のフィレに詰め物をし、それを煮込んだものです。添え物はサヤエンドウのベーコン巻きと、Wildreisというライスの一種。これ、私の創作料理なんですけど、似たような料理はひょっとしたらあるかも。情けないことにこのアパートにはオーブンが付いてないので、他のいろんな美味しい料理が出来ないのが残念です。ついでに飲み物は、Crément de Loire Brut という、フランスはロワール地方のスパークリングワインだったんですが・・・・・・・・辛口ワインだと全てマズイ、と感じる相棒にはどうもうけませんでした。なんというもったいない・・・・・・・・・ブタに真珠、相棒に高級ワイン
2009.10.05
Nouvelle Cuisine(直訳すると『新しい料理』、という意味)という言葉があります。どういう料理かというと、脂分を少なくし、素材の持つ味を生かした料理で、味付けに薬草やいろんな種類の香辛料が使われます。このNouvelle Cuisineという言葉を広めたのは、フランスの料理評論家のアンリ・ゴールと、クリスティアン・ミヨーの二人です。あれ? どっかって聞いたことある名前ですね~。この二人の名前を一緒にして、ゴーミヨーなどというグルメガイドがありますが、ここから来てるわけですね。以前住んでいたウィーンでも、このNouvelle Cuisineが流行りまして、それまででっかい豚肉と、ジャガイモのピュレーをボコっとお皿にてんこ盛りにしてた料理から、洗練されたフランス風のウィーン料理を出すレストランがたくさん出来ました。で、この間誕生日に行ったレストランもこの類のお料理を出すお店でした。 あ、今日の記事は長くなりますので、御覚悟のほどを ロマンチック~~~ メニューが配られてビックリしたのですが、3種類のコースしか載ってないのです。と、いうことは例えば、Aコースのメインが好きで、Bコースのオードブルが欲しくて、Cコースのデザートがいい、という場合はどうしたらいいんでしょう?で、私が食べたいと思ったメインは子牛の肉です。あとの2つのコースは、子羊とか、肺とかで私は食べられそうにないです。この子牛のほうのコースのオードブルはうなぎとか鳩!!!!とかで、ムリムリ~~~。私ってけっこう偏食だったんね・・・・・・・・・・ウェイターさんが来て「お決まりでしょうか?」というので、「あの~、この鳩ってあの鳩ですよね~、その~そこらでオポオポいってる・・・・・・・」「そうですけど、あの鳩ではなくってちゃんと食用に飼育されてる鳩ですよ」「私この子牛が食べたいのですけど、この前菜変えていただけたら~と。鳩はどうかな~、なんか駄目そうなんで・・・・すみません」「いいですよ、この3コースにあるメニューの中からお好きなのをご自由にヴァリエーションしていただいたんで。」というわけで、私が食べるものは決まり。彼氏君は英語で(←ドイツ語できない)自分の食べたいものを注文したようです。「ワインはどうされますか~」と、次は来た。ワインね~、私は飲むほうだけど彼氏君がそんなに飲めないのよ、どうしよう。何せ、食前酒にビールを頼んだくらいだし。でも二人そろって白ワインが好きなので白を・・・・というと、「では当店のソムリエが来ますから~」などと言うではない!!いえ、いいです、そんな飲まないですから~とは言い出せないまま、ソムリエのお姉さんのご登場何ページもあるワインメニューを渡されて読むも、注文できるのは殆ど、ボトル単位そりゃ、そうだよな、こういうところではボトルで頼む人が多いんだよな。しかし、困った。白状すると飲兵衛なのは私だけ、彼氏君はせいぜい一グラスしか飲まない。私一人で一ボトル飲めなくもないけど、飲んだら彼氏君にビックリされてフラレルかも。誕生日にフラレルなんてサイテ~じゃん。というわけで、おとなしくグラス単位で出されてるワインのほうを注文しました。残念だったよな~、ボトルのほうにはけっこういいワインがたくさんあったのに~とまあ、そういうわけで次はお料理に入ります。 お店からのプレゼント2種類のオリーブ油、4種類の胡椒と、カナッペ これもお店からのプレゼントなんだそうです。うずらのお肉で炭火焼のような味がしてました さて、私が頼んだオードブルのその一舌平目その下に細かくキュウリが刻んでありますが、これが美味しかったオードブルその二ですオマール海老このオマール海老は本当に美味しかったですね。ソースも軽くて最高でした。海老の下にはパイの薄切りを敷いてありました。 もうこの辺でお腹がけっこう一杯になってしまいました。でもこのあとまだメインと、デザートがあるんですよ。これで4コースなら、6コース(これもありました)なんて頼んだら、一体どうなってしまうんだろう。 さて、メインの子牛のステーキ もうこのお肉が、すごく柔らかくてサクっと切れてすっごく美味しいの~~~~!!ソースは多分、ブラウンシュガーを鍋でキャラメル状態にしたものの中に、焼き汁を混ぜたもの、と思われます。すっごく美味しいソースでした。 デザートはチョコムースとアプリコットのケーキ?あ~、本当に美味しかったです。私いつも言ってますように、美味しいものを食べると自分もそれを真似ようとするのですが、これはちょっとムリっぽそうです。大体、どういう感じで作ったか、というところまでは分かりますが詳しくは分からないので、マネすることは出来ないでしょう。なんとな~く似たような方向とかになら、多分出来ると思いますけど、そう素人に簡単にマネをシェフだってされたくないはず。で、されないように作ってるはず。しかし、海老に卵白をあわ立てたメレンゲと白ワインを使ったソースにしてることと、このブラウンシュガーをキャラメルにして焼き汁を混ぜて煮て濾した、と思われるソース、この2つのアイデア、いっただき!!!!さて気になる帰りですが、疲れたのでタクシーを呼んでもらうことに。何と、家から10~15分くらいしか離れてないところに、このお城のレストランはあったのでした。しかも、私のランコースから近い!!!!それにしても、とてもいい思い出が出来ました。彼氏君に心からこの場にて感謝の言葉を ちなみに・・・・・・・一晩、咳をず~~~~っと我慢してたんです。これは辛かったですね、本当あ、それから。昨日はトルテリーニ(イタリア風餃子のようなもの)と海老とトマトのスパークリングワインソースというものを、昼食にだしたんですが、自身まだレストランの興奮さめやらぬ彼氏君はこの料理を食べるなり、「あ~あ、また味が庶民に戻った」・・・・・・・・・などとのたまっておりました。悪かったね、庶民が作るのだから庶民の料理で あの興奮(?)をもう一度~・・・・・とかいいながら実は写真のせる順番間違っただけこんなところでピアノ弾いてみたいですよね。ライトアップされたお城最後まで読んでくださいました皆様、どうも有難うございました
2009.10.02
さて、昨日は私の誕生日でありました。皆様、お祝いのお言葉どうも有難うございました。風邪が残念なことにしぶとく、なかなか治りませんで、昨日の晩はお食事一体どうなることか、と朝から心配でした。延期しようかと思ったものの、せっかく愚痴られながらも休み取ったのにもったいない~という気持ちと、いろいろ考えてくれてあるであろう彼氏君にも申し訳ない、という気持ちとで結局頑張って出かけることに。(← でもこのせいで、けっこうトンでもないハメにあうのですが・・・・それは後日また。)で、プレゼントのひとつは、小田和正さんの楽譜でありました。なぜこれかというと、私が以前ピアノでよくオフコースをぽろぽろ弾いてたので、楽譜があったら簡単だろう、そしていっぱいピアノを弾いてほしいから、ということだそうです。有難うね~。実は私は、大抵の曲は何度か聴いたら楽譜無しで弾けますので、楽譜は不必要なんですでも気持ちが嬉しいですね。わざわざ日本から取り寄せてくれたことだそうだし。しかし、楽譜をもらうと弾いてしまいたくなるのが音楽家の悲しい性です、さっそく弾いちゃいました。「言葉にできない」「さよなら」、等の有名な曲をせっかくなので弾いてみましたが、オリジナルと出だしがかなり違いますね。あとこういう類は楽譜にするとどうも簡単すぎるので、自分でちょっとアレンジを加えたりしながら、なるべくオリジナルと同じように弾くとなかなかの出来映えでした・・・・・と自分で褒める。さて、いよいよお待ちかね?のディナーの時間です。「どういう格好していったらいい?」と聞くと、「普通でいいよ」という返事が返ってきたのでそのままのジーパンにしようかと考えましたが、ちょっと思うこともあって一応黒の上下にヒール、という格好にしました。ふと横を見ると、相棒もなんだかんだいいながらネクタイしてるではないですか。結局、二人そろっておめかししたんですが、これで正解でした。というのもそのレストラン、行ってみてビックリのすっごい高級だったんですよ。ジーパンなんかで行ったら恥かくところでした。郊外でおりて、バスの停留所からそのお城のある森までちょっと歩く、とは聞いてましたが、まさかですね、歩道もないところの車が時速90キロで走ってる道路の上を歩くとは思いませんでした。もう横をびゅんびゅん、車が飛ばしていくのですよ。車にしても、まさかあんなところを歩行者がいるとは思ってもないだろうに。普通、あのような道路はいくらなんでも歩かないでしょ。でもそこを歩くところが私の彼氏君の彼氏たる所以なんですけども。「怖いよ~、まだ着かないの~~~~???」と冷や汗かきながら歩くこと、15分くらいでやっと着きました。あんなスリルのあるウォーキングを誕生日に出来て、まったく光栄でございました。そのお城は周りを水堀に囲まれて、静かな森の中にあります。駐車場の車もけっこう、高級車ばっかり。大丈夫なんかな~~~~(← お値段のほうよ)、と一瞬ひるみながらもお城の中へ入っていきます。で、中は古いお城をモダンに綺麗に改装しておりました。 中には、スーツ姿のオジサマ方がわんさかおりまして、自分がジーパンで来なかったことを、本当によかった~と思いました。どうも、どこかの弁護士会の集まりだったようです。レストランがある方向に向かっていくと、礼儀正しい慇懃なウェイターのお出迎え。案内されてレストランの中に足を踏みいれると・・・・・・・ これだ!!! しつこいようですけど、本当にジーパンで来なくてよかった。席に案内されると、もう一人のウェイターさんが出てきて、椅子を引いてこちらが腰掛けるのを待ってくれるのです。で、腰をかけると同時に椅子を押してくれるのですが、こうされると私はどうも、小学校のとき以来のトラウマで、今にも椅子が後に引かれそうで、実は落ち着けないんです。ありましたでしょ、そういういたずら。まぬけな私は何度もひっかかり、何度もシリモチをついたのであります。で、それを思い出すので、けっこう椅子を引かれると座るのがいまだに怖い、というナサケナイ有様。座るとすぐに、「アペリティーフ(食前酒)は何になさいますか?」と聞かれ、私はスパークリングワインを注文。相棒は、普通のレストラン(こちらは食前酒ではなく、すぐに飲み物のほうを聞いてくる)のときと同じようにカン違いしてなんと「ビールをください」と、言うではありませんか。一瞬ひるんだものの、すぐに体勢を立て直し、笑顔で「ビールですね」と、言ったあのウェイターさん、さすがのプロ。「食前酒はナンですか?って聞いたんだよ。なんでそこでビールや。ウェイターさん、一瞬ひるんでたで」「だっていつものように飲み物を聞いてきた、と思ったんやもん」とかなんとかあったものの、ディナーはスタート。まずメニューが配られ、そこで一瞬呆然・・・・・・・・・・・・で、この続きは長くなるので次回にしたいと思います。お楽しみに~~~~~~
2009.10.01
おはようございます前回お見せした音楽隊の銅像は、この上の市庁舎の左横に建っています。この市庁舎は世界遺産にもなってるそうで、内部はガイド付きで見学できます。私達ももちろん見学しましたが、このグループには幼児を連れた御夫婦が一緒に参加してたのですが、その女の子がこれまたお行儀悪くて、走り回ったり、椅子によじ登ったり、奇声あげたり、大変でした。この旅では何度もそういう場面に出くわしましたが、不思議なのは母親は知らんぷりをして、父親のほうがオロオロして、子供をなだめたり、外へ出そうと気を配っているのです。周囲の人も顔をしかめて、その騒いでる子供や親のほうを見てるというのに、母親は意地でも知らんプリを決め込んでいます。昔からの古い椅子(飾りでおいてあって、もちろん使用禁止)によじ登ってても、見てみぬ振り。それで、同行していた**大の先生(日本人)に、「こっちは母親はああいう態度とるんですねぇ~、信じられませんねえ」と、話しかけたところ、「うちもそうですよ。嫁は知らん顔してます」とおっしゃるではないですか!!!!!ちょっとビックリ。その後彼君と、周りの大迷惑になるようなところに幼児は連れていくべきではない、とか、普段から家でしつけをちゃんとしてないからああなるのだろうか、なんていうけしからん母親だ、とか、いろいろ話してたのですが、こんなもんなんでしょうかねえ。私の母は躾にはすごく厳しかったので、もし私が上記の子供のような態度をとったとしたら、多分すかさずビンタが飛んできたと思います・・・・・・というより、そういう態度は私はとらないと思いますけども。(← 多分ね)では次回は、ロマンチック街道にある、とある街を載せたいと思います。お楽しみに。
2009.09.07
こんばんは最近はブログ更新が不定期で申し訳ありません。さて、前回のクイズにお答えくださいまして有難うございます。答えは上に載せておきましたが、ブレーメンの音楽隊でした。この銅像はブレーメン市庁舎(世界遺産に入っている)の横に、ポツンと目立たないように建ってあります。ですが、いつも写真を撮る観光客でいっぱい、その理由はこの一番したのロバ君ですが、このロバ君の前両足を握ると幸運が訪れる、という言い伝えがあるからだそうです。そのためこの銅像の前には観光客がいっぱい、したがって観光客無しの写真を撮ろうと思えば、夜か早朝に訪れるしかありません。この写真は、前日は人でたくさんでしたので翌日の早朝に撮ったものです。ちなみにロバ君の前両足は若干、はげてツルツルになっていました
2009.09.05
おはようございます。昨晩は裏庭で、ネコちゃん達の凄まじい闘いが繰り広げられておりました。・・・・・・うるさかったですよ~あのネコちゃん達は、よく戦っております。よっぽど、好きあっているのでしょう さて。今日から旅行の模様などを報告させていただきますね。まずは、これから簡単クイズ さて、この下の写真はある童話の話からですが、その舞台となった街で、話の内容に忠実に撮ったものです。その街の名前は?その童話の名前は?? 誰にでも分かるヒント子供のころグ**童話がお好きでしたか?
2009.09.01
騎士 といえば、こういう絵などは皆さんよく御覧になっているのではないでしょうか?源平の一騎打ちとよく似ていますね~カッコイイです。なんだか左のお方、目を突かれてますけど大丈夫かな? 中世の騎士の戦いはよくこちらでは初夏に、お城の広場のようなところで、中世祭りと称して見せてくれます。流鏑馬に似たような行事ですか。実際見たことありますよ。馬にのって昔の騎士の格好をしたオジサン?オニイサン?だかが颯爽と入ってくる姿はカッコよかったです。私もやってみたい!!!(← 本気ですよ) この騎士と馬さんの鎧の本物はこれです 私いつも思うのですけど、歩くのこれ大変じゃないでしょうか~馬さんも耳まで固定されてしまうのですね で、その騎士ってどんな顔でしょう。 こ~ゆ~の??? と思いたいところですが、実際は・・・・・・・ あれ????? ここでいきなり中世クイズ この下のお面(?)は一体、何に使われていたでしょう?? これ(ガラス越しなんで映り悪いです、スミマセン)
2009.08.06
おはようございます雨上がりに旅先の街を歩いてて、そのちょっと寂しい雰囲気が気に入ったので早速、一枚撮ってみました。実際はもう少し、明るかったのですが・・・ やはり写真を撮るのは、ヘタクソです。もう少ししたらまた旅行に出かけます。いろんな分野(殆どが自然科学の)のいろんな国の学者さんと一緒の団体旅行なので、旅中どんなお話が聞けるのか、とても楽しみにしています。もちろん、写真もヘタクソながら撮ってきますよ~、お楽しみに(←してないよって???)で、問題は服装なんです。盛装、軽装、水着、全てをもってこい、と書いてあるんですよね。それにこの変わりやすい気候です。盛装、軽装、水着云々に加えオールウェザーの服装準備、しかも途中お洗濯などは出来ないようです。服にあわせた靴も持参しなければなりません。たんすひとつ、担いで持っていけ、とでも言うのでしょうか。
2009.08.04
こんばんはいつもお買い物にいくときに、必ず通っていく公園の風景を撮ってみました。緑がいっぱいの公園で、よくワンちゃんを散歩させている人に出会います。 ワンちゃんといえば、私も以前飼っておりました。 この子一緒に一時間半、走ってたんですよね。ジョグ友でした。私はシェパード大好きでございます。 ・・・・・・・・話を戻しまして、プールに行くときもこの公園を通っていきます。この間、プールの帰りに頭上で、けっこう雷様が鳴っていて、私は本当に恐怖におののきながらこの公園を早足でとおりぬけました。駄目なんですよね、こういう何もないところで出会うゼウス様は。 この間川沿いを散歩してて見かけたバラやはりバラは一番好きですね。 さて、今日の一曲はこれですすごく好きな曲です(クラッシックじゃないですよ~)。愛を止めないで オフコース ではお休みなさいませ~
2009.07.28
前回の続きになります。Krefeld Linn のお城で人面犬を見て大喜びしたそのあとは、電車に乗ってせっかくだから、Krefeld市内にも行ってみましたが、私の感想は「汚い町だなぁ~」で、ガッカリ。したがって写真も撮っていません。この町で見たものでよかったもの、といえば、自転車にむかって説教してる変なオジサン(彼君は霊脳者だと言ってますが)くらいかなぁ。で、まあ、この後行く町は本当に綺麗だ、というのでそちらのほうを楽しみにすることに。その町では夕食をとることになっています。実はそのために、普段はGパンのよたれた格好をしてうろついてる私が、今回だけは白のレースのブラウスに黒のフレアースカート、ゴールドのパンプスといった服装をしてきてたのです。と、いうのもそのレストランはゴーミヨーとミシェランの両方の折り紙付という高級レストラン。食い意地の張った私は朝から、これを一番楽しみにしておりました そのレストランは古い歴史のある建物の中にあります 内装です私は当日のシェフのおススメであった、牛のアジア風細切れ肉とかいうので、彼君は子羊の背肉、腰肉の野苺とロースマリーのソース付とかいうのを注文。お料理が運ばれてきて、私は自分のお皿を見たとき実はビックリしました。と、いうのも全く美味しそうに見えなかったので彼君のはすっごく盛り付けもよく、上品な白いお皿にあるのに、私のだけ安っぽいイタリアンで出てくるような、変なトマトだかなんだかの柄入りのお皿二人そろって、「・・・・・・・・・・・・(これがゴーミヨーとミシェランの・・・・??)」って思ったのですが、味のほうは見かけによらず、とても美味しかったです。ただ気になったのは、残念なことにちょっとお肉に臭みがあったことで、それは彼君のお肉も同じだったようでした。そういうわけで、雰囲気、サーヴィスともすごくいいお店ではあったのですが、5点満点をあげるわけにはいきませんでした~。前菜のヴィテロ・トンナートもかなりしょっぱかったし。でも総合的には美味しかったです。私たちは開店直後に入ったのでまだ席があったのですが、レストランはあっという間に満席で、みなさん、盛装してきております。よかった~、アディダスのジャージで来なくって(← 下手したらその可能性もあったので・・・・)さて、お腹パンパンになったあとはD市に行こうということになり行ったら、そこでちょうどケルミスといって移動遊園地がやってたので、行ってきました。 この観覧車に乗りましたよ 観覧車からの夜景 私はけっこう乗り物には強いほうで大丈夫なんですが、彼君は苦手。それでも勇気を出して彼君は、この乗り物に一緒に乗ってくれました。 これだ~!中の椅子というか座席がグルングルン360度前後に回りながら、不規則メリーゴーラウンドのように乗り物自体がハイスピードで回るのです(という説明で分かります???)。けっこうスリル満点ですよ。怖がってるかな~?とチラッと彼君のほうを見たら、意外に喜んでおりました。私はといえば・・・・・・このぐるんぐるん回ってる途中に頭にしていた買ったばっかりのカチューシャをなくし、家に帰って服を脱いでみたら大きいアザが両肩のところに出来ており、そのアザは実は今でもむなしく残っております・・・・・・・とまあ、ともかく疲れたけども、楽しい一日でありました
2009.07.20
こんばんは~珍しく料理ネタです。(←明日、雨降るかな?)今日の晩御飯は、タラを使った料理でした。初めは簡単にフライにするつもりでしたが、たまには違った味付けをと思い、タラにタマネギ、チーズを詰めたものをベーコンで包み、それにトマトクリームとリコッタ(チーズの一種です)、白ワインを混ぜたソースを付けました。本来なら盛り合わせは幅広のヌードルがいいのですが、今回は昨日の余りものであった、ピラフをくっつけました(汗)。盛り付けがヘタクソなもので、ちょっとお皿の右上にソースが飛び散ってますけど(というより、これを写真に撮られるとは思ってなかったので、適当に盛り付けてたんですよね。あとのはパセリをまぶしてあるもので、NGではないです)。なにせ敵は味にウルサイもので、作るこっちも必死ですよ。そのかわり、外食するとなったら美味しいレストランで食事をさせてもらえるので、そういうときこそお勉強になります。食べて美味しいものがあったら、それをマネしたり、自分でアレンジしたり。最近は中華ものにも触手を伸ばしてきております。そういうわけで今のところ、洋食、和食、中華、インド料理とレパートリーは増えつつあります(でも何といっても洋食がやはり圧倒的に多いのですが)。ソースも殆どの場合、全部最初から自分で作りますよ~。一人暮らしを始めた18のころと比べたら大進歩です。というのも、私はそのころ全く料理は出来なかったので。ちなみに今日のこの料理、5点満点でいくと4,8点をもらいました。まだまだだな~
2009.07.16
おはようございます私が大学生のときに教えてたピアノの生徒のお婆様は、ご自分の昔の話をいろいろレッスンの合間に聞かせてくださいました。その中には面白い話があったり、悲しい話もあったり、色々でしたが、今日はそのお婆様から聞かせていただいた話の中より、元気の出る(少なくとも私はこの話に勇気をいただきました)お話を書きたいと思います。以下、ご本人の口調で。 ラジオなど通信機器は全部提出せよ、という命令が下り私の一家も例に漏れず、家の中にあったラジオ等は全部出したの。ある日見回りの兵士達(チェコ人)が来て家宅捜索を始めたとき、うっかり提出を忘れてた、納屋にあったラジオ、それが見つかってねえ、「一同壁のところへ手を上げて並べ」となったのよ。私は「みんな銃殺されるのかな」って思ったわよ。それならそれで、もう仕方ないかな~なんて思って諦めて、私は冷静に壁のところへ立ったのよね、私そのとき13歳だったわよ。兵士 「このラジオは一体どうしたことだ」私 「忘れてたんです」兵士は銃を突きつけながら 「ところでお前、怖くないのか」私 「撃つんだったら撃ってくださっていいですから」兵士 「なんだお前、そんなに冷静で。分かった、お前はヒットラーユーゲントだな!」な~んて、話になっちゃってねえ。でも私あのとき本当に、あがいても仕方ないからって開き直ってたのよね。ヒットラーユーゲントなわけないじゃない。お婆様はドイツ人で、当時のドイツ領チェコに住んでいましたが、もうそこは敗戦濃くなるにつれ殆どドイツというよりチェコに戻っていた地方だったそう。 今度は敗戦直後、私達はドイツ人なので即、チェコ人に捕らえられ私は家族と引き離されて、一人だけ別の牢屋にほうりこまれたのよ。最初、もうどうなるんだろうって思って大泣きしたけど、泣いたってここから出られるわけじゃなし、ここにいなきゃいけないのは決まったことで変えられない、じゃあ、どうやったら時が早く過ぎていってくれるかな~って考えた結果、「寝るのが一番」って思い、泣くのは馬鹿馬鹿しいし、疲れるだけだからやめて、さっさと寝たよ。 当時付き合っていた人の子供を妊娠したのよ。そうしたら彼は、「俺と結婚したいのだったら、子供をおろせ。 子供をおろさないのだったら結婚しないぞ」って言われたの。(←普通、逆ですよねえ)私は中絶なんてもちろんしたくなかったから、「赤ちゃんは絶対おろさない」て言ったら、「じゃあ、別れる」泣いたわよ~、私は。でもこれもね、泣いてさっぱりしたら、さっさと気持ちを切り替えることにしたよ。泣いたってどうしようもないんだからね。今だったら普通に未婚の母はたくさんいるけど、あの戦後の当時はそんなの、白目で世間から見られるだけだったよ。ふしだらな女が身ごもってって感じで。私はそれは覚悟の上だったけど、アパートの部屋も、未婚の子持ちには貸さない、という大家が多くて本当に困ったよ。女一人で息子を育てるのはやはり大変なのかと途方にくれてたとき、私に手に職があったのと、運よくカトリックの尼さんの修道院の施設が事情を分かってくれ、私が働いてる間息子の面倒をみててくれることになり、その間一生懸命働いたよ。でもあの彼ね、その後結婚しちゃって子供も出来てんのよ。まあ、これ聞いたとき、腹が立つやら悔しいやら。でも過ぎたことだから、とすぐ諦めたけど。このお婆様の息子さんはその後大学へ進学し、医学の道を進まれ今では某大学付属病院の有名な麻酔科のドクターになられております。 ピアノを教えに行く私が、かえって人生についていろいろ教わってしまいましたどっちが生徒なんだか分かりません。この潔さ、頭の切り替えの早さ、本当に見習いたいものだと、いつも思っていました・・・・で、思うだけでなく自分も実行しようと頑張り中です。80前になっても一人で自転車携えて2週間のオーストリア旅行に出かけたり、ともかくヴァイタリティにあふれるお婆様でした。今もお元気であられることを願っております
2009.07.15
こんにちはこの間書いてました記事、強制収容所の番外編と称しまして、ドイツ歴史博物館に展示してあった第三帝国に関する当時の新聞等をご紹介いたします。この歴史博物館、もちろん、ドイツの歴史をゲルマン民族の大移動より前のネアンデルタール人のころの最初っから最後まで、ず~っと順を追って展示してあり、その広さと展示物は膨大な量です。西洋史の知識が前もってあると、多分もっと楽しいと思いますが、なくっても大丈夫です。(現に私なんかのスッカスカの頭でも十分、楽しめました。) では、まずこれから。ヒトラーの前の首相、ヒンデンブルクと一緒に描かれている選挙のポスターヒンデンブルクはヒトラーを毛嫌いしており、ヒトラーに首相の座を譲りたくなく抵抗してましたが、結局首相の座を譲ることになりました。この二人が一緒に描かれてるとは、なんとも皮肉です。 選挙の投票用紙ドイツ国家社会労働党(ナチス)は一番です。まだこのころはこんなにたくさん、他の党があったのですね。もし、この他の番号が選ばれていたら歴史は変わったでしょうに。 ナチスはいろんな職、年代にそれぞれナチスの組織を作りあげました。ナチス教師連盟というのもあったようです。その身分証明書一体、この教師らは学校で何を子供達に教えていたのかと想像すると・・・・・・・・・・怖いです ヒットラーユーゲント(ヒトラー青年党)の身分証明書 ナチスの制服以前、イギリスのヘンリー王子がナチスのこの紋章をつけ、ナチスの服装でパーティに出た、といって大騒ぎになりました。 将校の制服その後のナチスの云々は皆様もご存知のとおり。連合国の新聞(アメリカ)が報じる、ヒトラーの死亡ヒトラーは自殺したのですが、当時の連合国の間で言われてる、ブラックなジョークがあります 問い)ヒトラーは何故自殺したのか?答え)ガス代が払えなくなったから ドイツの降伏を伝えるドイツの新聞 ノーコメント 戦争終結を告げるデイリーミラー紙ヒトラーは、オーストリア人です。彼の故郷は、オーバーエスタライヒ州(ドイツの国境あたり)にあり、ドイツからオーストリアのリンツ方面へ高速道路で走っていくと左側にある、ものすごく小さな町です。もとは画家志望で、ウイーン美術大学の入学試験を受けるも、落第。もし合格していたら、その後の歴史は変わったのにね。余談ですが、ドイツで私がドイツ人によく言われることといったら、 日本と一緒に同盟組んでたよね だったりしますこのせいか、けっこうドイツ人の日本に対する評価というか信頼は割りといいみたいで(←いいんだか、悪いんだか)。で、この日独伊三国同盟締結にむけ積極的に働き、松岡洋右外相をバックアップしたのは、時の駐独大使、大島浩です。彼は戦後、戦犯として逮捕されますが、その理由はこの三国同盟締結の件。釈放後も一切、語らず、講演なども全て断り無言の生活をしていました。現代史研究家の高橋氏には、以下のように語ったことがあるそうです。 私が語り書いて、大島個人の主観で歴史家を誤まらせるという、三国同盟についでまた国民に罪を犯したくない
2009.06.29
こんばんは~ この前、皆様に美術館で撮った絵をお見せしようとして、リストのタランテラに話が脱線していったわけですが(これです)http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200906160000/今日こそはその美術作品をここにご紹介いたします。これらはナショナルギャラリーで撮影いたしました。フラッシュ無しなら、撮影OKなんですよ。ドイツの画家の作品が多かったのですが、フランスの印象派の巨匠の作品も何点か、展示されていました。では、どうぞごらんくださいませ。まずは、音楽を勉強された方なら音楽史の教科書で見たことのある絵ですフルートを演奏するフリードリッヒ大王 私は只今、『愛されなかった后たち』という本を読んでいまして、これはヨーロッパの宮廷で政略結婚で嫁いでいったものの、夫婦仲はよくなく不幸せな人生を送った女性たちについて書いている本です。この本のなかにこのフリードリッヒ大王とそのお后の話も出てきます。なかなか興味深いので、そのうち皆様にもご紹介いたしますね。はい、では次は有名なこのお方の作品になります。ルノワール モネ ゴーギャンちょっと不鮮明です、スミマセン さて、お次はドイツでは有名らしい画家たちの作品です。私にはドイツの画家というと、デューラーしか出てこないのですが・・・・一番めのこの作品は気にいったので、ミュージアムショップでブックマークになってるのを買いました。ビーダーマイヤー調ですね、素敵です。 これもいい絵ですとても幻想的ですいかがでしたでしょうか?ちょっと話は芸術から哲学へそれますけど、私の好きなドイツ人哲学者、ニーチェは若いころからのピアノファンで、自身も作曲するほどでした。その青年ニーチェが作曲したピアノ曲集というのがあります。今日はその中の一曲を紹介いたします。 これです F. Nietzsche: Klavier - Kompositionen - Albumblatt - なかなかの出来だと思います。それではまた明日ごきげんよう~
2009.06.26
こんばんはさて、今日のテーマのオチは、皆様に御一緒に考えていただきますよぉというのも、古文は皆さんもご存知のように主語があいまいだったりして、如何様にも意味が取れることがまま、あります。そうすると全く解釈によって、意味が違ってきます。ではまず原文からどうぞ。これはこの間の腐りニワトリの次の段です。 むかし、陸奥にて、なでふことなき人の妻に通ひけるに、あやしう、さやうにてあるべき女ともあらず見えければ、 しのぶ山忍びて通う道もがな人の心の奥も見るべく 女、かぎりなくめでたしと思へど、さるがなきえびす心を見ては、いかがはせむは。 えびす心とは、あのニコニコ顔のエビス様とは関係なく、無神経、粗野、という意味をもち、この場合この『女』のことを指します。皆様にお出しする問題は、太字、下線の部分です(←なんだかテストのようですね)まず、私がチャラチャラの現代語訳をいたします。 昔、その都会ニイチャンが東北のほうなんかで、別にどうってこともない、何のとりえもないような男の妻となっている、つまり、人妻のところへ通ってたわけ。でも不思議なことに、そういうどうしようもない、宿六の人妻になるようではないくらい、奥ゆかしく、優雅でたしなみもありそうに見えたので、(手紙などを送るわけ) 忍ぶ山ってわけじゃないけどさ、こっそり君のところへ通う道とかあればいいのにね。そうしたらさ、君がどういう女性なのかって、本当の気持ちとか知ることも出来るのにぃ~ そうしたらその人妻は、すっごく嬉しがっちゃったの。でもその都会ニイチャンは、その女性の風流も何もない本心を見て・・・・・・・・げっそりしてしまったってわけ。 さて、問題はこの、原文にある、『いかがはせむ』ってところです。私が参考にしてる角川文庫の注釈によると、 1)女性がはしたなく大喜びするものだから、幻滅した、という説。2)今度は女性のほうが、自分が田舎っぺだからそれがバレたら恥ずかしい、という説3)この作者が、都会ニイチャンに対し、『田舎っぺの心は田舎っぺに決まってるだろ!』とニイチャンの思い違いをあざ笑う説。 私は1のほうが自然かと思い、1のほうを取りました。都会ニイチャンは、自分がちょっかいをかけておきながら、相手が自分になびくとそれをはしたないと思う。つまり、逃げれば追う、追えば逃げる、の駆け引きの権化のようなニイチャン。なんだっけ、憧れはあこがれるからいいのであって、手に入るとつまらない、とかいうアレ。2)だとかえって彼女は奥ゆかしいということになり、えびす心とは正反対になってしまいます。そういうわけで、私は1を取りましたが、皆様はいかがですか?どうこの、いかがはせむ、を訳しますか?いかがはせむ、は、いかがはせむ????(←オヤジギャグ)では面白いご意見、お待ちしております。 切りバラが蕾のまま枯れそうになったので、こうやって花のしたを切って水皿に浮かべますと、とたんに元気になって花が開きました~! 只今食卓に飾ってあります。おススメの方法です。
2009.06.24
昔、ある都会に住むオニイチャンが、ぶら~っと東北のほうへ出かけ、ある地方にたどり着いたときのこと。そこに住んでいる田舎娘は、その都会ニイチャンがカッコよく思え、ベタぼれしてしまいました。それで、その都会ニイチャンにラブレターなんかを書きました。 なんだかさ~、中途半端にベタぼれで焦がれて死ぬより、ラッブラブ~夫婦という蚕にでもなればよかっただ。ちょびっとしか生きれないとかいっても。 この彼女はその人柄だけではなく、文章さえも田舎臭いのでした。都会ニイチャンはそういうものの、ちょびっと興味をもち、その田舎娘のところへ出かけ、見事ワンナイトスタンド!ところが都会ニイチャンはまだ夜中にとっとと帰っちゃったので、田舎娘は、 朝が来たら、バケツに突っ込んでやるだ、あのくたかけ(腐れ鶏)め。お前が夜が明けないうちに鳴くから、あのお方かえっちまっただよ~ と、手紙を送ったのに、都会ニイチャンは「おれさぁ、やっぱ街へ帰るわ」と言って、 あの栗原の姉歯の松がさ、もし人間だったらね、土産に連れてかえるんだけどって言いたいとこだけどぉ、アレ人間じゃないから出来ないんだよね~ と書いたら、田舎娘は大喜びで、 「わだすのことを愛しいと思ってくれてるだ~~~~~」と、ずっと、ずっと、言っていたそうです。チャンチャン。 むかし、男、陸奥にすずろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人は珍らかにや思えけむ、せちに思へる心なむありける。さて、かの女、 なかなかに恋に死なずは桑子にぞなるべかりける玉の緒ばかり 歌さへぞ鄙びたりける。さすがにあはれとや思ひけむ、行きて寝にけり。夜深く出でにければ、女、 夜も明けばきつにはめなで、くたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる と、言へるに、男、「京へなむまかる」とて、 栗原の姉歯の松の人ならば都のつとにいざと言はましを と、言へりければ、よろこぼひて、「思ひけらし」とぞ言ひをりける。 田舎娘にちょっと興味をもった浮かれ男、手をだしてみたものの、やはりその粗野、乱暴な言葉遣いにビックリ、もう夜も深いうちから、彼女の元から逃げます。そして後腐れないようにずらかろう~とするのですが、その娘に、「姉歯の松のように珍しいものなら都土産に連れてかえるんだけどね、でも松は持って帰られないからムリだね」と、言うものの、やはり風流を解さない田舎娘のこと、こんなややこしい表現がわかるはずもなく、自分のことを思ってくれるんだ~ってずっと喜んでいた、というあらましです。こういうパターン、現代でもありそうです? しかし、こういう現代語訳を古文の大学入試で書いたら、何点いただけるのでしょう、ワタクシは???そういや、高校のときの古典の先生は、私のテストの解答を読むのが面白い!と言ってウケテました。「あれね~、正解には出来ないのよ、でも面白くって。だからいつもあなたの解答を読むのが楽しみなのよね~」と言ってその先生が返してくれた、私のその答案、 見事、バツだらけで・・・・・・・・ ま、いいけど トップの画像は広島大学図書館蔵
2009.06.23
こんにちはさて、長くなりました私のこの強制収容所の訪問日記も終わりに近づいてきました。私は普段、めったに写真は撮らないのですが、このときばかりは皆様にいろいろお見せしようと思い、頑張って撮ってきました。が、普段写真を撮らない者がいきなり撮ったため、ヘタクソな写真を公開することになり、申し訳ないです。では、前回の続きです。Station Zを出ると、左側に長細い建物が見えます。もともとは2回立てだったらしいこの建物は収容所内の病院、という名目になっております。 この中も公開されてて・・・・といっても展示室になっています。従って、当時の面影というものはありません。ところで、どこの収容所内にも病院はありました。ただ、本当にそこで病人の看病をしたかどうかは、定かではないですが・・・・・・。アウシュヴィッツなどでは、病人は真っ先にガス室送りになっていました。まず、ユダヤ人が到着するとそのプラットホームで、ナチスの医者がガス室送りか、強制労働に狩り出すかを、区別するのです。で、そこで働くのは不可、と判断されたものは即、ガス室送りでした。これは私が子供のころ読んだアンネの伝記からの頼りない記憶を辿った話になりますけど、確か、その医者連(これは確かベルゲン・ベルゼンで)の前を裸で彼女たち(母、姉、アンネ)は通らなくてはならず、もちろんアンネ姉妹は恥ずかしがって、もじもじしています。そこへ彼女たちの母が、「医者は病人とそうでないのを見分けようとしているのよ、そこをそのようにおどおど歩くと、即、病人とみなされます。ここは胸を堂々と張って歩きなさい」といい、アンネ姉妹はそのとおり、医者の前を素っ裸でも勇気を出して、歩いていきます。無事、娘たちが『健康組』に入れられるのを見届けた母は、「神様、どうかあの子達をお守りください」といって、そこにバッタリ倒れてしまいます。それで彼女は『病人組』に入れられてしまい、それから後のアンネの母のことは誰も知りません。 残されていた医療器具いくつかの収容所では、この病棟内の部屋で、捕虜を使って人体実験をしておりました。ある収容所では安上がりで簡単に出来る大量避妊の研究がなされていました。と、いうのはユダヤ人女性を不妊にしてしまえば、ユダヤ人は子孫が出来なくって滅びる、という構想からです。そのためたくさんの女性がその不妊実験のためのモルモットとして、いろんな薬剤などを飲まされたり、体内に入れられたりして苦しみながら死亡、運よく生き残って元の夫や恋人に再会できたとしても、自分がもう妊娠できない体になってしまったことを、泣く泣く告げなくてはいけない女性もたくさんいました。もちろん、男性にも同じような実験がなされていましたが・・・・・・・。あと、海水を飲むだけで何日生きられるか、高高度から落下する場合、どれだけのショックが人体に与えられるか、などの軍に関する実験もこの捕虜を使ってなされていました。そのほかは、ばい菌、ウィルスなどを注射され、医薬品の実験台になったり、肌に刺青のあるものはその皮膚をはがされ、シオリやランプシェードにされていました(このことを前々回だかに紹介したイギリスのコメディ番組でもじっています)。 その病棟を出ると、今度はこの建物に着きました。死体安置所です その中にはいちおう解剖室もありました中央に置かれてる赤いバラ この階段を下りると、死体安置所に行きますすごく湿った、ひんやりする空気が流れてきます。ちょっと降りるのが、怖かったです。壁に書かれた説明書による、ある捕虜の証言。 ・・・・・ここへは、必ず我々の誰かが一緒にSS監視員の供をして一緒に来るのでした。というのも、彼らは怖がって一人でここへは来たがらなかったからです・・・・・・ 下へ降りていくと、この下の広間のようなホールが2部屋、ありました。私と天敵君のお兄ちゃんは、何もないと分かっていながらも恐る恐る、入っていきます。この部屋の空気はあの当時の空気と何も変っていないのではないか?と思えるほど、重かったです。お兄ちゃんは、「ここにたくさん、死体が積み重なってあったんだろうね~」とぼそっとつぶやきました。まるでその光景が浮かんでくるようです。さすがに私もお兄ちゃんも、ここはさっさと逃げるように出て行ってしまいました。外に出て、外の空気を吸うとほっとします・・・・とはいえ、収容所内の空気ですけど。 ここは、毎日の点呼があった広場です。この点呼は真冬の寒さの中であろうがお構いなく、照明の照らす中、延々と行われていました。本当はもう少し収容所の中を見たかったのですが時間が迫ってきており、全部は見れませんでした。この広場を横切り、入ってきた入り口の門のほうへ向かいます。その横の壁にこういう、各国政府からの追悼碑が取り付けられていました。 ノルウェー政府からノルウェー政府はここで1940年から45年の間、ドイツ軍によるノルウェー占領期間にドイツに対し勇敢にも抵抗し、ここへそのために送られて命を落とした約2500人のノルウェー人にその勇気を称え、敬意を表するものであります オランダ政府より1940年から1945年の占領期間に自らの命をかえりみず、我々祖国の自由のために闘い、ここで命を落としたオランダ人のために心からの敬意をもって。彼らは我々の心の中に残るだろう。(オランダ語訳は無謀にも私がしましたが、多分これであってると思います。) さて、では出口に向かいます。運のいいことに私にはこの、『出口』というものがありました。焼却炉の煙突の前で、『お前たちの出口は唯一ここだ』と皮肉なことが書かれていた張り紙を目にしたことありますが・・・・・・・・・。 帰りの電車の中では、収容所内では無口だったお兄ちゃんが、堰を切ったように一気に喋り始めました。なぜ、ああいうことをドイツ人はするんだ、あれはいかにもドイツ的だ、ヨーロッパの他の国ではありえない、どういう深層心理がドイツ人の国民性のなかに潜んでいるんだ、ドイツ人の徹底主義が間違った方向に走った、自分もしあの時代に生まれていて、レジスタンスのように命を顧みず反対することが出来ただろうか、などなど。そのことについていろいろ話あっているうちに電車は最初待ち合わせした駅に着き、私とお兄ちゃんはそこでお別れをしました。 さて、本当に長くなりましたが最初っから最後まで付き合ってくださった皆様、本当に有難うございます。私はこのナチスについては昔から、いろいろ本を読んでましたので知っていましたが、もしかしてそれをよく知らない方もいらして、その方にとってはショック記事になってしまうのでは?という懸念があったのですが、意外にも、詳しく知りたい、とおっしゃる方が多くてビックリしました。またその御意見に励まされて最後まで書くことが出来ました。どうも有難うございました。お礼申し上げます
2009.06.21
こんばんはさて、ここんとこ遊びの記事で息抜きしましたので、また強制収容所についての記事を続けたいと思います。どうぞよろしくお付き合いお願いいたします・・・とはいえ、今回の記事も重たいです。ですから「こういうの苦手」って方は、どうぞスルーしちゃってくださってもかまいません。 この強制収容所ですがあの門をくぐると、向こうに大きな記念碑が建ってるのが見えます。その近くに行ってみました。すごい空模様です。もうこのころには雨も降り始め、ゼウス様もお近くにいらしてるようでした。 拡大しますここの犠牲者の出身国が彫られています。その内訳は、アルバニア、フランス、ギリシャ、ベルギー、ルクセンブルク、ポーランド、オランダ、旧ユーゴスラヴィア、旧ソ連、デンマーク、ドイツ、オーストリア、イギリス、旧チェコスロヴァキア、スペイン、イタリア、ノルウェー、ハンガリーと、なっています。ここでオーストリア(ヒットラーの出身国)やイタリア、とあるのにビックリしましたが(というのもイタリアは日独伊3国同盟の仲間だったので)、多分イタリアやオーストリアに住んでいたユダヤ人のことだろうと思われます。あのアンネ・フランクもドイツに生まれたユダヤ人でしたから(フランクフルト生まれ、その後ナチスを避けオランダへ移住)。さてこの記念碑を正面にみて左側には、俗に言う Station Z(シュタツィオン ツェット)があります。今はこのSation Zは戦後、連合軍に破壊されて土台が残るのみ、その土台の上に雨風による破損を防ぐため、屋根が新しく取り付けられています。近年、この上に記念館を建てる予定だとか。このSation Zという名前にはその理由があります。アルファベットの一番最後の文字がZです。つまり、皮肉なことにここに送られてきたものはここが最終駅となるのです。1941年に建てられた当時はここに、銃殺の部屋(頭に銃を撃ち放つ)がありました。その後1942年に焼却炉が建てられたそうです。では、その土台しか残ってない焼却炉を見てみましょう ガス室はこの左奥の階段を上がった部屋でした。ところで、このナチスのガス殺人ですが、最初はガス殺にはトラックの排気ガス(一酸化炭素中毒)を利用していたのですが、エンジンの故障などでうまくいかないことがある、時間と手間がかかりすぎる、完全死に至らない場合もある、などの理由によって別の方法がとられることになりました。私は以前、ガス室といえば部屋の中にガスが送り込まれるものとばっかり思ってましたが、実はチクロンBという殺虫剤を天井やドアについた小さな窓のなかから、室内に放り込むのです。アウシュヴィッツの所長であったルドルフ・ヘス(ヒットラーの側近のルドルフ・ヘスとは違う人物)はこれを自分のところに訪ねてきたナチスの高官に、ガス室で苦しむユダヤ人たちの姿を時々見世物にして喜んでいたといいます。少量、短期間で完全死に至らしめることが出来る(といっても捕虜はもがき苦しみます)、ということで大量虐殺が目的で建てられたアウシュヴィッツなどでは、このチクロンBを使っていました。ちなみにオウム真理教もこの毒性物に目をつけ、例のあの事件をおこしたそうですが・・・・・ 実際に使用されたチクロンBの缶 アウシュヴィッツのガス室前で、順番待ちする人々お気の毒です。ご冥福をお祈りいたします。 そのZ棟内部に建つ鎮魂碑このZ棟を出て、また次の建物へと私と天敵君のお兄ちゃんは向かうわけですが、もうこのころにはお兄ちゃんは無口で、何も言わなくなってしまいました・・・・・・・・。次回はその次の建物について書きます。また今回も長くなってしまいましたが、最後まで読んでくださった皆様、本当にどうも有難うございました。あと2回ほどこのシリーズは続きます。
2009.06.19
こんにちはこの強制収容所について続きを書くかどうか迷ってたのですが、というのも重い話ばっかりでくどくなるのではという懸念があったのですが、やはり始めた以上最後まで、と思うのと、しっかり日本の皆様にこの事実を知っていただくためにも続けることにしました。では前回申してましたように、この収容所内の牢獄について今日は書いていきたいと思いますのでどうぞよろしくお付き合いください。その前に、白バラ運動ってご存知でしょうか?ナチスに反対して活動していたドイツの学生たちの活動のことです。その中心であったのがショル兄妹で有名なのは妹のほうの、ソフィー・ショルアンネ・フランクに似てますが、違います彼女は結局、反ナチス思想のビラをまいていたところを逮捕され、裁判で死刑の宣告をうけ、その日のうちにギロチン刑により命を失いましたが、最後まで、自分達のやっていることは多くの他のドイツ人も思っていることだ、と堂々と意見を主張していたそうです。享年21歳。皆さんはもしこの時代に生きていたら、彼女のように真っ向から命を顧みず反対することができますか?以前フランスのアルザスのナッツヴィラー強制収容所を訪問したときも思いましたが、私はこれらの勇気あるレジスタンスの人々に心から敬意を表します。この当時、多くのドイツ人はナチスのやってることに賛成できなくっても、死刑や収容所送りが怖くて黙っていました。私に彼らと同じ勇気があったでしょうか?ひょっとして収容所送りが怖くて、事なかれ主義でじっと待ってたかもしれません。勇気のない私と比べて、最後まで自分の主張を堂々と通したこのソフィーを初め、他の国内、国外の勇気あるレジスタンスの方々に本当に心から敬意を表します。ソフィーのようにナチスに反対したものは、大抵が強制収容所送りとなりました。ゲシュタポに逮捕されて政治犯などは、強制収容所の監獄送りとなっていました。収容所ってそれ自体がすでに監獄だと思うのですが、その収容所内にも規則を破ったものなどを入れる監獄があったのです。ではその建物の中に入っていきます。 入り口のドアから見た内部当時はTの字型に建物があったそうですが、現在ではその横の部分は取り払われています。この監獄内でも監視員によるいじめ、虐待は想像を絶するひどさであったそうです。独房の様子 誰が供えたのか、床には半分枯れかかったバラが置かれていました涙を誘います多数の捕虜がここで無抵抗なまま、虐待により命を落としました。この監獄の建物のすぐ横にはこのような木が三本立ってました。 さて、この木は何の目的のために立てられたのでしょうか? 答えはこれです。『どうだ、気にいったか、このブタ野郎どもめ』時にはこの地獄の責め苦にあえいでいる捕虜をブランコよろしく揺さぶる意地悪な監視員もいました。 もうひとつ、捕虜たちから恐れられていた刑罰のひとつに、棍棒でお尻を殴られる、というのがありました。 刑罰の命令書 盗みを犯した、SS監視員に対して生意気だった、逃亡を企てた、禁煙にもかかわらずタバコをすった、パンを盗んだなど様々で、その内容によって叩かれる回数が指定されています。・・・・・・仕事中にタバコをすっているのを見つかったものは尻に25発やられた。2人の巨漢監視員がその犠牲者の尻を殴るのだった。そして犠牲者は一緒に数を数えるのだ。この刑罰はいつも朝礼のあと、皆の見ている前で行われた、そして我々はそれを終了するまで眺めているのだった・・・・(アブ ニコラース オランダ人捕虜 1941-1945) 捕虜はこの図のように、木の台に縛り付けられます。殆どの捕虜は25発も殴られた後、動くことができず、そのまま痛みのため息絶えてしまった人もいました。 ・・・・・・とても注意深くその叩かれた尻を私達は治療してやった。この場合に備えて私たちはマーガリンを1パック、備えてあったのだ。それでも翌日曜日には、25発も殴られて壊れた腎臓のせいで死ぬ者が必ずいた・・・・(アプ ニコラース) 監獄のある建物を出て、私と天敵君のお兄ちゃんは二人ともしばらく呆然・・・・・足取り重く次の場所へと向かいます。前の記事にも書いてましたが、このザクセンハウゼン強制収容所はアウシュヴィッツと違い、大量殺人が目的で建てられたわけではありません・・・・・・・が、 これは何だと思いますか?これは下の広場のようなところに捕虜を大勢立たせておき、上の土手のところから一斉射撃で捕虜を撃ち殺すところです。私はその下の広場の捕虜たちが立っていた場所に降りていきましたが、そこに立ったとき寒気をおぼえました。怖かったです。花が添えられていました。 朝の点呼のあと皆の見ている前で捕虜の死刑(絞首刑)が執行されるわけですが、あるポーランド人の生き残りが処刑された捕虜の死刑前の最後の言葉を記憶してまして、その最後の言葉をもって今日のブログは終わりたいと思います。 “あなた達と私達の自由のために!!”
2009.06.15
今日は、皆様ご機嫌いかがですか~?こちらは天気が昨日とうって変わって、曇り&雨。なんだか気分も落ちやすくなりますね。そういうわけで今回の記事、本来なら強制収容所の第3話として収容所内の監獄と刑罰について書く予定でしたが、変更いたします。その代わり、ちょっと面白い世界史の人物を紹介いたします まずは、あのクレオパトラさんに登場していただきます はい、来ました鼻があと3cm低かったらシーザーの心を捉えてなかったとか何とか、いろいろいわれてるこの彼女、本当に鼻は高かったのでしょうか?フランスの国民的に有名なアニメ、Asterixに出てくるクレオパトラの鼻はつんつんに高く描かれています。ではこの彫刻の横に回ってみてみましょう。 ぜんぜん高くないやん!!!! 実際、シーザーは彼女の美貌よりもその才能と教養に惚れていたとか。才能と教養も多大な魅力のひとつのうちですね で、クレオパトラと来たらこのお方白目むいてます 、シーちゃん クレオパトラと並んで有名な古代エジプト3大美女の 一人、Nefretete(注 ドイツ語表記)は皆さんこの下の彫像でご存知の方が多いのでは? 女優の誰かに似てるような気がするんですけど、誰だっけ。ではいきなり古代エジプトから17世紀のイギリスにひとっとび あのかつらをとったクロムウェルさんの素顔 オリヴァー君、ちょっとロンパリ~ オマケ『昔のヨーロッパ人の夫婦喧嘩』 題して、モーツァルトの浮気に怒るコンスタンツェそれとも鍛冶ばっかりやってて、アントワネットに叱られるルイ16世もしくは恐妻家ハイドン・・・・・・ この間から書いてます強制収容所の話ですが、実は続きを書くかどうかちょっと迷っております。始めた以上、最後までとは思うもののこれから内容はもっとヘヴィーになっていきますから、それもどうかな・・・・・・・と迷っております。 ところで、イギリスの有名なコメディシリーズで、Monty Pythonというのがありますが、この番組でナチスとヒトラーを例のイギリス式のユーモアで強烈に揶揄しています。お暇があればどうぞ御覧ください、面白いです、おススメイギリスのヒルター(ヒトラーにあらず) Hilter in Britain! それでは今日はここでお別れいたしますではまた~
2009.06.14
さて、今日は収容所の建物の中を紹介いたします。ところで、このザクセンハウゼン強制収容所は、アウシュヴィッツとその性格において異なる点があります。アウシュヴィッツは大量虐殺を目的として建てられたいわゆる殺人工場ですが、このザクセンハウゼンは、捕虜や政治犯等の留置所であったということが、アウシュヴィッツと異なります・・・・・とはいえ、ここでも虐待は行われていましたが。以下、今日の記事に出てくる斜体の部分の訳は私がしました。 ・・・・森の木を伐採するのだ。この切った木、5,6mの長さの木を駆け足で運ばなければならないのだった。SSの監視員がそばを通ると、『もっと早く運べ』と我々を怒鳴りつける・・・(ブルノ シュトライ ドイツ人政治犯 1936) ・・・・『そこに立て!』と13団のある捕虜にむかって所長自ら怒鳴りつけ、両手を縛られてるその捕虜の顔面を殴りつけた・・・・・・・あっちで、こっちで捕虜が倒れていく・・・・・・それをSS監視員が足蹴りをくわせ、意識を取り戻させるのだった・・・・(アルフレッド ラウレンス ユダヤ人政治犯 1938) これがバラックの外観です。捕虜の服ここに送り込まれた理由によって胸にとりつけるマークが違っていました。バラック小屋のなかは広くありません。そこへたくさんの捕虜が押し込まれていました。 彼らの日常の部屋はここロッカーはもちろん人数分ありませんし、鍵もかかっていません。個人の貴重品(限られてましたが)や、食べ物などは盗まれるのを防ぐため各自、身につけて歩いていました。 ・・・・監獄からバラック小屋に入った。どこもかしこもぎゅうぎゅうだ。押し合いへしあい、そこにみないる。もうテーブルの上には私がものを置けるような場所はなく、このせまいロッカーには6人もの捕虜が共同でひとつのロッカーを使うのだ。食器、バスタオル、所持品などをここに入れる。居場所がなくてどこにいっても私は邪魔者のようだった。怒鳴られ、突き飛ばされた・・・・・・・・・(ヴォルフガング スツェパンスキー ドイツ人政治犯 1940) バラック小屋へは真ん中から入りますが、右側はこうやって資料館になっています。 ベットですこのベットに布団なんてものはついていません。藁だけです。藁がないものは、そのまま硬い木の上に寝るわけです。ベットの大きさは横幅70cmくらい。すごく狭いですがこのひとつのベットの上になんと3人が寝かされるわけですから、ぎゅうぎゅうで身動きとれない状態で固まったまま寝るのです。藁には蚤、虱が湧いていました。 共同洗面所この狭い洗面所に30人もの捕虜が短時間で、一斉に顔を洗ったりするわけです。捕虜への虐待はひどいものでしたが、夜中にここの洗面所に顔をつけられ溺死させられた捕虜も多数いたようです。 トイレときどきお昼に使用させてもらえることがあったようですが、トイレは一日、2回しか使用できませんでした。ここにもトイレ時間に一斉に捕虜がなだれ込んで用を足すわけですが、体の弱い人、年寄りなどはそのときに後からおされて人糞にまみれた床に倒れてしまい体中、糞まみれになっていたそうです。このトイレに顔を付けられて溺死させられた捕虜もいました。 では、次は遺品を紹介いたします。飯ごうに今までいた収容所の名前が彫ってあります。いろんな収容所を点々としたようです。このように、捕虜はあちこちの収容所をたらい回しにされていました。 ワンちゃんのキーホルダーがなんとも悲しいです 捕虜が恋人(両親あてに託して)にあてた手紙親愛なる両親へ先週、ベアテおばさんから小包を受け取りました。とても嬉しかったです。それに、****(←ここの部分、解読できず)から物をもらってすごく幸せです。おばさんにボクからキスを、そして早くおばさんに会いたいって伝えて。いつもおばさんのことを思ってるって。ボクは元気でやってるから******(解読できず)ボクがいないからって悲しまないでね、みんな元気でいてください6月1日の手紙は無事、着きました。小包もね。家族のみんなにボクから心からのキスを。これで手紙を終えます。心からの抱擁をジョージュより この文中にでてくるおばさん、というのは多分恋人のことなのでしょう。手紙はすべて検閲されてましたから(太平洋戦争中の日本と一緒ですね)、こう書くしかなかったのでしょう。ちなみに手紙はすべて、ドイツ語で書くことが義務づけられていました。 音楽が好きだった人が残した手書きの楽譜 秘密警察の書類 ふとバラック小屋から外を眺めてみました彼らは私と同じこの景色をみて何を思ったか・・・・ ここは大量虐殺が目的で作られたアウシュヴィッツと違うので、殺人目的のガス室へそれ目的で送り込まれた人は少ないですが、ここの捕虜たちが悩まされたのは、監視員による虐待、いじめ、飢え、病気等でした。・・・・・・朝にコーヒー一杯、そして水っぽいスープ、これだけ。晩までには大根とキャベツがちょっとばかし入ったほとんど水のスープ。たったこれだけ。脂肪分はなく、量もない・・・・(ヴァルター シュヴァルツ ホモセクシュアリスト) 特に捕虜虐待はすさまじいものがあったらしく、これで命を落とした人の数はかなりになります。 オランダ人の捕虜が描いたSSによる捕虜虐待の絵・・・・・・私はここでおこったこと全ての恐ろしい出来事について話せる気分ではない。ただひとつ言うなれば、ここで我々が名前を失い、ただ数の番号になった、ということだけだ・・・・・・・(ニコライ スバレフ ソ連軍捕虜 1944) ところで強制収容所の中にも監獄がありました。次回はそのことについて書きます。注意 ちょっと内容がカワイソウです
2009.06.13
こんにちは、お久しぶりです。前回の記事に書いてましたように、ナチスの強制収容所への見学をして戻ってきました。今日から何回かにわたってこのことについて書いていきます。本当は長くしないためにも写真も文章も割愛して、と思ってたのですが、皆様になるべく雰囲気が伝わるようになるべく詳しく書いてきます。・・・・ということでこのシリーズ、長くなるかもしれません強制収容所での写真に加え、ドイツ歴史博物館でナチス時代の写真や資料も撮ってきましたのでそれを交えながら、書いていきたいと思います どうぞよろしく。ここに掲載した写真等は持ち出し自由ですが、その場合はひと言連絡いただければ嬉しいです。実はこの見学には同行者がいました。 天敵君のお兄ちゃんです。お兄ちゃんのすんでいるところは、この収容所からも近く、お兄ちゃんに収容所に行くことを言うと一緒に行ってみたいとのことで、デート決定。私は仲がよかったのは天敵弟のほうで、お兄ちゃんとは弟ほど交友があったわけではないので、ちょっと緊張しましたが・・・。お兄ちゃんが大学の研究所の仕事が終わってから電話をし、駅で待ち合わせをすることになってたのでホテルの部屋で待機、すると電話がかかってきて「今から20分後に駅に来てよ。電車がでるから。じゃあね」「・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!」猛ダッシュ開始結局、間に合わずその後、乗り換えの駅でもチビの私とデカイお兄ちゃんはドタバタし・・・・・・・まあ、なんとか列車はその後収容所のある駅に着きました。バスは収容所へは一時間に一本しかないし、でも駅前の表示によると2キロちょっとってことなのでいろいろお兄ちゃんと話ながらてくてく歩いていくことにしました。ずっと歩いていって、大体2キロくらい歩いたころもうそろそろかな~って思ってると、標識があり、なんと、ここから2,4キロって書いてるの!!!さっき駅前では2キロって書いてたでしょ~~~!!お兄 「なんでまた増えてんだ~?」私 「そういうややこしい計算はお兄ちゃんの専門でしょ~?」とかなんとかいいながら頑張って歩いていきます。話は横にそれますが、兄弟って声とか似るのでしょうか?お兄ちゃんと話してて、ときどき天敵君と話してるような錯覚に陥りました。似てますよ、話し方とか声とか。とかくと、なんだか和泉式部のようですが・・・・・・えっと、話をもどします やっと見えてきました。 空の色を見てくださるとお分かりいただけますが、あちらのほうでゴロゴロ雷が鳴ってるんですよ。私は雷は大の苦手、こういう野原の何もないところでゼウス様にお会いしたくありません。腰がぬけてしまいます。この建物は入り口のインフォセンターです。オーディオガイドが借りれます。驚いたことに、この収容所は無料フランスの収容所は入場料取ってましたが、ドイツのほうは無料。ビックリ。ちなみに、この収容所が立てられたのは1936年でその後1945年までやっていました。手元の資料によると、ダッハウ、リヒテンブルクについで、3番目に立てられたドイツ国内の強制収容所のようです。このインフォを通り抜けると、収容所の外側のとおりに入ります。左が収容所側になりますお兄ちゃんに何度も、「ね~、雷こっちにくるかなぁ、怖いよぉ~」としつこく言い、そのたびにお兄ちゃんに馬鹿にされ、でも本当私は雷は怖いのです。けっこうゴロゴロ鳴ってるし、強制収容所についたとたん、この天気ってなんだかな~外堀の門をくぐると、そこはちょっとした松林であちこちに追悼碑が建っていました。そこを横にまっすぐいくと、見えてきました。収容所の入り口です。どうぞ、前回の記事の当時の写真と比較してみてください。 くぐりますよ~強制収容所にはどこにで書かれてるこの言葉Arbeit macht frei(Work makes you free) ←ウソばっかこの門をくぐるとき、すごくどきどきしましたよ。あの当時、この門をくぐった人はどんな気持ちだったのでしょう。この門をくぐったが最後、もう2度と出られなかった人が多数だったはず。これはアウシュヴィッツに到着してすぐガス室送りになり、ガス室へ向かってる人々です。小さい子供達、お父さんらしき人に抱っこされてる赤ちゃん、みんなガス室へこれから向かうのです。アウシュヴィッツでは到着後、即ガス室送りになる人には『当収容所は清潔をモットーにしていますから、皆様にはまずシャワー室へ入っていただきます』とウソをついてだましていました。それでも勘のいい女性などは、違うのに気づき騒ぎ出したそうですが、そういう女性は列からはずされ、人気のないところへ連れ出し、その場で射殺されていました。このザクセンハウゼンのガス室については後の記事に書いていきます。で、門をくぐってすぐ横には鉄条網が張り巡らされ、そこにこういう看板が立ってます。画像縮小すると見えなくなりましたが、ここに立ち入ったものは有無を言わさず即射殺と書かれているのです。なんだか写真を撮るためにここに入った私は、なんかスイッチでも入ってて、今でも弾が飛んでくるような気がしてちょっと怖かったです。そんなはずないのにね、でも怖いのですよ。だって逃亡しようとしてここに入った人、いたでしょ?その人が撃たれて倒れたその場に、自分立ってるのかもしれないのだし。監視塔からすぐ見えるところにあります。ここにはこうやって犬を連れてパトロールしてました私とお兄ちゃんはあたりを見回し、鉄条塀を調べ、どうやって逃亡するかいろいろ考えたのですが、どうやってもムリという結果になりました(←当たり前だって?でもアウシュヴィッツには脱出に成功した人もいたのですよ!!)ところで、どういう人たちがこのザクセンハウゼン収容所に送られてきていたのでしょうか?その内訳はここで私が買った本によると、政治犯やナチスに抵抗した者、外国のレジスタンス、エホバの証人などの宗教、労働を拒絶したもの、ホモセクシュアリスト、ユダヤ人、その他、となっています。ユダヤ人女性と結婚してたため『私は種(アーリア人)の純潔を汚しました』という看板を付けさせられたドイツ人男性その横に奥さん この時代にはユダヤ人追放が激しくなり、ユダヤ人の店で買ってはいけない、ユダヤ人と結婚してはいけない、ユダヤ人はドイツ人と同じ店で飲食してはいけない、などなどの規制があり、しまいには結婚相手がユダヤの血統だと調べて分かると、離婚するドイツ人が続出する有様。さて、長くなりますので今回はここでお別れです。次回はいよいよ収容所の中の建物に入っていきます。
2009.06.12
昨晩の私の思春期まっ盛りのような記事にご回答くださった皆様、どうもありがとうございました。なんだか申し訳なかったですね~、中学生が訊くような内容ででも万年思春期というあだ名をせっかく付けられた私ですから、そのあだ名の名誉を汚さないようにと~ところで、以前私は唯一フランスはアルザスの地に立っている、かつてのナチスの強制収容所を訪ねましてその記録を日記に書いております。ナッツヴィラー強制収容所その1からその3まではこちら注意!ガス室とか焼却炉の画像アリですので、その辺が苦手なかたは見ないほうが・・・http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200808240000/http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200809050000/http://plaza.rakuten.co.jp/kleinerhamster/diary/200810120000/ 実はこのたび、私はまた強制収容所を訪ねる機会に恵まれましたのでいってきま~す。今度はザクセンハウゼン強制収容所で、これはドイツ国内に建っています。が、ちとここから遠いので、ブログもしばらく更新お休みになります。 ザクセンハウゼン強制収容所前のアルザスのほうは、バラックは殆ど取り壊されており、あと併設されてる博物館も残念ながら説明はすべてフランス語だったので、なんともよく分からなかったのですが、今度はドイツ国内にあるということ、それともちろん説明はドイツ語なのでしっかり勉強してきます。ガイドツアーもあるようなので、しっかり参加してきます(←高くなかったら)。いろいろ学んできます。写真もしっかり撮ってきますから、帰ったら記事にいたします。どうぞお楽しみに・・・・・って、こんなの、楽しみじゃないですよね・・・?ま、そういうわけですので、次回のブログ更新&皆様への訪問は遅れます。ごめんなさいね~、そのかわり面白いお話をたくさんもって帰ってきます。それではまた~、皆様ごきげんようお留守の間はいたずら書き防止のため、楽天ユーザー以外の方の書き込みは出来ないように設定してあります。ご了承ください。 なんだか最近いじけちゃって(笑)Youtubeになにもアップしてないのですが、暗いお話のお詫びに今日の音楽はコレですNatalie Imbruglia / Pigeons and Crumbs(with Lyrics)
2009.06.05
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